2015年6月 6日 (土)

■いまだ越えず丹波越え(4)久多谷を歩く

2015年5月29日

 久多谷もずっと昔に通っているはずなのだが、今はどうなっているか?近江の針畑谷と国境尾根を隔てて良く似た環境にあると思うが、針畑谷は谷は長いがバスが通る。こちらの久多谷は谷は針畑谷より短いがバスがない。小入谷や生杉あたりは新しい住人も入っているようで希望が持てたが、空き家も目立った。こちらはどうなのか、関心がある。

サイズ変更R0012248rr
◆久多の大杉(下流側から)

ただいまブログ再編中につき、本文はこちらを参照ください。

続きを読む "■いまだ越えず丹波越え(4)久多谷を歩く"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月 2日 (土)

■鯖だけではなかった鯖の道

2015年4月26~28日



 「京は遠ても十八里」
 若狭・小浜商人の余裕さえ感じられる言葉だが、一介のウォーカーにとっては「72kmは遠いわ!」
 小浜から京まで、一塩した鯖を背たろうて、一昼夜で(仮眠はするにしても)駆け抜けるのだからあきれてしまう。
 久しぶりの街道歩きであるが、こちらはそんなことは考えずに2~3日で歩こうと思う。
 コースは数ある鯖の道のなかで、小浜-遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷-桑原―丹波越-三国岳-久多―オグロ坂-八丁平-尾越-大見-大見尾根-花背峠-鞍馬-出町の最も?正統的なコースである。
ただし、
1)小浜-遠敷はちょっと省略、
2)丹波越からクラ谷下りは道が不明なので、三国岳に迂回する、
3)鞍馬-出町は通しでなく別途あるく。
こんなヤワな条件つきとする。

◆GoogleMap 手動で拡大縮小してください

 10年近く前から温めてきた企画であるが、延ばし延ばしで今になった。最近、『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著 を読んで、やっぱり歩いてみないと・・・と思った次第なのだ。

P1050222cut
◆根来越(針畑越)
おかしい!ちゃんと画像ファイルは指定アドレスにおさまっているはずなのに表示されない。あらたにアップロードしようとしてもできない。

 さらに・・・・
1)根来峠は行ったことはあるが小浜側からの峠越えはしていないので通しで歩く、
2)八丁平、峰床山は行ったがオグロ坂は登っていないので登ってみる(踏破後調べると、登っていた!、おまけに三国岳も登っていた!)、
3)道中、生杉、久多、尾越など懐かしい名前が出てくるので、各地の今を体感したい、ということを目的とした。
 計画の過程でいろいろ調べていると「丹波越」というのがどうもよくわからない。峠までは道があるが、久多側に降りる道が判然とせず、「中腹に広い水平道が現われるが、ある地点で忽然と消えてしまう」ので、皆さん古道探しにやっきになっている。これはおもしろい。さらに、丹波越を越えてもやっぱりそこは愛宕(おたぎ)郡で山城ではないのか?愛宕郡は丹波なの?。丹波越えの尾根を越えたところが丹波だとしたら、その北にある三国岳とはなんの三国境?疑問点満載であり、そこを歩くのがおもしろいのだ。
 実を言うと、心配事がある。数日前から右足のつけ根が何かの表示にキクッとして力が入らないことがある。昨年、足がつって(しびれて)小辺路を初日でリタイアしたという前科がある。これが再発したら厳しい峠越えは無理だ。その場合は、丹波越え、三国岳は省略して、遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷-桑原-久多下の町―オグロ坂-八丁平-尾越-大見-大見尾根-花背峠-鞍馬とし、途中でのエスケープも考える。

こういうことでいざ出発

その前に参考文献(WEBも含む)をあげておく。
1)『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著
2)京都北部の山々、金久昌業 著、創元社 昭和48年3月10日発行 初版
3)近江の峠、伏木貞三 著、白河書院 昭和47年4月10日発行 初版
4)大文字を食べる;http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/folder/1205420.html?m=l

■7回シリーズ
1.遠敷谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-192.html
2.根来里:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-193.html
3.針畑越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-194.html
4.針畑越下り:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-195.html
5.針畑谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-196.html
6:オグロ坂越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-197.html
7.大見尾根:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-198.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年9月21日 (土)

