西国街道(4) 豊川-宿川原
2010年10月23日(土)
長らくのご無沙汰でした。芦屋で道草したし、諸事多忙につき歩くのはスローダウン、ブログにいたっては全く「停滞」です。
さて、西国街道4日目ですが、今日はどこまで行けるのやら?京都までは無理のような気がします。
■豊川再訪
京阪枚方-門真経由-モノレールでえらく時間がかかりました。モノレール豊川出発9:35。前回はひどい夕立で豊川で雨宿り、このあたりでまた雨に降られたのでした。ゆるやかな曲線の街道と熟れた板張の倉庫、この風景は見飽きません。
■ぼろ塚の虚無
「やましたばし」から北を見ています。右の川が勝尾寺川。川の分岐の三角になったところにある石碑のようなものがぼろ塚かと思っていたら、違いました。もっと勝尾寺川上流で写真の右手になります。
ぼろ塚とは、徒然草第115段に(読んでませんが・・・)ぼろぼろ(虚無僧)の果し合い奇談があって、ぼろの霊を弔うため誰がが建てたのでしょう。その話は検索していただくとして、茨木市市民学習課の「生涯学習だより まなびどり」では茨木の民話・伝説として紹介されています。
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宿河原というところで、ぼろぼろ(虚無僧)が沢山集まって、九品の念仏を申していた時、外よりはいってきたぼろぼろが、「私はしら梵字という者ですが、私の師匠が東国で、いろおしと申すぼろに殺されたと聞いたので、その人に逢って恨みをはらしたいと思って申しているのです」と言う。いろおしは「殊勝にもおいでになられたものだ。そういうことがありました。ここで切り合いをすれば道場をけがします。前の河原でお相手いたしましょう。同行のみなさん方、どちらへも加勢をしないでください。多人数の迷惑となっては、仏事の妨げになりましょう。」と言って、二人は河原へ出て、心ゆくまで戦って共に死んでしまった。
(『わがまち茨木 民話・伝説編』より)
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http://www.kira.city.ibaraki.osaka.jp/manabidori/no27/html/06-07/07.html
この話がよく分かりませんが、兼好のいう「死ぬことを軽く考えて、少しもこだわらない點がさばさばしている」というのでよいのか?ボクなぞは最初に読んだときバカバカしさを感じてしまいましたが・・・
宿河原とは、川崎市多摩区宿河原説(武蔵国説)と茨木市宿河原説があるようです。色々考証はされているようですが、決め手がなし。
■橋のまわりは道祖本
このあたりは(旧)道祖本村だったところです。「どうそもと」ではありません。「さいのもと」です。道祖神の道祖で賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょうか? 道祖本村の語源を調べようとしていますが、分かりませんね。
何と何との賽なのか?確かに茨木あたりから勝尾寺川を遡ってくると、この辺りから、いまは彩都などという「文化公園都市」が開発されている山が北から迫ってきて、南にある、今はゴルフ場の丘に挟まれて、いかにも茨木から見た境界の地のように見えます。しかし、土地はなだらかで峠の様子は微塵も感じられません。
野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的になってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」
道祖本もこういうことなのかな?昔、勝尾寺川を遡ってきて、山が迫ってくるこの辺りから低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林で、村では部分的に焼畑をしていたと・・・その元にある村なので「道祖本村」。なんとなく納得してしまったので、そうとしておきましょう。
■宿川原椿本陣
のっけから話が長くなって、今日中に京都まで行けません。先を急ぎます。今は明るい開けた街道が続き、新しくなった鍛冶屋橋を渡ると宿川原です。
ここは西国街道の5つの宿駅のうち、郡山宿であり、本陣も残されています。本陣は、享保3年(1718年)に類焼にあい3年後に再建された建物が残っています。かつて西国大名らが参勤交代時の定宿として利用したといいます。なるほど重厚!前回はここで雨宿りをしたのでした。
茨木市の紹介サイトがえらくあっさりだったので、(勝手に)下記のサイトをあげておきます。
http://murata35.chicappa.jp/kansaitanboki/koriyamajyuku/index.htm
http://www.y-morimoto.com/saiiseki/honjin.html
■いかにも枡形
宿川原の突き当たり、いかにも枡形のようになっています。突き当たりに石標がありますが、うまい具合に自転車と道標に隠れている。いつも思いますが、なんとかならんのか!この建て方。
大きいほうは「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道」。小さいほうはよく分かりませんが、「左 かちおう寺 西国道」「右 茨木停車場 そうぢじ 道」と刻まれているようです。
昔、勝尾寺へ通じる道祖本街道というのが宿川原で西国街道と一緒になっていて、ここから分かれて、総持寺(街の名前でもあり、西国三十三ヶ所観音霊場でもある)に通じていたらしいので、その名残の道標なのでしょう。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm
いつも「なんやこの細いみちは」と言いながら、対向車がこないかヒヤヒヤしながら車で通るのですが、なるほど昔ながらの街道ですか!いかにもその風情が残っています。一度通しで歩いてみたい。
■勝尾寺川沿いの街道
旧街道は宿川原を出て、旧171号線を横切り、勝尾寺川沿いに進みます。新171号を渡った所に「西国街道」の案内版と道標がありました。内容は一般的なものですが、幕府の正式名称は「山崎通」であるとちゃんと書いてありました。
どうもブランクが長くて、書き方のピッチが思い出せません。この分ではかなり長くなりそう。
【本日のマップ】
(つづく)
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コメント
近隣のもの さん、コメントありがとうございます。
石碑・道標の類、受難の時代ですね。昨年になりますが、八幡市の「三宅安兵衛」道標の1つがなくなっているのに気が付き、問い合わせたところ、トラックがぶつかって折れたので、回収して資料館の庭に転がしてあるそうです。
茨木市も対策はしてくれてるんですね。どうせなら2mほどバッファゾーンを設けてポケットパークにして、その外に柵を設けたらよいのに。土地確保が難しいんでしょうね。
投稿: walkin’ | 2014年6月17日 (火) 21時46分
>■いかにも枡形
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> いつも思いますが、なんとかならんのか!この建て方。
まさにおっしゃる通りです。
このようになったのは、運転をあやまり道標に突っ込む車が少なくなく、何度か小さいほうの道標が破損したためです。(ライトバンがバックで突っ込み道標を破壊して逃げて行ったのを目撃したとこともあります。あっという間の出来事で、ナンバーを確認することもできませんでした。)
コンクリートでの修復では追い付かず、ついには茨木市が柵を作るに至りました。
無粋な姿をさらしているのは情けないのですが、そのような状況ではあります。
投稿: 近隣のもの | 2014年6月17日 (火) 13時22分