西国街道 (御茶屋町探索)
2010年10月5日(火) 西宮
地図をみると二国の南、西宮市弓場町のあたりからナナメ東北に延びて、御茶屋町に至る水路沿いの道があります。マイケルさんによると「怪しげな道」だとか。行ってみました。
【怪しげな道】
■怪しげな登り道(14:39)
■これは違うなあ!(14:42)
楽しそうな道なんですが、水路工事をしたときにでも作った道のようです。街道の風情とは違います。左の森はちょっとした高台まで続いていて、道は10mのコンターに沿っていますが段々登っていきます。
しかし、水路道で西国街道とは言わないまでも、このあたりから丘越えで片鉾池を経由して夙川右岸を遡っていく道があってもいいような気もします。越木岩-鷲林寺-船坂越や、甲山に行く道が分かれていたとは考えられないでしょうか?あるいは昔あったという西国街道・本街道を行って武庫川を渡らずに甲山の東端を行く道があったとか?
■須佐之男神社を右下に見ながら、新しい住宅の玄関先のようなところの路地を通って、大手前大学の何かの建物に突き当たりました。水路は建物の横を通ってずっと向こうまで続いています。坂を下ると大手前大学の健身館でした。
■御茶屋所町(14:50)
健身館の下の道を大手前大学に沿って歩きます。このあたりが御茶屋所町です。南側にAOKI、北側は大手前大学です。学生が入っていきます。
マイケルさんによると、このあたりに春日町分岐-屋敷町を通ってきた旧本街道が来ていたところです。
■怪しげな石標(14:52)
御茶屋所町2丁目の四つ辻手前の住宅横に怪しげな石標が建っていました。南側に何か書いてありますが、これが読めない!西側も読めませんが、「左 せんの・・・」と書いてあるような気がする。しかし、これでも意味が分かりません。意味は分かりませんが、何か信仰の建物でもあったのでしょう。ここを古い道が通っていたものと思われます。
その道は住宅の間をうねうねと曲り夙川の堤防へと登っていきます。感じのよい道です。
■怪しげな夙川不動明王(14:54)
登り切ったところにはお堂が2つ。夙川不動明王と日切地蔵尊。
「日切」とはよく知りませんが、日を決めてお参りすると願いが叶うらしいです。
不動明王は案内板では、元は剣谷というところにあったそうで、昭和12年の甲陽大池決壊で流出し苦楽園川に埋まっていたそうです。剣谷はどこか、調べてみると北山公園の西側に剣谷町というのがありました。その西には剣谷という地名もある。ん?ここにあった不動明王が甲陽大池の決壊で、苦楽園川に埋まるのか??それから、甲陽大池の決壊は昭和10年でないの?
ということで、よくわからない説明でしたが、不動明王のお顔はいかにも素朴なお顔でした。夙川の堤防から振り返ってみる怪しげな道はなんとも気持のよい道でした。
【御茶屋所町】
今津っ子さんのサイト「阪神間の街道を歩く」には、貞享三牛(1686)の広田西宮両宮古図が載っていて、そこには、夙川の西に「御茶屋所」が書いてあり、説明として。「古昔廣田明神南宮八幡兵庫和田之御崎エ御神幸之時此所ニテ馬揃仕侯只今者御茶屋所ト申候」と書いてありました。ここから北に行って夙川を渡り廣田神社に至る道も書いてありました。
http://imazukko.fau.jp/kaidou/archive/ezu/nishinomiya/hironishi/hironishi.html
あるいは、マイケルさんのサイトでは西宮市役所・市史編集室による情報として「(広田、西宮)両神社の神輿は、当時西国街道と中国街道が合流したこの地(御茶屋所町のこと)で合わさり、供奉の供ぞろえをしたという」とあります。
いずれにせよ、ここで馬、行列を揃えて一服した御茶屋所があったんでしょう。それで「御茶屋所」。
そもそもこの辺りは廣田神社の地盤であった。廣田神社のサイトでは、「当社が、京の都から西方にあるので、中世の貴族から「西宮」と別称された。後に、「西宮」の語は廣田神社の荘園である廣田神郷(神戸市東部~尼崎西部、有馬、猪名川に及ぶ)全体の地名として使われるようになり、近世には末社の南宮や、戎社(現在の西宮戎神社)のある浜南宮を中心とした地域(旧西宮町)の地名となり、西宮市の名称へと受け継がれた。」とあります。
http://www.geocities.jp/hirotahonsya/yuisyo.html
【森具の話】
地元の人たちのサイトをいろいろ調べてみました。
(1)西宮市生涯学習大学・宮水学園自主グループ・西宮の語り部には、御茶屋所の、今AOKIのある場所で生まれたという人のインタビューが載っていました。2002年頃にさくらFMでも放送されたものです。http://hccweb1.bai.ne.jp/mi-re-ni-2000/mln065.pdf
それによると、
・「私の生まれた家の前から(山陽道が)西国街道になった」
・「夙川の夙は宿場の宿」
・「森具は守具(しゅぐ)から」
・「森具の郵便局の東のところに馬の水飲み場があった。戦後いつのまにかなくなった」」
