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2007年12月16日 (日)

東海道ウォーク~平塚-二宮~

2007年9月24日


 もう夏は過ぎてしまいましたが、東海道ウォークの続きを。できれば小田原まで行きたいが少し遠いか?


 

【小間違い】
 6:30平塚駅前のホテル出発。平塚駅のロータリ ーをこしてすぐ、大きな道に出会いました。「←見附うんぬん」と看板がありましたが、思いこみとはおそろしいもので通り越してしまいました。前回、一号線は通っていなかったのは覚えていましたが、駅前の大通りのつきあたりの広い道を通ってきたものと思いこんでいました。実は看板の道が旧一号線で、突き当たりの道が(新)一号線なのでした。そこまでいってしまった。
 国道沿いには平塚八幡宮がありました。由緒を調べてみると、創祀は仁徳天皇の時代だそうです。

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 仁徳天皇の68年この地方に大地震があり、天皇が国土安穏を祈願して應神天皇の御神霊をお祀りしたのが創祀で、鶴峯山八幡宮といわれていました。推古の時代にもこの 地方に大地震があり、天皇は「鎮地大神」のご晨筆と新たに宮殿を造営しました。天武はこの地の税の2/3を寄進、文武は「天晴彦」の宝剣を奉納されたそうです。
 その後も朝廷の信頼厚く、また源頼朝や徳川家康によっても手厚い保護をうけたようです。
 明治6年、官により社名を八幡神社としましたが、それからは災難続きで、大正12年大震災の被害は大きく社殿も崩壊、昭和3年 御社殿は再建されましたが、昭和20年の空襲で全市崩壊状態になりました。昭和53年、国と神社本庁の承認を得て、再 び「平塚八幡宮」と改称し現在にいたります。
 鳥居の前には、大きく「横断禁止」の看板が。近くに横断歩道がないので、横断する人があとを絶たないのでしょう。なのでボクも参拝はやめにしました。

【みつけ】
 朝一番から国道歩きとはおもしろくないので、一本南の道を行くことにしました。「見附町」と道路表示があって、ここが見附か?八王子神社とか大鳥神社もありましたが、歩きはじめてエンジンがかかってきたところなのでパス。さらに、大きな神社らしいものあり、松林になっています。あとで地図をみるとお寺か?
 春日神社というのがありましたが、こどもとおばあさんが散歩していました。まだ7:00ですよ。
 まもなく新1号線に出ました。振替休日というのに、一膳めし屋がオープンしていました。分かっているなら来るのに。
 周辺は落ち着いた住宅街です。旧一号線の一つ北の通りは、比較的新しい住宅街ですが、庭の花や樹がうつくしいです。いってみたいような気になりましたが、民家の庭を覗くのもねえ、ということでやめました。

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 このあたりは古花水橋というようで、ここが京方見附です。旧1号線との出合いには案内碑がたっていました。古花水橋というのが気になって調べてみたのですが、平塚市の金丸さんの個人サイトによれば、
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 宝永4年1707 11月27日、富士山が大爆発を起こし、降灰が激しかったので、6年幕府の命を受けた松平豊後守宗俊によって花水川の新川が掘られ、旧流を古花水川と呼ぶようになった。伝説によると、建久の昔、源頼朝がこの川堤に花見に来て、川名を与えたと伝えられている。
 昔から平塚宿と大磯宿の境界は古花水川とされていた。古花水川は今は痕跡的な存在となっているが、橋すら姿を消してしまった。昭和49年7月、平塚ロータリークラブにより古花水川跡に「従是東東海道平塚宿」の碑が建てられた。
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 ということで、痕跡すらわかりませんでした。ともあれ写真のところが縁の地らしいです。

 さて本物の花水橋です(7:13)。下の川は花水川でなく金目川となっていたような気がしました。ここからは高麗山が目前に迫ります。ツインピークスの独立峰でいかにも神様が降臨しそうな山です。