道祖本街道をあるく 粟生間谷

2013年9月9日



 田んぼの中の道に入った頃から箕面市です。すでに粟生間谷に入っています。
 粟生・間谷(あお・またに)と切るんでしょうね。粟生は、アワフ だったのでしょう。それが、アワオ→アオ になった。神戸にある胡麻生(ゴマフ)がゴモウ(今は、五毛と書く)になったのと一緒。
  古代、三島県(あがた)があり、そこに宿久郷粟生野と呼ばれる地がありました。ここは粟の採れる野であったのです。今でこそ水田が広がっていますが、その 昔は粟畠が広がる土地だったのでしょう。粟飯は食べたことがありませんが、子供のころ、小さな畠で粟を作っているのを見たことはあります(その頃は麦飯が 普通だった。)
 粟については、森浩一さんの「日本の深層文化」ではその重要性が指摘されています。
・スサノヲに殺されたオホゲツヒメの耳から粟が、目から稲が生まれた(古事記)
・新嘗祭のニイナメは「新粟嘗」で粟だった(常陸風土記)
・元正天皇は「陸田の利」「粟は最も精好」として、作付けを奨励した(続日本紀)
・粟で租を納めた。稲2斗、大麦1斗5升に対して粟は1斗のレート(賦役令)
・一段(991平米)の粟で夫婦2人が1年食える(江戸時代・宮崎安貞・農業全書)
粟は由緒正しき有用な作物でした。
 間谷の由来についてはよくわかりませんが、http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/46 では、引用ながら、「この地区は昔、黄銅鉱が掘られていて、間谷の「間」は、坑道をさす「間歩」(まぶ)からついたのではないでしょうか」と書かれています。

■今の粟生間谷

P1260975

 粟生間谷の他には、粟生外院、粟生新家、粟生岩阪があります。山中の岩阪を別にして、粟生野は100m位の丘陵地で稲よりも粟の方が作付けに適していたのだと思います。ため池を作るまでは、林を伐り野を焼いて粟を作っていた。間谷を中心に、川筋で水を容易に得られる場所には稲を作った。粟生間谷の地をそのように理解しました。

■旧街道へ
田んぼの道が終り、橋と府道を渡って旧街道へ入ります。

P1260982

■昔ながらの街道風景

P1260984

■斬新!
下から撮り上げてみたいですが、よそのお宅をジロジロ見るのも・・・
これは素敵。

P1260986

■山之口の石仏群
小さな橋を渡ると、「大峯山上三十五度 」供養碑と道標、地蔵が集められています。

P1260987

双体地蔵もあります。道祖神?右端は庚申塚らしいです。青面金剛と彫ってある。青面金剛は享保8年(1723)、道しるべは文化15年(1810)に建立されたものという。

http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

P1260989

■道間違い
地蔵さまの辻を写真左に行くのが正解ですが、間違えて次の道を入ったらこうなりました。府道との辻に地蔵堂があるのですが、この道はこれでおもしろい。

P1260995

■粟生間谷の交差点(π型)
いきなり街に出た感じがします。ここを右に行くとバス停とかスーパーがあって、ちょっとした街の中心地です。ここはポケットパークみたいになっていて、休憩可能。

P1260999

■街道の農家
先程の交差点を左(西)に入ります。強烈な西日で写真を撮り直しました。

P1270001_2

P1270067_2







■中村の六字名号碑
巨大な石碑は六字名号碑というのだそうです。大きな邸宅のまん前に建っていますので写真撮るのも気がひける。側面に、嘉永五子年九月建立 と彫ってある。http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

P1270064

P1270065

 

P1270005

右上の写真を拡大すると「十」とだけ見えて(小さすぎて見えません)、大半は埋まっている標石があります。丁石だと言われている。あるいは、「十兵衛道」と彫ってあるのかも知れません。この巡礼道は十兵衛道とも言われていました。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

■天満宮
椋が立派です。

P1270007

P1270008

■天満宮から下を見ています
ゆるやかな坂を登ってきた。いい感じの道です。

P1270061

■神社の上の角に立っていたお地蔵さん

P1270058

■府道を横切ります、新旧混淆の街道筋

P1270010

新築の家があり、田んぼもある。粟生間谷の良さもまだ残されている。すき間があるのがよろしい。このすき間が家で埋めつくされたら、都会でもない、かといってイナカでもないという粟生間谷の街の良さが失われてしまう気がする。住民の方もそれは望まないだろう。山や野をリセットして作るニュータウンとは違う街づくりをしてほしいと思いますが、ディベロッパーはそうはしないんだろうなあ。

P1270017

■楠木神社
 粟生間谷の奥の集落の氏神ですが、天照皇太神宮が祀られています。明治に素盞鳴尊神社に合祀されましたが、戦後再びここに戻ってきました。住民の信仰生活を無視するような明治の神社統合は無理だったんでしょう。楠木神社なのに大きな椋があります。

