和菓子

2010年11月 4日 (木)

かきつばた鎌倉街道(2)刈谷・西境-豊明

2010年9月22日(水) 




【境川堤防をあるく】
 ゆっくり休んで、12:45出発です。ここで大きなまちがい。方向感覚が狂ったのか、左に行ってしまいました。堤防を道路と間違ったみたい。高速に突き当たって堤防を引き返してきました。約20分のロス。

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川は境川というように、川向こうは尾張になります。

■堤防を歩いていきます。右下には神社が見えますが、あれが酒井神社のようです。

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■鎌倉街道標柱発見(13:16)
 川に取水かなにかの井堰が見えて、番小屋を過ぎたところから堤防の右下に標柱が見えました。たぶん、あれが鎌倉街道の標柱でしょう。
 田んぼの向こうには祖母神社の鎮守の森が見えます。なんだ、割りと近いではないか。反対側(尾張側)は学校の建物が正面に見えました。

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 降り口を探して少し行くと、ちゃんと踏み跡ができていました。結構人が訪れているようです。そこから振り返ると酒井神社の森とまっすぐな農道が見えます。地図で確認すると、なんださっきのレストランの辺りからまっすぐに400mほどで到着するのでした!

■鎌倉街道西境跡(13:18)
 石標は堂々と建っています。なんでも、地元の鎌倉街道研究家が、後世の愛好家のために建立されたという貴重なものです。石標の裏には四六と縦に刻まれています。これは46基ということ?昭和46年との建立なのか?
 もうなくなられたということで、貴重なものを残していただきありがたいことです。

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■酒井神社(13:26)
 社殿の裏から入りました。いつものことですが・・・。本殿、拝殿、鳥居とめぐっていきます。酒井神社の手がかりになるようなものはありませんでした。刈谷市の建てた案内標も簡単過ぎるし・・・

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■境川堤防(13:46)
 これから豊明駅に行きます。堤防の道をモクモクと歩きます。伊勢湾岸高速道路を過ぎて、前後の写真を撮っておきました。前方の赤いビルあたりが東海道のようです。

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 少し下流に行きますと、白鷺がのんびりと魚を待っています。ここでツツクツボウシが鳴いていました。今日は暑かったから慌てたんでしょうか。今年の聞き納め。

■境川の境橋(13:54)
 東海道(旧1号線)に出ました。境川にかかる境橋。分かりやすいです。新しく付け替えられたようで「平成6年」と書いてありました。ここを渡ると豊明、尾張になります。

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 説明板によると、「慶長6年(1601年)東海道に天馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち会いで橋がかけられた。この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。

 やがて継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。」

 境橋を渡ったところに藤原光廣の歌碑がありました。   

うち渡す尾張の国の境橋 これにかわの継目なるらん

シャレかい!

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■豊明着(14:00)
 東海道は新1号線の土手下(脇)を通って、さらに高速(伊勢湾岸道)をくぐります。くぐったところにキロポスト。344.5kmだそうです。まだ300キロ!前方の信号を渡れば名鉄豊明駅です。

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■喫茶店で休憩です(14:09)
普通はホットですが、今日は暑かったのでアイスコーヒーとしました。朝出るのが遅く、暑かった割りには比較的早めに豊明につきました。やれやれ。

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【知立散歩】

■さて、早く終ったので知立にてお土産を買いに行きます。
 その前に、名鉄知立駅には駅のホームに祠があるのでした(14:53)。よくみると駅のずっと南、弘法町にある遍照院の遥拝所になっているのでした。まさに弘法大師の街ですね。

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■鉄砲かあんまきか(15:00)
 トコトコ東海道キャンペーンの幟が建った本陣跡を見て、旧東海道に入り、知立古城跡も過ぎて、到着しました、鉄砲屋さん、もとい元祖あんまき小松屋さん。

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  いつも不思議に思うので、たまたま店にでておられたご主人に聞いてしまいました。

「ここはどちらが本業なんですか?」

 ご主人は笑いながら、「あっち」と奥のあんまきの方を指差されました。白あん、黒あん、両方を合計6本買い求めました。
「置いといて硬くなったらチンするかオーブンで焼いたらおいしいよ」とアドバイスもいただきました。

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甘さおさえたすっきり系の味でした。

(いったん終り)

【本日のマップ】

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2010年9月17日 (金)

かきつばた鎌倉街道(1)

2010年5月26日(水) 知立・八橋




 知立での仕事第3クールが終ってやれやれ、ホッとしています。 とにかく、気分転換が必要です。今回はかきつばたの無量寿寺にいってから、特に目的地を考えずあたりをブラブラする予定です。


【かきつばた】
 知立のかきつばた祭が今日で最後だというので、行ってみました(9:15)。係の人に「かきつばた祭りって、なにかあるんですか?」と聞いたら、「エー、なにもありません、今日で終りなので・・・」ということで、何もありませんでした。

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 かきつばたは花ガラ半分の様子で、さすがに終りのようです。おかげで静かな境内をゆっくり回ることができました。

 無量寿寺は在原業平ゆかりの寺として知られています。(知らなかったけど・・・)どんなゆかりか?

Arihara

1)お寺の本尊、正観音像が在原業平の作と伝えられる。

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2)伊勢物語にある話で、「むかしおとこありけり・・・」で始まり、ある男が東下りの途中、この地(八橋)にたどり着いた。燕子花(かきつばた)が水辺に美しく咲いていたので、その男は、次のような歌を詠んだ。 

唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う

らころも
つつなれにし
ましあれば
るばるきぬる
びをしぞおもう

となって、フレーズの頭をとると「かきつばた」になっている。テンテンはないけど。

高校時代の古文ででてきましたね。

3)謡曲「杜若」は、この伊勢物語からとって作られた。

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4)業平の井 「業平公 お茶の水を おくみの井戸」がある。

5)杜若姫の物語がある。業平の愛人「杜若姫」は、業平の東下りの際、はるばる都よりその跡を追い八橋までたどり着きましたが、その時すでに八橋を立ったあとで、悲観の余り付近の淵(今の逢妻川)に入水した。

 ゆかりはこんなところでしょう。

 無量寿寺はもともと、奈良時代の慶雲元年(704)の創立の慶雲寺といわれ、弘仁十二年(821)にこの地に移され、無量寿寺となったそうです。その後荒廃したのを文化九年(1812)、方巌売茶(ほうがん ばいさ)翁により再建され、杜若庭園もこの時完成した、ということでした。
http://www.city.chiryu.aichi.jp/0000000863.html


【いずれがあやめかきつばた】

 さて、せっかくなので、よく似ているアヤメ/カキツバタ/ハナショウブの見分け方を調べました。

■アヤメ(菖蒲)   アヤメ科アヤメ属  八橋・無量寿寺Imgp1272

■カキツバタ(杜若,燕子花)  アヤメ科アヤメ属 私市・大阪市大植物園P1150188

■ハナショウブ(花菖蒲)  アヤメ科アヤメ属  交野市P1150346

■ショウブ(菖蒲) サトイモ科ショウブ属 写真なし

あて字の漢字で書くと訳が分かりません。花菖蒲と菖蒲も漢字は「花」違いですが、ものがハナハダ違います。

参考サイト

http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/izure.html
http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/miwake.htm
あやめは「花弁の元のところに網目状の模様」がある。
杜若は「花弁の元に白い目型の模様」がある
花菖蒲は「花弁の元のところに黄色い目の形の模様」がある                     
 もっと単純には
5月に花。排水の良い草原に生えるアヤメ
5月に花。湿原に生えるカキツバタ
6月に花。湿原や水分の多い草原に生えるのがハナショウブ
でよいと思います。
 ちなみに、アヤメの写真はわが家のエントランスの岸(湿地ではない)に生えているものです。知立神社にあるものはハナショウブでちょうどこれからがシーズンです。


【八ッ橋】

 伊勢物語では、ある男が都から道に迷いつつ、この地にたどり着くと、「川が幾筋も流れ、 水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つにわたせるによりてなむ八橋といひける。」とあります。また伝説では、この地の湿地(川?)で水死した二児を悲しみ、当寺で尼になった母親が墓を建て、村人の力で入り江に八つの橋を架けたことから、この村は八橋と名付けられた、とあります。したがって、八ッ橋。

