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2009年5月21日 (木)

細切れ道草・東高野街道(3) 忍ヶ丘-寺川

2009年3月17日 その2



【歴史民俗資料館】
 ここから忍ヶ丘まで電車に乗るんです。横着ではなくて ,四條畷までは既に(※)歩いていますので。ただ,忍ヶ丘-四條畷は旧街道よりも山側の道を歩いたんで,今回やり直しです。特に四條畷市立の歴史民俗資料館をのぞくのが第1の目的です。

※東高野街道ウォーク【四條畷編】
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2005/10/post_a614.html

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より大きな地図で 東高野街道2 を表示

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 忍ヶ丘駅前東南には公園がスタートです。案内板もあるのでルートを確認します。北堀橋-三徳稲荷と過ぎて,市民総合センターに来ました。ここでタバコ休憩。

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 四條畷というと,普通,JR四條畷駅あたりが中心と思うので すが,そこは大東市なのです。このあたり中野が中心で,むしろ忍ヶ丘のほうが近いですね。市民総合センターは昔の甲可小学校の跡地だそうで,それで四條畷 育英の地という標柱が建っているのでした。付近には,明治7年中野屯所に始まる四條畷警察の発祥地・中野派出所,四條畷唯一の石橋と言われる三坪橋など, 見所もありますが道を探していて写真撮るのを忘れました 。

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 三坪橋を渡ると小道は俄然街道の風情をしてきました。と思うと国道163にあたり,その下をくぐります。まもなく民俗資料館です。

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 ここは電車のなかから見えるので,一度行ってみたいと思っていました。行ってみるとなかなかの展示物です。係の老婦人が丁寧に説明してくれます。かつ無料!行った当時は,雁屋遺跡から出たという弥生時代の男性人骨が展示されていました。ほとんど全身 がかなりきれいに残っています。まるでミイラかと思いました。この男性の子孫が日本海地域と交流をもっていたということです。また,かなり大きな木棺の展示もありました。展示は特別展中心にやっているので時によって変るということでした。

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 この四條畷あたりは近畿地方でもっともはやく稲作をやっていたということです(四條畷市/寝屋川市にまたがる讃良郡条里遺跡)。古墳時代に入ると,この地一帯が馬飼場(牧場)だったそうです。馬は、 古代社会では、軍事や運輸、通信の要ですが,日本には元々生息しておらず、古墳時代に朝鮮半島からの渡来人 により持ち込まれ繁殖させられました。古代河内湖と生駒山系とに囲まれた北河内の牧場で、馬が飼育され、大王に献上されたり,軍に徴用されたりしたと考え られています。資料館でもらった歴史散策マップをみると,馬に関する遺跡がやたらありました。北河内の馬飼部首荒籠が男大迹王の即位に一役かったのも,こ の馬をベースにした力がものを言ったのだと思います。
 四條畷というと,大体,楠正行を思うのが普通ですが,それ よりも,馬飼部の本拠地である,これはボクにとって大きな発見でした。

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 資料館には,明治40年に建てられた土蔵造り2階建(もとは裁判所の出張所の建物)の民俗展示室があって,昭和30年代まで使われていた農機具が展示されていました。昔,実際に使ったものもあって懐かしかったです。
四條畷市立歴史民俗資料館公式サイト:http://www.city.shijonawate.lg.jp/shijonawate/ta/rekimin/

【路地徘徊】
  資料館を過ぎると,旧街道はすぐに府道に合流します。合流点には(伝)和田賢秀の墓がありました。和田賢秀とは楠正行のいとこで,家臣ですが,四條畷の戦 いで正行が討ち死にした後,一人で敵将・高師直の首を討とうとしましたが果たせず、敵に首をはねられました。この首が敵の喉に噛みついて離れなかったと言われ、以来賢秀は、「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受けたということですが・・・・ちょっと気持の悪さが先に立ちます。そうそうにパス。

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 ここから府道歩きですが,道が狭いうえに歩道が確保されてなくて,車がびゅんびゅん通るので,実際危いです。あまりゆっくりできません。四條畷駅前までとにかく我慢して歩きます。

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 駅前まで歩いて,さすがにいやになったんで,府道に沿って路地を歩くことにしました。これがなかなかおもしろい。ときどき府道に戻って現在地を確認しないとどこにいくか分かりません,この不安定さがおもしろいのです。

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 府道にもまだまだ渋い建物が残っています。こういうのを見 つけるのもおもしろさの一つです。
 路地歩きには失敗もありまして,大きな農家を見つけて,ここなら快適に歩けそうと思って行った行き止まりだったとか,あります。このときは 旧街道と反対側へ行ったため,旧街道を逃がしてしまい,結局府道歩きを,野崎まで続けてしまいました。
 ここで,お昼も過ぎたので駅前まで行って喫茶店を探して昼食 としました。

【野崎まいり】
 野崎まいりは昔行ったので,今回しませんでしたが,この駅前からの参道もかなり変わってきているようで,なにか普通の駅前通りになっていました。以前はもっと,参道らしい土産物屋や露店がたくさんあったような気がします。

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 野崎まいりというと,桂春團冶の落語ですね。また,「♪野崎まいりは 屋形船でまいいろー♪」という東海林太郎さんの「野崎小唄」。五月の一日から十日間が野崎まいりのピーク, 即ち,野崎観音・慈眼寺の「無縁経法要」です。これに大阪からは,寝屋川を屋形船で行ったり,特庵堤を歩い ていったりするわけですが,水陸双方,相手に悪態をつきながら,やいやい言って道中を進める噺です。ただでさえ陽気な連中が,初夏の陽気に誘われて,さら に陽気になって,負けじと悪態をつく訳ですがどこか抜けている,そういうウキウキ気分があふれた落語です。ボクの好きな落語のひとつです。
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 日本には、この三詣りと申しまして、関西には有名なお詣りが三つございます。一つは京都祇園さんのおけら詣り。もう一つは讃岐の金毘羅さんは鞘橋の行交い。いま一つは大阪の野崎詣り。
 ここは五月の一日から十日間というものは大勢のお詣りで、大変賑わいます。ここにございました、われわれ同様といういう気性の合うた2人。野崎詣りをしようと、大阪を東へ東へ、片町も過ぎへかかりますと、主従無礼講。その道中の陽気なこと・・・

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てな調子で噺が始まります。(野崎観音公式サイト:http://www.nozakikannon.or.jp/)

参考までに,大東市のサイトから:http://www.masse.or.jp/~jichiosaka/backnumber/pdf17-4/20054p01.pdf
世紀末亭さんのサイト:http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug124.htm

【街道復帰】
 野崎観音・慈眼寺の山門前で旧街道に入りました。

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 ここからほぼ真っ直ぐ,街道が南下していきます。山手には臍の王神社とか宝頭神社とかおもしろそうな神社もあるんですが,今回はパス。

 この街道,古いものと新しいもの(建物)が混在して  いてなかなか楽しめる街道歩きでし た。

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 旧街道を出て府道に合流したところは寺川というところで,大阪産業大学,大阪桐蔭高校が集まっているキャンパスゾーンになっていました。街道はここを突っ切っていきます。

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(つづく)

 

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