高野街道

2012年1月 9日 (月)

紀伊見峠越 (2)

2011年5月3日  慶賀野

【河岸段丘】
 国道に合流しました。ウルサイのでわき道を行きます。これが旧道なのか?紀見峠駅への分岐には、たこ焼き屋があるんですが、今日も営業はなし(13:19)。石碑には「養叟和尚旧跡 是より西八丁奥 矢倉脇に阿里」と彫ってあります。

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 このあたりはまた川と道の落差はあまりないですが、川はだんだん深いところを下るようになります。集落は段丘上か山の斜面にできている。田んぼもそうです。

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 2年前は、このあたりの川は工事をしていました。東からの支流が合流するところは地図には橋があるようでしたが、工事の真っ最中で通れず、引き返したんでした。今は工事も完成していましたが、川をさえぎるようにこんもりとした森が残されています。

 何かお社でもあるような感じ。のぞいてみると、ちょうどそこには滝があるんでした(13:25)。

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複雑な構造ですが、

・森の手前で合流する
・合流してから森の横で滝が落ちる
・滝の上から、2箇所で取水している

 この場所は「水」を利用する上でとても重要な場所のようです。工事は単なる道路工事でなく、バイパスの関係の国道整備にともなう水利用設備の工事のようでありました。この水をどこに利用するのか?

【慶賀野】
  このあたり慶賀野という在所です。野というにはほど遠いほどの深い谷川と河岸段丘です。街道は、先程の取水口から東側の山すそに渡り、山にへばりつくようにして南下して行き、今のマグドナルドのあたりから徐々に広い台地になっていって、その台地は次の川が東から合流するところまで続いています。この台地が慶賀野なのか?

 2年前に来たときにはその台地は歩かず、国道をいったのでした。そのとき、台地の縁にへばりつくように長大な水路が拵えてありました。その水路に取水口からの水を流すのか?あるいはまた、台地を潤す水になるのか?高さがちょっと合わない気がします。等高線をたどっていくと、台地の南端の方は潤せそうな感じです。水路はマグドナルドの辺りから国道より数m高いところを走っていたので、先程の取水口からの水ではないと思われます。だいぶん辿っていったんですが、民家の裏口、庭先を通っているので、入り込む訳にはいかないし・・・ということで、どこからきているのかわからず終いです。

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P1200630 ともあれ、水路は街道沿いの民家の脇を通り抜けて広い台地へと流れていきます。これは広い!まぎれもなく野ですね。水路を作って、水田を開いて、まことに慶賀。なので、慶賀野。納得です。

 田んぼの向こうには蛭子神社が鎮座しております。

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神社の由緒を調べると、
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当神社は、事代主命を主祭神とした、いわゆる「えべっさん」の愛称で、一村の産土神として、村人に崇敬されている。
 神社の創立時期については不詳であるが、資料として「永享六(一四三四)年奉造営蛭兒大明神玉置丹治重政」の棟札と、「宝永三(一七〇六)年五月吉祥日奉納蛭兒大神宮御厨子造紀州伊都郡相賀荘内谷内慶賀野村左大臣奥石二十七世孫北村氏重」の奉納札が残っている。
 神社の鎮座する地は、延暦十五(七九六)年に開かれた、紀伊見峠を越す南海道(高野街道)沿いにあるが、当時のことは全く不明で、ようやく南北朝時代の天授三(一三七七)年八月の古文書に「慶賀野村」の名称が表れて来る。「慶賀野」の字句からみて、何らかの戦勝の祝と関係があると伝承されている。
 丁度、神社の東南四〇〇mに在る小高い山(標高三〇〇m)は、通称「城山」と呼ばれる「長藪城址」で、平安時代に坂上田村麻呂が砦を築き、その後、平將門九代の子孫平政房がこの砦にこもったと云う説と、嘉暦二(一三二七)年土屋義方五郎左衛門掃門丸が築城したとの説があるところからみて、これらの武将が、戦勝の祝をしたのであろうと思われる。
 また、築城の時期、村名の表れた頃、更に現存する資料等から推測するに、神社創立は、一四〇〇年前後と考えられる。
和歌山県神社庁:

http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4008
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うーむ、相当古いです、かつ由緒正しい神社。戦勝で慶賀ですか?水路ができて慶賀で納得したんですがね。

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 ともかくも、慶賀野は終わりです。村はずれにはお地蔵さんがおられます。ここで、水路の水は下に落としていて、ゴウゴウと音がします。一仕事終えた水は元の川に返されます。

 国道に降りる坂の途中から小道が走っていました。上は大福寺ですが、この道は相当気に入ってます。
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【林間田園都市】

 南海の駅もあるように、ここは林間田園都市です。「慶賀野」で検索してみても、慶賀野に関する情報はごくわずかで、メインは不動産情報、住所一覧、グルメランキング、広告チラシ情報、出会い情報まである。なんのとこはない、そこらにある衛星都市のそれと同じです。文化発信情報はないんかい。林間・田園・都市が鼎立するのか、はなはだ疑問です。
 ここには高野街道が今の国道ともつれながら走っています。歩いている限りは「田園」で「都市」は感じられませんが、山すその高層マンション、国道の様子、車の数をみると「都市」化は進んでいます。

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 国道沿いにあったこの倉庫。酒造りだったのか、醤油・味噌造りだったのか?そんなことを思わせる風格のある建物です。きれいに手入れして美しいところをみると現役なのか?もう一題、女人高野五里石。

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 バイパスの高架をくぐると旧街道は国道と分かれて橋谷に入ります。高架下には「橋谷」をデザインしただんじり庫。旧街道沿いのお地蔵様。この道は昔ながらの文化が根付いている静かな道です。猫も目を細めてこちらを見ています。のんびりと歩けるお気に入りの道です。しかし、ここの紫蘭の植え込みはあまり手入れされていないようです。2年前は全面に植えられていて紫の花をつけていました。時期が2週間ほど早いだけではなさそう。

 そうこうしているうちに御幸辻到着です。今日はここから電車で途中を飛ばして高野口まで行きます。

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【本日のマップ】

より大きな地図で 紀見峠 を表示

(とりあえず終わり)

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紀伊見峠越 (1)

2011年5月3日  紀伊見峠



 紀見峠というのが結構気に入ってます。前回歩いたのが2009年5月15日ですから、2年経っています。町石道リベンジの前に歩いてみることにしました。

【うどん屋でたこ焼き】
 天見の駅に11時前に着いたと思います。天見といえば出合の辻にある以前から気になっていたうどん屋・「たこ忠」さん。たこ焼き屋さんでもあります。

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 のぞいてみると「あと30分くらいかかるわーー」ということで、付近をブラブラしました。高校生のワンゲルらしい兄ちゃんが3名ほど流谷を登っていきます。どこ行くの?声をかけると「岩湧山です。」そうか天見は岩湧山の登山口でもあるんでした。 南海旧線の廃線跡の遊歩道のところは道路工事をやっていました。バイパスのようですが、静かな山村がどうなるのか?
 ブラブラといってもどこも行くところがないので早めに「たこ忠」さんに行って待たせてもらいました。「たこ焼き、うまいで。は早ようできるし」ということでたこ焼き。たこ焼きとくればビールということでビール。おっちゃんとおばちゃんの店で、なんでも峠向こうから車で通ってきているようです。おっちゃんの趣味半分ということで、「山の中におってもなにもすることないので・・・」元気なおばちゃんでした。
 歩く前からほろ酔い気分になってしまいました(11:40)。

【蘇民将来】

 出合の辻から山側に入る小道が分岐します。ここの小路がなかなか気持のよいところです。

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 ふと見ると(他所の家をじろじろ見ている訳ではありません)、「蘇民将来子孫家門」と書いたしめ飾りがかざってありました。まさか、蘇民将来の子孫の家?調べてみると、蘇民将来の信仰を伝承してお祀りしている神社が護符を頒布しているのでした。関西で蘇民将来といえば、八坂さんですが、この信仰は「備後国風土記」逸文の疫隈國社(広島県福山市素盞嗚神社の末社)や長岡宮で発掘された蘇民将来護符が文献上は古いそうで、今でも全国各地に広がっているようです。しかし、「客神の足跡」サイトによると、東北、越後にかなり集中しているという興味深いデータがありました。http://www.ne.jp/asahi/maroudo/somin/somintop.html
 ボクはこの護符を見るのは初めてですが、護符の形は神社によって各種あり、このお家のものは形からみると伊勢の松下社の注連縄護符とよく似ています。しかし!伊勢の松下社オリジナルの注連縄護符とは注連縄の向きが逆(出雲式の稲の株元が左)!ちょっと訳が分からなくなりました。しかし、伊勢で松下社以外で作成して売っているものは稲の株元が左なので、そちらで入手されたものなんでしょうか。
http://museum.umic.jp/somin/sominshou/s_katachi07.html
http://www.sato.pref.mie.lg.jp/member/info.php?id=56
 ちなみに、八坂さんの祇園祭で一部の鉾から頒布される粽には蘇民将来護符が付いているはず、というので、確か家に長刀鉾の粽があったなと思って調べたら、すでに処分されてました!!

【山里の変化】

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 さて、この小路にはすばらしいお屋敷があります。なにがすごいかと言えば、石垣と土塀。なかなかすばらしい。何か違和感を感じましたが、それは母屋の屋根がトタンに葺き替えられていたのです。以前はかなり朽ちた茅葺き屋根で、これもすごかった。前の写真をのせておきましょう。2年も経つと変るもんです。

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 気持の良い道が続きます。しゃくなげも咲いている。街道は島の谷の信号で国道を渡って続いていきます。(11:48)。
 街道はいったん国道と合流します。いつもの古い変電所ですが、その横にはあたらしいログハウスが(11:57)。ここにも変化が現れています。

【イタドリの道】

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 前回と同じタイトルです。最奥の人家を通り過ぎると坂は谷をぐるっとまわりながら、ゆったりと登っていきます。ここは草花の宝庫ですね。全部名前がわかるといいんですが、そうもいかない。以前は山菜採りにきている人も見かけました。まことに気持のよい道です。マムシグザの花ははじめて見ました。この花も一度みると忘れませんな。

【紀伊見峠】
 ダイヤモンドトレイルを横切るとまもなく紀伊見峠です(12:26)。一般には紀見峠ですが、ここの在所は「紀伊見峠区」と主張していますので、紀伊見峠。ここには高野山女人堂の六里石があります。

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 峠を越えたところに「腰痛の神様 福島大神」と書いた看板があって、前回来たときから気になっていたので行ってみました。あまり無理をすると時々痛んできます。

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 大きくはないが、気持ちのよい神社です(12:30)。すぐ近くにお墓があってお墓参りの人が訪れるようです。ベンチもあるので休憩していたら、「こんなとこようわかりましたなあ?どこから?いつもこられますのん?」「大阪ですけど、2年前来たときから気になっていたので・・・」「腰、痛いですなあ」なんていう老人の会話をしております。

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 紀伊見峠には江戸時代に紀州藩の番所が置かれていて、旅籠や茶店が軒を連ねて高野参りの人々で賑わっていました。「紀伊見峠宿」ここにある峠の茶屋・丹波屋にはそう書いてあります。

 宿場も終わりになるころ、道の真ん中、いや脇にお地蔵さんがありました(12:45)。元々は、ここから急坂の下りになるので、祠をぐるっと回るようにして道があったのでしょう。今は車のためにまっすぐ道が作られて、それで道の真ん中にお地蔵さんが取り残されたか。

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紀州への下り】
 坂を降りて、旧国道を横切るところで休憩をしていると、車できて南海の紀見峠駅までの道を聞く人がいました(12:50)。なんでも、ダイトレを歩くので下見に来たとか。どこか駅とダイトレ近いところに車を置いて、ダイトレを歩いて・・・ということなので、この場所は最適かと思います。

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 ここからの道もよいので快適に下っていきます。5~6分下ると紀見峠駅への道が分かれます。この道は車は無理ですが歩いて、10分くらいで駅にいけるし、車はもっと下に道があるはずです。

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 柿畑を過ぎたところにシブイ廃屋、もとい現役の家があったんですが、ありゃ!なくなって更地になっていました(13:06)。なかなか風情のある屋根だったのですが、まさか、残せとはいえない。

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 この先で、車が寄ってきて、みるとさっき道を聞かれた人でした。「ああ、どうも。」

【本日のマップ】

より大きな地図で 紀見峠 を表示

(つづく)

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2009年6月23日 (火)

細切れ道草・高野街道(2) 柱本-橋本


2009年5月15日 柱本ー橋本




【一路南下】
 国道には歩道があって、歩きやすいですが、ウルサイ。けっこうな傾斜です。護岸の補修ができているようですが、川は道路に沿って真っ直ぐ。大雨の後等は真っ直ぐ、走るようにして流れるんでしょう。多分ですが、このあたり雨が多いように思います、紀伊半島南面ですから。小さな川でも大雨のあとは大変なんでしょう。傾斜があるので曲線にせず護岸を固めるほうよいのいかもしれません。
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 川の右岸が旧道のようです。(13:22)左岸の山の上には大きな団地があります。紀見ヶ丘。P1070948

 紀見峠駅への分岐にきました。(13:29)紀見峠駅付近は地名は矢倉脇といいます。5万分の1の古い地図にはそう書いてました。しかし、Googleマップには載っていないんです。このあたりがちょっと不便。
 ここには、たこ焼き屋があって、ソフトクリームの看板に誘われて寄ってみましたが、残念!やってなかった。土日休業はしかたないにしても、開店が15時から21時とは?しかたがないので、自動販売機でジュースを買いました。ここでベンチに座ってのんびり10分ほど休憩しました。同類のおじさんがこちらをみいみい通過。P1070950

