お酒

2011年9月 1日 (木)

西国街道(4) 大山崎-向日町

2010年10月23日(土) 




■大山崎(15:09)
 
さて、京都に入りました。街道は関大明神から南に折れますが、さらに南に行く道があって、その傍に古風な建物があったので行ってみました。

P1170531

P1170528

 なかなかすばらしい。手前の町屋は少々傷んできていますが、手入れをしたら・・・しかしその手入れが大変なのでしょう。もう無人のようでした。その次の蔵と続きなのか?お隣の緑青ふきの家もよく熟れています。まだまだ現役でいけそうですが、窓ガラスに×のテープが貼ってあるところを見ると無人なのか?堂々たるものです。隣の家と比べても明らかに風格が違います。

P1170530


■離宮八幡宮(15:09)

 この神社は全然知りませんでしたが、調べてみるとなかなか由緒正しき神社のようです。荏胡麻(えごま)油発祥地で油の製造と販売の中心「油座」として栄え、現在は油の神様として親しまれているといいます。平成22年には創建1150周年を迎えたというので、相当なものです。
http://rikyuhachiman.org/

P1170533

 ご祭神は、応神天皇。八幡宮ですからね。これは宇佐八幡宮から勧請したものです。
 左殿に酒解大神(さかとけのおおかみ)がお祀りしてあるようで(行ってないのでアヤフヤ)、元々はこの神様の社だったのでは?天王山の上にも酒解神社があり、調べてみると酒解神は大山祇神のことでした。
 この神は、仁徳天皇の時代に百済の国から渡ってきて、三島江に着き、そこから、伊予・大三島へ移ったとされています。(伊予国風土記)。さらに、伊豆・三島大社にも祀られているので、この神を信奉する人々が酒作りの術を持って、海岸伝いに移動しあちこちに住みついたということなのでしょう。山と海、両方を司る神というのがパッと理解できませんが・・・
 この神のおられるところに現在も酒作りの工場が立地している!ま、酒作りには水が決め手なので、そういうことは十分あり得ます。この西国街道ウォークの最初のころ、灘・敏馬神社には松尾神社もお祀りしてありましたが、この祭神も大山咋神でありました。その近くには灘の酒どころがありますね。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2010/10/post-4acd.html
       

■淀川大接近(15:15)

P1170535

  阪急のガード下です。阪急そばを写したのではありません。このあたりが淀川と街道が大接近するところです。山側から順に、東海道本線、西国街道、阪急、新幹線、171号線、淀川が併走しており、山際と淀川の間が約200m。名神を通す余地がなく、天王山の下をトンネルで通しています。
 確かにここを押えれば京、大坂から西方の防御はできそうです。京の都にとっては天王山は最大の防御線だったことがよく分かります。しかし、その分、淀川の東はダダ通しなんですが。
 この辺りに大山崎町歴史資料館があって、ちょっと気を引かれましたが、次回の訪問とします。

■大山崎の街並み(15:32)
 
大山崎の街道をどんどん歩いていきます。道が改修されて広くなったようで便利ですが、その分、どこにでもあるような都会の街並となっています。

P1170538

P1170537

P1170540

 名神の陸橋をくぐったあたりからまた道が狭くなります。天王山トンネルの方向を写していますが、この突き当たりの地名が「開キ」だとか?何を開いたのでしょう、まさかトンネルではないと思いますが。

■円明寺(15:35)
 
その狭い道は東海道線をくぐります。

P1170541

 地図をみているとおもしろい(珍しいのではない)名前が出てきます。円明寺は円明教寺から来たものと理解します。茶屋前、大門脇、仏生田、山伏、薬師前、これらも円明教寺から来ているのでしょうか?その他、里ノ後、金蔵、小泉川、若宮前、葛原、山田、川向イ等々、昔なにがあったか容易に類推できそうな名前です。

■川を渡ると長岡京(15:40)

P1170544

 小泉川を渡ると長岡京に入ります。街道の面影はなくなり、ちょっと雑然としてきました。地図は持っていますが、いきなりややこしそうな交差点に入り、おまけに工事をしているので、どこがどうなのかさっぱり分かりません。八角というところですが、右手(東)に行けばサントリービール工場、淀競馬場なのですが、東行きの道が2つ、北行きが、丹波街道と新西国街道の2つ、西行きは柳谷に行く道。角を数えたら8つなので八角としたのか?

P1170545

P1170550

 右手の広い道に行ったんですが、これがマチガイ。旧西国街道は3枚めの写真の白い壁の家の右手に入っていくのでした。分からん! 

 そうそう、サントリービール工場はここから東に入ってすぐなのでした。仕事(の延長)で数回行きましたが、結構遠く、いつも阪急・長岡天神からタクシーだったので、どこを通ったのか分からず終いでした。もっと山側にあるんかと思ったら、淀川に近い方でした。

8405

 工場見学では丁寧に説明してくれて、まさにエコファクトリーであることはよくわかりました。メインの講演は「ビール博士」という方で、ビールの話かとおもいきや、なんと森鴎外の話(舞姫など、もちろんビールとの関連もあり)で、なかなかのものでした。レジュメを調べたら平成12年(2000年)9月のことでした。
 舞姫といえば、大学のとき選択科目の文学で森鴎外がテーマで、舞姫も課題であったので懐かしかったです。その時の論述試験では時間内にピッタシ書けて自信満々で終ったんですが、成績はそれほどでもなかった!
 恒例の試飲ですが、プレミアムモルツは確かにウマイ!いやいや、その前身のモルツスーパープレミアムは2001年発売だったんで、その時は飲めるハズありません。普通のモルツだったか。プレミアムモルツを飲んだのは発売の2003年以降か?しかし、発売からもう8年経つんですね!

■京言葉(15;52)

 ゆるやかな坂を登っていきますが、また2つに分かれていました。最初左手に入りましたが、どうも違う。

P1170553

 坂の途中で初老のおばさん2人がしゃべっていました。何の話か分かりませんが、「・・・・おすなあ」「おすおす・・・」びっくりするくらいの京言葉でした。紛れもなく京都に入っています。

■街道復帰(16:00)

P1170557

 右手の坂を下っていくと、ああここか。旧街道に合流しました。時間も時間なのでトレースはやめ。更にここから東側に入っていきます。合流はほんの30mくくらい。あたりは完全に街です。

■すぐにまた分岐(16:03)

P1170559

P1170561

 酒屋さんの前に古い道標がありました。東に入ると淀に繋がるようです。左手、即ち北行きは、どう書いてあるのか分かりませんでした。後で調べると、

京 あたご

なるほど、西国街道は巡礼道でもあったんです。「あきこ」やなかったんや。

P1170562

   ここからずっと直線の神足商店街です。商店街とはいえアーケードはなく、商店もほとんどなく、カラーブロックの街道がきれいに整備されています。

■神足ふれあい町家(16:05~16:28)
 神足商店街に入ってすぐ、きれいに改修された町屋が現れました。旧石田家住宅で国登録有形文化財になっています。一般公開され、休憩もできるようなので入ってみました。ここでアイスクリームを頼んで庭のベンチに腰かけでゆっくり休憩です。

P1170569

 この町屋はうなぎの寝床の京の町家と違い、間口が広く田の字形の間取りで農村風であり、かつ、店舗と住まいを兼ねた町家でもある独特の風情をもっているのが特徴だそうです。

P1170567

 元々、神足村の旧家岡本家の商家で、江戸時代には「紙屋清兵衛」という屋号で和紙などを商い、明治以降、町医者などに利用されていたものを、後年になって石田家が購入したので、旧石田家住宅と言われています。平成12年10月に、規模が大きく江戸時代末期の町家建築の基準となるものとして国登録有形文化財に登録され、平成15年長岡京市が取得し、「神足ふれあい町家」として整備されました。乙訓障害者事業協会が運営しているので人にやさしい設備と運営がなされています。一般に、こういうところは入りにくい場合がありますが、ここはお薦め。ゆったりできます。
http://www.eonet.ne.jp/~fureaimachiya/sisetu2.html

