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2009年5月30日 (土)

細切れ道草・東高野街道(4) 堅下-安堂

                      2009年4月 5日 その4



 食事をしながら足の調子をみましたが,やっぱり大きなマメが。今日は安堂までで終りにします。ウォーキングシューズを新調しなければ・・・
 足マッサージをしながら地図を見ていると,あれ?ここは国道170号かいな?横(西)に外環が走っていて,そこが170号確か府道のハズだが?どのあたりから国道になったん? しかしどうせ車道は歩かないのでいいですけど。

より大きな地図で 東高野街道3 を表示

【ペアの神様】
 食事の後,またすぐ脇道を行くことにしました。

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 川沿いに歩いていくと大きなお寺があって,そこから南 下する道がありました。そこを入ったすぐそばに若倭彦(わかやまとひこ)神社というのがありました。500m北の山裾にある若倭姫神社とペアになる神社の ようです。ここは,平野地区の産土神で建筒草命ならびに若倭彦命を祀っているそうで,そもそも,6世紀の頃この地で大いに繁栄した若倭部の連がその祖神を お祀りしたものと考えられています。であろう。建筒草命は饒速日尊の五 世の孫にあたるそうで,多治比連,津守連,若倭部連,葛木厨直の祖でとなっています。

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 神社の向かい側には山車保存庫がありました。ここに限らず河内一帯は祭になると山車がねり歩くのが普通になっているようで,どこの町(ムラ)でも集会所や作業所のような共同施設にはこのような山車保存庫をよく見ました。

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 少し行くと南下する道は行き止まりになって,適当にぐちゃぐ ちゃと曲って行きます。
 大きな神社の前にでて,ここは,鐸比古命鐸比売神社というようですが,読めない!あまり聞いたことがない神社です。「なでひこなでひめ」と読むようで,神社縁起によると,創建は 成務天皇二十一年(151年)とされています。ご祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり,記紀では「沼滞別命」「鐸石別命」ともいわれています。

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 ここには奥の院もあって,鐸比古命は,そこに高尾大明神といわれて祀られていたのをこちらに移したということでした。鐸比売命は,この背後の高尾山山麓・姫山に祀られ,比売御 前と呼ばれていて,雨乞いの勅願所となっていたということです。

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 この神社は背後にそびえる高尾山(標高:278m)を神体山・磐座としていて,高尾山頂上には巨大な岩場と巨岩があるようです。
 なお,鐸比古命は 和気清麻呂の遠祖で,岡山の和気神社は,この神社の分霊を祀っており,鐸比古命を祭神とするのは 日本全国でもここと和気神社のみとされています。どうりで見かけないハズだ。
 立派な神社でした。お庭で少し休憩をさせていただきました。

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 この先の山腹を行く道を中学生くらいの5ー6人が歩いてい きました。次の曲り・ぶどう畑の端っこのところで山道を登っていきましたが,そこは階段が整備されていて,高尾山に登る道のようです。高尾山一帯は高尾山創造の森が整備されています。

【柏原ワイン】
 羽曳野や柏原は,丘陵地を利用して多くのぶどう畑が存在します。羽曳野のワインは飲んだことがありますが,ここのはまだ。いつか飲んでみたいものです。

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 ぶどう畑にマンションが入り込んだ形で,都市化の中,醸造環境が変わったりして,やっていけるんだろうか?と心配になってきましたが,柏原のカタシモワイナリーの社長ブログを見るかぎり,経営も元気なようです。国道 から工場も見えました。(倉庫か)
 ここでは,ワイナリー見学(試飲つき)のイベントがあるようです。件の社長ブログ※によると,月に1~2回,大体は午後14:00から約1時間半~2時間。天気しだいでぶどう畑の見 学もできる。費用はお一人様 1000円(試飲ワイン代込)。
 この記事を書いている5月末,「ぶどう畑ではいよいよ本格的にぶどうの花が咲き始めました。香り漂う畑はこの季節ならではです!」ということなので,楽しい見学ができそうです。これは行ってみなければ・・・
※:http://blog.livedoor.jp/katashimowinery/

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【住宅化の波】
 ぶどう畑を侵食しつつある状況ですが,マンションが多い です。天王寺または難波に約30分の距離なのでベッドタウン化が著しいようです。地図をみていると,マンションの名前は横文字がやたら多い。

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 ハイツフレグランス,
 フローラルコート。
 ジョイネス柏原,
 ルネアルマーニ,
 ドーマシャンテ,
 メゾンデュポルテマイヨ(あー読みにくい)
 おもしろいのは
 バンブー離宮,
 プラム離宮
ぶどうにちなんだものは,1つありました。グレープハイツ○○○
 ま,名前はいいんですけど,そのたたずまいが当地の環境になじむように作っていただきたいものです。

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【中 甚兵衛】

 近鉄安堂駅を過ぎて川の方に行ってみました。ここは 大和川 と石川の合流点であり,なによりも大和川付け替えの起点になった所です。大和川というと,昔は大阪一(ということは,日本一)汚れた川であって,南海電車で大和川鉄橋を渡るごとに「ああこれがあの汚い大和川か」と思ったものです。関係者の名誉のために言っておくと,今はかなりキレイです。

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 市役所横の三叉路のところに,大和川治水記念公園があり まし た。案内板と記念碑がずらっと並んでいて,その中にひとつにブロンズ像がありました。新大和川の方を向いて指をさしています。この人が中 甚兵衛です。