 目の前には向う側(国道)を向いた石碑があります。護岸工事を機につけかえましたか?石碑には「養叟(ようそう)和尚旧跡 是より西八丁奥 矢倉脇に阿里」と彫ってありました。案内板を呼んだ訳ですけど。一休和尚の法兄らしいです。

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 紀見峠駅への道が西へ通じています。なかなか感じのよさそうな細いみちですが、県道です。こっから帰ってもいいんですけど。

 その登り口に左へ折れる道がありました。いかにも旧道そうです、勘では少し先で橋を渡って旧道入口につながってそうです。本道は国道歩きになりますし、こちらに入ってみました。(13:34)

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 途中まではなかなか良かったのですが、アウト。川の工事をしていました。残念ながら引き返しました。失敗!これは振り返って川上を見た写真です。

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 南海電鉄も崖にへばりつくようにして鉄橋を渡しています。

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【段丘の道】

 いったん国道に戻り数分で旧道入口にきました。(13:46)口にはお堂がありました。先程の田んぼの中の道は橋があると、ちょうどこの旧道入口に入るはずだったんですが。お堂の向こうには紀見ヶ丘の住宅地への入口。大きなニュータウンクラスの住宅地です。

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 山裾の道は左の山のほうに向かう道と分かれます。ボクは右に行きましたが、左の道が正解のようです。

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 古い5万分の1の地図にはちゃんと道が書いてありました。しかし、400*300pixの制限では小さすぎてよく見えない。きちんと許可を取って、ということなのでしょう。
 このあたり慶賀野といいますが、とても「野」とは思えないです。かなり高い段丘の上に街道があります。

Map
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※国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版,昭和6,7年測量,要部修正測量昭和33年)から転載。

 道の際の蔵も見上げる感じで石垣の上に建っています。ここは、少し行くと国道に合流する地点ですが(13:49)、その国道の右下はまっ逆さまに落ちそうです。下の段丘の千枚田風の田んぼには田植えの準備ができていました。

タニウツギの花が咲きはじめています。

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 川は谷の底をさらに深く堀りながら流れています。川向こうは林間田園都市。この谷の深さをみていると、林間田園というようなのどかな感じはしません。このあたりはもう大阪通勤圏なのでしょう。難波まで1時間以内で行けるようですので。

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 国道の左の台地の崖には水路が作ってありました(13:53)。まだ現役のようです。その先の台地の上は田んぼになっているらしく、そこまで水を引いて農地にしています。そこを旧街道は通っているはずです。昔から、急峻な川に沿った大地に、かなり手を入れて農地を作ってきたことがよく分かります。

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 道路脇にはみごとなサボテンのある家がありました。(13:58)

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 「南無大師遍照金剛」の石碑が現れました(14:02)。五里石です。詳細は看板を見ていただくとして、危なくて正面から写真がとれない!

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【橋谷の道】

 しばらく国道歩きが続きます。大きな陸橋が見えてきた手前に右に入る道がありました(ここ記憶が曖昧ですが、地元の方が2人ほど農作業をしておられた記憶はあります)そこに入ったと思います。橋をくぐって坂を登ります。この道が旧街道のようです。P1070972
 ふりかえると、あら ら、だんじり庫が、橋谷と書いてありました。

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Danjiri

  ここから旧街道らしいのどかな道が続きます。P1070978

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 幼稚園のおかえりの列にあいました。声は小さかったけど「こんにちは」と、あいさつをしてくれました。この一言で一瞬にしてこちらの気持も変るもんです。なんだかウキウキしてきました。先生も「よくいえたねーえらいねー」日ごろからきちんとした躾をされているようです。少し経ってから思い出して、先生と幼稚園生に敬意を表してパチリ(14:14)。P1070982c

 紫蘭。石垣に生えている小さな花が気になったので写してみましたが、両方は無理でした。P1070985trimjpg

 石垣には小さな祠と御地蔵様が・・・これをみているとやはり巡礼の道という気がします。
 突き当たると御幸辻です(14:24)。P1070988

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おことわりですが、写真は振り返り写真です。手前が橋本方面になります。ボクの撮る写真は振り返り写真がかなり多いです。通り過ぎて、あっと思って振り返って撮る、これが半分以上だと思います。

 御幸辻とは由緒ありそうな地名ですが、検索してみると、不動産物件情報が大半でした。大阪に通っている人が増えているんでしょうね。
  ここには神社があって、牛頭天王社です。立派な神社ですが・・・紀州はスサノオ系ですね。