P1170566

 サントリー(ビール)工場でほろよい加減の数人が入ってきました。サントリーで意気投合して、ぜひこの町屋と庭を見せたいというので連れてきたということでしたが、確かに何度きても楽しめそうな所でした。

■街道は続くよどこまでも(16:30~16:40)
 
この直線神足商店街は延々と続きます。昔の(明治期の)地図をみてもまっすぐ。ほぼ同じ所を通っています。商店街とは名ばかりで、りっぱなお屋敷が続く閑静な住宅街です。駅前の天神通りを過ぎてもまっすぐ、神足商店街の北端の看板が過ぎてもまっすぐ。あいかわらずカラーブロック敷です。

P1170576

P1170582

P1170583

 おっと、商店街の北端アゼリア通りを西に入ったところには一里塚跡があるんでしたが、行き過ぎてしまいました。また後で。

■やっと直線も終り(16:42)
 
比較的大きな川に当たります。車は堤防に上がっていきますが、歩道は堤防の下です。ここが旧街道のようでした。なかなかいい感じの小路です。

P1170586

P1170588

P1170587


■一文橋(16:46)

 街道は一文橋を渡ります。この橋は日本で最初の有料の橋といわれています。お金がないので川を泳いで渡ろうとする者もいて、厳しい取り締まりもあったようですが、橋守の中には、貧しい人が渡るのを黙って見過ごした者もいたといいます。その名は半兵衛で、「知らぬ顔の半兵衛」とはここからきたのだと。なかなかのお話しです。
http://www.kirameki-story.tv/back3.html

P1170590

 川は小畑川。天王山も遠くになってきました。ここを渡ると、向日市に入ります。え!?長岡京の都はどこに行った?後で調べてみると、長岡京跡は向日市、阪急・西向日駅の北側なのでした。とすると、長岡京市とはいったい?

 調べてみると、うーむ、五条以南と西の方が入ってますね。
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/09030175.html
 政治の中心である長岡宮は向日市、経済の中心である「市(いち)」は長岡京市、表玄関口にあたる港(山崎津・淀津)は大山崎・伏見・淀にあったということで、運輸、交通面では平安京よりも立地はなかなかの場所だと思います。
 しかしながら、延暦11年(792)の大洪水や桓武天皇の弟である早良親王の死、その怨霊騒ぎなどから、延暦13年(794)に平安京へ都が遷されました。洪水を治められなかったのは致命的ですね。

■石畳というか・・(16:51)
 
一文橋を渡ったところでまた道を見失いました。とりあえず大通りを行きます。あとで考えると一文橋を北側で渡ってそこの横断歩道を渡れば自然に入れるのでした。

P1170592

P1170594

 すぐに復帰します。石畳というか、石畳風ブロックがきれいに敷かれていていい感じです。しゃれた喫茶店もあります。石畳には竹をデザインしたタイルがはめ込まれておりました。向日市は竹の里です。すぐに石畳は終ります。

P1170596


■また分岐(16:54)

P1170600

 阪急をくぐり、車道を横切ります。住宅街の中を狭い街道が通っていきます。真北にほぼ一直線、500mくらいでしょうか。

■どこからがアストロ通り?(17:01)

P1170601

 その通りの出口ちょっと手前からアストロ通りの看板がでてきました。ちょっと暗くなって写真がボケています。
 五辻を越えると本物のアストロ通りです。このアストロがどこから来たのかが分かりません。

■あれ?競輪場(17:06)

P1170603

 これはおかしい。ここは帰省の時にいつも車で通るところです。また間違った。後で調べてみると、「向日町商店街の看板」のあるところから右に入るんでした。これは分からん。とりあえずJR向日町の駅に向かいます。
 帰省のときは1号線赤池から久我橋を渡り、狭い道をひやひやしながら、この競輪場前にくるんですが、途中、狭い路地が左右から出入りしてやっかいな所です。その道のどれかが西国街道なのでした。

■街道合流(17:16)

P1170606

 その旧街道は阪急・東向日の駅手前で合流していました。石畳風ブロックが敷かれた感じのよさそうな道でした。もう一ふんばりでJRの向日町です。

■向日町(17:23)

 
やっと向日町駅に着きました。結構時間がかかりましたね。

P1170609

 向日町駅は向日市ですが、その隣のタクシー営業所は京都市になっているずです。休憩も兼ねて、タクシー敷地と駅のフェンスギリギリまでいってタバコを吸いましたので京都市内に入ったことにしておきましょう。
 次回は、淀から八角まで歩き、西国街道に入り、歩き漏らしたところを補充しながら東寺まで歩こうと思います。


【本日のマップ】

より大きな地図で 西国街道4 (茨木-京都) を表示

(4日目おわり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月26日 (火)

西国街道(3)千僧-大鹿

2010年9月15日(水) 



【古き千僧】
 10:30出発です。このあたりは伊丹の中心のようで、警察のほか、市役所、保健所、裁判所などが集まっています。少し北には昆陽池の公園もあります。千僧(せんぞ)というところのようですが、来てみるまでは知りませんでした。
 千僧とは全く関係ないのですが、Googlmapを見ていたら、昆陽池の中の島は日本列島の形に作られているのが分かりました。Googlmapも見てみるもんだ。

大きな地図で見る

旧街道沿いは静かな住宅地です。
 とんでもなく大きなお屋敷が建っています。個人の住宅だろうか?と思ってしまうほどです。「西国街道」の道標も敷地の中に建っている!?

P1160217

P1160218

P1160220

 天神社を越えていきます。また大きなお屋敷が見えてきます。
 このあたりも震災では大きなダメージを受けたようです。伊丹といえば阪急伊丹駅の崩壊が記憶に残っていますが、被害はそればかりではなかったようです。先程の天神社の鳥居といい、大きなお屋敷といい、新しいものが多いです。しかし15年経って、旧街道の細いみちとカーブはしっかり残されていて、街道沿いは新しい建物は多いにせよ、しっくりした落ち着きがあるように思います。

千僧の旧地名(10:37)
 お屋敷の向い側あたりに「千僧の旧地名」の案内板が建っていました。行基が昆陽池を築き、新田を開墾したときの工事による犠牲者に対して、「千僧供養」を行った地であることからつけられた名前であると言われています。

P1160221

 池、新田、街道に関する地名(字名)などが付けられていましたが、今は新町名になっていて、「旧地名を永く後世に伝えるためこの表示板を作った」と締めくくられていました。たしかに、旧字名はその土地が何であったかが分かるものが多いです。分かろうとすればですが・・・分かろうとしない人も多いのではないか。

【大鹿の歴史】
自衛隊の駐屯地を越えると(10:42)
 大鹿に入ります。とてつもなく立派な大鹿交流センターがありました。ここにも古い道標が残されていて、有馬道がここで交わっていました。
http://www.city.itami.lg.jp/home/ED/EDSHOGAI/EDSYAKAI/0003086/_9296/oojikadouhyou.html

 大坂から有馬に至る有馬みちには大きく2つあり、藻川沿いに猪名寺・伊丹に至る本道と、次屋・下坂部・久々知・上坂部・塚口を通って昆陽に至り宝塚で本道と合流する間道の2コ-スあったということでした。その予想ルートを地図上に書き込んでおきました。地名からだけで判断したので正しいと思わないでください。
 写真は交流センターの建物を外して北東を写しています。

P1160222

大鹿の歴史(10:45)
 ここから2~3分東に行ったところにえらく詳しい「大鹿の歴史」という案内板がありました。それによると、大鹿という地名は、807年(大同2)に坂上田村麻呂がこの辺りで狩をして大きな鹿を射止めたことや、同じく坂上田村麻呂がこの地を開墾する計画を立てているとき大きな鹿に出合った事などに由来しているそうです。

P1160223

 その他、藤原道長の別荘があったこと、紫式部が来ていたかも知れないこと、水不足で溜め池がたくさん造成されたこと、水争いも度々あったことも記されています。
 江戸時代には清酒「剣菱」が坂上宗清らによって作られたことが書かれてます。今は剣菱は灘にありますが、やっぱり伊丹のお酒だったのだ。

