道祖本街道をあるく 宿久庄
2013年9月9日
宿久庄に入ります。宿久庄に何かおもしろい話題でもないかと検索してみましたら・・・・見事に不動産情報がほとんどでした。こういう場所は概して、農業にうま味がなくなってかどうか分かりませんが、振るわなくなって土地を売ってどんどんこぎれいな家が建ちつつある場所に多いです。宿久庄はまた川端康成氏が幼少から少年のころの引き取られ先で、その話題はありますが、実際には行ってないし・・・かなり梅花女子大学より東の方ですので。
とにかく宿久庄へ行ってみます。
■171号の信号
ここを右に入りますが、小林製薬の研究所はここだったのか。先程の宿川原とはうって変わって、町の感じはします。
■旧街道
先程、宿川原からの道で、まっすぐ171号を渡って、工場建屋の間を抜けて来ると、ここに出てくるものと思われます。
■道が狭い
Y字型になっているところを左に行きますが、狭い。写真はクルマのない頃合いに撮っていますが、かなり多いです。さらにスピードを出している。それもトラックが多いので危ないことこの上なし。
遠まわりでも梅花のすぐ下の道まで行ったほうがよいでしょう。
二の鳥居。上部は木製で、下部で繋いであります。
拝殿、本殿は新しいです。かつ、周囲も伐採されていて妙に明るい。由緒書きもなにもありません。
そのくせ、こんなはり紙はある。
しかたがないのでサイトを検索すると、天平期に大中臣清麻呂が住居を構えていて付近に祖神を祀ったらしいので、祭神はアメノコヤネと思うのですが、現在の祭神はスサノヲとその后・イナダヒメとなっているのだそうです。話のきっかけとしてはおもしろいのですが、それ以上進まない。蚊も多いので早々に退散します。
■神社の前を横切る道
整備してあったので、ここを通ります。
が、通せんぼしてあった!
■そのまま村の中に入っていきます、なかなかよい坂道。
■コンポジション
■いい感じのコントラスト
日本の家屋は本当に美しいと思います。
■共同の倉庫か何か?
前に回ってみると個人の家であったようにも見えるし、倉庫のようにも見える。
■府道を歩きます
■山手の方には巨大は邸宅!
■クルマを避けて対岸を歩きます
予定を変えて車道ではなく、田んぼの中のみちを歩くつもりでえす。
■川から離れていきます
■左が田の中の道か
いったん車道に出たのでどうなるかと思ったら、二又に別れました。
■このあたりから箕面、粟生間谷です
モノレールは目前です。
■田と彩都
彩都は、都市にも近くて山にも近い、周囲は里の風情というので人気があると思いますが、あの巨大なビルをみてみると気が萎えてしまいます。これがいい人はいいんでしょうけど、昔ながらの香里や千里、仙北などのニュータウンと同じ発想で作ったのではないかと思ってしまいます。
交野の山に登ると、茨木の奥に山を削ったあとがよく見えます。彩都を宣伝しだして、ずいぶん経つのに、削ったままの場所が見えるので、どうしたのかと思っていたら、あまりうまく進んでいないのだとか。分譲価格が高いのと違う?
■南をみると・・・
ため池のようです。丸い堤防でよいのか?
■モノレールを過ぎて道が狭くなりました
振り返って写真を撮っています。ここだけ原野になっています。
■緩やかな丘を越えて、粟生間谷へ
ここは気に入りました。本日のベストプレイス。
振り返ると、丘を越えてきたのが分かります。
考えてみると、康成少年の宿久庄もこんな土地だったのではないか?彼は少年の頃は体が弱く、高校の時、宿久庄から茨高(旧制茨木中学)まで、約6kmの道のりを毎日歩いて通って克服したといいます。少年のときはこのあたりまで足を延ばしたのではないかと思ったりします。康成少年は3歳から15歳まで宿久庄で暮らしたそうなので、その頃の経験が基本的な人となりを作ったのではないかと思います。
農道が合流しました。クスベをしている煙も上がっています。
より大きな地図で 茨木街道 を表示
| 固定リンク
「散歩」カテゴリの記事
- 道祖本街道をあるく 粟生間谷(2013.09.21)
- 道祖本街道をあるく 宿久庄(2013.09.20)
- 道祖本街道をあるく 宿川原(2013.09.20)
- 茨木街道をあるく 郡神社-郡山(2013.09.18)
- 茨木街道をあるく 上穂積-郡(2013.09.16)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント