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2009年6月 4日 (木)

細切れ道草・東高野街道(5) 古市-富田林

2009年4月 12日 その3

【消えた歴史遺産】
 昼食を駅向うのカレー屋さんで食べました。暑かったのでビールも欲しかったがここは我慢。
 街道にもどります。古市駅横を通っているのは竹内街道で,以前えらい目にあったことを思い出しました。古市手前の軽里あたりで靴底がばらばらになって,白鳥陵の横のきれいな街道はほとんど裸足で歩いて,やっとこさで,駅前の靴屋さんで新しく靴を買ったのでした。その時買った靴は2005年秋以後のウォークは全部,東海道も半分これで歩きました。今回もその靴ですが,今のところ快調。

より大きな地図で 東高野街道4 を表示

 それはともかく,古市3丁目の東高野街道と竹内街道の交差点には,商工会館の古いがハイカラな建物があって,そ れが取り壊されたということを聞いたので行ってみました。天幕がはってありまして,あっらら!本当に取り壊された後で,赤レンガの残骸の整理中のようでした。今日は日曜なので工事も休みです。

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 写真を撮っておきたかったのですが,2005年にきた時 には,ちょうどここでだんじりの辻回しに遭遇したので,この建物にへば りつくようにして,だんじりの写真を撮ったのでした。で,その建物は撮り漏らした。代わりにそのときのだんじりの写真を載せておきます。建物の写真は,弥生の森の散歩径 近代土木館~(ひろゆきさん)にきれいなのが載ってましたので見てください。
http://www.pintruss.com/doboku/town/habikino.htm

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  この建物は,明治42年に富田林銀行として建てられ,その後,野村銀行→大和銀行,と銀行の店舗として活用,最後に商工会館として使われていたそうです。 最近は空き家になっていたとか。この保存については,数年前から町を守りたいという地元民と行政の話し合いが続けられていたようですが,明治時代の建造物 で老朽化が激しく,解体して町の集会所を新たに建てることになったらしいです。ちょっともったいないのでは。
 コストや安全性を言われると弱いのですが,今の建築技術でも補修とか,なんとかならんのですかね。建築の専門家のご登場を願いたいものです。
  自宅の近くにも,多少荒れてはいたがきれいな松林の空き地があって,持ち主が売却したため,せっかくの松林を根こそぎ切ってさら地にしてから,小さな家を 建てています。小さい家というのはしかたがないにしても,「松林の中の家」というコンセプトで,それを活かした街づくりができんものかなと思います。多 分,コストがかかるのでしないと思うのですが,それは理解するにしても,今の技術体系が「一旦リセットしてからまっさらなもの立て直す」という思想で組み 立てられた技術体系でしかないのではないか。建築でなく道路であっても,あちこちで古街道の存在などおかまいなく,リセット・さら地にして道路を作ってい るにのをよく見ます。古街道はハシゴを外されたように孤立して草ぼうぼうですな。しかし,一方ではちゃんと街道の風情を残したまま街づくりをしているとこ ろもあるんです。
 その角にある道標はどうなったんでしょう。写真にあるシートをかぶっているものが多分そうでしょう。
 『右 大阪 左 大和路 嘉永元年』とあるはずです。

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 さらに,この先竹内街道を数十メート行ったところに あった「両替商・銀屋」さんはなくなってしまいました。跡かたもなくです。今はその前にある公園にその旨の記載がちょろっと書いてあるだけでした。写真の前方の住宅あたりだったと思います。

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 これについても地域住民と行政も熱心に保存に動いていたようですが,惜しいことに解体されました。
http://www.skao.net/bjoho/habiki.htm

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 この建物は,江戸時代,天領であった古市が,宿場 町,市場町として栄えたことをしのばせるもので,銀屋の舟板塀とよばれる塀は,大和川の水運で活躍した剣先船の廃材を使っていたということでした。当時, そういう技術思想で建てられた証拠です。銀屋の前にはこぎれいな公園もできて,地域の観光スポットにもなっていたのに。これがどんな建物であったかは,岸本さんのスケッチ紀行のサイトで確認してください。小さな写真より迫力が感じられます。
http://kishimoto-sketch.cool.ne.jp/osaka-huruiti.htm

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 公園の三角石標に書いてあった文章を拾い読みしてみると・・・
・南朝の後村上天皇が西琳寺に隠遁し再起を図っていたとき詠んだ歌
 わが頼む西のはやしの梅の花
  みのりの花の種かとそみる

・その西琳寺は王仁の子孫・西文氏の氏寺であって壮大な伽藍があったこと
・安閑陵を本丸として取り込んだ中世城郭高屋城の話
・古市は大陸文化の伝来に貢献し,河内飛鳥の中心であった。東高野街道と竹内街道の交差点で文物の流通に貢献したこと。
・江戸には銀屋があり,水運/街道により,物資流通の中心で大きな役割を果たしたこと

