街ブラ

2013年9月15日 (日)

茨木街道をあるく Deep Ibaraki

2013年9月6日
2013年9月9日


 茨木の中心部をあるきます。迷走です。
 茨木中心部は何度もクルマで通りました。えらくごちゃごちゃしているところやなあ、というのが感想ですが、これでは良さを理解したことにはならない。歩いてみるべきです。しかし、歩いてはみたものの、まだ核心には迫っていない。まだ街道あるきのスタンスが抜けていないようです。お店に入ったり、食堂や喫茶店に入ったり、飲み屋に入ったりするのがベストなんですが・・・それはまた来てみましょ。

■宮元町界隈
路地に入るとまだまだ旧い家が

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どなたかのサイトでもみた記憶があります。

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■本町ROSE街
一番の繁華街、というかオバチャンの街やね

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■アーケードの商店街を突き抜け
茨木神社にやって参りました。東門。この東門は茨木城の搦手門といわれ、1617年(元和3年)茨木城廃城の際にこの地に移築されました。

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■拝殿
結構な人がお参りに来ています。若い人が多い。

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 大同2年(807年)、坂上田村磨が荊切の里(いばら・荊を切ったのでそこが茨木になった)を作った際、天石門別神社が創建されたのが始まるといいます。当時は、宮元町に鎮座していたが、楠正成が茨木城を築くに当たって現在の位置へ遷座したらしい。
 社伝によると、高槻城高山右近が、織田信長にならって神社仏閣を焼却するに際し、信長が天照大御神、春日大神、八幡大神及び 牛頭天皇(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからずとしたので(風評?)、自衛のため、天石門別神社は社名を隠し「牛頭天王社」と号して焼却を免れたと伝えられています。
 元和8年(1622年)には社殿を新築すると共に、従来の天石門別神社を奥宮とし、素戔嗚尊を本殿に遷して本社としました。しかし、実際には牛頭天王が防疫神として庶民に崇め信じられていたことがあったと思います。
従って、御祭神は建速素盞嗚尊。誉田別命と天児屋根命が配祀されています。

■天石門別神社
由緒を見るまで何の神社かと思っていました。かつての主神殿。
ご祭神は、天手力男命で、天宇受売命(アメノウズメノミコト)と 豊国神・東照神が配祀されています。   

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■元茨木川・高橋
元茨木川緑地は1949年に廃川になった茨木川の旧河道を利用して緑地公園に整備されました。現在64歳。元は安威川と茨木川の合流点より少し上から、茨木中心街を通って、摂津あたり三宅村で安威川に戻っていましたが、緑地公園は沢良宜あたりまで続いています。全長5km。元茨木川は天井川で、堤防が軟弱なため洪水にあうと破堤崩壊して、たびたび濁流はんらんの災害を起こしてきました。歴史に残る仕事をされたと思います。
桜の咲く頃にバイクで付近を通りましたが、それはしれは見事な桜並木でした。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/motoibarakikawa-hi-hasiato.htm

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■茨木童子
大江山の酒呑童子の副将ですね。ワルだけどかわいいヤツです。
http://www.ibaraki-kankou.or.jp/douji/
http://www.1134.com/ibaraki/01douji1.html
http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/densetu/index.html

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http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/ibaraki.htm
私も茨木市に敬意を表します。

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■JRの線路をくぐったあと

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■春日商店街
このあたりでスマホの電池切れ。問答無用でシャットダウンしました。さて困った、記憶に頼るしかありませんが、そんなに覚えてないぞ。

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 結局、9月6日は西穂積あたりを迷走して、迷走した割にはちゃんと旧街道に入り、郡神社付近でまた迷走。道祖本街道は確認、おもしろい段蔵を見つけました。郡からバスで帰還。
 9月9日は茨木出発で再チャレンジします。

■ここから入ってみます
枝切街道が分岐する反対側(北側)

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■これはなんや?6角柱
右側面に天保元年と彫ってあります。手前には何かの絵。

