東海道ウォーク 島田-掛川(4)
2008年9月28日(日) 小夜の中山
【今ごろ言うのもなんですが】
大井川をすんなり渡りすぎたのです。そこは遠江/駿河の国境でした。
なぜこんなことを言うかというと、「静岡県の歴史」というサイトを見ると、大井川を境に生活文化がかなり違うのだそうです。例えば、
方言:西国方言/東国方言
アクセント:京都式/東京式
食用芋:じゃがいも/さつまいも
儀礼芋:サトイモ/ヤマイモ
肉:牛肉/豚肉
正月の魚:ブリ/サケ
刺し身:たまり/しょうゆ
村長:庄屋/名主が多い
あまり実体験はないですが、そんなに違うものか?今後注意して見ておきたいと思いますが、歩いているだけでは分からない。
そもそも、遠江というのは古代大和王権の直接権力がおよぶ地域とみなされていたことが影響しているのでしょうか?
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/rekishi_shizuoka.htm
それから、「マキノハラ」の書き方もさる事ながら、語源が気になっています。「お茶街道」というサイトを見てみると、馬の牧場からきているようです。http://www.ochakaido.com/rekisi/timei/timei4.htm
文武4年(675)に諸国に牧を置くことが定められ、遠江の御前崎にも官牧がおかれた。大宝律令制定後「白羽牧」と呼ばれた。律令制の破綻を迎えると、白羽の官牧は縮小され、変わって地元住民の手によって私牧が営まれ、これが次第に西や北に広がった。いつしかこの台地が牧之原と呼ばれるようになった。
昔は原の北側の一部が牧之原で、この地の原を総称するには布引原の名称が使われていたが、明治維新のころ、徳川家の幕臣や、職を失った大井川の川越人足の手により開拓されたころから牧之原と呼ばれるようになった。
なるほど。ボクの住んでいる北河内も5世紀はじめ、おそらくもっと早く応神・仁徳のころから百済?からきた馬飼が住んで讃良などで牧を作っていたというので、馬については興味があります。
また書き方は「牧之原」がオリジナルのようです。
【青木坂】
さて登りです。どんな登りか?別に楽しみではないんですが・・・
登っていくと分岐が現れ、左は火剣山へのハイキングコースで旧東海道は右です(12:23)。
ここは青木坂(箭置(やおき)坂とも)というようです。最初は樹林のなかの薄暗い急登道でしたが、右に急カーブするといっぺんに視界が開け、一面の茶畑が拡がります。まるで仕組んだような劇的な変化。
これから、だらだら坂がずーーーっと続きますが、眺めがよいので、あっちきょろきょろ、こっちきょろきょろで写真の撮りま
くりでした。
谷は一見深そうですが樹木を切り拓いてしまうと、なだらかな谷です。こういう平坦な丘の風景はめったに見ないので、もの珍しさもあって、疲れを感じる間もありません。 景色を見ながらのんびり登っていきます。トラックもえっちらおっちら登って
いきます。
ひたすら登っていくと小さな集落の中ほど右に、日坂の 宿(掛川市)と菊川の里 (島田市)との境界標識がありました。ここ から掛川市です。中腹に境界があるんですね(12:36)。
ログハウスのお宅の前に阿佛尼の歌碑がありました。十六夜日記の作者ですね。
雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月 阿佛尼
「小夜の中山」は西行の影響で早くから歌枕となり多くの歌が詠まれています。ここから西坂までは、所々に小夜の中山を詠んだ歌碑が置かれ「小夜の中山歌碑の道」となっています。
すぐ先には「通学路」の看板。小学生もこの坂を登って通学しているようですが、さっきの境界から上は坂を登って日坂までいくのか。その下には人家もなかったが、そこに小学生がいるなら下りで楽だろうなと、しょうもないことを考えつつ歩いていきます。
まだまだ登ります。衣笠内大臣の歌碑がこの先の登りの途中にありましたが、場所の確定ができません。「通学路」の看板から4分ほど先です。
旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり 衣笠内大臣
坂を登り切る手前に右に入る道があり、少し入って地図確認。もう一つの「夜泣石」のある、国道1号線のトンネルの方にいく道のようです。国土地理院の地図には「夜泣石」の記載もあります。最初の予想では尾根づたいにいくのかと思ったら、そうではなく、かなり降りていくんですね。これは行きにくい。
【小夜の中山】
だらだら坂を登り切った所はちょっとした広場で、接待茶屋跡碑がありました。昔はここより手前の坂の途中に永仁年間(1300)頃から旅人に無料で茶等を施していた茶屋があったそうです。
眼下には茶畑が点在し火剣山を望めます。見飽きない茶畑の風景。