P1270023

P1270020

■再び分離
街道はいったん府道に吸収されますが、すぐに分離。

P1270031

■西田橋
街道はまたすぐに府道にあたりました。橋は西田橋で、渡って振り返り写真を撮っています。とりあえず、ここで道祖本街道は終ります。

P1270034

■ここからは山に分け入る
巡礼道は十兵衛道になりますが、ここが廃道化しています。しかし箕面観光ボランティアガイドの方々が調査、復元されています。ぜひここを登ってみたい。しかし、夏場はブッシュが酷そうなので冬までお預けとします。年を越して春先の方がよいかも知れない。楽しみです。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

P1270036

■おもしろそうな建物、なんでしょう

P1270044

バスは出たとこでした。次の時刻を調べると、40分ほどあります。待っていても仕方がないので、歩いて粟生間谷もバス停まで下ります。そちらの方が本数はありそうなので。

■五字神社
途中、五字神社がありました。はて、外院の勝尾寺表参道付近にもあったと思いきや、そちらは「ごじじんじゃ」、こちらは「ごあざじんじゃ」と言うのだそうです。しかし、ご祭神はどちらも同じ八意思兼命(やごろもおもいかねのみこと)。知恵の神様です。オモイカネの神社は初めてです。

P1270083

猫が寝ています。細目でじっと睨んだだけで逃げません。

P1270076

P1270071

 

今さら智恵と言われても、とは思いましたが、お参りはしておきました。

P1270077

 ちょっと急ぎ足でしたが、粟生間谷の底力を少し感じられたよいウォークになったと思います。また来たい。

(終り)

より大きな地図で 茨木街道 を表示

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日


 宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。

■あの角を曲れば茨木街道は終点P1260842

■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道

背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
      奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

P1260845

■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

P1260848

椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。

P1260850

■街道筋の景観
 なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf

 一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
 街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
 早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

P1260861

■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

P1260856

花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

P1260854

これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

P1260855

実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

P1260858

■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

P1260862

奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

P1260863

この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

P1260864

■立派に熟れた家、熟れすぎかも

P1260868

■勝尾寺川にあたります

P1260869

■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

P1260873

P1260875

■橋は巡礼橋

P1260885

■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

P1260890

■振り返ると豊かな田んぼ

P1260887

■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

P1260894

謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

P1260896r

格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

P1260898

■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

P1260904

この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。

 すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
 この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html

 そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地 方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」  この地域も、こういうことなのかな?

より大きな地図で 茨木街道 を表示

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年9月15日 (日)

茨木街道をあるく 溝咋神社

2013年9月6日


 また道草です。堤防を下って溝咋神社に行ってみます。

■五十鈴で安威川にかかる橋
堤防上の道では横断できませんでした。引き返して石段を下りて、道の下をくぐります。旧街道は、階段のところから路地に入るという話もあります。

R1246336

■溝咋神社

R1246340

 溝咋氏というのがよく分かりませんが、彼らがこの土地に居住して祭祀をしていたと思われます。
 溝咋氏は、溝咋から水田に水を誘導する溝の側の杭とする説から、土木技術で低湿地を開発した人々という説があります。溝咋の咋は「くう」で、「くう」は鳥が巣を構えるの、構えるという意味があるので、単純に、溝を掘って人々が住める土地を拓いたと理解します。たしかにこの地は、淀川のような大河の傍ではないものの、少し上流で安威川と茨木川が合流するための低湿地で、まずは溝を作らないと作物ができない、住めない土地だったのでしょう。
http://www.osaka-museum.com/comm/comm.html?id=1032
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-mizokui.html

 話はまったく変わりますが、下が公式サイトです。サイトのできばえは問題にはしないですが、ホームページ本文を隠してしまう広告はいかがなものかと。表示しないように設定はできるようですが、いちいちログインしないといけない。だんだんド厚かましくなってくる広告手法。
http://www.geocities.jp/mizokuijinja/

■神門というのか
なかなか重厚です。

R1246341

■由緒書きが読めませんが、

R1246342

社頭掲示によると・・・・・
「延喜式の古社であって、祭神は、姫踏鞴五十鈴姫命、溝咋玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。
日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。
元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保二年「一七四二」、地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。」
 第10代崇神(すじん)天皇のころの創始とされていますが、記紀の時代より相当昔、ヤマト建国に近い昔ということなのでしょう。

