細切れ道草・東高野街道(1) 八幡女郎花-八幡
八幡市の地名は,□□○○という並びになっていて分かりやすいというか,昔の地名を残し
たままより広域の地名をかぶせているようです。例えば,さっきの男山泉,男山八望。他に目をやれば,橋本塩釜,八幡大芝,八幡平田,戸津中代,戸津北戸津
は無理からルールを踏襲したか?八幡でなくても大住や,樟葉のあたりでも習っているようです。八幡馬場,八幡園内,八幡浜,八幡五反田,川口馬屋尻,八幡
柳畑,下奈良出垣内,下奈良一丁田,内里砂畑,内里古溜池・・・・昔そこがどんなだったか,とても分かりやすい地名です。八幡市になる前は,八幡町ナント
カと言ったんでしょう。今は,例えば八幡市八幡清水井・・・。この付けかたもなかなかよろしいと思います。
地名といえば,八幡にはなかなか魅力
的な地名があります。八幡女郎花,八幡月夜田,八幡水珀。八幡女郎花には悲しいお話しが残っています。能楽にある話で,昔,男山に住んでいた小野頼風と深
い関係にあった女が,彼の足が遠のいた事を嘆き入水。それを知った頼風も後追い自殺をします。さまよっていたふたりの霊が旅の僧のおかげで成仏し,あの世
で結ばれるというものなのですが,女が入水の脱ぎ捨てた衣から女郎花が咲いたことから,女を供養する塚(今は松花堂庭園にある)が女郎花塚と呼ばれたとい
うことでした。それにしても美しい名前を付けたものだと思います。
おもしろいのは,八幡名残,戸津蜻蛉尻。名残・・・岩清水八幡宮を参拝したあと名残を惜しんだか?蜻蛉尻とはいったいどうして付けたんでしょうか!?
【八角堂】
男山美桜のさくら近隣公園から目の前の丘に大きなお堂
が
見えます。八角堂です。これは正八角形でなく四角形の四隅を切り取った「隅切り八角」で,岩清水八幡宮の伝統を受け継いでいる珍しいものだそうです。
お堂はもと男山西谷にあったそうですが,明治元年の神仏分離令が出たときに,正法寺住職が八幡宮からお堂・仏像とも迎え入れ,ここに移したものだそうです。現在は正法寺のお
堂のひとつで,本尊阿弥陀如来が安置されているので,阿弥陀堂ともいいます。詳しくはY.Koyamaさんの「八幡散策」のサイトをご覧ください。このサイトは(多分)自作の美しいスケッチが多用されていて,写真よりも八幡にあった味が感じられます。内容もかなり足で稼いだ深いものになっていてとても読み応えがあります。
「八幡散策」:http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/burari00.html
八角堂は朱塗りですが,あんばい良く色が抜けていて落ち 着いた感じがします。隣にある地蔵堂?は新しいものらしくまだまだ落ち着かないです。
後で気がつきましたが,案内板によると,この低い丘は西 車塚古墳でした。お堂の前,竹垣で囲まれた中に「車塚」の石碑と「母泥之河阿治佐波毘売命御墓参考地」の碑がありました。はて,母泥之河阿治佐波毘売命とは?