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 八ッ橋屋さんの出店がありました。西尾とあるので、近くの西尾から出っぱってきたのかと思いきや、本場の京都からでした。西尾は創業者の名前です。なんでも、お菓子の八ッ橋の名前はここの八橋という地名から取ったのだそうです。八ッ橋の謂れの碑もありました。はて、地名の八ッ橋の謂れなのか、お菓子の八ッ橋の名前の謂れなのか?よく確認しませんでした。

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 八ッ橋を買ってみましたが、聞くと京都でも売ってると!・・・なんで大阪から知立に来て京都土産をかわなあかんのや、ということで、さらに聴けば、この祭の間だけここでしか売らないオリジナルがあると聴いて、それに交換してもらいました。
 何が変わっていたのかよく分かりませんでしたが、ともかくもおいしくいただきまして、気がつけば写真はありません。

 ここには芭蕉の連句碑もありました。 

かきつばた 我に発句の おもひあり (芭蕉)

 麦穂なみよる うるおいの里         (知足) 

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芭蕉は、のざらし紀行の旅の帰途、貞享三年(1685)四月、鳴海の俳人、下郷知足の家に泊り歌会を開いた時の作いわれています。

(つづく)

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2009年12月 3日 (木)

東海道ウォーク 二川-御油(3)

2009年9月16日(土) 下地-小坂井



【鬼まんじゅう】
 豊川の堤防の下の道を行きます。堤防の道も捨てがたいのですが、徐々に離れていくのでやめときます。

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 歩道を歩いていると、いきなり、饅頭屋の幟が顔にあたりました。「鬼まんじゅう」と書いてあります(13:00)。はて、ここにも鬼伝説があるのか?ということで調べてみました。

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 豊橋では安久美神戸神明社の鬼祭というのが有名らしいです。毎年、2月10日と11日に行われ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。天下の奇祭といわれるようですが、紹介サイトを見てみると、まっとうなお祭りのようです。平安朝に始まった「国のはじめ」の神話を田楽に取り入れて今日まで継承されたものです。
 奇祭の由縁は「赤鬼と天狗のからかい」というもので、高天原の大神様のところへ、赤鬼(暴ぶる神)が現れて、貯蔵してある穀物をまきちらすなどの悪さをするので、天狗(武神)がこらしめようとして、両神秘術を尽して戦ったあげく赤鬼が敗退、遂に和解して、一同喜んで神楽の舞をするというものです。赤鬼が負けて、供物のタンキリ飴の土産を置いて境外に走り出て、氏子の町々を駈け廻るものです。このとき、タンキリ飴の入った袋を持った大勢の若者がタンキリ飴をまき散らし、群集は争ってこれを拾います。それだけではなくて、白い粉もまき散らすのであたりは大変なことになるようです。
 神社創立当時から安久美神戸の農民によって、年々農作物の豊作を祈
るために行われたと言い伝えられています。http://rakuyama1103.hp.infoseek.co.jp/
 本来、大晦日に行う年越しの神事でしたが、昭和43年(1968年)からは、祝日(建国記念の日)である2月11日を本祭としたということでした。

 赤鬼も天狗もよう似たもんだと思うんですが・・・赤鬼はスサノヲですね。天狗は武神ということですが、これがよく分かりません。
 要は、大神様の御徳により荒ぶる神が降参し、天津神と国津神が融和するということですが、鬼祭りの次第がからかいで終らず、融和の神楽の舞まできちんと行われることから、「融和」に力点がおかれていると思います。
 安久美神戸神明社はの由緒では、天慶2年(939)、平将門の乱が起き、京の朝廷は、伊勢神宮で関東平定を祈願したことから、翌年鎮圧されたおりに、時の朱雀帝が豊川左岸の安久美(飽海)荘(豊橋市中心部)を伊勢神宮へ寄進し、安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地になり、その屋代(やしろ)として創建された、とあります。これから考えると、平将門という東国の異端の反乱者を制圧したことが、鬼祭りの発端となっている気もします。
 以上のような鬼物語ですが、この鬼饅頭はウィキペディアにも載っていました。要は、芋饅頭で、薄力粉と砂糖を混ぜ合わせた生地に、角切りのさつま芋を加えて蒸した菓子。主に愛知県などの東海地方で見られる。へえー東海地方に一般的ですか!名古屋の梅花堂というのが有名らしいです。
ボクのイナカの鬼饅頭とは違う。今度食べてみます。

【下地】
 下地(しもじ)は豊川が大いに蛇行したてできたでっぱりの中にあります。下地という名から、昔は洪水に悩まされたであろうことが分かります。豊川には新堤防、その横所々に、石積みの古い堤防が残っています。今は家や物置が建ったり、公園になっていたり、畑になっていました。緑も多くてちょっとよい感じのところですが、写真を撮ってません。
 聖眼寺斜め向かいに下地河川緑地がありました。江戸時代に築かれた堤防が昭和60年の新堤防完成で役目を終えたため、一部を公園として整備したものです。豊川上流には吉田城下への洪水を防ぐため9箇所の霞提が設けられていたようです。
 その聖眼寺には松葉塚といって、芭蕉句碑もあるようですが、境内のため見ていません。下地一里塚跡もあるようですが、通り過ぎてしまいました。杭一本では分からない。

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 このあたりから古めの商家、蔵が見えてきます。道幅が狭くなったあたりに、いかにも古そうな格子戸の商家があり、ヤマサンの看板がありました(13:08)。旧名は山本商店で、元禄16年(1703)創業の老舗です。菜種油の製造販売、米穀商、両替商などをしていたようです。蔵は駿河で主流だった石造りでないタイプです。土蔵なのか?

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 ここから先、他にも古い建物や土蔵などが続き、古い街並みが残っています。気になったのは軒先に注連縄のある家が多いことです。お祭りなのか、それとも年中飾っておく習慣なのか?

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【瓜郷遺跡】
 東街道から少し東に入ったところに弥生遺跡があるというので寄道してみまし た。なんと、地名が寄道というところです(13:18)。

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 弥生時代の高床式倉庫の模型があり、その中にパンフレットが入っていたので一部いただきました。
 弥生中期(西暦0年くらい)~古墳時代前期(300年くらい)のもので、低湿地の自然堤防の上にできたものです。吉野ヶ里よりは新しく、登呂よりも古いかなり重要な弥生遺跡のようです。弥生住居は立派なものが復元されています。梁や屋根も立派なもので、高床になっていないだけで、今でも快適に住めるのでじはないか、夏はすずしく冬はあったかい、そんな感じです。

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【閑散とした魚市場】
 このあたり、一直線の道です。暑いし一服したいのですが、だんだん田舎に行くようで期待薄です。
 豊橋魚市場が現れました。土曜なので休みなのか?それとも取り引きは終ったのか?だれもいません。向かいにある問屋街もシャッターが閉っています。

Market

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【豊川放水路】

 豊川放水路を渡ります(13:35)。歩道がない橋。それに結構トラックが通ります。欄 干もやたら低いし、これは恐い。トラックの少ない時を見計らって、走り抜けました。息が切れる。

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 古代には豊川(当時は飽海川)の河口付近は川幅が4㎞もあり、この付近は川の中で、旅人は志香須賀渡(しかすがのわたし)という渡し舟で渡ったそうです。律令時代は柏木濱(現在の小坂井町で、JR飯田線と東海道線が別れるあたり)に「渡津駅」が設けられた言われていて、そこが対岸でしょう。江戸側は豊橋駅の西付近とされています。
 先程の瓜郷遺跡でもらったパンフレットによると、弥生時代には海岸線がJR東海道線のそばまで来ていて、大きな入江になっています。入江の幅は、北は小坂井町の前芝、南は豊橋の新栄町です。これから考えると古代の河口の様子も想像できます。ここには中洲が発達していたんでしょう。

