西国街道(4) 安満-上牧
2010年10月23日(土)
■ウォーク再開(13:00)
結局近くの牛丼家で昼食。13:00再開です。
安満の交差点、というより陸橋下から東を見ています。いかにも場末というごちゃごちゃした感じがします。頭上の府道は枚方から高槻にくる幹線ですね。陸橋を南に降りた辺りは八丁松原といって、沿道に松が植えられているところです。
高槻はお城下ですから六口が作られていました。その内の京口は今の京口町の圓成寺の東側と言われています。そこからまっすぐ北に、写真のあたりで西国街道と接続していました。京口からここまで八丁あったので八丁畷、松が植えられていたので八丁松原という訳です。松は慶安2年(1649)
高槻城主永井直清によって整備されたということですが、かつての松の並木道も明治以降は鉄道の開通(東海道線や阪急)、道路の拡張によって少なくなり、現在は八丁畷町、松原町にその一部が再整備された公園になっています。車でよく通りますが、今回行ってないので写真はなし。
■安満の生け垣(13:12)
さて、ごちゃごちゃを過ぎると、すっかり風景が落ちついてきます。
元藁葺屋根の家もあるし、生け垣の家もある。こうしてみると生け垣の効用というのは大きいですね。生け垣でなくても石塀の上から植木がのぞいているだけでも違う。
■梶原(13:24)
檜尾川を渡ると梶原に入ります。左手は俄然山が迫ってき、右手は開けて東海道線が見えます。この辺りから東海道線と阪急線が近くなり競争する(のではないと思いますが、乗っているとそう感じる)ところですね。
街道の周囲はかなり熟れてきていい感じです。梶原らしく梶原さんというお宅もありました。梶原村なので梶原さんなのか。梶原さんが村の有力者であったから梶原村なのか?
高槻市観光サイトによると、「梶原は、古くは「カジオリ」と呼ばれていました。淀川で大風のために梶(舵)が折れ、帆も失ってしまい、それでこの地域を「帆無梶折邑(ホナシカジオリムラ)」と呼ぶようになったという伝聞があります(参照:芥川えのきの会「梶原余話」)」http://www.city.takatsuki.osaka.jp/new/syoko/html/travel0013.html
なるほど。
■畑山神社(13:32)
畑山神社は天児屋根命と菅原道真を祀るとあります。またしても藤原系。しかし、社伝によれば、元亀年間(1570年代)、金仙寺の鎮守である三十番神を合祀して、永福寺と名付けられたといいます。慶長年間に火災で焼失。宝永3年(1706)、現在の社殿や多宝塔などが復興され、明治元年(1868)の神仏分離令により、同5年に畑山神社と称するようになったということでした。新しいんやね。
さらに、当社造営以前、7世紀後半頃には、この地に、梶原寺が創建されていたとみられています。その頃から「梶原」なのか。平安時代はかなり大きなお寺だったようです。
山麓の斜面には7~8世紀頃の瓦窯跡があって、天平勝宝8年(756)、東大寺の造営にあたっていた造東大寺司が、梶原寺に6000枚の瓦を発注したとの記録(正倉院文書)が残っているそうです。
日本に瓦技術が伝わったのは、の崇峻元年(588)「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」と日本書紀には書かれていて、瓦博士(およびその指導を受けた日本の職人)の手により、法興寺(飛鳥寺のちに、平城京遷都で奈良に移転され、元興寺となった)が造営(596年)されたことが明らかになっています。
この瓦はなんと昭和時代まで使われていたんだそうです。昭和30年代に元興寺の極楽坊本堂と禅室の解体修理が行われ、その時、法興寺から運ばれたものが約600枚、 そのうち法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も使われていたのが分かったのです。
http://www.kawara.gr.jp/01_rekishi/rekishi01.shtml
東大寺から発注を受けるとなるとかなりの技術をもっていたに違いありません。瓦博士から指導を受けた職人たちが大勢住んでいたのでしょうか。その瓦も平安時代にはあまり焼かれなくなったのだそうです。
■梶原一里塚跡(13:39)
さて梶原一里塚跡です。ここには地蔵堂があって唯一の縁となっていますが、一里塚とはあまり関係のないもののようです。せっかくの地蔵堂もこんだけ厳重に囲ってしまう取りつく島もありません。
山が迫ってきて感じのよいところではあります。
■東海道線と併走(13:42)
西国街道は東海道線と併走するようになります。東側はさらに、阪急京都線、新幹線、国道171号と併走します。淀川はさらにだ1kmほど東でまだ余裕がありますね。名神が西の山の中梶原トンネルを通ります。交通情報で「梶原トンネル先頭に30キロ」とか言って、混み合うところです。
それにしてもよく電車が通ります。北陸線特急(多分)、はるか、最後のはなんでしょう?福知山線特急ではないと思うけど・・・この間、たった4分です。
■上牧(13:49)
かんまきというのは高槻市なんですね。知らなかった。街道筋の古い町らしく道が狭い!車1台がやっとです。
■東海道線のガードをくぐります(13:50)
トンネル内はレンガ貼りになっていました。ここからが島本町。というより、トンネルの西南(大阪側)でも、西国街道の西が島本町になっています。
【本日のマップ】
より大きな地図で 西国街道4 (茨木-京都) を表示
(つづく)
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