細切れ道草・東高野街道(1) 番外 鏡伝道-男山
2009年3月2日 (番外) 樟葉・鏡伝道-八幡・男山
東高野街道が気になっています。
家の近くを通っていることと,昨年お墓を建立し,うちは真言宗(高野山)なので,近くの真言宗のお寺に法要をお願いしたところ,ご住職は東寺系ということでした。東寺から高野山への巡礼の道のひとつが東高野街道なのです。それは巡礼だけでなく南北幹線であり,軍事の道でもあります。もっと昔は河内湖東岸を行く幹線であったようです。
そんな訳で,まず八幡から高野山まで歩いてみようという気になりました。古い道なので古いものの痕跡がたくさんありそうですが,都市化によっ破壊されていく,その様子を見てみたいと・・・
能書きはともかく,歩いてみます。但し,通しでなく細切れです。かつ,道草ありということで。
【鏡伝道】
イキナリ番外の道草ですが・・・3月2日,確定申告で枚方税務署に行ったあと楠葉に向かいました。確定申告は待ち時間10分,精査は数分で終って,だいぶ返ってきそうです。
それはともかく,以前,楠葉から男山,招堤田近へ東高野街道をさがしに,いきあたりばったりで行ったとき,樟葉駅から東へ走っているくずはアベニューの楠葉美咲のバス停あたりから北に入る閑静な道があって,「鏡伝道」という看板がありました。秋口で家の垣根に花が咲き乱れており,狭い小道ですが静かな散歩道だったように思います。まずはそこへいってみたい。
鏡伝道とは,鏡でも伝わってきた道なんかと思ったら,枚方市が愛称公募によって決めた名前らしいです。ちなみに,「くずはアベニュー」も枚方市の公募名だそうな。
鏡伝道の入り口に行ってみると,なんだ,普通の住宅街の道でした。道なりにまっすぐいくと,池につきあたり,それは鏡伝池という大きな池でした。 鏡伝道はこの池の名前から来ているようです。池一帯はきれいに整備されていて市民の森となっていて,きちんとした公園管理事務所もあります。この市民の森 には,花の森,郷土の森,せせらぎの森,緑化植物見本園などに分け,花や植物が植えられていま す。ちょうど管理の人が旬を過ぎた菜の花を植え替えをやっているところでした。
北河内地域文化誌「まんだ」76号によると(Nobkさんのサイト:http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch-lit/kyouden.htmからの引用),
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①この池は,もともと「鏡池」と呼ばれていたらしい。
②各地にある「鏡池」あるいは「鏡ケ池」は,鏡を池に投げ入れて水の霊に祈願する祭祀がおこなわれたので,その名が付けられたものもある。楠葉のこの池も,水霊祭祀に関するものであることも考えられた。
③付近一帯は平安時代に貴族の遊猟地としても著名で,昔は鷹狩りの後,澄んだ池の水に鷹の姿を映して見せるのが例であり,この池でも,そのようなことが行われたために,鏡池と呼ばれたのだとも云われた。
④この池は古来,月の名所とされていた。続古今和歌集の巻第十八雑歌中に藤原実経の歌が収められている。
「くもらじな 真澄の鏡 影そうる 楠葉の宮の はるの夜の月」
⑤昭和58年~60年に現地の発掘調査が行われたが,祭祀に関する遺物は全く出土せず,13世紀以降に,段丘の台地に刻み込まれた谷形の地形の出口
に,堤防を築いて作った潅漑用の用水池であると見受けられた。これらのことから考えると,鏡池と云う名は,池の水がとりわけ澄んでいたことから名付けられ
たものと単純に考えた方がよいと思われる。
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ということなんですが,やはり,鏡伝池は鏡のように
澄み切った水をもつ月の名所だったことはまちがいないでしょう。水霊祭祀の遺跡はなくとも,潅漑ため池であったとしても,向背の丘陵に貴船神社があるよう
に,もともと清らかな水の湧くこの地に水の霊が居ると信じられていたことは否定できないと思います。そういう神聖な地であったから,交野天神社があり,ま
た継体天皇即位の地,楠葉の宮跡であると伝えられているのでしょう。
【交野天神社】
鏡伝池の北側に楠葉中学校があり,その奥に交野天神社の森が 広がっています。交野天神社は,「かたのあまつかみのやしろ」と読みます。いかにも古そうな読み方です。鏡伝道はこの傍を通って丘の上のほうに行っています。
入口には楠葉宮奮跡と桓武天皇が先帝 ,光仁天皇を祀ったとの石碑がありました。
交野天神社の社伝によれば,延暦六年(787年),桓武天皇が長岡京の南郊に郊祀壇を設けて,御父光仁天皇を天神として祀ったのが起源といい,近隣の春日神社と天満神社を合祀しています。周囲は閑静な住宅地なんですが,鳥 居から奥はうっそうとした森に包まれ,閑静な住宅地からさらに隔絶された恐ろしいほど静かな空間でした。ほんの数十メール先は住宅地なんですがね。
途中,一の鳥居をぐぐったすぐの所に七福神と金毘羅大権現・不動明王の石碑があり,そのまえに変ったものがありました。手水鉢なんですかね?