【菟足神社】
 豊川の橋を渡り終えホッとするのもつかの間、また歩道のない橋があります。ちょうどトラックが来たところで、短かったので全速で走りました。トラックの運ちゃんがやさしい人で、徐行してくれました。ありがとう。

 このあたりには工場や物流センターが建ち並んでいます。右手の物流センター前に「子だが橋」の石碑があるようですが、走って橋を渡った後で忘れてしまい、立ち寄りませんでした。
 この伝説は「生贄にせんとて捕らえてみれば我が子だが・・・」という話ですが、それにしても、縄文や神代の昔ならいざしらず、神社の祭礼に、それも千年前ごろ若い女性を生贄にする風習があったとは!ま、豊川の神を鎮めるたあったかも知れない。それが「神への生贄」というように伝わって残ったのでしょう。この手の話はあちこちにあり、大阪の野里住吉神社にもあるようです。
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_002903_1.htm?page=1

 さて、その菟足神社ですが、才ノ木交差点から少し先を右に入ります。(13:40-14:00)

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 由緒によれば、雄略天皇の頃(456-79)創建され、元は柏木浜にありましたが、白鳳15年(675-86頃)秦石勝により現在地に移されたとか。祭神は菟上足尼命(うなかみすくね)で、知らない名前だと思ったら、葛城襲津彦命の4世孫だそうです。雄略天皇により穂の国(現在の東三河地方)国造に任ぜられ、治民の功により、柏木浜の大神として祀られたということでした。

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 なお、4月に行われる風祭の御田植神事では、昔は人身御供の代わりに猪を献じ、その後、雀を12羽献ずることに変ったそうです。風祭は風鎮めの意味で、子だが橋の伝説は風神に対する捧げものだったようです。
 鳥居をくぐって拝殿に向かう石畳がやたら赤かったのを覚えていますが、なにか原因でもあるんでしょうか?
 拝殿をのぞくとこれはビックリ!大きな菟が鎮座しておりました。これだけ大きいと赤い目がちょっと怖い。

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 ここの風祭の宵宮に行われる手筒花火は有名らしいです。
(以上、菟足神社志留倍を参考にさせていただきました)

【注連縄】
 気になっていた軒先の注連縄ですが、おもしろいものを見つけました。下地以来 ときどき見かけましたが、写真左のようなのが飾ってありました。あとで調べるとどうやら手筒花火の胴体のようです。注連縄の代わりにする習慣なのか、それとも手筒花火が有名なので、単にオブジェにしたものか?

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 一方、えらく細長いのを(写真右)を見つけました。
 この2つとも初めて見ます。道中で見かけた注連縄はごく普通のものでしたが、これはかなり変わっています。

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 飯田線の線路を越えてすぐのところに秋葉神社の祠と常夜 燈がありましたが車が停まっていてよく見えません(14:07)。
 道はあくまでまっすぐ続きます。

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(つづく)

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2009年11月15日 (日)

東海道ウォーク 島田-掛川(8)

2008年9月28日(日) 伊達方-掛川宿




【モクモクと一里塚二つ曼珠沙華】
 塩井河原の旧街道を歩きます。先ほどの塩井神社で旅人に抜かれました。たし か、日坂本陣で写真を撮っていた人です。結構速く歩いているのでなかなか追いつけません。

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 まもなく、伊達方一里塚跡が見えました。直径7間(12.7m)、高さ3間(5.5m)の塚が50mほど先にあり一里山と呼ばれていたが、明治33年(1900)に取り壊された。平成7年この地に復 元した。碑には「江戸より55里1町余」「京都より70里3町余」とあります。まだまだ半分にも満たない。向かいには大頭龍神社があり鳥居と小さな祠がみえます。(14:51)

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 くの字に曲っている川を見ながら歩いていきます。ここの川はなぜかよく覚えています。

   一瞬、国道に合流し、再び離れますが、合流地点に224kmの表示がありました。向かい側は幼稚園です。

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 ありがとう看板で左に折れます(14:56)。左手に諏訪神社があり入ってみましたが、どうということもなく、大きな看板が建てられていて祭の準備途中らしかった。

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 神社を出ると、軽トラックが停まってるところのおっちゃんが話しかけてきました。

「掛川までかね」
「そうです、歩かないと帰れないので・・・」

 少し進むと右に祠がありました。祠の横には六地蔵。なにか銀色の光り物をかぶっていらっしゃいます。奥は墓地でした。

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 川を隔てた本所中学校前で再度1号線合流します。モクモクとただ歩くのみ。歩道橋のところでは15:06でした。

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 2kmほどあるいたでしょうか、本村橋を渡ると、また左の県道37号線に分岐します。(15:22)

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ここから掛川中心部まで旧1号線あるきです。県道から離れるので少しホッとします。脇には、馬頭観音、向かいには夢舞台道標・掛川市 成滝がありました。

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 途中、JA山口のところで石の倉がありました。原でみたのと同じタイプです(15:31)。静岡の倉はこのタイプが主流で、 もう一種違うのがありました。

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 ここから500mほどで馬喰橋を渡り、葛川にはいります。橋を渡ってすぐ葛川一里塚跡があります(15:37)。そこは小公園になっていて、松、盛土があり、石碑もあります。石碑には「江戸より五十六里三丁余」「京都より六十九里一丁余」と刻まれていました。

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 その奥は公民館のようで、若い衆がちょうどお祭りの山車の準備をしていました。山車の上には獅子が乗っています。一里塚からのぞくと獅子はこちらをじっと睨んでおりました。ああ恐!
 ここから掛川市街としていいでしょう。

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【七曲り】
 さて、七曲りに入ります。
 入口は兼子酒店の「新婚」の看板が目印です(15:43)。バス停と「東海道七曲」の標識もあります。城下町であった掛川の東海道は敵の進入を防ぐために角を何度か曲がるように作られておりここから東番所までを新町七曲と呼んでいました。7回なので楽勝でしょう。

■ (一曲り)東海道は兼子酒店の先を南に入ります。

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■(二曲り)次は、予備校の手前を右に折れます。

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■(三曲り)80mほど先のつきあたりに秋葉常夜燈が見えます。ここを左に曲ります。お灯明(電灯ですが)が灯っていてせっかくの風情なのに、電柱(電話)は余計ですね。途中、新町の屋台置場があります。山車でなく屋台なんですね。

Jouya

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■(四曲り)40mほどですぐに突き当たりますが、ここは右に折れるしかありません。特に目印はなし。

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■(五曲り)まっすぐ行くとまた突き当たりで、右に曲ります。その手前は入口屋酒店で、また新婚の看板。角は料理屋(魚林)さんです。 
 右に曲るとすぐに枡形になっていて、七曲り道標、案内板があります。この付近には東番所(東町口番所)で木戸と番所が置かれ、宿場に出入りする人を監視していました。

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 その手前には塩の道の道標・案内板。塩の道はここを通っているんですね。御前崎の相良から日本海の糸魚川まで総行程350km。ここも歩いてみたい道の一つです。

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7magari

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■(六曲り)枡形の次の四つ辻を左に。左角は塩沢機械店です。
■(七曲り)右の脇道1本はやり過ごして、次の四つ辻を右に。周囲には金物店とか写真館、ヤマザキショップ浅井とかあります。このあたり、塩町といいます。結構広い通りなので迷わないと思います。

 北を向いて歩いていますと、うまく道ができているようで、丁葛製造本舗「桂花園」の看板がどうしても目に入ります。(15:52)栗きんとん、栗むし羊羹の幟がたっていて、どうしても入らないとダメなようです。店の裏手ではオバチャンが羊羹かなにかを作っていました。

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 とりあえず入って・・・・羊羹は売り切れでした。売り場のオバ チャンも手慣れたもので、「それなら名物丁葛はどお。おいしいよ」といって、あつあつの葛湯を一杯サービスしてくれました。新製品かなにかと言っていたような気がする。甘さ控えめで、これはおいしい。
 さらにオバチャンは手慣れたもので、

「島田からでしょ。蓬莱橋はどうだった?通れましたか?台風で壊れたと聞いていたので」と。
「ああ、3週間前に通ってきましたよ。2回も」
丁葛はしっかり買いました。

 あたりは再開発で、広くて新しい道になっていますが、桂花園の前の広い通りが旧東海道です。ここが江戸時代には札の辻で、この通りは東西のメインストリートです。この先で南北のメインストリートである大手門通りと交差します。
 桂花園前を左に。あれ、八曲り?(16:00)どうも、数え方が間違っているようです。最初の侵入は数えないのか?それとも最後の曲りは数えないのか?

