東の旅

2009年11月23日 (月)

東の旅1 高麗橋-南生駒(その8)

【暗越下って生駒へ】 2008年10月16日



■トンネルを抜けると大和だった 10/16(14:48)

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 トンネルは振り返り写真です。ここで一気に展望が開けます。明るい。
 左手には「本陣」の看板がありましたが、はて本陣はあったのか?本陣という名前の茶店跡だったりして?

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■往馬大社小麦畑 10/16(14:52)
 往馬大社は菜畑にある生駒山を神南備とし産土神を祀っている古社です。「いこま」と呼びます。火祭りと関係があるようですが、それにしてもなぜ小麦なんでしょうか?稲ではないのか?

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■西畑の棚田 10/16(14:53)

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  このあたりから棚田が広がっています。高度は400mを少し切るくらいでかなり高いところです。このあたりは耕作されているようでしたが、もう少し下では休耕となっていました。生産調整ということより、担い手が少なくなっているんでしょう。

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■生駒の町遠望 10/16(14:59)
 遠くに生駒の町とその先には矢田丘陵がみえます。ここは約360mくらいで、まだまだ高いです。そのせいか、矢田丘陵がえらく低く見えます。ま、北端ですから低いのですが。あの住宅地の右手を街道が通っているんだと思います。

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■路傍の地蔵様
  下り道の脇にはお地蔵様が何体も建っています。

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■万葉歌碑  10/16(15:06)
 西畑の集落を過ぎたあたりに万葉歌碑がありました。

難波門を榜ぎ出て見れば神さぶる 生駒高嶺に雲そたなびく
                防人 下野國 梁田郡 上丁  大田三成

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 赤人の田子の浦ゆ・・・・に似てなくもない。
 孝とはだれの書かと思ったら、犬養先生でした。授業の途中で歌いだす先生です。

■300m地点 10/16(15:07)
 だいぶ降りてきましたが、ここで約300mです。少し上にはうどん屋もありました。後日WEBで見てみると、結構よさそうなうどん屋さんらしいです。今度春にでも行ってみよう。

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■分岐2つ
 いずれも右側が奈良街道。

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■阿弥陀如来像 10/16(15:15)
 分岐を右にとると、気味が悪いほど暗くて寂しい道になり、これでいいんかいと思うところです。

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 まもなく、左手に阿弥陀如来の祠が見えてきます。文永7年(1270)建立とりので、相当古いものです。あたりは暗くて、写真はあとで露出調整しています。

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■竹薮をすぎますと 10/16(15:20)
 ちょっとした村の広場のようなところに出て、暗越奈良街道の石碑があります。周囲には民家が再びでてきました。藤尾というところのようです。

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 その石碑を過ぎたあたりでメモリがなくなりました。予備メモリは持っていましたが、まだ未整理でパリの写真がたくさん残っていました。残念!

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 ここはまだ標高200mくらいはあります。ここから南生駒ま で15分くらい。写真も撮れなくなったのでここで終了とします。あとで調べたら駅近くに造り酒屋があるみたいで、これは事前に調べておかないとダメですね。
 電車に乗っても、大阪側と生駒側で全然ちがう雰囲気です。まだ100mくらいの高地で山の中なのに都会的な気がして面食らいました。

 玉造から結構時間がかかりましたが、大阪の下町、中小の工業地帯、枚岡の布団太鼓、暗い豊浦谷の信仰ゾーン、暗越、明るい生駒の下りと、なかなか楽しめる道でした。東の旅の煮売り屋のことはすっかり忘れていました。

 

【本日のマップ】

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(第1回おわり)

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2009年11月22日 (日)

東の旅1 高麗橋-南生駒(その7)

【暗越】 2008年10月16日




■さて、登りにかかります 10/16(13:45)
 ご存知かと思いますが、狭い狭い国道です。おまけにトンデモナイ急坂と聞いています。
 写真は少し登って振り返っています。ここで標高62mくらいです。

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■国道308号
   まぎれもなく国道です。標識はなんの順番でしょうか?家の  間をすり抜けるようして登ります。

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一応、車は通るようです。国道らしく管理はきちんとされています。この場所のすぐ下では道路両側の草刈りをしていました。あえて酷道とはいいますまい。
 ちいさな看板があって、豊浦谷1号墳と書いてあります。右に行くようです。

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■芭蕉句碑 10/16(13:46)

菊の香にくらがり登る節句かな  はせお

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 元禄7年(1694)9月9日、伊賀を発った芭蕉は暗越を通って大坂に向かいました。その時、重陽の節句にちなんで詠んだ句です。同年10月12日没。芭蕉最後の旅になりました。合掌。
 この句碑は明治23年に再建されたもので、寛政11年(1799)作のオリジナルは山崩れのため行方不明になり、後日村人により発見されましたが壊れていたそうで、修復後、街道沿いの勧成院内に残されています。

■信仰の谷
 この谷(豊浦谷)に限らず、生駒山西面の谷にはやたらお寺や神社があります。ほとんどお寺ですが、多分神仏習合なのでどちらか分かりません。
密教系や修験道のお寺は尾根筋付近にあり、昔ながらの(体系化された)神社仏閣は麓にあるようですが、谷筋は上に行くほど新しい(ということは体系化されず、要はよく分からない)「お寺」があるように思います。
 いろいろ調べても、「有名無名、大小さまざまな宗教の施設があり、これらの中には宗教法人として届けられていないものも多く、その総数は現在も把握されていません」というのが正解のようでした。

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 登っていく途中、「大社の瀧 禊 行場」と書かれた石碑がありました。お寺のようですが、谷に降りていく所には鳥居が建っていました。
 次いで観音寺。ここはかなり大きなお寺のようです。密教系か?十一面観世音菩薩、不動堂、天竜の瀧、観音延命の水、水子地蔵尊などなどの案内看板が建っていました。金ぴかの観音様も遠くに見えています。入口近くにある水子地蔵だけ見ておきました。

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 さらに登っていくと、急坂の手前にはちょっとした広場があって、左手には不動明 王、正面には得体のしれない石碑がたくさんみえます。読めるものだけ書いておくと、

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 お玉大神 お初大神 玉市大神
 熊鷹大神
 秋葉明神

 大小合わせて6コ以上の石碑です。調べても全然分かりません。お初大神は最上稲荷でよいのかな?法善寺の水掛不動であったような気がします。
不動明王とのセットなのかいな?不動明王はさっきの観音寺のものらしいので、このあたり全体が境内で石碑群も観音寺ゆかりのものでしょうか?

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 このあたり、木陰で薄暗く(写真がブルー系になってます)気温も17℃(下界は23℃くらいだった)で涼しいを通り越してうすら寒い感じさえします。

■河内平野 10/16(14:13)
 ちょっと時間が前後しますが、先程の石碑群のある場所のすぐ下で河内平野が望めました。

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■ここから急坂 10/16(14:20)
   石碑群のある場所からえらく急な坂が始まります。おまけに 急カーブ。

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 東海道箱根のこわめし坂、小夜の中山の二の曲りに匹敵します。こんなところ、車で通る気がしません。道路には○印の滑り止めはあるものの、雨や凍結した日にはとんでもないことになると思います。道路にはスリップ跡が無数についておりました。車が1台ブレーキをきかしながら下っていきました。

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 急坂が終ると府民の森と慈光寺を結ぶ道路に交わります。ここでほっとして道路脇にへたり込みました。これはキツイ。

■弘法の水 10/16(14:35)
   登りがゆるくなるとお堂がありました。弘法の水と笠塔婆という案内板が建っています。

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Kasajizo

お堂内に何体か石仏が立ち、右手奥の一きわ高い石柱があります。これが笠塔婆(高さ181cm)で、鎌倉時代中期の弘安7年(1284年)に建てられたといいます。

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 ここには「弘法の水」と呼ばれる湧水がありますが、看板によると飲めないということでした。硬水だからなのか、生活排水が混ざりこんでいるのか?おじさんが一生懸命、お堂の掃除をされていました。

■東豊浦 10/16(14:41)
 やっと峠が近くなったようです。暗越のはずですが、一気に明るくなってきます。頂上付近の山並みもゆるやかで、大阪から見た屏風のような生駒山にはほど遠い感じがします。

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 奈良街道は左の細い道、右は府民の森に通じる道です。こちらの方が広い。ここには、「八代龍王神感寺の神迎えの行事があるので駐車しないように」との看板が建っていました。なんでも、9/30-10/21まで深夜にあるそうです。お寺が神迎えというのは神仏習合ですな。
 街道は東豊浦の集落を抜けて、まだ登っていきます。あたりは刈り入れの済んだ田んぼでのどかな山村です。

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■矢田出迎地蔵尊 10/16(14:45)

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   やっと峠の頂上のようで、地蔵堂がありました。矢田の地蔵さんがこの峠までわざわざ出迎えにきておられるので、矢田出迎地蔵尊と呼ばれているんだそうですが、ほんとなのか?その横には案内板とおかげ灯篭があります。これは文政10年(1827)頃のものだとか。

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■暗越石畳 10/16(14:46)
 この先は石畳が続き、峠の茶屋があります。標高455mで、大阪にしては結構高い峠です。江戸時代には河内屋、油屋など20軒近くの旅篭や茶屋があったそうで、主に伊勢参りの人々で賑わいを見せたとか。
茶屋の先はすぐに下りになります。ボクは休憩せずに通り過ぎました。

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(つづく)

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2009年11月20日 (金)

東の旅1 高麗橋-南生駒(その6)

花園ラグビー場-枚岡】 2008年10月16日




■花園ラグビー場と野球場 10/16(12:00)
 さて、ラグビー場まで(レポート上で)戻ってきました。ラグビーファンのメッカですね。私はそうでないのですが、一応写しておきます。

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メインのグラウンドはちょうど用具倉庫(だと思う)とスコアボードの向こう側で、ここからは見えません。サブグラウンドが手前にあってかなりひろいラグビー場です。

■花園中央公園野球場 10/16(12:10)
 ここでトイレを借りました。グラウンドに降りてみたいが、それはダメなようです。宣伝もなにもない土のグラウンドは見てるだけでも気持ちがいいです。

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■花園中央公園 10/16(12:17)
 このあたり一帯は公園、野球場、スポーツ広場が併設されています。
のんびりとひなたぼっこ、散歩、釣をしています。

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■花園多目的遊水池 10/16(12:17)
 しかし単なる公園、競技場かといえばそうでなく、恩智川あらの水害を防ぐ遊水池になっています。
 今見える遊水池(水辺ゾーンといいます)の向うにコンクリートの一段低い壁が見えますが、これが越流堤で、恩智川の増水時はここから越流してきた水がここにたまります。この狭い遊水池だけでなく公園、野球場も遊水池を兼ねています。ラグビー場は一段と高くなっていて、そこには水は行きません。

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 全体像はgoogleで見てほしいですが、案内板にようと、Aゾーンであふれた水はB、Cゾーンに流入するようになっています。
Aゾーン:水辺ゾーン
Bゾーン:花園公園
Cゾーン:野球場、陸上競技條

 大雨時は、OP+6.05mが警戒水位、OP+6.4mで越流になります。OPは説明がありませんが、干潮時の海面レベルだそうです。
 ちなみに、暗越奈良街道に沿って、水準点を調べてみました。

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馬場町のNHK付近:23.2m
上町1:安堂寺通り:12.6m
玉造       :約3m
中道4八坂神社付近:約2m(平野川西)
今里新道商店街近く:1.6m(平野川東)
大今里1平野川近く:約1m
高井田(旧街道) :2.1m
御厨の辻     :2.6m
外環横断付近   :約2m
菱屋東信号あたり :4.5m
ラグビー場あたり :約5m
箱殿       :19.9m
豊浦       :58m

 今日は上町台地から河内潟跡地を横切ってきたことになります。
恩智川はかなり高いところを流れているようで、もしここから水があふれたら河内平野は大変なことになります。そのためにこの遊水池があるのだと、よく分かります。河内平野に新しく住んだ人は一度見ておくとよいでしょう。古くから住んでいる人は嫌と言うほど水害には苦労しています。

■恩智川 10/16(12:22)
 その恩智川ですが、平常は小川です。生駒山系の水を集めていますが大雨時は山からどんどん流れてきてとんでもない暴れ川になるようです。

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■豊浦まで 10/16(12:43)
 さて、あとは登りばっかりです。このあたり、国道308号はまだ普通の国道です。箱殿を過ぎ、東高野街道も過ぎ、旧街道も吸収してどんどん登ります。近鉄の線路を渡るところに到着しました。
 ここから暗峠への登りが始まります。国道で登るんです。

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そのまえにちょっと道草して枚岡神社に行ってきます。

■枚岡神社布団太鼓 10/16(12:45)
 線路沿いの道を南に下るとすぐ枚岡神社です。ちょうど祭礼の時期でだんじりを見ることができました。いや、「ふとん太鼓」というもののようです。これは初めて見ます。

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■休憩中の布団太鼓

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 氏子が氏神様に豊作と無病息災のお礼をする祭(枚岡では秋郷祭)に布団太鼓が練り歩きます。布団太鼓の役割は神輿渡御のお供や先導、および神前での練りによる奉納等です。これは本体(太鼓台)の上にフトンと呼ばれるものが乗っているのが特徴です。フトンは神様が休むためのものや豊作を願う「田」であるという説もありますが、はっきりとした理由は分かっていません。

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 これは、瀬戸内海沿岸を中心に西日本一帯で多く見られ、2~6名程度の人間が乗り込んで内部の太鼓を叩き、その太鼓の音に合わせて掛け声をかけ、数十人~百人以上で担ぎ上げ、練り歩くきます。フトンの段数、太鼓や掛け声は地方により独特です。
 枚岡では、江戸時代まではだんじりでしたが、明治のはじめ、坂が急峻なため、安全上、布団太鼓に切り替わっていったといいいます。
 神輿は神社の所有物で厳かに執り行われますが、布団太鼓が出る祭は“私祭”で庶民主体の祭りです。普通はご神体は乗りません。地域によってはイベント化したり、華美に走っているところもあるようです。

http://www2.ocn.ne.jp/~tatami/maturi/taikodai.html
http://www.do-natteruno.com/con_c/c15/c15.html

■子供の布団太鼓
 ちょうど昼休みで動いていませんでしたが、小学生がなにかイチビリをやったみたいで、すかさず中学生くらいの女の子から「ちゃんとしいやー、ケガするで」としっかりチェックが入っていました。そうやって先輩から怒られて成長する、それでいいんです。

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■練りが始まる
 ちょうど1時、練りが始まりました。
 フトンの意味は、坂出の例にあるように、木綿の収穫を祝いお礼するという意味でフトンを奉納したという意味はないですかね?それなら神様にお座りくださいということがはじめで、時代が下って本来の意味が忘れられ、イベント化して氏子が乗るようになったとか?そんなことを考えました。

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※神輿とだんじり、太鼓台の比較はここが詳しいです。
http://www.danjiriya.com/business_line/danziri.html
太鼓台について坂出の例:http://www.city.sakaide.lg.jp/kankou/event/taiko/taikokouzou.html

■枚岡神社
 さて、枚岡神社ですが、社伝によれば・・・・
神武天皇東征の砌(紀元前3年;えらく細かい?)、天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で東方山上の神津岳の頂に祖神の天児屋根神、比売神を祀った。その後、白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。

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第一殿に天児屋根大神、第二殿に比売神(天児屋根大神の后神)、第三殿に経津主大神、第四殿に武甕槌大神を祀る。
とありました。

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   神津岳の頂が平らな丘であったことから「平岡(枚岡)」の社名が生まれたといいます。また。神護景雲2年(768年)、奈良に春日大社が創建され、ここの天児屋根大神・比売大神を分祀したことから、元春日社と呼ばれています。ただ、ずっと南の恩智神社でも、天児屋根命を枚岡神社を経て春日大社に祀られるようになったことから、そちらも「元春日」と呼ばれているようです。
 なお、宝亀9年(778年)には春日大社から武甕槌神と経津主神を勧請しています。

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■本殿は右から天児屋根大神、比売大神、武甕槌神、経津主神。順番間違った かも知れません。書いてあったサイトを探しているんですが、二度と見つからなさそうで・・・全部写っていませんが、後日調べたら写るスポットもあるようでした。

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中臣氏の神社ですね。このあたり一帯、物部氏の地盤だと思っていたら違うんですね。元々ここにあったのか、それとも物部氏の没落後新たに入ってきたか?モザイク状に入り組んでいるようですが、真相はよく分かりません。
 ここもいまいち消化不良の神社でした。

■ハケ・ブラシ顕彰碑
 このあと、境内をまわって梅林の方に行きました。山に登っていく途中の道端にこんなものがありました。ハケブラシの業界団体もあるんですね。ハケは奈良朝以前に入ってきて、大阪は全国の大半を製造し輸出もしているとは。日常なにげなく使っていますが、これは知りませんでした。

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■枚岡梅林
 有名な梅林ですが、ここで昼食です。公園みたいになっていて、キティちゃんがいました。この上にはミッキーさんやドナルドもいた。

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枚岡神社には1時間ほどいました。13:40、出発です。


(つづく)

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2009年11月19日 (木)

東の旅1 高麗橋-南生駒(その5)

【菱江-豊浦】  2008年11月14日




■外環陸橋 11/14(14:08)
わざわざ100mほど北にある陸橋を渡ってみました。北側を見ています。こういう風景はどの場所でも見られますね。ビルの看板がなければ没個性でどこか分からない。

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なんでわざわざ陸橋まで行ったかというと、この陸橋の少し南に西からくる道があって、その湾曲具合や沿道の寺社からみて古い街道かなと思っていたからでした。結局、よくわかりませんでした。
またもとの府道に戻ります。このあたりで恒例の徘徊をしましたが、どこをどう通ったのか、もはや記憶にありません。

■南の路地に入る 11/14(14:30)
スズキ自販野横のガソリンスタンドの東から南に入ります。なぜか旧道入口横に空き地がありました。何にも使っていない。

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■八剱神社 11/14(14:32)
 府道・菱屋の信号から少し入った旧街道沿いの静かなところにあります。暗越奈良街道・河内街道の小さな交差点東側になります。この交差点には道標があり、「すぐ 石切 瓢箪山 奈良 左 住道 四条畷」と彫ってありました。