■本殿への道

R1246344

■拝殿です
厳重ですね。本殿も拝殿に連結され、屋根しか見えません。

R1246345

■神婚説話
 祭神の一柱、ヒメタタライスズヒメ命は、後に神武天皇正妃になりますが、記紀の有名な説話には・・・・
○古事記・神武天皇段
 三島溝咋の娘・セヤタタラヒメが厠に入っているとき、ヒメを見染めた三輪のオオモノヌシが丹塗矢と化して、下からヒメのホトを突いた(犯罪だあ!)。驚いたヒメはその矢を床の辺に置いていたら壮夫となった。二人の間に生まれた御子をホトタタライイススキヒメ、亦の名をヒメタタライスケヨリヒメという。さらに、正妃を求めていたカムヤマトイワレヒコ(神武)が、ヒメタタライススケヨリヒメが神の子であると聞いて喜び、ヒメを娶り正妃とした。
○日本書紀・神代紀
 大三輪の神の御子は賀茂君・大三輪の君またヒメタタライスズヒメである。
 また曰く、コトシロヌシが八尋熊鰐と化して、三島のミゾクイヒメ亦の名・タマクシヒメの処へ通われ、ヒメタタライスズヒメが生まれた。これが神武天皇の后である。

 典型的な朱塗矢型神婚説話ですが、書紀のコトシロヌシがヒメタタライスズヒメの父神とみるのが一般になっています。コトシロヌシは葛城を本拠とする鴨(賀茂)氏が奉斎する神なので、当地に進出した鴨氏と溝咋一族との交流(鴨氏が溝咋一族を傘下におさめた)、さらに鴨氏もヤマト王家に服属したのを神話的に言っているのでしょう。
下記が非常に参考になります。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/01/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2010/12/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2008/11/post-4e2c.html

■事代主神社
コトシロヌシは当社摂社に祀られていますし、近くにコトシロヌシを祭神とする三島鴨神社がありました。鴨についていえば、北約3kmに鴨神社、その辺りに鴨村・鴨林などの小字名があり、一帯は鴨氏の地盤だったのでしょう。

R1246357

■タタラ
ヒメタタライスズヒメの「踏鞴」が気になりますが、南茨木の東奈良では、弥生時代2ー3世紀の大規模環濠集落・東奈良遺蹟が見つかっていて、わが国最大級の銅鐸製作地であったことが分かっています。これをもって、溝咋一族はタタラ製作に関係する技術集団だったといえるのかどうか?
摂社の事代主神社には、事代主命の他に、カグツチの神が祀られています。踏鞴と結びつけてよいのかどうか?

阿遇突知神 (カクツチノカミ)    火の神
沖津彦神 (オキツヒコノカミ)     かまどの神
沖津比賣神 (オキツヒメノカミ)    かまどの神
弥都波能賣神(ミズバノメノカミ)   水分の神
波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)  陶磁器の神
波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)  陶磁土の神

■摂社に陶磁器や陶土の神、波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)、波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)が祀られているので、陶器生産にも活躍したのかも知れません。
ここで、陶器生産ということで、陶津耳命を持ってきたい気はしますが、甚だ悩ましいことになります。
「カモ系図考察」http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html によると、
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-生玉兄日子(鴨県主、賀茂県主祖)
となっていて、陶津耳命=(三島溝杭耳命)=(建角身命)という案があるのです。
そうなると、下記の年表で、先着の鴨氏(建角身命;山城鴨系)に三島溝咋耳(建角身命)が合流するという変なことになります。まあ、先着の鴨氏が拡大したと理解したら同じことか。

■鴨の矛盾をはらみながら、この地の支配集団まとめ
--------------------------------------------------------------------------------
弥生時代中:大規模環濠集落・東奈良遺蹟等、わが国最大級の銅鐸
                  製作集団
3~4世紀 :鴨氏が当地に進出、内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定
                   着し、鴨神社を創建。溝咋氏が安威川周辺に入植・開発
                   し、溝咋神社創建。(崇神期)
      後に鴨氏が溝咋一族を傘下に<=ここがおかしくなる
4世紀末   :ヤマト王権に鴨氏(事代主神系)が服属(応神期)
      仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に
                       三島神社創建(淀川右岸)
5世紀    :御島氏が勢力拡大し三島県主、先住の鴨族と共生した
                       が、鴨氏は衰退
7~8世紀   :三島氏が伊予三島と伊豆に「三島大社」を起し、三三島
                      として崇敬
--------------------------------------------------------------------------------
各神社の由緒を第一義に参考にし、文献により修正しています。そもそも年代はよくわからない時代なので、ものすごく大まかにはこんなことがあったのでしょう、という程度。
以後は、摂津北部は中臣氏の地盤になるのか?

