東海道ウォーク 蒲原-由比
電車で蒲原に向かいます。ちょうどきた電車に飛び乗ったら興津止まりでした。ブラブラと約20分、次の電車を待ちます。やれやれ。駅のホーム(東京より)からはお山の頭が辛うじて見えました。真っ白だ。反対側下りホームに目 をやると、なにやら記念碑 が。馬琴桜と読めます。後で調べたら、興津は六代目宝井馬琴の出身地でした。こういう発見も電車間違いのハプニングがあってこそです。
さて蒲原再訪です。駅横の倉庫の壁もいい感じ。新蒲原の駅 前には漁 船がかざってありました。白の船でさくら丸。写真をとっ たら白が飛んでしまった。3月初めとはいえ、かなり日差しがまぶしいですね。今日は特に暖かくて春間近を感じさせます。
恒例のモーニングとて、駅近辺を喫茶店を探しましたが、土曜の朝9時ではそんなキノキイタものはありませんでした。駅前のMAXVALUEもまだあいてないし・・・
駅から東に少し歩いて、適当なところで線路を渡り(くぐり)宿場通りに行くとします。線路の南側からはお山の頭が見えます。この角度で
は宿場通りからはみえないはずですね。何か得した気分。まもなく見慣れたでっかい取水パイプが出現、ここにちょうど線路をくぐる道がありました。
誰も通っていない街道。あとで写真を見てみると、たまたま、前回撮った風景と写真と同じ場所で写真を撮っていました。ただし逆方向。
前回は気がつかなかった馬頭観音を道端に見 つけました。なんでもお米屋さんの主人が整備しておられ、写真等の展示もあるようです。街道・宿場をわがことのように大事にしておられる気持が伝わってきます。
ナマコ壁の佐野家(蒲原の案内マップでは佐藤家となっているのだが??)、山側には八坂神社があるようです。
そうそう、後日蒲原宿のパンフを見ていたら折り返しの中のページに マップがありました。今ごろ気がついてどうする。それによると,山側には 神社やお寺がたくさんあるようですが、後のまつり。それに今回は前にもらったそのマップを持ってきていないという・・・まだこの時間では案内所やお店も開いていない。事前準備はゆめゆめ怠らないように。
本陣跡の佐藤家(これも案内マップの通り)はひと目でそれと分かる門構え,つくりです。少し行くと立派な洋館がありました。(旧)五十嵐歯科医院。レトロと言っ てしまえばそうなのですが、それはステレオタイプの表現というもので、当 時はさぞハイカラであったろう、そのハイカラさが今にも通じる感じがします。色もgood(写真では白飛びですが)。ハイカラさの中に落ち着きを感じます。この家は蒲原町が買い取って公開されているようですが、時間が時間なので開いており ませんでした。
誰もいないのですいすい行ってしまい、早くも西木戸にきてしまいました。どうもこれだけ誰もいないと,あちこち覗いてまわりにくい。休日の朝で、現役の民家なので余計にそうです。写真もバシバシとるのをためらってしまいます。そんな訳で,どうもフラストレーションの残る蒲原宿散策でありました。
【和歌宮神社】
さてこれから由比に向かいますが、まだ車がすくなくて国道歩きでもよいのですが、おもしろくないので1本山側の道と行ったり来たりすることにしました。
国道から引き返していくとそこに和歌宮神社がありました。何の気 なしに行ったんですが、ご祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメニミコト)と,なんと山部赤人ということです。
由緒書きによると,(一部はげていて読み にくいが・・・)コノハナサクヤヒメそっちのけで,冒頭からあの有名な歌がのっています。
草創
田子の浦ゆ うちい出てみれば真白にぞ
富士の高嶺に雪は降りける
奈良朝時代(724年),歌仙山部赤人東道に際し,当蒲原宿吹上の浜より富士山を望みて反歌を詠ぜらる。この因縁をもってここに一社を建立 和歌の宮と称し また富士を歌題とせし縁故により富士浅間木花開耶姫命を祭り浅間と奉称せり。
と、このようなことで,どう読んでも赤人メインのような気がします。昔は 赤人像や諸々の歴史資料もあったそうですが、武田信玄と北条新三郎との蒲原城の合戦のおり蒲原城の落城とともに全部焼失したそうです。
田子の浦がどこかという話題ですが、「赤人が富士賛歌を詠んだのは蒲原の七難坂あたりである」と明治歌人土屋文明が断定したことと,続日本紀には「葦原郡多胡浦浜に黄金を獲てこれを献ず」とあることから,田子の浦は富士市ではなく蒲原の多胡浦浜すなわち,吹上付近の浜であると、静岡県史では結論づけているようです。私も赤人と蒲原町に敬意を表し。その説に従おうと思います。田子の浦は蒲原・吹上浜だ!
なお,赤人の富士賛歌の長歌は
―山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首、また短歌
天地の わかれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる
富士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば わたる日の
かげもかくろひ 照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける
語り継ぎ 言い継ぎゆかん 富士の高嶺は
ときて反歌・・・・となる訳です。
注)字句は和歌宮神社由緒によりました
改行位置は?すみません,分かりませんので適当に切りました。
和歌宮神社では毎年10月に「御輿渡御行列」の神事が行われるそうです。これは「東方の要が岡、即ち富士山の見ゆる所まで御輿を出し,そこで富士山に向かいて扉を開き御輿をひっくり返す」行事です(和歌宮神社由緒書パンフより)。このことは,赤人の“田子の浦ゆ・・・”の反歌から来ていると言われています。昔、古文で習ったように、“ゆ”は“~から”“~を通って”という意味なので、“田子の浦ゆ”は「田子の浦を通って富士山が見えるところまで出た」という意味になります。この位置関係が「御輿渡御行列」のありさまをよく現わしています。一方、富士の田子の浦からは、富士山は真正面にずっとみえているんではないですか。
東海道へ戻り、ロードピッチでどんどん進みます。このあたりにもい かにも旧家らしい家が道路沿いに点々としています。
小さい川を渡るとまもなく市民センターにようなものが見えてきました。図書館もあります。実はこのあたりからケータイで写真を撮ったはずなのですが、由比宿までの写真が撮れていませんでした。撮ったけど整理しなかったのか?なので、いつどこを通ったのかが不祥。
図書館を過ぎでまもなく山側の道をいったような気がします。蒲原駅も近いはずですが、そこは通っておりません。山側の道路沿いには大きな水工場(美山名水)があったのを記憶しています。そこから少し行って小川に沿って東海道に戻ったことも覚えています。そこに古い大きな樹があって写真を撮ったような。その写真がないのです。
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2009/2/3:清酒正雪の部分は、あきらかに「由比」の記事なので、 蒲原-興津(2) に移動しました。(Walkin)
(つづく)
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