カミ

2015年6月 6日 (土)

■いまだ越えず丹波越え(4)久多谷を歩く

2015年5月29日

 久多谷もずっと昔に通っているはずなのだが、今はどうなっているか?近江の針畑谷と国境尾根を隔てて良く似た環境にあると思うが、針畑谷は谷は長いがバスが通る。こちらの久多谷は谷は針畑谷より短いがバスがない。小入谷や生杉あたりは新しい住人も入っているようで希望が持てたが、空き家も目立った。こちらはどうなのか、関心がある。

サイズ変更R0012248rr
◆久多の大杉(下流側から)

ただいまブログ再編中につき、本文はこちらを参照ください。

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2013年9月21日 (土)

道祖本街道をあるく 粟生間谷

2013年9月9日



 田んぼの中の道に入った頃から箕面市です。すでに粟生間谷に入っています。
 粟生・間谷(あお・またに)と切るんでしょうね。粟生は、アワフ だったのでしょう。それが、アワオ→アオ になった。神戸にある胡麻生(ゴマフ)がゴモウ(今は、五毛と書く)になったのと一緒。
  古代、三島県(あがた)があり、そこに宿久郷粟生野と呼ばれる地がありました。ここは粟の採れる野であったのです。今でこそ水田が広がっていますが、その 昔は粟畠が広がる土地だったのでしょう。粟飯は食べたことがありませんが、子供のころ、小さな畠で粟を作っているのを見たことはあります(その頃は麦飯が 普通だった。)
 粟については、森浩一さんの「日本の深層文化」ではその重要性が指摘されています。
・スサノヲに殺されたオホゲツヒメの耳から粟が、目から稲が生まれた(古事記)
・新嘗祭のニイナメは「新粟嘗」で粟だった(常陸風土記)
・元正天皇は「陸田の利」「粟は最も精好」として、作付けを奨励した(続日本紀)
・粟で租を納めた。稲2斗、大麦1斗5升に対して粟は1斗のレート(賦役令)
・一段(991平米)の粟で夫婦2人が1年食える(江戸時代・宮崎安貞・農業全書)
粟は由緒正しき有用な作物でした。
 間谷の由来についてはよくわかりませんが、http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/46 では、引用ながら、「この地区は昔、黄銅鉱が掘られていて、間谷の「間」は、坑道をさす「間歩」(まぶ)からついたのではないでしょうか」と書かれています。

■今の粟生間谷

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 粟生間谷の他には、粟生外院、粟生新家、粟生岩阪があります。山中の岩阪を別にして、粟生野は100m位の丘陵地で稲よりも粟の方が作付けに適していたのだと思います。ため池を作るまでは、林を伐り野を焼いて粟を作っていた。間谷を中心に、川筋で水を容易に得られる場所には稲を作った。粟生間谷の地をそのように理解しました。

■旧街道へ
田んぼの道が終り、橋と府道を渡って旧街道へ入ります。

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■昔ながらの街道風景

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■斬新!
下から撮り上げてみたいですが、よそのお宅をジロジロ見るのも・・・
これは素敵。

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■山之口の石仏群
小さな橋を渡ると、「大峯山上三十五度 」供養碑と道標、地蔵が集められています。

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双体地蔵もあります。道祖神?右端は庚申塚らしいです。青面金剛と彫ってある。青面金剛は享保8年(1723)、道しるべは文化15年(1810)に建立されたものという。

http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

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■道間違い
地蔵さまの辻を写真左に行くのが正解ですが、間違えて次の道を入ったらこうなりました。府道との辻に地蔵堂があるのですが、この道はこれでおもしろい。

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■粟生間谷の交差点(π型)
いきなり街に出た感じがします。ここを右に行くとバス停とかスーパーがあって、ちょっとした街の中心地です。ここはポケットパークみたいになっていて、休憩可能。

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■街道の農家
先程の交差点を左(西)に入ります。強烈な西日で写真を撮り直しました。

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■中村の六字名号碑
巨大な石碑は六字名号碑というのだそうです。大きな邸宅のまん前に建っていますので写真撮るのも気がひける。側面に、嘉永五子年九月建立 と彫ってある。http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

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右上の写真を拡大すると「十」とだけ見えて(小さすぎて見えません)、大半は埋まっている標石があります。丁石だと言われている。あるいは、「十兵衛道」と彫ってあるのかも知れません。この巡礼道は十兵衛道とも言われていました。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

■天満宮
椋が立派です。

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■天満宮から下を見ています
ゆるやかな坂を登ってきた。いい感じの道です。

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■神社の上の角に立っていたお地蔵さん

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■府道を横切ります、新旧混淆の街道筋

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新築の家があり、田んぼもある。粟生間谷の良さもまだ残されている。すき間があるのがよろしい。このすき間が家で埋めつくされたら、都会でもない、かといってイナカでもないという粟生間谷の街の良さが失われてしまう気がする。住民の方もそれは望まないだろう。山や野をリセットして作るニュータウンとは違う街づくりをしてほしいと思いますが、ディベロッパーはそうはしないんだろうなあ。

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■楠木神社
 粟生間谷の奥の集落の氏神ですが、天照皇太神宮が祀られています。明治に素盞鳴尊神社に合祀されましたが、戦後再びここに戻ってきました。住民の信仰生活を無視するような明治の神社統合は無理だったんでしょう。楠木神社なのに大きな椋があります。

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■再び分離
街道はいったん府道に吸収されますが、すぐに分離。

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■西田橋
街道はまたすぐに府道にあたりました。橋は西田橋で、渡って振り返り写真を撮っています。とりあえず、ここで道祖本街道は終ります。

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■ここからは山に分け入る
巡礼道は十兵衛道になりますが、ここが廃道化しています。しかし箕面観光ボランティアガイドの方々が調査、復元されています。ぜひここを登ってみたい。しかし、夏場はブッシュが酷そうなので冬までお預けとします。年を越して春先の方がよいかも知れない。楽しみです。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

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■おもしろそうな建物、なんでしょう

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バスは出たとこでした。次の時刻を調べると、40分ほどあります。待っていても仕方がないので、歩いて粟生間谷もバス停まで下ります。そちらの方が本数はありそうなので。

■五字神社
途中、五字神社がありました。はて、外院の勝尾寺表参道付近にもあったと思いきや、そちらは「ごじじんじゃ」、こちらは「ごあざじんじゃ」と言うのだそうです。しかし、ご祭神はどちらも同じ八意思兼命(やごろもおもいかねのみこと)。知恵の神様です。オモイカネの神社は初めてです。

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猫が寝ています。細目でじっと睨んだだけで逃げません。

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今さら智恵と言われても、とは思いましたが、お参りはしておきました。

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 ちょっと急ぎ足でしたが、粟生間谷の底力を少し感じられたよいウォークになったと思います。また来たい。

(終り)

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2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日


 宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。

■あの角を曲れば茨木街道は終点P1260842

■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道

背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
      奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

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■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

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椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。

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■街道筋の景観
 なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf

 一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
 街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
 早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

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■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

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花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

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これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

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実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

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■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

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奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

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この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

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■立派に熟れた家、熟れすぎかも

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■勝尾寺川にあたります

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■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

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■橋は巡礼橋

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■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

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■振り返ると豊かな田んぼ

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■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

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謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

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格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

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■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

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この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。

 すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
 この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html

 そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地 方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」  この地域も、こういうことなのかな?