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【橋本への道】

 さてここから地図がさっぱりなくなります。5万分の1の地図がここで切れるんです。あとは勘で動きます。とりあえず、ここから下っていき国道に合流します。(14:30)

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 しかしながら、数分で飽きてきました。右に入る道があったにので行ってみました。農道のようですが、辻にはちゃんと祠が作ってありました。(14:35)P1080007cut

 古い街道がどこを通っていたのか分かりませんが、遠くに見える南海電鉄の車庫の手前にこんもりと茂った森がありまして、なにか神社のようです。あとで地図を確認するとそこも牛頭天王神社でした。この麓まで迂回するように道が走っていたのいかも分かりません。かもです。

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 とにかく農道を南下していきます。いったんは国道に戻りましたが、すぐにまた脇道に。国道24号の橋をくぐって(12:43)、結局はまた元の道(国道は橋本市街を迂回するように新しい道を走っています)に戻りました。
 この道は、川沿いの両側から山が迫ってくる隘路のような、ちょっと寂しいところを通りますがこんなところを旧街道は通ったんでしょうか?地図を見ていると右手の山の上、南海のトンネルのちょうど上には太子堂とか、それにつながる門前街?のようなところがあって、そこを通ったのかも知れません。

 まもなく南海電鉄をくぐります(14:55)。ここからすぐに橋本の駅です。P1080011

 南海とJRが改札を兼用していました。南海の特急は出た後で、急行のほうが早くつくというので急行にしましたが、新今宮まであっという間でした。大きなニュータウンができるはずです。

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 これでとりあえずはおしまいにします。が、ここまできたらどうせなら高野山に歩いて・・・ということで現在調査中です。町石道というのが人気らしく、ウォークというよりも登山に近くなるのでしっくり構えて調べたいと思います。さて、いつになりますか?

(とりあえずおわり)

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2009年6月22日 (月)

細切れ道草・高野街道(2) 紀見峠越

2009年5月15日 紀見峠ー柱本




【もと宿場街】

 紀見峠には江戸時代に紀州藩の番所が置かれていて、旅籠や茶店が軒を連ねて高野参りの人々で賑わっていました。今はその雰囲気はあまりありません。大正時代に鉄道ができて峠の下を通り過ぎていきます。旧国道も峠越えをしていましたが、昭和44年には紀見峠の下をトンネルが開通して、人の往来も途絶えたようで、旧街道筋は静かな山村になっています。峠のお家の庭先を通るような感じで恐縮しながら通っていきました。

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   庭先からは紀州の山々が望めます。まさに紀見峠ですね。
昔から、なぜか高台の家が好きで、それもマンションとか、高台の新興住宅地のような場所でなく、まさにこういう感じの家なのです。TVコマーシャルで以前あった、キリン一番搾りの「加賀太きゅうり」編にちらっと出てきたあのお家のイメージです。そのスクリーンセーバーを今も入れていますが・・・
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 紀見峠ですが、書き忘れたことが・・・峠にあった「歴史街道」の派手なグリーンの標柱には「紀伊見峠」と書いてありました。昔は紀伊見峠たっだのか。
 ここには喫茶店というより峠の茶屋がありまして、丹波屋さんといいます。昔からの茶店かと思ったら比較的最近開店されたんだそうです。ここの看板に「紀伊見峠宿」とありましたので、正式にはというか、昔は「紀伊見峠」だったのでしょう。峠の字が挿入されているのはご愛敬です。

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 入ってみたいんですが、残念ながら営業は火・土・日で今日は金曜日です。平日からプラプラ歩いているものはおらんやろ。
 林間田園都市行きのバスの便もあるようで、日に5本も!
 7:19、 9:34、12:48、17:13、18:35
 これは我々旅人にも便利だと思います。

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   丹波屋さんのお家は茶色のトタン屋根の家ですが、崖の端に建っていて、南側がすぱっと切れ落ちています。眺めは抜群なんでしょうね。

 だらだらと坂を下って行きます。下には旧国道も見えますが、あのあたりにバスあるのか。結構高い所を街道が走っています。地図を見てみると峠から南に延びた尾根がやや平らになっていて、そこに街道が走り宿場が発達したようです。

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 白壁の蔵。壁にデザインされている文様は何を表わしているのでしょう。軒下にある@みたいなデザインも気になります。

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 署名のところが読み切りません。誰の歌碑なんでしょうか?

