西国街道(5)調子八角-東寺 (番外:淀)
2012年3月12日(月) 淀城趾
久しぶりの西国街道です。前回、数ヶ所の道間違いがあって、間違いの発端となった調子八角からのリベンジとするか、それともJR向日町から直接羅生門にむかうか、阪急西向日で降りて長岡京大極殿跡をみてから西国街道に入るか、悩ましいところでした。前日、何の理由もなく淀経由調子八角にした訳ですが、これが大当たりの元になりました。
【淀城趾】
いきなり番外ですが、せっかくなので淀城趾から。以前は、京阪電車で淀駅にさしかかると、淀城の石垣が見え、お堀には季節になると蓮かアヤメかなにかが咲いていて、しっとりした情景で、いつかは行ってみようと思っていながら数十年。近くにある場所は行かないもんで、淀城は今回初めてです。
電車の前の方に乗っていたので(新)淀駅ホームの端から端まで歩きました。さらに南に。明らかに競馬シフトで従来の駅はナシのようです。
ガチャガチャしたところですな。淀城前の自転車の勝手置場?には閉口します。與杼神社(よどじんじゃ)とかありましたが行く気力がなくなりました。あとで調べてみると、淀・納所・水垂・大下津の産土神で、かつては水垂(桂川を渡った川向こう)にあったようですが、1900(明治33)年の桂川河川敷堤防の拡幅工事により、淀城跡内に移転したそうです。また、淀城趾の横には稲葉神社もありましたが、ずれた写真を撮っただけ。
さて、淀城趾です。淀城之古趾、淀城趾、淀小橋跡、唐人雁木旧跡の石碑が集められています。案内板によると、稲葉家の城だったんですね。淀ギミの淀城はもう少し先の納所(のうそ)の妙教寺がその跡らしいです。淀城之古趾はその古淀城の碑のようです。朝鮮通信使が上陸した船着場の跡唐人雁木も旧宇治川にかかっていた淀小橋を渡ったあたりです。淀小橋は今で言うと淀駅前のショッピングセンターあたり、唐人雁木は旧京阪国道納所交差点あたりでしょうか?新之介さんのサイトの明治23年の古地図と最近の地図との重ね合わせを参考にしています。やっぱり街道歩きには古地図は必須かなあ?
http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html
今の三川合流点は八幡(・・というより、橋本)ですが、江戸時代の三川合流点は淀だったのだ。稲葉氏の淀城はこの三川合流点、というより巨椋池の出口に建っていたんですね。建てられたのは寛永二年(1625)、2代将軍秀忠の時代です。伏見城を廃城にして、交通、通商の要地である淀に築城されました。京のフタという意味もあったのではないか。ここに稲葉氏が入ったのは享保8年(1723)ですが、徳川縁の稲葉氏を置いて京への出入り、東西の交通の要所を締めるみたいな役割を果たさせたのではないかと・・・
しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れ、さらに淀の戦いでも敗れて敗走する幕府軍を幕末の淀藩は藩主稲葉正邦が老中だったにも拘わらず、入城させなかったのだとか。ついでに言っておくと、さらに東高野街道を敗走していく幕府軍を北河内の家康縁の村でも戸を閉めて水も与えなかったとか。これは実際に当地に住んでいる人から聞きました。
地図を見ていくと、淀川右岸には「山崎道」、続く宇治川右岸には「伏見道」の記述があります。いろいろ調べていくと、参勤交代も山崎宿で西国街道から分かれて久我畷に入り、小畑川からこの山崎道を通って淀城下から伏見道(淀畷)を通って、伏見-山科に抜けていったという記述がありました。城下を通ったのです。
http://www.eonet.ne.jp/~imagawat/yamazakimichi.htm
【秀吉の負の遺産】
行きがかりで巨椋池のことを調べていたらおもしろいサイトに出合いました。宮本博司さんの講演録です。
Http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s0710/mi004.htm#N0018
秀吉は文禄元年(実は天正20年、1592)、伏見に隠居屋敷・指月屋敷の建設に着手し(朝鮮出兵・文禄の役真っ最中です!)、さらに、明の講和使節を迎えるとき、権威を誇示するべく本格的な城郭への建て替えを実施します。文禄3年には完成した指月伏見城へ入りますが、同時に伏見城の外堀と伏見港を造るため、一番低い巨椋池に流れこんでいた宇治川を槇島堤を造って伏見城近くまでに引き寄せます。さらに、三栖から淀に至る淀堤(現在の京阪線の位置)で宇治川を堤防北側にあった大小の沼地と分離します。これで、宇治川の水量も増えて水運も便利になり、伏見に港としての機能を持たせた。桂川沿いでは京の玄関・羅生門に至る大阪街道を作り、また、伏見と奈良を結ぶ太閤堤(近鉄京都線の位置)を作ります。文禄5年(慶長元年)には慶長の大地震が起り、指月伏見城は倒壊しますが木幡に伏見城を建造。守口に今も遺構が残る文禄提は有名ですが、これも文禄3年(1594年)に着手、慶長元年(1596年)に完成です。地震をものともしない矢継ぎ早の工事には舌を巻きますね!