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2013年9月18日 (水)

茨木街道をあるく 郡神社-郡山

2013年9月9日


郡神社に行ってみます。もとの案内看板まで帰ります。

■どうにも理解しにくい参道
家が参道を塞いでいるとしか思えません。

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■鳥居を撮っているのであって物干しを撮っているのではない
 もう少しやりようがあったのでは?ちょっと敷地を凹まして立ち木を植えるとか?東側だったのでできなかったとか?そもそもそういう発想はなかったものと思われます。ちょっと遠慮してサイズを小さくしておきます。

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■こちらの方がよい
一筋南の、乗雲寺に行く道で、先程の妙見灯篭の角から入っていきますが、こちらの方を歩くのがいいです

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■鳥居、やっと神社らしくなってきた

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■由緒書きはほとんど読めません

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■石段は途中から二又に

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■拝殿です
本殿はよく分かりません。郡・郡山・上野の三村の産土神で、もと北殿垣内の宮田にあり、明暦2年に社家の私有地に遷座したとあります。春日大明神又は牛頭天王社と呼ばれたらしい。http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/koorijinnja.htm

北殿垣内の宮田というのがどこなのか、よく分かりません。遷座したということなので、参道の変則ぶりが納得できたように思います。要は、後から山上の私有地に移動したので、門前の設計などできなかった。

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■若宮春日神社
・・・でよいと思うんですが、どうもはっきりしない。天児屋根命・素盞鳴尊が祀られています。

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■五社
若宮春日神社と拝殿の中間にあります。右から、
   八幡神社 応神天皇
   皇大神宮 天照皇大神
   稲荷神社 倉稲魂命
   落橋神社 新屋座天照魂神
   土祖神   猿田彦命
落橋神社 新屋座天照魂神は何かと思ったら、摂津国嶋下郡には新屋坐天照御魂神社が 三座あって、なかなかの大社なのだそうです。この近辺の、福井、西河原、上河原にある。天照国照天彦火明大神が主祭神です。アメノホアカリまたはニギハヤヒ。

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■金平大明神
これが分かりませんが、他地区(榛原)では「正一位金平稲荷大明神」というのがあって、祭神は金平稲荷大明神「倉稲魂神」だそうです。

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■稲荷神社と宇賀神社
左は稲荷神社倉稲魂命。右は不祥ですが、消去法でいくと宇賀神社。そうすれば祭神は、宇賀之御魂神 でイナリ/イナリとなるのか?P1260785

■この神社が分かりません。

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■蚊に追われて退却
手入れもちゃんとしてあり、キレイなのですが、何がなんだか分かりません。それに蚊が多い。早急に退散します。

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ここには郡神社古墳(直径25メートルの円墳)があるらしいのですが、詳細が分かりません。神社の立地としてはよいと思いますが、参道の様子といい、なにがなんだか分からない神社群といい、近隣の人にもあまり着目されていないような気がしました。

■周辺の小道はなかなか気持のよい道があるのですが・・・

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■道祖本街道合流
少年院への道の一つ北の道が道祖本街道です。目印は何もありませんが、あのグレーのビルが目印か。

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■郡山に向かいます
新しい家が建ちはじめています。新旧交替時期か。

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■坂道が現れました
正面はため池のようです。

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■街道は坂を上がらずに右
観光みかん園がありますね。

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■またも坂
最初の坂を上りましたが、もう1つ坂がありようです。結構キツそう。

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■坂上は巨大なお屋敷
相当なものです。このお宅だけでなく周辺は大きな家が多い。そうとう裕福な土地柄のようです。

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■坂を下ります

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■下った先にも大きな蔵
もとの坂下までおりました。右折した先にも大きな蔵。

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■郡山
坂を登って行きます。先程の屋敷村のあたりに上るようです。たしかに郡山です。郡山の山の上は郡団地となっていると理解していましたが、違いました。昔ながらの農村で、かなりリッチ!

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■山を下りても郡山
田んぼが侵食されてどんどん新しい家が建ってきています。

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■あの森は古墳と聞いたことがあります
以前行ってみましたが、小さな神社があるだけでした。

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■いかにも古街道らしい道
あの狭い道をいくと宿川原になります

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(つづく)


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2013年9月15日 (日)

茨木街道をあるく Deep Ibaraki

2013年9月6日
2013年9月9日


 茨木の中心部をあるきます。迷走です。
 茨木中心部は何度もクルマで通りました。えらくごちゃごちゃしているところやなあ、というのが感想ですが、これでは良さを理解したことにはならない。歩いてみるべきです。しかし、歩いてはみたものの、まだ核心には迫っていない。まだ街道あるきのスタンスが抜けていないようです。お店に入ったり、食堂や喫茶店に入ったり、飲み屋に入ったりするのがベストなんですが・・・それはまた来てみましょ。

■宮元町界隈
路地に入るとまだまだ旧い家が

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どなたかのサイトでもみた記憶があります。

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■本町ROSE街
一番の繁華街、というかオバチャンの街やね

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■アーケードの商店街を突き抜け
茨木神社にやって参りました。東門。この東門は茨木城の搦手門といわれ、1617年(元和3年)茨木城廃城の際にこの地に移築されました。

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■拝殿
結構な人がお参りに来ています。若い人が多い。

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 大同2年(807年)、坂上田村磨が荊切の里(いばら・荊を切ったのでそこが茨木になった)を作った際、天石門別神社が創建されたのが始まるといいます。当時は、宮元町に鎮座していたが、楠正成が茨木城を築くに当たって現在の位置へ遷座したらしい。
 社伝によると、高槻城高山右近が、織田信長にならって神社仏閣を焼却するに際し、信長が天照大御神、春日大神、八幡大神及び 牛頭天皇(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからずとしたので(風評?)、自衛のため、天石門別神社は社名を隠し「牛頭天王社」と号して焼却を免れたと伝えられています。
 元和8年(1622年)には社殿を新築すると共に、従来の天石門別神社を奥宮とし、素戔嗚尊を本殿に遷して本社としました。しかし、実際には牛頭天王が防疫神として庶民に崇め信じられていたことがあったと思います。
従って、御祭神は建速素盞嗚尊。誉田別命と天児屋根命が配祀されています。

■天石門別神社
由緒を見るまで何の神社かと思っていました。かつての主神殿。
ご祭神は、天手力男命で、天宇受売命(アメノウズメノミコト)と 豊国神・東照神が配祀されています。   

