紀伊見峠越 (2)
2011年5月3日 慶賀野
【河岸段丘】
国道に合流しました。ウルサイのでわき道を行きます。これが旧道なのか?紀見峠駅への分岐には、たこ焼き屋があるんですが、今日も営業はなし(13:19)。石碑には「養叟和尚旧跡 是より西八丁奥 矢倉脇に阿里」と彫ってあります。
このあたりはまた川と道の落差はあまりないですが、川はだんだん深いところを下るようになります。集落は段丘上か山の斜面にできている。田んぼもそうです。
2年前は、このあたりの川は工事をしていました。東からの支流が合流するところは地図には橋があるようでしたが、工事の真っ最中で通れず、引き返したんでした。今は工事も完成していましたが、川をさえぎるようにこんもりとした森が残されています。
何かお社でもあるような感じ。のぞいてみると、ちょうどそこには滝があるんでした(13:25)。
複雑な構造ですが、
・森の手前で合流する
・合流してから森の横で滝が落ちる
・滝の上から、2箇所で取水している
この場所は「水」を利用する上でとても重要な場所のようです。工事は単なる道路工事でなく、バイパスの関係の国道整備にともなう水利用設備の工事のようでありました。この水をどこに利用するのか?
【慶賀野】
このあたり慶賀野という在所です。野というにはほど遠いほどの深い谷川と河岸段丘です。街道は、先程の取水口から東側の山すそに渡り、山にへばりつくようにして南下して行き、今のマグドナルドのあたりから徐々に広い台地になっていって、その台地は次の川が東から合流するところまで続いています。この台地が慶賀野なのか?
2年前に来たときにはその台地は歩かず、国道をいったのでした。そのとき、台地の縁にへばりつくように長大な水路が拵えてありました。その水路に取水口からの水を流すのか?あるいはまた、台地を潤す水になるのか?高さがちょっと合わない気がします。等高線をたどっていくと、台地の南端の方は潤せそうな感じです。水路はマグドナルドの辺りから国道より数m高いところを走っていたので、先程の取水口からの水ではないと思われます。だいぶん辿っていったんですが、民家の裏口、庭先を通っているので、入り込む訳にはいかないし・・・ということで、どこからきているのかわからず終いです。
ともあれ、水路は街道沿いの民家の脇を通り抜けて広い台地へと流れていきます。これは広い!まぎれもなく野ですね。水路を作って、水田を開いて、まことに慶賀。なので、慶賀野。納得です。
田んぼの向こうには蛭子神社が鎮座しております。
神社の由緒を調べると、
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当神社は、事代主命を主祭神とした、いわゆる「えべっさん」の愛称で、一村の産土神として、村人に崇敬されている。
神社の創立時期については不詳であるが、資料として「永享六(一四三四)年奉造営蛭兒大明神玉置丹治重政」の棟札と、「宝永三(一七〇六)年五月吉祥日奉納蛭兒大神宮御厨子造紀州伊都郡相賀荘内谷内慶賀野村左大臣奥石二十七世孫北村氏重」の奉納札が残っている。
神社の鎮座する地は、延暦十五(七九六)年に開かれた、紀伊見峠を越す南海道(高野街道)沿いにあるが、当時のことは全く不明で、ようやく南北朝時代の天授三(一三七七)年八月の古文書に「慶賀野村」の名称が表れて来る。「慶賀野」の字句からみて、何らかの戦勝の祝と関係があると伝承されている。
丁度、神社の東南四〇〇mに在る小高い山(標高三〇〇m)は、通称「城山」と呼ばれる「長藪城址」で、平安時代に坂上田村麻呂が砦を築き、その後、平將門九代の子孫平政房がこの砦にこもったと云う説と、嘉暦二(一三二七)年土屋義方五郎左衛門掃門丸が築城したとの説があるところからみて、これらの武将が、戦勝の祝をしたのであろうと思われる。
また、築城の時期、村名の表れた頃、更に現存する資料等から推測するに、神社創立は、一四〇〇年前後と考えられる。
和歌山県神社庁:
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4008
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うーむ、相当古いです、かつ由緒正しい神社。戦勝で慶賀ですか?水路ができて慶賀で納得したんですがね。
ともかくも、慶賀野は終わりです。村はずれにはお地蔵さんがおられます。ここで、水路の水は下に落としていて、ゴウゴウと音がします。一仕事終えた水は元の川に返されます。
国道に降りる坂の途中から小道が走っていました。上は大福寺ですが、この道は相当気に入ってます。
【林間田園都市】
南海の駅もあるように、ここは林間田園都市です。「慶賀野」で検索してみても、慶賀野に関する情報はごくわずかで、メインは不動産情報、住所一覧、グルメランキング、広告チラシ情報、出会い情報まである。なんのとこはない、そこらにある衛星都市のそれと同じです。文化発信情報はないんかい。林間・田園・都市が鼎立するのか、はなはだ疑問です。
ここには高野街道が今の国道ともつれながら走っています。歩いている限りは「田園」で「都市」は感じられませんが、山すその高層マンション、国道の様子、車の数をみると「都市」化は進んでいます。
国道沿いにあったこの倉庫。酒造りだったのか、醤油・味噌造りだったのか?そんなことを思わせる風格のある建物です。きれいに手入れして美しいところをみると現役なのか?もう一題、女人高野五里石。
バイパスの高架をくぐると旧街道は国道と分かれて橋谷に入ります。高架下には「橋谷」をデザインしただんじり庫。旧街道沿いのお地蔵様。この道は昔ながらの文化が根付いている静かな道です。猫も目を細めてこちらを見ています。のんびりと歩けるお気に入りの道です。しかし、ここの紫蘭の植え込みはあまり手入れされていないようです。2年前は全面に植えられていて紫の花をつけていました。時期が2週間ほど早いだけではなさそう。
そうこうしているうちに御幸辻到着です。今日はここから電車で途中を飛ばして高野口まで行きます。
【本日のマップ】
より大きな地図で 紀見峠 を表示
(とりあえず終わり)
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