■手力雄神社
手力雄神(タチカラオノカミ)を祀っています。力の神。この神を祀っているのは初めて見ました。

R1246358

■天照皇大神社(左)と保食神(右)
なかよく並んで建っています。

R1246352

 なにか釈然としない気分のまま旧街道にもどります。その前に、五十鈴のコンビニで休憩。

■力石
200kgだそうです!

R1246369

場所は浄福寺分院のなかです

R1246370

■府道に出てきました。
ここは見覚えがあります。クルマでよく通ったところ。

R1246371

■よくわからない階段
もとからあった階段を無視して造成したか。

R1246373

■旧道が分岐します

R1246374

■バス道を横切ります。
しばらく住宅街を通って、バス道に合流し、末広町でまた旧道が分岐します。
右端は外国人のおっさんですが、クルマがどんどん来ているのに、のんびりと急ぐ様子でもなく平気で渡っていきました。大阪人もビックリ!

R1246375

■旧道をあるきます
しばらく歩くと阪急電車のガードをくぐり、いよいよセントラル茨木

R1246377



より大きな地図で 茨木街道 を表示

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年9月14日 (土)

茨木街道をあるく 玉川-鮎川

2013年9月6日


 さて、先に進みます。

■唐崎西の信号を渡ってクリーンセンター横の道を行きます。

R1246278

R1246279

■番田水路(井路)に当たります
番田水路は、慶安4(1651)年、高槻藩が芥川左岸、番田の悪水を、芥川をくぐって(川底の下を木管で横断させた)、柱本に至る番田井路を開削しました。
その後、元禄13年(1700年)から、川村瑞賢の監督で、西に延長開削、番田から芝生・玉川・安威川を経て神崎川へ至る経路が完成しました。

R1246285

カルガモかな。毛繕いをしています。ドジ踏んでボチャンと川に落ちるやつもいた。

R1246290

■番田水路左岸堤防は親水公園になっていました

R1246295

■玉川の里は卯の花の里
平安時代から古歌の歌枕となっていました。風流な里です。

R1246315

R1246297

■卯の花もいいけどサクラもよさそう

R1246299

R1246305

あちこちにベンチもこしらえてあります。玉川マダムの4人組がお弁当していました。

■旧街道の跡
ここに橋があって、茨木街道が通っていたらしい。

R1246304

■西に向かいます
いったん玉川橋までもどって府道を行きます。

R1246319

■まっすぐ
府道はカーブしますが、旧街道はまっすぐのはずです。

R1246322

■早速道間違い
路地を入ってすぐ右でしたが、まっすぐ行ってしまいました。そのままにします。R1246324

■鮎川交差点

R1246328

■旧道の方に行ってみました

R1246329

ここを右から来るのが旧道のようです。

R1246331

■先鉾橋を渡る
川は安威川です。北側の北摂の山々を望む

R1246334

川は開放的でいいですね。


             

より大きな地図で 茨木街道 を表示

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年9月12日 (木)

茨木街道をあるく 唐崎散歩

2013年9月3日
2013年9月6日

 

茨木街道に復帰して唐崎に入ります。

■芥川右岸堤防から下ります

P1260585

ちゃんと階段を付けてある。正規の街道に近いところです。

P1260587

街道に入ったところにあるお地蔵さま。鍵もかかっていないようだし、戸を開けて写せばよかった。

P1260588

どこをどう通ったのか?

P1260589

こちらはバス道に突き当たった。

P1260590

水路に沿って歩いた記憶もある。街道とは違うなあ。

P1260591

ここは正規の街道のようです。

P1260593

9月3日は、バス道に出たところで大雨に逢い、退散したのでした。バス1台をやり過ごして待機はしたのですが、雨は全然止まない。

P1260595


より大きな地図で 茨木街道 を表示


■高槻街道支線から入る
段倉(だんくら)を見に行きました。たびたび淀川の洪水の被害にあっていた地区では敷地をかさ上げして倉が建っています。段倉考については後程。
遠すぎてよく見えませんが、2m位はあるか。

P1260646

北向地蔵尊
梅田の紀伊国屋書店近く、三番街の南側にあるし、昔、住んでいた京都は伏見区竹田の散歩コースには北向山のお不動さんというのがあって、普通にみていたのでよくあるものだと思っていましたら、北向地蔵さんは珍しいんだとか。なんでも全国で400体くらいしかないのだそうです。 http://kita-ku.jugem.jp/?eid=24

