東海道ウォーク・新馬場-大森編
2005年11月7日(8日)
あいかわらず,旧東海道をブラブラ歩いています。今回は新馬場から大森まで。いずれも夜ですが,2回歩きました。大森海岸のホテルに泊まっているのです。
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【海の話】
出張のときは時間通りに仕事が終るので,けっこう時間があります。最初から,大森まで歩こうと意気込んだわけではなく,まず,新馬場の行きつけの蕎麦屋でゆったりとそばを食べて,考えることにしました。
まずは,冷や奴でヱビスビールをクイッと。ビールはほんとは止められているんだけれど,仕事のあとの一杯はやめられません(といっても毎日ビールを飲んでいるわけではありませんので)。あとは,刈干だったかの焼酎そば湯割りをちびちびやりながら,いか一夜干。テレビをみながら,のんびりとくつろいでいます。
時間はまだ早いので,先客はきっぷのよさそうな初老のおじさん一人。土地のひとらしいです。大きな声でオカミさんとしゃべっています。
「このあたりは,ついこないだまで海岸だったんだよう」
「子供のころ,この裏の学校あたりは海で,よく手をつっこんだもんだあ」
つい数年前のことのように言うので,おかしかった。からっとしたしゃべりで,グイグイとドライブしていく感じ。いかにも「江戸」という感じです。今の東京の言葉は全然なじめないけど,このしゃべりは結構すきですね。
品川の海は,この旧東海道からゆるやかな坂を下った,なぎさ通りまでせまっていたそうで,おじさんのいうとおりです。
埋め立てが始まったのは,昭和4年といいます。東京府が煙草工場や,府立,町立の学校建設をしたということです。一坪50円で売り出しましたが,地元の人で泥くさい匂いのする埋立地を買う人はいなくて,その後,50年間無税の条件を付けて,さらに一坪30円に値下げしてまでして売っていたそうです。
昭和11年に松下幸之助が乾電池工場を建てる目的で購入し,だんだんと飛行機や兵器の部品工場を建てる人々が買い求めるようになり活気付づいてきました。それはよいのですが,兵器工場があったおかげで,東京の空襲ではここが真っ先に標的になったとか。(品川環境協会 しながわ瓦版)
NHKテレビのニュースで,横浜の浦島太郎伝説を紹介していました。
へえ,横浜にもあるのか?
何か新しい発見があったのではなく,横浜市歴史博物館開館10周年記念特別展で「よこはまの浦島太郎-中世説話から現代まで-」が開催されていることのニュースだったようです。あとで浦島太郎関連のサイトを調べてみると,子安あたりに,浦島町があったし,亀住町というのもありました。
横浜市神奈川区に伝わる話として・・・
-----(ウィキペディア・浦島太郎)
昔,相模国三浦に浦島太夫とよばれる人がいた。彼は仕事のため丹後国に赴任していた。その息子太郎は,亀が浜辺で子ども達に虐められているところに出会う。亀を助けたことで,竜宮城に招かれた太郎が陸に戻ってきた。老人になった太郎はある漁師から両親の墓が武蔵国白幡にあると聞いた。この情報を聞いた太郎は急いで子安の浜に行った。子安に着いた太郎は両親の墓を探したが,なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は,松枝に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵をつくり,太郎はそこに住んだ。この寺は後に観福寿寺と呼ばれるようになった。
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あるいは,
-----(珍獣様の語り部屋)
丹後国で生まれた太郎は,住の江(大阪湾)で漁師をしていましたが,亀を助けたことで竜宮城に招かれました。竜宮で三年をすごして陸に戻ると,見慣れた村も人もなく,仕方なく父親の故郷である相模国(神奈川)にやってきましたが,そこで自分の身寄りが数百年前に死に絶えてしまっていることを知ります。孤独を感じた太郎は鶴になり,竜宮へ帰って行きました。それ以来,太郎と乙姫様は,相模国の守り神になったと言われています。
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日本の浦島物語の起源は,中国・長江流域の竜宮伝説にあるらしいです。竜宮伝説において,竜女は母で,水は羊水で,竜宮は子宮である。なので,水底にある竜宮へ行くことは,胎内回帰を意味する,という説があります。日本の浦島物語には,竜でなく,亀であったりと変更が加えられていますが,本質的には同じものなのでしょう。(永井俊哉ドットコム)
