熊野詣バーチャルウォーク
2005年7月
1997年8月1日
【はじめに】
前回の紀伊路ショートウォークでは,古道らしい海岸の道を見つけ,熊野古道・紀伊路がどんな道か分かった気がした。しかし,中世以降,「伊勢へ七度、熊野へ三度」とか「蟻の熊野詣」といわれたように,行列をなすようにして庶民が巡礼した,そのすごいエネルギーはなんなのか?信仰といってしまえばそれまでだが,果たして熊野詣とはなんだったのか?ここを明らかにしたいため,本を読んだりネットで調べたりして,バーチャルウォークをしてみた(実際は,歩くのが暑いからだが・・・)。また,97年の中辺路ウォークの記憶も取り戻してみたい。
読んだ本:「熊野詣-三山信仰と文化」五来 重 著 講談社学術文庫
参考サイト:「み熊野ネット」てつ さん
【死者の国へのあこがれ】
この本では,熊野は「死者の国」であって,中世の熊野詣は,その「あこがれ」が伏線になっていると説明している。と,いわれてもイマイチわかりにくい。
古代人は,今生きている国,顕国(うつくしくに)に対して,死者の霊のこもる国(隠国:こもりくに)がこの国のどこかにあると考えた。古代人が生きている大和を中心に考えると,大和はもちろん表である。さらに足を延ばして,伊勢神宮のある伊勢も表で,顕国である。さらにその先,熊野は裏で,幽国(かくれくに)といえる。「くまの」は「こもりの」から変化した冥界を意味することばなのだそうだ。
地図をみると,伊勢から尾鷲までは平坦な道で行けそうだが,尾鷲の西は大台が原山に連なる大山脈があり,南は八鬼山,高峰山にさえぎられ,どんづまりの様相である。伊勢からめぐってきた人は,ここから先は異界の感じがしただろう。一方,大和平野に住んでいる人間からすれば,紀伊山地の大山塊の,山また山のその向こうなどはとんでもない世界だと思うことだろう。万里の長城の外側は夷狄が住んだり,京の都からみて,老の坂を越えれば鬼が住むと思ったり,まあ,そんな感覚なのだろう。その外側に住む人間にとってはたまったものではないと思うが・・・・。
古代の「死者信仰」「他界信仰」は,死者の霊,ひいては祖先の霊をねんごろに鎮める気持ちとして理解できる。親や子,身内,知り合いの死は悲しく,恐ろしいものであるし,また,わが身に降り懸からぬよう,単に恐れる気持ちだけでなく,畏れうやまう気持ちになるのは当然かと思う。
しかし,古代人は,なぜ熊野を「死者の国」と感じたのだろう?「山深く死者の霊が篭る」という地形的な理由は分かるが,それだけでは今ひとつ理解しにくい。一つには,伊勢神宮はアマテラスをまつる神社であり,そのアマテラスの母君イザナミが葬られた国が熊野であるらしく(日本書紀),その墓所は,今の熊野市にある有馬・花ノ窟がそうであるとされている。ならば,大和平野に生きている身からすれば,山の向うの熊野を,単に恐れる気持ちだけでなく,畏れうやまう気持ちになったと思われる。
この古代人というのは,土着の神々を征服し,融和し,何世代もたったあと大和にすむ渡来系の子孫であろう。神話では,神武天皇は熊野から山を越えて来たとされていて,その過程では,ヤタガラスに導かれてすんなり・・という訳にはいかなかっただろう。自軍に死者もあったろうし,土着の神々も征服したろう。大和の南の大山塊のその向うは,そういう死者の霊がこもる地であり,それを恐れ,鎮めるために熊野の土着スタイルで鎮魂していった結果,熊野「死者の国」信仰が出来上がったのではないか?とも思っているのだが・・・
さらに,古代にあっては,この地で捨身(断崖から身を投げて宙づりになって自殺)や入水,火定(焼身自殺)などで死ぬことによって往生できるという考え方があって,来世の安楽に「あこがれ」を感じたものも多かったという。これなども熊野土着鎮魂スタイルを考えれば理解できないこともない。
【死者の国から浄土へ】
仏教が普及してからは,熊野信仰はそれと結び付き(神仏習合),聖や修行僧をはじめとして,巡礼者が多くなった。また,修験道という宗教体系が作り上げられ,大峰奥駆道から熊野へと,さかんに修業が行われた。プロフェッショナルな巡礼者は「伊勢参りをするなら熊野も」と,足を伸ばして,伊勢路を通って,熊野詣をするようになったと思われる。
