細切れ道草・東高野街道(2) 四辻-郡津
2009年3月7日 その3
【四辻】
このままでは工場地区に突入するので四つ辻のバス道で元の府道に帰りました。このバス道は何回となく通りましたが,歩いてみると,車がびゅんびゅんきて歩きにくいこと!すぐに府道18号に出て,ここは歩道があ るので助かります。
写真は仕事でお世話になった(お世話したとはとても言えない)日本精線さん。ここは枚方の日本精線さん。枚岡にもありまして,こちらは日本製線さん。あーややこし。「エー,にほんせいせんですが・・・」という電話を受けたときなど,話がつながらないことが多々ありました。
より大きな地図で 東高野街道1 を表示
ほぼ直線の道をひたすら歩きます。パン工場,水道局・村野浄水場と続いて出鼻橋にいたります。
【郡津茶屋】
出鼻橋南詰から交野市郡津にはいり,旧街道がやや復活です。
郡津には当時,街道茶屋が設けられていて,にぎやかだったといいます。今でも上茶屋,下茶屋という名前が残っています。以前ここを歩いたことがあるので,そのページも見てください。この先,京阪交野線を渡ったところに郡津を通る東高野街 道と郡津茶屋の説明板がありました。
交野に入るとクドクド書くことはありません。「星のまち交野」のサイト(※1)を見ていただければ全部解決。それほど充実したサイトで,ボクもいつも参照させてもらってます。その中の,交野古文化同好会のページ「交野歴史健康ウォーク 2007.5.12 第82回東高野街道を歩く その1 」をダイジェストさせていただくと,
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古
代、律令時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙が設けられ,私市から枚方まででとれた年貢米を郡司が、この倉山の倉におさめて管理してい
た。その郡衙に入る所に門があり郡門「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改
められた。
また,郡津の村は環濠集落と言われていて、防御策として溜池、長池などが利用された。台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。
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とあります。たしかに周囲より少し高いところを街道が通っていて
集落が発達しており,あちこちに溜め池もありました。往時はにぎやかな通りだったようです
が,いまはひっそりとした村の中の道です。
【交野条里制】
郡津の街道が終る頃に石標があって,古代天野川地方條里 区■五條■(あとの方判読困難)とありました。
班田収授法 による条里制の五条で,天野川流域では一條が私市・天田の宮の下になります。交野条里制の解説も「星のまち交野 7.田圃の歴史」にあります。最後の季節はずれの写真は私市・天田の宮の下,一條あたりの現在の田んぼです。正面に鳥居が見えますが,あこそから左(西)へのラインがほぼ一條のラインです。
※1:http://murata35.chicappa.jp/index.html
(つづく)
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