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 土塀の道。
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まわりには花がたくさん。のどかな山村です。P1070895

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【快適な下り】

 強烈なヘアピンカーブを過ぎると下りになります。宿場もここで終りのようです。

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 坂は旧国道を横切ってさらに降りていきます。現在12:59。しばしタバコ休憩とします。P1070918

 ここからの道もよいので快適に下っていきます。P1070921

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 5~6分下って、ちょうどいやになったあたりが坂を降りきったところです。そこはちょっとした広場になっていて、祠がありました。阿弥陀如来様をお祀りしたものでした。祠は新しいですが、昔からあったものだと思われます。ちょうど坂を降りきって、高野山へ行く旅人が、「やれやれ無事にこれられました」 と手を合わせたに違いない。また、高野山から帰る人は、「これから峠越えなので、どうぞ無事に越せますように」と。その前にはタケノコがにょっきり顔を出してました。

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【陽光の紀州】

 紀見峠を越す頃からうすうす感じてはいたんですが、紀州側は明るい!河内が暗いとい うことではないですが、紀州=南国というイメージがあって、さらに、この坂は南面を向いているので太陽がさんさんと当たります。現在13:10、ちょうど 日の高い頃です。それに、峠の南面は尾根に挟まれていないので視界が拡がります。このあたり、まだまだ高度は高いですが、土地利用が進んでいるのか、高い ところまで果樹園や畑が作られていて、里に降りたなあという感じが強くなります。新しい住宅地もここまできていました。

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 紀見峠駅へは右に山裾を巻くように峠一つを越えるとあります、途中はすでに住宅地になっているようでした。あとで地図を見ると「光陽台」。

 ゆるやかな斜面に柿が植えてあります。久しぶりに柿の花をみました。花はちょっとさえないですが、秋になると立派な実になると思います。

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 これはレモンでしょうか?さすがに暖かい地という気がします。

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 振り返ってみると峠付近の山にさんさんと光があたって緑が耀くような感じです。やはり明るい紀州という感じがします。

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 シブイ廃屋と思いきや、どなたか住んでおられるようでした。

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 こんな感じで、明るい緑の中をのんびりと下ってきた峠でした。時間にして30分ほどであっという間に終るんですが、まことに気持のよい峠でした。紀見峠という地名、峠名はあっても、この坂道には名前が付いてないんでしょうか?○○坂とか。駅から2里くらいですが、柿の木坂とか・・・後日地図をみていると、もう少し下っていった御幸辻のあたりにありました。柿木坂。

 トンネルを出てきた国道と合流して、峠越えは無事に終りました(13:16)

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(つづく)

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2009年6月18日 (木)

細切れ道草・高野街道(2) 天見-紀見峠

2009年5月15日 



【豊かな山村】

 河内天見の駅からも遊歩道が続いていますが、旧道を目指して、出合ノ辻でいったん国道に入ります(11:31)。たこ焼きが気になりますが・・・
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2009年6月17日 (水)

細切れ道草・高野街道(2) 三日市-天見

2009年5月15日   三日市ー天見



 さてゴールデンウイークの喧騒もおさまって,三日市から橋本まで歩きます。
 新今宮経由で南海高野線に乗換え9:30ころ三日市町。河内長野までは急行なので結構早かったです。しかし,朝はやっぱりコーヒーということで,駅前のフォレスト三日市の喫茶店があいてところだったので,まず休憩。いろいろ用事をかたづけました。ビル横の入口にはツバメが巣を作っていて,大きくなった雛が押し合いへしあいしておりました。落ちそうだ!


【石仏の道】
 街道を歩きはじめてすぐ,橋のあたりに八里石があったはずですが,エンジンがかかったところで見落としました。写真は橋を渡ってしまったところ。(9:55)

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 街道はすぐに国道371号に出合い,ここからは国道歩きです。371号は西にも走っていますが・・・幸い今日は車が少ないです。新町橋を過ぎて少し歩いた所に,右の山の中に入る道がありました。ここが旧道のようです。(10:08)P1070710

 まもなく陸橋で国道を渡ります(10:10)。石仏北ランプで2本の371号線が合流します。青い看板には「橋本まで16km」の文字が見えます。峠越えとはいえ,16kmならゆっくり行けると思います。

 前方を見ると,国道筋の喧騒とは打って変わった静穏。ずっと山並みが続いて,遠くに岩湧山が見えます。この落差感覚はおもしろいです。P1070713

 道はどんどん登っていき,石仏の村に入ります。のどかな村です。きれいに田んぼの岸の草刈りがされています。田舎へ来るとこのような日常の手入れが行き届いているので美しいのです。だいたいはご主人が農作業の合間にやるか,おじいさん,おばあさんがやるんですが,この景色をみていると働き 手は足りているように思います。高齢化して限界集落のようになってしまうと,働き手がなくなって荒れてきます。ここはまだまだ大丈夫のような気がします。
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分岐(10:17)。この坂を降りるとまた国道に合流します。右に行くと石仏寺のハズです。