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■元茨木川・高橋
元茨木川緑地は1949年に廃川になった茨木川の旧河道を利用して緑地公園に整備されました。現在64歳。元は安威川と茨木川の合流点より少し上から、茨木中心街を通って、摂津あたり三宅村で安威川に戻っていましたが、緑地公園は沢良宜あたりまで続いています。全長5km。元茨木川は天井川で、堤防が軟弱なため洪水にあうと破堤崩壊して、たびたび濁流はんらんの災害を起こしてきました。歴史に残る仕事をされたと思います。
桜の咲く頃にバイクで付近を通りましたが、それはしれは見事な桜並木でした。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/motoibarakikawa-hi-hasiato.htm

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■茨木童子
大江山の酒呑童子の副将ですね。ワルだけどかわいいヤツです。
http://www.ibaraki-kankou.or.jp/douji/
http://www.1134.com/ibaraki/01douji1.html
http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/densetu/index.html

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http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/ibaraki.htm
私も茨木市に敬意を表します。

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■JRの線路をくぐったあと

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■春日商店街
このあたりでスマホの電池切れ。問答無用でシャットダウンしました。さて困った、記憶に頼るしかありませんが、そんなに覚えてないぞ。

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 結局、9月6日は西穂積あたりを迷走して、迷走した割にはちゃんと旧街道に入り、郡神社付近でまた迷走。道祖本街道は確認、おもしろい段蔵を見つけました。郡からバスで帰還。
 9月9日は茨木出発で再チャレンジします。

■ここから入ってみます
枝切街道が分岐する反対側(北側)

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■これはなんや?6角柱
右側面に天保元年と彫ってあります。手前には何かの絵。

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■ぬりこめ道標
北東角に半分壁に塗りこめられた道標があります。る
南面 右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻
西面 左 妙見山 亀山中山勝尾寺

ここは「茨木街道支線」の起点で、今回は北にこの支線をあるきます。

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■茨木城址によってみます
城址といっても復元櫓門があるだけで、敷地は茨木小学校になっています。

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■上泉町界隈
えらく細い道があったり、ビオトープがあったり

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■丹波橋の遺構
元茨木川には丹波橋がかかっていました。

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■元茨木川緑地
さすがに涼しいです。なので休憩。

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■JR東海道線が見えてきました

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普通のレンガのトンネルを再利用したものでした。

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■春日界隈
住宅街が続きます。

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■何か道標がありますが、読めません
ここでオーバーランしましたが、復帰。

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■倍賀春日神社
へかかすがじんじゃ は祭神は春日神社らしく、天児屋根命。

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往古は高良社または高良神社と称していたので、祭神が代わったのかもしれません。
高良社といえば、石清水八幡宮の摂社高良社は土着の産土神で川原神を祀っていると言われています。この高良社は吉田兼好の徒然草で、仁和寺の法師が八幡宮と間違えて満足して帰り、「・・・先達はあらまほしきかな」と結ばれた、あの神社です。また、八幡系の高良明神 の場合もあるとされています。倍賀春日神社の場合どうなのか分かりません。

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■国の重要文化財 石燈籠
昭和38年に指定。 敬白 高良社 石燈爐 延慶二八月日紀口弘 の刻銘があり、鎌倉時代のものとされています。

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■社務所ですが・・・
旧拝殿か本殿の再利用のようで、こちらの方が風格あったりします。

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■府道に当たりました。
よく見慣れた風景で、今回は順調です

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(つづく)

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茨木街道をあるく 溝咋神社

2013年9月6日


 また道草です。堤防を下って溝咋神社に行ってみます。

■五十鈴で安威川にかかる橋
堤防上の道では横断できませんでした。引き返して石段を下りて、道の下をくぐります。旧街道は、階段のところから路地に入るという話もあります。

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■溝咋神社

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 溝咋氏というのがよく分かりませんが、彼らがこの土地に居住して祭祀をしていたと思われます。
 溝咋氏は、溝咋から水田に水を誘導する溝の側の杭とする説から、土木技術で低湿地を開発した人々という説があります。溝咋の咋は「くう」で、「くう」は鳥が巣を構えるの、構えるという意味があるので、単純に、溝を掘って人々が住める土地を拓いたと理解します。たしかにこの地は、淀川のような大河の傍ではないものの、少し上流で安威川と茨木川が合流するための低湿地で、まずは溝を作らないと作物ができない、住めない土地だったのでしょう。
http://www.osaka-museum.com/comm/comm.html?id=1032
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-mizokui.html

 話はまったく変わりますが、下が公式サイトです。サイトのできばえは問題にはしないですが、ホームページ本文を隠してしまう広告はいかがなものかと。表示しないように設定はできるようですが、いちいちログインしないといけない。だんだんド厚かましくなってくる広告手法。
http://www.geocities.jp/mizokuijinja/

■神門というのか
なかなか重厚です。

R1246341

■由緒書きが読めませんが、

R1246342

社頭掲示によると・・・・・
「延喜式の古社であって、祭神は、姫踏鞴五十鈴姫命、溝咋玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。
日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。
元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保二年「一七四二」、地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。」
 第10代崇神(すじん)天皇のころの創始とされていますが、記紀の時代より相当昔、ヤマト建国に近い昔ということなのでしょう。

■本殿への道

R1246344

■拝殿です
厳重ですね。本殿も拝殿に連結され、屋根しか見えません。

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■神婚説話
 祭神の一柱、ヒメタタライスズヒメ命は、後に神武天皇正妃になりますが、記紀の有名な説話には・・・・
○古事記・神武天皇段
 三島溝咋の娘・セヤタタラヒメが厠に入っているとき、ヒメを見染めた三輪のオオモノヌシが丹塗矢と化して、下からヒメのホトを突いた(犯罪だあ!)。驚いたヒメはその矢を床の辺に置いていたら壮夫となった。二人の間に生まれた御子をホトタタライイススキヒメ、亦の名をヒメタタライスケヨリヒメという。さらに、正妃を求めていたカムヤマトイワレヒコ(神武)が、ヒメタタライススケヨリヒメが神の子であると聞いて喜び、ヒメを娶り正妃とした。
○日本書紀・神代紀
 大三輪の神の御子は賀茂君・大三輪の君またヒメタタライスズヒメである。
 また曰く、コトシロヌシが八尋熊鰐と化して、三島のミゾクイヒメ亦の名・タマクシヒメの処へ通われ、ヒメタタライスズヒメが生まれた。これが神武天皇の后である。

 典型的な朱塗矢型神婚説話ですが、書紀のコトシロヌシがヒメタタライスズヒメの父神とみるのが一般になっています。コトシロヌシは葛城を本拠とする鴨(賀茂)氏が奉斎する神なので、当地に進出した鴨氏と溝咋一族との交流(鴨氏が溝咋一族を傘下におさめた)、さらに鴨氏もヤマト王家に服属したのを神話的に言っているのでしょう。
下記が非常に参考になります。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/01/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2010/12/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2008/11/post-4e2c.html

■事代主神社
コトシロヌシは当社摂社に祀られていますし、近くにコトシロヌシを祭神とする三島鴨神社がありました。鴨についていえば、北約3kmに鴨神社、その辺りに鴨村・鴨林などの小字名があり、一帯は鴨氏の地盤だったのでしょう。

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■タタラ
ヒメタタライスズヒメの「踏鞴」が気になりますが、南茨木の東奈良では、弥生時代2ー3世紀の大規模環濠集落・東奈良遺蹟が見つかっていて、わが国最大級の銅鐸製作地であったことが分かっています。これをもって、溝咋一族はタタラ製作に関係する技術集団だったといえるのかどうか?
摂社の事代主神社には、事代主命の他に、カグツチの神が祀られています。踏鞴と結びつけてよいのかどうか?