 それにしてもこの通り、日曜の夕方というのに誰も歩いていません。大手門通りもそうでした。大丈夫か掛川!

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 今日は行動食だけだったのでおなかもすいてきました。通りにある蕎麦屋で蕎麦を食べました(16:05-27)。まずまず。

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  掛川は以前、仕事でひと月ほどいたことがありますが、当時は新幹線も停まらない時だったので、街並みも相当変わっています。たしか、このあたりでうなぎを食べて、あまりの量の多さに閉口した記憶があります(先輩のおごりでしたけど)。いかにも駅前の商店街というところを少し入って、右(東)だったと思いますが、いまはえらい違いです。(写真は南を向いています)
 時間もよいので、大手門通りの交差点で終了としました。(16:30)これからホテルに寄って帰ります。

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【本日のマップ】

より大きな地図で 東海道をあるく(島田-掛川) を表示

(いったん終り)

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2009年11月14日 (土)

東海道ウォーク 島田-掛川(4)

2008年9月28日(日) 小夜の中山



【今ごろ言うのもなんですが】
 大井川をすんなり渡りすぎたのです。そこは遠江/駿河の国境でした。
 なぜこんなことを言うかというと、「静岡県の歴史」というサイトを見ると、大井川を境に生活文化がかなり違うのだそうです。例えば、
方言:西国方言/東国方言
アクセント:京都式/東京式
食用芋:じゃがいも/さつまいも
儀礼芋:サトイモ/ヤマイモ
肉:牛肉/豚肉
正月の魚:ブリ/サケ
刺し身:たまり/しょうゆ
村長:庄屋/名主が多い
 あまり実体験はないですが、そんなに違うものか?今後注意して見ておきたいと思いますが、歩いているだけでは分からない。
 そもそも、遠江というのは古代大和王権の直接権力がおよぶ地域とみなされていたことが影響しているのでしょうか?
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/rekishi_shizuoka.htm

 それから、「マキノハラ」の書き方もさる事ながら、語源が気になっています。「お茶街道」というサイトを見てみると、馬の牧場からきているようです。http://www.ochakaido.com/rekisi/timei/timei4.htm
 文武4年(675)に諸国に牧を置くことが定められ、遠江の御前崎にも官牧がおかれた。大宝律令制定後「白羽牧」と呼ばれた。律令制の破綻を迎えると、白羽の官牧は縮小され、変わって地元住民の手によって私牧が営まれ、これが次第に西や北に広がった。いつしかこの台地が牧之原と呼ばれるようになった。
 昔は原の北側の一部が牧之原で、この地の原を総称するには布引原の名称が使われていたが、明治維新のころ、徳川家の幕臣や、職を失った大井川の川越人足の手により開拓されたころから牧之原と呼ばれるようになった。
 なるほど。ボクの住んでいる北河内も5世紀はじめ、おそらくもっと早く応神・仁徳のころから百済?からきた馬飼が住んで讃良などで牧を作っていたというので、馬については興味があります。
 また書き方は「牧之原」がオリジナルのようです。
 
【青木坂】
 さて登りです。どんな登りか?別に楽しみではないんですが・・・

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 登っていくと分岐が現れ、左は火剣山へのハイキングコースで旧東海道は右です(12:23)。
 ここは青木坂(箭置(やおき)坂とも)というようです。最初は樹林のなかの薄暗い急登道でしたが、右に急カーブするといっぺんに視界が開け、一面の茶畑が拡がります。まるで仕組んだような劇的な変化。

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 これから、だらだら坂がずーーーっと続きますが、眺めがよいので、あっちきょろきょろ、こっちきょろきょろで写真の撮りま  くりでした。
 谷は一見深そうですが樹木を切り拓いてしまうと、なだらかな谷です。こういう平坦な丘の風景はめったに見ないので、もの珍しさもあって、疲れを感じる間もありません。 景色を見ながらのんびり登っていきます。トラックもえっちらおっちら登って いきます。

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 ひたすら登っていくと小さな集落の中ほど右に、日坂の 宿(掛川市)と菊川の里 (島田市)との境界標識がありました。ここ から掛川市です。中腹に境界があるんですね(12:36)。

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 ログハウスのお宅の前に阿佛尼の歌碑がありました。十六夜日記の作者ですね。

雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月   阿佛尼

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 「小夜の中山」は西行の影響で早くから歌枕となり多くの歌が詠まれています。ここから西坂までは、所々に小夜の中山を詠んだ歌碑が置かれ「小夜の中山歌碑の道」となっています。

 すぐ先には「通学路」の看板。小学生もこの坂を登って通学しているようですが、さっきの境界から上は坂を登って日坂までいくのか。その下には人家もなかったが、そこに小学生がいるなら下りで楽だろうなと、しょうもないことを考えつつ歩いていきます。

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 まだまだ登ります。衣笠内大臣の歌碑がこの先の登りの途中にありましたが、場所の確定ができません。「通学路」の看板から4分ほど先です。

旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり     衣笠内大臣

 坂を登り切る手前に右に入る道があり、少し入って地図確認。もう一つの「夜泣石」のある、国道1号線のトンネルの方にいく道のようです。国土地理院の地図には「夜泣石」の記載もあります。最初の予想では尾根づたいにいくのかと思ったら、そうではなく、かなり降りていくんですね。これは行きにくい。

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【小夜の中山】
 だらだら坂を登り切った所はちょっとした広場で、接待茶屋跡碑がありました。昔はここより手前の坂の途中に永仁年間(1300)頃から旅人に無料で茶等を施していた茶屋があったそうです。

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 眼下には茶畑が点在し火剣山を望めます。見飽きない茶畑の風景。

 さて、なぜ「小夜の中山」というんでしょうか?再び「お茶街道」サイトを見てみます。ここは製茶機メーカーが運営しているのですが、きちんと調べられているようで参考になります。ダイジェストさせていただきます。
http://www.ochakaido.com/rekisi/timei/timei1.htm

 ここは古くは「サヤの中山」といった。
 小夜の中山のことが出てくる最も古い記録は、『古今和歌集』で、

甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく 横ほり臥せるさやの中山 (1097)
東路の佐夜の中山なかなかに なにしか人を思いひそめけむ (594)

とあり、いずれも「サヤの中山」といっています。

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なぜ「サヤ」といわれたのかには2説あって、
①この峠が狭い谷に挟まれた細い堤のような道であるため、狭谷、すなわちサヤである、これから佐夜郡という郡名にもなった。(掛川誌稿)
②サヤの語源は悪霊をさえぎる塞の神である。
 柳田国男は、この山は「遠くの旅人には幣を奉る神、近い里人には里の守を祷る神」がいるから、その神に手向けをして通ったところではないか、とし、さらに、野本寛一氏は、「サヤ」は「塞(さや)」のことで「塞る」が固有名詞となったものであろう。「小夜の中山」は悪霊をさえぎる「塞の神」を祭る峠であって、その象徴が手向けの石である。その神聖な石が、時を経て「夜泣き石」として伝承されたのだという。
 野本寛一さんはこの地・相良の出身の民俗学者なので説得力があります。
 さらに、小夜之中山には蛇身鳥の怪鳥伝説(※)があり、それを退治した藤原良政に連れられ都に行った月小夜が都から戻されて住んだ所ということから「さよ」になっていったかと思われます。
http://www.ochakaido.com/index013.htm

【子育飴】
 接待茶屋跡碑の向かいには久延寺があります。ここには「夜泣石」がありますが、どうも、後述のいいかげんさがあるのでパスしました。

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 とりあえず、茶屋(扇屋さん)に向かいます。うまい具合に開店していました。ここで休憩。
 せっかくなので子育飴をいただきました。なぜ子育てなのかは後述。わりばしに巻きつけた飴をぺろぺろしながら女主人と話をしました。