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 ここから4~500mくらいは国道歩きです。歩道がないうえにトラックがかなりのスピードで追い越していくので危ないです。これは歩く気がしない。つぶれたドライブインのすぐ先に農道のような道があって,迷わずそちらに入ります。(10:23)P1070719


【岩瀬の村から】

 歩きやすい道が続いてきます。そろそろ田植えでしょうか。苗が元気に育っています。

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 田んぼの準備ができています。岸がきれいに刈り込まれています。もう数週間したら田植えになって,そのころきたら岸にはきれいに草も生え揃っているんでしょうね。(10:30) このあたり清水から岩瀬の集落に入ります。(10:35)

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 あとで地図を見ていると(歩いている今持っているのは5万分の1地形図),このすぐ山の上は美加の台のニュータウンです。そこは横文字の建物が多くて,南海アーバンコンフォート,南海アーバンパレス,デイリーカナートイズミヤ,お医者さんも○○医院でなく○○クリニック・・・・片や,岩瀬の棚田に田植えの準備,岸の草刈り。しかもこの位置関係だとお互いが見えない,その存 在すら分からないのでお互いの交渉もまったくないのでしょう。このギャップ,いいのか悪いのかよく分かりませんが,昭和30年代以降,このギャップをどんどん増幅させる一方だったのでしょう。ときたまボクみたいな物好きがふらっと迷いこんでくるくらいなんでしょう。

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 田舎の良さはじっくり構えてあまり急激に変らないことだと思っています。しかし,余裕を持って平気で変らないのか,それとも,変えないために,苦しい中必死で持ちこたえているのか,?この付近の様子がよく分かりません。家並みを見るかぎりでは余裕があるような気がします。ここの強みは大阪に近いこと。河内長野まで出れば急行で40分で都心というのは強みです。近くには大きなニュータウンもあるし。これを活かせばこの地の農業や(林業も?)あるいは文化面でも,イナカはイナカの良さをウリにしてじっくり構えて将来設計していけるのではと思います。近隣のニュータウン住民との接点を作っていくことが将来設計のきっかけになるのではと思います。

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 まもなく千早口の駅です(10:50)。ここに喫茶店がありまして,よっぽど入ろうかと思いましたが・・・喫茶店というより茶店の感じでよかったのですが。駅前にはたばこ屋さんもあって,お菓子やパンは売っているようです。ペットのお茶を補給しておきました。
 ここでタバコ休憩。休憩していると同じ風体のおじさんが歩いてきました。峠越えのようですが・・・
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【南海高野線・廃線跡】

 駅前の道をまっ過ぐ行くと,あれれ?行き止まりです。民家の庭に侵入してしま いました。しかたがないので線路際まで迂回するようにして歩いていきます。まも なく車道に当たりますが(10:55),まっすぐ川の右岸を行く道もあるようです。これは天理教の教会の中を通るようだったのでパス。陸橋の下に旧道らしい道があったのでそちらに行きます。

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 あとで調べると,天理教前の道は国道の危険をさけるための遊歩道兼生活道路(通学路?)のようで,天見までずっと続いています。丘の中腹にみえる,柵をしているところがその道です。

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 いろんなサイトを見ていると,これはもともと,南海高野線が単線軌道で運行していた頃使用していた線路跡で,その 廃線跡を利用して遊歩道にしたものだそうです。

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  ふと思って,ボクが持っている国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版;なんと測量は昭和6,7年,要部修正測量昭和33年!!。掲載地図参照※)を見ると,おお,高野線は紀見峠直下までトンネルなしで運行していました。そのラインをみると今の遊歩道にぴったりです。とすると,石仏を過ぎて国道を外れて入った農道みたいなところは線路跡を横切ったようでした。この旧線路跡をGoogle mapの方にも赤で書き込みをしておきましたが,一部不明なところがある。5万 分の一地形図をルーペで拡大してみましたが,やはり細部は分からないところがあります。
 あとで鉄っちゃんのサイトを調べると,さすがにキチンと踏査したレポートがありました!