阿遇突知神 (カクツチノカミ)    火の神
沖津彦神 (オキツヒコノカミ)     かまどの神
沖津比賣神 (オキツヒメノカミ)    かまどの神
弥都波能賣神(ミズバノメノカミ)   水分の神
波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)  陶磁器の神
波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)  陶磁土の神

■摂社に陶磁器や陶土の神、波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)、波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)が祀られているので、陶器生産にも活躍したのかも知れません。
ここで、陶器生産ということで、陶津耳命を持ってきたい気はしますが、甚だ悩ましいことになります。
「カモ系図考察」http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html によると、
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-生玉兄日子(鴨県主、賀茂県主祖)
となっていて、陶津耳命=(三島溝杭耳命)=(建角身命)という案があるのです。
そうなると、下記の年表で、先着の鴨氏(建角身命;山城鴨系)に三島溝咋耳(建角身命)が合流するという変なことになります。まあ、先着の鴨氏が拡大したと理解したら同じことか。

■鴨の矛盾をはらみながら、この地の支配集団まとめ
--------------------------------------------------------------------------------
弥生時代中:大規模環濠集落・東奈良遺蹟等、わが国最大級の銅鐸
                  製作集団
3~4世紀 :鴨氏が当地に進出、内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定
                   着し、鴨神社を創建。溝咋氏が安威川周辺に入植・開発
                   し、溝咋神社創建。(崇神期)
      後に鴨氏が溝咋一族を傘下に<=ここがおかしくなる
4世紀末   :ヤマト王権に鴨氏(事代主神系)が服属(応神期)
      仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に
                       三島神社創建(淀川右岸)
5世紀    :御島氏が勢力拡大し三島県主、先住の鴨族と共生した
                       が、鴨氏は衰退
7~8世紀   :三島氏が伊予三島と伊豆に「三島大社」を起し、三三島
                      として崇敬
--------------------------------------------------------------------------------
各神社の由緒を第一義に参考にし、文献により修正しています。そもそも年代はよくわからない時代なので、ものすごく大まかにはこんなことがあったのでしょう、という程度。
以後は、摂津北部は中臣氏の地盤になるのか?

■手力雄神社
手力雄神(タチカラオノカミ)を祀っています。力の神。この神を祀っているのは初めて見ました。

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■天照皇大神社(左)と保食神(右)
なかよく並んで建っています。

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 なにか釈然としない気分のまま旧街道にもどります。その前に、五十鈴のコンビニで休憩。

■力石
200kgだそうです!

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場所は浄福寺分院のなかです

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■府道に出てきました。
ここは見覚えがあります。クルマでよく通ったところ。

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■よくわからない階段
もとからあった階段を無視して造成したか。

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■旧道が分岐します

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■バス道を横切ります。
しばらく住宅街を通って、バス道に合流し、末広町でまた旧道が分岐します。
右端は外国人のおっさんですが、クルマがどんどん来ているのに、のんびりと急ぐ様子でもなく平気で渡っていきました。大阪人もビックリ!

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■旧道をあるきます
しばらく歩くと阪急電車のガードをくぐり、いよいよセントラル茨木

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2013年9月12日 (木)

茨木街道をあるく 道草編 (3) 三島鴨神社

2013年9月3日


 ちょうどお昼になったんですが、お茶もパンも用意していない。ぺットボトルの自販機はありますが、コンビニがない。コンビニ探しで延々とあるきました。
ともかくも、三島鴨神社です。

■三島鴨神社鳥居
鳥居は阪神大震災で崩壊し、新たに建てられたものです。

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■拝殿の前に鉄製の提灯かけが作ってあって、これが大型で邪魔。

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 ご祭神は大山祇神、事代主神。ご由緒を見ると、相当こまかく書いてあります。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/rekishi.html

「創建は、4世紀中葉、仁徳天皇が河内の茨田の堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、百済よりここ摂津の「御島」に、大山祇神をお迎えになりました。(一部略)」
大山祇神を祀る土木工事の技術者集団を呼んだというような書きぶりです。(淀川鎮守のやしろをつくるに当り、唐崎のあたりにいた物部の韓国連が協力した、と書いてあります。両者、茨田堤の造成にかかわったのでしょうか?))

「御島とは淀川の三島江にある川中島のことで、古代の玉川湖沼(仮称)が淀川にながれこむ入江「玉江」(三島江の別称)にあ って、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので、「御島」とあがめられたのです。淀川の鎮守であるとともに、農耕を守り王都難波を守護する神として、祈りつづけられてまいりました。」
当時の想像地図が公式ホームページに載っています。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/tamagawakosyou/tamagawakosyou.html

この地図を見ていると、当社はもとは御島社で、三島鴨神社はもっと内陸の赤大路、太田茶臼山古墳の近くになります。いろいろ調べるとやっかいなことで、摂津国嶋下郡の延喜式内社がよく分からなくなっていて、その後継社候補にここの三島鴨神社と赤大路の三島鴨神社(現在は鴨神社)とが議論になっているのだそうです(論社という)。両社がケンカしている訳ではありません。

 赤大路の鴨神社の由緒もしっかり踏み込んで書かれてあります。
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja02.html
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja03.html
http://kamojinja.web.fc2.com/100719.html

 両社の関係を時代を追って整理してみると、要は・・・・・

1)凡そ3世紀のころ:内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定着し、鴨神社を創建。祭神はカモノタケツヌミノミコト、イザナギ・イザナミノミコト、大山積命
2)4世紀中葉:仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に三島神社創建
3)5世紀ころ:御島氏が勢力拡大し三島県主となり、先住の鴨族と共生する時代があった。しかし、鴨氏は衰退し、赤大路の三島鴨神社も三島氏が統合支配するようになった(上の宮と下の宮の関係)。6世紀、継体大王以後は三島氏の勢力が大。
4)7~8世紀中葉:三島氏が予大三島に「三島大社」を勧請し(百済との海上交易を深めるため)、伊豆の「三島大社」をも起し、日本三三島として崇敬されはじめる。
5)10世紀:「延喜式神名帳」に式内社「摂津の国嶋下郡の三島鴨神社」と記載され、長らく摂津の国の氏神として崇敬される。
6)15世紀後半:応仁の乱で社殿が消失、再建されないままになり、後年、「鴨神社」に戻った。
7)1598年(慶長3) :豊臣秀吉の命により淀川右岸の堤防がつくられ、三島神社は川中島から三島江村内に遷される
8)1697年(元禄10):高槻藩主の尽力で三島神社が延喜式内社三島鴨神社と改称。

詳細は三島鴨神社の年表参照ください。

 三島江の三島鴨神社のご祭神は、大山祇神、事代主神。一方、赤大路の鴨神社のご祭神は、大山積命、カモノタケツヌミノミコトで、どうもタケツヌミというのが気になります。賀茂朝臣系(葛城賀茂)のコトシロヌシであれば、上記、三島県主と鴨族との共生関係があったということから、理解しやすいのですが?それとも、別れた時に、それぞれ別のカモの神にしたのか、8)の段階でコトシロヌシを勝手に付け加えたのでしょうか?そんなあんまりな。

■本殿

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■本殿は垣根の扉が開いていて直接お参りできるようになっています

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■三社神社

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左から、武甕槌神(大将軍社)、市杵島媛神(厳島神社)、奥津彦神 奥津比売神(竃神社)
中臣氏はいつごろから入ってきたのでしょう?