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 大和川の歴史や,付け替え工事については,大和川河川事務所(国交省)のサイト※1,柏原市のサイト※2 に分か りやすく書かれています。私もここで勉強させていただきました。

※1:http://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/yamato300/index.html
※2:http://www.city.kashiwara.osaka.jp/jichisuishin/yamatogawa/yamatogawa.htm

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 中 甚兵衛はこの付け替え工事に活躍した人です。甚兵衛については,和菓子屋・松一さんのサイト「中甚兵衛ものがたり」※3に,これまた分かりやすく尊敬の念を込めて書かれています。

※3:http://www.jinbei-matsuichi.com/naka_jinbei/index.html#no_1

 中 甚兵衛は今の東大阪の庄屋さん家に生まれた人で,旧大和川(そして河内湖名残の湿地帯)の洪水に悩まされてきたうちの一人です。
 この地の人は,古代から何度も洪水にあい,古代大和政権 もその後の幕府政権も治水に取り組んできました。
 あの和気清麻呂も,大和川の一部を,今の天王寺公園の南側に通して大阪湾へ流そうと計画しましたが,失敗。また,江戸時代には,河村瑞賢が安治川の改修・大和川の浚渫・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画,3年がかりで改修工事を行いましたが,完成後2年連続で大洪水が起こり失敗に終りました。
 徳川幕府は,新川計画地住民の強硬な反対や,河村瑞賢の成功(一時的であった)もあって,一時は付け替えはしないという方針に決めました。それを,先頭を切って,粘り強く交渉,意見具申をつづけ,転換させたのが,中 甚兵衛でした。甚兵衛が父と一緒にはじめて江戸に行ったのは19才で,念願かなって大和川のつけかえが決まったとき(1703年)には,もう65才になっていました。幕府の政策転換まで46年間もかかったことになります。
 甚兵衛だけでなく幕府官僚も最大限の努力をしたようです。堤奉行の万年長十郎(1647~1715)は,甚兵衛を何度も呼びつけては意見を聞き,幕府に伝えました。実現可能なプランを練っていったといいことでしょう。幕府自体も年貢収入が前提になっていたとはいえ,付替費用分の補てん(新川沿線住民の保証や工事による稲作中断期間の年貢免除など),工事への諸藩の動員など ,やるべきことはやったと思います。その結果,付け替え工事は8ヶ月足らずというすごい短期間で終りました。

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 この付け替え工事は,その後の河内の数百年に影響を及ぼすことになるのでした。その時歴史は動いた!
 工事の結果,旧大和川水系で新田開発が盛んになりました 。中甚兵衛をはじめ,数多くの人々が新田開発に取り組みましたが,このうち,最大は,大坂の両替商,鴻池善右衛門宗利が開発した鴻池新田でした。これは典 型的な町人請負新田として知られていて,今でも地名として残っていますし,その鴻池新田には会所の建物も残っていますね。

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 近世の新田は,開発者によって,代官見立新田,藩営新田, 土豪見立新田,町人請負新田,村請新田などがあり,旧大和川の河川敷では,町人請負,寺院請負,農民寄合請負などによって開発されました。八尾の「安中新田」で紹介したとおりです。
  新田は砂地が主であったため,主に綿が栽培されました。河内国の農村で織られた木綿は,「河内木綿」として知られ,組合組織もでき,江戸末期にはマニュ ファクチャー(工場制手工業)が展開するほどになりました。また肥料のため,蝦夷地から北廻船を通じてニシンが大量に運びこまれたことも知られています。
  明治の殖産興業政策のひとつであった紡績産業において,明治10年ごろから大阪や奈良にも近代的な紡績工場ができました。河内では,綿実油や菜種油の伝統 から生まれた製油業においても近代的な工場ができました。これは誰も言ってないようですが,この油を利用して塗料の原料(油)が作られ,海軍工廠の需要も あったことから塗料工業が関西から発展していったと思っているんですが・・・
 明治になると,農作物の栽培種も変わっていきました。明治初期,安 価な外国産の綿が輸入されるようになり,国内での綿づくりは一時衰えました。政府は国内の産業を保護するために品種改良を行うなどで巻き返そうとしました が,明治29(1896)年,「輸入綿花及羊毛海関税免除法案」が成立したことから,国内での綿づくりの衰退は決定的となったのでした。
 河内では,綿の代わりにブドウやミカンなどの果樹,菊・ナシ・イモ・野菜類などが栽培されるようになりました。ここに河内ワインのルーツもあるようです。綿が売れなくなって「なんとかせんといかん」とひねり出した一つがぶどうだったとか・・・
 そして今,付け替えによってできた新田,農地が住宅や商業・工業施設になってしまいました。

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 以上,駆け足で大和川付け替えとその後を見てきましたが,確実に社会が変わって行ったことが見て取れます。そのトリガになったのが中 甚兵衛であったという訳です。こういう人こそ八尾歴史民俗資料館のいう「いちびり 」という人間なんでしょう。河内ぶどうや河内ワインを初めて作った人も含めて,生半可なことではできない,物狂いの人だったと思います。関西の地盤沈下が言われて久しいですが,甚兵衛像を見ながら,こういう「いちびり」が必要なんだと真剣に思いました。
 うまく話がつながったようで・・・

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(第4話おわり)

 

 

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