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 八剱神社の案内を見ると
 御祭神:宇賀御魂之神(稲荷の祖神)・味耜高彦根之命(八劔大神)
 境内は古代大和川河口に島があり、その西側に宇賀御魂神を祭祀してあった。
 応永3年(1396)の頃、先住者はこの地で劔を作っていた
 この地は古菱江川を開拓してできた地で菱屋新田という ・・・
 由緒には、
 昔、新羅の僧が熱田宮にあった神剱を盗み、船にて本国に持ち帰る途中、河口にて大嵐にあい神罰と恐れをなして神剱を河中放り逃げ去った
 これをこの地の里人が拾い放出村の阿遅速雄神社おさめ、その後、熱田の宮に帰された
 時は遷り、この地にも神社創建請願の声が高まり、文久2年(1862)放出の阿遅速雄神社の味耜高彦根之命を勧請して八剣神社を祭祀した ・・・・・

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 なるほど、よく錆びなかったもんだと思いますが、草薙の剱としたら、それは大変だ。なかなか由緒のある神社のようです。そういえば、ここは葛城の高鴨神社あたりから発する川が大和川に合流して(大和盆地での話です)、河内へ平野に下り、旧河内潟湖に注ぐ旧河口になる訳です。一本の水路でつながっているので鴨の一族が下ってきたのか?(あるいは逆か?)
 放出の阿遅速雄神社も同じような由緒が書いてありました。放出という地名そのものが、川中に放り出して逃げた地とおいことから付いたのだそうですから。

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 この地が、旧大和川の支流玉櫛川から分かれた菱江川床の付替え工事後、菱屋東新田として開発されたというのも重要です。大和川の付け替えをはじめとする治水工事の結果の大地なんですね。
 鳥居横には道標が三基集められていました。まんなかの道標が読めなかったのですが、なんと瓢箪が彫ってあるのでした。

■菱江交差点 11/14(14:35)
   すぐに府道に合流、というより斜めに横切ります。

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 菱江の交差点ですが、ここは旧東海道で藤枝にはいる前の水守交差点と全く同じでした。旧街道はナナメに横切るというより、旧街道を分断しながら交差点ができている。あそこは間に取り残された△地帯にコンビニが建っていまして、△横の旧道は歩行禁止でした。その点こちらは旧街道もきちんと残っていて△地帯も草ボウボウながら残っています。ここでタバコ休憩しました。

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■菱江に入る 11/14(14:44)、10/16(11:40)
 いい感じのイナカ屋が残っています。空き家のようですが、家の庭だったらしいところは駐車場になっていました。

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■菱江のおかげ燈籠 11/14(14:45)、10/16(11:42)
 まもなく大きなモチノキが見えてきます。
 奈良街道に面して建てられている燈籠は、文政13年(1830年)の伊勢神宮の遷宮が行われた年(おかげ年)に菱江村の人たちによって、参拝記念としてその翌年に建てらたものです。

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その横にはもちの木地蔵と「おかげおどり」の案内板が建っていました。

Mochinoki

 「ええじゃないか」の騒ぎは、慶応3年(1867)7月14日、豊橋・ 牟呂八幡宮で伊勢神宮の神符が降ったのが発端といわれ(牟呂八幡宮留記)、あいついで諸国(東は江戸から東海道、西は安芸国広島・四国にまで)に神符降臨があり、これを契機に民衆は吉兆として喜び「ええじゃないか」を連呼して踊りはじめました。寺社のお札に限らず、仏像、貨幣など多様で、生首、手、足も降ってきたともいいます。

Hishie

 この年の11月9日に大政奉還、これにより、江戸幕府は事実上滅亡。翌年1868年1月3日王政復古の大号令、明治維新となるわけです。これに呼応するよう、この騒ぎは、1868年4月を最後になくなったといわれます。
 なんとも奇妙な現象ですが、昔から「蟻の熊野詣」「おかげ参り」など大衆が熱狂的に日常をほっぽらかして動くことがあり、うちこわしなどとともにそれが極端な形で発現したものではないでしょうか?東国には広まらなかったというのも謎です。

■菱江旧街道出口 11/14(14:48)
  菱江の街道もすぐに府道に吸収されます。出口でふりかえるとこの旧街道もなかなか静かで落ち着けるところでした。表の大通りから少し入っただけでこんなに違うものかといつも思います。

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■おもしろい名前のラーメン屋さん 11/14(15:04)
入ったことはありませんが・・・ま、そんなもんじゃ。

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■花園ラグビー場
花園ラグビー場前までは府道を一直線です。これは10/16の写真です。

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■旧街道 11/14(15:08)
ここの横断歩道橋の横からまた北に入る道があり、そこが旧街道です。新しい住宅、古い住宅が混在しています。

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■こんな古いお屋敷もあります 11/14(15:09)
向かいは小学校のようです。
この先の角を曲ったところに松原の案内板が建っておりました。

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■松原宿 11/14(15:09)
江戸時代には、ここは街道唯一の宿場として栄え、河内屋、奈良屋など16軒の旅篭があって賑わったようです。

 

英田北小学校のサイトには6年生が学区の歴史を調べた結果が載っていました。
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/~school/akadakita-e/1,0,18.html
・ここは「くらがり松原」とよばれていた。由来は、松原を東西に通じる街道が、くらがり越え奈良街道といわれていたため。
・「水走」と書いて、「みずはや」と呼ばれる土豪がいました。平安時代の1144年に、水走季忠(みずはやすえただ)が、湖沼にそった現在の東大阪市水走から、旧吉田川の流れにそった有福名(ゆうふくのみょう)という土地を開発して、私領としました
「みずはい」でなく「みずはや」であることは初めて知りました。地名は「みずはい」
・今からおよそ300年前まで、校区の中に、大和川の支流「吉田川」が流れていました。大きな川で、今でもその跡が残っています。

