鉄道

2011年8月31日 (水)

西国街道(4) 安満-上牧

2010年10月23日(土) 



■ウォーク再開(13:00)
 
結局近くの牛丼家で昼食。13:00再開です。

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 安満の交差点、というより陸橋下から東を見ています。いかにも場末というごちゃごちゃした感じがします。頭上の府道は枚方から高槻にくる幹線ですね。陸橋を南に降りた辺りは八丁松原といって、沿道に松が植えられているところです。
 高槻はお城下ですから六口が作られていました。その内の京口は今の京口町の圓成寺の東側と言われています。そこからまっすぐ北に、写真のあたりで西国街道と接続していました。京口からここまで八丁あったので八丁畷、松が植えられていたので八丁松原という訳です。松は慶安2年(1649)
高槻城主永井直清によって整備されたということですが、かつての松の並木道も明治以降は鉄道の開通(東海道線や阪急)、道路の拡張によって少なくなり、現在は八丁畷町、松原町にその一部が再整備された公園になっています。車でよく通りますが、今回行ってないので写真はなし。

■安満の生け垣(13:12)

 さて、ごちゃごちゃを過ぎると、すっかり風景が落ちついてきます。

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元藁葺屋根の家もあるし、生け垣の家もある。こうしてみると生け垣の効用というのは大きいですね。生け垣でなくても石塀の上から植木がのぞいているだけでも違う。

■梶原(13:24)

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 檜尾川を渡ると梶原に入ります。左手は俄然山が迫ってき、右手は開けて東海道線が見えます。この辺りから東海道線と阪急線が近くなり競争する(のではないと思いますが、乗っているとそう感じる)ところですね。
 街道の周囲はかなり熟れてきていい感じです。梶原らしく梶原さんというお宅もありました。梶原村なので梶原さんなのか。梶原さんが村の有力者であったから梶原村なのか?

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 高槻市観光サイトによると、「梶原は、古くは「カジオリ」と呼ばれていました。淀川で大風のために梶(舵)が折れ、帆も失ってしまい、それでこの地域を「帆無梶折邑(ホナシカジオリムラ)」と呼ぶようになったという伝聞があります(参照:芥川えのきの会「梶原余話」)」http://www.city.takatsuki.osaka.jp/new/syoko/html/travel0013.html

なるほど。

■畑山神社(13:32)
 
畑山神社は天児屋根命と菅原道真を祀るとあります。またしても藤原系。しかし、社伝によれば、元亀年間(1570年代)、金仙寺の鎮守である三十番神を合祀して、永福寺と名付けられたといいます。慶長年間に火災で焼失。宝永3年(1706)、現在の社殿や多宝塔などが復興され、明治元年(1868)の神仏分離令により、同5年に畑山神社と称するようになったということでした。新しいんやね。

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 さらに、当社造営以前、7世紀後半頃には、この地に、梶原寺が創建されていたとみられています。その頃から「梶原」なのか。平安時代はかなり大きなお寺だったようです。
 山麓の斜面には7~8世紀頃の瓦窯跡があって、天平勝宝8年(756)、東大寺の造営にあたっていた造東大寺司が、梶原寺に6000枚の瓦を発注したとの記録(正倉院文書)が残っているそうです。
 日本に瓦技術が伝わったのは、の崇峻元年(588)「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」と日本書紀には書かれていて、瓦博士(およびその指導を受けた日本の職人)の手により、法興寺(飛鳥寺のちに、平城京遷都で奈良に移転され、元興寺となった)が造営(596年)されたことが明らかになっています。
 この瓦はなんと昭和時代まで使われていたんだそうです。昭和30年代に元興寺の極楽坊本堂と禅室の解体修理が行われ、その時、法興寺から運ばれたものが約600枚、 そのうち法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も使われていたのが分かったのです。
http://www.kawara.gr.jp/01_rekishi/rekishi01.shtml
 東大寺から発注を受けるとなるとかなりの技術をもっていたに違いありません。瓦博士から指導を受けた職人たちが大勢住んでいたのでしょうか。その瓦も平安時代にはあまり焼かれなくなったのだそうです。

■梶原一里塚跡(13:39)

 さて梶原一里塚跡です。ここには地蔵堂があって唯一の縁となっていますが、一里塚とはあまり関係のないもののようです。せっかくの地蔵堂もこんだけ厳重に囲ってしまう取りつく島もありません。
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山が迫ってきて感じのよいところではあります。

■東海道線と併走(13:42)
 西国街道は東海道線と併走するようになります。東側はさらに、阪急京都線、新幹線、国道171号と併走します。淀川はさらにだ1kmほど東でまだ余裕がありますね。名神が西の山の中梶原トンネルを通ります。交通情報で「梶原トンネル先頭に30キロ」とか言って、混み合うところです。

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 それにしてもよく電車が通ります。北陸線特急(多分)、はるか、最後のはなんでしょう?福知山線特急ではないと思うけど・・・この間、たった4分です。

