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2009年5月22日 (金)

細切れ道草・東高野街道(3) 中垣内-日下

                       2009年3月17日 その3


【須波麻神社】
 府道170号を歩きますが,すぐにおもしろくなくなってきた ので,例によって路地ブラはじめました。生駒カレッジハウスの次の筋を東へ入ったはずなんですが,覚えていない。地図には書きましたがどこをどう通ったか自信なし。ぐちゃぐちゃ角を曲った気がする。

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より大きな地図で 東高野街道2 を表示

 確認のため府道にもどろうとしました。と,そこに,須波麻神社の石燈篭と標柱。名前から気になってきたので,調べてみました。

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 阜嵐健さんのサイト「延喜式神社の調査」によると,
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 【延喜式神名帳】須波麻神社 鍬靱 河内国 讃良郡鎮座
 【祭神】大国主命。度会氏『神名帳考証』木神
 この地は一万年以前から河内湾→河内潟→河内湖と変貌をとげた低地であり、八~九世紀ごろはまだ湿地帯であつた。
河内湖が縮少しても、なおこの地域には新開池、深野池などの大きな池が残り、この神社のすぐ西はそうした池の水辺になつていたと思われる。そのために水辺に祀られた神として渚濱(すはま)に位置してゐたことから、社名になつたものと考えられる。
 祭神は木霊との伝承もあり、当社の西南5kmに彌生時代の前期~後期につづく瓜生堂の彌生期大遺跡があり、こ木棺や、大量の農耕用木製品が検出され、そうし た木製品の原料がここれらの大量の樹木の供給地が、このあたりの生駒西麓にあるものと推察され、そうした伐採の木霊を鎭める祭祀場として、古代人から継承 された地と考えると、木神を祀つているこの神社の初源が推量できるものと思われる。

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http://www.geocities.jp/engisiki/kawachi/html/040701-01.html

  神社がやたら山に近いところにあるのはそういうことか。以前,四條畷のある神社(忘れた)の秋祭りを地元のケーブルTVでみたんですが,なんと,巨大な白 木の丸太が御輿そのものだったのでびっくりしました。どうやらこのあたり一帯,材木の供給地だったことはうなずける,古代,このあたりすぐそばまで河内湖 だったらしいので,樟で船なども作ったんではないかと思います。木神を祀るっているのもなるほどと思いました。いつか行ってみたいと思います。

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【生駒の石】
 須波麻神社の標柱からすぐ西で府道に合流しそうだったので ,引き返して適当なところの路地を入って南下を進めました。なんだ!すぐに阪奈道路にあたってしまいました。しかたがないので府道にもどります。ここからは東大阪市になります。

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 善根寺2丁目に入る交差点で,石燈篭とともに,その向かい 側の民家の軒下に一里松跡の碑を見つけました。一里塚?山側へ行くと春日神社に行くようです。そして,日下直越。

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 このあたり,石屋さんが多い。ガイドブックを見ていたら,先程の須波麻神社のあたりには大坂城築城の際の石切り場があったようで,「残り石」も残っているようです。ちなみに,石切という地名は石切神社からで,石きり場の由来ではな いようです。石屋さんの店先には新しく作った「一休さん?」の像がありま した。本物の箒を両手で持って,ほう,これはかわいい。

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 府道歩きも飽きたので(すぐに飽きる),日下に入るあたりからまた路地へ入り込みました。山裾まではかなり遠く,際限な登りそうなのですぐに右折。孔舎衙(くさか)小学校のそばの道を南下していきます。また石屋さんがありました。さすがに石の街だとおもう。正面(東)には生駒山が見えます。

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【日下の戦い】
 このあたりは日下といいます。
 東征中のカムヤマトイワレヒコ軍(神武軍)とニギハヤヒ・ナガスネヒコ軍が戦ったところです(言い切ってますが・・・まあ,いいでしょう)。出航の年から数えて5年、非常に潮の流れが速い 難波津をやっとの思いで通過してへろへろになった神武軍は正面突破を図ろうとしたようで,生駒の孔舎衙坂で戦いになりました。

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 当時は淀川流域の枚方あたりから南は日下あたりまでが潟湖(河内湖)だったようで,この状態は、少なくとも仁徳朝時代まで続いたとされています。水際は今歩いている所よりもっと山のほうだろうと思います。縄文時代後期から晩期の集落跡である日下貝塚が孔舎衙(くさか)東小学校の南側といいますから,そこからすぐ東は急に生駒山が壁のように立ちはだかっています。こんなところで正面突破作戦とは!山に隠れてゲリラ戦をやられたらにっちもさっちもいかなくなると思います。現地を眺めて(遠くからですが)みてよくわかりマス。

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 最初は河内湖の水際での戦いだと思っていたのですが,神奈備さんのサイトを見ていると,神武軍もかなり山奥まで肉薄していたようです。それにニギハヤヒ山とか哮峰まで書いてありました!
 日下の東方山腹、標高240mあたりの尾根の突端部に,「神武天皇顕彰碑」があって,ここは、尾根道をとおる日下直越のルートでもあります。このあたりで激戦があった模様です。から大こ のとき,痛手を負った五瀬命が傷を洗った?という「龍の口霊泉」はもう少し北東に降りた沢にあります。見てきたようですが,まだ行ってません。神奈備さん のサイト等からマッピングをしましたので,載せておきます(製作途上です)。今度行くため用でもあります。ハイキングルートになっているようなので地図も あると思います。しらべておきます。
 なお,石切神社の公式サイトでは,孔舎衙坂で神武軍と長髄彦の激戦があって,それは現在の石切霊園のあたりという説明がありました。ちなみに,近鉄の元のトンネルの入口にあった駅は,公式的には孔舎衛(くさえ)坂駅で孔舎衙坂駅という標記は間違いだということでした。ややこし。

http://kamnavi.jp/jm/kusaka.htm

 ここが激戦区か!と,思いながら日下の坂を登ったり降りたりしておりました。もうすぐ石切です。と思っていると,こんなものが。公園で もないようなのですが,生えていたのを切ったのか,立てたのか?この大木どうするんでしょうか?

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(つづく)
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09/05/21:地名の訂正
14/08/19:レイアウト訂正

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