東海道ウォーク~生麦-浦島
鶴見線をくぐると、生麦です。なぜか潮の臭いがしてきます。
看板には「生麦魚河岸通り」とあって、あるはあるは、魚屋
さんばかりです。鶴見鮨商業組合なんてのもあります。さすがに魚河岸通りです。
生麦は、江戸時代よりお菜八ケ浦の一つとして350年繁栄してきた漁港でしたが、沿岸の埋め立てによって、昭和48年(1973)に漁業は消滅しました。明治の末頃から魚介類を扱う店が増えはじめ、生麦魚市場が誕生したそうです。約80軒の店があり、かっての漁師さんのお店も多いらし
いです。
魚の値段はのぞいてみませんでしたか、新鮮で安いのでしょう。今は土曜日の朝9時過ぎですが、いかにも料亭の主人みたいな人が車で乗りつけて、でっかいポーチを抱えながらおりてきました。ベンツで乗りつけて、道半分を占有してほっぽらかして買い物している人もいたようです。
魚河岸通りを過ぎた頃、「蛇も蚊も」という看板があって、なにこれ?と思って良く見ませんでした。あとで地図をみていると、この付近に水神宮(すいじんぐう)というのがあって、豊漁、安全操業を守る生麦漁師の氏神様のようでした。毎年正月2日の朝、漁師が集まり、豊漁と安全を祈願し、河口の沖合に船を出し「乗り初め」の神事を行っていました。この神事も昭和45年(1970)に廃止されました。生麦漁港も消滅したようです。
【蛇も蚊も】
途中、京急・生麦駅から、日産の横浜工場へ行く道を横切りますが、ラーメン屋がおおい。ただそれだれですが・・・
ぶらぶら歩いていると、キリンビールの工場が見えてきました。
路地をみると、何か神社がありそうで、立ち寄ってみました。そこにはまた、「蛇も蚊も」という看板があって、「へぇーそうなんや」、と読んでいると、神社の掃除をしていたおじさんが寄ってきて、説明してくれました。
1.由来は看板の通りだが、もともと旧暦の端午の節句の行事で、新暦になってからは毎年6月6日(今は第1日曜日)に行う。
2.なので、かしわ餅は普通5月のものであるが、この地で
は6月のものである。
3.カヤで蛇をつくって、子供や若い衆がかついでねり歩き、海に流していた。船のスクリューに巻きつく事件があって、それ以来、禁止になった。今は、蛇体は、翌日神社境内にて焼き、行事は終了する。
4.その頃は、この地にもいたるところに萱が繁茂していた
ので、この萱を刈り、長さ8間胴回り2尺の大蛇を作っていた。今はカヤの入手難で、山梨県までももらいに行っている。かやぶき屋根を葺くのに残している場合もあって、断られることもある。時節は6月なので、まだ50~60センチの背丈である。秋にもらいにい行ったときには、火事の心配があるといって、喜んで刈らせてもらった。
カヤは本ガヤと犬ガヤがあって本ガヤがよいが、モノがないのでぜいたくはいえない。
5.3トンの萱を1週間乾燥して、長さ20m、胴回り1mの蛇体を造り、枇杷の葉で耳とする。菖蒲の葉を編み舌を造る。菖蒲でないといけない。あやめとかカキツバタではいけない。いずれも薬草で害虫を除けるのが共通点である。目玉は貝を赤く塗って使う。
こんなことを説明していただきました。
さらに調べると、開催の神社は本宮地区の道念稲荷神社と原地区の神明神社で、昔は、道念稲荷神社で雄の蛇を作成、神明神社で雌の蛇を作ったそうです。
現在は、独自に雌雄の蛇を作り、地区毎に2箇所で開催しています。る。ここ原地区では、祭礼は神明神社境内で行い、原4町会の行事とし、雄・雌2頭を造り、「蛇も蚊も出たけい、日和の雨けい」「出たけい、出たけい」わっしょい、わっしょいと、町内を練り歩きます。
それで「蛇も蚊も」という看板が2つあったのです。
【生麦事件】
もとの東海道にでて歩きだすと、すぐ材木店があり、お店
からさっきのおじさんがでてきました。お礼を言って、立ち話をしていると、「東海道を京都までいくの?・・・・もう少し行くと生麦事件の跡地があるんだ。ことしは144年記念なんだ。せっかくだから市でまとめた説明のた冊子をあげよう、ワシもいろいろやってるんだ。」と、立派な資料をいただきました。
