細切れ道草・東高野街道(2) 茄子作-星田
街道は今の市境に沿っていて,写真の住宅の右側を通ります。茄子作というところです。右手にはお気に入りのケーキ屋さん。(ラーメン屋の向こう側のベージュの建物です)ここのは安くておいしい!
茄子作[なすづくり]の由来というのが前から気になっていたので,この際調べてみました。枚方市のサイト,「あんなとここんなとこ」※1のページには,
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昔、
村が茄子の名産地だったことから、あるいは、高貴な方が村でとれた茄子を食し、おいしいと感動したという話から茄子をつくる村としたというのが一説。ま
た、平安時代、惟喬親王の狩猟用の鷹につける名鈴[なすず]をつくらされた村が名鈴作村で、いつの間にか茄子作村となったという説もあります。
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と,2説が紹介されていました。しかしどの説も確かな根拠はな いということでした。
※1:http://www.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/gikai/files/annatoko/annatoko%20konnatoko%20sono11.pdf
【上ん山の辻】
現在,交野市-枚方市では,第2京 阪道路およびそのアクセ
ス道路の建設真っ最中です。古街道もそこに吸収されてしまいます。このパーマ屋さんも立ち退 きになるのか?
なおも新しい住宅地の中の細いみちをゆるやかに登っていきます。この丘は 「上人松」とか「上ん山」とか言われています。先程のアクセス道路は左手にみえる作業小屋の向うを通っていて,ちょうどそこは山根街道の通っていたところで,山根街道も完全に消失する模様ですね。
上ん山の坂を登る途中に「本尊掛松遺跡大念 仏寺」の道標と大きい地蔵様があります。このあたりの詳しいことは先程の「星のまち交野」サ イト※2を見てほしいのですが,ここには「上人松」伝説があって,念仏踊り発祥の地と 言われています。2005年に撮った写真(ケータイデジカメなので小さめにしてます)があるので比較して見てほしいですが,当時は住宅建設の真っ最中でし た。今はすっかり住宅に囲まれたスポットになっていて,きれいに整備はされていますが,なだまだこなれていないと思います。
上ん山を登り切ると小さなお地蔵さんと道標があります。ここは上ん山の辻で,東高野街道と山根街道の分岐点です。車の横腹が写っている 写真の右が山根街道,左は今来た東高野街道で,「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」と 彫ってあります。南側の小さい道標には「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってありました。
2005年当時は車の置いてあるところはさら地になっていまして,それ以前は鉄工所のような建物が建っていました。きれいに整備はされてきていますが,もう少しやりようがあるような・・・・
※2:http://murata35.chicappa.jp/index.html
「星のまち交野」によると,この付近には「上の山遺跡」があります。それはコーナン近くの第2京阪工事現場です。これまでの調査で、旧石器時代から中世ま での遺構や遺物が見つかっており,弥生時代中期前半(今から約2,200年前)の大型掘立柱建物が発掘されました。建物は段丘の最頂部(標高29m)にあ たり、見晴らしがよい場所らしいですが,現在は埋め戻され分かりません。第一工事で立ち入れないです。ちなみに,枚方,交野の天野川周辺は遺跡だらけと いってよいほど古墳やそれ以前の遺跡が数多くあります。
【緑たつ道はどうなるのか?】
ここから先,街道はコーナンの看板の先,府道を突っ切っ
てまっすぐいくんですが,今は第2京阪の工事で通れません。多分第2京阪が完成すると跡形もなく消えるのではないかと思います。第2京阪のキャッチフレーズは「緑たつ道」ということですが,工事が終れば周辺きれいに整備されるかも知れません。が,キレイのし方が古街道にあうんだろうか?と心配になっています。合理性はよいとして,古街道もなにもかもリセットした上でのキレイ
サは御免こうむりたい気 がします。
古街道は現在のコーナンの所から府道から離れて,昔は,しばらく農園の中をのんびり通る道であったのが,今は,住宅地の中を道になっています。その道もしばらく行くと,工場に突き当たってそこで消えています。ただ,生活道路は工場を迂回して工場の東側に続 いていますが・・・・ 仕方がないので,府道を南下します。
工事中の第2京阪をくぐると枚方市から再び交野市に入ります。だいぶん歩くと,旧臨港製鉄工場のほぼ真中あたりから,クロネコヤマトの前あたりに古街道が出てくるはずな んですが,今は工場の塀で仕切られています。街道は府道を横切って,星田共同墓地の入口にあるお地蔵さんの脇を通って,工場の間をすリ抜けていきます。
2005年にはここは草ボウボウで通る気がしませんでした。その後,星田の墓地管理者の方がきれいに整備してくださったようです。
【星田の道・明暗】
街道は大きなアパートのそばをすり抜けて,香里園に 向かう広い道にでます。この広い道は日中戦争~太平洋戦争中,星田駅から,今の香里団地にあった陸軍造兵廠の香里製造所がに火薬物資を運ぶ軍用線があった ところです。地図をみると一目瞭然なんですが,やや細い道が湾曲して広い通りに合流しています。駅前の田んぼの中には境界票が残されているようですが,ボクは確認していません。
香里は、人家が少なく山と谷がはっきりしていて誘爆を防ぐ
地形であることから選ばれたそうで,土地を強制買収し、1939(昭和14)年末には火薬製造が始まったそうです。恐ろしい話ですが,火薬製造所は戦後に閉鎖,朝鮮戦争後は一転して香里団地造成への転用が始まっていったそうです。
http://www.shoai.ne.jp/hirakata/meisyou/011113/011113.html
http://homepage2.nifty.com/t-nakayama/haisen/hirakata/hirakata.htm
古街道の方は,田んぼの中を通っていきます。このあたり, 歩い たときは両側は畑で玉ねぎが育っていました。また市民農園もされているようで,まことにのどかな田園風景が拡がっていました。
ここには一里塚跡があって, 標柱がたっております。それはいいんですが,その後ろの空き地がいけない。空き地は仕方がないにしてもゴミ捨て場になってしまっています。夏には草が生い 茂るので気がつかなかったんですが,今はマル分かり。
日本人は村外れにものを捨てる習性があるようで,昔,どの村にも?共同のゴミ捨て場(今で言う不燃粗大ゴミ)がありました。公認というより,住民あうんの呼吸での相互承諾みたいな形で進行していたと思います。その頃は粗大ゴミを僅かであったの で,なん とかオーバーフローせずにうやむやで済んでいたが,いまはそうはいきません。その習性だけが継続さ れていて,ここは捨ててもいいもんだ,という感覚になってしまっていると思います。
2日目のウォークの終りにちょっと嫌なものを見,そんな話題で 終るのもなんですが,これが現実です。今後の戒めという意味でこれでこの回を終りたいと思います。
(第2日おわり)
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