P1260656

街道筋。同じところを通っているような気がする

P1260667

■バス道の南にいってみます
立派な地蔵堂。唐崎南之口地蔵堂といいます。

P1260672

R1246269

地蔵菩薩

「左手に宝珠、右手に錫杖を持って
千葉の青蓮華に安住する」御姿の
地蔵菩薩が。六道の辻に立って、地
獄に落ちかかる者の手を引いて救い
あげてくれるという信仰が印度から
中国を経て日本で盛んになったのは
平安時代のことです。
 後、日本古来の境の神、道祖神
とも結びつき、村々の境や辻に
地蔵堂が建てられ、旅行安全、
厄除け、特に子供と縁の深い御仏
として人々に親しまれるようになりました

格子の間から覗いてみましたら、眉毛濃!!どことなくアチラ風のお化粧です。

R1246268

地蔵堂の前には、これは大きな石燈篭
お花講中 昭和二年四月 と彫ってあります。これはボクの見た石燈篭で最高かもしれない。お花講というのは、花飾りで寺社に奉仕する講だと思いますが、どこの寺社へなのかは分かりません。

P1260669

唐崎神社
明治41年に三島江の三島鴨神社に若宮を合祀されましたので、正確には三島鴨神社の遥拝所となっています。鳥居がありませんね。

R1246262

バス道に戻ります。JAの角に道標がありました。
北面  (直?) 三島江 鳥飼 
     (右?) 茨木 吹田 大阪
西面  (右?) 三島江 鳥飼 味舌 柴島
     (左?) 大塚 枚方
南面   直   大塚 枚方 
     (左?) 茨木 吹田 大阪
東面  明治四十三年六月 此所三箇牧 大(阪府)

( ?)は削られて不明。上記のように補充したら、この場所では合うのではなかろうか。方角が削ってあるところを見ると、よそから持ってきたのか?パズルです。

R1246272

バス道を西に向かいます。振り向くと左手に「石田梅岩 母たね 生誕地」という新しい石標が建っていました。

R1246276

(つづく)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

茨木街道をあるく 道草編 (5)番田~唐崎過所浜

 今回は番田から唐崎過所浜経由、唐崎に向かいます。まだ道草が続きます。

9月3日は唐崎・街道筋にて集中豪雨に逢い、降雨コールドとしました。
9月6日に再開、番田から郡まで歩きましたが、茨木の春日通りでスマホの電池切れ。以後当てずっぽうで歩きはしましたが迷走です。大まかには街道ルートは行けていましたが・・・
9月9日リベンジ:茨木から箕面・奥の道祖本街道終点まで歩きました。最後のほうでスマホ電池切れを起こしましたが、地図は印刷してあったので。3回分まとめて整理します。

  スマホは歩数計オン、GPSオンで、Googlemapでルートを確認しながら歩きますが、負荷も電池も食うやろな、と思いつつ、これがマイスタイルなので。だいたい5時間で強制シャットダウンとなります。本格的にウォークをやると10時間くらいはかかるので、あまりカスタマイズはしていませんが、何もしなくても10時間くらいはがんばってほしいのだが。スマホの機能と電池性能がアンバランス、スマホがチャラいソフト満載のPCみたいになっていて、そのアプリが電気や金を食うものばかり、というのが原因と思われます。スマホもまだまだやね。今度はアプリを徹底的に切って、スカスカにして歩いてみたいと思います。

 

■番田にて

番田バス停から入っていきます。竹の内小学校5年で持っている田んぼ。元気に育っていますが、事あるごとに見てほしいね。田植えと稲刈りだけだったりして・・・

P1260600

番田の村

P1260602

番田神社はエントランスのリニューアル中。この地のはやりかどうか知りませんが、鉄骨を組んで提灯スタンドの建設中でした。塗装仕上げなのでもうすぐ完成か。由緒看板も新設されたようです。

P1260603

淀川堤防から番田を望む。前と同じアングル!