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 ・おばあちゃんの話
この茶屋には名物おばあちゃんがおられれ、子育飴を作り茶屋も切り盛りしておられましたが、6年前に104歳でなくなられたようです(メモを見るとそう書いていました)。「えっ!ひゃくよんさい!」と私。100歳のとき、現役で茶屋を切り盛りしているおばあちゃんを知事がねぎらったという記事の新聞きり抜きが貼ってありました。女主人はちょっと寂しそうでした。この方はお孫さんになるのか。
「私が引き継いでやってますが、土日だけしかできません。今は日坂から車で来ているのでまあ楽ですけど」と言っておられました。

・坂の話
「登ってくる途中に通学路の看板があったけど、この坂を登って通学するんですか?」と聞くと、「そうですよ。昔はわたしも坂を登って/降りて通学した」
 日坂まで3kmくらいでしょうか?子供のころボクも4km歩いて通っていたんでよく分かりますが、ボクの場合は急坂はないが、ここは急坂があります。「下りはえらい坂があるよ」と言っておられましたが、どんな坂でしょう。
 「東海道を歩いてるんでしょ。箱根も小夜の東坂も越えたんだから、もう楽ね」と。
「登りはともかく下りがしんどい、箱根西坂ではつるつるすべるので下ばかり向いてたら〒マークを彫った石がありましたよ」と無駄話。

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・お茶の話
 お茶はヤブキタだそうです(今はほとんどこの品種らしいですが)。「あ、それなら知ってます。中学校で茶畑を持っていて、茶摘みをしました。摘み方を教わったけど忘れてしまいました」「ウチでも茶畑が少しありましたよ。売ってはいないけど。ボクのイナカでも結構お茶は有名になってる、京都とはいえ宇治でなくもっと田舎」なんてことを紹介しました。
 5月でも結構寒いときがあるので扇風機を回します。霜の降りるような風の弱い夜は、気温の逆転現象が起こり、地上6mぐらいの気温は地表の茶の樹付近より4~5℃高くなるそうです。空気をかき混ぜて樹を温めてやる。
ボクの田舎では、昔はカンレイシャをはったりしたが、この広さでは無理でしょう。小規模ならばできそうですが。

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 子育飴を全部なめおわるのに10~15分くらいかかりましたか。こんなことをしゃべりながら飴をなめていました。飴は米と麦芽だけで造られていてさっぱりした甘さです。お土産に1つ買いました。「こぼれるときがあるから斜めにしないでね」ということで、ビニール袋をもらってしっかり包んでカバンの底にいれました。

 帰り際に「そうそう、隣に浮世絵を個人で集めて公開しているので見に行ったら?・・・相当なもんですよ」と勧められました。

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(つづく)

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2009年10月 9日 (金)

東海道ウォーク 草薙-岡部(2)

2008年8月31日(日) 駿府城下




【伝馬町通】
 JRのガードをくぐるとすぐに国道一号線に合流します。 合流したところのアバラ屋・・・なかなかいい感じで荒れています。普通はこんなのを見ると,見苦しいとか早く壊せとかいうようですが,私はそういう価値観を持たなくなってきました。トタンの錆びようといい,ツタというより葛かなにかの被いようといい,落ち着きを感じます。横のお菓子屋さんのシェードをみると現役なんかな?ま,現役ならもうちょっとやりようもあると思うけど・・・

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 ここは伝馬町通りで駿府城下のメインストリートですね。ブラブラ歩いていると,西宮神社というのがありました。へー,静岡にもあるのか?

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 西宮神社というと関西では「えべっさん」で,十日戎の日には朝一番に全速ダッシュで福男を奪取する行事で有名です。主祭神は「西宮大神」として蛭児命を祀っているはずなんですが,ここもそうなのか?拝殿まで行ってみましたが,さっぱり分かりませんでした。

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 後日調べてみると,ここの西宮神社も『えびす講』が行なわれ ,「おいべっさん」の通称で親しまれているそうです。商売繁昌,家内繁栄を祈願するのは同じですね。祭礼は10月19-20日で,縁起物の張り子の祝い鯛は静岡市の郷土玩具のひとつで,漁村などでの祝儀の際に飾る風習から来ているといわれています。
 本家の西宮神社のご祭神の蛭児命はイザナギノミコトとイザナミノミコトとの間に生まれた最初の子で,足腰が立たないヒルコであったため葦の舟に入れて流され,子の数には数えられなかったと記紀には書かれています。本家の社伝では,その後,蛭児命は西宮に漂着し,「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたといいます。ここの西宮神社も,多分西宮から勧請したものと思うので,同じご祭神ではないでしょうか?海にも近い静岡ならではの神社です。
 ちなみに西宮神社は長野にもあり,「およべっさん」と親しまれているようです。

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 伝馬町通りはメインストリートらしくきれいに整備されています 。この写真の少し先には下伝馬町の本陣・脇本陣があったようですが,説明板はわかりませんでした。さらに行ったトップセンター前にも上伝馬町の本陣・脇本陣跡の説明板があるようなのですが,それも見落とし。ま,それを目当てに歩いているわけではないので,私はかなり無頓着です。
 伝馬町の歴史は慶長14年(1609)に駿府を宿場と定め,伝馬の機関を設けたために伝馬町となったことに由来します。本陣,脇本陣もあったので,このあたりが府中宿の中心のようです。

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 ペガサートビルの前に西郷隆盛と山岡鉄舟の会見記念碑が建っていました。西郷吉之助を参謀とした東征軍は1868(慶応4)年,駿府に入ると,幕府軍の責任者勝海舟が使者として送った山岡鉄太郎(鉄舟)と伝馬町の松崎源兵衛宅で会談し,江戸城無血開城を話し合ったということで,「明治維新上もっとも重要な史跡である」と書かれていました。

【駿府城界隈】
 駿府城のお堀の前にきました。旅の雑誌や東海道のサイト で,桜のころの写真をよく見るところです。

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 9:00ちょっと前で少しお腹も空いてきたし,タバコもすいたいし,ということで,あっちうろうろ,こっちうろうろと喫茶店を探していますが,日曜の朝とてなかなかありません。地下にも行ってみましたが・・・・ 元に戻ったところに,なんだ,ちょうど開店した喫茶店というよりカフェ?がありました。やれやれ。ど こかで見たことのある店だと思ったら,昨日,海浜幕張で朝飯を食べたタリーズコーヒーという店でした。まだ誰もいないのでゆっくりタバコ休憩です。

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 25分ほど休んでからあたりをうろうろしました。とりあえず無目的。お堀の傍を行ったり来たり。駿府城を見学するには時 間も足りないし,ということで大手門とかお堀の写真をとっただけでした。

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 外堀の内側は官庁街となっているようです。静岡市のサイト
http://www.city.shizuoka.jp/deps/bunkazai/bunkazai_tyousa_sunpujyou_index.htm
をメモしておき,いつでも見れるようにしておきましょう。いつか 静岡を通るときもあるでしょうから。

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 お堀のそばにある異様な?いや,ステキな建物は静岡市役所の本館で,昭和9年築だそうです。お城には場違いなドームを持つ建物でなかなかよろし。写真ではドーム先端の塔が 切れてしまいました。
 静岡市役所の横には碑が2つありました。一つは駿府町奉行所の跡,もう一つは静岡の名の由来碑でした。

 

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 静岡の由来
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明治二年(一八六九)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称も藩庁で協議された 重臣の間では賎機山にちなみ賎ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年冨士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の威徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす
  昭和五十四年四月一日
------------------------------------------------------------------
なんだ,そういうことか。
 府中がなぜ改称されるようになったかといえば,徳川16代を継いだ田安亀之助が明治2年(1869)6歳で駿府藩知事になった際(6歳でなるの!)に府中が不忠に通ずるという意見からだったそうですが,それ以前は不忠ではなかったのかいな?
 明治政府は廃藩置県にあたって,だいたい,旧幕府方の藩庁所在地に県庁をおくのをやめて違う(辺鄙な?)ところに置いたんですが,ここは改名だけだったんですね。一応江戸無血開城を配慮し無言の圧力だけで済ましたのか?田安周辺も相当気を使ったのでしょう。