調べてみると,古事記にありました。開化天皇が丸邇(わに)の臣の祖先,日子国意祁都(ひこくにおけつ)の命の妹,意祁都比売(おけつひめ)命を娶ってお
生みになった子が日子坐(ひこいます)の王で,その日子坐の王が,その母(祁都比売)の妹の遠祁都比売(をけつひめ)命(ああ,ややこし!)娶ってお生み
になった子が,山代の大筒木の真若(やましろのおほつつきのまわか)の王で,その山代の大筒木の真若の王が,同母弟,伊理泥の王の娘の,丹波の阿治佐波毘売(あぢさはびめ)を娶ってお生みになった子が,迦邇米雷(かにめいかづち)の王であると。
ちなみに,迦邇米雷王が丹波の遠津臣(とほつおみ)
の娘,名前は高材比売(たかきひめ)を娶ってお生みになった子は,息長の宿禰(おきながのすくね)の王で,息長宿禰王がが葛城の高額比売(たかぬかひめ)
を娶ってお生みになった子は,息長帯比売(おきながたらしひめ)命ということです。系図もですが,これで合ってるかな?自信ありません。
朱塗りの地蔵堂には大きなお地蔵さんが鎮座していますが,その横には竹炭の「無人販売」がありました。1袋100円。横においてあったチラシをもらって見てみると,「22世紀八幡ルネッサンス運動」(略称:八幡ルネ)という街づくりのボランティ ア団体が制作しているようでした。八幡ルネは,なんで もゴミ拾いから始めて,八角堂の整備,八幡の竹を活かした竹炭づくり,ゴミ・土砂回収・アルミ缶回収などの環境活動も行い,色々なイベントの企画・実施も されているようです。竹炭は作りすぎて余っているそうな。それはともかく,地道な環境活動から街づくりを目指されているようで,なかなか足腰の強い活動で あると思いました。
境内には「大峯山 九十度供養■(?読めない)常木 他力本願」と彫られた碑(慶應三年)もあり,見所の多いところでした。
【三宅安兵衛碑】
そうそう,忘れてならないのは八角堂へ上がる入口のところにあった案内石碑です。
再び、Y.Koyamaさんの「八幡散策」のサイトからですが,京都
に三宅安兵衛
(1842年~1920年)という人がいました。彼は若狭小浜で生れ,幕末の京都へ奉公の後,京都で帯織物業を営み,一代で財をなしました。死の前年,長
男清治郎氏を呼び,金1万円を渡して「公利公益に使え。用途は一任する」と遺言したと伝えられます。その清治郎氏は旧蹟案内と道標の建碑を決め,1913
年(大正12年)から1930年(昭和5年)の8年間にわたって,南山城一帯を中心に,当時京都帝国大学教授であった浜田青陵博士(考古学)の協力を得
て,全数400基におよぶ建碑を実行したそうです。工事費用総額は2万円(現在の価値にすると約
1億円)に達したということで,安兵衛さんもエライが,遺志をうけきちんとやりきる清治郎さんも相当なものです。ここにある碑はその三宅碑なのでした。
八幡市内には,後半の4年間を費し,道標69基,その他旧蹟碑を含めると120余基の建立があったということです。その八幡市内の道標を丹念に訪ね歩いて
まとめておられるのがY.Koyamaさんのサイトなのでした。まだまだ不明な碑もあるようで,今後も調査を行い,「不明碑」を減らしていきたいと考えて
おられます。
八角堂にちなんで,八幡ルネの活動といい,Y.Koyamaさん
の活動といい,八幡というところはなかなか足腰の強い方々がいらっしることが分かりました。これは大収穫。近くにすんでいながら知りませんでした。こういうことは歩いてこそ分かる。
さて街道に戻ります。この界隈は古い家もあり,新しく建 て 替えられた家もありで,街道らしいまだまだ落ち着いた風情が残っています。
途中,肉屋さんの前でいきなり「京街道・・」という石碑が現れて,はて京街道?橋本から八幡・御幸橋を渡って淀へ行くのが京街道のハズなのに,と思っていると,なるほど,「ここをまっすぐいけば京街道だよ」と教える道標であると理解しました。これも三宅碑の一つです。
【街道の思い出】
この街道は狭い道幅ながらバスが通ります。ここのバスには大昔・小学校の時分にのったことがあるのを思いだいました。それは京都のおじい
さんに連れられて木津川にハスつりに行ったときでした。たしかここを通ったはず。志水とか戸津,内里という地名を覚えていますので,途中から東高野街道を
