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2010年11月 7日 (日)

東海道ウォーク 新居-二川(1)

2010年9月29日(水) 新居宿



 知立での仕事がやっと終り、開放されました。しかしあと2週間ほどはレポート書きが残っている。この狭間の開放感に充ちた1日を有効に使わなくては、ということで、今日も歩きます。
 朝起きるまで、曼珠沙華も咲き揃ったであろう岩滑に行くつもりでしたが、このところ疎かになっている東海道を歩くことにしました。予定では、新居から二川まで。先行して二川-御油間はほぼ1年前に歩いてるので、御油まで繋がり、さらに長かった静岡県も越えられるのでした。
 しかし資料も地図もなんにもない。あるのは1年前にウォークを検討した時の記憶だけです。道は一本道なので迷うことはないとしても、見落としがたくさん出るかも。

 名鉄特急で豊橋まで、さらにJRで新居町まで。9時頃に知立のホテルで朝食を食べてから出てちょうど特急に間に合ったので、下記の時刻表だったのかと思います。あっという間!
09:25知立-09:56豊橋
10:06豊橋-10:24新居町
しかし、当日は豊橋で新快速に乗り遅れたような気もする。

【新居関所】
■新居町駅(10:32) 駅前でゆっくり一服してから出発です。前回は2009年10月20日でしたので約11ヶ月ぶり。

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 駅から道路際の少し高いところに遊歩道を通りました。後で分かったことですが、ここに山頭火の句碑「水のまんなかの道がまっすぐ」があるんでした。見たのかな?覚えていない。

■浜名橋水路(10:40)
 まもなく浜名湖に通じる水路を渡ります。橋は浜名橋。川なのか水路なのか?埋め立てがどこまで行われたのかよく知らないんですが、おそらくこの水路が関所のそばまで来ていたんでしょう。

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 水路のすぐそばには傾いた秋葉山の祠がありました。中はしっかりしているので、誰か直さんかいな。

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■新居関所(10:43~54)
 この関所は地震・津波被害のため移転、改築を繰り返しています。
 元々の名は今切関所であり、最初は今切近くに建てられていました。
1600年:慶長5年、今切口近く「大元屋敷」に設置
1703年:元禄16年、地震、津波のため「中屋敷」に移転
1707年:宝永4年、地震のため建物が全壊
1708年:宝永5年、現在地に移転
1854年:嘉永7年、地震により大破し、翌安政2年改築。

 安政2年のものが現存し、修理改築はあるものの、唯一、本物の関所の建物が見られます。
 1998年から船着き場遺構の発掘、護岸石垣の整備がされています。この発掘調査、修理を請け負った会社のサイトを乗せておきます。プロなので内容はしっかりしています。http://www.woodc.co.jp/01_3.html

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 松の木に気を取られて、写真には再現された船着き場・石垣があまり写っていませんでした。元々の場所は側にある駐車場あたりで、新居渡船場跡・常夜灯があるようですが、それは後で分かったこと。
 せっかくなので中に入ってみました。ただし、資料館はパス。

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 石樋の横にある御触れの看板には、「往来の女つぶさに証文引き合わせて通すべき事  附乗物にて出女は番所へ女を差出して相改べき事」と、明記され、「入り鉄砲に出女」を厳重に取り締まったことが分かります。多くの女たちはこの関所を通過しない姫街道を利用したのもうなずけます。

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【新居宿】
■旅篭・紀伊国屋(10:57)
 関所を越すと新居宿に入ります。
 紀伊国屋というノレン看板が見えました。古い旅籠を資料館として公開しているようです。ここは紀州藩の御用宿だったそうな。入場は関所との共通券になっていますが、ボクは関所資料館の「ついてない関所だけの入場券だったのでパスにしました。また来ることもあるでしょう?

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■本陣2題
 通りのドン突きには本陣跡があります。通りの正面が飯田武兵衛本陣跡です。なにやら場末の感じがしてちょっと寂しいところです。

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 左折すると疋田八郎兵衛本陣跡が見えました。3軒あったということなんですが、後で調べると疋田医院が疋田弥五助本陣跡らしい。

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■宿場通りは休みか?
 宿場通りを行きます。今日は休みなのか、あまりお店が開いていません。

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 本陣跡から5~6分で一里塚跡(11:04)。ここも普通の民家が建っていまして、軒先に石標と看板が建っているだけでした。

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■棒鼻(11:06)
 一里塚跡から2分ほどで棒鼻につきます。 棒鼻とは棒の先で、宿場の境界に榜示杭が立っていたことから、宿駅のはずれのことをいいます。

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 案内板には、「棒鼻とは、駕籠の棒先の意味。大名行列が宿場へ入るとき、先頭(棒先)を整えたのでこの場所を棒鼻と呼ぶようになった」とありますが、ほんまかいな?境界を示す傍示杭のほうが説得性があります。
 ここは、大勢の人が通れないように土塁が突き出て桝形をなしていました。たしかに道が ┏ の形になっています。

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 宿場というのはだいたい、棒鼻-上方見附-本陣や高札場、問屋場など-江戸見附-棒鼻 と、こんな造りになっていました。木戸というのもありますが、木戸とは、古代~中世では、柵・城郭といった防御施設の門をいいます(厳密なのがどうか?)城下を通る街道筋にも残ってますね。土居というのもありますね、京の御土居とか。
 棒鼻は京都・伏見にもあります。昔、その近くに住んだことがあって市電(や、後にはバス)で通ったり、買い物に行ったりしましたね。市電が竹田街道から離れて専用線に別れるところでした。
 棒鼻という意味がずっと分からないままでしたが、そういえば、そこは「伏見宿」の北外れだったんですね。
 伏見というと、伏見城か伏見港が先にきまして、宿場というのはあまり感じなかったですが、江戸期には、東海道第五十四次。本陣四、脇本陣二、旅籠三十九軒、戸数六千二百四十余、人口二万四千二百二十余人。堂々たる宿場でした。それ以上に、京都に通じる伏見街道、大坂への大坂道、大津への大津街道が交差しており、交通の要地となりました。西国大名も京を経由せず(できず)に参勤交代で江戸と郷里を行き来したということです。

 さっきの一里塚といい、棒鼻といい、新しい案内板です。平成22年3月なので、ついさっきのことですね、棒鼻は石碑も新しい。
 普通の枡形と思ってすぐに右折(西)しましたが、それは間違いでした。本来はまっすぐ南下して一号線に一時合流して北にずれていくのでした。その場所、橋本は鎌倉街道の宿場で由緒ある土地なのでした。
 このあたりは地図を持ってないことからの見落とし。

 

【本日のマップ】

より大きな地図で 東海道をあるく(新居-二川) を表示>
つづく

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