道祖本街道をあるく 粟生間谷
2013年9月9日
田んぼの中の道に入った頃から箕面市です。すでに粟生間谷に入っています。
粟生・間谷(あお・またに)と切るんでしょうね。粟生は、アワフ だったのでしょう。それが、アワオ→アオ になった。神戸にある胡麻生(ゴマフ)がゴモウ(今は、五毛と書く)になったのと一緒。
古代、三島県(あがた)があり、そこに宿久郷粟生野と呼ばれる地がありました。ここは粟の採れる野であったのです。今でこそ水田が広がっていますが、その
昔は粟畠が広がる土地だったのでしょう。粟飯は食べたことがありませんが、子供のころ、小さな畠で粟を作っているのを見たことはあります(その頃は麦飯が
普通だった。)
粟については、森浩一さんの「日本の深層文化」ではその重要性が指摘されています。
・スサノヲに殺されたオホゲツヒメの耳から粟が、目から稲が生まれた(古事記)
・新嘗祭のニイナメは「新粟嘗」で粟だった(常陸風土記)
・元正天皇は「陸田の利」「粟は最も精好」として、作付けを奨励した(続日本紀)
・粟で租を納めた。稲2斗、大麦1斗5升に対して粟は1斗のレート(賦役令)
・一段(991平米)の粟で夫婦2人が1年食える(江戸時代・宮崎安貞・農業全書)
粟は由緒正しき有用な作物でした。
間谷の由来についてはよくわかりませんが、http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/46 では、引用ながら、「この地区は昔、黄銅鉱が掘られていて、間谷の「間」は、坑道をさす「間歩」(まぶ)からついたのではないでしょうか」と書かれています。
■今の粟生間谷
粟生間谷の他には、粟生外院、粟生新家、粟生岩阪があります。山中の岩阪を別にして、粟生野は100m位の丘陵地で稲よりも粟の方が作付けに適していたのだと思います。ため池を作るまでは、林を伐り野を焼いて粟を作っていた。間谷を中心に、川筋で水を容易に得られる場所には稲を作った。粟生間谷の地をそのように理解しました。
■旧街道へ
田んぼの道が終り、橋と府道を渡って旧街道へ入ります。
■昔ながらの街道風景
■斬新!
下から撮り上げてみたいですが、よそのお宅をジロジロ見るのも・・・
これは素敵。
■山之口の石仏群
小さな橋を渡ると、「大峯山上三十五度 」供養碑と道標、地蔵が集められています。
双体地蔵もあります。道祖神?右端は庚申塚らしいです。青面金剛と彫ってある。青面金剛は享保8年(1723)、道しるべは文化15年(1810)に建立されたものという。
http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html
■道間違い
地蔵さまの辻を写真左に行くのが正解ですが、間違えて次の道を入ったらこうなりました。府道との辻に地蔵堂があるのですが、この道はこれでおもしろい。
■粟生間谷の交差点(π型)
いきなり街に出た感じがします。ここを右に行くとバス停とかスーパーがあって、ちょっとした街の中心地です。ここはポケットパークみたいになっていて、休憩可能。
■街道の農家
先程の交差点を左(西)に入ります。強烈な西日で写真を撮り直しました。
■中村の六字名号碑
巨大な石碑は六字名号碑というのだそうです。大きな邸宅のまん前に建っていますので写真撮るのも気がひける。側面に、嘉永五子年九月建立 と彫ってある。http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html
右上の写真を拡大すると「十」とだけ見えて(小さすぎて見えません)、大半は埋まっている標石があります。丁石だと言われている。あるいは、「十兵衛道」と彫ってあるのかも知れません。この巡礼道は十兵衛道とも言われていました。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm
■天満宮
椋が立派です。
■天満宮から下を見ています
ゆるやかな坂を登ってきた。いい感じの道です。
■神社の上の角に立っていたお地蔵さん
■府道を横切ります、新旧混淆の街道筋
新築の家があり、田んぼもある。粟生間谷の良さもまだ残されている。すき間があるのがよろしい。このすき間が家で埋めつくされたら、都会でもない、かといってイナカでもないという粟生間谷の街の良さが失われてしまう気がする。住民の方もそれは望まないだろう。山や野をリセットして作るニュータウンとは違う街づくりをしてほしいと思いますが、ディベロッパーはそうはしないんだろうなあ。
■楠木神社
粟生間谷の奥の集落の氏神ですが、天照皇太神宮が祀られています。明治に素盞鳴尊神社に合祀されましたが、戦後再びここに戻ってきました。住民の信仰生活を無視するような明治の神社統合は無理だったんでしょう。楠木神社なのに大きな椋があります。
■再び分離
街道はいったん府道に吸収されますが、すぐに分離。
■西田橋
街道はまたすぐに府道にあたりました。橋は西田橋で、渡って振り返り写真を撮っています。とりあえず、ここで道祖本街道は終ります。
■ここからは山に分け入る
巡礼道は十兵衛道になりますが、ここが廃道化しています。しかし箕面観光ボランティアガイドの方々が調査、復元されています。ぜひここを登ってみたい。しかし、夏場はブッシュが酷そうなので冬までお預けとします。年を越して春先の方がよいかも知れない。楽しみです。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm
■おもしろそうな建物、なんでしょう
バスは出たとこでした。次の時刻を調べると、40分ほどあります。待っていても仕方がないので、歩いて粟生間谷もバス停まで下ります。そちらの方が本数はありそうなので。
■五字神社
途中、五字神社がありました。はて、外院の勝尾寺表参道付近にもあったと思いきや、そちらは「ごじじんじゃ」、こちらは「ごあざじんじゃ」と言うのだそうです。しかし、ご祭神はどちらも同じ八意思兼命(やごろもおもいかねのみこと)。知恵の神様です。オモイカネの神社は初めてです。
猫が寝ています。細目でじっと睨んだだけで逃げません。
今さら智恵と言われても、とは思いましたが、お参りはしておきました。
ちょっと急ぎ足でしたが、粟生間谷の底力を少し感じられたよいウォークになったと思います。また来たい。
(終り)
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コメント
ジジママさん、コメントありがとうございました。ブログ満杯につきあまり見てませんでした。新しいサイトは別記の通りです。
山之口石仏の周辺の景色が大きく変わってしまったんでしょうか?再度見に行ってみようかと。勝尾寺への古道があるというので、そこをあるくのがやり残し宿題となっていまして。お墓の件は別の方かと思います。またよろしくお願いします。
投稿: walkin | 2016年10月25日 (火) 15時57分
五字神社の猫というキーワードでここにたどり着きました。
粟生間谷の記事を読ませていただき、今はもうない景色の写真を見れてとても嬉しかったです。
山之口の石仏群のすぐそばにあった自宅兼会社の建物に長く通っていた者ですが、もしかして近くのお墓について訪ねてこられた方でしょうか?
会社がなくなってしまい、景色も変わってしまいましたが、変わる前の頃の景色がまた見られると思いませんでした。ありがとうございます。
ステキなブログですね。わたしもぶらっと出かけていろいろな土地の雰囲気を味わうのが好きです。
投稿: ジジママ | 2016年10月23日 (日) 23時45分