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■ぬりこめ道標
北東角に半分壁に塗りこめられた道標があります。る
南面 右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻
西面 左 妙見山 亀山中山勝尾寺

ここは「茨木街道支線」の起点で、今回は北にこの支線をあるきます。

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■茨木城址によってみます
城址といっても復元櫓門があるだけで、敷地は茨木小学校になっています。

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■上泉町界隈
えらく細い道があったり、ビオトープがあったり

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■丹波橋の遺構
元茨木川には丹波橋がかかっていました。

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■元茨木川緑地
さすがに涼しいです。なので休憩。

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■JR東海道線が見えてきました

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普通のレンガのトンネルを再利用したものでした。

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■春日界隈
住宅街が続きます。

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■何か道標がありますが、読めません
ここでオーバーランしましたが、復帰。

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■倍賀春日神社
へかかすがじんじゃ は祭神は春日神社らしく、天児屋根命。

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往古は高良社または高良神社と称していたので、祭神が代わったのかもしれません。
高良社といえば、石清水八幡宮の摂社高良社は土着の産土神で川原神を祀っていると言われています。この高良社は吉田兼好の徒然草で、仁和寺の法師が八幡宮と間違えて満足して帰り、「・・・先達はあらまほしきかな」と結ばれた、あの神社です。また、八幡系の高良明神 の場合もあるとされています。倍賀春日神社の場合どうなのか分かりません。

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■国の重要文化財 石燈籠
昭和38年に指定。 敬白 高良社 石燈爐 延慶二八月日紀口弘 の刻銘があり、鎌倉時代のものとされています。

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■社務所ですが・・・
旧拝殿か本殿の再利用のようで、こちらの方が風格あったりします。

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■府道に当たりました。
よく見慣れた風景で、今回は順調です

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(つづく)

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2013年9月13日 (金)

茨木街道をあるく 唐崎段蔵


 淀川流域など洪水の頻発した所では、洪水や湿気から家を守るために敷地を盛土し、その上にさらに嵩上げした台地に蔵を建てる対策が行われてきました。これは他の地方では水屋(濃尾平野で)とか水塚(みつか、利根川流域で)等と呼ばれていまする。巨椋池周辺では「水屋」、「段倉造り」と呼ばれ、高槻や寝屋川では「段蔵」と呼ばれているようです。そこに、米、味噌や重要な家財を収納するとともに、洪水時の避難場所も兼ね、なかには座敷をもつものもあったといいます。

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 唐崎の段蔵は典型的な「連立段蔵」といわれ、蔵の敷地を段々に高くして、その上に連結した蔵を作っています。母屋や倉の一部が浸水しても米や家財を守ることができます。この土地の標高や嵩上げの諸元は京大防災研の論文がありますので、それを調べてみると、http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/dat/nenpo/no45/02b/b37.pdf

芥川堤防:約15m
周辺の田:約5m
母屋敷地:約6m
1段目の蔵:0.2m 敷地より高い
2段目の蔵:0.4m 敷地より高い
3段目の蔵:1.0m 敷地より高い
 屋敷の敷地は盛土をしてあるが、堤防天端より9m以上も低く、なお水害危険度が高いといえます。同じ段蔵の古い写真をみると蔵の台地はもう少し高かったようです。(目測で3m位はあったか?近年の建かえで淀川の安全対策を織込んで低めにしたのか?)
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

さてここで疑問

1.母屋敷地の盛り土が1mでは少ないのでは?多段の蔵で最高段はさらに1m嵩上げとはいってもこれで大丈夫なの?
 上記、京大防災研の論文では洪水があっても傾斜地であるため、氾濫水は南に向かって流れるので滞留しない。床上浸水を避けることを目的としたもの、と説明しています。
しかし、本来このくらいはほしいという気がどうしてもします。

左は久御山町・北川顔、右は福知山市大江町尾藤口。

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2.段蔵で嵩上げが20cmというのは意味があるのか?

