東の旅1 高麗橋-南生駒(その6)
【花園ラグビー場-枚岡】 2008年10月16日
■花園ラグビー場と野球場 10/16(12:00)
さて、ラグビー場まで(レポート上で)戻ってきました。ラグビーファンのメッカですね。私はそうでないのですが、一応写しておきます。
■花園中央公園野球場 10/16(12:10)
ここでトイレを借りました。グラウンドに降りてみたいが、それはダメなようです。宣伝もなにもない土のグラウンドは見てるだけでも気持ちがいいです。
■花園中央公園 10/16(12:17)
このあたり一帯は公園、野球場、スポーツ広場が併設されています。
のんびりとひなたぼっこ、散歩、釣をしています。
■花園多目的遊水池 10/16(12:17)
しかし単なる公園、競技場かといえばそうでなく、恩智川あらの水害を防ぐ遊水池になっています。
今見える遊水池(水辺ゾーンといいます)の向うにコンクリートの一段低い壁が見えますが、これが越流堤で、恩智川の増水時はここから越流してきた水がここにたまります。この狭い遊水池だけでなく公園、野球場も遊水池を兼ねています。ラグビー場は一段と高くなっていて、そこには水は行きません。
全体像はgoogleで見てほしいですが、案内板にようと、Aゾーンであふれた水はB、Cゾーンに流入するようになっています。
Aゾーン:水辺ゾーン
Bゾーン:花園公園
Cゾーン:野球場、陸上競技條
大雨時は、OP+6.05mが警戒水位、OP+6.4mで越流になります。OPは説明がありませんが、干潮時の海面レベルだそうです。
ちなみに、暗越奈良街道に沿って、水準点を調べてみました。
馬場町のNHK付近:23.2m
上町1:安堂寺通り:12.6m
玉造 :約3m
中道4八坂神社付近:約2m(平野川西)
今里新道商店街近く:1.6m(平野川東)
大今里1平野川近く:約1m
高井田(旧街道) :2.1m
御厨の辻 :2.6m
外環横断付近 :約2m
菱屋東信号あたり :4.5m
ラグビー場あたり :約5m
箱殿 :19.9m
豊浦 :58m
今日は上町台地から河内潟跡地を横切ってきたことになります。
恩智川はかなり高いところを流れているようで、もしここから水があふれたら河内平野は大変なことになります。そのためにこの遊水池があるのだと、よく分かります。河内平野に新しく住んだ人は一度見ておくとよいでしょう。古くから住んでいる人は嫌と言うほど水害には苦労しています。
■恩智川 10/16(12:22)
その恩智川ですが、平常は小川です。生駒山系の水を集めていますが大雨時は山からどんどん流れてきてとんでもない暴れ川になるようです。
■豊浦まで 10/16(12:43)
さて、あとは登りばっかりです。このあたり、国道308号はまだ普通の国道です。箱殿を過ぎ、東高野街道も過ぎ、旧街道も吸収してどんどん登ります。近鉄の線路を渡るところに到着しました。
ここから暗峠への登りが始まります。国道で登るんです。
そのまえにちょっと道草して枚岡神社に行ってきます。
■枚岡神社布団太鼓 10/16(12:45)
線路沿いの道を南に下るとすぐ枚岡神社です。ちょうど祭礼の時期でだんじりを見ることができました。いや、「ふとん太鼓」というもののようです。これは初めて見ます。
■休憩中の布団太鼓
氏子が氏神様に豊作と無病息災のお礼をする祭(枚岡では秋郷祭)に布団太鼓が練り歩きます。布団太鼓の役割は神輿渡御のお供や先導、および神前での練りによる奉納等です。これは本体(太鼓台)の上にフトンと呼ばれるものが乗っているのが特徴です。フトンは神様が休むためのものや豊作を願う「田」であるという説もありますが、はっきりとした理由は分かっていません。
これは、瀬戸内海沿岸を中心に西日本一帯で多く見られ、2~6名程度の人間が乗り込んで内部の太鼓を叩き、その太鼓の音に合わせて掛け声をかけ、数十人~百人以上で担ぎ上げ、練り歩くきます。フトンの段数、太鼓や掛け声は地方により独特です。
枚岡では、江戸時代まではだんじりでしたが、明治のはじめ、坂が急峻なため、安全上、布団太鼓に切り替わっていったといいいます。
神輿は神社の所有物で厳かに執り行われますが、布団太鼓が出る祭は“私祭”で庶民主体の祭りです。普通はご神体は乗りません。地域によってはイベント化したり、華美に走っているところもあるようです。
http://www2.ocn.ne.jp/~tatami/maturi/taikodai.html
http://www.do-natteruno.com/con_c/c15/c15.html
■子供の布団太鼓
ちょうど昼休みで動いていませんでしたが、小学生がなにかイチビリをやったみたいで、すかさず中学生くらいの女の子から「ちゃんとしいやー、ケガするで」としっかりチェックが入っていました。そうやって先輩から怒られて成長する、それでいいんです。
■練りが始まる
ちょうど1時、練りが始まりました。
フトンの意味は、坂出の例にあるように、木綿の収穫を祝いお礼するという意味でフトンを奉納したという意味はないですかね?それなら神様にお座りくださいということがはじめで、時代が下って本来の意味が忘れられ、イベント化して氏子が乗るようになったとか?そんなことを考えました。
※神輿とだんじり、太鼓台の比較はここが詳しいです。
http://www.danjiriya.com/business_line/danziri.html
太鼓台について坂出の例:http://www.city.sakaide.lg.jp/kankou/event/taiko/taikokouzou.html
■枚岡神社
さて、枚岡神社ですが、社伝によれば・・・・
神武天皇東征の砌(紀元前3年;えらく細かい?)、天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で東方山上の神津岳の頂に祖神の天児屋根神、比売神を祀った。その後、白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。
第一殿に天児屋根大神、第二殿に比売神(天児屋根大神の后神)、第三殿に経津主大神、第四殿に武甕槌大神を祀る。
とありました。
神津岳の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたといいます。また。神護景雲2年(768年)、奈良に春日大社が創建され、ここの天児屋根大神・比売大神を分祀したことから、元春日社と呼ばれています。ただ、ずっと南の恩智神社でも、天児屋根命を枚岡神社を経て春日大社に祀られるようになったことから、そちらも「元春日」と呼ばれているようです。
なお、宝亀9年(778年)には春日大社から武甕槌神と経津主神を勧請しています。
■本殿は右から天児屋根大神、比売大神、武甕槌神、経津主神。順番間違った かも知れません。書いてあったサイトを探しているんですが、二度と見つからなさそうで・・・全部写っていませんが、後日調べたら写るスポットもあるようでした。
中臣氏の神社ですね。このあたり一帯、物部氏の地盤だと思っていたら違うんですね。元々ここにあったのか、それとも物部氏の没落後新たに入ってきたか?モザイク状に入り組んでいるようですが、真相はよく分かりません。
ここもいまいち消化不良の神社でした。
■ハケ・ブラシ顕彰碑
このあと、境内をまわって梅林の方に行きました。山に登っていく途中の道端にこんなものがありました。ハケブラシの業界団体もあるんですね。ハケは奈良朝以前に入ってきて、大阪は全国の大半を製造し輸出もしているとは。日常なにげなく使っていますが、これは知りませんでした。
■枚岡梅林
有名な梅林ですが、ここで昼食です。公園みたいになっていて、キティちゃんがいました。この上にはミッキーさんやドナルドもいた。
枚岡神社には1時間ほどいました。13:40、出発です。
(つづく)
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