東海道ウォーク 島田-掛川(5)
2008年9月28日(日) 小夜の中山昔話
夜泣石はやっぱり見ておくことにしました。
久延寺は真言宗高野山派のお寺でした。ウチと同じだ。このあたり真言宗は多いのか?
夜泣石のいわれはこうです。またしても「お茶街道」。
http://www.ochakaido.com/index013.htm(ゴチックは筆者)
■石言遺響(滝沢馬琴の「石言遺響」より抜粋)
その昔、小夜の中山に住む身重のお石が、菊川から帰る途中、小夜の中山の丸石の所でお腹が痛くなり、松の根元で苦しんでいる所へ轟業右衛門が通りかかり、お石を殺して金を奪い取った。そのとき、傷口より子供が生まれ、お石の魂がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。これを夜泣き石という。
傷口から生まれた子供・音八は久延寺の和尚に飴で育てられ、大和の国の刀研師の弟子となった。轟業右衛門が刀研にきて母の仇とわかり、めでたく仇打ちをした。(久延寺の看板にもこれが書いてあります)
しかしもっと昔は松が泣いていたようです。
■「東海道名所記」から抜粋(石言遺響より約百四十年ほど前)
むかし、西坂の里に、女ありけり。佐夜の中山の道にて、ぬす人のために、ころされ侍り。その女は。はらミて、ある法師の住けるが、あはれがりて、母が腹をさき、子をとりいだして、そだて その子十五になりける
-----中略------
いのち成りけりといふ歌をとなへて、をやのかたきをうちけり。その子ハ出家して、山にこもり、父母のぼだいをとぶらひ侍り。-----中略------
佐夜の中山より十町バかりを過て夜啼きの松あり、この松をともして見すれバ。子共の夜なきをとどむるとて 往来の旅人けづり取。きり取けるほどに、其松うゐに枯て、今は根バかりに成けり。
■子育て幽霊伝説(夜泣き石と子育て飴)
小夜の中山近くに住む飴屋の主人の所に、ある晩を境に毎夜決まった時間に、若い女が水飴をひとつだけ買いに来るようになった。不思議に思った主人は、女のあとをついていった。峠の大きな丸石のところまで来ると、女は消えてしまったが、赤子の泣き声が大きな丸石の方から聞こえてくる。その石のまわりには水飴の棒が散乱し、飴を買いに来る女の着物に包まれた赤ん坊がいた。この地で若い妊婦が殺されて二十日あまりの日が過ぎた夜のことであった。
この水飴は「子育て飴」という名でこの地の名物になったということである。
これに蛇身鳥の怪鳥退治の伝説が加わる(またはバリエーションか)からややこしいです。
■蛇身鳥退治の伝説
----前略---- 怪鳥を退治した藤原良政は美人であった月小夜を一度都に連れ
て帰り、また中山に戻した。その娘・小石姫は親が整えた婚儀の前に中山寺空叟上人の子を宿していて、悲観のうえ(蛇身鳥一族の話を知って悲しんだからと、さっと流す場合もある)、当地の松の根元で自害した。松に吹く風音は小石姫の霊が松に留まったとされ、松は「夜泣き松」と呼ばれた。後に、夜泣き松の皮をいぶした煙が子供の夜泣きに効果があるという噂で、皮は削り取られ、松は枯れてしまった。松を惜しんだ地元民が跡地に置いた丸石は孕み石と呼ばれ、現在は久延寺夜泣石の横に置かれている。
小石姫の遺児・月輪童子は飴で育てられた。飴は実父の空叟上人が中国伝来の製法を伝えたものだと言う。
ということで、若干ギクシャクはあるものの、夜泣き石(松)伝説と子育て飴伝説が合体しました。伝説ですから多少のバリエーションはありますが、女が殺され(または自害)、石(または松)が泣くようになったこと、その子は飴で育てられたというストーリーです。
ところが、時代は下って、せっかくの話が変な展開になってきます。
■夜泣石見世物綺譚
もともと夜泣き石は旧東海道の道の真中にあったが、明治元年明治天皇の御東幸沓掛の茶店(道端という説も)に移した。(じゃまになると気を回しすぎ?)
久延寺は村の有力者から融資を受け寺の所有に移した。明治13年東京浅草の勧業博覧会で見世物にしようと出品。浅草の興行師が先に「夜泣き石のハリボテ」で大儲けしたあとで、本物は「少しも泣かない」と全く受けず儲けもなし。持ち帰る途中で資金がつき、焼津・和田港に放置する。
村の有力者が見かねて持ち帰り、現在の国道「小夜の中山トンネル」小泉屋の裏手に置いた。昭和11年、今度は小泉屋が東京・銀座の松坂屋で開かれた静岡物産展に出展、大評判になった。
翌年、夜泣き石の所有権をめぐって久延寺と小泉屋の間で裁判沙汰となり、久延寺側は敗訴。久延寺は代わりの石を境内に安置(夜泣き石跡で昭和30年代に見つかった石だそうな)した。
いったい何をしてんだか?こじれましたな。
ということで、久延寺昭和の「夜泣き石」です。上に乗っておられるのは西行さんか?元は夜泣き松で自害した小石姫の供養のため松の付近で出土した石を供養塔として門前に置いていたものとも言われます。(このほうがすっきりしますが)
横にあるのは孕み石です。
その他、掛川城主だった山内一豊が上杉攻めで江戸に向かう家康をここに招き、煎茶をもてなしたという茶亭跡碑もありました。
ところが、もうひとつ茶亭碑があるようです。山門の西側、手水舎の裏手に古い接待茶亭跡の碑があります。これは松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立したもので、石碑には「慶長五年、関ヶ原之役、山内対馬守一豊、為東照宮神君、作亭於遠江佐野郡中山、以進飯、迄干今人存其遺跡而護之、因標之伝。天明九年歳次己酉春正月」とあります(私は確認してませんが、http://www.ochakaido.com/index025.htmから)
6月大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう道中の接待か、関ヶ原に向かう時の接待か、どっちなんでしょう?。案内の碑にある上杉攻めのほうが接待の真実味がありますが。松平土佐守も関ヶ原之役に貢献したというのを言いたかったのでしょう。
夜泣石に触れたばっかりに、案の定、長くなってしまいました。来歴はあからさまにしないのがよかったのかも?どうもモノにこだわると打算や欲が絡んで変な展開 になるようで、本物探しや本物にしか価値を認めない考えは捨てて、峠の「手向けの石」や「子育て伝説」のピュアな精神性に帰る必要がありそうです。ここの夜泣石も昭和の夜泣石として扱っていて、静かに、夜泣石や子育て飴の伝説を伝えていく風情が感じられました。ここは、お石さんや小石姫さんをしのんで、ゆっくり彼岸花でも観賞しましょう。
合掌
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