 調べた生徒の感想として、「ぼくは、いままでぼくらが住んでいる地域には何にもないと思っていた。でも、水走氏を調べて、この地域にも、広いりょう地をおさめて、力をもった人がいたので、びっくりしました。きかいがあれば、いろんな人に教えてあげたいし、これからも調べていきたいです」
 十分教えてもらってますよ。
 なお、職員室の下には、今でも深さ1m程の水がたまっている、ということも書かれていました。これにはビックリ。まさに河内湖(潟)の名残ですなあ。

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 まっすぐ行ったところが枡形のようになっていて、道標があります。ここを右折して淨栄寺の前を通ります。

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■恩智川を渡る 11/14(15:24)
坂を少し登って恩智川にかかる橋を渡ります。これは振り返り写真。なかなかよい街道だと思います。

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■地蔵堂 11/14(15:24)
 橋を渡ると祠が見えてきます。お地蔵さんが安置されているようです。旧街道はその横の路地を入っていくようです。このあたりから工場街のなかを歩きます。

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■外環を越える 11/14(15:27)
  まっすぐ入っていくと外環状線に突き当たります。東高野街道はもう少し先です。陸橋を渡りますが、下をみるとトンネルもありました。陸橋の上から振り返った写真と、陸橋から横と前方の写真を載せておきます。

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■宝町 11/14(15:30)
橋をわたっても少しの間工場街が続きますが。まもなく住宅街になります。ここは宝町というようですが、なかなか好い名前です。落ち着いた住宅街になっています。ゆっくりした登りです。

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■宝箱 11/14(15:32)
今度は宝箱ですか。なかなか好い名前です。枚岡神社はふとん太鼓のだんじりが有名ですが、そのだんじり庫なのか。道はかなり登りになってきます。

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それにしても宝町といい、宝箱といい、どういう由来を持つのか?少し調べてみましたが、それらしい記事はありませんでした。
また祠が出てきました。旧街道の西が宝町、東が新町というようです。

■箱殿交差点 11/14(15:37)
やっと箱殿です。ここで府道170号(新)東高野街道と合流します。
旧東高野街道はもう少し先です。

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■東高野街道 11/14(15:39)
東高野街道との交点は五叉路になっています。枚岡神社は右ですが、旧街道はまっすぐ登ります。10月16日は右をとりましたが、今回はまっすぐ行きます。ここには祠と道標が建っていました。

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■伸線工場 11/14(15:40)
枚岡は伸線工場が多いところです。もっと平野のほうにあるんだと思っていたら、だいぶ山に近いところにまであるんですね。△屋根の古い工場もあります。木壁がなかなかこなれた味を出していて、周囲の環境とマッチしていているようです。このあたりはかなりの坂道です。

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■祠 11/14(15:48)
あいかわらず登っていきます。祠もあちこちにあります。

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2枚目の写真のところあたりで右折すると細いみちで有名な暗越の国道308号に突き当たります。そこには常夜燈があるはずですが、本日11/14は行きません。まっすぐ行って額田の駅にむかいます。

 レポートは再度花園ラグビー場までもどって、10/16の分を書いてみます。

(つづく)

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東の旅1 高麗橋-南生駒(その4)

【長堂-意岐部】 2008年10月16日 長堂-意岐部
        2008年10月20日 長堂-御厨  
        2008年11月14日 御厨-意岐部

 ここから先は東大阪市です。長堂から意岐部までをまとめてみますが、府道枚岡線を北に行ったり南に行ったりでややこしいです。


■長堂一丁目付近 10/20(15:48)
 府道脇にも大きな蔵があります。しっくいに焼杉は関西の特徴かと思います。西のほうはあまり知りませんけど。

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■高井田入口 10/20(15:52)
  布施柳通の交差点でナナメ前(北)の細道に入ります。左手は高井田、右に行けば布施です。2回目で分かりました。

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細道に入ったところには道標(歌碑)がありました。弥々子って誰やねん?
生活道路、通学道路ですね。

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■市立産業技術支援センター 10/20(15:56)
どんどん入っていくと町工場の間にありました。東大阪の中小企業の技術を支援するセンターになっているようです。

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■おおさか東線ガード 10/20(16:01)
いったん突き当たってすぐに線路をくぐる道がありました。この線ができてから東大阪や八尾など南河内に行くのはかなり便利になりました。

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■新喜多新田 10/20(16:06)
  長瀬川(というより水路)を渡ります。このあたり新喜多新田で、大和川付け替えによって鴻池家の新七がプロジェクトリーダーになって、鴻池新十郎、喜七、今木屋多兵衛らが新田を開発したものです。それで新喜多となっているのか。京橋にも新喜多町というのがありましたが、そこまで広がっていたのか な?と思います。

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解説板によると、新田は放出あたりまで続いていて、長瀬川沿いに道も整備されています。放出停車場まで八丁という道標も建っていました。

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■玉出スーパー 10/20(16:12)
なおも細い道が続いていて、小阪北口のところで府道枚岡線に合流します。どうだ!と言わんばかりの看板です。大阪ならではのインパクト。最初に見たときにはパチンコ屋かと思いました。

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■御厨南に入る 11/14(13:41)

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  この先のNTT前で旧街道は府道の南に入っていきます。が、5~6分ほどで府道を横切ることになります。

■御厨の辻 11/14(13:49)
府道を渡って細いみちを入っていくと御厨の辻に行きます。

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御厨の辻はボクが勝手に呼んでいるものですが、お地蔵さん、緑青張りの家、行者堂、大峰登山三十三度供養碑、御厨の文明開化説明板などが集まっていて、地域のセンターみたいになっているところです。

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街道を歩いていると、こういう場所があります。地域のお知らせや予定表がはってあったり、山車、だんじり、屋台などの倉庫があったりします。だいたいはきれいに掃除してあります。この様子でそのコミュニティのまとまりがわかるというものです。ここからすぐ西には法観寺や天神社もあります。

御厨という地名の由来は、朝廷にお供えする魚介類を獲るため、平安時 代の延喜5年(905)、付近に拡がる湖沼一帯を「大江御厨」と定めたことによるそうです。それより早く、文武天皇が吉野に行幸された時、当地から供膳されたのでこの名を賜ったといい、あるいは孝謙上皇が重祚した後の称徳天皇が河内国に由義宮を造って、西京とされたとき、御厨を設置された所ともいいます。