 これは頻繁に出し入れする物、例えば稲を収穫して一時保管し、すぐに出荷する様なケースならば、リヤカーを蔵口に直接付けて出し入れできるので、1mもの高さのある蔵に持ち上げる労力が省ける。長期保存する米や重要な什器類は最高段の蔵にいれる。こんな使い方をしたのではないかと思います。
しかし、何段も数10cmの段差で蔵を繋げていくというのはどうしても疑問が残ります。

事例1(唐崎中一、茨木街道旧道沿い)
 旧街道沿いに近くによって見られる段蔵がありました。段差1mもないくらいで、低い方との差はブロック1枚ぶん。せいぜい15cm。短期的な出水にしか対応できないと思いますが、これでよいのか?ギャップが15cmくらいなら、いっそのこと両蔵とも同じ高さにしてしまえ、という気もする。

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事例2
(唐崎中一、バス道沿い)
 高さは1m位あります。高い方と低い方のギャップは10cmくらいか?内側がどうなっているか分かりませんが、この2段は見た目のデザインではないかと思えるくらいです。

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事例3(茨木市郡4、道祖本街道脇)
 ここは標高24mで近くに茨木川はありますが、洪水の危険はないでしょう。山側からの出水対応ならば完璧か。それにしても2段にする意味は分かりません。

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 ここでバシバシ写真を撮っていたら、近所の奥さんから「何かご用ですか」と不審者チェックがはいり、「かくかくしかじかで・・・・ところで、何で段蔵で2連繋げるんですかね?」と訊いたら、「アハハ、それは持てるものの満足感じゃないの。」と言っておられました。あたりのお家も結構なお屋敷ばかりでしたが!「持てるものの・・」というのは本質を突いているかも知れません。

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事例4(茨木市郡山2、道祖本街道脇の丘の上)
極め付けです。同じ蔵ですが、標高40mの丘の上にたっています。洪水は皆無でしょう。大雨の出水対策と湿気対策です。2段にする理由は、ものの出し入れのハンドリングはあるにせよ、こうなると見た目デザインの比率が大きいのでは。

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 複数段の連立段蔵は、唐崎のような低湿地で洪水の危険が大きい場所では、ものの出し入れのハンドリングを考慮した洪水対策というのが主な理由かと思いますが、あまりにカッコイイので、非洪水地帯では、それをまねる一種の流行みたいになったのではと推定しましたが、どうでしょうか?

 

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2013年9月 8日 (日)

茨木街道をあるく 道草編 (1) 変貌する枚方宿

2013年9月3日


 淀川を枚方まで下りてきました。
 ここから茨木街道をあるき道祖本街道に接続、箕面まで。最終的には勝尾寺まで行きたいと思います。
 昔の茨木街道は枚方の渡しで対岸の大塚に渡り、そこから茨木・郡で道祖本街道に合流、宿河原までですから、今回は道草が大半です。
 それでは

■変貌する京街道枚方宿
ちょっと来ないうちにいろいろ新しい動きがでています。ビオルネを越えて街道筋への入口にあった古めの食堂がなくなり、建物も新しくなってカフェになっていました。街道筋に入っても、古い建物が壊されていました。見慣れない建物も。昭和は遠くなりにけり、というところですかね。

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上の写真、2枚めは三矢公園の前ですが、1枚めはひょっとしてコレを壊したの!?もうビックリです。写真は2008年7月28日。

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■鍵屋のほうはまだ無事です
問屋役人・田葉粉屋と、左に行けば問屋浜。 

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鍵屋の鍵や?