11世紀後半の(院政の)時代には浄土信仰が芽生え,熊野は古代的他界信仰「死者の国」から阿弥陀如来あるいは観音浄土として意識されるようになった。すなわち,熊野に死者の霊をまつり,難行をしてでもお参りすることによって,あるいは,熊野の地で自ら死を選ぶことによって,浄土にいけるということが強く意識されるようになった。那智大社の那智浜からは,観音が住むという補陀落を目指して,大勢の僧侶が小船で太平洋に旅立ったという。
熊野三山は,熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社と、熊野那智大社(神社ではなく修行場と見なされていたらしい)であるが,神仏習合により、本宮の家都美御子神(けつみみこのかみ)は阿弥陀如来で、牟須美神(むずびのかみ)が千手観音、速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来とされた。熊野の三神は熊野三所権現と呼ばれるようになった。
近しいものが死んだなら,生きている自分が,死者のあの世での安楽を願うために,代わりに苦難の行をする,というのは分からぬでもない。死者が愛する人ならば,よけいにこういう感情が沸き起こったかと思われる。それだけでなく,自分がおかした罪業のため,来世において受けるべき苦痛を今のうちに果たしておき,少しでも安楽な来世を願う滅罪の苦行をする,というのもうなずけるところである。さらに,この世は楽いことばかりではなく,むしろ,苦難や病患などの不幸ばかりを被っている庶民にあっては,とにかく今の苦しみを逃れるために,難路悪路を苦労して参れば,功徳を得て救済されると思っただろう。しかも因果応報で,今の不幸は自分に責任のない前世や先祖の罪業によるものも大きいと思われていたので,自分の努力ではどうすることもできず,神様仏様にすがる気持ちになったと思われる。
こういう説明がないと,熊野古道のような遠い道を,しかも苦しい峠越えで,苦行を行いながら巡礼するということが理解できない。以前テレビで,遠く中国から来た巡礼者が五体投地をしながらチベット・聖地カイラスの回りを何ヶ月も巡回・巡礼していく,と言うのを見たことがあるが,このドライビングフォースと同じなのだろう。
【紀伊路の隆盛】
延喜七年(907年)宇多法皇の熊野詣が御幸の始まりで,以来,紀伊路を使って,上皇・法皇の御幸が盛んになった。上皇の度重なる参詣に伴い熊野街道(紀伊路・中辺路)が発展し、街道沿いに九十九王子と呼ばれる熊野権現の御子神が祀られた。
浄土信仰と結びつく前までは,伊勢神宮-伊勢路-熊野がメインルートであったようだが,熊野三山が神をまつる地だけでなく,「浄土」である,という観念が顕著になってくると,熊野三山は仏教に傾斜し,僧徒によって管理されるようになる。そうなると,神の国・伊勢と仏教浄土の国・熊野は絶縁しなければならない。山伏や僧徒によって先導された上皇の大仏教隊列が伊勢神宮を通ることは,いくらなんでも気がひけるだろう。このようにして,上皇や公家などの熊野公式参拝は,より遠くて峻険な紀伊路(熊野街道-中辺路・大辺路)を通るようになった。 歴代の上皇の参詣は頻繁に行なわれ、後白河院の参詣は34回に及んだという。しかし,弘安四年(1281年)の亀山上皇の御幸を最後に、平安・鎌倉と続いた御幸は終わりを告げる。しかし,庶民の道はそんなことには無頓着で,聖や山伏の唱導や,鎌倉期の時宗のますます盛んになり,矢ノ川越で熊野へ詣でる巡礼者も,紀伊路で詣でる巡礼者も多かったという。
【一遍の巡礼】
鎌倉時代に入ると、熊野に一遍が現われる。彼は一時還俗していた時,2人の妻をもっていたらしい。2人とも表面は仲良くしているように見えるが,(夢にでも見たのであろうか?)やさしい寝顔のその髪の毛がヘビに化けて食い合う様をみた。「愛しい人の内面をこうまで憎しみあうようにしたのは,今は還俗しているとはいえ,宗教者のはしくれとしては人間失格だ」と思ったに違いない。
また,このことが原因だったのだろうか,「法師になりて学問などありけるころ,親類の中に遺恨をさしはさむ事ありて殺害せんとしけるに・・・(一遍上人絵詞伝)」と,刃傷沙汰があったようで,相手を殺してしまったのかも知れず,罪の気持ちにさいなまれていたと考えられる。かくて,一遍36才のとき,妻1人,子1人を連れて,贖罪の重荷を背負って熊野詣に出た。私が97年に行った熊野本宮の写真をみると,山門には「人生蘇へる熊野詣」の大きな看板がある。悩める一遍もこれを目指したのではないか。