Annai


■天神社 10/16(11:00)、10/20(16:22)

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気になって2回も行きました。2回も行った割りには不消化ですが・・・

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大阪府神社庁では「あまつかむやしろ」とありますが、由緒では「てんじんじゃ」です。ご祭神は、大名持命と少彦名命。創始はいつの時代か不明ですが、古くは意岐部神社、または御厨神社と呼ばれていて、現在の社名は近世に改称したものです。境内の樟は市の天然記念物になっています。また、大きなだんじり小屋もありました。

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天神社の北を敷地といい、昔に大伽藍があった遺跡と言われています。

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最初、この前を通る道が旧街道かと思っていてだいぶうろうろしましたが違うようでした。しかし風情は旧街道そのものです。

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■植田家住宅 11/14(13:53)
辻から少し東に行くと古風な建物があります。江戸時代には街道を通る大名の休息所として使用されたといいます。母屋は江戸時代後期の貴重な民家として昭和52年、市の文化財に指定されました。
この先の府道を渡ってさら行きます。

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■新家 11/14(13:55)
まもなく第二寝屋川の橋を渡ります。いかにも人工の川というネーミングです。橋の先は二又になっていますが、左を行きます。ま、右でも一緒ですが、なんとなく街道としては不自然。

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■なにげなく残された歩道 11/14(13:59)
元あった街道横の土地が駐車場になってしまい、歩道が取ってつけられたような感じの風景です。
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すぐそばにある路地もそうですが、街道筋に家が建ち並び周囲は田んぼで、境界に畦道があって、工場が建つにあたって、そこが路地や歩道になったような気配です。
なぜかこういうのが気になるのです。路地のある生活って楽しいだろうなと思います。

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ここでまた府道に合流します。

(つづく)

【本日のマップ】

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2009年11月17日 (火)

東の旅1 高麗橋-南生駒(その3のリベンジ)

【玉造-深江稲荷】 2008年10月20日


 10月16日のウォークは商店街はおもしろかったですが、あまりにも旧街道と離れていたので再度歩きなおしました。

■暗越奈良街道道標 (15:07)
 まずはココからです。案内板のアップも上げておきます。

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古代に開かれた平城京への道、秀吉、秀長の大和支配の道、芭蕉の最後の旅、おかげ参りの道と、歴史的な道であったと書かれています。

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■正しい旧街道(15:08)
暗越奈良街道は、ここから南へ行きます。
いかにも旧街道らしいカーブです。

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■東成警察署前(15:09)
えらく引っ込んだところにあるもんです。

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■暗越奈良街道の案内版(15:13)
  すぐに今里筋とあたります。これを越えたところに大きな案内版がありました。尼ヶ辻 追分、春日大社 三條通りの案内板もあります。

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■今里新道商店街入口(15:15)
大接近します。ちょっとのぞいてみました。やはり人出は少ないです。

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■旧街道の街並み
  道幅がぐっと狭くなり、街並みも古色を帯びてきます。なかなかの落ち着きを見せています。
契沖は妙法寺住職をしていたようです。

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■熊野大神宮(15:23)
旧大今里村の氏神で、由緒書きによると、創立年代は1400年以上前になり詳らかではないが、「用明天皇2年、厩戸皇子が四天王寺を浪速玉造の岸に創立せられたとき、拾弐坊の伽藍を建立せられ、当社社務を司らしめられました」とあります。熊野との関係はよく分かりません。

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■火袋式道標(15:26)
大今里4丁目の旧街道と府道枚岡線(24号)の交差する所に「左いせ、なら」と記された道標があります。元々東20mくらいのところにあったものですが、移動されました。上部を四角にくりぬいて火袋(ひぶくろ)とし、上に笠をのせた珍しい道標です。文化3年(1806)に建てられました。右 八尾、志ぎさん、久宝寺までは読めますが、あとが分かりません、

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■府道(24号)枚岡線
ここからは府道歩きになります。コクヨの本社はココです。100年の老舗です。

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■旧街道分岐(15:40)
内環状線新深江を過ぎると府道は左に曲りますが、まっすぐ入っていく小さい道があります。これが旧街道のようです。

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  旧街道らしく小さな祠があります。結構新しいもののようです。すぐに商店街にあたり、大通りにでます。想像ですが、旧街道はまっすぐ行っていたようですが、住宅が建っています。

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■ここから東大阪市(15:41)
この信号から先が東大阪長堂になります。ここの左手を入っていくと深江稲荷の参道が左にあります。

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 これにて大阪市内のリベンジ完了です。

(つづく)

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東の旅1 高麗橋-南生駒(3)

【玉造-深江稲荷】 2008年10月16日、10月20日


  

【玉造~玉津橋界隈】
 さて、いよいよ玉造からお伊勢参りのスタートですが、本来は玉造稲荷神社でお祓いを受けてからスタートするようです。どこにあるかというと、かなり離れていました。むしろ森ノ宮のほうが近い。といことで、まだ行っていません、そのうちに。
 玉造から東へ長掘通を進みます。玉造駅すぐ東には「二軒茶屋跡・石橋跡」の石碑もありましたが、写真を撮るのを忘れました。
ますやよしべえ、つるやひでじろう、という二軒の茶屋があったことから、この名が付いたと記されていました。これもそのうちに。

■玉造路地 10/20(14:58)
 玉造駅すぐ東に2本の道をやり過ごしたところに路地の入口があります。ここが旧街道のようです。分かりにくいので最初は見落とし、2回目に歩きました。ものの数分、いや1~2分で終ってしまいます。

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ここの出口をまっすぐ、長掘通を突っ切って街道は進みます。

■玉津橋 10/16(9:09)、10/20(15:03)
 橋の手前だったか?高麗橋起点1里の地に、暗越奈良街道の道標がありましたが、写真ボケてました。ここを渡ってすぐ右折するのが「東の旅」奈良街道です。が、いきなり間違い、まっ過ぐ行ってしまいました。

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■2回目で修復です 10/20(15:04)
玉津橋を渡ってすぐ右の道をに入ったところです。

