2009年9月16日(土) 下地-小坂井
【鬼まんじゅう】
豊川の堤防の下の道を行きます。堤防の道も捨てがたいのですが、徐々に離れていくのでやめときます。
歩道を歩いていると、いきなり、饅頭屋の幟が顔にあたりました。「鬼まんじゅう」と書いてあります(13:00)。はて、ここにも鬼伝説があるのか?ということで調べてみました。
豊橋では安久美神戸神明社の鬼祭というのが有名らしいです。毎年、2月10日と11日に行われ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。天下の奇祭といわれるようですが、
紹介サイトを見てみると、まっとうなお祭りのようです。平安朝に始まった「国のはじめ」の神話を田楽に取り入れて今日まで継承されたものです。
奇祭の由縁は「赤鬼と天狗のからかい」というもので、高天原の大神様のところへ、赤鬼(暴ぶる神)が現れて、貯蔵してある穀物をまきちらすなどの悪さをするので、天狗(武神)がこらしめようとして、両神秘術を尽して戦ったあげく赤鬼が敗退、遂に和解して、一同喜んで神楽の舞をするというものです。赤鬼が負けて、供物のタンキリ飴の土産を置いて境外に走り出て、氏子の町々を駈け廻るものです。このとき、タンキリ飴の入った袋を持った大勢の若者がタンキリ飴をまき散らし、群集は争ってこれを拾います。それだけではなくて、白い粉もまき散らすのであたりは大変なことになるようです。
神社創立当時から安久美神戸の農民によって、年々農作物の豊作を祈
るために行われたと言い伝えられています。
http://rakuyama1103.hp.infoseek.co.jp/ 本来、大晦日に行う年越しの神事でしたが、昭和43年(1968年)からは、祝日(建国記念の日)である2月11日を本祭としたということでした。
赤鬼も天狗もよう似たもんだと思うんですが・・・赤鬼はスサノヲですね。天狗は武神ということですが、これがよく分かりません。
要は、大神様の御徳により荒ぶる神が降参し、天津神と国津神が融和するということですが、鬼祭りの次第がからかいで終らず、融和の神楽の舞まできちんと行われることから、「融和」に力点がおかれていると思います。
安久美神戸神明社はの由緒では、天慶2年(939)、平将門の乱が起き、京の朝廷は、伊勢神宮で関東平定を祈願したことから、翌年鎮圧されたおりに、時の朱雀帝が豊川左岸の安久美(飽海)荘(豊橋市中心部)を伊勢神宮へ寄進し、安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地になり、その屋代(やしろ)として創建された、とあります。これから考えると、平将門という東国の異端の反乱者を制圧したことが、鬼祭りの発端となっている気もします。
以上のような鬼物語ですが、この鬼饅頭はウィキペディアにも載っていました。要は、芋饅頭で、薄力粉と砂糖を混ぜ合わせた生地に、角切りのさつま芋を加えて蒸した菓子。主に愛知県などの東海地方で見られる。へえー東海地方に一般的ですか!名古屋の梅花堂というのが有名らしいです。
ボクのイナカの鬼饅頭とは違う。今度食べてみます。
【下地】 下地(しもじ)は豊川が大いに蛇行したてできたでっぱりの中にあります。下地という名から、昔は洪水に悩まされたであろうことが分かります。豊川には新堤防、その横所々に、石積みの古い堤防が残っています。今は家や物置が建ったり、公園になっていたり、畑になっていました。緑も多くてちょっとよい感じのところですが、写真を撮ってません。
聖眼寺斜め向かいに下地河川緑地がありました。江戸時代に築かれた堤防が昭和60年の新堤防完成で役目を終えたため、一部を公園として整備したものです。豊川上流には吉田城下への洪水を防ぐため9箇所の霞提が設けられていたようです。
その聖眼寺には松葉塚といって、芭蕉句碑もあるようですが、境内のため見ていません。下地一里塚跡もあるようですが、通り過ぎてしまいました。杭一本では分からない。
このあたりから古めの商家、蔵が見えてきます。道幅が狭くなったあたりに、いかにも古そうな格子戸の商家があり、ヤマサンの看板がありました(13:08)。旧名は山本商店で、元禄16年(1703)創業の老舗です。菜種油の製造販売、米穀商、両替商などをしていたようです。蔵は駿河で主流だった石造りでないタイプです。土蔵なのか?
ここから先、他にも古い建物や土蔵などが続き、古い街並みが残っています。気になったのは軒先に注連縄のある家が多いことです。お祭りなのか、それとも年中飾っておく習慣なのか?