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【高麗の里】
 橋をわたると高麗の里ですが、その昔、高麗若光が渡来したという伝説は有名です。続日本紀には、霊亀2年(716)に 「武蔵国高麗郡」 を新設する為、相模・武蔵・下野・駿河・など7ヶ国の高句麗人1799人を移した記事があり、大和 朝廷の先兵(派遣されたのか追いやられたのか、それは不明)としてこの地に入植した朝鮮渡来人(高句麗人)の開発した土地というのは確かなようです。唐ヶ原とうい地名もあります。
 ここから金氏が花水川をさかのぼってひらいたのが 金田や金目であり、秦氏が開拓したのが秦野盆地で、東へすすんだ八人秦氏が八幡の地名をのこし、相模川をわたって広大な相模野を開拓して高句麗とよむ高倉の郡名となった、 という説もありました。(Stray Reed Lab.)

 さて高来神社(7:21)です。元々は高麗寺(高麗権現社 )といったようです。神仏習合だったので、もともとはお寺で、明 治の神仏分離政策により現在は神社ですが、高来神社本殿(本堂?)をみるとお寺の感じはします。Imgp1834

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 案内図をみると相当広大な境内をもち大きなお寺だったことがうかがえます。

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 由来書によると、神武天皇の御代の開闢というから相当古い?ほんまかいなというところです。ご祭神は垂仁天皇の御代に
 神皇産霊神尊(かみむずび)
 天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎ)
が祀られ、後に(安閑天皇の時代)、応神天皇、神功皇后が合祀されたとありました。

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  また、応神天皇の御代には権現様が唐船にのって大磯に渡来され、この地を開発されたとあって(高来神社奉納木遣)、これは、日本書紀にある、天智5(666)10月条に高句
麗か ら来日した進調使「二位玄武若光」の記事をひいていて、東国の開発に携わった高麗王若光のことを言っているものと思われます。(本当か?引用元を失念しました)

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 ここには2本の同じ樹が合体した樹、とおもっていたら、「シイニッケイ」とあって、シイとニッケイが合体した樹だそうです。
  社殿脇の森には水神様も祀ってありました。

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【高麗山】
 7:34、高麗山に登りはじめました。

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高来神社の裏に案内板があって、男坂、女坂を選ぶようになっています。少しは楽そうな女坂を登りました。地図によると2つのピークの間の谷の中腹をトラバースするように登るようです。約20分で頂上にいけますが、さすがにしんどい。途中休み休み、下界の景色をみながら登りました。

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谷を横切るところあたりで大きな樹があり、キツツキかなにかがいるようです。リズミカルに、ココココココ・・・の繰返しで作業をしているようでした。

 最後の石段を登ると頂上です(7:55)。Imgp1870

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ちょっとした広場があっ て、上之宮造営所という小さな標識が立ててあり、ここが高麗権現社の跡のようでした。

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 小休止のあと、8:00下りはじめました。途中で男坂を下ることにしました が、これが最悪。道はよいのですが、 急坂が続き、ほんの10分程度ですが、降りきったときにはひざがガクガクでした。 昔の赤石岳の下りを思い出しました。(あれは半日かかりましたけど)

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【化粧坂】
 ガクガクになったひざをかばいながら歩きま す。なかな かス ピードウォークにはなりません。
 さて、化粧坂はピンクのアートギャラリの分岐から国道 を離れて右にはいります。

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 なかなか感じのよい旧街道になっています。季節がら曼珠沙華が美しい。振替休日のまだ朝8時過ぎなのでほとんど人通りがないです。

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 このあたりには「虎御前の化粧井戸」がありますが、なんか看板があったな、くらいで通過しました。さらに、「化粧坂一里塚跡」があって、ここも古地図入り説明板があったような気がしましたが見落としました。高さ1.8m程の塚ということ なので目には着きやすいと思いますが。