■八幡宮
明治41年(1908)に西面にあった八幡宮を三島鴨神社に遷し合併奉祭したという。

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國廣大明神
明治41年(1908)、柱本にあった稲荷社と天神社を合祀し、國廣大明神として合併奉祭したもの。

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■唐崎神社
明治41年(1908)、唐崎にあった唐崎神社を三島鴨神社に遷し合併奉祭した。唐崎の神社跡には遥拝所があります。

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大山祇神(三島鴨神社若宮)、天児屋根神(春日神社)、菅原道真公(天神社)の三祭神。
新しいうしさんと旧いうしさんがいます。P1260555

秋祭りの写真等をみていると、盛大で本格的なものです。近隣の人も楽しみにしているのでしょう。神社を中心に、共同体がしっかり生きている感じを受けます。

■さて三島江を退散します。

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■一天にわかにかき曇り・・・
堤防まで上がってきた段階で、西の方は空模様がちょっとヤバい状態です。

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■対岸の出口側を望む
東は大丈夫ですが・・・そうこうしているうちに降り出しました。あわてて神社横のバス停に戻りました。バスは出たところで、30分待ち。迷っているうちに雨が止みました。

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■三箇牧小学校
午後は休みなのか、サッカーしています。

P1260582

 


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2011年9月16日 (金)

東海道ウォーク 岡崎-知立(3) 【矢作、尾崎】

2010年12月6日(月)



■旧街道に(9:45)
1号線から旧街道に戻って来ました。後ろを見ると遠くに堤防に上がる急坂が見えます。あそこが27曲り?ちょっと心残りですが、先を急ぎます。

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■弥五騰神社(9:48)

奇妙な名前なので調べてみると、元は彌五郎殿と言ったらしい。なに、弥五郎?あの巨人伝説の?しかし、どうも違う。

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 弥五郎殿社は津島神社境内にある摂社で、武内宿根の末裔という堀田弥五郎正泰が南朝に仕えている頃再建した社殿という記事が津島神社のサイトに出ていました。さらに調べていくと、やはり津島神社の弥五郎殿社と関係がありそうです。
http://miesin.com/a-yahagiginzya-taisai-2010nen.htm

■またしても十王堂?(9:50)
あの閻魔さまかと思ったら、こちらの十王堂は違うのか?誓願寺の十王堂で、義経と浄瑠璃姫の悲話があって、その縁の品や像などが安置されているようですが、地獄図絵もあるようです。見てないのでなんとも・・・左手の石塔は「浄瑠璃姫菩提所」と書いてあります。

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■読めない神社(9:54)

高岡屋が見えてきます。街道ウォーカーの目印になってる?それほど目につきます。

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 すぐに神社がありますが、これが読めない!書けない!竊樹(ひそこ)と読むのだそうです。これは無理です。昔は上加茂大明神と言い明治時代は加茂社といっていたが、大正2年(1913)、矢作村盗人木の竊樹社を合祀し竊樹社とした。昭和28年に地名が盗人木から末広となり、その後この竊樹社と竊樹神社に分かれた。ややこしいです。

P1190304

 さらにややこしいのは、なんで盗人木という地名を付けたんや?なんで竊樹(竊は「ぬすむ」「密かに」という意があるらしい)という社名をつけるんや?祭神は御気津神(食物の神)なので、もっと素直な名前を付けたら?と思う。甚だややこしいので、再び下記を参照ください。私にはよく分かりません。
http://miesin.com/a-yahagiginzya-taisai-2010nen.htm

P1190305


■国道合流(9:57)
国道に合流しました。矢作ではあまりにややこしくなったので国道を飛ばします。

P1190306

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途中、櫓のあるお寺を通り過ぎたほかは何も覚えていません。無心に歩くのもいいと思います。前方に横綱ラーメンと松並木が見えてきました。安城に入ります。この間、約25分。

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■柿崎松並木(10:22)

横綱ラーメンで1号線と分かれます。宇頭だと思っていたら、柿崎なんですね、尾崎か?
松並木いいですね、ほっとします。快適に飛ばします。

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■尾崎市場屋敷(10:29)

ここは尾崎町ですが、市場屋敷という地名が付いています。
その通りのお屋敷があります。このところよく見かける白壁に板張の蔵。

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■予科練の碑(10:32)

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 宮前の熊野神社の横(境内の一角?)に予科練の碑があります。案内板を見ると、ここには終戦間近に、第一岡崎海軍航空隊が置かれ、飛行予科練習生の即戦力養成が任務で、昭和19年5月から1年もたたないうちに6000名が入隊し、次々に各地の実戦航空隊の実務練習生(という名の、多分、実戦部隊)として送り出されていった。ここから北、三菱自動車の岡崎工場の手前に滑走路があり、今の県道の手前から旧東海道までに兵舎や練兵場、本部などがあったようです。戦後は進駐軍により破壊され農地や工業用地になりました。後で行く熊野神社の裏には、あくまで平坦で広大な農地が広がっています。

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 碑と説明板は昭和61年のものですが、説明板には「戦後40年経った今、驚異的な経済成長に伴い、前線に巣立って行った若者のことも人々の脳裏から消え去ろうとしている。この史実を後世に伝えたい」と言う意味が書かれています。
 分かりました、受け止めました。少しでも伝えられるよう、ここにも記載しておきます。

■踏分の森(10:33~45)
 ここは旧東海道と鎌倉街道が交差しています。それで熊野神社の森は「踏分の森」と言われています。さらに東海道の尾崎一里塚もあった。ここで鎌倉街道が分岐していました(交差か)。

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 鎌倉街道は、京側からは北西の不乗森神社-証文山東-熊野神社-西別所町-山崎町-新堀町-大和町桑子と通じていました。
 神社西側の小路が、鎌倉街道の遺構とは言いません、名残というか、その昔、ここを通っていたんだという縁の道になっています。

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■熊野神社

境内はかなり広く、奥のほうに社殿があります。和銅元年(708)、土地の長者が熊野大神を祀ったのが起こりとされ、後に村人たちが鎮守として崇めるようになった。祭神は伊弉冊命です。社殿右に秋葉神社があります。

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■古の鎌倉街道(10:49)