P1160224

 大鹿景観形成協議会のこの看板は労作ですね。読めるかどうか分かりませんが、写真を載せておきます。

どこからだったか忘れましたが・・・
 溝のなかのゴミを拾っていた一人のおばさんがずっとあとを付いてきます。バス停のある通りで終るだろうと思っていたんですが、大鹿に入ってからもまだ付いてきて、落ち着きません。

(10:48) 枡形のような場所を過ぎたところに大きな市場があって、そこで、振り返ってみると、やっと付いてこなくなりました。単なる買い物であって、別に、付いてきたのではないのは分かってますが・・・

P1160225trim

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月15日 (金)

西国街道(2) 大石-石屋川

2010年9月10日(金)



【菟原処女の伝説】

■(9:34) 歩道橋を渡って浜側に出ます。しかし、西灘の駅近くで再び山側に渡るのでした。

P1150820

■(9:46) そこには西求女塚古墳があります。この古墳は、御影塚町の処女塚、住吉の東求女塚とともに万葉集や大和物語などに登場する「菟原処女の伝説」の舞台となっています。

P1150826

その伝説とは・・・
------------------------------------------------------------
 葦屋に菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の若者が彼女を深く愛し、争うようになった。処女は、立派な男たちが争うのを見て、生きて結婚などできない、と嘆き悲しんで死んでしまった。事実を知った茅渟壮士と菟原壮士は後を追って死んだ。
 親族たちは集まって、この事を長く語り継ごうと、娘の墓を中央に、男の墓を両側に作ったという。

------------------------------------------------------------
と、まあ、今では信じられないようなお話しです。

■ それはともかく、西求女塚古墳(全長95mの前方後方墳)を初めとして3つの古墳があり、処女塚古墳(全長70mの前方後方墳)、東求女塚古墳(全長80mの前方後円墳)と、海岸線に沿ってほぼ一直線に、約2kmの距離でならんでいます。

P1150831

 処女塚を中心に東西それぞれの地点に、東西の求女塚があり、それぞれが処女塚の方向を向いている形になります。両側が男性の墓なのだから求女とされたのでしょう。
 しかし、発掘の結果では、古墳の築造年代がそれぞれ違っていて、この地方の豪族を葬った墓とされています。

■ 西求女塚古墳は4世紀初頭の築造です。前方後方墳(西が後方部)ですが、その意味がよく分かりません。三角縁神獣鏡や山陰地方特有の土器も多く出土していることから、この当時の在地豪族はヤマト政権ともつながりながら、山陰地方とのつながりもあったと考えられています。
http://homepage1.nifty.com/motohiro/motomezuka.htm

P1150833

 この3古墳の位置は、古墳時代の海岸線からは100mほどしか離れておらず沖合を通る船からは、その雄姿がはっきりと認められたと思われ、3つ連続で見えるとなると、その迫力は大きかったと思われます。

【新・酒造の街】

 都賀川を渡ると新在家に入ります。ここらから魚崎あたりまで酒造の街になります。そろそろ浜街道に復帰します。

■(10:01) あたりは都市化していますが、道端にはお地蔵さん?の祠。古い土地柄のようです。明治18年の地図を見ると住宅が密集しており、そのことがよく理解できます。大石、新在家は酒造の街なので、それに関連した海運の村だったのでしょうか。

P1150837

■(10:04) 都賀川を渡る所には大きな西国街道の道標がたっていました。その向こうには、サワノツルの看板。本社工場です。ここで浜街道に合流です。

P1150839

 少し歩いて浜街道からはずれ、広い通りを南に行きます。酒造見学かなにかの団体さんが真新しい建物から出てきました。みると「オエノングループ」と看板があります。あとで調べてみると、、焼酎などの製造をしている合同酒精株式会社を母体とする持株会社で、近年は福徳長酒類や秋田県醗酵工業、富久娘酒造など、多くの酒類メーカーを買収しているそうです。「鍛高譚」のメーカーだとか。これは知らなかった。

■(10:10) その向いには若宮八幡宮と富久娘の看板。いずれも真新しいものです。震災で痛めつけられたんだろうなあと、真新しい建物でそのことに思いを馳せました。

P1150840

■ 工場の横の広い道を歩きます。近代的な工場で、見ただけでは酒蔵とは思えません。半導体か何かの工場と言われても納得してしまいそうです。しかし、酒蔵散歩の気分にはなれませんが・・・ 

P1150842

■(10:16) 新在家の新しい高層住宅街を通っていきます。ここからまた浜街道に合流です。近代的な高層アパートの下には酒蔵風の長屋が建っています。中をのぞいてみると自転車置場になっていました。そういえばアパートの庭?や空き地にはなにも置かれていません。自転車等はここにしまっておくようになって。いるようです。別の建屋にはゴミなどがおかれていて、共用のスペースになっているようです。しかし、このデザインは、ちょっとアンバランスな気もしますが、酒造の街ということで、酒蔵のイメージを打ち出していてなかなかいい感じはしました。

P1150844

■ 浜街道といってもカラーブロックが敷きつめられていて、超近代的な浜街道です。

P1150846

■(10:24)43号線の向うに甲南漬の工場らしきものがありますが、調べてみると資料館になっていました。美味伝承甲南漬資料館。2010年3月に甲南漬資料館(1930年昭和5年建築、旧・高嶋平介邸)は国登録有形文化財に選ばれたそうです。いろいろ検索してみると、資料館の性格のほかに、旧社長邸ならではの庭、応接間、日本酒バーもあります。レンガのかまどで炊いたご飯と漬け物が主役のランチなど、なかなか見所のある資料館のようです。これは行ってみなければ!
 振り返ると、すぐ傍が本社のようです。高嶋酒類食品株式会社というのが正式名だったんですね。

P1150848



【石屋川】

 しばらく43号線沿いを歩いてすぐにいやになったので、東明というところで浜側に行ってみました(なにも考えずに)。後で分かったことですが、東明の信号を渡ったところに処女塚古墳があるんでした。大失敗!
 このあたり、酒蔵ばかりでなく他の食品工場もあります。ゴンチャロフの工場。そういえば、新在家の高層住宅街にはケーニヒスクローネの看板もありました。

■(10:30) 神戸酒心館の入口にだけ寄ってみました。ここを見ていると、酒屋さんは単に酒造りだけでなく、酒蔵見学は当然のこと、料亭、いろんなイベント、貸ホール、ギャラリーなど多目的に事業をやる時代になっていると思われます。日本酒離れの対応でしょうか。

P1150853

 たしかに、酒をたくさん売るのを生業にするのでなく、酒という文化を中核にして発信していくのを生業とする時代であるような気はしています。

P1150855

■(10:35-40) 石屋川を渡ったところの小公園で休憩。だいぶ暑いです。お茶をゴクゴク。

P1150859

 ここから御影郷になります。ここで若干迷いました。泉勇之助商店を探しています。

■ うろうろして、あ、モロゾフがこんなところに、等と思いながら、やっぱり違うと思って引き返しました。石屋川を渡る手前のところを南に曲るのでした。

P1150857

■(10:54) 泉勇之助商店は灘五郷でもめずらしく木造の酒蔵をもっています。ここの社長の講演が8月にあったんですが、お盆の施餓鬼法要の都合で聴けませんでした。当日はお酒の試飲もあったようで、参加したかったんですが・・・

P1150860

 木造の酒蔵はたしかに落ち着き、重厚さを感じます。街道歩きをしていると街道沿いには酒蔵のあることが多く、だいたい木造の酒蔵です。しかも酒屋さんそれぞれでまったく造りが違っていて、独特の美しさを感じます。灘は震災で痛めつけられたので最新鋭の工場になるのはしかたがないことなのですが、やっぱり酒蔵は木造でないと・・・第一、写真になりません。

P1150865

P1150870

 海岸側は道路と運河を隔てて、大きな工場があります。神戸製鋼ですが、木造の酒蔵と鉄鋼工場の対比も不思議な感じがします。

【本日のマップ】

より大きな地図で 西国街道(神戸-西宮) を表示

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

西国街道(2) 灘・岩屋

2010年9月10日(金) 