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 坂をさらに登っていくと右には広重の大磯の浮世絵看板があり、さらに行くと大磯八景の歌碑もありました。松並木も残っていて気持のよい街道歩きが楽しめます。膝さえ大丈夫なら・・・
 化粧坂を上りきると、旧街道はJR東海道線に突き当たります。横断地下道を通って東海道線をくぐり抜けると(8:27)・ ・・・また松並 木の道が続いていました。

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 まもなく一号線に合流します。

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 大磯の町に入って、ちょっと休みたいが喫茶店がありません。大磯図書館の登り道を少しいってみましたが、何もなしで、引き返しました。国道沿いを行きますがなかなかありませんね。海水浴発祥の地の碑もありましたが、パス。いろんなサイトにのっている著名な蒲鉾屋(明治11年創業の井上蒲鉾さん)もありましたが開店準備で、喫茶店が先決なのでパス。
 鴫立沢のところでやっぱり駅に行ってみるとにしました。9:00、やれやれ、大磯駅前の喫茶店でモーニングとあいなりました。¥550で結構いけました。

【鴫立庵】
 ゆったりと2度目の朝食をとり、ゆっくりタバコをすって9:25出発。少し引き返して、パスしてきた蒲鉾屋さん、少し引き返して裏通りの豆腐屋さんをのぞいてきました。買いたいが今日は無理です。一号線沿いには、新島譲終焉の地という記念碑もありました。

 せっかくなので、鴫立庵を見学します(9:35)鴫立庵というのは知らなかったのですが、300年程前から開かれ、代々俳諧師があとを継ぎ、現在22世といいうことでした。現庵主は女性で庭内の掃除をされていたのがその方です。入場料を払って、参加者のアンケートをとっているということで、どちらから、何歳ですか?と聞かれました。

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 なんで鴫立庵なのかということですが、西行の

 こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ

という歌から取ったようです。へぇー、鴫立沢というのはここなのか。厳密にはこことは言えるかどうか不明のようですが、この大磯付近で詠んだ歌であるのは動かしがたい口碑だとパンフレットには書いてありました。

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【こゆるぎ浜】
 大磯中学校の手前で海へ行ってみました(9:51)。
 国道1号のバイパス高速道路があって少々うるさい ですが、 自転車道路が併設されていてサイクリングや散歩しているひとがいました。

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 こゆるぎ海岸へ出たかったのですが、海岸にでる道が閉鎖してありました。どうも今年の台風被害らしいです。関西はそれほどでもなかったので気にも留めてませんでしたが、このあたりは相当被害があ ったようです。

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 こゆるぎ浜とは、小陶綾ノ浜と書くようです。鴫立沢の河口から旧吉田茂邸まで広がる浜。昔はよろぎ(余呂伎、余綾)とも書かれ、国府津までの海岸一帯も広く指していたということです。

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 ここで一たん国道へ。ここには立派な松並木があります。 約400年前に街道の改修のときに植えられたもので、幕府や藩主により保護されてきました。松並木が終わるころ樹脂で固めた切り株があり、看板によると樹齢217年のもので平成6年にマツクイムシ被害で切倒されたということでした。Ts3a0247

 滄浪閣とは旧伊藤博文邸です。現在は、大磯プリンスホテル別館の結婚式場&北京料理店になっていました。
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 ここからから再度海岸へ。滄浪閣と誰も居ない屋敷のお そ ろしそ うな場所の間を通る抜けました。海岸では魚釣りをしている人がいまし た。こゆるぎ浜は投げ釣りのメッカと呼ばれていて、昭和24年から白キス釣り大会が毎年行われているそうです。

【スピードウォーク】
 国道にもどる途中、国道に平行して走る住宅の間の道が、静かできれいに手入れした庭があって、ここを行きたかったのですが、休日 の午前でよその家の庭を覗く感じがしたので遠慮しておきました。