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■暗越奈良街道の道標 10/16(9:20)、10/20(15:07)
   歯医者さんの前に道標兼案内碑がありました。またここで間違いまして、2回目でリベンジします。旧街道は、変形四つ辻になっているここから、さらに南へぐいっと下がります。最初行ったのは、すなおにまっ過ぐ。

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【長ーーーーい商店街】 10/16(9:23-9:40)
 先に間違いの方を紹介します。トータルするととてつもなく長い商店街で、違う名前の商店街が次々に現れます。1kmちょっとあるでしょうか?天神橋筋には負けますが、それだけの集客力がある(あった?)のだと思います。地図で見てみると、近くにスーパーはあるが、でかいショッピングセンターはないようです。車にのらないオバチャン達が集まるのでしょうか。すごいもんでした。

■今里新道商店街  10/16(9:24)
 まだ朝早いのでちょっと寂しいです。魚屋さんは早くも開店です。

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■今里一番街  10/16(9:28)
 今里新道と連続なのか別なのかよく分かりませんでした。

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■神路しんみち 10/16(9:30)
 「かみじ」でしょうね。しんみちしんみちかな?かなが振ってあるかなと思いましたが・・・

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■堤防のペイント 10/16(9:34)
 神路しんみちを抜けると小さな川(水路?)がありまして、橋を渡った堤防のコンクリートにはペインティングがありました。玉造名所 石橋・二軒茶屋 も書いてありました。とりあえずこれで代用させていただきます。

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■まだ神路しんみち? 10/16(9:37)
 終りと思ったらまだ続いていました。アーケードはここで終りです。
違う名前なのかな?神路●通

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■新深江商店街 10/16(9:38)
 終ったと思ったら、まだ商店街は続きます。
ここからはアーケードがありません。

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 なかなか大阪の下町らしいよろしい商店街でしたけれど、やっぱり食堂か何かにはいってみんとあかんのやね。

【笠の町】
 内環状線を渡って、まだ行きますが、さすがに心配になってきて位置確認のため大通りにでてまいりました。読み通り、すぐに深江稲荷のようです。

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 近くをきょろきょろしておりますと、「昭和帽子」とか「笠野産業」とかいう会社もありました。この帽子屋さんが今だ一軒残るという笠屋さんなのか?この路地みたいな所にあったような気がします。
安心して、大通りで喫茶店を探して休憩しました。

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■深江稲荷 10/16(10:20)
   先程の商店街のつづきの道から少し入ったところにありました。

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なるほど、「深江菅笠ゆかりの地」と「摂津笠縫邑跡」の石標が建っておりました。
 大阪市(東成区)のサイトでは、
http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000000322.html
昔はこの附近一帯は“笠縫島”と呼ばれ、笠を縫うことを職業とした笠縫氏の一族が、大和の笠縫邑から良質の菅の生い繁った深江の地に集団移住したと伝えられ、その歴史は2000年程になります。
 古くは全戸が笠造りに従事し、明治初年には外国へも輸出され、歴代天皇の御即位式や、伊勢神宮の20年一度の式年遷宮に用いられる儀式用の大きな菅笠は、代々この地から調達されました。江戸時代中期頃から、伊勢参りが盛んとなり、一般道中用の菅笠が世に知られ、現在深江稲荷神社内が「笠縫邑跡」として大阪府史跡に指定されています。

「名前は深江笠でもその実浅ぁい笠を一かいずつも買い求めますといぅと(ツ・ポポ・ポン)・・・」と世紀末亭さんには書いてました。

■鋳物御租社 10/16(10:20)
 古事記に登場する天津麻羅をお祀りしていました。
須佐之男命の乱暴の怒った天照大御神が天岩屋に身を隠したとき、八百万の神が集まって考えたのには「天安河の河上の堅い岩を取り、天の金山の鉄を取って、鍛人天津麻羅を探して、伊斯許理度売命に命じて鏡をつくらせ・・・」とあります。

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 また、『先代旧事本紀』の天孫降臨の段では、「倭の鍛師(かなち)等の祖、天津真浦(あまつまうら)」が天降ったとか、「物部造等の祖、天津麻良(あまつまら)、阿刀造等の祖、天麻良(あめのまら)」とかあって(読んでないですが)、神の名ではなく鍛人(またはその祖神)の総称であったとする説や「マラ」は蒙古語の鉄の意であるとする説があります。

大阪市(東成区)のサイトには
http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000000300.html
往古、深江に移り住んだ笠縫氏の祖先は、代々、皇祖の御神鏡を守護したと伝えられています。深江稲荷神社に天津麻羅大神という鋳物氏の守り神がまつられていることからも分かるように、深江は古くから鋳物とかかわりが深い土地であったと思われます。

 鏡と笠。そういえば、浅ぁい笠は鏡と似ていなくもない。
 いずれにせよ、このあたりに鍛人の集団がきていたか、技術伝承を受けた工人達が住んでいたのと思われます。このすぐ東の高井田から先あたりが金属加工業の町というのはこの伝統があってのことかも分かりません。
 大阪では、河内鋳物師は松原、堺が有名ですが、交野市・森、柏原市・大県には朝鮮半島から伝わったという説のある古墳時代の鍛冶炉が発掘されています。

(つづく)

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東の旅1 高麗橋-南生駒(その2)

【安堂寺橋-玉造】 2008年10月16日


   

■まずは安堂寺橋(7:40)
まだ朝早いのでブルーっぽいです。通勤が始まっています。
安堂寺橋は安曇寺(あんどんじ)がなまったものらしく日本書紀・孝徳天皇の条に書かれているといいますから、そうとう古いです。当時は景勝の地だったらしい。ここには船着き場があって諸国からの荷物が上げ下げされていたんやそうです。また身投げの名所(身投げに名所もおかしいが)でもあったんということでした。 P1020676


■松屋町筋(7:42)
「まっちゃまち」筋を横切ります。人形のお店がたくさんあります。早くも通勤。家をでたのか、家からついたのか?
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■内安堂寺通り
・・・になるんですかね?商売人の朝は早い。
この先、谷町筋を越したところでコーヒーが飲みたくなって喫茶店に入りました。モーニングで賑わっていました。

