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2005年10月 6日 (木)

東高野街道ウォーク・四條畷編

2005年10月2日  四條畷,忍ヶ丘,寝屋川(打上)
2005年10月9日  追加(打上)




 竹内街道ウォークで古市に行ったとき,竹内街道が東高野街道とクロスしていて,東高野街道を少し歩いたので,その北河内版である四條畷~交野部分を歩いてきました。よく分からないところがあったので,10月9日に追加ウォークをしてきました。

【高野山巡礼の道】
 平安初期,真言密教の開祖・空海が京と高野山に本拠を置いて以来,両者を結ぶ道は,多くの巡礼者が行き交う道となりました。これが東高野街道です。この街道は京都・鳥羽から分れて,淀,八幡,洞ヶ峠を越えて河内に入り,出屋敷,四辻,郡津,星田を通って,四条畷,松原,羽曳野,富田林と南へ進み,河内長野で西高野街道と合して紀見峠を越えて高野山に向かう長大な街道です。山城国と河内国を分ける洞ヶ峠の辺りには,今も「高野道」という地名が残されているようで,行ってみたい気になります。
 京都と高野山を結ぶルートに淀川水路コースもあります。京都から陸路で鳥羽,山崎に至り,そこから淀川を下って渡辺の津(天満橋と天神橋の間の南側)に上陸します。ここから西高野街道で,天王寺・住吉と歩いて堺に出て,,紀見峠へ向かいます。
 また,四天王寺から平野を通って真っ直ぐ南に紀見峠へ向かう道を中高野街道といい,西高野街道と中高野街道は河内長野市で合流,やがて南下してきた東高野街道と一本になります。

 東高野街道筋には,弘法さんの井戸といって,道端に美しい水を湛えた井戸が古くから設けられています。弘法大師の法力で湧き出したという伝説がありますが,高野聖たちの活躍ともいわれています。高野聖たちは,橋を架けたり井戸を掘るなど,社会奉仕を行いながら全国を旅しました。この街道を行き来して高野山への信仰を庶民に広めつつ,掘った井戸が,街道沿いにある「弘法井戸」というわけでしょう。
 まあ,この地は地下水が豊富で,それらしきところを掘れば必ず水は出るようですが・・・交野市では至る所に井戸を掘っており,水道水に混入して配水しているのと,災害時の緊急用水としても準備しているようです。

【まずは四條畷から北へ】
 快速に乗ったので,このウォークのスタート地点・忍ヶ丘で降りるつもりが四條畷まで行っていまいました。電車で引き返すのも時間がかかるので,歩いて忍ヶ丘まで行くことにしました。どのみち,東高野街道なので・・・というのはすぐに破綻しました。

 駅を出て東に道をとり,すぐに大きな街道に出ました。現在の東高野街道(とは言わないが)です。道が狭いうえに車が多く,歩くのには危ないので,あえて山側の道をとるこよにしました。25000分の1の地図ではけっこう道がつながっており,行けそうに思えましたが・・・
  四條畷神社への参道を東にとり,途中でそれらしい路地を北に。参道はけっこうなお屋敷がありましたが,路地へ入ると庶民的な家ばかりでした。路地はあまり 街道らしくないし,北行きは行き止まりになったので,元の新街道に戻ることにししました。あいかわらず狭く,車が多くて,危ない。

 すぐ に「和田賢秀」の墓が見えました。和田賢秀は,楠木正行の家臣で,四條畷の戦いで正行が討ち死にした後も,一人で,敵将の首を討とうとしましたが果たせ ず,首をはねられました。この首が敵の喉に噛みついて離れなかったと いわれています。そのため,賢秀は,「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受けているようです。特に歯の痛みに悩む人々が参詣したそうです。お参りしておくん だった。和田賢秀墓の楠は,大阪府天然記念物指定のようです。
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 あまりに狭い道で歩きにくいので,山側に入って併走しようとしました。これが間違いの元で,東高野街道はここから西に少し入って,北行きの街道をとって,四條畷歴史民俗資料館のそばを通るようです。
 わたくしは,あいかわらず建売住宅の間の道を通って,四條畷南中学校の下手を通り,国道163号も渡って,住宅街の中の新しい広い道を通ります。