本殿は朱塗り・桧皮葺のかわいらしいお社で す。なんでも一間社流造というようです。拝殿の格子のすき間からみたのと斜め横から見た のでは感じがちがいました。斜め横からみるとたいそう大きなお社に見 えました。
【(伝)楠葉宮跡】
本殿の右奥に「貴船神社,楠葉の宮跡」の看板があり,薄暗い道をたどっていくと,高台に貴船神社のこじんまりした社がありました。
現地の説明板に は「貴船神社は村の産土神で穂掛神社とも呼ばれていた。元は現在の天神社(交野天神社鳥居前) の所にあったものを,宮跡に移したと伝承されている」とあります。ご祭神は高龗神(たかおかみ)で継体天皇が合祀されています。高龗神 というのは,日本書紀の一書では伊邪那岐神が迦具土神を斬って生じた三柱の神の うちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしています。龗は龍の古語であり,龍は水や雨を司る神として信仰されていたのは周知のことですね。
ここが男大迹王が507年に即位された(伝)楠葉宮です。この場所を永久に記録するためこの社が祀られたと言います。男大迹王とは,後の継体天皇で,オオドのおおきみ(ヲホド?)と読みます。古事記には,袁本杼命(ヲホド),『日本書紀』には男大迹王(おおど のおおきみ)とあります。他の書き方もあるようですが・・・
継体天皇は即位して5年間樟葉で過ごした後,都を山背国の筒城(つつき)に移し,次いで6年後には山背国の弟国(乙訓:おとくに)に遷都します。ようやく即位から20年たって,大和国,磐余の玉穂宮に入るのでした。
樟葉宮での即位は大和政権中央豪族である大伴金村,物部麁鹿火,許勢男子(おひと)らにより要請されたのですが,即位あたっては,北河内に強く継体天皇擁
立を推す有力集団がいたと推測されています。例えば息長氏や物部氏。息長氏は元々近江の北東部(坂田のあたり)を基盤としますが,実は北河内から綴喜郡に
かけても居住していたと言われています。物部氏はすぐ南の交野のあたり(や河内湖周辺?)が地盤ですね。北河内の馬飼部首荒籠が即位をしぶる男大迹王の説
得工作にあたったことは記紀にも書かれています。このあたりの記述は文春文庫「謎の大王継体天皇」水谷千秋著 を参考にしました。他に専門のサイトもやた
らあるので検索してみてください。
ちなみに,第二の都・筒城宮跡は、木津川を遡った左岸の高台・田辺市多々羅都谷にあり、今は同志社大学田辺キャンパスになっていて,第三の都・弟国宮跡は長岡京の乙訓寺付近であるそうな。ここも一度行ってみよう。
継体天皇の大和入城前の3宮跡を現在の地図で見てみると,それぞれ水運の要所を押さえているのが見て取れます。樟葉宮は淀川を
遡ってきて三川が合流する場所(というより,大きな巨椋池があった※)を押さえている。樟葉には淀川の渡河点があったそうです。筒城宮は木津川水系を押さ
え,大和への入口を掌握しています。また弟国宮は桂川水系をおさえるのに格好の場所ではないでしょうか。と同時に大和から何かあった場合(継体の大和入城
の抵抗勢力は葛城氏であったのではないかと,上記水谷本には書いてある)にもすぐに近江や日本海側にエスケープはできそうです。
継体の地盤は
元々近江,越前ですが,即位から磐余の玉穂宮に移る20年の間淀川水系の地盤強化をしていたのではないでしょうか。そのあちこちに渡来系氏族がいるとい
う・・・秦氏を中核とする渡来系集団は淀川水系を利用して山背までの地域に進出し強力な地盤固めしていたし,筒城宮は一説には奴理能美(ぬりのみ)系の渡
来人の経済的地盤に負うところが最も多かったと言われているようです。
奴理能美とは、応神朝に渡来し仁徳朝にこの地を賜い、養蚕に秀でた百済系の渡来人といいます。
※巨椋池
http://suido-ishizue.jp/kokuei/kinki/kyoto/oguraike/0102.html
http://www.interq.or.jp/mars/omr//m03a_coastline/m03a_oguraike/oguraike.htm
すっかり継体話になってしまいましたが,鏡伝道に戻ります。交野 天神社の森と閑静な住宅街の境界を細いみちが通っていて,これが鏡伝道です。静か!5~6分でその道も終り,広い道に出ました。入口にはしっかりと看板がたっておりました。
ここで方角間違い。予定では公園の近くを東に出る広い道に対あたり,それを東にとって八幡近くの東高野街道に出る予定だたのですが,あとで地図をみて分かったんですが,鏡伝道が神社の森のへりに
沿って東へ振っていたため,住宅街の南北幹線につきあたったのでした。おかしいと思いつつペットのお茶を呑みながら歩いていると見覚えのある交差点に突き当たり,なんだ,男山泉に出てしまいました。
八幡まで街道歩きがちょっと長いですが,ま,どうせ歩かないといけないのでよしとしましょう。
より大きな地図で 東高野街道1 を表示
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以下、電子国土が地理院地図に集約されましたので、あまり意味はないですが、原文のまま載せておきます。(2014/8/18)
<地図>
このシリーズから電子国土(http://portal.cyberjapan.jp/)を利用させていただきます。地図好きの私としてはなかなかの優れものと思います。ずっと見ていても見飽きません。
当面,電子国土事務局から提供されるマップに印や文字を入れるたものを掲載するだけで,電子国土サイトとは呼べませんが,ゆくゆくは歩いたルートと見聞きしたものをブログ記事と連動できるようにしたいものです。
現在使っているのは,電子国土Version.2(非プラグイン版)です。
※この地図には右上に-+のボタンがあって自由に拡大・縮小ができるんですが,画像枠の制限か何かではみ出るようです?
電子国土共通規約は:
http://portal.cyberjapan.jp/kiyaku.html#common
電子国土ロゴ:・・・どうもgifは表示されません?仕方がないのでjpegに変換しました。地図にのってるからいいんかな?このあたりはっきりしません。
htmlは以下です。
<a href=”http://cyberjapan.jp/”>
<img src=”http://cyberjapan.jp/image/logo.gif” alt=”logo” width=”57” height=”54” border=”0”>
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