 さて2日目です。今日は武庫川を渡りたい。でも渡ってしまうと伊丹まで行かないと電車がないし・・・悩むところです。
 意気込んで出かけたものの、途中でJRが遅れ、尼崎で新快速に乗ったはよいが、三宮から灘駅の引き返しで快速に乗ってしまい、六甲道でまた引き返したので、灘到着が遅れてしまいました。
 朝から疲れたので駅前の喫茶店に入って休憩です。途中でタバコを買いに出ましたが近くには自動販売機がない!今日はよくよく運のない日です。ということで、約1時間遅れ。

■ 喫茶店を9:00出発。脇浜の陸橋にいます。陸橋を渡り終えようとすると、背後に緑の森が・・・あ、渡ったらアカンのや、とまた、引き返しました。

P1150785


【敏馬神社】

■(9:15) 敏馬神社ですが、「敏馬」は「みぬめ」と読みます。これは読めん!  「みぬめ」の謂れは略記および由緒書のとおり、能勢の美奴売(みぬめ)山の神を神功皇后がたてまつった・・ということですが、それが敏馬にどうしてなったのか?あまりよく分かりません。

P1150789

■略記
 敏馬神社のご祭神は、素盞嗚尊を主祭神とし、天照皇大神・熊野坐神を配祀していますが、本来の祭神は、みぬめ神です。この神様はどこにいらっしゃるかと思ったら、水神の立て札に解説がありました。

P1150786

■みぬめ神は水神の「弥都波能売神(みずはのめかみ)」とみられる、とあって、境内社の水神社に弥都波能売神が祀られていました。神功皇后の話もさることながら、こちらのほうが説得力があります。いろいろサイトを調べていると、「本殿のある丘の下に湧水があったが、阪神・淡路大震災で涸れてしまった」ということで、六甲の水がちょうど湧き出るポイントで、ここに人が寄ってきたのでしょう。

P1150797

■鳥居
 万葉の時代は社殿のある岬は敏馬の崎と呼ばれ、東側は敏馬の泊として、神戸最初の港であったとか。確かに国道より一段と高いところにあって、すぐ南は、今は埋め立てられていますが、海でした。

P1150811

■ このあたりの海岸は、敏馬浦と呼ばれて風光明媚で、都人のうわさになるようなところだったようです。ここには柿本人麻呂の歌碑があります。石段の右横です。

P1150818

たまもかる 敏馬をすぎて なつぐさの 
     野島のさきに 舟ちかづきぬ
      柿本人麻呂


【敏馬浦の変遷】 

■敏馬浦変遷の案内板には、古代、大和の官吏が九州や大陸に旅立つとき、ここ敏馬の泊で初日の行程を終えて一泊、生駒の向こうの大和をに別れを告げた・・とあります。逆に首尾良く帰還できたときには、ようやく見えた生駒の山に「やっと帰れた」という感慨もったようです。また、敏馬泊は大和に入るのにケガレを払う港でもあったようで、新羅人にここで酒をふるまったという話も書いていました。

P1150788

■たしかに、松尾神社もありました。松尾神社の祭神は、大山咋神(山の神)ですが、酒造の神としての信仰もあります。

P1150792

 本家、松尾神社のある葛野は、四世紀前後、秦氏が居住した場所で、その後、大宝元年(701年)に勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾神社を祀るようになり、秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、松尾神は酒造の神としても信仰されるようになりました。
 ここの松尾神社には金山彦神も合祀してある!金山彦神は鉱山を司どる神で、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神ですね。はて、ここに鉱山でもあったのか?神戸製鋼もあるし・・・後から合祀でもしたのか?

P1150790

■敏馬浦変遷の案内板の話を続けます。
 江戸時代、神社前は西国街道の浜街道として往来がさかんで、近くには酒造・廻船業が栄え、その財力を頼り多くの文人が訪れたようです。
 明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にありましたが、昭和の初めには海岸の埋め立て、二十年の戦災で往時の姿をなくしてしまった。特に、1931(昭和6)年頃より、阪神電車のトンネル工事で出た残土を利用して埋め立てが行われ、敏馬の浦はすっかり姿を変えてしまった、ということでした。
 境内の一角に「地図で見る街の変遷」という掲示があり、昔の地図が貼ってあります。

P1150809

 それによると明治のころはのどかな浜が続いていたことがよく分かります。戦後になると浜はすっかり埋め立てられ、工場群と港が出現しています。あたりの景観が変わってしまった。今では、神社と鎮守の森だけが昔を偲ぶ唯一のよすがである、と締めくくってありました。

M18

S23

 この地、敏馬神社も大震災により壊滅状態になりましたが、今はすっかり復活しています。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/1688/2-7-4.html
 上記サイトを見て、宮司さんたちの努力がよく分かりました。「地図で見る街の変遷」の掲示を見ていると、「震災の面影もなくなるほど敏馬神社は復活した、しかし、敏馬浦は昔の面影もない、はたしてこれでいいのか」と問いかけているようです。単に「昔は良かった」でなく、良かったエッセンスをとりもどしていく意思を掲示板に感じました。HATの街づくりはそのエッセンスが少しでも盛り込まれているでしょうか?

【本日の地図】

より大きな地図で 西国街道(神戸-西宮) を表示

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年12月 6日 (日)

東海道ウォーク 掛川-天竜川(2)

2009年10月19日(月) 大池-原川




【ここにしかない風景】
 これから先、カーブはあるものの、旧街道は道なりにまっすぐなので迷うことはないと思われます。
 天竜浜名湖線ガードをくぐると旧街道は右にカーブします。まだどこにでもある郊外の街なみです。
 白山神社の入口に屋台庫がありました(8:18)。このあたりでは屋台というのか。

P1090827

 関西では地車(だんじり)が普通ですが、ボクのイナカはだんじりはありません、関西ですけど。屋台は、主に長野県、岐阜県飛騨など中部地方で使われるそうですが、この分布などに興味があります。また山車を入れる庫の扉もいろんなデザイン(文字、イラスト、紋)があり、街道を歩いていて、気がつけば写真に撮るようにしています。山車本体は祭りのときしか見えないからねえ。
 蓮祐寺の前には大池一里塚の跡がありますが(8:22)、跡だけでなにもなし。明治の始めに一里塚の松が伐採され、塚も宅地化によりつぶされたとか。どういう神経か!

P1090829

 だんだんイナカらしくなってきて、松が現われました(8:24)。松並木とはいかないが、立派な松です。

P1090831

 道はゆるやかに右にカーブし、橋が現れました。が、東海道は渡りません(8:27)。橋を渡るのは愛野につながる道です。橋を渡るためにいったん上る、こういう風景はとても好きです。橋のたもとは人もいろんなものも集まり、市が立つとといいますが、確かによくわかります。広場ができて、そこで休んだり立ち話をしたり。街道歩きをしていても、こういう場所にくると一休みしたくなります。

P1090834

 このあたり、細田という所です。カーブしたところに造り酒屋さんがありました(8:33)。「曽我鶴、柴田酒店」と看板があります。調べてみると、慶応3年(1867年)に「曽我鶴」を創業、その後、7年間の休眠があって、平成16年より社名を「曽我鶴・萩の蔵酒造」として酒造りを再開したということです。結構高価なお酒もあるようでした。

P1090840

 酒屋さんは独自の建物を持っていることが多く、しかもそう頻繁には変えない。それが周囲に溶け込んで「ここにしかない風景」をつくります。ついつい写真を撮ってしまうのは、ボクが酒好きということの他に、こういうことがあるのだと思います。「ここにしかない風景」これを探しつつ歩いているような気がします。

P1090841

P1090846cut









【岡津】

 ここで1号線バイパスをくぐり、1号線から離れるように右の道に入ります。さらに東名高速もくぐると岡津に入ります。

P109085kaido1

 垂木川を渡ります(8:44)と、すぐにお寺2軒ありました。案内碑を共有していて、右(掛川側)からみれば仲道寺、左(袋井側)から見れば善光寺です。

P1090857

P1090861

 善光寺案内板のかすれた字を読むと、「このあたりは松茸が多く採れた」と、いきなり書いてありました?延暦9年(790)、坂上田村麻呂と百済王が奥州制圧に向かう途中、この村にて兵が難病にかかったため、持参していた阿弥陀仏(延暦7年伝教大師自身が3体彫ったうちの1つという)に祈願すると治癒したため、ここに善光寺を建立し阿弥陀仏を安置した、とありました。