浦島伝説は丹後が有名ですが,横浜をはじめ各地にもあるようで,縄文から弥生の頃,竜宮伝説をもった中国南部のグループが海流にのって,この地にきており,漁労と農業をしていたのだろうことを思わせます。
そういえば,この先に「鮫洲」というところがあって,「さめ」とともに渡ってきた人がいたかと思いましたが,これは違うようでした。なんでも,海岸に清水が湧き出るところがあり,これが「素水(さみず)」から「さめず」になったとか。
ひとしきりテレビとおじさんの話を聞いていましたが,「カアチャンに怒られる」とのたもうて,おじさんは退散されました。
このあと,「おおもり」でしめました。今日もおいしかった。ほろよいかげんですが,調子もよさそうなので,行けるところまで歩いてみることにしました。
ふらふらと,旧東海道を青物横丁に向かいます。このあたりは品川宿の南端になります。いつも気になっているお寿司屋さんのメニューは,あいかわらず,松が1000円,竹が1200円,梅が1800円。いろいろネットで遊んでいると,松が梅より安い,というお店は他にもあるようで,この店だけの偏屈ではないようです。妙に心をひかれます。
近くのス-パーは買い物客でにぎわっていました。通りは帰宅を急ぐ人とたくさんすれちがいました。
青横を過ぎるとすこし人通りが少なくなり,寂しくなります。お店もまばらになってきます。結構古い建物があり,昔ながらの街道筋という感じです。左手海側には,コナミスポーツクラブの大きな建物が目をひきます。ところどころに看板があって,なんでも大きなマンション建設計画があるとかで,街道の風情がなくなるのを心配して反対運動が起っているようでした。
【鮫洲】
仙台坂から下ってくる国道を過ぎると,鮫洲商店街に入ります。京急青横と鮫洲の間は駅の端から端まで300mほどしかなく,電車にのっておれば,鮫洲から青横の駅が見えるほど近いのです。鮫洲商店街にも入ってみたいお店がちらほらあります。楽しみ。
数えてみると蕎麦屋も大森までに3~4軒ありました。
鮫洲駅近くに鮫洲八幡神社というのがあって,そのサイトをみていたら,お神輿の他に,山車もあって,旧東海道沿い3町会では,浦島太郎(北町)・乙姫様(仲町)・桃太郎(南町)の人形と囃子が乗った山車がある,ということでした。ここにも浦島伝説?。
漁師村だった鮫洲では,海上安全,豊漁並びに船中守護を祈願しての海中祭が行われていました。そのとき,大神輿は鮫洲浦にて海中渡御されていました。戦後は,海中渡御が出来なくなりましたが,今は復活しているようです。
2日目に歩いたときには,このあたりの1軒の蕎麦屋に入ってみました。ししゃもでビールをのんで,この日は温かい蕎麦を食べてみました。かき揚げ蕎麦。東京の温かい蕎麦やうどんはダシが濃くて(というか真っ黒),あまり食べないのですが,その黒さも気にならず,おいしくいただきました。
ここでも4人組のおじさんの先客があって,大きな声でいろいろしゃべっていました。
「品川に,たたりのある場所があるのを知ってるか?」
「南馬場に四つ辻があって,そこなんだよ」
「なんでも,そこに店を構えていた人が,犯人を自首させて,そこまではよかったが,それから店主が代々死んだりしたらしい」
「そこで,茅ヶ崎の寒川神社にお参りして,おはらいをしてもらったら,まあ,なんとかなったらしいが・・・」
「寒川神社は相模一宮なんだよ」
・・・・・
たしかに,四つ辻があるぞ。そういえばあそこには古いお店風の空き家があるぞ・・・ということで,興味半分,あまりぞっとしない話ではありましたが。
おじさんたちは,延々としゃべって,最後は,団塊の世代批判と,「近ごろの若いもんは・・・」で終りました。あんたたちも団塊の世代とそう違わないはずなのに・・・
蕎麦はおいしかったです。
この先にも,もう一件,老舗というか,かなり大きな料亭風の蕎麦屋さんがあります。
【立会川】
お店を出て,少し行くと,また人通りが多くなってきました。京急の立会川の駅だと思います。旧東海道から,駅にかけての道筋にはたくさんのお店があるようで,楽しそうですが,先を急ぎます。
このあたり,東へ一筋いくと,勝島運河で,もう「海」といってよいでしょう。昼間なら見に行くところですが,かなり暗いので・・・
小さな橋をわたりました。川は立会川で,橋は浜川橋。この橋は江戸開府直後に架けられたようです。この先に鈴が森刑場があって,そこに護送される囚人が親族と涙ながらの別れをしたところから,涙橋という名称が付されています。立会川の様子は暗くて良くわかりませんでしたが,すぐ上流には,天祖諏訪神社「東海七福神」の福禄寿があるのですが。
「あしたのジョー」にも「なみだ橋」が出てくるのですが,あれは台東区だったか?