【瓜郷遺跡】 東街道から少し東に入ったところに弥生遺跡があるというので寄道してみまし
た。なんと、地名が寄道というところです(13:18)。
弥生時代の高床式倉庫の模型があり、その中にパンフレットが入っていたので一部いただきました。
弥生中期(西暦0年くらい)~古墳時代前期(300年くらい)のもので、低湿地の自然堤防の上にできたものです。吉野ヶ里よりは新しく、登呂よりも古いかなり重要な弥生遺跡のようです。弥生住居は立派なものが復元されています。梁や屋根も立派なもので、高床になっていないだけで、今でも快適に住めるのでじはないか、夏はすずしく冬はあったかい、そんな感じです。
【閑散とした魚市場】 このあたり、一直線の道です。暑いし一服したいのですが、だんだん田舎に行くようで期待薄です。
豊橋魚市場が現れました。土曜なので休みなのか?それとも取り引きは終ったのか?だれもいません。向かいにある問屋街もシャッターが閉っています。
【豊川放水路】 豊川放水路を渡ります(13:35)。歩道がない橋。それに結構トラックが通ります。欄
干もやたら低いし、これは恐い。トラックの少ない時を見計らって、走り抜けました。息が切れる。
古代には豊川(当時は飽海川)の河口付近は川幅が4㎞もあり、この付近は川の中で、旅人は志香須賀渡(しかすがのわたし)という渡し舟で渡ったそうです。律令時代は柏木濱(現在の小坂井町で、JR飯田線と東海道線が別れるあたり)に「渡津駅」が設けられた言われていて、そこが対岸でしょう。江戸側は豊橋駅の西付近とされています。
先程の瓜郷遺跡でもらったパンフレットによると、弥生時代には海岸線がJR東海道線のそばまで来ていて、大きな入江になっています。入江の幅は、北は小坂井町の前芝、南は豊橋の新栄町です。これから考えると古代の河口の様子も想像できます。ここには中洲が発達していたんでしょう。
【菟足神社】 豊川の橋を渡り終えホッとするのもつかの間、また歩道のない橋があります。ちょうどトラックが来たところで、短かったので全速で走りました。トラックの運ちゃんがやさしい人で、徐行してくれました。ありがとう。
このあたりには工場や物流センターが建ち並んでいます。右手の物流センター前に「子だが橋」の石碑があるようですが、走って橋を渡った後で忘れてしまい、立ち寄りませんでした。
この伝説は「生贄にせんとて捕らえてみれば我が子だが・・・」という話ですが、それにしても、縄文や神代の昔ならいざしらず、神社の祭礼に、それも千年前ごろ若い女性を生贄にする風習があったとは!ま、豊川の神を鎮めるたあったかも知れない。それが「神への生贄」というように伝わって残ったのでしょう。この手の話はあちこちにあり、
大阪の野里住吉神社にもあるようです。
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_002903_1.htm?page=1 さて、その菟足神社ですが、才ノ木交差点から少し先を右に入ります。(13:40-14:00)
由緒によれば、雄略天皇の頃(456-79)創建され、元は柏木浜にありましたが、白鳳15年(675-86頃)秦石勝により現在地に移されたとか。祭神は菟上足尼命(うなかみすくね)で、知らない名前だと思ったら、葛城襲津彦命の4世孫だそうです。雄略天皇により穂の国(現在の東三河地方)国造に任ぜられ、治民の功により、柏木浜の大神として祀られたということでした。
なお、4月に行われる風祭の御田植神事では、昔は人身御供の代わりに猪を献じ、その後、雀を12羽献ずることに変ったそうです。風祭は風鎮めの意味で、子だが橋の伝説は風神に対する捧げものだったようです。
鳥居をくぐって拝殿に向かう石畳がやたら赤かったのを覚えていますが、なにか原因でもあるんでしょうか?
拝殿をのぞくとこれはビックリ!大きな菟が鎮座しておりました。これだけ大きいと赤い目がちょっと怖い。
ここの風祭の宵宮に行われる手筒花火は有名らしいです。
(以上、菟足神社志留倍を参考にさせていただきました)
【注連縄】 気になっていた軒先の注連縄ですが、おもしろいものを見つけました。下地以来
ときどき見かけましたが、写真左のようなのが飾ってありました。あとで調べるとどうやら手筒花火の胴体のようです。注連縄の代わりにする習慣なのか、それとも手筒花火が有名なので、単にオブジェにしたものか?
一方、えらく細長いのを(写真右)を見つけました。
この2つとも初めて見ます。道中で見かけた注連縄はごく普通のものでしたが、これはかなり変わっています。
飯田線の線路を越えてすぐのところに秋葉神社の祠と常夜
燈がありましたが車が停まっていてよく見えません(14:07)。
道はあくまでまっすぐ続きます。
(つづく)