■上牧(13:49)
 かんまきというのは高槻市なんですね。知らなかった。街道筋の古い町らしく道が狭い!車1台がやっとです。

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■東海道線のガードをくぐります(13:50)

 トンネル内はレンガ貼りになっていました。ここからが島本町。というより、トンネルの西南(大阪側)でも、西国街道の西が島本町になっています。

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【本日のマップ】

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(つづく)

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2009年12月 4日 (金)

東海道ウォーク 二川-御油(4)

2009年9月16日(土) 伊奈-国府



【伊奈立場】 
 このあたり、街道にちなんだ?地名があります。宿西?宿場でもなかろうに。さらに、地名ではないが、宿場寿しというお店。そのものずばりの地名、茶屋。

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 このあたりは伊奈の立場なので、宿場と混同して認識していたのか?
 宿西の信号の少し先に秋葉山の祠と常夜燈がありました(14:12)。先程の代わりに載せておきます。
 さて、伊奈の立場です(14:19)。これは写しにくい。逆光だし。ここには芭蕉と門人加藤烏巣の句碑がありました。右の大きいほうが芭蕉でしょう。

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 かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し   芭蕉
 もものはな さかひしまらぬ かきね哉 烏巣

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 すぐに迦具土神社があります(14:20)。ここは寄りませんでしたが、後日調べてみると、慶応元年(1865)に茶屋の半数に及ぶ家が火災に遭い、鎮火の神である迦具土の神を遠江国周智郡(現在の浜松市)秋葉神社より分祀して、火元であった現在地に移し、宮を建てて祀ったといいます。

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 しばらく行くと山本太鼓店があります。その前に伊奈一里塚の碑がありますが、店の太鼓をみていて写真を忘れてしまいました。ま、単なる石柱ですから・・・
 さらに行くと、速須佐之男神社があります。古事記で言う建速須佐之男ですかね。寄ってみましたが、スサノヲであること以外はよく分かりませんでした。

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 横には小坂井町の文化センター(だったか?)があって、たくさんの人が集まって何かやっていました。

【パラゴンと喫茶店文化】
 佐奈川を渡ると、まもなく豊川市に入ります(14:33)。この橋には歩道橋がありまし た。このあたりの蔵ですが、完全に石倉はなくなったようです。

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もうひとつ橋を渡ります。橋には歩道がないため右には五六橋歩道橋が架かっています。おもしろい名前。

 すぐに、わたなべ珈琲店という感じのよさそうな喫茶店がありました(14:40)。道路側に入口がなくてどこから入るねん、とあせりましたが、枝道を少し入って、旧街道と反対側にありました。田舎には(失礼)希な気持の好い喫茶店です。

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 なんと、JBLパラゴンが置いてありました。あの、家具かスピーカーか分からない名機です。昔、梅田の喫茶店でよく聞きました。これは懐かしい。お客さんもたくさん入っていたので写真がとれません。場違いにも!大きな声で世間話をしていました。
 暑かったのでアイスコーヒーにしましたが、ビターチョコが付いてきました。さすがに三河。
 三河がメインなのか尾張がメインなのか分かりませんが、名古屋圏の喫茶店(全国ネットでなく地元の喫茶店)ではコーヒーにピーナツや柿の種はあたりまえのように付いてきます。ほとんど100%といってよいくらいです。一度なんかは、暑いさなかに喫茶店に入ったら、なんとアイスクリームが付いてきたことがあります。大垣でしたけど。東海道は掛川まで歩いていますが、静岡ではピーナツなしでした。掛川では喫茶店に入ってません。どこからピーナツ圏にはいるのか興味があります。大阪でも時々ありますが・・・
 ということで、ゆったり休憩をさせていただきました。涼しいし、コーヒーもおいしく20分もいました。

 隣のテニスコートを越えると工場地帯のようなところに入ります。工場、物流センター、カーディーラー、などが並ぶようになりました。この一角に以前の会社の販売会社があった。ちかくにスズキや日立の工場があったのでした。

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 工場地帯を通り抜けると県道31号線に当たります。高架なのにくぐり抜ける道がなく迂回せざるを得ませんでした。西側に行きましたがえらく遠く、名鉄の線路までいってしまいました。あとで考えると東側の国道1号線のほうが近かった。このあたり、車優先が貫徹してます。
 迂回して元の旧東海道のラインにもどって振り向いてみると、なんだ橋が切れています。工事ストップしているのか?