P1260605

芥川河口から鷺打橋

P1260513

堤防から淀川河川敷を望む
ほんの少し前まで(昭和55年頃)、ここに牧場があったようです。
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

平安時代には、この付近から摂津市鳥飼の付近までに近都牧(きんとまき)が設けられ、諸国から京に納めるべく集めた牛馬を一時的に飼育されていました。後に、これを上・中・下の三つに分けたことから「三箇牧」の地名が生まれたとされています。三島江のあたりに、三箇牧の地名が学校名として残っています。

P1260624


■唐崎過所浜

 唐崎過書浜はこのあたり。前に見える道が、旧芥川堤防らしい。

 古代に唐船が停泊した、あるいは大陸からの渡来人がこの地に住んだことから「唐崎」という地名がついたと云われています。江戸時代には三島江浜とともに淀川の主要な河港でした。

P1260630

旧堤防を少し行ったところに案内板があります。

P1260633

P1260636

当時の淀川は、京・大坂を結ぶ交通の要路として幕府から通航を許可された過書船が旅人や物資をのせて行き来していました。唐崎浜は北摂の酒米や煙草、酒、 寒天などを積み出す一方、肥料や天草、木材などを荷揚げし、「富田の外港」と呼ばれ、浜には荷受問屋の蔵が建ち並び時には百石積みの帆前船が発着するなど 大いに栄えたそうです。

ふりかえると淀川堤防。今歩いている道は「高槻街道支線」で高槻城下まで行くようです。途中の芝生から、道祖本街道も始まります。

P1260637

旧堤防道から下りてみました。港の村らしくお地蔵さんかなにかの祠があります。

P1260642

土取りされて低くなったとはいえ、旧堤防はかなりの高さがあります。

P1260640

 



より大きな地図で 茨木街道 を表示

| | コメント (0) | トラックバック (0)

茨木街道をあるく 道草編 (4) 淀川河川敷の不思議

2013年9月3日


 来しなの堤防あるきがよかったので、河川敷に下りて歩いてみました。

■あそこから下りられるようです
土手にはマコモが咲いています。

R1246134

■これはなんでしょう?
堤防の土手にあった気になった花。花の後がまんまるになっています。

R1246112

R1246107

これが花のようです。オトコエシに似ている。

R1246135

花が終ると花序の小さな枝がまるまって、さらに大きな枝がまるまってくる。
縦じまのアカスジカメムシが取りついています。

R1246145

葉っぱはオトコエシではないなあ。ノコギリソウとも違う。

R1246126

タネが実ってくると、再び開くのか?タネが実る過程で何か保護をしているのか?

R1246160

最後までよくわからない花でした。

■河川敷の堤防側
クズが支配しています。

R1246174

■ノイバラ

R1246154


R1246148

実は赤くなるのかと思ったら、そのまま枯れてしまうのでした

R1246151

■おなじみヘクソカズラ

R1246204

■ツキミソウ

R1246201

■川側を見てみます

R1246195

森になっています。入っていけそうにない。

R1246192

■キリ
あれはつぼみなのか?

R1246213

■林縁にはいろんな秋の花が咲いています
ヤブカラシ

R1246097

白いコマツナギ?

R1246189

キンミズヒキはもっと小さく清楚なんですが、よくわかりません

R1246179

R1246183

何かに寄生している植物と書いていましたが、そのソースを見失いました。

R1246186

ここの河川敷はすばらしいです。四季を通じていろんな植物が観察できます。場所あるいか樹を決めて、定点観測していくとおもしろそうです。

このあと、唐崎の街道に復帰しますが、それはページを改めて。

(終り)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

茨木街道をあるく 道草編 (3) 三島鴨神社

2013年9月3日


 ちょうどお昼になったんですが、お茶もパンも用意していない。ぺットボトルの自販機はありますが、コンビニがない。コンビニ探しで延々とあるきました。
ともかくも、三島鴨神社です。

■三島鴨神社鳥居
鳥居は阪神大震災で崩壊し、新たに建てられたものです。

P1260566

■拝殿の前に鉄製の提灯かけが作ってあって、これが大型で邪魔。

P1260551

 ご祭神は大山祇神、事代主神。ご由緒を見ると、相当こまかく書いてあります。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/rekishi.html

「創建は、4世紀中葉、仁徳天皇が河内の茨田の堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、百済よりここ摂津の「御島」に、大山祇神をお迎えになりました。(一部略)」
大山祇神を祀る土木工事の技術者集団を呼んだというような書きぶりです。(淀川鎮守のやしろをつくるに当り、唐崎のあたりにいた物部の韓国連が協力した、と書いてあります。両者、茨田堤の造成にかかわったのでしょうか?))