P1090862

 仲道寺は、享保18年(1733)、掛川市内高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺境内に仲道寺が建立された。寺名は江戸から京まで測量した際にちょうど真ん中にあたったため付けられた、とあります。
 いよいよ東海道真中シリーズが始まります。「ど」はまだ付いていない。

【原川松並木】
 岡津から間宿原川にかけて、のどかなイナカ道になり、両側に松並木が続きます(8:47)。老松はないですが、若木が補植され、南側には歩道も作られるなど、よく整備されています。保存会の方がボランティアで整備されているようです。ありがたいことです。

P1090876

 松並木の端には説明板、記念碑、木製の腰かけもありました。ここでゆっくり休憩させていただきました。(9:00)

P1090885_2

 ここ原川は間の宿でもあります。掛川宿まで1里18町(6km)、袋井宿まで33町(3.6km)で、文化2年 (1805)頃に編纂された掛川誌稿によれば、戸数46軒だそうです。

P1090888jpg

 さらに、金西寺(原川薬師)があって参拝者も多く、供物の薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ねていて、たいそうな賑わいだったようです。金西寺の建物は一見すると公民館か村役場のようであり、民家のようでもあり、およそお寺とは思えません。

P1090887

由緒がまた詳細に書かれていて筆写するのが大変です。本尊の薬師瑠璃光如来は元禄年間(1688-1703)に岡津の三ツ池の畔で土中に埋っていたのが発見され、雨が降った時に地元民が笠をかぶせたことから笠薬師と言われていたそうです。あとは写真を見てください。境内端には13の石仏が並んでいました。

P1090889

P1090891

   まもなく原川は終りで、同心橋を渡ります。原川には詳細に同心橋の渡り方を書いた案内板がありましたが、行ってみるとどうということもなく自然に渡れます。

P1090897

P1090900

 川は原野谷川で結構大きな川となっています。その堤防の道がまたいいですね。原川側と袋井側、両方を載せておきます。東海道よりこんな道を歩いてみたい。
 ここから袋井に入りました(9:11)。



【本日のマップ】


より大きな地図で 東海道を歩く(掛川-新居) を表示

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月15日 (日)

東海道ウォーク 島田-掛川(8)

2008年9月28日(日) 伊達方-掛川宿




【モクモクと一里塚二つ曼珠沙華】
 塩井河原の旧街道を歩きます。先ほどの塩井神社で旅人に抜かれました。たし か、日坂本陣で写真を撮っていた人です。結構速く歩いているのでなかなか追いつけません。

Imgp4089

 まもなく、伊達方一里塚跡が見えました。直径7間(12.7m)、高さ3間(5.5m)の塚が50mほど先にあり一里山と呼ばれていたが、明治33年(1900)に取り壊された。平成7年この地に復 元した。碑には「江戸より55里1町余」「京都より70里3町余」とあります。まだまだ半分にも満たない。向かいには大頭龍神社があり鳥居と小さな祠がみえます。(14:51)

Imgp4091

 くの字に曲っている川を見ながら歩いていきます。ここの川はなぜかよく覚えています。

   一瞬、国道に合流し、再び離れますが、合流地点に224kmの表示がありました。向かい側は幼稚園です。

Imgp4094

 ありがとう看板で左に折れます(14:56)。左手に諏訪神社があり入ってみましたが、どうということもなく、大きな看板が建てられていて祭の準備途中らしかった。

Imgp4096

Imgp4097

 神社を出ると、軽トラックが停まってるところのおっちゃんが話しかけてきました。

「掛川までかね」
「そうです、歩かないと帰れないので・・・」

 少し進むと右に祠がありました。祠の横には六地蔵。なにか銀色の光り物をかぶっていらっしゃいます。奥は墓地でした。

Imgp4098

 川を隔てた本所中学校前で再度1号線合流します。モクモクとただ歩くのみ。歩道橋のところでは15:06でした。

Imgp4101

Imgp4102

 

 2kmほどあるいたでしょうか、本村橋を渡ると、また左の県道37号線に分岐します。(15:22)

Imgp4104

ここから掛川中心部まで旧1号線あるきです。県道から離れるので少しホッとします。脇には、馬頭観音、向かいには夢舞台道標・掛川市 成滝がありました。

Imgp4103

 途中、JA山口のところで石の倉がありました。原でみたのと同じタイプです(15:31)。静岡の倉はこのタイプが主流で、 もう一種違うのがありました。

Imgp4107

 ここから500mほどで馬喰橋を渡り、葛川にはいります。橋を渡ってすぐ葛川一里塚跡があります(15:37)。そこは小公園になっていて、松、盛土があり、石碑もあります。石碑には「江戸より五十六里三丁余」「京都より六十九里一丁余」と刻まれていました。

Imgp4110

 その奥は公民館のようで、若い衆がちょうどお祭りの山車の準備をしていました。山車の上には獅子が乗っています。一里塚からのぞくと獅子はこちらをじっと睨んでおりました。ああ恐!
 ここから掛川市街としていいでしょう。

Imgp4109

Imgp4111


【七曲り】
 さて、七曲りに入ります。
 入口は兼子酒店の「新婚」の看板が目印です(15:43)。バス停と「東海道七曲」の標識もあります。城下町であった掛川の東海道は敵の進入を防ぐために角を何度か曲がるように作られておりここから東番所までを新町七曲と呼んでいました。7回なので楽勝でしょう。

■ (一曲り)東海道は兼子酒店の先を南に入ります。

P1020412

■(二曲り)次は、予備校の手前を右に折れます。

P1020413

■(三曲り)80mほど先のつきあたりに秋葉常夜燈が見えます。ここを左に曲ります。お灯明(電灯ですが)が灯っていてせっかくの風情なのに、電柱(電話)は余計ですね。途中、新町の屋台置場があります。山車でなく屋台なんですね。

Jouya

P1020415

P1020416

■(四曲り)40mほどですぐに突き当たりますが、ここは右に折れるしかありません。特に目印はなし。

P1020417

■(五曲り)まっすぐ行くとまた突き当たりで、右に曲ります。その手前は入口屋酒店で、また新婚の看板。角は料理屋(魚林)さんです。 
 右に曲るとすぐに枡形になっていて、七曲り道標、案内板があります。この付近には東番所(東町口番所)で木戸と番所が置かれ、宿場に出入りする人を監視していました。

P1020419

 その手前には塩の道の道標・案内板。塩の道はここを通っているんですね。御前崎の相良から日本海の糸魚川まで総行程350km。ここも歩いてみたい道の一つです。

P1020420

7magari

P1020421

■(六曲り)枡形の次の四つ辻を左に。左角は塩沢機械店です。
■(七曲り)右の脇道1本はやり過ごして、次の四つ辻を右に。周囲には金物店とか写真館、ヤマザキショップ浅井とかあります。このあたり、塩町といいます。結構広い通りなので迷わないと思います。

 北を向いて歩いていますと、うまく道ができているようで、丁葛製造本舗「桂花園」の看板がどうしても目に入ります。(15:52)栗きんとん、栗むし羊羹の幟がたっていて、どうしても入らないとダメなようです。店の裏手ではオバチャンが羊羹かなにかを作っていました。

P1020425


P1030014

 とりあえず入って・・・・羊羹は売り切れでした。売り場のオバ チャンも手慣れたもので、「それなら名物丁葛はどお。おいしいよ」といって、あつあつの葛湯を一杯サービスしてくれました。新製品かなにかと言っていたような気がする。甘さ控えめで、これはおいしい。
 さらにオバチャンは手慣れたもので、

「島田からでしょ。蓬莱橋はどうだった?通れましたか?台風で壊れたと聞いていたので」と。
「ああ、3週間前に通ってきましたよ。2回も」
丁葛はしっかり買いました。

 あたりは再開発で、広くて新しい道になっていますが、桂花園の前の広い通りが旧東海道です。ここが江戸時代には札の辻で、この通りは東西のメインストリートです。この先で南北のメインストリートである大手門通りと交差します。
 桂花園前を左に。あれ、八曲り?(16:00)どうも、数え方が間違っているようです。最初の侵入は数えないのか?それとも最後の曲りは数えないのか?