Amami
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※国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版,昭和6,7年測量,要部修正測量昭和33年)から転載。測量法29条,国地達13号承認取扱要領2条の規定による。


より大きな地図で 高野街道 を表示

 柵といえば,イノシシとか出るんでしょうか。うちのイナカも同様で,山際の田畑の境目にはずと柵をはり巡らせて,電流も流しているんで危ないです。写真をよく見ると畑の野菜みたいなものにカンレイシャがかぶせてあります。

【おおもうけの話】
 何かお堂があると思ったら,それは「松明屋」という元お店でした。弘法大師にゆかりのあるもののようで,看板(由緒書き?)に説明がありました。が。全部は読めない!河内長野市ホームページ「河内長野市には,弘法大師直伝のちまきを売って,大儲けした人がいた!」というタイトルで解説がありました。
http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/gyoumu/topics-list_09.html

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Chimaki

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  それによると,戦前までは弘法大師直伝の粽(ちまき)を作って売っていたそうです。それにしても瓦はきれいだし,建物も傷んでいない。トユに至っては新しく改修した形跡がある?最近でも,毎月二十日の夜に月並祭を行い,大師を祀り,色餅をついて供えているというので,近隣の人やゆかりのある人が維持しているんでしょうか?

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 建物の前にある「おたいまつ」の石碑には,
  施主 大阪 北い組 
   明治二十八年五月建立 (5月と読める)
と彫ってありました。北い組とは大師講のようなものか?相当人気があったことがしのばれます。
 この家の軒に松の古木があって,大師にまつわる伝説が河内長野市のサイトに紹介されていました。
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大師が京へ散内するとき,高野山を丁度子の刻に松明を照らして出発し,道中ここまで来たところ,夜が明けた。この家で休憩をした空海は,お礼に粽(ちまき)の製法を教え,松明の燃え残りを軒端の地上に突き立て出立したが,不思議なことに,この松明が芽を出して成長し大木になったと言われている。
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写真にある切り株がそうなのか?現在三代目だそうです。

 そうそう,道中で思い出しましたが,前回。京や大阪から高野山までお公家さんはゆっくり,と書きましたが,どうも違うようでした。もっと強行軍のようで,50kmくらいは歩いたとされています。四天王寺-九度山慈尊院を1日で歩いたようです。馬でしょうけど,お付きの人は大変だ。失礼しました。
出典:http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/gyoumu/topics-list_10.html

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   石垣に紫蘭(11:01)。まことに美しい日本の5月。この先で国道に合流します。
橋の傍には家があって,登っていく道もありましたが,庭に侵入しそうなのでやめました。ここから先,歩道がないので,国道歩きは正直危ないです。しかし,少し先には七里石もあるので注意しながら歩きます。

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 5~6分で七里石がありました。車がびゅんびゅん通ります。しかし,電柱を何で傍に立てるかなあ?(11:08)

 遊歩道に行こうとしたが,アクセスする道は工事中でした。遊歩道も工事か?(11:11)P1070763


【天見の村】

 少し行くと視界が広くなってきました。天見の村です(11:15)。ここは分岐になっていて,地図をみると山の上に関電の施設があるようでした。ここでタバコ休憩。対岸には細いみちがありましたが,あれは旧道か?
 天見の集落に入ると(11:20)。遊歩道に上がる道があったので迷わずそこに行きました。やれやれほっとします。あの国道はさすがに歩く気がしない。この道はゆったり歩けます。先行者1名,ゆったりと歩いています。この先には天見小学校もあるし,まさか通学にあの国道を歩かせる訳にはいかないですね。
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 廃線跡らしく急坂やカーブも少ないですが,特急電車が通るにしては坂道は急でカーブも急なように感じます。南海高野線をここに通すのにはそれなりの苦労があったと思います。

 11:27,河内天見駅着。その手前に甘味処がありました。この田舎に?と思いますが,ここには南天苑という温泉旅館があるんでした。

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 南北朝時代に近郷の流谷八幡神社の宮司が湯治場を開いたのが始まりで,高野山参拝客らの人気を博したとのこ とです。その後神社ともども焼失,再建もならずそのまま廃湯となったそうです。
 時は下って,昭和10年,堺大浜にあった"汐湯"をそっくりそのままのかたちで,古来からの温泉ゆかりの天見に移築し,高野山参詣のための温泉旅館にしたのがこの南天苑であるということでした。行ってはいませんが,写真をみるとなかなかの旅館らしく,建物は明治・大正を代表する建築家辰野金吾氏が手がけたもので,平成15年(2003年),国の有形文化財に登録されたそうです。
 天見は南天の里でもあります。

(つづく)

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2009年6月14日 (日)

細切れ道草・高野街道(1) 河内長野-三日市町

2009年4月30日


 
 少し書き方を変えないと時間が経ってしゃあない、というので、これから簡易スタイルで流してしまいます。

 駅前の喫茶店で足をさすりながら長い休憩をして、やっとこさで動きだしました。本当は古野町の九里石とか見に行ったんですが、いやになって途中でやめてしまいました。

 さて、駅前の吉年邱のくすのき写真からです。現在14:21。P1070554

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