あとで、地図をみるとG材木店とありまして、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。写真に小さく載っているのがそのおじさんです。
いただいた資料は平成14年8月21日、横浜市教育委員 会文化財課の発行で、横浜市史稿(昭和6年)、生麦村騒擾記(明治28年)、島津家「薩藩海軍史」、鶴見町史(大正14年)などを引用したもので、事件の顛末、事件の国際問題への影響、旧跡碑建立の経過などをまめたものでした。顛末は詳細に書いてあり、現場地図や写真なども掲載されています。140周年祭を記念して作られたようです。
その資料によると、生麦事件は、文久2年8月21日(西暦1862年9月14日)、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で起こりました。
薩摩藩・島津久光は5月に勅使・大原重徳したがって江戸へ向かい幕府と交渉していましたが、ようやく一通りの役目を終えて京都へ戻ろうとしていました。久光の護衛はこの時400人ほどいました。
一行が生麦村にかかった時、たまたま江戸見物に行こうとしていたイギリス人4人が乗馬のまま、この行列の左側を通り過ぎようとしました
。コの付近は、狭い道ゆえ、行列本体の中に入ってしまいました。
武士の一人が注意したのですが、奈良原喜佐衛門が現場に出たところ、英人が馬首を右に向けたので、とっさに斬り掛かっていきました。それに続いていく者も出てきて、結局4人のうち1人(リチャードソン)が死亡、2人がけがをし、もう一人の女性も帽子と髪の一部を切られました。
事情を聞いた他のイギリス人も神奈川駅に集結し、大名行 列にすぐさま報復をという騒ぎになり、水兵たちも米領事 館(本覚寺)警備に上陸をしますが大事に至らず、イギリス代理行使のニールは外交ルートでの決着を図ります。ニールは幕府と薩摩藩に謝罪と犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求します。これに対して幕府は賠償金を支払いますが、薩摩藩は犯人は発 見しだい処罰し、賠償金は検討の上でとあいまいな回答しました。これが薩英戦争の引き金になるのです。
こまかい経過はともかく、事件現場は今の生麦3丁目25あたり、イギリス人死亡の地は、旧東海道が国道に合流する慰霊碑のあるあたりということです。
このあたり、街道の南東にはキリンビールの工場があってビア ビレッジということで一般公開して試飲もできるようです。が、土曜日の9:40ころということで遠慮しておきました。ここから当分の間、生麦を思い出すたびに「生麦酒」と余計なものがついてきて困りましたが・・・
【浦島町】
国道15号を少し行くと新子安、子安とあって神奈川宿に
至りますが、このあたりには浦島伝説があるようなのです。以前、東海道ウォーク品川で蕎麦屋でTVをみて知りました。今回は横浜の浦島はどんなとこかというのを見るつもりです。
まずは、神奈川新町駅前の喫茶店で大休止です。子安あたりから浦島にかけてが昔の漁師町のようでしたので、子安まで引き返しました。時間は10:00過ぎですが、途中ラーメン屋で行列のできている店が1軒ありました(関係ないが)。
国道から少しいくと海岸です。というより対岸には埋め立て の工場地帯となっていて、運河といったほうが実情にああいます。
子安通から海に行く道は細い路地となっていて、いかにも(昔)漁師町といった感じのところでした。生麦からくるときに、感じのより路地を見つけていたのですが、何本かは探してみたのですがどうもイメージが違う。現在では住宅やアパートマンションが立ち並び、それに囲まれたようにして舟泊りがあ ります。それでも浦島町のあたりは漁村の面影がありました。ただ、土曜日の朝なので、何も動いていないようですが。
対岸の新浦島町にわたってみました。ここは高層アパート やオフィスビルの立ち並ぶ近代的な街となっていて、浦島の漁村とのコントラストが不自然なほど感じます。しかし、この雑然さは結構すきですね。結構気になる街で、十分歩いたとは思えないので、再度きてみたいと思います。
【浦島伝説】
