2013年9月9日
宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。
■あの角を曲れば茨木街道は終点
■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道」
背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。
■街道筋の景観
なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf
一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

■立派に熟れた家、熟れすぎかも

■勝尾寺川にあたります

■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

■橋は巡礼橋

■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

■振り返ると豊かな田んぼ

■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。
すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html
そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に
なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地
方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」
この地域も、こういうことなのかな?
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