 こんなことで,今は文字,写真,絵でしか確認することはできません。

【だんじり庫】
 上に季節はずれの写真をのせてしまいましたが,だんじりを保管している庫が気になってきています。いままで街道沿いにいくつもあって,当然中は見られないのですが,その庫は(デザインは)いつでも見れる訳です。いろいろ見てきましたが,ここの庫扉のデザインが気に入りました。古市らしく石川に白鳥でしょうか。そうにちがいない。赤と白の コントラストが美しいです。日かげなので赤の彩度が今ひとつですが,これはカメラの(腕)のせい。これからは事あるごとに写真は撮っておきたいと思います。

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 ところで,だんじりは,山車ですかね?地車ですかね?

【高屋城と高屋神社】
 近鉄の線路を渡ると古墳が見えてきます。安閑陵。周囲ももちょっときれいにせんかいな,と思えるところでした。

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 このあたりは中世,高屋城があったところです。高屋場は,なんと,安閑天皇陵を本丸に取り込んで築いた城で,畠山氏,三好氏が居城とし,織田信長によって落城させられたようです。少し先にある城山姥不動明王の祠のあたりが二の丸だそうです。

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 それにしても(伝)とはいえ,天皇陵を城にするとは,全 く考え方次第でなんでもやるんですね。

 高屋神社はさらにその先です。案内板によると,古代 ,この一体は高屋連の本願らしいです。物部系。

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 この一体は台地になっており,時代による変遷が窺えます。中世は城郭だった台地も今は住宅地です。

【ロード間違い】
 さて,かなり時間をとったので,旧街道を高速で飛ばし ます。道はほとんど真っ直ぐで迷いやすくはないんですが・・・喜志の先で迷いました,3回も。

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 延々と歩きますが,車がほとんど通らないので歩きやすいです。途中,見通しの良いところもあって,高速(南阪名道路)の向うに二上山がくっきり見えました。

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 阪田の石燈篭(多分です)も過ぎて,喜志の近くで立派 な古い屋敷をみました。建築確認看板をみるとメモリアルホールができるらしいです。要は葬式式場ですかね?これからはやるとは思います が・・・ということは,このお屋敷も取り壊しですか。

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 さて,「あれが喜志の駅か」と確認はしたのですが,広い道を行ってしまい,さす がにこれはおかしいと思って引き返しました【間違い1回目】。それらしい道に入りなおしたのですが,あとで分かったことに,これも間違いでした【間違い2 回目】。最初調子よく行きましたが,これが行き止まり。しかたがないので,道なりに川のほうに下っていきますが,方角違いでどんどん川の方に下るのでさす がにおかしいと思い,南へとる道を探しました。
 町の集会所(川面町会館と書いてあった)の路地みたいなところを通って,最後はお屋敷の軒下のような路地を無理やり通過,落差のある階段を降りて橋のたもとにでました。やれやれ,現在地確認。

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 ここの石川もまだまだ広いです。水量は少ないものの大河の様相です。河川敷はキレイに整備されていて,皆さん休日のスポーツでのんびりと過ごしていました。ここで休憩。
「この河川敷を行ったら早いいやろな」と,ちらっと思いましたが,街道歩きではなくなりそうなのでやめときました。

【旧街道復帰】
 さて,街道に復帰です。といってもどこが旧街道なの かよく分かりません。川沿いを行く道も何本かありましたが,まさかこんな低地を街道は通らんだろう,通るなら河岸段丘の上か。そう思ってとにかく坂を登り切りました。そこには横道があって,どうもこれのようです【間違い3回目】。道沿いは住宅が並んでいてとても旧街道とは思えませんが, しかしその先はもう国道ですから。

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 ところが,途中でまた道がつきあたりました。ここからはっきり覚えていませんが,迂回してぐにゃぐにゃ曲って,小川沿いのお墓の横を通って,大きな道にでた気がします。しかし,テクノホルティなんとかいう専門学校の記憶もありますけど・・・・・はっきりしているのは新堂の山車保管庫です。 ここのはきちんと写真にとりました。

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 あとで調べてみると喜志の駅前のところから国道歩きとなって,中野町3丁目の池のところから旧道がまた分かれて,先程の新堂につながるようです。
 ま,この迷って徘徊,うろうろの危うさがおもしろいんです。不審者と間違えられなければいいですけど。

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 ここからは本当の旧街道復帰で,あとは一本道でした 。いや街道らしいカギ型の辻はありましたが。若松町5-8では民家の軒下にバケツが。いったいなんでしょうかね,火除けのマジナイか?

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(つづく)

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