神社の裏手に回ってみました。道は途中から鎮守の森を通ります。そばには工場が迫ってきていますが、バッファとして田んぼ(畑)が残されていますが、時間の問題のような気もする。鎮守の森の木々は若木が多いです。

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 北を向くとその広さに唖然とします。さすがに元航空隊の基地。右手遠くに見えるのは三菱自動車の工場でしょうか。方角からいうとそうなります。
 さてこの道を鉄塔のあたりまで歩きます。

P1190358




【本日のマップ】

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つづく

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2011年9月 1日 (木)

西国街道(4) 大山崎-向日町

2010年10月23日(土) 




■大山崎(15:09)
 
さて、京都に入りました。街道は関大明神から南に折れますが、さらに南に行く道があって、その傍に古風な建物があったので行ってみました。

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 なかなかすばらしい。手前の町屋は少々傷んできていますが、手入れをしたら・・・しかしその手入れが大変なのでしょう。もう無人のようでした。その次の蔵と続きなのか?お隣の緑青ふきの家もよく熟れています。まだまだ現役でいけそうですが、窓ガラスに×のテープが貼ってあるところを見ると無人なのか?堂々たるものです。隣の家と比べても明らかに風格が違います。

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■離宮八幡宮(15:09)

 この神社は全然知りませんでしたが、調べてみるとなかなか由緒正しき神社のようです。荏胡麻(えごま)油発祥地で油の製造と販売の中心「油座」として栄え、現在は油の神様として親しまれているといいます。平成22年には創建1150周年を迎えたというので、相当なものです。
http://rikyuhachiman.org/

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 ご祭神は、応神天皇。八幡宮ですからね。これは宇佐八幡宮から勧請したものです。
 左殿に酒解大神(さかとけのおおかみ)がお祀りしてあるようで(行ってないのでアヤフヤ)、元々はこの神様の社だったのでは?天王山の上にも酒解神社があり、調べてみると酒解神は大山祇神のことでした。
 この神は、仁徳天皇の時代に百済の国から渡ってきて、三島江に着き、そこから、伊予・大三島へ移ったとされています。(伊予国風土記)。さらに、伊豆・三島大社にも祀られているので、この神を信奉する人々が酒作りの術を持って、海岸伝いに移動しあちこちに住みついたということなのでしょう。山と海、両方を司る神というのがパッと理解できませんが・・・
 この神のおられるところに現在も酒作りの工場が立地している!ま、酒作りには水が決め手なので、そういうことは十分あり得ます。この西国街道ウォークの最初のころ、灘・敏馬神社には松尾神社もお祀りしてありましたが、この祭神も大山咋神でありました。その近くには灘の酒どころがありますね。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2010/10/post-4acd.html
       

■淀川大接近(15:15)

P1170535

  阪急のガード下です。阪急そばを写したのではありません。このあたりが淀川と街道が大接近するところです。山側から順に、東海道本線、西国街道、阪急、新幹線、171号線、淀川が併走しており、山際と淀川の間が約200m。名神を通す余地がなく、天王山の下をトンネルで通しています。
 確かにここを押えれば京、大坂から西方の防御はできそうです。京の都にとっては天王山は最大の防御線だったことがよく分かります。しかし、その分、淀川の東はダダ通しなんですが。
 この辺りに大山崎町歴史資料館があって、ちょっと気を引かれましたが、次回の訪問とします。

■大山崎の街並み(15:32)
 
大山崎の街道をどんどん歩いていきます。道が改修されて広くなったようで便利ですが、その分、どこにでもあるような都会の街並となっています。

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 名神の陸橋をくぐったあたりからまた道が狭くなります。天王山トンネルの方向を写していますが、この突き当たりの地名が「開キ」だとか?何を開いたのでしょう、まさかトンネルではないと思いますが。

■円明寺(15:35)
 
その狭い道は東海道線をくぐります。

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 地図をみているとおもしろい(珍しいのではない)名前が出てきます。円明寺は円明教寺から来たものと理解します。茶屋前、大門脇、仏生田、山伏、薬師前、これらも円明教寺から来ているのでしょうか?その他、里ノ後、金蔵、小泉川、若宮前、葛原、山田、川向イ等々、昔なにがあったか容易に類推できそうな名前です。

■川を渡ると長岡京(15:40)

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 小泉川を渡ると長岡京に入ります。街道の面影はなくなり、ちょっと雑然としてきました。地図は持っていますが、いきなりややこしそうな交差点に入り、おまけに工事をしているので、どこがどうなのかさっぱり分かりません。八角というところですが、右手(東)に行けばサントリービール工場、淀競馬場なのですが、東行きの道が2つ、北行きが、丹波街道と新西国街道の2つ、西行きは柳谷に行く道。角を数えたら8つなので八角としたのか?

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 右手の広い道に行ったんですが、これがマチガイ。旧西国街道は3枚めの写真の白い壁の家の右手に入っていくのでした。分からん! 

 そうそう、サントリービール工場はここから東に入ってすぐなのでした。仕事(の延長)で数回行きましたが、結構遠く、いつも阪急・長岡天神からタクシーだったので、どこを通ったのか分からず終いでした。もっと山側にあるんかと思ったら、淀川に近い方でした。

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 工場見学では丁寧に説明してくれて、まさにエコファクトリーであることはよくわかりました。メインの講演は「ビール博士」という方で、ビールの話かとおもいきや、なんと森鴎外の話(舞姫など、もちろんビールとの関連もあり)で、なかなかのものでした。レジュメを調べたら平成12年(2000年)9月のことでした。
 舞姫といえば、大学のとき選択科目の文学で森鴎外がテーマで、舞姫も課題であったので懐かしかったです。その時の論述試験では時間内にピッタシ書けて自信満々で終ったんですが、成績はそれほどでもなかった!
 恒例の試飲ですが、プレミアムモルツは確かにウマイ!いやいや、その前身のモルツスーパープレミアムは2001年発売だったんで、その時は飲めるハズありません。普通のモルツだったか。プレミアムモルツを飲んだのは発売の2003年以降か?しかし、発売からもう8年経つんですね!