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【失われた東海道】
 先に進むと国道1号線に当たります。このあたりから国府の薮下あたりまで旧街道は消滅しています。本来の旧東海道は国道1号を渡って直進し現在の名鉄豊川線の北側に抜け、ゆっくり左カーブして名鉄豊川線と名古屋本線の合流点南側に出て、国府町藪下交差点で国道1号を横切るものでした。

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 とりあえず、白鳥5丁目西交差点で国道をわたり、向こう側の農道みたいな道に入ります(15:19)。ここが旧街道の名残なのか。あたり一面、稲穂がたれて、静かだし、こういう農道はホッとします。

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 農道を入っていき、県道31号が国道から分岐して降りてくるあたりにトンネルがありました。旧街道はいかにも「ココを行け」と行ってるようでしたが、トンネルの向こう側がどうなっているのか分からないのでやめておきました。

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 街道歩きの皆さんは名鉄豊川線の踏切をわたり、線路沿いを進んで逆V字型に戻るように曲って薮下交差点に行くようですが、ボクは、どうせ消えているなら白鳥神社へ行ってみようと思いました。昔も神社にお参りしつつ歩いたのではなかろうかと。


【白鳥神社】

 白鳥神社は静かな住宅街のなかにありました(15:27)。今風の住宅街でなく田舎の街道筋にあるような静かな村の住宅です。

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その名前から、ヤマトタケルを祀って いるのかと思ったら、その通りでした。が、今の祭神は日本武尊命でいいんですが、それは15世紀半ばに尾州白鳥神社から勧請したもので、それ以前は柴戸大明神といい、百済王餘璋の太子琳聖の末裔という大内氏の流れをくむ大内藤根がこの地に住み、(10世紀半ば)、三 御子(帯日津日子命、若建王、稲依別王)を祀ったのが最初ということでした。

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 案内板の三御子の表記がつながっていてよく分からないですが、日本武尊命の三御子と考え、分けて表記すると、

①帯日津日子命:よく分かりません。タラシナカツヒコではないのかな?ならば日本武尊の第2子(母は垂仁天皇皇女・両道入姫命)
②若建王:ワカタケルノミコ、日本書紀表記では、稚武彦王(ワカタケヒコノミコ)、日本武尊の第3子(母は穂積氏忍山宿禰の女、弟橘媛)
③稲依別王:イナヨリワケノミコ、日本武尊の第1子(母は両道入姫皇女)

 古事記/日本書紀表記が入り交じってややこしいですが、祭神の系譜はおいといても、百済王餘璋の末裔という大内氏の一派がここに住んでいたというのは発見でした。


【三河国府】

 さて、元の道に戻るつもりはなく、どう行くか、道も分からないですが、西へいけばよいということなので、もう一つ道草です。

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 白鳥神社前の道はいかにも昔風の街道の風情がします。ここを通って、北に曲り、もう一つの神社にいってみました(15:36)。が、懸社総社とあるだけで、何の神社かさっぱり分かりませんでした。総社という限りは三河国府のあった場所でしょうか?

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国府物語のサイトによると、このあたりの発掘調査が行われ、8世紀の半ばから10世紀の中頃まで、この地に三河国府の国庁があったことが確認された、とあります。総社の東側に曹源寺があり、三河の国庁は、ここにあったそうです。
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/

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 そういえば、地図をみていると、ここの東、八幡というところに国分寺跡という記載があります。その近くには国分尼寺跡や天平の里博物館もある。地理的には、ここは、豊川、新城、伊那谷への道や秋葉への道が分岐する重要な土地であることが分かります。
 旧東海道も、江戸期以前、律令の時代には、この地へまっすぐ向かって国庁を通るようになっていたのではないか?総社、白鳥神社を含めこの集落は台地上にあり、今の名鉄踏切の所から坂を上がって台地の縁を通ってまっすぐ北に向い国庁に至っていたのではないか?その後、国府、国衙の衰退と伴に、旧東海道もずれていったのではないか。そう考えると、旧東海道が不自然にカーブしているのもうなずける、そんなことを考えました。
 旧東海道の賑わい、新東海道の喧騒から離れて、白鳥はひっそりと落ち着いたところでした。

 東海道復帰のため西に向かいます。道端には大きな常夜燈があります(15:38)。いかにも旧街道の感じがしますが、すぐ北を姫街道が走っていて、この道は、姫街道から分岐してきた御津に向かう間道のようです。また、江戸以前は国府、国分寺を結ぶ道、さらに、各地への街道として重要な道だったのではないでしょうか。

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 名鉄の踏切を渡って、久保町でとりあえず国道一号線まで帰りました。(15:40)

 

(つづく)

 

【本日のマップ】

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2009年12月 3日 (木)

東海道ウォーク 二川-御油(2)

2009年9月16日(土) 吉田宿



【東総門の怪奇】
 小さな川を渡ったところで、南側に入っていきました。市街の中心に近いところとはいえ、なんだか寂しげなところです。鍛治町の広い通りにでてみると、おお、ここがあのややこしい曲りのある東総門のところのようです。(11:47)

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 写真は北側を見ているところですが、中央分離帯に「東海道」のクロスした看板があります。西向きと北向きと同時にはってある。さてどう行けばいいのか?旧街道は西向きの路地に入っていくようですが、それまでは北に行けということか。
 横断歩道橋の所にいってみると、東総門の復元(ミニチュア)がありました。通りの向こうには大灯篭もあります。