「御島とは淀川の三島江にある川中島のことで、古代の玉川湖沼(仮称)が淀川にながれこむ入江「玉江」(三島江の別称)にあ って、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので、「御島」とあがめられたのです。淀川の鎮守であるとともに、農耕を守り王都難波を守護する神として、祈りつづけられてまいりました。」
当時の想像地図が公式ホームページに載っています。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/tamagawakosyou/tamagawakosyou.html

この地図を見ていると、当社はもとは御島社で、三島鴨神社はもっと内陸の赤大路、太田茶臼山古墳の近くになります。いろいろ調べるとやっかいなことで、摂津国嶋下郡の延喜式内社がよく分からなくなっていて、その後継社候補にここの三島鴨神社と赤大路の三島鴨神社(現在は鴨神社)とが議論になっているのだそうです(論社という)。両社がケンカしている訳ではありません。

 赤大路の鴨神社の由緒もしっかり踏み込んで書かれてあります。
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja02.html
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja03.html
http://kamojinja.web.fc2.com/100719.html

 両社の関係を時代を追って整理してみると、要は・・・・・

1)凡そ3世紀のころ:内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定着し、鴨神社を創建。祭神はカモノタケツヌミノミコト、イザナギ・イザナミノミコト、大山積命
2)4世紀中葉:仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に三島神社創建
3)5世紀ころ:御島氏が勢力拡大し三島県主となり、先住の鴨族と共生する時代があった。しかし、鴨氏は衰退し、赤大路の三島鴨神社も三島氏が統合支配するようになった(上の宮と下の宮の関係)。6世紀、継体大王以後は三島氏の勢力が大。
4)7~8世紀中葉:三島氏が予大三島に「三島大社」を勧請し(百済との海上交易を深めるため)、伊豆の「三島大社」をも起し、日本三三島として崇敬されはじめる。
5)10世紀:「延喜式神名帳」に式内社「摂津の国嶋下郡の三島鴨神社」と記載され、長らく摂津の国の氏神として崇敬される。
6)15世紀後半:応仁の乱で社殿が消失、再建されないままになり、後年、「鴨神社」に戻った。
7)1598年(慶長3) :豊臣秀吉の命により淀川右岸の堤防がつくられ、三島神社は川中島から三島江村内に遷される
8)1697年(元禄10):高槻藩主の尽力で三島神社が延喜式内社三島鴨神社と改称。

詳細は三島鴨神社の年表参照ください。

 三島江の三島鴨神社のご祭神は、大山祇神、事代主神。一方、赤大路の鴨神社のご祭神は、大山積命、カモノタケツヌミノミコトで、どうもタケツヌミというのが気になります。賀茂朝臣系(葛城賀茂)のコトシロヌシであれば、上記、三島県主と鴨族との共生関係があったということから、理解しやすいのですが?それとも、別れた時に、それぞれ別のカモの神にしたのか、8)の段階でコトシロヌシを勝手に付け加えたのでしょうか?そんなあんまりな。

■本殿

P1260553

■本殿は垣根の扉が開いていて直接お参りできるようになっています

P1260561

■三社神社

P1260545

左から、武甕槌神(大将軍社)、市杵島媛神(厳島神社)、奥津彦神 奥津比売神(竃神社)
中臣氏はいつごろから入ってきたのでしょう?

■八幡宮
明治41年(1908)に西面にあった八幡宮を三島鴨神社に遷し合併奉祭したという。

P1260547

國廣大明神
明治41年(1908)、柱本にあった稲荷社と天神社を合祀し、國廣大明神として合併奉祭したもの。

P1260548

■唐崎神社
明治41年(1908)、唐崎にあった唐崎神社を三島鴨神社に遷し合併奉祭した。唐崎の神社跡には遥拝所があります。

P1260556

大山祇神(三島鴨神社若宮)、天児屋根神(春日神社)、菅原道真公(天神社)の三祭神。
新しいうしさんと旧いうしさんがいます。P1260555

秋祭りの写真等をみていると、盛大で本格的なものです。近隣の人も楽しみにしているのでしょう。神社を中心に、共同体がしっかり生きている感じを受けます。

■さて三島江を退散します。

P1260568

■一天にわかにかき曇り・・・
堤防まで上がってきた段階で、西の方は空模様がちょっとヤバい状態です。

P1260577

■対岸の出口側を望む
東は大丈夫ですが・・・そうこうしているうちに降り出しました。あわてて神社横のバス停に戻りました。バスは出たところで、30分待ち。迷っているうちに雨が止みました。

P1260580

■三箇牧小学校
午後は休みなのか、サッカーしています。

P1260582

 


より大きな地図で 茨木街道 を表示

| | コメント (0) | トラックバック (0)