あと、林与一さん、天津乙女さん、須田剋太さんの話題もありました。今の大手前大学のところは味噌の阿波屋だったとか。昭和初期の話です。読んでみるとマイケルさんの記事通りですね。
(2)西宮市の「環境学習都市・にしのみや エココミュニティ情報掲示板」の「語り部ノートにしのみや」夙川のページによると、
http://info.leaf.or.jp/index.cgi?information,history_culture,item,7
http://www.nishi.or.jp/~gakkou/kyoiku/kenkyu/kataribe/syukugawa/index.html
・夙川(川の名前)は、もともと「宿川」であったといわれています。(宿川と書いた絵図も見た)
・阪急夙川駅から香櫨園の辺りは昔「古宿」と呼ばれていました。西国街道と中国道が出会う地点にあたるため宿場町があつたから。
・「宿」から「守具(しゅぐ)」に、さらに「守」の字は「もり」と読んで「森」の字をあて、「森具」に変化していきました。
・古宿の辺りの宿場町は不思議と江戸中期以降の記録が残っていません。突然、宿場の人たちが消えてしまったと言われています。
・かつて夙川は大井手町北側から東南に流れていました。鎌倉時代に、夙川は西宮神社の西につけかえられ、さらに南へ真っ直ぐ下らせて、現在の夙川となりました。
(3)さらに、「そもそも、この「森具」という地名は、奈良時代に当時の西国街道の「宿」が、現大井手町、若松町付近に置かれており、夙川の河川改修に伴って、集落全体を現在の屋敷町付近へ移設ました。」と書いてあるブログもありました。
http://shigechancompany.blog88.fc2.com/blog-date-200807.html
えらく具体的な話が出てきますが。どこから引いているんでしょうね?原本を読んでみたい。
ちなみに、西宮中心部は平安時代の頃、約1000年くらい前まで砂嘴で、今の阪急電車のあたりまで海が入り込み入り江をなしていたようです。広田からえべっさんの東の戸田町へ船で渡ったそうです。その後、平安時代末期ぐらいまでには、東六甲の山肌から運んできた土砂で入江が埋められたといいます。そして、鎌倉時代には夙川は西宮神社の西につけかえられることになります。
こんなことを考えると、江戸時代はともかく、ずっと以前の山陽道は、広田-越水ときて御茶屋所にまっすぐ来ていたというのは妥当なところでしょう。西宮の人にとっては、ここを古い街道が通っていたのは当たり前の話になっている気がしてきました。
【再び森具】
さて、JR線路の北側に行ってみます(15:07)。
ちなみに、この橋梁はなんと「守具川橋梁」というのでした。森具でなく、古い守具を今だに使っています。さて、しゅく川橋梁なのでしょうか?もりぐ川橋梁なのでしょうか?「鉄道遺構探検部」によると、しゅくがわ橋梁らしい。
http://homepage3.nifty.com/noafactory/tetsu-ikotan/it003/f003.html
ここにも、川を渡る人のためにちゃんと飛石もあります。ちょうど、犬の散歩の人が通っていきました。
線路をくぐった所には大きな池があって公園になっていました。調べてみると、元は香櫨園遊園地だったそうで、この池(片鉾池)を中心に明治40(1907)年に作られ、片鉾池にはウォーターシュートが設けられたそうです。ホテルや茶寮、動物園、博物館、音楽堂まであったそうな。阪神の香櫨園駅はこのとき開設され、おおいに賑わったということでした。今は静かな市民の公園です。 そんなこととはつゆ知らず、ベンチで休憩しただけで、写真も撮ってません。
霞町から森具に戻ります。霞町は元香櫨園遊園地の一角を占めていました。それより以前は「語り部ノートにしのみや」によると「狐や狸の棲む山林・原野でした。」ということです。 線路脇には小さな地蔵さんの祠が建っていました(15:22)。

踏切を渡って、ゆっくりした坂を下ります。大手前大学の健身館のところに戻りますが、須佐之男神社に寄ってみました(15:27)。ここは森具の宮と呼ばれています。

当社の創建については不詳ですが、慶長年間(1596~1615)の創始と伝えられ、明治になって牛頭天王社から須佐之男神社となりました。ここも震災で大変な被害を被ったようです。
御茶屋所町をぐるぐる回ったあげく森具交差点のところの喫茶店に入り込みました(15:37)。ゆっくり休憩。
ここの女主人と話していると、いとも簡単に、「ここで殿様がお茶したから御茶屋所町と聞いてる」と言ってました。
後日、いろいろ調べましたが、ここに書いたようなことで、御茶屋所町のあたりで中国街道と西国街道が合流していたのはあたりまえにような記述ばかりでした。ただし原典はどこなのかがよくわからないのでもどかしい気がします。
江戸期はともかく、それ以前は御茶屋所町で中国街道と西国街道が合流していたというマイケルさんの考証通りでまちがいはないのでしょう。
【本日のマップ】
http://goo.gl/maps/8BIQ
(おわり)
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