離れて行ったと思います。どのあたりの木津川に着いたのか覚えてませんが,おそらく岩田とか上津屋あたりにいったのではないかと?その時は木津川はまだ清
流で,八幡には水泳場があったくらいです。
目的はハスで,一般に言うハス(これも俗称ですが,通称ハヤとかハエとかいう。一般名はオイカワ,京
都のおじいさんはハイジャコと言ってました)とは違い,琵琶湖水系にしかいないという魚のハスです。ハイジャコよりもっと大型で,従ってヒキがよいので
す。初めての流し釣りでしたが,一時間ちょっとして・・・釣れたのです!!たしかにすごい引きで,テグスが切れるか竿が折れるかと思ったくらいでした。お
じいさんに手伝ってもらって,やっとつり上げ(引き上げ)まし た。30cm位あったと思います。子供の目だったので一層大きく見えたのかも分かりません。おじいさんは,数は多いもののハイジャコばかりだったので,鼻高々だったのを覚えています。この経験があって,川釣り大好きになったのはいうまで
もありません。
街道は 北へ,安心院,正法寺,九品寺と由緒ありそうなお寺が続きます。正法寺に少し立ち寄ってみまし たが大きなお寺 で写真だけとって退散しました。
神原の交差点から本街道は一本東の道を通 るようです が,私は直進しました,このあたり,古いお屋敷・町屋が残っていて落ち着いたたたずまいです。少したわんだ屋根を持つ倉もなかなかの味だと思います。
【相槌神社】
男山が迫ってきて,ようやく八幡の街に入ります。
少し後戻りして,八幡宮参拝の下り道まで行ってみました。10年程前までは,初詣といえば岩清水八幡宮でした。行きは大鳥居を
越えた所から坂を登っていくメインのルートで行って,もと来た道を降りて鳥居を通らず直に街に降りるエスケープルートを通るか,北側のケーブルカー横の細いみちを降りるのが常でした。あとになって横着をしてケーブルカーで降りたりもしましたが・・・・
その下りエスケープルートの降り口まで宿場風街並が続いています。初詣ではこの道もとにかく前に進だけでブラブラしにくいのですが
,今は誰も歩いて
いない,ブラブラし放題です。
石段の前には神社と井戸があって,神社は「相槌神社」,井戸は八 幡五水の一つ「山ノ井戸」というそうです。
はて,相槌とは・・・と,その時は考えても分からなかったのですが,相槌の語源は,そもそも鍛冶屋さんが二人して鎚をうつときの「トッテンカン・トッテ ンカン」という協働作業からきているのでした。たしかに,相槌神社の鳥居の額には,社名の上に「三条/小鍛冶」という小さな文字が刻まれていました。
岩清水八幡宮のサイト(http://www.iwashimizu.or.jp/5/g/1
7/) によると,そもそも,この神社は八幡宮の末社で,江戸末期以来,長い間地元町民の自主的な管理に任されていたという事情もあって,いつしか八幡宮とは別の神社として扱われるようになったということでした。
この三条小鍛冶とは,平安時代の中頃に京都三条で活躍した刀工,宗近のことで,謡曲「小鍛冶」では,一条天皇(在位986~1011)の勅命を受けた宗近が,稲荷神の化身である童子と共に槌を打ち,名刀を作り上げたという話になっています。相槌神社に祀られているのは,この相槌を打った稲荷神であり,またこの時,宗近が刀鍛冶に用いた水は,その傍らにある「山ノ井戸」の水であったといいます。
八幡神はそもそもが渡来系の秦氏一族の信奉する神であり,鍛治神でもあります。稲荷神は深草の秦氏族(秦伊呂具)が祀る神様ですね。こう考えると,鍛治神の流れである八幡宮の境内に末社として相槌神社(稲荷神を祀る)があるのもうなずけるところです。
さて八幡といえば,走井餅ですね。初詣の帰りには, 必ずこのお餅をと駅前の露天のどんぐりアメを買って帰ったものでした。久しぶりの走井餅だと喜び勇んで行くと,あらら!定休日でした!!
何ということでしょうか!行いが良くないのか?
より大きな地図で 東高野街道1 を表示
(第1話おわり)
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※画像が大きすぎましたが面倒なので修正は後日。
2014/8/18:レイアウト、画像修正
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