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2008年5月 6日 (火)

東海道ウォーク 吉原-蒲原(2)

2008年1月20日(土)-2(雁堤-岩渕)



【雁堤】
 ゆっくり休んだので元気回復。柚木へ向かいます。
 途中、富士ホワイトホテルというのがあって、いかにも由緒正しそうな感じがしました。あとで調べてみると、駿河の大地主 松永家の邸宅跡だそうです。ロビーにパネル展示もあるそうですが、さすがにそこまでは見られない。詳しくはホテルのurlを見てください。http://www.fujiwhitehotel.com/matunagatei.html

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 旧道は車が少ないので歩きやすいですね。猿田彦大神の石塔もあったようですが写真はなし。このあたりが札の辻であったらしい。赤い屋根、赤い鳥居の稲荷神社があります。コンクリート製で機能優先のようでなんか味気ない。ペンキもはげてるし。
 柚木で旧道は東海道(県道)と合流します(11:04)。 そこにあるのが、天白神社でご祭神は保食神らしいです。保食神がご祭神の神社は私はあまり見たことがありません。写真には鳥居だけが見えています。
 身延線を過ぎて、とりあえずまっすぐ、県道から離れて小高い 丘を目指します。あそこが雁堤のはずです。真正面に立派なケヤキの樹が見えてきて、雁堤の守り神のような感じがします。(11:12)
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 ケヤキの麓には人柱供養搭と人柱になったという人をお祀りする護所神社がありました。

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 護所神社の階段を登りきるとパッと視界が開けて、堤の上に出ます。雁堤は西端の水神の森から岩本山実相寺にかけて、逆L字型に、全長2.7kmにもなる大堤防で、古郡重高、重政、重年の三代が富士川の洪水から 加島平野を守り、新田開発を進めるために築きました。
 元和年間(1615-24)に最初の堤防を重高が構築しましたが、万治3年(1660)大洪水で大半が流失し、重政が釜無川の信 玄堤を参考に再工事に着手、死後、重年に引継がれました。
 このとき富士川を渡ってきた千人目の旅人を人柱に建て神仏 にお願いすることにしたという伝説があります。千人目は巡礼夫婦で、その夫は役に立てるならばと人柱を引受け、生き埋めとなりました。その後、工事は順調に進み、延宝2年(1674)に完成しました。これにより加島平野は加島五千石と呼ばれる大肥沃地に発展しました。土地の人々は人柱の霊を神として祀り神社を建て以後毎年供養祭をしたということです。

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 雁堤の内側は、現在、雁公園として整備され市民の憩いの広 場になっています。

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 堤防の下にもお稲荷さんのような小さな神社があって行ってみようと思いましたが、あいにく工場の敷地のなかで、入口にはロープがはってありました。

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 ここから見える笠をかぶった富士山は圧巻でしたね(11:32)。 今日は温かくまずまずのお天気ですが、明日あたりは嵐になるかも分かりません。カミサンにメールしたら、「夕方から雪になるかも知れないので早く帰ってきて」と言ってました。

【水神社】
 雁堤を渡りきったところに水神ノ森・松岡水神社があります。正保3年(1646)古郡孫太夫重政が堤防普請の成功を祈って創建したということです。このあたりでデジカメの電池がなくなってきてケータイ頼みになってしまいました。(11:40)

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 ここには、常夜燈、富士川渡船場跡碑などがありました。その右には「富士山道」と彫られた道標があり、昔、西から来る登山客はここから富士登山に向かったようです。

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 富士川は慶長7年(1602)に渡船制度が定められ、岩本村と対岸の岩渕村の間の船渡しになりました。

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 富士川は昔から海道一の急流と言われ日本三大急流(他の2ツは最上川、球磨川)の一つです。南アルプスの甲斐駒ヶ岳を源流として流れ下っ てくるので、富士山の土砂とともに襲って きたらそれは大変でしょう。考えてみ ると、駿河国というのは温暖で風光明媚と思ってしまいますが、古来から富士山の噴火、地震、流れ下る暴れ川、大津波、台風による高潮と苦難続きだったように思います。そのため、元和年間から始め、万治、延宝と50年以上にわたって雁堤を築いてきた古郡氏や、天保の大飢饉(1836)やたび重なる水害で苦しむ農民を救済するため、冨士沼の大干拓を計画した増田平四郎、千本松原の植林を始めた 増誉上人など、治山治水に力を いれた 人が輩出してきたんだと思います。彼らのおかげで、東海道ウォークなど も楽しんでできるわけだ。

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 話は変わりますが、富士川というのは日本列島の裂け目である大地溝帯 (フォッサマグナ)上にあります。また、電力の50Hzと60Hzの境界、NHK総合チャンネルの1と2の境界らしいですね。

【岩渕河岸段丘】

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 橋を渡ると富士川町に入ります(11:50)。富士川の水害を逃れるため、旧道は河岸段丘の上を通ることになります。短いがかなりの急坂です。坂を登り左折すると間宿・岩渕です(12:00)。このあたりにはやたらと常夜燈があります。岩渕村は江戸初期には町並はなかったが増水による川止めで次第に賑わい大名の休息施設である小休(こやすみ)本陣も設けられました。
 小休本陣は、渡船名主の常盤弥兵衛が務めていたもので、建物は安政元年(1854年)の大地震の後に建て直されたものという。国の有形文化財に指定されている。

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 新豊院門前では湧き水がドウドウと流れていました。ここにも秋葉常夜燈がありました。

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 東海道が右に曲がっていく角に岩渕一里塚があります(12:13)。両側に塚が残り、それぞれ榎が植えられています。左の榎は昭和42年虫害で枯死したため昭和45年に植えられた2代目らしいです。2本の榎の間に富士山が見えるんですが、それにしても電柱ジャマ。電柱を外して富士山をアップでとってみました。

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 この地は岩渕村と中之郷村の村境で付近には名物の栗ノ粉餅を売る茶店が並んでいたようです。付近には富士川町立歴史民俗資料館があるようですが、パス。どうやら、榎の向うにみえるわら葺の屋根がそうのようです。

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 小学校を過ぎると道は南下をはじめます 。ここにも例の石造り の倉がありました(12:22)。ここまでき て、どうも 駿河国の共通点は自然災害に悩まされるということなので、それに対して頑丈な備えで石造りになっているんではないかと思えてきました。

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(つづく)

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コメント

saishiba さま
ご覧いただき,ありがとうございます。
写真ですか,構いませんけど。
連絡はどうしましょうかね?
アドレスをプロフィール欄に書いておくようにします。5/16に見てください。

投稿: walkin | 2009年5月15日 (金) 20時51分

はじめまして、私はある出版社に勤めている者です。
突然のご連絡でたいへん恐縮なのですが、ブログに
ご掲載のお写真を書籍に掲載させていただけないかと
思い、ご連絡させていただきました。

ご検討いただけるようでしたら詳細をご説明させて
いただきますので、お手数ですがご連絡先をお教え
いただければ幸いです。
まことに勝手ながら、どうぞよろしくお願いいたします。

投稿: saishiba | 2009年5月14日 (木) 12時31分

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