浜川橋を渡ると並木道となり,おおきなアパートが現われました。品川公園パークホームズとあります。今まで旧東海道沿いは商店街か町屋が立ち並ぶ街道で,おおきなマンションなどはさらに海岸に寄ったところに立ち並んでいましたが,このあたりは街道沿いにあるようです。
街道沿い海側にはこんもりした森が見えていますが,その時は,暗くてよく分かりませんでした。あとで地図を調べると,アパートの裏はしながわ区民公園で,環境がよいのでしょう。
少し冷えてきました。運よく公衆トイレがあったので,トイレ&タバコ休憩をしました。ここは品川区民公園入口のようです。管理の人がボックスにいました。夜7:00をかなり過ぎているのにまだ開いているんだろうか?
休憩所の向かい側には製材所らしいところがあって,木場の写真によくあるように,材木をたてかけていました。
【鈴が森刑場跡】
さらに少し進むと,街道沿い右手(山側)に木々に囲まれた暗いところが見えてきました。その向こうには見慣れたビル広告が見えます。そこが,鈴ヶ森の刑場跡でした。さっきの海側の大きな森(しながわ区民公園)の一角にあるのかと思ったら,ここでした。予想より狭く,かつ国道沿いにあります。
鈴が森刑場は小塚原刑場と並ぶ江戸時代の処刑場でした。見せしめのために,交通量の多い品川宿のはずれに設けられたといいます。各種供養碑に混じって,磔台・火焔台も残っていますが,あたりは暗く,さすが中まで入っていけませんでした。2日目も,さらに暗くてじっくり見る気は起りませんでした。
往時の敷地面積は奥行16m×幅74m。江戸時代の刑罰は単なる死罪は伝馬町の獄で執行され,獄門の場合は打ち首のあと鈴ヶ森か小塚原で首を3日間さらされたといいます。磔,火炙りの場合は,江戸市中引き回しの上,ここで処刑されました。
ここで処刑された罪人で著名な人は,由井正雪,八百屋お七,平井権八,丸橋忠弥などが知られています。
なお,刑場ができるまでこのあたりには吉原の前身となる遊郭が存在しており,入口の長暖簾に鈴がついていたことから鈴が森の命名の元になったといいます。
2日とも,おまいりもできず,心の中で手を合わせながら,ここから陸橋で第1京浜をわたってホテルに帰りました。次の日,早起きして見に行きました。
京急・大森海岸の駅から300mほど進むと,しながわ区民公園・品川水族館があります。水族館はともかく,公園はあいてそうなので,あとで行ってみることにします。
高速の向うに昨日の刑場が見えてきました。
んー,まともに写真取れない感じですね。道路から一番奧まったところに,恐ろしげな石がふたつ並んでいました。中央に四角い穴が空いた台石と,丸い穴が空いた台石とでありました。
写真はとりましたが,それぞれの台石の上にある鈴ケ森史跡保存会の解説板のところがが飛んでしまっていて,読めませんでした。あとでサイトを調べてみると・・・
左側が磔台,右側が火炎台のようです。
※磔台(左)
丸橋忠也を始め罪人はこの台の上で処刑された。真中の穴に丈余の角柱が立てられその上に縛りつけて刺殺したのである。
※火炙台
八百屋お七を始め火炎の処刑者は皆この石上で生きたまゝ焼殺された。真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである。
ただ合掌。
【しながわ区民公園】
帰りにしながわ区民公園に寄ってみました。大きな池がしつらえてあり,周回の散歩道が作ってあります。歩道だけでなく,自転車用の道もあって,なかなかすばらしい公園となっています。京急の駅からは高層マンションに遮られて見えなかったのですが,その裏にはこんな別天地があったんですね。
土曜休日ということもあり,朝早くから散歩したり,ジョギングしたり,ベンチで本を読んでいるひともいました。水族館の係の方が,池の魚に餌をやっていました。散歩のおばさんが話しかけていました。池には強制的に水が供給されているようで,池の真中からボコッ,ボコッっと水が噴き出ていました。
池の真中には橋があって渡れるようになっています。公園の向うは高速道路を隔てて,大井競馬場になっています。騒音を遮断できるように,小高い土手があって,その上に道が作ってありました。なので,池の周辺はとて静かなスポットになっているようです。まさに都会の中のオアシス。
この公園は高速への進入路を挟んで北にも伸びており,立会川まで700~800mほどある長大な公園です。どうも勝島運河を埋め立てたみたい。高速進入路の下にはちゃんと連絡通路がありました。
ゆったりと一周して,さわやかな気分でホテルに戻りました。
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2005年12月1日 文章修正
2006年9月3日 写真レイアウト修正
2015年3月4日 写真レイアウト修正
2015年5月14日 レイアウト修正。Firefox37.02にて、120%に拡大して適度に表示されるように調整。
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