■京言葉(15;52)

 ゆるやかな坂を登っていきますが、また2つに分かれていました。最初左手に入りましたが、どうも違う。

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 坂の途中で初老のおばさん2人がしゃべっていました。何の話か分かりませんが、「・・・・おすなあ」「おすおす・・・」びっくりするくらいの京言葉でした。紛れもなく京都に入っています。

■街道復帰(16:00)

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 右手の坂を下っていくと、ああここか。旧街道に合流しました。時間も時間なのでトレースはやめ。更にここから東側に入っていきます。合流はほんの30mくくらい。あたりは完全に街です。

■すぐにまた分岐(16:03)

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 酒屋さんの前に古い道標がありました。東に入ると淀に繋がるようです。左手、即ち北行きは、どう書いてあるのか分かりませんでした。後で調べると、

京 あたご

なるほど、西国街道は巡礼道でもあったんです。「あきこ」やなかったんや。

P1170562

   ここからずっと直線の神足商店街です。商店街とはいえアーケードはなく、商店もほとんどなく、カラーブロックの街道がきれいに整備されています。

■神足ふれあい町家(16:05~16:28)
 神足商店街に入ってすぐ、きれいに改修された町屋が現れました。旧石田家住宅で国登録有形文化財になっています。一般公開され、休憩もできるようなので入ってみました。ここでアイスクリームを頼んで庭のベンチに腰かけでゆっくり休憩です。

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 この町屋はうなぎの寝床の京の町家と違い、間口が広く田の字形の間取りで農村風であり、かつ、店舗と住まいを兼ねた町家でもある独特の風情をもっているのが特徴だそうです。

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 元々、神足村の旧家岡本家の商家で、江戸時代には「紙屋清兵衛」という屋号で和紙などを商い、明治以降、町医者などに利用されていたものを、後年になって石田家が購入したので、旧石田家住宅と言われています。平成12年10月に、規模が大きく江戸時代末期の町家建築の基準となるものとして国登録有形文化財に登録され、平成15年長岡京市が取得し、「神足ふれあい町家」として整備されました。乙訓障害者事業協会が運営しているので人にやさしい設備と運営がなされています。一般に、こういうところは入りにくい場合がありますが、ここはお薦め。ゆったりできます。
http://www.eonet.ne.jp/~fureaimachiya/sisetu2.html

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 サントリー(ビール)工場でほろよい加減の数人が入ってきました。サントリーで意気投合して、ぜひこの町屋と庭を見せたいというので連れてきたということでしたが、確かに何度きても楽しめそうな所でした。

■街道は続くよどこまでも(16:30~16:40)
 
この直線神足商店街は延々と続きます。昔の(明治期の)地図をみてもまっすぐ。ほぼ同じ所を通っています。商店街とは名ばかりで、りっぱなお屋敷が続く閑静な住宅街です。駅前の天神通りを過ぎてもまっすぐ、神足商店街の北端の看板が過ぎてもまっすぐ。あいかわらずカラーブロック敷です。

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 おっと、商店街の北端アゼリア通りを西に入ったところには一里塚跡があるんでしたが、行き過ぎてしまいました。また後で。

■やっと直線も終り(16:42)
 
比較的大きな川に当たります。車は堤防に上がっていきますが、歩道は堤防の下です。ここが旧街道のようでした。なかなかいい感じの小路です。

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■一文橋(16:46)

 街道は一文橋を渡ります。この橋は日本で最初の有料の橋といわれています。お金がないので川を泳いで渡ろうとする者もいて、厳しい取り締まりもあったようですが、橋守の中には、貧しい人が渡るのを黙って見過ごした者もいたといいます。その名は半兵衛で、「知らぬ顔の半兵衛」とはここからきたのだと。なかなかのお話しです。
http://www.kirameki-story.tv/back3.html

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 川は小畑川。天王山も遠くになってきました。ここを渡ると、向日市に入ります。え!?長岡京の都はどこに行った?後で調べてみると、長岡京跡は向日市、阪急・西向日駅の北側なのでした。とすると、長岡京市とはいったい?

 調べてみると、うーむ、五条以南と西の方が入ってますね。
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/09030175.html
 政治の中心である長岡宮は向日市、経済の中心である「市(いち)」は長岡京市、表玄関口にあたる港(山崎津・淀津)は大山崎・伏見・淀にあったということで、運輸、交通面では平安京よりも立地はなかなかの場所だと思います。
 しかしながら、延暦11年(792)の大洪水や桓武天皇の弟である早良親王の死、その怨霊騒ぎなどから、延暦13年(794)に平安京へ都が遷されました。洪水を治められなかったのは致命的ですね。

■石畳というか・・(16:51)
 
一文橋を渡ったところでまた道を見失いました。とりあえず大通りを行きます。あとで考えると一文橋を北側で渡ってそこの横断歩道を渡れば自然に入れるのでした。

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 すぐに復帰します。石畳というか、石畳風ブロックがきれいに敷かれていていい感じです。しゃれた喫茶店もあります。石畳には竹をデザインしたタイルがはめ込まれておりました。向日市は竹の里です。すぐに石畳は終ります。

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■また分岐(16:54)

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 阪急をくぐり、車道を横切ります。住宅街の中を狭い街道が通っていきます。真北にほぼ一直線、500mくらいでしょうか。

■どこからがアストロ通り?(17:01)

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 その通りの出口ちょっと手前からアストロ通りの看板がでてきました。ちょっと暗くなって写真がボケています。
 五辻を越えると本物のアストロ通りです。このアストロがどこから来たのかが分かりません。

■あれ?競輪場(17:06)

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 これはおかしい。ここは帰省の時にいつも車で通るところです。また間違った。後で調べてみると、「向日町商店街の看板」のあるところから右に入るんでした。これは分からん。とりあえずJR向日町の駅に向かいます。
 帰省のときは1号線赤池から久我橋を渡り、狭い道をひやひやしながら、この競輪場前にくるんですが、途中、狭い路地が左右から出入りしてやっかいな所です。その道のどれかが西国街道なのでした。

■街道合流(17:16)

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 その旧街道は阪急・東向日の駅手前で合流していました。石畳風ブロックが敷かれた感じのよさそうな道でした。もう一ふんばりでJRの向日町です。

■向日町(17:23)

 
やっと向日町駅に着きました。結構時間がかかりましたね。

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 向日町駅は向日市ですが、その隣のタクシー営業所は京都市になっているずです。休憩も兼ねて、タクシー敷地と駅のフェンスギリギリまでいってタバコを吸いましたので京都市内に入ったことにしておきましょう。
 次回は、淀から八角まで歩き、西国街道に入り、歩き漏らしたところを補充しながら東寺まで歩こうと思います。


【本日のマップ】

より大きな地図で 西国街道4 (茨木-京都) を表示

(4日目おわり)

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2010年11月13日 (土)

東海道ウォーク 新居-二川(番外) 立岩

2010年9月29日(水) 



【二川の昔話】
 二川南小学校のサイトにこんなのがありました。
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沢渡池と反茂池(さわたりいけとたんもいけ)
 むかし、むかし、ずっとむかしのある日のこと、西の方から大男が大きなもっこに土をいっぱい入れて、てんびんぼうをかつぎ、のっし、のっしとやって来ました。ずいぶん遠くから来たとみえて、二川あたりまでやって来ると、
「どっこいしょ」
と、こしをおろしてひと休みしました。
 やがて、また大きなてんびんぼうをかついで、歩いて行ってしまいました。
 大男がひと休みしたあとは、おしりのあとが大きくへこんでいました。そこへ雨水がたまって、反茂池と沢渡池になったのだそうです。そして、もっこからこぼれた土が一方は岩屋山に、もう一方は立岩(たていわ)になったのだそうです。

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二川南小学校「二南の昔話」より
http://www.futagawaminami-e.toyohashi.ed.jp/futagawaminami-e/mukashi.htm

