【菱江-豊浦】 2008年11月14日
■外環陸橋 11/14(14:08)
わざわざ100mほど北にある陸橋を渡ってみました。北側を見ています。こういう風景はどの場所でも見られますね。ビルの看板がなければ没個性でどこか分からない。
なんでわざわざ陸橋まで行ったかというと、この陸橋の少し南に西からくる道があって、その湾曲具合や沿道の寺社からみて古い街道かなと思っていたからでした。結局、よくわかりませんでした。
またもとの府道に戻ります。このあたりで恒例の徘徊をしましたが、どこをどう通ったのか、もはや記憶にありません。
■南の路地に入る 11/14(14:30)
スズキ自販野横のガソリンスタンドの東から南に入ります。なぜか旧道入口横に空き地がありました。何にも使っていない。
■八剱神社 11/14(14:32)
府道・菱屋の信号から少し入った旧街道沿いの静かなところにあります。暗越奈良街道・河内街道の小さな交差点東側になります。この交差点には道標があり、「すぐ 石切 瓢箪山 奈良 左 住道 四条畷」と彫ってありました。
八剱神社の案内を見ると
御祭神:宇賀御魂之神(稲荷の祖神)・味耜高彦根之命(八劔大神)
境内は古代大和川河口に島があり、その西側に宇賀御魂神を祭祀してあった。
応永3年(1396)の頃、先住者はこの地で劔を作っていた
この地は古菱江川を開拓してできた地で菱屋新田という ・・・
由緒には、
昔、新羅の僧が熱田宮にあった神剱を盗み、船にて本国に持ち帰る途中、河口にて大嵐にあい神罰と恐れをなして神剱を河中放り逃げ去った
これをこの地の里人が拾い放出村の阿遅速雄神社おさめ、その後、熱田の宮に帰された
時は遷り、この地にも神社創建請願の声が高まり、文久2年(1862)放出の阿遅速雄神社の味耜高彦根之命を勧請して八剣神社を祭祀した ・・・・・
なるほど、よく錆びなかったもんだと思いますが、草薙の剱としたら、それは大変だ。なかなか由緒のある神社のようです。そういえば、ここは葛城の高鴨神社あたりから発する川が大和川に合流して(大和盆地での話です)、河内へ平野に下り、旧河内潟湖に注ぐ旧河口になる訳です。一本の水路でつながっているので鴨の一族が下ってきたのか?(あるいは逆か?)
放出の阿遅速雄神社も同じような由緒が書いてありました。放出という地名そのものが、川中に放り出して逃げた地とおいことから付いたのだそうですから。
この地が、旧大和川の支流玉櫛川から分かれた菱江川床の付替え工事後、菱屋東新田として開発されたというのも重要です。大和川の付け替えをはじめとする治水工事の結果の大地なんですね。
鳥居横には道標が三基集められていました。まんなかの道標が読めなかったのですが、なんと瓢箪が彫ってあるのでした。
■菱江交差点 11/14(14:35)
すぐに府道に合流、というより斜めに横切ります。
菱江の交差点ですが、ここは旧東海道で藤枝にはいる前の水守交差点と全く同じでした。旧街道はナナメに横切るというより、旧街道を分断しながら交差点ができている。あそこは間に取り残された△地帯にコンビニが建っていまして、△横の旧道は歩行禁止でした。その点こちらは旧街道もきちんと残っていて△地帯も草ボウボウながら残っています。ここでタバコ休憩しました。
■菱江に入る 11/14(14:44)、10/16(11:40)
いい感じのイナカ屋が残っています。空き家のようですが、家の庭だったらしいところは駐車場になっていました。
■菱江のおかげ燈籠 11/14(14:45)、10/16(11:42)
まもなく大きなモチノキが見えてきます。
奈良街道に面して建てられている燈籠は、文政13年(1830年)の伊勢神宮の遷宮が行われた年(おかげ年)に菱江村の人たちによって、参拝記念としてその翌年に建てらたものです。
その横にはもちの木地蔵と「おかげおどり」の案内板が建っていました。
「ええじゃないか」の騒ぎは、慶応3年(1867)7月14日、豊橋・ 牟呂八幡宮で伊勢神宮の神符が降ったのが発端といわれ(牟呂八幡宮留記)、あいついで諸国(東は江戸から東海道、西は安芸国広島・四国にまで)に神符降臨があり、これを契機に民衆は吉兆として喜び「ええじゃないか」を連呼して踊りはじめました。寺社のお札に限らず、仏像、貨幣など多様で、生首、手、足も降ってきたともいいます。
この年の11月9日に大政奉還、これにより、江戸幕府は事実上滅亡。翌年1868年1月3日王政復古の大号令、明治維新となるわけです。これに呼応するよう、この騒ぎは、1868年4月を最後になくなったといわれます。
なんとも奇妙な現象ですが、昔から「蟻の熊野詣」「おかげ参り」など大衆が熱狂的に日常をほっぽらかして動くことがあり、うちこわしなどとともにそれが極端な形で発現したものではないでしょうか?東国には広まらなかったというのも謎です。
■菱江旧街道出口 11/14(14:48)
