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2008年5月 2日 (金)

東海道ウォーク 元吉原-吉原

2007年12月1日(土)-3(つづき)




【元吉原】
 富士マリンプールのそばの防波堤上で休憩していて、デジカメの電池がそろそろなくなってきたので、ケータイカメラをメインにしようとして確認したら・・・あっ!マクロモードになっていました。ということは・・・今までケ ータイで撮った写真が全 部ピンぼけでした。とういうことで、松林の道がほとんどダメです。(12:22)

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より大きな地図で 東海道ウォーク(千本松原) を表示

 気を取り直して、付近の確認写真。

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 防波堤から降りる次の階段から東海道に戻ることにしました。
 ここはもう吉原です。元吉原小学校には校庭の向こう側に機関車のレリーフがある木造建物がありました。写真では遠くで分かりにくいかと思いますが、レリーフはかなり大がかりなもののようです。あとで調べてみると、ここはSL博物館になっていて、中には本物の蒸気機関車が静態保存されているとか?貴婦人C57のようです。見学には許可が必要とか非公開とか情報が入り乱れておりますが、見てみたい!ここの小学 生は幸せですね。隠れ鉄道ファンより。(12:35)

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http://www5.pf-x.net/~tamisan/Sharyou/22Sizuoka/2203Fuji/Fuji.html
に詳しい紹介があります。

 本吉小学校はちょっとした高台にあって、その下り坂から見る富士山の眺めは抜群でした。ますます、ここの小学生は幸せですね。

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 東海道にもどります。写真のような道が続きます。お昼を過ぎているので、けっこうお腹がすいてきました。食堂がないか、と探してはいるのですが、なかなかありません。1軒だけ料理旅館のようなのがありましたが、パス。
 元吉原という地名ですが、もともと吉原宿はこのあたりであったようで、その名残かと思います。
 しかし寛永16年(1639年)の高潮で跡形もなく流され、そのあと、中吉原に移りましたが、さらに延宝8年(1680年)にそこも被災し、現在の新吉原に移ったといいます。東海道が大 きく北へカーブしているのはそのためです。先程の小学校や、その近辺にある妙法寺・「鈴川の毘沙門天さん」は高台にあるのもそれが理由です。
 その妙法寺はインド、チベット、中国、日本風の建物が混在しているようで興味をそそられましたが、今回はパスって、再度くる気かいな?

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 2本の煙突が間近に見えてきました。日本製紙工場のようです。JRの踏切のそばには、またあの石造りの倉が。倉も立派ですが、その前の樹も立派です。(12:49)

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【左富士】
 江戸から京都に上る時は普通、右手の方に富士を見ながら行くんですが、吉原宿の北への移動のおかげ?で北向きの道ができ、今まで右手に見えていた富士山が、左に見えることになりました。たしかあと一ヶ所、茅ヶ崎にもありましたが、その時は富士山はみえずじまいでした。

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 名勝・左富士の標柱や、左富士神社、「銘酒・左富士」の看板のかかった酒屋さん、バス停さえも左富士と、なかなか力が入 りますが、結果は、お山は雲の中でした!雲がなければ写真の松の右手あたりに見えるはずなんですが。
名所スポットは数本の松と安藤広重の左富士版画を元にしたエッチング彫りの立派な標識、案内板が、小さな広場(決して広くはない)にあるだけでした。(13:15)

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 まもなくコンビニが現れ、その前の道端には馬頭観音の石標 と小さな祠がありました(きたない写真ですが)。

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 何かの本でよみましたが、世の中には不思議なこともある もんで、この世のある場所、例えば谷あいの道の崖ッぷちなどでは、人間にはもちろん見えないぽっかりあいた穴があって、そ こに落ちると人 はこの世に戻ってこれない。しかし、馬はそこが見えている。荷役等で使われている馬はこういう場所に来るとときどき、馬子にその危険を知らせるために、自らその穴に落ちてしまうことがあるのだそうです。それを供養するために、その橋に馬頭観音を祀るようになったのだとか・・・。とすれば、このあたりにも?その場所は、車のびゅんびゅんとおる道端で、この場所こそ危険がいっぱいの「穴」の場 所なのかもしれません。
 馬頭観音は六道世界の内、畜生界救済にあたる菩薩とされます。馬頭観音は6~7世紀ごろ日本に伝えられ、8世紀には奈良の大安寺などで馬頭観音像が造られていたようです。鎌 倉時代の武家社会では馬は貴重で戦闘にかり出されたので馬頭観音信仰は盛んになり、江戸時代には家畜の守護神、旅の道中の安全を守る菩薩として路傍や田舎のはずれなど に石仏馬頭観音像が置かれるようになりました。

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 すぐに川(和田川)を渡るようになり、この橋が平家越え橋です。橋詰には平家越碑がありました。この碑は、1180年(治承4年)富士川の合戦で源氏軍と対峙し、富士川と浮島沼に陣取った平家の大軍が、水鳥の羽ばたきに驚き退却したという故事をを記念して1924年(大正13年)に建立されたものということでした。

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 平家越碑の前には「根本食堂」と大きく看板を掲げた店がありましたが、どうやらお休みのようでした。(13:22)

 まもなく吉原本町の市街地が見えてきました。その手前にある蕎麦屋さんに入って大休止・昼食。結構暑かったので、やっぱりビールとなって、本日はここでウォーク終了とあいなりました。(13:30~14:05)

【赤ガエル・青ガエル】
 岳南鉄道が道を横切っており、そこに吉原本町の駅がありました。このあたりが江戸時代の後期の吉原宿のあったところです。移転後の新しい吉原宿です。

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 吉原本町の駅のホームからは民家の屋根越しに富士山が見えました。

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 岳南鉄道は「吉原」と「岳南江尾」を結んでいる単線の鉄道で、かわいらしい電車が走っていました。調べてみると、「日本車輌標準車体」と呼ばれる、昭和期に幾つかの地方鉄道で採用された共通設計の電車だそうです。オレンジ色とグリーン色の2種をみました。

 なんでも鉄道ファンからは、青ガエル、赤ガエルとして親し まれているようです。

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 赤ガエルは、元・京王井の頭線からやってきた車両で、実は2代目らしいです。先代の車両は、元・東急で、いま渋谷駅前に展示されている車両 と同じらしい(渋谷は行かないので見たことありませんが・・・)です。それはグリーンの車体で大きな2枚窓を目に見たてたことから「青ガエル 」 で、それが岳南鉄道にやってきて、赤く塗られたた め「赤ガエル」となったようです。
 14:40ころの電車を待つ約30分のあいだ、古い駅舎を見てまわりました。駅員さんは女性が一人、切符、改札、新聞かなにかの荷物の運び込みなど、一人でテキパキこなしていました。岳南江尾行きの電車が2台ほど通り過ぎましたが、吉原行きは出た後でした。

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 うーん、こういう電車や駅舎を見ていると血がさわぎますなあ。帰りに乗った電車はステンレスボディでしたが、フロントを赤ガエルに塗ってありました。この会社もこだわりがあるんだね。

 ちなみに、終点・JR吉原の駅からも富士山が見えました。またパチリ。(14:49)

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 これから沼津まで行ってホテルで荷物を受け取り、帰ります。沼津から静岡まで車窓から富士川のあたりを観察しておくつもりです。

(ひとまず終り)

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