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 案内板の古い絵地図によると、かなり複雑に折れ曲がっています。東海道のサイトでもいろいろ書かれていて諸説紛々状態ですが、絵地図によって、ここが東総門の位置だとすると、
1.国道から入ってきて、歩道橋のたもとでいったん南に行く
2.看板のところで南北行く通りを横切る
3.復元総門をくぐる
4.国道筋を西に行き、1つ西の路地を南下
5.2つ目の鍛治町信号から入る通りで西に曲る

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こんな感じに理解してマップに赤線を入れておきました。が、堀もなくなっていて、戦後の復興で以前の道路も消えているので、正しいかどうか分かりません。4.のところに看板があるかどうかも確認していません。まあ、こんなイメージで昔の旅人は通ったのではないかと。

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 私は、まさかグリーンベルトを乗り越えるわけにもいかないので、青字のように横断歩道を通り、看板通りに西向きの道にはいって行きました。
 なお、国道の向こうにある巨大常夜燈も一部復元で、位置は移動されているようです。

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【曲尺手】
 当地では枡形のことを曲尺手(かねんて)というようです。曲尺手とは、宿場の出入口、または宿内の街道を鍵の手に折り曲げ、敵の侵入に備えたものです。吉田以外でも、「かねんて」といったところがありましたが、今思い出せません。指矩(さしがね)の曲尺(かねじゃく)から来ているんでしょうね。この用語が街道の宿場や城下町でだけ通用するもになのかよく分かりません。
 枡形は宿場や城下町でなくても古い街では普通にあります。場所によったら(富田林寺内町では)あて曲げと言ってました。

 さて、東海道の枡形ですが、掛川は七曲がりでしたが、難なく通りました。「岡崎宿」では「二十七曲がり」なんですが、これは難しそうです。はやく行ってみたい。吉田宿の枡形は案内板もあるし、簡単です。見つけた案内板の位置を地図上にピンクのフーセンマークで載せておきました。

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 とっとと通り過ぎ、じゃなくて、途中にある蕎麦屋さんで昼食をとりました。蕎麦定食。安くてうまかった。(12:00-20)

 ウォーク再開すると、すぐに曲りがあります。さきほどちょは違ってかなりひろい 大通りです。国道は別にして、豊橋の東西メインストリートのようです。再開発があったようで、街路樹もまだ若いです。ときどき草ぼうぼうの空き地もある。宿場の風情は全くありませんが、これからが楽しみです。

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 途中、札木というところで路面電車の駅がありました。少し待って、電車もばっちり写しました(12:28)。

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 すぐに本陣跡の石碑が建っています。道路の向うだったし、なにか工事中だったのでパス。どんどん進んで、上伝馬町の公園のところで北に曲ります。

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 国道23号を渡ったところには西総門(ミニチュア)が復元されていました。ここから道は下りに入ります(12:36)。

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【吉田湊】
 旧街道は港町というところで西に、さらに船町で北に曲ります。いかにも湊町っぽい名前がついています。船町を曲るとすぐの豊川をわたる豊橋です。

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 ここから約70mくらいのところに吉田湊跡があるので行ってみました。
   吉田宿は、湊町でもありました。吉田川(現在の豊川)の左岸、河口に近い東海道吉田大橋のたもとに位置していました。

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江戸時代、吉田湊は三河最大の湊で、三河湾・伊勢湾の廻船の発着地であり、川舟と廻船との荷物積替えの地としての機能も果たしていました。さらに、伊勢参りの旅人が船で伊勢国の川崎や大湊へ渡る参宮船で賑わったそうです。伊勢参りもショートカットしていたんだ。

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 河岸には船着き場の跡、記念プレート、岸の上には小公園がありました(12:46)。
 公園には明治12年(1879)、湊付近に架けられた旧豊橋親柱と大正5年(1916)に、現豊橋の位置に架けられた鉄橋の一部がありました。ほか、句碑も2基ありました。
豊橋のたもとにある説明板によると・・・
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その昔、このあたりは四ッ家といい、河原同様の荒れはてた土地であった。この地に最初に村を築いたのが浅井長政の一族、浅井与次右衛門ら、およそ80名の人々である。その後、天正18年(1590)、池田輝政が吉田城主となり、城上町を拡張整備した際に四ッ家を船町と改め、浅井氏を庄屋に任じたと伝えられている。吉田湊が開かれたのは近世初頭であり、吉田宿24ヵ町の中で船町のみが独自の立場で船役を勤めていた。
寛永13年(1636)、幕府の命により、橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより73m下流)に高札場を設けた。この高札には、河川の取締り、橋の保護など極めて重要な取り決めが掲げられていた。豊橋市教育委員会
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 さて、豊橋を渡ります(12:58)。北西にみえるとんがりの山が気になります。石巻山か、その向うにある坊ケ峯か?中腹に家があるのをみると、石巻山か。ああいう山は興味があります。

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(つづく)

【本日のマップ】

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2009年11月12日 (木)

東海道ウォーク 島田-掛川(2)