 それにしてもこの通り、日曜の夕方というのに誰も歩いていません。大手門通りもそうでした。大丈夫か掛川!

P1020427

 今日は行動食だけだったのでおなかもすいてきました。通りにある蕎麦屋で蕎麦を食べました(16:05-27)。まずまず。

P1020429

  掛川は以前、仕事でひと月ほどいたことがありますが、当時は新幹線も停まらない時だったので、街並みも相当変わっています。たしか、このあたりでうなぎを食べて、あまりの量の多さに閉口した記憶があります(先輩のおごりでしたけど)。いかにも駅前の商店街というところを少し入って、右(東)だったと思いますが、いまはえらい違いです。(写真は南を向いています)
 時間もよいので、大手門通りの交差点で終了としました。(16:30)これからホテルに寄って帰ります。

P1020430



【本日のマップ】

より大きな地図で 東海道をあるく(島田-掛川) を表示

(いったん終り)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 6日 (金)

東海道ウォーク 岡部-島田(5)

2008年9月 7日(日) 青島~一里山




【どんどん南下】
 少し休憩の後スタートです(11:40)。すぐに本陣という八百屋さん。街道ウォーカーの写真スポットになっていて街道歩きサイトでよく見ました。

Imgp3809

 すぐ先には「偽善館」という石柱がありまして,なんちゅう名前だと思ったら「為善館」でした。同じ間違いをする人もあるようで,その旨のコメントをしたサイトもありました。これは,明治6年(1873),志太村家地太(かじた)に建てられた寺小屋が学校化したような学舎の跡で,志太村南新屋村,水上村,稲川村,瀬古村の生徒を集めたようです。

Imgp3810

 どんどん進みます。一号線と交差する青木五叉路のまんなかの道を行きます。横にはジブラルタ生命,ジブラルタルではなかったんですね。
 蔵もいい感じで残っています。一段と高いところにある西友の前をぐるっとカーブしていきます。

Imgp3812

 まもなく鏡池堂が現れました。ここには六地蔵がありますが,信号が赤になりそうだったのであわてて渡って,振り返りでパチリ。

Imgp3818

 ここには,付近にあった鏡ヶ池に棲み旅人を悩ませていた龍を鬼岩寺2世静照上人が退治し堂を建てた。池から出現したと伝わる智証大師作の金色彩色の六地蔵(30cm)木像が安置され33年ごとに開 帳される,という由緒があります。

【古東海道とは?】
 すぐに,右手に入っていく小道があって,「古東海道蹟」の石碑がありました。
-----------------------------------------------------------------
昭和30年代までは,ここから西に瀬戸山の丘が続いていた。この碑のところから細い道が瀬戸山の上を通って,山を下りると内瀬戸の部落へ通じていた。この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。松並木の東海道ができた頃も,大井川の洪水が山際に寄せたときは,旅人は丘の上の道を通った。
-----------------------------------------------------------------

Imgp3819

という説明がありましたが,山越えといわれてもなんのことか分からなくて写真も撮りませんでした。さらに,「古代は東海道が(島田市)初倉から(焼津市)小川,更に初倉から前島へ通っていた。島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは,鎌倉幕府以降である」という記述もありました。
 さらに行くと,左手に「東海道追分」の石碑と説明板がありまして,ここで江戸方向に行く古東海道が分岐していました。
-----------------------------------------------------------------
ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と,山裾に沿う旧東海道がある。瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので,東海道が六地蔵の所を通るようになったのは,開拓が進んでからである。当時,東海道はこの碑の所から,東へ竜太寺山をまわり,前島境で初倉からの道と合して南新屋(五又路)へ通っていた。東海道が瀬戸新屋を通るようになって,東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も,主要道路として,青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。
                          平成10年5月 青島史跡保存会
-----------------------------------------------------------------
 どうも,複雑に道が交差しているようで,その時はよくわかりませんでした。後日調べてみると,このあたりは道が時代によって変遷しているようです。

【水難の青島路】
 それは大井川河口の地形とその氾濫が原因でした。国土地理院の地図を見ていると,大井川が島田あたりから東に向かって三角州というか氾濫原をなしています。さらに北からは瀬戸川が流れてくるので,青島あたりはたまったものではありません。藤枝も焼津もその中です。
 もっと昔は?ミュゼふじえだのサイトを見ていると,万葉時代のマップと以下のような記事がありました。
http://www.muse-fujieda.com/p_17.html
-----------------------------------------------------------------
万葉集に「志太の浦を 朝こぐ舟は よしなしに 漕ぐらめかもよ よしこさるらめ」という駿河国の人のよんだ歌が載せられています。
この歌のように志太郡衙付近は今の地形とは大きく異なり,川や湿地が奥地まで入り込んで大きな入江をつくっていました。この辺りでは,低地に面した山裾や洲などのわずかに高まった場所に遺跡が分布しています。

-----------------------------------------------------------------
 地図が小さくて非常に見にくいですが,このあたり,大井川の河口の潟が広がっていて,大昔は舟で行くしかないようでした。
 その後陸地化た後も,大井川の三角州は大きく,今の東海道線あたりから南はたびたび氾濫して通れなくなったらしい。青島は何度も水害に悩まされたことがよく分かります。

 そのために「千貫堤」も作られたのでした。千貫堤は下青島の東海道が「く」の字に曲っている辺りから南の東海道線を越えて,今は消滅した藤五郎山の先本宮山あたりまで約500mありました。下記のサイト(00shizuoka静岡観光おでかけガイド)を見るとその全体像がよく分かります。(航空写真をモディファイした伝承館のジオラマ)
http://blog.livedoor.jp/shizuokak/archives/1478218.html
 街道から少し入った所にあるので,当時は気がつきませんでしたが,石碑と説明板があるようです。
-----------------------------------------------------------------
堤は無縁寺の山裾から南の藤五郎山を挟み本宮山の正泉寺まで山と山をつないで土手を作り大井川の洪水を防いだというもので,寛永12年 (1635)~寛永19年(1642)の田中藩主だった水野忠善が築いた。長さ360m,高さ3.6m,幅2.9mあり,一千貫の労銀を投じたため千貫堤と呼ばれた。昭和40年代の土地開発によって藤五郎山もろとも堤は取り除かれたがここから南の約40mが石野家生垣としてわずかに残っている。昭和31年市文化財に指定。
-----------------------------------------------------------------
 千貫堤上に「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」がありますが,2009年10月現在,藤枝市のサイトからは案内が消えています。以前はここに写真いりのpdfファイルのマップと伝承館の案内,ジオラマの写真もありました。
http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/asp/f0040.asp?eno=K318575554
 ダウンロードしておいたものを見ると,昭和41年にはまだ千貫堤,瀬戸山,藤五郎山は現存しています。江戸時代にこんな偉大なものを作ったことは,下調べもなくのどかな街道筋を歩いているだけでは全く気がつきませんでした。
 それもそのはず,今は岩城山を残して,きれいさっぱりなくなっています。その様子google mapにまとめておきました。不要になったものはリセットするのが善なのでしょうか。ここまでやるか?という感じで,いくら開発といえど,ここまできれいさっぱりにしなくてもよいような気がしますが,ま,その一部分でも残してくれたのでヨシとせねばならないようです。

より大きな地図で 東海道をあるく 岡部~島田 を表示
◆手動で拡大して、青島付近を見てください。旧の池、千貫堤の位置を記入しておきました。

 なぜこんな重要なことに気がつかなかったって?ここを歩いている途中の酒屋さ  んに,霧島の芋焼酎「農家の嫁」とか「明るい農村」ののぼりが立っていて,それは飲んだことがある焼酎だったので,それに気を取られていたことは事実ですが・・・全くのどかな街道あるきです。

Imgp3820

Imgp3821

Imgp3824


 