一遍一行は、融通念仏の聖として念仏札を配って人々に念仏を勧めながら高野山経由で熊野に向かった。念仏勧進とはいえ,お金を集める(路銀を稼ぐ)のがもう1つの目的である。文永十一年(1274年)の夏、発心門付近で,一遍たちは,高貴な女性と従者一行を従えた一人の僧にゆきあい,一遍はいつものように念仏札を手渡そうとした。
その僧は,「いま一念の信心が起こりません。受ければ、嘘になってしまいます」と言って受けない。そのとき,この僧がもし札を受けなければ、近くにいた道者みなが受けないだろうという事態になったので,本意ではなかったが,「信心が起こらなくても受けなされ」と言って僧に札を渡した。
なぜ信心が起らないのか!
信心がおこらなくてもよいから,とお札を渡した。自分を偽って!
お札の役目は,要は路銀のためなのか!
一遍は,こんなところに自分の宗教上の疑念をもったのではないか?「これではダメだ,まだまだ自分の信仰はまちがっているのはないか?」と思ったに違いない。
思い悩む一遍が,本宮証誠殿にて一心に拝んでいると,山伏姿で現われた熊野本宮の権現が,「・・・一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されていることである。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければならない」と。
うまく説明できないが,相手が素直な心のままに阿弥陀仏を求め、素直な心のままに念仏を唱える、そういう自然な心の状態をつくりだしてあげること,を言っているのだと思う。
この契機で得た境地が「熊野成道」といわれる。一遍は一度死んで蘇ったのだ。この悟で,一遍は妻・子と縁を切る決意をし,時衆とともに旅を続けることになるのだが・・・
一遍の悟のエッセンスは「捨てる」,「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」ということらしい。
善悪の判断、貴賤、身分の高い低いといった社会の道理、地獄を恐れる心、極楽を願う心、とにかく心の自然な働きを歪めるあらゆるものをすべて取り除けということなのだろう。
「女だから往生できないとか、身分が低いから往生できないとか、そのようなことを考えてはいけない。素直な心のままに念仏を唱えればどんな人間であろうとも往生するのだから、その心の自然な働きを歪めるようなことは考えてはいけないのだ」と一遍はいう。実際、一遍時衆を支えたのは、農民あがりの新興武士であり、農民であり、女性であり、非人たちであった。社会の最下層に置かれ差別されたハンセン病者も信徒となった。
また,「この現世が浄土であり、外に極楽浄土を求めてはならないし、この現世を厭うてはならないのだ」、と一遍はいう。現世を厭い、極楽浄土を求めるというのがこれまでの浄土教の考え方であったが,一遍はそのような考え方を否定した。
熊野と一遍の結びつきが固くなり,やがて,時宗教団として成立した。時宗が熊野の勧進権をにぎったと思われる頃から,念仏聖や比丘尼が民衆に熊野信仰を広めた。時宗では声高に念仏を唱えれば,仏もなく我もなく,念仏を唱える者と阿弥陀仏の距離を一気に無化することができると考えた。念仏聖や熊野比丘尼は勧進のため,唄や念仏踊りで庶民をひきつけ,あるいは,熊野参詣図で絵解きや説経をしながら,お札を売って歩いた。
このような布教活動もあって,民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり,「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどに盛んになった。この熊野詣は,なんと1000年近くも続くのである。
【小栗街道】
小栗街道とは紀伊路の別名である。熊野は小栗判官と照手姫のラブロマンスの地として,さかんに念仏聖や熊野比丘尼が絵解きや説経をして回った。このことから小栗街道の名が庶民の間に広まった。97年に,熊野の湯の峰温泉で泊まったときは,旅館にそのラブロマンス(小栗判官が照手姫に導かれながら車に曳かれて熊野へ進んでいったという話)が掲示してあったし,小栗判官が病気を治したという,壷湯もあった。