2008年9月28日(日) 大井川-金谷坂石畳




【大井川を渡る】
 いよいよ大井川を渡ります(9:28)。といっても,3週間前に蓬莱橋で2回渡ったところですが,旧東海道で渡るのは初めてなので。

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 大井川橋は明治9年(1876),川の一部に全長234mの有料木橋が架けられたのが始まりで,その後,明治16年 (1883)に1.3kmの木橋で全通したが,洪水で流失。昭和3年(1928)に現在の鋼製橋が竣工しました。歩道橋の完成は昭和42年だそうです。これはありがたい。橋は全長1026mで,渡るのには約15分かかりました。

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  歩道橋には何ヶ所かにでっぱりが設けられていて,よい見晴台(本来は見晴らし用ではないと思うけど)になります。真中あたりでタバコ休憩して写真を取りました(9:35)。

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 やっと東海道の半分来た感じがします。もっとも旧東海道の中間点は袋井宿なのですが,以前いた会社では大井川を境に,西が大阪管轄,東は東京管轄になるように分けていましたので。掛川や浜松あたりは仕事でよく来たところで,土地勘はないけれどなんとなく懐かしい気がします。

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 前方に牧の原台地の茶畑が見えます。あの辺り(のもう少し右)を登っていくんかな。
 橋を渡り終えるとちゃんと旧東海道の道標があって,左に導いてくれます(9:43)。

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【水神公園】

 しばらく土手を通り,道標に従って土手を下りていきます。

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 八軒屋橋の手前に水神公園があります(9:50)。

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 街道側には蓮台に乗って川越をする女性のタイル絵「金谷宿大井川川越之図」の案内板,その横には「はかずふる 旅のあはれは大井川 わたらぬ水も深き色かな」の歌碑がありました。

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 少し入ったところで小休止。小さなお稲荷さんもありました。この先に水神社もありますが,100mちょっと先のようなのでやめてしまいました。公園はよく整備されています。春には桜がきれいでしょうね。

【にわか鉄っちゃん】
 まもなく大井川鉄道の踏切です。自然と顔がにやけてきました。こう見えて,結構鉄道好き。子供のころは電車(や,昔は汽車)をみるのが大好きで,踏切の「チャンクチャンク・・・」という警告音とシグナルを見るのも好きでした。シグナルの赤を見続けているとしまいに青緑になってきて,電車が通り過ぎるとともに警告音も音程が低くなるのを感じるのが好きでした。その頃から補色とかドップラー効果というのを知りました。

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 さっそく次の角を曲って,新金谷の駅へ向かいました。
 大井川鉄道は南アルプスへ行くのに何回か乗ったこともあって,とても懐かしいです。

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 昔,本でよく見た電気機関車が現役で動いていました。調べてみるとこのE102は,1949年12月の大井川本線電化に伴い大井川鉄道が新造した電気機関車でした。現在では,SL客車の入換えや,長い編成でSLが運行する時の補機として1号機・2号機が活躍しているようです(1949年10月三菱電機製)

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 新金谷駅が電車基地になっていて,次の金谷から千頭に向けて運行するようです。客車もかなり古い,昔よく乗ったもので,これは懐かしい。客車の行き先表示プレートの代わりに,「法政大学鉄道研究会」のプレートがぶらさがっていました。専用のプレートを作ってもらってるのか。

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 定期運行の電車も停まっていて,赤/黄のツートンです。はて,どこかで見た電車ですが・・・調べてみると3000系電車は元京阪電鉄の特急用車両で通称テレビカー。1972年製だそうで,京阪で乗っていたかも?

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 あと,電車は16000系 (元近畿日本鉄道,1967年近畿車輌製造で,現在も同型の車両が近鉄南大阪線で走っている),21000系電車(元南海電鉄,1958年南海高野線の急行,特急用として製造され,高野山への急勾配を登り,河内平野を110kmの高速で駆け抜けた),420系電車(元近畿日本鉄道,1953年近鉄名古屋線の特急車両として新造された)がありますが,当日は見えませんでした。なんだ,昔乗ったかも知れないものばかりでした。
 残念ながらSLはありませんでした。
http://www.oigawa-railway.co.jp/index.htm

 こういう風景は見飽きません。お茶,タバコをすいながらベンチに座ってずっと見ていました。東海道歩きを中断して電車に乗りたい衝動にかられましたが,思い直して出発です(10:11)

【金谷宿】
 川を2本渡るといよいよ金谷宿の中心です。といっても,今は普通の街道沿いの街ですが・・・路地へ入っていかないと昔の風情は残っていないようです。

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 金谷宿は元々は河川敷だったけれども,天正18年(1590)に大井川の流路が東側に変わってから人が住むようになり,江戸時代には東に大井川,西に小夜之中山峠の難所を控え発展したとのことです。

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 まもなく佐塚屋本陣跡があります。今は本屋さんで軒先に木製の標柱がありました。さらに,バス停前に柏屋本陣跡があります。周囲は小ぎれいに整備されていて,金谷宿の解説と周辺案内図の説明板がありました。後ろは島田市金谷地域交流センターで,何やら工事中でした。本陣公園でも造るのか?単なる駐車場だったりして?

