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2007年8月18日 (土)

東海道ウォーク ~川崎-鶴見

2007年2月10 日




 今日は川崎宿から神奈川宿まで、できる範囲で歩くことにします。

 ホテル(サンルート)は安くて、清潔・快適でよかった。(まず、これを書いておかなくては)
 まず、川崎で、旧東海道がどこなのかよく分からない。とりあえず、朝飯を食べながら地図を見ます。ホテルに隣接するレストランというかコーヒーショップもありましたが、どうもあの手の(スタバ風の)ものは苦手です。どうも落ち着かない気がする。
 喫茶店とタバコ自販機を探しながら、JR駅のほうに向かいます。土曜日のまだ8:00ころなので、あまりあいていない店が多い。砂子を過ぎて、アーケード街に入ると、ありました、ルノワール。2階のゆったりとした席で道路を見ながら朝飯としました。

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【川崎宿】

 地図によると、先程の砂子が川崎宿の中心であったところだそうで、ちらっと見た限りでは普通の繁華街の通りでした。
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 アーケード街から路地を通って砂子通りにもどります。このあたりは色々お店があって夜は楽しそう。だが、高そうでもあります。
 まもなく、小土呂橋交差点を渡ると小川町本通りますが、街道らしい風情は全くなし。東海道茶屋などというでっかい和風レストランがあってそれをみて、やっぱり旧東海道か、と思う始末でした。少し歩くと、川崎宿の京都側の入口(の看板)があるそうですが、ウォークのエンジンがかかってきたので気づかなかった。

【八丁畷】
 飛ばしていると、いきなり写真の小屋が見えてきました。こ こが芭蕉の麦の分かれ跡か。
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 芭蕉句碑と案内板があって、それによると、元禄7年(1694年)江戸・深川を発ち、郷里の伊賀へ帰る途中、見送りにきた門弟達とここで別れたということです。八丁畷の街道の両側は一面の田畑で、このあたりにあった腰掛茶屋で、芭蕉らはだんごを食べ、休憩し、最後の別れを惜しんで、「翁の旅を見送りて」と題し各人が俳句を読み合いました。

刈りこみし 麦の匂いや 宿の内   利牛
 麦畑や  出ぬけても猶  麦の中       野坡
 浦風や  むらがる蝿の  はなれぎは   岱水

これの返句として詠んだ俳句が句碑にあります。

麦の穗を  たよりにつかむ  別れかな 芭蕉

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 さすがに麦草が植えてあって、季節柄青々と育っていました。

 八丁畷というのは、高槻にも(京都にもあったうような)あって、その由来を調べているのですが、検索ではよく分かりません。川崎の八丁畷は、真直ぐに伸びた水田が八丁続いていたので八丁畷の地名になったとか、川崎宿から八丁あったのでそうなったとか、川崎宿から隣の市場までの区間八丁をそもそも畷と言い、道が田畑の中をまっすぐに伸びていたので、この地を八丁畷と呼ぶようになった、と書いてあるサイトがありました。
 高槻の八丁畷は、昔は、安満といったそうですが、地番変更により「八丁畷」という町名に変わったそうです。これは「八丁松原」という旧跡があって、これから命名されたのでしょう。八丁松原は、高槻城京口より西国街道まで八丁続いていた松の並木道です。

 句碑の背後には京急電車越しに赤レンガ造りの木の生えた土手があって、何だろうと思いましたが、あとで調べてみると、これはJR川崎駅から南武支線への川崎短絡線廃線跡だそうです。そういえば、地図をみると、JR川崎駅から湾曲してこのあたりをとおり、今のJR南武線に寄り添っていく痕跡が見られました。
 川崎短絡線は、明治の実業家「浅野総一郎」が鶴見、川崎沖合いの大規模な埋立事業を行い、埋立地への鉄道を国に願い出て敷設されたようです。浅野のセメント工場に、原料の石灰石を奥多摩から川崎駅経由で運んでいたようです。

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 東海道は八丁畷駅手前の踏み切りを渡ります。JRガー ド下の道端に、「人骨供養碑」と、なにやら恐ろしげなものがありました。朝から気持ちが悪いので、パス。あとで調べると、この付近で江戸時代から沢山の人骨が発見され、戦後になっても同じで、これは、江戸当時の川崎宿で、震災や火災、洪水の災害で亡くなった身元不明の人を、川崎宿の外れのこの辺にまとめて埋めたものだとのことでした。

【市場】
 このあたりの東海道はたしかにまっすぐです。しばらく行くと、道路沿いに風呂用品の専門店があり、もちろん木製の風呂桶やたらい、イスなどが飾ってありました。このごろ銭湯も少なくなったし、需要があるのかと思い ましたが、スーパー銭湯や温泉旅館などでは必要なんでしょうね?