 大きな窪みが巨人の大足跡だとか、足跡に水がたまってできた沼だという、よくある話で、ダイダラボウとかダイダラボッチの昔話かと思います。近辺を探すと、豊橋市の北部・弓張山地にある石巻山にも「ダイダラボッチの足跡」というのがあるそうです。
http://toyohashi-minwa.seesaa.net/category/1249363-1.html

 その立岩に向かいます。
 立岩はもう一方の岩屋山(二川の少し西の火打坂にある)よりも少し小さいからか、あまり注目されず不遇を託った感じです。ということは観光地化されていないということ。
 ここで立岩3題。

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 実にいい感じです。特に真中の写真が気にいってます。看板の注意書は「この下に豊川用水の水路があるよ」というものでした。

【中央構造線】
 登る前に喫茶店「立岩」で一休みしました(14:20-40)。鄙には稀な本格的な喫茶店でした。チーズケーキとコーヒーで満足。

 店の前の道路際にも岩頭がでていました。

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 さてこの特異な立岩がどうして出来たか?分かりません。分かりませんが、この少し北、豊川(川の名)あたりを中央構造線が走っていて、その南側(三波川変成帯というらしい)は海洋プレートの沈み込みでこそぎ取られた「付加体」が低温高圧の変成作用を受け、岩石になって、プレート沈みこみの圧力で隆起してきたものと思われます。その中の硬い岩盤が侵食に耐えて残ったのかと。以上、あくまで一般論ですが、地質に詳しい人ならば、立岩の岩石を分析すればなにか分かってくるのかと思います。
 産総研20万分の1日本シームレス地質図によると、立岩付近は約18000年前~現在の堆積岩類で、そのすぐ北の83.8mの三角点の山は約15万年前~7万年前の中位段丘、そのすぐ北の西荒神の山は 、約3億5900万年前~1億6100万年前のチャート(付加コンプレックス)となっていて、これは岩屋山と同地質です。
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/shosai/tokaiKinki.xml
http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/geo_googlemap_homeuser.htm
 ま、立岩の由来の説明にはなってないですが、立岩地震が堆積岩とは考えにくく、もっと古い地層が飛び出て残っているのかと推定します。このあたりは門外漢にはなんとも説明のしにくいところで・・・しかし、よくもまあ産総研はこんな根気のいる仕事をするもんだと別のところで感心したりしています。
 中央構造線の詳しい説明は下記をどうぞ。大鹿、三伏峠や塩見岳も行きましたが、その時は中央構造線や境界の露頭などは全然眼中になかって、惜しいことをしたと思いました。
http://mtlwebmusesub.web.fc2.com/subindex08geopark.htm
http://www.nishida-s.com/main/categ3/mtl-nagano/index.htm

【立岩をめぐる人模様】
■立巌稲荷
 地図には立岩の麓に社があって、立巌稲荷とあります。行ってみると赤い鳥居があって、あまりお稲荷さんらしくはないが、とにかくありました。

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■謎の神社
 その裏には別のお社がありました。参道がちょっとずれていて別の神社のような気がしますが、全然手がかりがありません。後日ネットを調べてみても反応なし。

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 拝殿らしき裏には本殿になるんでしょうか、小さなお社がありました。思うに、この大岩ですから、岩自体が信仰の対象になった古い時代のものなんでしょうか。

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■行者窟?
 拝殿の横には露岩か落ちて来た岩かどうか分かりませんが、いかにも行者が泊ったような窪みがありました。

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その裏は切り立った岸壁です。いかにも行者が行をしそうな・・・
 ここはロッククライミングの練習場にもなっていたようですが、崖下には看板が建っていて「ここは岩登り施設ではありません、入山をご遠慮ください。落ちても知らんよ・・(豊橋市)」てなことが書いてあります。

■巻き道をゆく
 岩登りでなければいいんだ、と理解して道を探すと、本殿横の岩から背後の岸壁を巻くようにして道が続いておりました。

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頂上までは5分程で登れます。

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■本土防衛作戦 
 頂上直下には防空壕跡がありました。はて、こんな高いところに?色々調べてみると、渥美半島は太平洋戦争末期に米軍の本土上陸作戦が心配された場所で、遠州灘沿岸地方は第73師団が配置され、トーチカ等の防御陣地をたくさん作ったそうです。特に二川の山々は、渥美半島の防御陣地を突破してきた米軍を迎え撃つ第2の防御線と位置づけられた重要な場所であったそうです。
http://www.geocities.jp/futagawahakkutu/002.jpg

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 また、お隣、豊川には豊川海軍工廠があり、豊橋の地には「歩兵第18連隊」が、さらに、明治41(1908)年には「第15師団」が置かれていました。これにより、豊橋にも空襲があったようで、立岩と対になる岩屋山には要塞砲陣地が設置されていたそうです。
 しかし、高空を飛ぶアメリカ軍機まで弾がとどかず、海軍工廠を初め各地に空襲の被害を受けました。特に昭和20年6月19-20日の豊橋大空襲では市街地の70%を焼失、死者624人という大被害を受けました。下のサイトを読んでいると、これは紛れもなく無差別爆撃です!忘れないために特に参照サイトを記しておきます。
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_07.html
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/bun-nisioka.html

 空襲への避難のために作られた防空壕ですが、岩山の上というのがどうしても理解できません。本土防衛作戦というただならぬ動向の中で、本土決戦に備えて見張りなどを置くような計画ではなかったのか?頂上は見晴らしはいいです。

【ともかくも立岩頂上です】
 立岩はいくつかの岩のでっぱりがありますが、南から見て、大きく分けると2つの出っぱりからなっています。

■まずは西側の岩稜から
 ピーク手前の支稜は黒い岩からなっています。JR東海道線の電車が通っています。

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 西側の岩稜から直下を見ています。これ以上行くと恐いです。自慢じゃないが高所恐怖症ギミのところがありますので。岩には黄土色の成分が混じっています。

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 南を覗きます。新幹線の向こうに今日通ってきた国道1号線があるはずですが、よく分かりませんね。画面の左隅にある白い工場の向うが一里山だと思うのですが・・・平板な平野でなくなんとなく高くなっていくのが分かります。

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■東側の岩稜に移ります
 ここもピーク付近は黒い岩からなっていますが、先端に行けば黄土色の成分が多くなります。

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 先端部まで行ってみました。これ以上は恐い。真正面の工場は日東電工、その向うにはスズキ湖西工場ですが、写真では見えません。

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 東を見てみると、浜名湖が見えます。湖の向こうの白いビル群は舘山寺温泉街だと思います。左端には赤い橋も見えます。
 ここからは条件がよければ富士山も見えるということでしたが、もやで見えません。

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■サイホン落とし口
 ピークの北側には豊川用水(東部幹線)の水路とサイホン落とし口が見えます。ザアザアと音を立てて地中に潜っていくのが分かりました。ここから落ちて一里山手前の国道沿いで吹き出します。こんなものをよく作ったもんだと思います。

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 頂上からの眺めを満喫して下山しました。振り返るとゴツイ岩肌がボクを見下ろしているようです。さすがにホッとして一服、ヒガンバナの写真を撮って気を落ち着けました(15:10)。

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(つづく)

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