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  ここで,旧正法寺跡の案内板をみつけ,道が大きく違うことに気がつきました。帰るのもめんどうなので,そのまま行きます。

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 清滝川をわたり,さらにその次の 清滝川分水に沿って下り,正法地橋の次の橋で北へいくと,忍ヶ丘の公園があって,そこでまた看板を見つけました。本来の東高野街道についての詳しい案内が のっていました。なんだこういうことか!全然道が違いました。これにて,四條畷ウォークはリベンジ決定です。

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 東高野街道は,また府道を東に越えて来て山側にきており,清滝川分水にかかる橋からは,わたくしの来た道が東高野街道のようです。

【寝屋川をかすめる】
 JR忍ヶ丘の駅前は再開発のため,古道は消えていますが,駅の西側には古い街道が残っており(左),これが東高野街道です。ここははっきり分かります。忍ヶ丘は四條畷市ですが,少しいくと寝屋川市に入ります。

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 さすがに街道沿いです。いたるところににはお地蔵さんがまつられています。正縁寺の横に一体ありました。少し行くと,「二月堂」と書いた大きな石燈篭がありました。
 案内石像の鉢かづき姫は寝屋川市のマスコットになっていて,旧跡の案内に一役かっています。

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 寝屋川~四條畷の街道を案内しているHPによると,東高野街道は,正縁寺付近から東に折れて,JRの線路に向かい,線路沿いに東寝屋川駅へ向かうという情報がありますが,途中で団地にあたってしまいます。

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行ってみたのですが,農道みたいなところがあって,石段を上ると住宅街の道に続いていました。昔の道かどうかは分かりません。
 新旧混在の住宅街の中を道は行きます。明和小学校前バス停横には,多くの花崗岩の巨石と弘法大師の石像がありました。ここ打上の周辺には,古くから多くの古墳があったといわれています。しかし,ほとんどの古墳は,耕地などをつくるために消滅してしまったようです。この巨石は,かつてこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられています。

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 まもなく東寝屋川の駅ですが,ホームは道の下を走っているので,うっかりすると駅には気がつきません。ホームの上にかかる橋のそばには,スポーツ公園の入口がありました。ここから,わたくしは違う方向へいってしまいました(あとから分かったことですが)。

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 上記の寝屋川~四條畷の街道を案内しているHPの情報では,駅前のロータリーに向かって線路沿いに道があったようですが,駅南にある高層アパートのところは昔の道がなくなっているようです。

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 駅前のロータリー北から昔の街道が復活していて,少し入ったところに,打上の四ツ辻がありました。ここは南北に東高野街道,東西に奈良伊勢道が走る交通の要所ということなのですが,この東西の奈良伊勢街道というのがよくわからない。西行きは寝屋川への道ということで分かるのですが,東へ向かう山越えの道があるのか?

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 東への道を行ってみましたが,お寺に突き当たり,山道になってしまいました。すぐ上は,コモンシティ星田団地になります。
 四ツ辻に立つ道標には,
「東 なら いせミち」「南 かうや のさき 大坂みち」「北 京 八はた 柳谷 星田妙見道」
と刻まれているようです。

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 まっすぐいくと府道をわたり,すぐに,打上の弘法清水がありました。ようやく道がつながりました。 また,四つ辻があって,そのすぐそばに,打上の弘法清水がありました。清水というと,しっとり濡れて清冽という感じを期待したのですが,少し埃っぽい。

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 ここからの道は,街道らしい道なのですが,道路の脇は建売り住宅が建っていて,ごちゃごちゃした感じです。自動車が走り回る表通りではない,ムラの中を走る街道の価値を生かした街づくりができないものかと思うのですが。

東高野街道交野編

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2005/10/7 字句訂正,写真入れ換え
2005.10/10 追記,写真追加
2014.8.17  レイアウト修正

 

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