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■難波宮跡(8:36)
  もう道草です。ロクに地図を見ていないので住宅街でちょっとうろうろしましたが、北側から入りました。結構広いですね。

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Nambakyu

都心にこういうなにもない(遺跡はあるが)エアポケットみたいな空間も必要です。あえてうめつくす必要はない。
北西は大阪歴史博物館、NHK、官庁街。北東には大坂城とOPBのビルかな?P1020687

■なんとかいう劇団のテント
出し物は忘れましたが、ちょっとおどろおどろしい名前があったような気がする。見にくる人はいるんでしょうか?劇団の人も起きだしてきたところです。P1020688

■朝の散歩コースになっています(8:41)。
こういうだだっ広いところは好きです。今日は好いお天気です。P1020689

■坂を降りる(8:47)
難波宮はちょっと高いところにあるのが分かりました。
上町という名前があります。上町台地の突端でしょうか。東は法円坂、南には清水谷とか空堀町という名前があるとおりでした。P1020691

(つづく)

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東の旅1 高麗橋-南生駒

2008年10月 8日 高麗橋-安堂寺橋
  高麗橋-安堂寺橋


2008年10月16日 安堂寺橋-南生駒
  安堂寺橋-玉造l
  玉造-深江稲荷
  長堂-意岐部 
  花園-枚岡     
  暗越          
  暗越-南生駒  


2008年10月20日 玉造-御厨

  玉造-深江稲荷
  玉造-深江稲荷(リベンジ)
  長堂-御厨   


2008年11月14日 小阪-額田

  御厨-意岐部 
  菱江-豊浦 





 もう20年にもなりますか。テレビで枝雀寄席というのがあって、おなじみの喜六、清八が旅に出る噺がありました。多分枝雀さんがしゃべったのだと記憶しています。
 道中、イナカ道のどこかの煮売屋で、調子のよい2人は主人をおちょくり倒して、最後は「じきさめ」という銘酒(迷酒?)で逆におちょくられるハメになるんですが、その煮売屋のあるイナカ道の情景がいかにも「ほわぁーーん」と、のんびりしていて、それはどんなとこやろ?と興味が湧いてきたのでした。その噺が「東の旅」で、お伊勢参りの旅シリーズの最初の噺でした。

 お伊勢参りは、京都からですと、東海道経由で関から、津-松阪-伊勢に向かう道や、伊賀街道を通って松阪-伊勢に向かう道があり、大阪からは、暗峠や竹内峠を越え、初瀬街道を通った後、伊勢表街道または伊勢本街道を通る道があります。
 東の旅シリーズの噺をざっと読んでみたんですが、安堂寺橋から始まり玉造、暗越奈良街道を通って奈良、榛原追分、三本松、鹿高(かだか、今の名張市にある)、明星(三重県明和町)を通っているようです。榛原追分で右行くと山で険しいので左に行ったとも書いてありましたので、近鉄に沿って(というのはおかしいが)伊勢表街道を通ったのでしょう。

 ま、そんな先の話はともかく、第1話・発端の旅の話は、暗越奈良街道を通って奈良を過ぎたお昼ころまでというイメージです。ということは、煮売り屋は天理を越えて巻向あたりまで来たときの話なのか?まずは歩いてみて煮売り屋がどんなところにあるのか見てみましょう。

 さて、一度、南生駒まで歩いてみて、旧街道はズタズタでした。結局古い道をさがしさがし、玉造から豊浦までは2回(部分的には3回)歩きましたので、地図をつくりながらご紹介します。結局伊勢まで行けるんだろうか?

参考文献:
「集成!読む上方落語 460演目」世紀末亭さん
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakugo51.htm

「米朝ばなし 上方落語地図」桂米朝 講談社文庫



【高麗橋-安堂寺橋】 2008年10月 8日   
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 大阪なら街道歩きは高麗橋からスタートしないと始まらないということで、今回は高麗橋から安堂寺橋まで歩いてみます。何かの用事で久しぶりに大阪に出たので、夕方、北浜から歩いてみました。プレ東の旅ということで。

■東横堀川水門
まずはここから。大阪に居て、まだ行ったこともない、まあそんなところです。東横堀川は大坂城の堀として作られたものです。これから東は城の内で、内ナントカという地名も多いです。平野町に対して内平野町、本町に対して内本町とか・・・
向うに見える橋が高麗橋。橋を渡ったところに里程標があるはずです。

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■里程標
里程標はだいたい高速道路の下ですな(厳密には横ですけど)。お江戸でもそうでした。
北浜から歩いてきて高麗橋界隈はビジネス街。えらく古い商家、年季の入ったビルに思い切り新しいタワービルが雑然としています。風情は今となってはあまりスマートではない。ま、大阪らしいところですけど。
ここから東横堀川に沿って南下します。

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■東横堀川沿いのビジネス街
・・・というより、商売人の街です。まだ5時前なのでみんな仕事をしています。今日の後始末や明日の準備などで商用車が出たり入ったり。ふらふらしていると迷惑なので、足早に通り過ぎました。川向こうは備後町のあたり。

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■こんなところに西鶴文学碑

日本永代蔵の一節がきざんでありました。こんなものがあるとは知らなかった。東横堀川は阪神高速が走っています。
マイドームおおさか横(毎度生むか?毎度ドームか?)

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■なんの神社かと思ったら生國魂神社でした

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え?こんなとこでした??
調べてみると生國魂神社行宮というか、天王寺区谷九の本社を分祀しているのでした。ごうごうと音を立てて車が流れる中央大通りのすぐそばにあって、小さな神社がなんだかひっそり鎮座していました。

■農人橋歩道橋
ここを渡ってもうすぐ安堂寺橋と思ってましたが、どんどん歩いて、気がつけば千日前通りまで行ってしまった。農人橋までは、橋をその都度チェックしていたんですけど忘れてしまった。

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 ・・・ということで、いきなり終点を間違ってしまいました。どうもしまらないプロローグです。昔よく来た日本橋から地下鉄に乗って帰りました。恵美須町まで行く元気はもうありません。

【東の旅1マップ】

より大きな地図で 東の旅 を表示

(つづく)

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