しかし,ここにはある秘密が隠されているのだ。小栗判官はハンセン病をわずらっていたという設定なのだ。この話は,当時不治の病とされて絶望の底にあったハンセン病患者たちが,不自由な体にむちうって,熊野権現の功徳を得て救済されるために集まってきていたことを意味している。病者の中には,手にゲタを履いて,自力で峠を越えていった患者もいたという。まさに五体投地である。
なぜ,集まってきたか?そこには一遍時宗の「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」を徹底した救済があったからだ。各地で念仏会をしたときには,集まってきた信者たちのお布施を,おなじく集まってきている患者に分かち与えた。信者たちも施しをしたり,患者を導いたりしたという。熊野にあっても,施しはもちろんであるが,土車に乗った患者を巡礼者たちがかわるがわる助けながら,また,車の通れないところはカゴに入れて背負っていって,熊野本宮へ導いて行ったという。薬も見つかっていない時代なので,病気が治るという湯の峰に導いても行った。弱者に施しをすることによって,同じ弱者である巡礼者も功徳を受けることから,さかんに救済が行われたという。
ところで,先の小栗判官と照手姫のラブロマンスだが・・・・・
(1)相模の国で恋に落ちた両者が,照手姫の親兄弟に反対され,照手姫は海に流される。彼女は生きて岸に流れ着くが,遊女に売られる。しかし,小栗への操をたて,過酷な扱いを堪え忍ぶ。一方,小栗は,従者の,「我々が身代わりになるので小栗をもどしてほしいと」いう閻魔大王への願いが聞き入れられ,その判決は,「ハンセン病者という姿で蘇生」「この者を熊野の湯の峰に連れていけ」ということで,この世に戻し,救いを遊行の藤沢上人にまかせられる。
(2)帰還途中で,藤沢上人がその車を見つけて,「この者の車を曳いてやれ,そうすれば功徳がある」という木札をかけてやり,道々,巡礼者や道行く人に助けられながら,遠路はるばる,熊野に向かう。途中,照手姫が働く店の前を通るが引き手がない。照手姫は見かねて3日だけその車を引くが,小栗だとは知らない。
(3)小栗は熊野に来て,湯の峰で病気が治ってしまう。小栗は家に帰って,蘇生の訳を話す。帝にも,巡礼者に助けられて熊野に行けたという話が伝わり,美濃国主になる。
(4)小栗はたまたま寄った店で,女に酌をさせようとしたが,嫌がる。いやいやながら出てきた彼女というのは,想い続けていた照手姫で感動のハッピーエンド。
と,こういう話である。
時宗の考え方がよく出ていて,ストーリーも,怒りや悲しみ,はらはらどきどき,そして思いがけぬハッピーエンドで,庶民は涙を流して喜んだに違いない。時宗の勧進聖や熊野比丘尼も,このラブロマンスを用いて,さかんに熊野詣の唱導をした。「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」というコンセプトを徹底したことで,中世の庶民も,そのヒューマニズムには心を動かされたに違いない。その結果,ますます巡礼者が増えていったものと思われる。
時宗は,15~6世紀ごろ、蓮如(1415~1499)が復興した浄土真宗に吸収される形でその勢力を急速に失ってしまうが,中世の一時期でも,一遍時宗が庶民を巻込んで(むりやり施しをさせるのでなく,自然な感情を引き出していって),庶民も時宗の唱導によって自発的に,弱者救済をしていったことは忘れてはならないと思う。
【おわりに】
2004年,世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」が指定された。「道」としては世界2例目である。が,この熊野参詣道に関して,一遍時宗のハンセン病者救済活動があったということはあまり知られていないのではないか?ユネスコはここを評価してくれたのであろうか?これは日本の誇りであるし,熊野を歩く人にもっと知ってもらいたいと思う。
97年の中辺路ウォークにしろ,紀伊路ショートウォークにしろ,その時は,こういう話は全く知らなかった。今回,暑さをさけるための軟弱バーチャルウォークということで調べはじめたが,「一遍・時宗」「小栗街道」を知りえて,有意義なバーチャルウォークになった。次はこの話をかみしめて紀伊路を歩いてみたい。
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