この辺り、うしさんが精力的に調べられています。
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/choumei.pages/yodo.html
これは寛永14年(1637)に木津川を付け替え、広げられた淀城下町の図です。久しぶりに訪問させていただきました。淀城の変化がよく分かります(合掌)。
淀堤は宇治川の流路を確定させることができた。 軍事目的にせよ、水運の便がよくなり、淀川が氾濫しないようにということで、秀吉もたまには良いこともするなと思っていましたが、宮本さんはこれは違うというのです。(新)宇治川は山手の高いところで、太閤堤や巨椋池はもっと低く、堤防が切れたら水が押し寄せます。不自然で無理な設計だというのです。それ以後、徳川の時代にも治水工事はあったが、宇治川はそのままでした。
明治元年、山城盆地全域に大洪水が起こり、木津川は生津付近で決壊(生津切れ)し八幡方面に出水、宇治川も氾濫(お釜切れ)して巨椋池に出水した。この災害を機 に、京都府と淀藩は木津川の付け替えを行います。さらに、明治18年に淀川で大洪水。枚方ほかで決壊、天満橋や淀屋橋なども流され、大阪駅は軒下まで水がついたといいます。古代の河内潟の再現ですね。 この洪水を機に、①琵琶湖の出口に瀬田川の洗堰を造った、②宇治川を巨椋池から完全に切り離した、③新淀川というのを造った、この3つの大工事で現在の淀川ができました。当時、政府が招請していたオランダのデレーケは、「巨椋池の遊水池機能を残そう」と進言したにも拘わらずです。
この淀川大工事は明治43年に完成、宇治川に観月橋から木津川合流点まで新堤防を築き、桂川の流出口を拡げて山崎まで引き下げ現代の水路にした。難工事だった三川合流点が現在のようになったのが昭和5年。昭和16年には巨椋池干拓事業終了します。
しかし、昭和28年9月に13号台風で宇治川が切れました。しかし、南郷洗堰は機能し、巨椋池が勝手に復活して大阪は大丈夫でした。宇治川がもし切れなければ、おそらく淀川本川が切れていた。そうなれば大阪は壊滅です。淀川のスーパー堤防も今は頓挫状態です。
宮本博司さんは秀吉に言いたいといいます。「あんたがええかげんで中途半端な土木工事でこんなもんを造ったから、400年経ってもあの辺はものすごく危ないんや」要は、秀吉と同じような設計思想で川をコントロールしようとしている。いたちごっこなのです。
今は巨椋池のどまんなかを国道1号線が走っています。淀堤と巨椋池跡地は歩いてみたい。巨椋池は広すぎるけど・・・このブログは淀川を中津から八幡まで遡った記録が最初なのです。当然、最低でも伏見までは行かないと・・・
【気を取り直して淀城趾】
うろうろと見て回りますが、工事現場みたいなことになっています。
天守台も何故か立入り禁止。しっかりと施錠されています。柵があるので危険防止という訳ではないらしい。見ると、柵の中に自転車がほりこまれています。こんなことするヤツがおるからやろな、ちょっと品位が疑われます。
【今日のマップ】
より大きな地図で 西国街道5 (長岡京-東寺) を表示
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