【青島から一里山】
 40分ほどすっとばして歩いたので街道松のふもとで一旦休憩(12:21)。

Imgp3825

Imgp3829

Imgp3830

 この先には造り酒屋・青嶋酒店がありまして,お酒は「喜久酔」。これはなかなか有名なお酒らしいです。

Imgp3838

Imgp3841

 青島一里塚跡を過ぎて,「さんし」という蕎麦屋があったので入って昼食としました。蕎麦はなかなかよかったと思います。(12:40-13:08)

Imgp3842

 

 国道に合流したあと,また休憩しました。なぜって,タバコ。さっきの蕎麦屋で小さい子供づれのお客さんがきていて,さすがに食後のタバコは遠慮したのでした。


(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月12日 (月)

東海道ウォーク 草薙-岡部(6)

2008年8月31日(日) 岡部宿




【岡部へ下る】
 国道1号線トンネル出口のところに坂下延命地蔵尊があります。(14:11)伝説では、地蔵様が子供になって、動かなくなった牛の鼻 を取って農夫に代わり動かしたという事で、「鼻取り地蔵」とも呼ばれているらしい。

Imgp3671

 建立年代、建立者は不明ですが、元禄13年(1700年)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の3人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立しました・・・、とのことで、たくさんの石仏、地蔵、五輪塔などがあり、本堂裏の祠には蘿径記碑があるようですが、見学はなし。

Imgp3672

 旧街道は国道1号線の向こう側の旧1号線(県道208号)に 合流するはずですが、国道建設で分からなくなっています。向こう側に行くには、国道の東側の歩道を300mほど行って、廻沢口歩道橋を渡るか、国道をくぐる道をいけば反対側(西側)の道の駅駐車場に出ます。私は廻沢口交差点まで行って歩道橋を渡りました。そこには旧1号線が降りてきていて、合流しました。(14: 20)

Imgp3676

 あたりは茶畑が点在しています。山の中腹まで茶畑があって、緑と茶樹の曲線が美しい。岡部では室町時代には既に茶の栽培をしていたそうで、さすがにお茶の郷です。

 山際の道(県道)をどんどん行きます。カリモクの営業所があ りまして、ここは木工家具の生産地でもあるらしい。

Imgp3678

Imgp3679

 もう2時半です。今日は早い昼食だったんですが、峠越えの後の今でも全然お腹がすかないです。恐るべしとろろパワー。どんどん行く気力はあるんですが、足がいたい。下りで靴に異物が入ったかどうか知らないが、靴が古くなって合わなくなっているのは確かです。マメでもできたか?

【岡部宿】
 道端に岡部宿の案内板がありました(14:32)。東海道分間延絵図と平成12年に空撮の写真が載っていまして、岡部宿が一望できます。この付近には江戸から48番目の岡部一里塚もあったらしいですが、痕跡はなし。

Annai

 案内によると、岡部宿は天保14年(1843)には、本陣2、脇本陣2、旅籠27で戸数は487、人口2322というもので、ここは文治元年(1185)にはあったという古い宿のようです。江戸時代の宿場としては、慶長7年 (1602)に指定されました。小さな宿場ですが、西の大井川止めの時には大いに賑わったようです。
 昔からの名物は豆腐とシダ細工。なるほど、それで案内板には

豆腐なる おかべの宿につきてけり 足にできたる豆をつぶして

とあったのか。

 すぐ先には十石坂観音堂がありました(14:33)が、石段の 上だったので、足も痛いし、見学はやめました。明治に廃寺となった最林寺の観音堂が残されたもので町文化財、千手観音菩薩立像や西行座像があるようです。

P1000412

 足がだんたん痛くなってきた。さっきの案内板では、野次さん喜多さんも足にできたマメをつぶしたらしいので、ここはマメのできる所なのか?

 県道(旧1号線)は橋を渡るところで南にカーブします。本来の街道は川沿いに真っ直ぐ(西に)少し行ってから橋を渡り、再度県道に合流するようですが、面倒なので足を引きずり県道を行きます。
 橋を渡ったところに柏屋歴史資料館がありました。おばさん2人が入口でしゃべっていたので中には入りませんでしたが、店の中には弥次さん喜多さんらしい旅人の人形が座っていました。ここは元岡部宿の大旅籠で、大火で焼失し天保 7年に再建された建物を岡部町が買い上げ改修し歴史資料館としているものです。平成 10年国有形文化財登録、平成12年開館、平成13年度県都市景観賞最優秀賞受賞という優れものらしい。
 近くに岡部宿本陣址があり、隣は岡部宿公園です。常 夜燈や水車がありますが、ピカピカしていて落ち着かないです。平成17年(町制50年記念)完成なので無理はないか。休憩して足を見たらマメができていました。(14:40-50)

P1000413

 気を取りなおして出発。県道の向こうには蔵。あいかわらず 石造りのがっしりした蔵です。ここは造り酒屋の初亀醸造さん(多分)。

Imgp3681

 街道歩きで気になっているが手を付けられないでいるのが地酒です。その土地ならではの味を賞味したいとは思っているんですが、もって帰るのは重いし・・・

【だれもいない岡部宿】
 今までは県道沿いでしたが、これから旧街道は県道から離れて行きます。いかにも旧街道らしい落ち着きが感じられます。自転車のおばさん が追い越していきました。

Imgp3682

 小さな川(溝?)にかかる小さな橋があり、説明の石柱がありました。(14:54)それによると、・・・絶世の美人であった小野小町が晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊まった。小町はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そ こには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。
 ほんまかいな、と思いますが、後に宿場の人たちがこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたそうです。

P1000416

 

 旧道が右に折れるところでさっきのおばさんが立ち止まって。何があるのかと思ったら、野菜の勝手販売所?でした(14:55)。茄子、唐辛子、オクラ、新生姜、なんでも100円。ニガウリは50円でした。

P1000417

P1000419


 街道筋は静かです。不思議なのは誰も通っていないこと。日曜の昼下がりはこんなものでしょうか? ネコ一匹、日かげで涼んでいます。立秋は過ぎたといえ、まだ夏の日差しがキツイので、4時すぎからの始動なんでしょう。

P1000422

 いい感じにひなびた弘法大師堂がありました。古いガラス張りで、いかにも昭和の感じがします。その軒下には高札場の標柱が建っていました。

P1000425

 横断歩道橋のあるところで旧街道はいったん県道に吸収されると思いきや、再びぐいっと離れていきました(14:57)。再びおちついた宿場街歩きです。この街道沿いは古さはあまりなく、きれいに整備されていながら、落ち着きを感じます。丸ポストもまだ現役です。取り出し口横づけかな?

P1000428

P1000432

P1000430

 500mくらいありましたか、ブラブラ歩いていると、やがて通りに突き当たり、向かいの店の前に枡形跡の説明石柱がありました。写真の右は酒屋さんですが、このあたりどうも 休みのようです。
 岡部宿はここまでで終りです。

P1000426

P1000434

 旧街道は右折し、県道に出て進んでいきます。県道に出てもシャッターが締まっていて、日曜なのにどうした?という感じです。すぐ前のほうに2人が歩いているだけでした。旧街道の宿場街に入ってから、例の自転車のおばさんと、半ズボンのおじさん、ネコ一匹を見かけたきりで、その他誰にも会いませんでした。いったいどこに行ったんだろう?