【駒形通り】
 さて,街道歩きに戻ります。市役所前からうろうろしながら 街道に戻るのですが,どこをどう通ったのか定かではありません。一応思い出したコースを地図に書いておきました。正規のルートは赤線です。

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 呉服町通りは一部通った気がしますが,とにかく伊勢丹交差点にきました。ここは札之辻(高札場)跡で,伊勢丹前に石柱がありました。が,ちっと行きすぎたあとで気がついたので写真は小さくしか写ってません。
 このあたりが,静岡一番の繁華街のようでした。東海道はこ の交差点を左折し七間町通りを行きます。七間町通りはその名の通り道幅が7間あったそうです。

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 札之辻から七間町通りを少し進むと両側に映画館がたくさんありました。ピカデリーかミラノかの前には映写機が展示してありました。フジセントラル映写機と書いてあって,なかなかの年代物のようです。反対側の街角の光景がガラスに映りこんで見にくいですが・・・
 コンビニのある角から右折(西へ)するのが旧東海道で,少し入って左折し新通りを通るのが正規の街道のようですが,私はまっすぐ駒形通りを行きました。どっちへ行っても渡るのは安倍川で同じところに行くはずなので。街道歩きとはいえ厳密なトレースにはあまり価値をおいてません。

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 駒形通りは長い長い商店街でした。1kmちょっとありますか。道路も広くアーケードがずっと続いていますが肝心のお客さんが・・・日曜の10時ころなので,まだ出足がないんでしょうか?みたところ,メガネ屋,洋品,薬局,果物屋,履物屋,電器店,酒屋,肉屋,米屋,人形屋などなど,日用品が主 力で一通りなんでもそろうようです。しかし,駐車場がなさそうなので客足は駐車場のある静岡のセンター付近か郊外に移っていってるんではないでしょうか?シャッター通りでなかったらいいんですが。

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【弥勒】

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 駒形通りをずいぶん長く歩いて,突き当たりの広い道を右 折すると大きな交差点に出ました。弥勒という所です。ここで新通り旧街道と本通りが合流して安倍川を渡るようになっています。交差点には弥勒緑地という公園があって,いろんなモニュメントが建っていました。川会所跡,安倍川架橋の碑,由比正雪公之墓趾碑などです。ここで小休止。このあたりは由井正雪の首を晒した跡とも言われているようです。

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 公園のすぐ先にはあべかわ餅元祖の石部屋がありました。これは好物なんですが,店が開いたばかりで,こちらも丸子のとろろ汁の予定があるので寄り ませんでしたが・・・ちょっと惜しいことをしたような気がします。

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 ここは文化元年(1804)の創業とのこと。もともと安倍川餅は慶長年間(1596-1615)に弥勒院という山伏が河原で餅を売ったのが起こりで川越の旅人に人気が出て安倍川名物になったということです。弥勒という地名もこの山伏の名前から来ているようです。

 石部屋の隣には安倍川義夫の碑というのがありました。なんでも,元文3年(1738),紀州の漁夫が仲間と貯めたお金(150両)を持ち帰る時,安倍川を渡しで財布を落とし,人夫の喜兵衛が拾って宇津ノ谷峠まで追いかけて財布を返したそうです。漁夫は礼金を払おうとしたが「拾ったものを落し主に返すのは当り前だ」と言って受取らず,町奉行が礼金を渡そうとしても喜兵衛が受取らないので,奉行は礼金を漁夫に返し代わりに奉行所からの褒美金を喜兵衛に渡した,ということでした。

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 なかなかの人物が出揃っていますね。江戸というのはこういう知的レベル(知識ではない)の高い人間が輩出した熟成時代だったことがうかがえます。また,昭和4年(1929)和歌山県と静岡県の学童や有志の募金により建立されたというのもイイですね。

 さてこれから安倍川を渡ります。

本日のマップ

より大きな地図で 東海道をあるく 草薙-岡部 を表示

(つづく)

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2009年8月27日 (木)

東海道ウォーク 箱根八里(5)

2008年6月25日(木) 西坂:農場-富士見平



【願合寺石畳】
 階段の下にもう石畳が見えます。解説板によると,ここは願 合寺地区の石畳です(15:17)。1995年に発掘調査のうえ,復元・整備されたもので,以前の整備を含めてほぼ全体が復元整備されています。どうりで歩きやすい。石橋も発掘され,復元されていましたが,気がつきませんでした。草に埋もれているか,落ちてるんかな?

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 ここの石畳は歩きやすい以上に,周囲の環境とマッチしてい て美しささえ感じます。東坂と比べると,どことなく人の気配,生活の気配がある。杉の手入れや,所々に畑もあったりして,そういう農・林作業のみちとして実際 使われてき たことが,復元整備という人工的なものを覆い隠して,手を加えた自然とし て目に入ってくるんだと思います。ここの石畳は気にいりました。何度でも歩いてみたいところです。
 まもなく林道と合流します(15:24)。

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【雲助徳利の話】
 坂を降りきったところに徳利を彫りつけ た雲助のお墓がありました。傍らにある,三島市の作った雲助徳利の伝説・解説文を載せておきますが,雲助に対する親しみ,感謝の気持があ ふれた,これは名文かと思います。「雲助」はだいたい悪者の代名詞のように使ってしまいます。むかし,タクシーの運転手を雲助と呼んで物議を醸した芸人がおりましたが,言うほうも受け取るほうも悪いイメージで理解していたと思います。雲助とはそういうものでなく,箱根越えの人々を助ける存在であり,きちんと人の恩義も感じる人たちであったようです。

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  最後の一文が効いています。このお墓は元は山中一里塚付近にあったよいうですが,いつのまにかここにある理由として,「酒飲みの墓ゆえ,ふらふらして一ヶ所に落ち着かないようです」と。まことにしゃれた文章だと思い ます。

Kumosuke

 雲助に関してもうひとつ心暖まる話を紹介しましょう。「和菓子街道」箱根の巻によると,このすぐ下に竹屋さんという茶店 があり,名物雲助だんごが賞味できるんですが,これはこの雲助の親分にちなんで名付けられたものだそうです。名付け親は,竹屋の女将さんのお孫さんで,当時,まだ小学校低学年だったんですが,「どうせなら,雲助団子って名前にすればいいのに」と提案してできたのだそうです。この地では,小学生も雲助に親しみを感じているのだろう,と結ばれていました。
 三島市の銘文作者といい,竹屋のお孫さんといい,雲助にたいする認識をきちんと持って,郷土の歴史に誇りをもっていることがうかがえます。
「和菓子街道」箱根編:http://www.trad-sweets.com/wagashikaido_4/pg25.html

【山中新田】
 まもなく山中新田です。国道の陸橋を渡ると山中城趾があり ます(15:34)。かなり広いので時間の関係で岱崎出丸だけ見学することにしました。件の竹屋さんは陸橋のそばにあります。寄っていないので次回はぜひ。
 江戸時代には山中城跡の曲輪の中を東海道が通り,そこが集落となったのが山中新田です。ここは箱根越えの難所を控えた間の宿として栄え,松屋,水戸屋,大和屋など,茶屋は40軒を越えていたそうです。

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 三の丸跡にある宗閑寺は山中城を守った松田康長,その副将・間宮康俊が葬られている所です。本堂左の台地に墓石が並んでいました。道端なので少し立ち寄りました。

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 やがて国道は左にカーブしますが,旧東海道は直進します。しばらくする地蔵堂があり,芝切地蔵といいます。江戸時有名になり,参拝者にも売られ賽銭とまんじゅうの利益で村の出費が賄えたといいます。

【山中城 岱崎出丸】
 バス停のところから横断歩道を渡ると岱崎出丸に登っていく階段があります。
 山中城についての詳細はいろんな専門サイトがあるので参照いただきたいですが,簡単にまとめると,北条氏により小田原城の西の関門として築かれた城です。この城は箱根峠から下る尾根上にあって,地図を見ると城の東側は等高線が詰まっており崖といっても良いほどのの斜面です。また城の西側もかなり深い谷があり,小田原に至るには尾根上の箱根道を登ってくるしかないようです。そこに立ちふさがるこの城は箱根道を押さえる要衝です。