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 JR金谷駅の手前のガードの所に金谷一里塚跡(53里目)がありますが標柱だけ(10:30)。塚は鉄道が通る際に撤去されたということなんですが,金谷にとって価値になるということが見通せなかったんでしょうかね?

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 なお,次の小夜鹿一里塚跡は56里目であり,54里目と55里目の一里塚は位置不明で欠番となっているようです。これも牧の原台地開墾で消えてしまったか?

 さて,駅前に喫茶店などはなく,やむなく巌室神社前で休憩です。せっかくなのでお参りしようとしましたが,門があって鍵がかかっている?鍵のかかった神社なんて初めてですが・・・写真を検索してみると,えらい坂を登っていくようで,そんなに登った記憶はないので別の登り道があるのか?よく分からない神社でした。
http://youkiniiko.exblog.jp/8755823/

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 どうも天気が悪く雨がきそうな気配なので,小夜の中山越えを躊躇しています。傘でも調達して突っ込むかどうか?(10:33-40)
 考えてもらちがあかないので突っ込むことにします。その前に,大勢の人だかりができていた金谷駅に寄ってみました。団体さんが列車にのる準備をしています。どうやら新金谷駅にとまっていた列車に乗るようです。楽しそう!
 動いているところを見てみたいと思いましたが,11:07出発のようなので少し待たねばなりません。(10:43)諦めて出発としまhした。

【金谷坂】
 さきほどの鉄道ガードをくぐり金谷駅の裏側に出ます。目の前の石段を登ると長光寺で,境内には芭蕉句碑「道のべの 木槿は馬に食われけり」があるそうですが,今回はパス。

Fudo

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 どんどん登っていきます。不動橋を越えると右に分岐する道がありますが,ここが中山新道のようです。少し入ったところに案内板がありました。最初の有料道路だったとか。
   しばらくして祠と何かへんな石碑が?何なんだと思って調べてみると,火袋部分が抜けた自然石の秋葉山常夜燈だそうです。間違うがな!しかし、ひょっとして祠の中が常夜燈なのか?真相は分からずじまいでした。

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  国道473号を越えてもまだ登ります。石畳入口の看板があって,少し登ると石畳が始まります。あいかわらず歩きにくい。しかしこの石畳は半ば町民の手作りなんだそうです。元々不動橋から850m ほどあったらしいですが,1965年頃には石畳茶屋付近の 30mを残しコンクリート道になっていて,1990年に金谷町民600人が参加し,一人一石を目標に石を運び,ここから430mにわたって敷きつめたものです。町民の熱意を尊重して我慢して歩くことにします。

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 少し登るとうまい具合に茶店を作っているもので、せっかくなのでここ石畳茶屋で休憩とします。
   これから団体さんが昼食に来るとのことで店の人は大童でした。座敷は全部予約で,イス席の喫茶スペースに案内されました。金谷茶(お菓子付)300円。多少暑くなってきたので冷たいお茶の方をいただきまして,ほっと一息,ゆっくり休憩。

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 奥には本陣に残された江戸時代の文書や川越など金谷宿に関する歴史的資料などが展示されていますが,忙しそうだったので遠慮しておきました。天気予報を聞いたら,「大丈夫ですよ」とのことで,安心して出発です。(10:53-11:05)

 途中,庚申塚などを見ながら石畳を登り,やっと広い道にでました。やれやれ。すべらず地蔵も見ませんでしたが,受験生には人気があるんでしょうね。(11:16)

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 坂を上りきりました。ここから左にいけば芭蕉碑「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」があるらしいですが,ここはパス。島田といい,金谷といい芭蕉句碑がやたら多いです。芭蕉も雨で足留めをくらったか。

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【本日のマップ】


より大きな地図で 東海道をあるく(島田-掛川) を表示
(つづく)

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2009年6月17日 (水)

細切れ道草・高野街道(2) 三日市-天見

2009年5月15日   三日市ー天見



 さてゴールデンウイークの喧騒もおさまって,三日市から橋本まで歩きます。
 新今宮経由で南海高野線に乗換え9:30ころ三日市町。河内長野までは急行なので結構早かったです。しかし,朝はやっぱりコーヒーということで,駅前のフォレスト三日市の喫茶店があいてところだったので,まず休憩。いろいろ用事をかたづけました。ビル横の入口にはツバメが巣を作っていて,大きくなった雛が押し合いへしあいしておりました。落ちそうだ!