 15:04分、暑いし、足も痛いし、できればの予定の藤枝までは6キロくらいで行けないこともないが、そろそろいい時間です。 が、もう少しということで歩きはじめました。車は少ないのでいいんですが、暑い、足が痛いで、バスを見かけた途端、がっくり来てしまいました。

P1000435

 幸いバスは20分に1本と頻発しているので次のバスで静岡に戻ることにしました。所要時間約30分、あっという間に新静岡に着いてしまい、今日のウォークは何だったんだろうと思いました。しかし、宇津ノ谷峠は気に入りました。再訪決定。

P1000436


今日の地図(中心がズレています)

より大きな地図で 東海道をあるく 草薙-岡部 を表示

(いったん終り)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月21日 (金)

東海道ウォーク 興津-静岡(2)

2008年5月10日(土) 横砂-袖師-江尻宿




【風前の街道松】
 バイパスをくぐると同時に川を渡り,左側の歩道が自然に   国道から分かれて古い街並みに入っていきます。左に分岐しその道を進む。一 号 線は少し高いところを通っているようです。歩いている道はいかにも街道らしいおちついた道です。

Imgp3075

 踏切を渡ってまっ過ぐ行くと再び国道一号線に合流です(8:04)。横砂というところですが,合流点には,延 命地蔵堂と秋葉山常夜燈がありました。注目するのはその左手にある建物。 農協か銀行のようですが,どうやらあちこちで見た石造りの倉を改造したものか?それとも頑丈なように石造りの倉風に建てたものか。

Imgp3076

Imgp3077

 少し行ったところに街道の枯れ松がありました。これは惜しい。もっと枯れ行くと切られる運命にあるんでしょう。一号線の排ガスには負けるよ うです。

Imgp3078

 この後は庵原川にかかる庵原川橋を渡ります。すぐ傍には東海道線が走っていて,ちょうどブルートレインが 通り過ぎていきました。もう見られないんでしょうね。

Imgp3079

Imgp3080

  橋を渡ったところにバス停がありまして,そのかたわらには東海道のキロ標識が(8:16)。168kmですが,久しぶりにみた感じです。この先にも枯れていない名残松!がありました。これは 大事にしたいものですが,根本をコンクリートで固めて大丈夫なのか?土曜日 の早朝で車はすくないですが,なにか風前の灯火のような気がします。

Imgp3082

Imgp3081

 どんどん国道を歩いていきます。そろそろモーニングコーヒーが飲みたいのだが,こんなに朝早くでは開いてないし,だいいち喫茶店が見つかりません。

 どうでもいいんですが,このあたり「望月」さんという名前のお家が多いです。由比あたりから気がついてはおりましたが・・・ 国道沿いには馬頭観音がさりげなく安置してあります。Imgp3083r

Imgp3084

 あっというまに細井の分岐にきました(8:31)。分岐の三角地帯に1本の松と石碑があります。ここは細井の松原跡といって,古くはこのあたりずっと松並木だっそうです。なんでも,松は昭和19年,松根油の原料として伐採されたそうです。ここには,無縁さんの碑もありますが,なぜかビニールシートをかぶったままでした。写真を撮ったと思いきや,切れていました。おばさんが一人,ミニ公園の草取りをされていました。

【江尻宿】
 東海道はここから右へ分岐し,しばらくすると辻町商店街に入ります。土曜日早朝で何もなし(8:37)。あるのはゴミだしのゴミだけでした・・・・しかたがないので,国道一号線といったりきたりで喫茶店を探しながら歩きます。何もなし。このあたりから辻一里塚跡,高札場跡,江尻宿 東木戸跡と続く訳ですが,痕跡は何もなし。立札が立っているだけのようですのでパス。

Imgp3085

Imgp3086

 とうとう清水駅前まできて,街道沿いの喫茶店で休憩しました(8:45)。おじさんひとり,モーニングで新聞を読んでいました。あちこちを歩いてい て気になっているんですが,モーニングの習慣のあるところとそうでないところがあるようです。はっきりデータを取ってないですが,都会か田舎かというだけではないいものがあるようです。結構盛んなのは尾張,三河あたり。結構ないなか町でも早朝から大きな店が開いていて土日の朝など満員です。
ともあれ,約30分ゆっくりとさせていただきました。

Imgp3087

 9:15頃出発。街道は銀座のあたりで西へL字状に曲ります。そこはまさしく銀座通りで,昔は本陣を中心に、両側は旅籠でぎっしりと埋まっていたということです。今でも。一番の商店街のようですが,誰も通っていません。車道も歩道もきちんとブロック舗装してあり,車も通らないので歩行者天国状態でした。わずかに店の人が開店準備でごそごそしているだけでした。クジラのモニュメントがありましたが,写しても・・・ということでパス。

【少年サッカー発祥の地】
 清水銀座の商店街を抜けると、正面にこんもりした神社の 森が見えました(9:26)。その時は,サッカーというキーワードは頭になかったの ですが,ヒラメ キで行ってみることにしました,そこは魚町公園で、かつての江尻城のあったところらしいです。

Imgp3097

Imgp3095

 魚町稲荷神社というのがあり,神社本体よりもその横にある大 きなサッカーボールに目が行きます。日本少年サッカー発祥の記念碑でした。 そうか,ここが清水エスパルスの本拠地なのは,こういうことがあったのか。なんでも,昭和30年代、日本のサッカーが、所謂御三家と呼ばれる広島、藤枝、浦和を中心に展開されていた頃、神社裏手の江尻小学校で、サッカーの好きな先生が新任で赴任してきて,「ボールを蹴るべからず」という校則を撤回させて小学生にサッカーを教え,これがきっかけで少年サッカーチームが誕生したということでした。スポーツ振興の裏には熱血先生がいるのだ!

Imgp3088

Imgp3093

Imgp3092_2










【稚児橋界隈】
 
東海道は巴川を稚児橋で渡ります(9:32)。江戸時代、この橋が完成し、渡り初めの日に突然、川の中から童子が現れ,橋を渡り姿を消してしまったといい,人々はカッパが童子に姿を変えたと噂し、以来、「稚児橋」と呼ぶようになったということです。橋の欄干には河童の像が4匹?ありました。

Imgp3100

Imgp3101

 稚児橋を渡ったところに,巴川、船高札場跡の看板がありました。巴川は、清水港で荷揚げされた荷が駿府に運ばれる重要な河川であったということです。

Imgp3098

Imgp3099


 さらに行くと,中華料理屋の看板がありまして,なんと「酒は京都の綾小町」!たしかに京都は京都なんですが,京都とはほど遠い綾部の地酒です。なにを隠そう,ボクの故郷の酒です。綾小町をネットで調べても,まずは大垣の讃岐うどん店・綾小町が出てくる始末で,ずっとあとの方に出てきます。ちょっと宣伝しておきます。

Imgp3102c

 蔵元・若宮酒造さんのサイトはここです。
http://www5.nkansai.ne.jp/com/ayakomachi/newpage2.html
 サイトによると,「若宮酒造は、大正9年にそれまでの三丹酒造を市内にある若宮神社の宮水で仕込み始めたこともあり若宮酒造と改め、商標もそれまでの「鷹雀」を「綾小町」といたしました」ということで,あまりブランドは浸透していませんね。綾小町の由来は、「綾部では奈良時代より由良川沿いの低地で桑が栽培され、養蚕業が盛んに行われて蚕都として発展したことから機を織る優しく、美しい娘をイメージして名付けられた」ということです。ボクは綾部駅前で大寒の寒い夜に熱燗で飲んで,これはいけると思いました。もちろん冷やでも。
 また,若宮酒造さんは綾部産の梅を100%使用し、綾小町の原酒でつけこんだ梅酒「綾梅」というのがあって,限定販売中だそうです。ボクはまだ飲んだことはないですが・・・・一度どうでしょうか?
 この先の交差点を右に行くのが東海道で,左に行くと,ちびまるこちゃん,もとい「さくらももこ」の生家跡があるようです。ボクは見てませんが,商店街の案内板には「ちびまる子ちゃんの生家」が書かれているそうです。さくらももこさんも綾小町飲んだんでしょうか?

【追分羊羹】
 旧東海道を進むと、赤い大暖簾の追分羊羹の店があり、 その手前に「是より志三づ道」の道標がありました。久能山への参詣道との追分です(9:46)。

Imgp3104

が,ここは道標そっちのけで,追分羊羹に飛びつきます。元禄年間開業の老舗で,街道の名物として昔からファンが多かったようです。さっそく特大を買い求 めました。翌日くいただくと,あっさりした甘みで,甘党の家人にも好評でした。ボクは最近,甘いのもカライのもいけるので大満足の逸品でした。写真を撮るまもなく箱だけになってしまいました。

Imgp3152

 このさき,石松殺しの都鳥が清水一家に討たれ里人に供養されたという「都田吉兵衛供養塔」とかありましたなが,こちらもそっちのけでした。

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)