菱江の街道もすぐに府道に吸収されます。出口でふりかえるとこの旧街道もなかなか静かで落ち着けるところでした。表の大通りから少し入っただけでこんなに違うものかといつも思います。
■おもしろい名前のラーメン屋さん 11/14(15:04)
入ったことはありませんが・・・ま、そんなもんじゃ。
■花園ラグビー場
花園ラグビー場前までは府道を一直線です。これは10/16の写真です。
■旧街道 11/14(15:08)
ここの横断歩道橋の横からまた北に入る道があり、そこが旧街道です。新しい住宅、古い住宅が混在しています。
■こんな古いお屋敷もあります 11/14(15:09)
向かいは小学校のようです。
この先の角を曲ったところに松原の案内板が建っておりました。
■松原宿 11/14(15:09)
江戸時代には、ここは街道唯一の宿場として栄え、河内屋、奈良屋など16軒の旅篭があって賑わったようです。
英田北小学校のサイトには6年生が学区の歴史を調べた結果が載っていました。
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/~school/akadakita-e/1,0,18.html
・ここは「くらがり松原」とよばれていた。由来は、松原を東西に通じる街道が、くらがり越え奈良街道といわれていたため。
・「水走」と書いて、「みずはや」と呼ばれる土豪がいました。平安時代の1144年に、水走季忠(みずはやすえただ)が、湖沼にそった現在の東大阪市水走から、旧吉田川の流れにそった有福名(ゆうふくのみょう)という土地を開発して、私領としました
「みずはい」でなく「みずはや」であることは初めて知りました。地名は「みずはい」
・今からおよそ300年前まで、校区の中に、大和川の支流「吉田川」が流れていました。大きな川で、今でもその跡が残っています。
調べた生徒の感想として、「ぼくは、いままでぼくらが住んでいる地域には何にもないと思っていた。でも、水走氏を調べて、この地域にも、広いりょう地をおさめて、力をもった人がいたので、びっくりしました。きかいがあれば、いろんな人に教えてあげたいし、これからも調べていきたいです」
十分教えてもらってますよ。
なお、職員室の下には、今でも深さ1m程の水がたまっている、ということも書かれていました。これにはビックリ。まさに河内湖(潟)の名残ですなあ。

まっすぐ行ったところが枡形のようになっていて、道標があります。ここを右折して淨栄寺の前を通ります。
■恩智川を渡る 11/14(15:24)
坂を少し登って恩智川にかかる橋を渡ります。これは振り返り写真。なかなかよい街道だと思います。
■地蔵堂 11/14(15:24)
橋を渡ると祠が見えてきます。お地蔵さんが安置されているようです。旧街道はその横の路地を入っていくようです。このあたりから工場街のなかを歩きます。
■外環を越える 11/14(15:27)
まっすぐ入っていくと外環状線に突き当たります。東高野街道はもう少し先です。陸橋を渡りますが、下をみるとトンネルもありました。陸橋の上から振り返った写真と、陸橋から横と前方の写真を載せておきます。
■宝町 11/14(15:30)
橋をわたっても少しの間工場街が続きますが。まもなく住宅街になります。ここは宝町というようですが、なかなか好い名前です。落ち着いた住宅街になっています。ゆっくりした登りです。
■宝箱 11/14(15:32)
今度は宝箱ですか。なかなか好い名前です。枚岡神社はふとん太鼓のだんじりが有名ですが、そのだんじり庫なのか。道はかなり登りになってきます。
それにしても宝町といい、宝箱といい、どういう由来を持つのか?少し調べてみましたが、それらしい記事はありませんでした。
また祠が出てきました。旧街道の西が宝町、東が新町というようです。
■箱殿交差点 11/14(15:37)
やっと箱殿です。ここで府道170号(新)東高野街道と合流します。
旧東高野街道はもう少し先です。
■東高野街道 11/14(15:39)
東高野街道との交点は五叉路になっています。枚岡神社は右ですが、旧街道はまっすぐ登ります。10月16日は右をとりましたが、今回はまっすぐ行きます。ここには祠と道標が建っていました。
■伸線工場 11/14(15:40)
枚岡は伸線工場が多いところです。もっと平野のほうにあるんだと思っていたら、だいぶ山に近いところにまであるんですね。△屋根の古い工場もあります。木壁がなかなかこなれた味を出していて、周囲の環境とマッチしていているようです。このあたりはかなりの坂道です。
■祠 11/14(15:48)
あいかわらず登っていきます。祠もあちこちにあります。
2枚目の写真のところあたりで右折すると細いみちで有名な暗越の国道308号に突き当たります。そこには常夜燈があるはずですが、本日11/14は行きません。まっすぐ行って額田の駅にむかいます。
レポートは再度花園ラグビー場までもどって、10/16の分を書いてみます。
(つづく)