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 途中、熊野神社がありました。樹木がなくて、およそ神社らしくないですが、表から見るより横から見るとどっしりした社で、なかなか風格があります。でも樹はあったほうがよい。5kumano0851

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 国常立尊が主神です。日本書紀では最初の、古事記でも 神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神とされています。あまり根源的だからか、記紀ともに、以降の具体的な説話はないようです。由緒によると、熊野から勧請されたようで、たしかに 、熊野速玉大社の第三殿には国常立尊がまつってありました。

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 このあたりは市場銀座といわれています。写真の鳥居と京 急・鶴見市場駅との間には商店街があるようです。この付近はかつては海辺で、魚介類、塩の収穫も多く、魚介の市が開かれており、市場と呼ばれるようになったといいます。 今はその面影はなく、海岸までは2~3km あるようです。

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 少し歩いたところには、市場一里塚がありました。日本橋より  5つ目の一里塚ですが、私は2つぐらいしか見ていない。それも跡地です。

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 案内板によると、街道の両側に5間四方(9m四 方)の塚を築造し、塚の上には榎が植えられてい たそうです。ここの一里塚は、現在左側のみが残されています。お稲荷さんの 祠のあたりがそうなのでしょうか?S1riduka

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 昭和初期までは榎の大木が繁茂していたとのことです。

【鶴見橋】
 市場を抜けると大きな橋が見えてきます。鶴見川橋とい って、平成9年に完成したそうですから、真新しいといってよいでしょう。

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 昔は(江戸時代ですが)、左岸の橋のたもとあたりは名勝の地として、絵や日記に残されていたそうです。また、「米饅頭」を売る店が軒を連ねて、鶴見の名物となっていました。今も、左岸の橋のたもとにはちょっとした芝生スペースが作ってあって、案内板がありました。タバコをすいながら案内を読んで、写真をとろうとすると、真向かいのアパートの窓が開き、住人がジロッと見るので、長居は無用と、橋を渡りました。近年 、どうもやりにくい世の中です。
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 昔はここが鶴見橋だったそうです。今、「鶴見橋」は下流の第一京浜国道の方になっています。

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 鶴見川橋を渡ると、直ぐ左に関門旧跡があります。安政 6年(1859年)横浜開港当時、神奈川奉行は外国人に危害を加えるのを防ぐために、横浜に入る者を厳しく取り締まるため、鶴見橋の袂と、神奈川台に関門が設けられました。関門は、橋際に往還幅四間(約7m)の幅で、杉材の角柱を立て、黒渋が塗られていたということです。

【鶴見神社】
 まもなく鶴見の市街にはいります。

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 昔、鶴見のホテルをよく利用したこともあり、どこか見覚え があったりして懐かしいです。交差点からこんもりした森が見えてきたので寄ってみました。

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 ここは鶴見神社といい、なかなか由緒ありそうな神社です。あとで調べてみると、もとは杉山大明神で、1400年前の推古天皇の時の創建といいますから、相当古いです。
 昭和37年、境内の富士塚の欅周辺(下記)より、弥生式後期から古墳時代を中心として鎌倉期に及ぶ、多数の祭りに使用された道具が発見され、推古天皇以前より神聖な地として、すでに祭祀が行われていたことが分かりました。

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 拝殿は白布を飾ってありきれいですが、本殿の金網は何と かしてほしいですね、工事中なんですかね。

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 その奥には、これまたフェンスで仕切られた一角があって、山が作ってあって山頂に祠がありました。鶴見神社のサイトを調べると、ここは、 鎌倉将軍源頼経が仁治二年(約75 0年前)、杉山大明神に参詣し「吾れの如く大きくなれ」と奉納したと伝えられる欅と富士塚だそうです。その欅は昭和37年に枯れたようで、もうありません。それにしても、こ の工事現場みないなのはなんとかならんですかね。  この神社のご祭神は、五十猛命 ( いたけるのみこと)です。別称、こだねの神で、御神徳は植林、生長の神、子供の守護神ということでした。

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 神奈備さんのHPをまとめると・・・・・
この神は樹木神・家屋の神とされ、高床式住居と共に持ち込まれ、紀州など照樹林文化の色濃いところでは人々に深く浸透したそうです。紀州への来訪神は海人に祀られ、須佐の男や熊野坐神として豊饒神や樹木神・舟の神として崇敬されました。さらに、紀州の海人は、鉄を入手する交易と先進文化の吸収が目的で、造船と航海技術を駆使し、九州や出雲やさらに半島との海人も行き来があったようです。
 五十猛命は伊豆半島にも出現、酒を愛し、民を栄えさせたと書かれています。酔っぱらって寝込んだ間に、周辺が火事になり、鳥が水を巻いて助けられる話が伝わっていて、これに懲りて酒を断って禁酒の神となっています。なんで禁酒やねん!とつっこみたくなりますが、これはなんだかほほえましい。豊饒神ということなのでしょう。山々に木種を播くのはまさに鳥の業で、鳥との関係で木を植えたり育てる神となっているのでしょう。
 神奈川県の鶴見川、雉子川等をさかのぼり、開拓・植林をおこなったとも書かれています。五十猛命をまつる神社はさすがに西日本それも日本海側や紀州におおく、関東には少ないでが、武蔵、特に神奈川県にはやたら多い、その神社名も杉山神社が圧倒的でした。
 この地に入植し開拓に従事した出雲族の人々が祈ったのが、樹木神・浮き宝の神・命の神としての五十猛命であったということができるでしょ
う。

 以上、神奈備さんのHPのダイジェストですが、たまたま訪れた鶴見神社でこんな発見ができたのは収穫でした。

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 また、この神社の特徴として、狛犬が岩(多分、溶岩)の上にのっています。こんなのは初めて見ました。富士山信仰と関りがあるのか。

 この神社の左前に梅干で有名であった「しがらき茶屋跡」があるようですが、見落としました。

(つづく)

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