【石仏の道】
 街道を歩きはじめてすぐ,橋のあたりに八里石があったはずですが,エンジンがかかったところで見落としました。写真は橋を渡ってしまったところ。(9:55)

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 街道はすぐに国道371号に出合い,ここからは国道歩きです。371号は西にも走っていますが・・・幸い今日は車が少ないです。新町橋を過ぎて少し歩いた所に,右の山の中に入る道がありました。ここが旧道のようです。(10:08)P1070710

 まもなく陸橋で国道を渡ります(10:10)。石仏北ランプで2本の371号線が合流します。青い看板には「橋本まで16km」の文字が見えます。峠越えとはいえ,16kmならゆっくり行けると思います。

 前方を見ると,国道筋の喧騒とは打って変わった静穏。ずっと山並みが続いて,遠くに岩湧山が見えます。この落差感覚はおもしろいです。P1070713

 道はどんどん登っていき,石仏の村に入ります。のどかな村です。きれいに田んぼの岸の草刈りがされています。田舎へ来るとこのような日常の手入れが行き届いているので美しいのです。だいたいはご主人が農作業の合間にやるか,おじいさん,おばあさんがやるんですが,この景色をみていると働き 手は足りているように思います。高齢化して限界集落のようになってしまうと,働き手がなくなって荒れてきます。ここはまだまだ大丈夫のような気がします。
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分岐(10:17)。この坂を降りるとまた国道に合流します。右に行くと石仏寺のハズです。

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 ここから4~500mくらいは国道歩きです。歩道がないうえにトラックがかなりのスピードで追い越していくので危ないです。これは歩く気がしない。つぶれたドライブインのすぐ先に農道のような道があって,迷わずそちらに入ります。(10:23)P1070719


【岩瀬の村から】

 歩きやすい道が続いてきます。そろそろ田植えでしょうか。苗が元気に育っています。

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 田んぼの準備ができています。岸がきれいに刈り込まれています。もう数週間したら田植えになって,そのころきたら岸にはきれいに草も生え揃っているんでしょうね。(10:30) このあたり清水から岩瀬の集落に入ります。(10:35)

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 あとで地図を見ていると(歩いている今持っているのは5万分の1地形図),このすぐ山の上は美加の台のニュータウンです。そこは横文字の建物が多くて,南海アーバンコンフォート,南海アーバンパレス,デイリーカナートイズミヤ,お医者さんも○○医院でなく○○クリニック・・・・片や,岩瀬の棚田に田植えの準備,岸の草刈り。しかもこの位置関係だとお互いが見えない,その存 在すら分からないのでお互いの交渉もまったくないのでしょう。このギャップ,いいのか悪いのかよく分かりませんが,昭和30年代以降,このギャップをどんどん増幅させる一方だったのでしょう。ときたまボクみたいな物好きがふらっと迷いこんでくるくらいなんでしょう。

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 田舎の良さはじっくり構えてあまり急激に変らないことだと思っています。しかし,余裕を持って平気で変らないのか,それとも,変えないために,苦しい中必死で持ちこたえているのか,?この付近の様子がよく分かりません。家並みを見るかぎりでは余裕があるような気がします。ここの強みは大阪に近いこと。河内長野まで出れば急行で40分で都心というのは強みです。近くには大きなニュータウンもあるし。これを活かせばこの地の農業や(林業も?)あるいは文化面でも,イナカはイナカの良さをウリにしてじっくり構えて将来設計していけるのではと思います。近隣のニュータウン住民との接点を作っていくことが将来設計のきっかけになるのではと思います。

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 まもなく千早口の駅です(10:50)。ここに喫茶店がありまして,よっぽど入ろうかと思いましたが・・・喫茶店というより茶店の感じでよかったのですが。駅前にはたばこ屋さんもあって,お菓子やパンは売っているようです。ペットのお茶を補給しておきました。
 ここでタバコ休憩。休憩していると同じ風体のおじさんが歩いてきました。峠越えのようですが・・・
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【南海高野線・廃線跡】

 駅前の道をまっ過ぐ行くと,あれれ?行き止まりです。民家の庭に侵入してしま いました。しかたがないので線路際まで迂回するようにして歩いていきます。まも なく車道に当たりますが(10:55),まっすぐ川の右岸を行く道もあるようです。これは天理教の教会の中を通るようだったのでパス。陸橋の下に旧道らしい道があったのでそちらに行きます。

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 あとで調べると,天理教前の道は国道の危険をさけるための遊歩道兼生活道路(通学路?)のようで,天見までずっと続いています。丘の中腹にみえる,柵をしているところがその道です。

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 いろんなサイトを見ていると,これはもともと,南海高野線が単線軌道で運行していた頃使用していた線路跡で,その 廃線跡を利用して遊歩道にしたものだそうです。

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  ふと思って,ボクが持っている国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版;なんと測量は昭和6,7年,要部修正測量昭和33年!!。掲載地図参照※)を見ると,おお,高野線は紀見峠直下までトンネルなしで運行していました。そのラインをみると今の遊歩道にぴったりです。とすると,石仏を過ぎて国道を外れて入った農道みたいなところは線路跡を横切ったようでした。この旧線路跡をGoogle mapの方にも赤で書き込みをしておきましたが,一部不明なところがある。5万 分の一地形図をルーペで拡大してみましたが,やはり細部は分からないところがあります。
 あとで鉄っちゃんのサイトを調べると,さすがにキチンと踏査したレポートがありました!