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 国道にもどって、スピードウォークに入ります。途中、血洗い川というあまり立ち寄りたくない場所をとおり、切り通しの所に出ました。ここには公園があってトイレ休憩(10:07)。タバコをゆっくりすいました。岡の上は城山公園となっていて大磯町の郷土資料館があるようですが、パス。
 旧東海道はここから山手のほうに入っていくようですが、ショートカットですぐに国道へ出ました。海岸は大磯ロングビーチで、昔テレビでスターなんとか水泳大会でよく出てきたところです。
 川を渡って登りに入ります。このあたりは国府本郷というよう です。向かいから年寄り夫婦が歩いてきて、大 磯方面に向かっていきました。東海道歩きでも人気のあるコースのようです。

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 大磯警察のまえではネズミとりしていました。山側には松並木が残っていて、その向うにもひとつ道があります。どうもこれが旧東海道のようでした。曼珠沙華がきれいです。

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 国府新宿で合流し、また国道をぶっとばすことになりました。

【六所神社】
 もうすぐ二宮かなと思っていると、赤い鳥居があって、六所  神社ということでしたが、神社はここから300mほど北にあり、途中地下道  でJRの線路をくぐっていきます。(10:45)

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 六所神社(ろくしょじんじゃ)という名称の神社はあちこちにあります。律令国の総社でその国の一宮から六宮までの祭神を勧請して総社としたことによるものだそうです。

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 由緒書によると、出雲の神様が移住させられたということです。
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(ダイジェスト)
 人皇十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの土地に氏族が移住せられ開墾改された。
そして、この地の地名を「柳田郷」と名付け彼らの祖神たる櫛稲田姫命様、須佐之男命様、大己貴尊様(大国主命)を守護神として石上台、又の名伊勢神台(当鎮座地北西一㎞の台地)に祀り社殿を結構(ゆいこう)し柳田大明神と称して地域の親睦発展は元より、子々孫々に到るまでの弥栄を祈願したのである。この柳田大明神が六所神社の旧名であり、御創建は崇神天皇甲申の歳といわれ、今から約2050年~2100年前です。

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 柳田大明神の御加護の元に氏族の人々は、心を一つに和して開墾開拓に辛苦努力重ねられ東国開発の基礎を固められ、又相模国の 形成に多大なる貢献をなされた。

 大化改新以来国司は、任国に着くと先づ神拝と言って国中の主たる神々を順拝し国幣を頒つ制であったが、順拝は大変な日数と費用と人員を要するため主たる神々の御分霊をあわせ祀る社、即ち総社を設ける習いとなった。
 相模国の場合、柳田大明神に、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚の八幡宮の分霊を合わせ祀り相模国総社の成立を見ました。又、六ヶ所の神社を合わせ祀る所から国府六所宮とも称されるようになった。
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 自転車で来ている母娘がいました。母娘でサイクリングを兼ねて神社まいりというのもなかなか良いと思います。
 10分ほどして退散。

【二宮】
 涼しいのはよいのですが、連日30度の温度に慣れた体には、涼しいを通りこして寒いくらいです。地球温暖化の変な影響。スピードウォークはしているのですが、体が冷えてきた感じがします。なにか温かいものを食べたいのですが、そんなに腹は減ってません。
 途中、夢庵(和食)、つづいて蕎麦屋(津軽なんとかいう)のがありましてパスしましたが、ちょっと心残り。郵便局を過ぎましたが食堂らしきものはなし。

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 とうとう二宮交差点まできてしまいました。歩道橋がいやなので横断歩道をL字に渡ります。1号線バイパスは通行止らしく、ここにも台風の影響がありました。

 とりあえず駅方面に向かいます。なんとか商店街があって なかなか古いたたずまいで結構な感じがします。
 11:35駅前の食堂で昼食とすることにしました。カレーを食べましたが、アジは気にしませんが、¥650にしてはちょっと貧相。ラーメンにすればよかった。
 12:00までゆっくりして、12:12の電車で平塚に戻りました。ちょっと早いですが、3時ころから明日の準備があるので会社に向かいます。

 

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2007/12/31:文章が途切れていたので追加。

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