浦島伝説の痕跡でも探そうと思いましたが、あとで調べると、浦島太郎に関する遺品のある慶運寺は東神奈川1丁目にあるようでした。もともと、七島町(子安の北側)にあった「浦島寺」と呼ばれた観福寿寺が慶応4年(1886年)の火災で焼失した後、浦島伝説にかかわる記念物が慶運寺にもたらされたということです。
阿諏訪青美さんの「よこはまの浦島太郎」を要約する
と・・・・・・
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浦島太郎の物語の発生は古く、『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記』などに見られる。 主人公の浦島子が、不老不死の世界である蓬莱
山に至り、仙女と結ばれるといった浦島太郎の原型は、6世紀頃までには成立していた。この物語の発祥地は京都府丹後半島だが、物語は全国各地に派生して各地でさまざまな内容に変化している。
神奈川・浦島寺の略縁起によれば、三浦半島出身の浦島太夫が妻子とともに丹後半島に赴任し、息子の太郎が、浜で大亀を釣る。 その亀は美女に変身して太郎を竜宮城へと誘う。 竜宮城ですばらしい日々を過ごした太郎はやがて帰郷を願い、玉手箱と観音菩薩を与えられる。
丹後半島に戻った太郎が両親の不在を知って観音菩薩に祈ると、「私を背負って関東に下れ」との夢告を得る。 三浦半島に戻った太郎は浦島の9代後の子孫に逢い、両親の眠る地を知らされる。 それが神奈川(現・神奈川区浦島丘)であった。
太郎は両親の墓前に小堂を建てて竜宮から持ち帰った玉手箱と観音菩薩を安置し、何処かへと去っている。神奈川付近の漁師は、浦島太郎の建てた小堂を立派な寺院に建て直して観音菩薩を信仰しつづけた。
これが横浜市に伝わる浦島太郎の物語である。浦島太郎の出身地が三浦半島であること、竜宮城より観音像を持ち帰ったこと、玉手箱を開けていないこと、などがその特徴である。
芝の増上寺に遺る元禄9年(1696年)の増上寺末寺帳には、浦島寺について、「武州都筑郡神奈川領帰国山浦島院(中略)浦島太郎所持の観音の像を安置す」とあり、江戸時代前期から浦島寺があったことがわかる。
浦島寺にかかわる略縁起は、浦島寺の修理や再建に関わる資金調達の方法の一つとして行われた開帳に際して、寺のご利益を喧伝するために作成されたもので、文政3年版の末尾には「くハしくハ広縁起のことし、この略縁起、延徳二年ノ古版天明再版ス」という記述がみられる。 つまり浦島寺にはもともと正式な縁起が存在し、それが戦国時代の延徳2年に以前にあったということである。横浜の浦島太郎の物語もまた、戦国時代まで遡る可能性があると言えそうである。
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ということなのですが、もともと同じ伝承をもっていたグループがこちらにも住みついていて、後世、説話という形で伝播したときに、「ああそれそれ、うちにのもある」という感じで定着した、という風に思うのですが、どうでしょうか?浦島の漁村?をみていたら、そんなことを考えてしまいました。
浦島といえば亀ですね。このあたりの地形は、(元)海-狭い海岸(ここに国道や鉄道、住宅が密集している)-崖をともなった小高い丘という構造になっています。この海岸に亀が産卵にきていたのでしょうか?
地名として「浦島丘」「亀住町」というのが残っています。浦島丘にもいってきました。JRを越して、急な坂を登ると浦島丘で、別の風景が拡がっていました。ここを国道1号線が通っているのでうるさい。
浦島町の後背にあります。ちょうどJR線と京急線の間にはさまれた細長い地域です。 昔なら、崖と海隣に囲まれた土地で、いかにも亀が住んでいそうなところでした。今は何もその面影はなく、普通の住宅街でした。海に関係しそうなものといえば、「ドルフィン白**」。亀住町にあったマンションの名前だったと思いますが、ドルフィンまでいくと亀住のイメージとは違いますね。
とりあえず、浦島ウォークは終了し神奈川新町から京急に乗りました。まだ午前中です。
(つづく)
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