Amami
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※国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版,昭和6,7年測量,要部修正測量昭和33年)から転載。測量法29条,国地達13号承認取扱要領2条の規定による。


より大きな地図で 高野街道 を表示

 柵といえば,イノシシとか出るんでしょうか。うちのイナカも同様で,山際の田畑の境目にはずと柵をはり巡らせて,電流も流しているんで危ないです。写真をよく見ると畑の野菜みたいなものにカンレイシャがかぶせてあります。

【おおもうけの話】
 何かお堂があると思ったら,それは「松明屋」という元お店でした。弘法大師にゆかりのあるもののようで,看板(由緒書き?)に説明がありました。が。全部は読めない!河内長野市ホームページ「河内長野市には,弘法大師直伝のちまきを売って,大儲けした人がいた!」というタイトルで解説がありました。
http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/gyoumu/topics-list_09.html

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Chimaki

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  それによると,戦前までは弘法大師直伝の粽(ちまき)を作って売っていたそうです。それにしても瓦はきれいだし,建物も傷んでいない。トユに至っては新しく改修した形跡がある?最近でも,毎月二十日の夜に月並祭を行い,大師を祀り,色餅をついて供えているというので,近隣の人やゆかりのある人が維持しているんでしょうか?

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 建物の前にある「おたいまつ」の石碑には,
  施主 大阪 北い組 
   明治二十八年五月建立 (5月と読める)
と彫ってありました。北い組とは大師講のようなものか?相当人気があったことがしのばれます。
 この家の軒に松の古木があって,大師にまつわる伝説が河内長野市のサイトに紹介されていました。
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大師が京へ散内するとき,高野山を丁度子の刻に松明を照らして出発し,道中ここまで来たところ,夜が明けた。この家で休憩をした空海は,お礼に粽(ちまき)の製法を教え,松明の燃え残りを軒端の地上に突き立て出立したが,不思議なことに,この松明が芽を出して成長し大木になったと言われている。
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写真にある切り株がそうなのか?現在三代目だそうです。

 そうそう,道中で思い出しましたが,前回。京や大阪から高野山までお公家さんはゆっくり,と書きましたが,どうも違うようでした。もっと強行軍のようで,50kmくらいは歩いたとされています。四天王寺-九度山慈尊院を1日で歩いたようです。馬でしょうけど,お付きの人は大変だ。失礼しました。
出典:http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/gyoumu/topics-list_10.html

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   石垣に紫蘭(11:01)。まことに美しい日本の5月。この先で国道に合流します。
橋の傍には家があって,登っていく道もありましたが,庭に侵入しそうなのでやめました。ここから先,歩道がないので,国道歩きは正直危ないです。しかし,少し先には七里石もあるので注意しながら歩きます。

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 5~6分で七里石がありました。車がびゅんびゅん通ります。しかし,電柱を何で傍に立てるかなあ?(11:08)

 遊歩道に行こうとしたが,アクセスする道は工事中でした。遊歩道も工事か?(11:11)P1070763


【天見の村】

 少し行くと視界が広くなってきました。天見の村です(11:15)。ここは分岐になっていて,地図をみると山の上に関電の施設があるようでした。ここでタバコ休憩。対岸には細いみちがありましたが,あれは旧道か?
 天見の集落に入ると(11:20)。遊歩道に上がる道があったので迷わずそこに行きました。やれやれほっとします。あの国道はさすがに歩く気がしない。この道はゆったり歩けます。先行者1名,ゆったりと歩いています。この先には天見小学校もあるし,まさか通学にあの国道を歩かせる訳にはいかないですね。
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 廃線跡らしく急坂やカーブも少ないですが,特急電車が通るにしては坂道は急でカーブも急なように感じます。南海高野線をここに通すのにはそれなりの苦労があったと思います。

 11:27,河内天見駅着。その手前に甘味処がありました。この田舎に?と思いますが,ここには南天苑という温泉旅館があるんでした。

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 南北朝時代に近郷の流谷八幡神社の宮司が湯治場を開いたのが始まりで,高野山参拝客らの人気を博したとのこ とです。その後神社ともども焼失,再建もならずそのまま廃湯となったそうです。
 時は下って,昭和10年,堺大浜にあった"汐湯"をそっくりそのままのかたちで,古来からの温泉ゆかりの天見に移築し,高野山参詣のための温泉旅館にしたのがこの南天苑であるということでした。行ってはいませんが,写真をみるとなかなかの旅館らしく,建物は明治・大正を代表する建築家辰野金吾氏が手がけたもので,平成15年(2003年),国の有形文化財に登録されたそうです。
 天見は南天の里でもあります。

(つづく)

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2008年5月 2日 (金)

東海道ウォーク 元吉原-吉原

2007年12月1日(土)-3(つづき)




【元吉原】
 富士マリンプールのそばの防波堤上で休憩していて、デジカメの電池がそろそろなくなってきたので、ケータイカメラをメインにしようとして確認したら・・・あっ!マクロモードになっていました。ということは・・・今までケ ータイで撮った写真が全 部ピンぼけでした。とういうことで、松林の道がほとんどダメです。(12:22)

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