西国街道(2) 大石-石屋川
2010年9月10日(金)
【菟原処女の伝説】
■(9:34) 歩道橋を渡って浜側に出ます。しかし、西灘の駅近くで再び山側に渡るのでした。
■(9:46) そこには西求女塚古墳があります。この古墳は、御影塚町の処女塚、住吉の東求女塚とともに万葉集や大和物語などに登場する「菟原処女の伝説」の舞台となっています。
その伝説とは・・・
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葦屋に菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の若者が彼女を深く愛し、争うようになった。処女は、立派な男たちが争うのを見て、生きて結婚などできない、と嘆き悲しんで死んでしまった。事実を知った茅渟壮士と菟原壮士は後を追って死んだ。
親族たちは集まって、この事を長く語り継ごうと、娘の墓を中央に、男の墓を両側に作ったという。
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と、まあ、今では信じられないようなお話しです。
■ それはともかく、西求女塚古墳(全長95mの前方後方墳)を初めとして3つの古墳があり、処女塚古墳(全長70mの前方後方墳)、東求女塚古墳(全長80mの前方後円墳)と、海岸線に沿ってほぼ一直線に、約2kmの距離でならんでいます。
処女塚を中心に東西それぞれの地点に、東西の求女塚があり、それぞれが処女塚の方向を向いている形になります。両側が男性の墓なのだから求女とされたのでしょう。
しかし、発掘の結果では、古墳の築造年代がそれぞれ違っていて、この地方の豪族を葬った墓とされています。
■ 西求女塚古墳は4世紀初頭の築造です。前方後方墳(西が後方部)ですが、その意味がよく分かりません。三角縁神獣鏡や山陰地方特有の土器も多く出土していることから、この当時の在地豪族はヤマト政権ともつながりながら、山陰地方とのつながりもあったと考えられています。
http://homepage1.nifty.com/motohiro/motomezuka.htm
この3古墳の位置は、古墳時代の海岸線からは100mほどしか離れておらず沖合を通る船からは、その雄姿がはっきりと認められたと思われ、3つ連続で見えるとなると、その迫力は大きかったと思われます。
【新・酒造の街】
都賀川を渡ると新在家に入ります。ここらから魚崎あたりまで酒造の街になります。そろそろ浜街道に復帰します。
■(10:01) あたりは都市化していますが、道端にはお地蔵さん?の祠。古い土地柄のようです。明治18年の地図を見ると住宅が密集しており、そのことがよく理解できます。大石、新在家は酒造の街なので、それに関連した海運の村だったのでしょうか。
■(10:04) 都賀川を渡る所には大きな西国街道の道標がたっていました。その向こうには、サワノツルの看板。本社工場です。ここで浜街道に合流です。
少し歩いて浜街道からはずれ、広い通りを南に行きます。酒造見学かなにかの団体さんが真新しい建物から出てきました。みると「オエノングループ」と看板があります。あとで調べてみると、、焼酎などの製造をしている合同酒精株式会社を母体とする持株会社で、近年は福徳長酒類や秋田県醗酵工業、富久娘酒造など、多くの酒類メーカーを買収しているそうです。「鍛高譚」のメーカーだとか。これは知らなかった。
■(10:10) その向いには若宮八幡宮と富久娘の看板。いずれも真新しいものです。震災で痛めつけられたんだろうなあと、真新しい建物でそのことに思いを馳せました。
■ 工場の横の広い道を歩きます。近代的な工場で、見ただけでは酒蔵とは思えません。半導体か何かの工場と言われても納得してしまいそうです。しかし、酒蔵散歩の気分にはなれませんが・・・
■(10:16) 新在家の新しい高層住宅街を通っていきます。ここからまた浜街道に合流です。近代的な高層アパートの下には酒蔵風の長屋が建っています。中をのぞいてみると自転車置場になっていました。そういえばアパートの庭?や空き地にはなにも置かれていません。自転車等はここにしまっておくようになって。いるようです。別の建屋にはゴミなどがおかれていて、共用のスペースになっているようです。しかし、このデザインは、ちょっとアンバランスな気もしますが、酒造の街ということで、酒蔵のイメージを打ち出していてなかなかいい感じはしました。
■ 浜街道といってもカラーブロックが敷きつめられていて、超近代的な浜街道です。
■(10:24)43号線の向うに甲南漬の工場らしきものがありますが、調べてみると資料館になっていました。美味伝承甲南漬資料館。2010年3月に甲南漬資料館(1930年昭和5年建築、旧・高嶋平介邸)は国登録有形文化財に選ばれたそうです。いろいろ検索してみると、資料館の性格のほかに、旧社長邸ならではの庭、応接間、日本酒バーもあります。レンガのかまどで炊いたご飯と漬け物が主役のランチなど、なかなか見所のある資料館のようです。これは行ってみなければ!
振り返ると、すぐ傍が本社のようです。高嶋酒類食品株式会社というのが正式名だったんですね。
【石屋川】
しばらく43号線沿いを歩いてすぐにいやになったので、東明というところで浜側に行ってみました(なにも考えずに)。後で分かったことですが、東明の信号を渡ったところに処女塚古墳があるんでした。大失敗!
このあたり、酒蔵ばかりでなく他の食品工場もあります。ゴンチャロフの工場。そういえば、新在家の高層住宅街にはケーニヒスクローネの看板もありました。
■(10:30) 神戸酒心館の入口にだけ寄ってみました。ここを見ていると、酒屋さんは単に酒造りだけでなく、酒蔵見学は当然のこと、料亭、いろんなイベント、貸ホール、ギャラリーなど多目的に事業をやる時代になっていると思われます。日本酒離れの対応でしょうか。
たしかに、酒をたくさん売るのを生業にするのでなく、酒という文化を中核にして発信していくのを生業とする時代であるような気はしています。
■(10:35-40) 石屋川を渡ったところの小公園で休憩。だいぶ暑いです。お茶をゴクゴク。
ここから御影郷になります。ここで若干迷いました。泉勇之助商店を探しています。
■ うろうろして、あ、モロゾフがこんなところに、等と思いながら、やっぱり違うと思って引き返しました。石屋川を渡る手前のところを南に曲るのでした。
■(10:54) 泉勇之助商店は灘五郷でもめずらしく木造の酒蔵をもっています。ここの社長の講演が8月にあったんですが、お盆の施餓鬼法要の都合で聴けませんでした。当日はお酒の試飲もあったようで、参加したかったんですが・・・
木造の酒蔵はたしかに落ち着き、重厚さを感じます。街道歩きをしていると街道沿いには酒蔵のあることが多く、だいたい木造の酒蔵です。しかも酒屋さんそれぞれでまったく造りが違っていて、独特の美しさを感じます。灘は震災で痛めつけられたので最新鋭の工場になるのはしかたがないことなのですが、やっぱり酒蔵は木造でないと・・・第一、写真になりません。
海岸側は道路と運河を隔てて、大きな工場があります。神戸製鋼ですが、木造の酒蔵と鉄鋼工場の対比も不思議な感じがします。
【本日のマップ】
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(つづく)
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