2015年8月17日 (月)

■40年ぶりの南アルプス 聖岳~光岳

2015年7月29日-8月3日 ボクが南アルプスへ行きだしたのはたしか、昭和50年前後だったと思う。塩見岳以南の南アルプス南部中心で、光岳はまだ登っていなかった。それから数えると約40年ぶり。実は昨年夏も計画したのだが、台風で延期、さらにその後の豪雨で車が便ヶ島まで入らないというのでさらに延期。結局昨年は中止して、上州武尊山へ行ったのだった。パートナーは学校の先輩のS氏。約40年前に塩見~荒川~赤石と縦走し、サワラ島に下りた。その時、「この次は聖から光まで」と約束していたようだ。その約束は忘却の彼方であったが、聖から光までなら望むところだ。  聖岳は2回目だが、もう全然記憶にない。当時は畑薙大吊橋から入り、茶臼小屋、上河内岳ー聖岳ー赤石岳と縦走した。おそらく聖平小屋(まだ避難小屋だった)に泊まり、聖岳ー兎岳ー大沢岳ーと縦走し、百間洞はパスして赤石まで行ってしまった。赤石着18:00頃で心...

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2015年6月 6日 (土)

■いまだ越えず丹波越え(4)久多谷を歩く

2015年5月29日

 久多谷もずっと昔に通っているはずなのだが、今はどうなっているか?近江の針畑谷と国境尾根を隔てて良く似た環境にあると思うが、針畑谷は谷は長いがバスが通る。こちらの久多谷は谷は針畑谷より短いがバスがない。小入谷や生杉あたりは新しい住人も入っているようで希望が持てたが、空き家も目立った。こちらはどうなのか、関心がある。

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◆久多の大杉(下流側から)

ただいまブログ再編中につき、本文はこちらを参照ください。

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2015年6月 5日 (金)

■いまだ越えず丹波越え(3)久良谷

2015年5月29日  結構ぐっすり寝て起床は6時頃だった。  昨晩の事件は、多分山ヒルにやられたこと。あごに何かひっついていたので無理やり引っ剥がした。真っ暗でよく分からなかったが、多分山ヒルだろう。テントといってもツエルトなので床も何もなく、外から入ろうと思えばイケイケになっている。しかも、狭い銀マットを敷いただけでうつうつしていたので、その時にくっついたのだろう。これについては続きがあるが、それはまた後で。 ◆タニウツギ ただいまブログ再編中にて、本文はこちらをどうぞ。http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-189.html...

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2015年6月 3日 (水)

■いまだ越えず丹波越え

2015年5月28-29日  「鯖だけではなかった鯖の道」の続編である。  前回は、最も?正統的なコースである「小浜-遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷-桑原―丹波越-三国岳-久多―オグロ坂-八丁平-尾越-大見-大見尾根-花背峠-鞍馬-出町」のうち、足のツリの様子を見たため、「桑原―丹波越-三国岳-久多」の丹波越えを省略してしまった。このまま、鞍馬-出町を歩いて、終わり、とする訳には行かないので、歩いてきた。  ただし、「丹波越」のうち、峠を越えて、久多側に降りる道が判然とせず、しかも沢を下ることになるので、不確定なまま歩くのはやめておき、三国岳(さんごくだけ)に迂回するのは変らない。 ◆丹波越の久多側 久良谷源頭  季節がもう初夏で木々も茂ってきて見通しも悪そうだが、5月のGW以来、雨が少なかったので、丹波越の久多への下りを探索するにはもってこいの時期かと思い、ちょっとだ...

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2015年5月 2日 (土)

■鯖だけではなかった鯖の道

2015年4月26~28日  「京は遠ても十八里」 若狭・小浜商人の余裕さえ感じられる言葉だが、一介のウォーカーにとっては「72kmは遠いわ!」 小浜から京まで、一塩した鯖を背たろうて、一昼夜で(仮眠はするにしても)駆け抜けるのだからあきれてしまう。 久しぶりの街道歩きであるが、こちらはそんなことは考えずに2~3日で歩こうと思う。 コースは数ある鯖の道のなかで、小浜-遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷-桑原―丹波越-三国岳-久多―オグロ坂-八丁平-尾越-大見-大見尾根-花背峠-鞍馬-出町の最も?正統的なコースである。ただし、1)小浜-遠敷はちょっと省略、2)丹波越からクラ谷下りは道が不明なので、三国岳に迂回する、3)鞍馬-出町は通しでなく別途あるく。こんなヤワな条件つきとする。 ◆GoogleMap 手動で拡大縮小してください  10年近く前から温めてきた企画であるが、延ばし延ば...