さて、なぜ「小夜の中山」というんでしょうか?再び「お茶街道」サイトを見てみます。ここは製茶機メーカーが運営しているのですが、きちんと調べられているようで参考になります。ダイジェストさせていただきます。
http://www.ochakaido.com/rekisi/timei/timei1.htm
ここは古くは「サヤの中山」といった。
小夜の中山のことが出てくる最も古い記録は、『古今和歌集』で、
甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく 横ほり臥せるさやの中山 (1097)
東路の佐夜の中山なかなかに なにしか人を思いひそめけむ (594)
とあり、いずれも「サヤの中山」といっています。
なぜ「サヤ」といわれたのかには2説あって、
①この峠が狭い谷に挟まれた細い堤のような道であるため、狭谷、すなわちサヤである、これから佐夜郡という郡名にもなった。(掛川誌稿)
②サヤの語源は悪霊をさえぎる塞の神である。
柳田国男は、この山は「遠くの旅人には幣を奉る神、近い里人には里の守を祷る神」がいるから、その神に手向けをして通ったところではないか、とし、さらに、野本寛一氏は、「サヤ」は「塞(さや)」のことで「塞る」が固有名詞となったものであろう。「小夜の中山」は悪霊をさえぎる「塞の神」を祭る峠であって、その象徴が手向けの石である。その神聖な石が、時を経て「夜泣き石」として伝承されたのだという。
野本寛一さんはこの地・相良の出身の民俗学者なので説得力があります。
さらに、小夜之中山には蛇身鳥の怪鳥伝説(※)があり、それを退治した藤原良政に連れられ都に行った月小夜が都から戻されて住んだ所ということから「さよ」になっていったかと思われます。
※http://www.ochakaido.com/index013.htm
【子育飴】
接待茶屋跡碑の向かいには久延寺があります。ここには「夜泣石」がありますが、どうも、後述のいいかげんさがあるのでパスしました。
とりあえず、茶屋(扇屋さん)に向かいます。うまい具合に開店していました。ここで休憩。
せっかくなので子育飴をいただきました。なぜ子育てなのかは後述。わりばしに巻きつけた飴をぺろぺろしながら女主人と話をしました。
・おばあちゃんの話
この茶屋には名物おばあちゃんがおられれ、子育飴を作り茶屋も切り盛りしておられましたが、6年前に104歳でなくなられたようです(メモを見るとそう書いていました)。「えっ!ひゃくよんさい!」と私。100歳のとき、現役で茶屋を切り盛りしているおばあちゃんを知事がねぎらったという記事の新聞きり抜きが貼ってありました。女主人はちょっと寂しそうでした。この方はお孫さんになるのか。
「私が引き継いでやってますが、土日だけしかできません。今は日坂から車で来ているのでまあ楽ですけど」と言っておられました。
・坂の話
「登ってくる途中に通学路の看板があったけど、この坂を登って通学するんですか?」と聞くと、「そうですよ。昔はわたしも坂を登って/降りて通学した」
日坂まで3kmくらいでしょうか?子供のころボクも4km歩いて通っていたんでよく分かりますが、ボクの場合は急坂はないが、ここは急坂があります。「下りはえらい坂があるよ」と言っておられましたが、どんな坂でしょう。
「東海道を歩いてるんでしょ。箱根も小夜の東坂も越えたんだから、もう楽ね」と。
「登りはともかく下りがしんどい、箱根西坂ではつるつるすべるので下ばかり向いてたら〒マークを彫った石がありましたよ」と無駄話。
・お茶の話
お茶はヤブキタだそうです(今はほとんどこの品種らしいですが)。「あ、それなら知ってます。中学校で茶畑を持っていて、茶摘みをしました。摘み方を教わったけど忘れてしまいました」「ウチでも茶畑が少しありましたよ。売ってはいないけど。ボクのイナカでも結構お茶は有名になってる、京都とはいえ宇治でなくもっと田舎」なんてことを紹介しました。
5月でも結構寒いときがあるので扇風機を回します。霜の降りるような風の弱い夜は、気温の逆転現象が起こり、地上6mぐらいの気温は地表の茶の樹付近より4~5℃高くなるそうです。空気をかき混ぜて樹を温めてやる。
ボクの田舎では、昔はカンレイシャをはったりしたが、この広さでは無理でしょう。小規模ならばできそうですが。
子育飴を全部なめおわるのに10~15分くらいかかりましたか。こんなことをしゃべりながら飴をなめていました。飴は米と麦芽だけで造られていてさっぱりした甘さです。お土産に1つ買いました。「こぼれるときがあるから斜めにしないでね」ということで、ビニール袋をもらってしっかり包んでカバンの底にいれました。
帰り際に「そうそう、隣に浮世絵を個人で集めて公開しているので見に行ったら?・・・相当なもんですよ」と勧められました。
(つづく)
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