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 天正17年(1589年),北条氏は豊臣秀吉との決戦に備えて 山中城の大改修に乗り出しました。小田原城決戦の前に,まずは箱根の天険を利用して豊臣軍に打撃を与える計画だったそうです。
 岱崎出丸は本城の下,箱根道を見下ろす尾根上に作られた曲輪で,街道を進軍する敵を横の尾根上から狙い撃ちできるようになっています。ここは豊臣軍との決戦を前に急遽築造され,そのため部分的には未完成状態であったそうです。

 

 岱崎出丸に入ってみると,まるでよく整備された公園でした(15:40)。ここで激戦があったとは信じられないくらいです。

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 出丸の西側の縁は土塁がめぐらされ,街道側から攻め登ってくる敵に備えています。この土塁の直下は,堀内部に畝状の隆起を残した畝堀です。この畝堀は北条氏独自の技術でこの中に入った重装備の敵兵の動きを封じるためのものです。 底から土塁上までの高さがあり,傾斜も 急で,守りは堅かったようです。

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 上左の写真で,土塁の南端が広くなっているのは見張り台の跡です。ここに立てば南西への見通しがきき,三島方面が一望できるハズですが,あいにく曇っています。
 このほか,すり鉢状の曲輪もありましたが,ここに敵兵をおび き寄せるんですかね。蟻地獄方式にしては歩きやすいかと?むしろ防御側が 縦横に走り回れるような感じもします。

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 ここには間宮康俊率いる百人余りの城兵が配置され,激戦の後に陥落,全員討ち死にしたということです。ここを攻略した豊臣軍は半日で本丸も陥落させました。北条軍四千に対して,豊臣軍4万とも言われているので, 戦国時代の伝統的な戦術で堅固に固めた城も,数の論理には勝てなかったということのようです。
 雨がぱらついてきました。再訪を期して岱崎出丸を後にします(16:05)。ここでデジカメの電池が切れました。以後ケータイ頼みなので画質が落ちます。

【箱根八里記念碑】

 岱崎出丸畝堀の下を通る旧街道は,杉林の中を通り,腰巻地区の石畳となっています。杉林の階段の横に,古い石碑(馬頭観音?)と司馬遼太郎の箱根八里記念碑があります。

幾億の足音が 坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ

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 写真はぼけぼけですが,なんとか判読できました。この記念碑は北条早雲を描いた小説「箱根の坂」にちなんだものかと思われます。この小説は読んでいないので機会があれば読んでみます。司馬さんの文章で三島,西坂にちなんだものは,「裾野の水,三島一泊二日の記」しか読んでません。短編ですが味わい深い文章で,三島や西坂に行ってみたいと思うようになったのも,これがきっかけでした。

【富士見平】

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 旧街道はいったん国道に吸収され,再度右に分岐します。浅間平というようで,ここにも石畳がありました。ゆるやかな坂を下りきると再び国道と交わり,巨大な芭蕉句碑があります(16:17)。比較的あたらしいもののようです。

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ 面白き

 芭蕉が歩いた日も富士は見えなかったらしい。
 富士見食堂のあたりはブルドーザが入り,なにかの工事を していました。いやトラックのたまり場だったのか?記憶にありません。天候のせいもあり,なんとなくうら淋しいところでした。
 ここで国道を渡ります。直進すれば旧街道の降り口ですが,ここは直進せずにいったん国道の坂を登って横断歩道を渡りましょう。国道が急カーブしていて車を確認するのが困難だし,車からも横断者が見えたらすでに遅いという状況です。

 

(つづく)

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2009年8月21日 (金)

東海道ウォーク 興津-静岡(2)

2008年5月10日(土) 横砂-袖師-江尻宿




【風前の街道松】
 バイパスをくぐると同時に川を渡り,左側の歩道が自然に   国道から分かれて古い街並みに入っていきます。左に分岐しその道を進む。一 号 線は少し高いところを通っているようです。歩いている道はいかにも街道らしいおちついた道です。

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 踏切を渡ってまっ過ぐ行くと再び国道一号線に合流です(8:04)。横砂というところですが,合流点には,延 命地蔵堂と秋葉山常夜燈がありました。注目するのはその左手にある建物。 農協か銀行のようですが,どうやらあちこちで見た石造りの倉を改造したものか?それとも頑丈なように石造りの倉風に建てたものか。

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 少し行ったところに街道の枯れ松がありました。これは惜しい。もっと枯れ行くと切られる運命にあるんでしょう。一号線の排ガスには負けるよ うです。

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 この後は庵原川にかかる庵原川橋を渡ります。すぐ傍には東海道線が走っていて,ちょうどブルートレインが 通り過ぎていきました。もう見られないんでしょうね。

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  橋を渡ったところにバス停がありまして,そのかたわらには東海道のキロ標識が(8:16)。168kmですが,久しぶりにみた感じです。この先にも枯れていない名残松!がありました。これは 大事にしたいものですが,根本をコンクリートで固めて大丈夫なのか?土曜日 の早朝で車はすくないですが,なにか風前の灯火のような気がします。

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 どんどん国道を歩いていきます。そろそろモーニングコーヒーが飲みたいのだが,こんなに朝早くでは開いてないし,だいいち喫茶店が見つかりません。

 どうでもいいんですが,このあたり「望月」さんという名前のお家が多いです。由比あたりから気がついてはおりましたが・・・ 国道沿いには馬頭観音がさりげなく安置してあります。Imgp3083r

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 あっというまに細井の分岐にきました(8:31)。分岐の三角地帯に1本の松と石碑があります。ここは細井の松原跡といって,古くはこのあたりずっと松並木だっそうです。なんでも,松は昭和19年,松根油の原料として伐採されたそうです。ここには,無縁さんの碑もありますが,なぜかビニールシートをかぶったままでした。写真を撮ったと思いきや,切れていました。おばさんが一人,ミニ公園の草取りをされていました。

【江尻宿】
 東海道はここから右へ分岐し,しばらくすると辻町商店街に入ります。土曜日早朝で何もなし(8:37)。あるのはゴミだしのゴミだけでした・・・・しかたがないので,国道一号線といったりきたりで喫茶店を探しながら歩きます。何もなし。このあたりから辻一里塚跡,高札場跡,江尻宿 東木戸跡と続く訳ですが,痕跡は何もなし。立札が立っているだけのようですのでパス。

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 とうとう清水駅前まできて,街道沿いの喫茶店で休憩しました(8:45)。おじさんひとり,モーニングで新聞を読んでいました。あちこちを歩いてい て気になっているんですが,モーニングの習慣のあるところとそうでないところがあるようです。はっきりデータを取ってないですが,都会か田舎かというだけではないいものがあるようです。結構盛んなのは尾張,三河あたり。結構ないなか町でも早朝から大きな店が開いていて土日の朝など満員です。
ともあれ,約30分ゆっくりとさせていただきました。

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 9:15頃出発。街道は銀座のあたりで西へL字状に曲ります。そこはまさしく銀座通りで,昔は本陣を中心に、両側は旅籠でぎっしりと埋まっていたということです。今でも。一番の商店街のようですが,誰も通っていません。車道も歩道もきちんとブロック舗装してあり,車も通らないので歩行者天国状態でした。わずかに店の人が開店準備でごそごそしているだけでした。クジラのモニュメントがありましたが,写しても・・・ということでパス。

【少年サッカー発祥の地】
 清水銀座の商店街を抜けると、正面にこんもりした神社の 森が見えました(9:26)。その時は,サッカーというキーワードは頭になかったの ですが,ヒラメ キで行ってみることにしました,そこは魚町公園で、かつての江尻城のあったところらしいです。

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 魚町稲荷神社というのがあり,神社本体よりもその横にある大 きなサッカーボールに目が行きます。日本少年サッカー発祥の記念碑でした。 そうか,ここが清水エスパルスの本拠地なのは,こういうことがあったのか。なんでも,昭和30年代、日本のサッカーが、所謂御三家と呼ばれる広島、藤枝、浦和を中心に展開されていた頃、神社裏手の江尻小学校で、サッカーの好きな先生が新任で赴任してきて,「ボールを蹴るべからず」という校則を撤回させて小学生にサッカーを教え,これがきっかけで少年サッカーチームが誕生したということでした。スポーツ振興の裏には熱血先生がいるのだ!