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2013年9月21日 (土)

道祖本街道をあるく 粟生間谷

2013年9月9日  田んぼの中の道に入った頃から箕面市です。すでに粟生間谷に入っています。 粟生・間谷(あお・またに)と切るんでしょうね。粟生は、アワフ だったのでしょう。それが、アワオ→アオ になった。神戸にある胡麻生(ゴマフ)がゴモウ(今は、五毛と書く)になったのと一緒。  古代、三島県(あがた)があり、そこに宿久郷粟生野と呼ばれる地がありました。ここは粟の採れる野であったのです。今でこそ水田が広がっていますが、その 昔は粟畠が広がる土地だったのでしょう。粟飯は食べたことがありませんが、子供のころ、小さな畠で粟を作っているのを見たことはあります(その頃は麦飯が 普通だった。) 粟については、森浩一さんの「日本の深層文化」ではその重要性が指摘されています。・スサノヲに殺されたオホゲツヒメの耳から粟が、目から稲が生まれた(古事記)・新嘗祭のニイナメは「新粟嘗」で粟だった(常陸風土記)...

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2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿久庄

2013年9月9日  宿久庄に入ります。宿久庄に何かおもしろい話題でもないかと検索してみましたら・・・・見事に不動産情報がほとんどでした。こういう場所は概して、農業にうま味がなくなってかどうか分かりませんが、振るわなくなって土地を売ってどんどんこぎれいな家が建ちつつある場所に多いです。宿久庄はまた川端康成氏が幼少から少年のころの引き取られ先で、その話題はありますが、実際には行ってないし・・・かなり梅花女子大学より東の方ですので。 とにかく宿久庄へ行ってみます。 ■171号の信号ここを右に入りますが、小林製薬の研究所はここだったのか。先程の宿川原とはうって変わって、町の感じはします。 ■旧街道先程、宿川原からの道で、まっすぐ171号を渡って、工場建屋の間を抜けて来ると、ここに出てくるものと思われます。 北をみると田んぼの向うに大きな建物があります。山の方は梅花女子大学ですが、その手...

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道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日  宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。 ■あの角を曲れば茨木街道は終点 ■三本の道標があります背の高い方は、正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道」背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて中央「左 かちおう寺 西国道」       奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htmしっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか? ■椿の本陣摂津郡山駅本陣が正式名です...

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2013年9月18日 (水)

茨木街道をあるく 郡神社-郡山

2013年9月9日 郡神社に行ってみます。もとの案内看板まで帰ります。 ■どうにも理解しにくい参道家が参道を塞いでいるとしか思えません。 ■鳥居を撮っているのであって物干しを撮っているのではない もう少しやりようがあったのでは?ちょっと敷地を凹まして立ち木を植えるとか?東側だったのでできなかったとか?そもそもそういう発想はなかったものと思われます。ちょっと遠慮してサイズを小さくしておきます。 ■こちらの方がよい一筋南の、乗雲寺に行く道で、先程の妙見灯篭の角から入っていきますが、こちらの方を歩くのがいいです ■鳥居、やっと神社らしくなってきた ■由緒書きはほとんど読めません ■石段は途中から二又に ■拝殿です本殿はよく分かりません。郡・郡山・上野の三村の産土神で、もと北殿垣内の宮田にあり、明暦2年に社家の私有地に遷座したとあ...

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2013年9月16日 (月)

茨木街道をあるく 上穂積-郡

2013年9月9日  茨木は春日から穂積(上穂積)へ入ります。しかし、その間に上穂東町というのがあるんでした。先程写真をみていて、気がつきました。穂積の東だからなのか。 そもそも、安威川を越えたあたりまでは、古代においてはコトシロヌシとか鴨氏とか、その鴨氏は葛城系だとか、いや山城鴨だとかの話をしていましたが、セントラル茨木を過ぎる頃から、じんわりとアメノコヤネがひそんできます。  茨木神社では、元は天手力男命だったのが、素盞嗚尊になり、今は、ちゃんと天児屋根命が配祀されているし、倍賀春日神社では高良社だったのが主祭神が天児屋根命になっている。穂積にはいるので、穂積氏、ニギハヤヒ系かと思って、上穂積春日神社をしらべると祭神は天児屋根命になっていました。 中臣藍連や中臣大田連が活躍した土地であるとか、書紀には皇極3年に中臣鎌子連(藤原鎌足)が仮病を使って引きこもったとかいう話はありま...

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