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■伊加賀切れ水害碑
桜町信号の場所にある伊加賀切れ水害碑。伊加賀切れは淀川史上最大の洪水と言われています。大阪平野に古代の河内湖再来といってもいいほど。上町台地を除く大阪全域が水没したほどの洪水でした。 http://yone37458ballet05410n.web.fc2.com/nanshiki/ikaga/ikaga.htm

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破堤は180mにもなり、決壊でえぐられた跡が「入江」のようになって、やむなく元の堤防から大幅に後退させて仮堤防を作りました。その跡が桜町の湾曲道路として残っています。「入江」の様子は明治21年測量の陸測の地図に残っていますし、電子国土WEB.NEXT、枚方付近で明治前期の低湿地オンで見ることができます。
http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/#zoom=16&lat=34.81103&lon=135.63616&layers=BTTTT
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■枚方合同樋門跡
枚方大橋に行く途中、堤防上にあります。昭和5年から淀川左岸を潤していた農業用水の取水口です。現在は寝屋川の木屋から取っているようですが、潤すべき農地はあるのか?度重なる淀川改修でこの付近の淀川の水位が下がって取水できなくなったため廃止になったようです。

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この記念碑の背後(道路を隔てて南)にあるのが・・・・

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かつては毛馬閘門まで水路が敷かれ、大阪平野の5000haを潤していた。

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今は取水口一帯は親水公園になっています。撮影の時期は違います。2008年1月9日の撮影。

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上を通るは国道170号へのアクセス道路。その下をくぐって公園は続いています。

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桜町の仮堤防跡の湾曲道路西の端に橋があって、その上から写しています。ひと仕事終えた後、2度のお務めの親水公園、いいですね。

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■枚方大橋をわたる
船がなんそうも出ています。

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浚渫なのか?川砂取りをしていました。川砂はこうやって採るのか。

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2012年4月 2日 (月)

西国街道(5)吉祥院-東寺

2012年3月12日(月)



【吉祥院】

■桂川を渡りました(15:54)。堤防にはサイクリングロードが作ってあります。

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木津へ36km、渡月橋まで9km、1日で行けそうではありますが・・・途中でいやになりそう。奈良県のサイトを見ていると、八幡木津自転車道線とならクル「せんとの道ルート」をつなげることで、奈良県飛鳥から嵐山に至る、飛鳥京、藤原京、平城京、恭仁京、長岡京、平安京といにしえの都を巡る約90kmサイクリングルートができました、ということなので、どうですか?
とりあえず寒いです。

■少しの間堤防を歩きます。西国街道は右下。左手は寒寒とした光景です。

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■お地蔵さん2題

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川端にはつきものかと思います。大きいほうの日向地蔵尊は明治の廃仏毀釈運動の頃、村人がこの地蔵尊を隠して保存したという説明がされていた。がある。西之茶屋という石碑があるので、昔、茶屋があったのだろうか。そういえば、この地は西ノ茶屋町で、町内会の消防器具の倉庫が横にありました。お堂もきれいに手入れしてあります。こういうにを見るとホッとしますね。

■ちょっと暗かったのでピンぼけ
いいアイデアだと思うんですが、ちょっとバックの和風の古屋が勝っているかもしれません。

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■路地のような細い通りを行きます。(16:12)

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■西大路通西国街道(16:15)
きちんと名前が付されています。

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【羅生門跡】

■171号線に出合いました(16:18)
しばらく国道を歩いて信号の向うにお堂がありましたので渡ってみると・・・

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■矢取地蔵尊(16:25)
 矢取地蔵尊は、空海が旱魃の雨乞い合戦で勝ったうらみで矢を射られたが、その時地蔵が現れ空海の身代わりになった。その後人々は矢負の地蔵と呼ぶようになり、いつの間にか矢取の地蔵になったとか。
 石灯篭には「右 やなぎ谷観世音菩薩」 「左 やわた八幡宮 往来安全」 「嘉永七年秋」とあります。右は西国街道で、左は鳥羽街道でしょう。

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■羅生門跡はその裏手です

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公園に石碑があるだけでした。新しい案内板「源氏物語ゆかりの地」編がありました。2008年が、「紫式部日記」の1008年(寛弘5年)11月1日の条に、「若紫」や「源氏」などの記述があることから、源氏物語が読まれていたことが確認される時ちょうど一千年ということでいろんなイベントがありました。2009年に終っていますが・・・
とりあえず、今回の「西国街道ウォーク」は終りとします。しかし東寺も行っておかなくては。

【東寺点描】
 自慢ではありませんが、前は何回も通っていながら1回しか行ったことがありません。それも子どものとき、母親に連れられて弘法市(終い弘法ではなかったと思う)に行ったきりで、記憶も定かではありません。当家は真言宗で本来は高野山派ですが、今お世話になってるのは東寺派のご住職にも拘わらずです。
 とりあえずお参りというよりのぞいてみることにします。
 urlは http://www.toji.or.jp/ ですが、エライ凝った作りになっています!