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【稚児橋界隈】
 
東海道は巴川を稚児橋で渡ります(9:32)。江戸時代、この橋が完成し、渡り初めの日に突然、川の中から童子が現れ,橋を渡り姿を消してしまったといい,人々はカッパが童子に姿を変えたと噂し、以来、「稚児橋」と呼ぶようになったということです。橋の欄干には河童の像が4匹?ありました。

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 稚児橋を渡ったところに,巴川、船高札場跡の看板がありました。巴川は、清水港で荷揚げされた荷が駿府に運ばれる重要な河川であったということです。

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 さらに行くと,中華料理屋の看板がありまして,なんと「酒は京都の綾小町」!たしかに京都は京都なんですが,京都とはほど遠い綾部の地酒です。なにを隠そう,ボクの故郷の酒です。綾小町をネットで調べても,まずは大垣の讃岐うどん店・綾小町が出てくる始末で,ずっとあとの方に出てきます。ちょっと宣伝しておきます。

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 蔵元・若宮酒造さんのサイトはここです。
http://www5.nkansai.ne.jp/com/ayakomachi/newpage2.html
 サイトによると,「若宮酒造は、大正9年にそれまでの三丹酒造を市内にある若宮神社の宮水で仕込み始めたこともあり若宮酒造と改め、商標もそれまでの「鷹雀」を「綾小町」といたしました」ということで,あまりブランドは浸透していませんね。綾小町の由来は、「綾部では奈良時代より由良川沿いの低地で桑が栽培され、養蚕業が盛んに行われて蚕都として発展したことから機を織る優しく、美しい娘をイメージして名付けられた」ということです。ボクは綾部駅前で大寒の寒い夜に熱燗で飲んで,これはいけると思いました。もちろん冷やでも。
 また,若宮酒造さんは綾部産の梅を100%使用し、綾小町の原酒でつけこんだ梅酒「綾梅」というのがあって,限定販売中だそうです。ボクはまだ飲んだことはないですが・・・・一度どうでしょうか?
 この先の交差点を右に行くのが東海道で,左に行くと,ちびまるこちゃん,もとい「さくらももこ」の生家跡があるようです。ボクは見てませんが,商店街の案内板には「ちびまる子ちゃんの生家」が書かれているそうです。さくらももこさんも綾小町飲んだんでしょうか?

【追分羊羹】
 旧東海道を進むと、赤い大暖簾の追分羊羹の店があり、 その手前に「是より志三づ道」の道標がありました。久能山への参詣道との追分です(9:46)。

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が,ここは道標そっちのけで,追分羊羹に飛びつきます。元禄年間開業の老舗で,街道の名物として昔からファンが多かったようです。さっそく特大を買い求 めました。翌日くいただくと,あっさりした甘みで,甘党の家人にも好評でした。ボクは最近,甘いのもカライのもいけるので大満足の逸品でした。写真を撮るまもなく箱だけになってしまいました。

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 このさき,石松殺しの都鳥が清水一家に討たれ里人に供養されたという「都田吉兵衛供養塔」とかありましたなが,こちらもそっちのけでした。

(つづく)

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2009年5月14日 (木)

細切れ道草・東高野街道(1) 八幡女郎花-八幡

           2009年3月2日 八幡女郎花-八幡市駅


【八幡の地名】
 男山団地から街道に戻り,北へ八幡を目指します,って,ここも八幡市なんですが。地図をみると枚方市との市境は(ということは府境は)関西医大病院の中を通って,男山泉の交差点を取り囲み,すぐに住宅街の中を断ち割って西へ引き下がっていきます。まるで舌のように交差点を取り囲んでいる。市境の上に建っている家は不便ではないのでしょうか?学校とか税金とか・・・余計なお世話ですが。

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 男山泉の交差点を東に行くとすぐに八幡市に入り,男山高台の峠になっています。地名は男山八望。高層住宅がなければ八望できるので ,この名前がついたのか?

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2005年5月25日 (水)

淀川ウォーク走井編



【岩清水】

 ロードワークもいやになった頃,街なかに降りる小道があったので,さっそく車道とはおさらば。しばらく街の裏道みたいなところを歩いた後,山手のほうに移動しました。ケイハンの線路を渡ると岩清水八幡宮の山裾です。いつも京阪電車からみているお寺の下にくると,しっとりとした風情でさすがに「岩清水」を思わせるような感じでした。
まもなくケーブルカーの駅の下をくぐって,終点八幡です。
八幡へは子供のころから(小学校前?)何度もきていますが,大阪に住むようになってからも初詣には毎年きていました。最近は,初詣は近場の神社にしたので,あまりきていません。初詣のあとは必ず「走井餅」と「どんぐりあめ」でした。

【走井餅】
 さて,その走井餅ですが,S先生が甘党ということで走井餅本舗にさそってみました。八幡市駅前すぐです。ウォ-キングのあとはこういうのがないと!

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 調べてみると,ここのお店は240余年の歴史をもつそうです。今まで知らなかったのですが,明和年間(1764~72)に大津で創業し,本店は戦前に廃業したが、明治時代に開業したこの支店が有名になったのだそうです。お店の名前も「走井餅老舗」でした。
お店では見知らぬおじさんが先客でいて,「別の場所にあったのが移転してきた」と言っていましたが,こういうことだったんです。その時は「八幡の別の場所から移転」と思ってました。そういえば,お店の中に古い店の写真が飾ってありました。

 走井餅は,こし餡を薄皮で包んだ細長い餡餅で,甘さをおさえたあっさり味です。これなら何個でも食べられそうです。当然わが家の全員のお気に入りです。走井餅2コ抹茶付き550円。私は,そのときかなり暑かったので,抹茶でなく冷たいお茶にしてもらいましたが,お餅は3コで,なんか得した気分でした。甘党のS先生の評判も上々のようでした。

さすがに疲れたので,小庭を愛でつつ走井餅を賞味しゆっくり休んで,今日の行程をあれこれ思い出していました。ぼぉーっとしたこの瞬間がまことに至福です。
 はっと我に返り,もう6時前なので帰らなくてはいけません。私はいいのですが,S先生はこれから横浜まで帰られるのです。新幹線でゆっくりしていただきましょう。
長年の夢が(おおげさな!)叶ったようで,よいゴールデンウィークの旅でした。

【道を進む意味】
次の日,さっそくS先生からメールがありました。
全然疲れもなく,筋肉痛もない,とのことでした。びっくり!こちらはや歩いたその日から足は痛いわ,特大の水ぶくれはできていいるわで,2Fにも登れませんでした。
S先生によると,「道」を進む意味は思考整理術なのだそうです。そのためには,単独行で多摩川を登られるとか。この淀川ウォークのようなものを「川登り」と命名もされたようで,新しい趣味を発見されたようです。

 私といえば,歩いている最中は頭の中はからっぽなのですが,休んだり,ウォークを終えたり,山を降りたりすると確かに,考えたり考えを整理したりする状況になることがあります。その延長で,ふと思いついて次の日にこんなblogを書いてみようと思い立った訳です。整理しながら(今回はあまり整理はできていませんが)「発見」につながればいいなと思っています。
 今回のウォークはかなりのスピードウォークだったので,歩く道すがらの細かいことどもをつぶさには見ていませんが,この次はこまかなことも納得するまで見てみようと思います。それで,このようなウォークを「発見術」と思うようにします。せっかくなので,「発見」をテーマとすべく,このblogを続けてみようと思っています。タイトルも「walkin'」として,ちょっと山頭火の言葉をいれてみました。タイトルは,発見を目指しつつ,なかなか到達できない感じが表われていて,気にっています。

 

それではまた,どこかでお会いしましょう。

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