■陸橋の上からの五重塔と南大門からみた金堂

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■金堂と灯篭。この灯篭すごいな!

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■南大門が閉る!待ってくれーい。待ってもらって走りました。

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■閉りました!

ということで、あっけなく終り。

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■雪も舞ってきました。

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うろうろと東寺周辺の喫茶店を探しましたが周辺にはなし。諦めて帰ります。
へえ、ここが499kmか。ということは500kmは十条辺りか?



 「西国街道ウォーク」は終りですが、このシリーズは坂本龍馬の神戸海軍操練所からスタートしたので、坂本龍馬縁の地で終りたいのですが、それは次回とします。池田屋か寺田屋か?


【本日のマップ】

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2012年4月 1日 (日)

西国街道(5)調子八角-神足

2012年3月12日(月)

 


■調子八角(12:42)

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やっと西国街道復帰です。前回この工事のため右手に入る細いみちを見失ったのでした。しかし、これは掲示バイパスから沓掛(老の坂)に至る道で。綾部市役所の人の話ではあと1年でつながるのだとか。そうなれば第2京阪-京滋バイパス経由で京都縦貫に入れるので飛躍的に早く帰省できるというものです。

■友岡の道標(12:45)

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高速の工事現場とは対照的にしっとりした住宅街になります。






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少し行くと古い道標がありました。
右 やなぎ谷 左 よど

反対側は、右 やなぎ谷 左 よど

正面には、右 ハ阿たご ●くやなぎ谷 左 山さき

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●は読み切りませんが、柳谷観音に行く道です。淀からの道ということでしたが、堤防の道をぐるっと回ってきたのか。
柳谷観音といえば、行ったことが、いや、通ったことがある。当時の5万図をみると老ノ坂から入って西山の尾根を辿り柳谷から阪急・長岡天神におりたことになっているがルートは確かなのか?下山途中、ダンプの兄ちゃんがわざわざ止まって「兄ちゃんら、旅してるのか」とうらやましそうに話しかけてきたことは鮮明に覚えています。

■中野家住宅(12:45)

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そばには古い町家がありました。
国登録有形文化財、中野家住宅
母屋、土蔵は江戸末期、近郊の農家住宅と町家としての特徴を兼ね備えたものということでした。ツインの楠が引き立て役になっています。

■大阪成蹊大学(12:51)

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間違えて大学の塀沿いに行ってしまった。校内ではなにやら発掘していました。
JRの線路の向こうには恵解山古墳があるらしい。陸橋で渡れるが、やめときました。

■神足商店街に向かう(13:01)

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街道に復帰です。落ち着いた住宅街を通っていったん府道に合流し、神足商店街入口まできました。ここからは2回めになります。

■神足ふれあい町家(13:02)

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旧石田家住宅です。食事もできるようでしたが、今回はパス。前回はここでアイスクリームを食べながら大休止。




■長岡京発見の地(13:08)
JR長岡京駅前にきました。病院の前に新しい碑「長岡京発見之地」が建っています。中山修一記念館のガイドさんお薦めの場所なのでパチリ。前回来たのは2010年9月でしたが、その時はありませんでした。11月にできたということです。

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 「長岡京は、延暦3年(784)に平城京からうつされた都です。しかしわずか10年で平安京にうつされたので、まぼろしの都とよばれていました。
 昭和22年(1947)、ここに住んでいた中山修一先生は、このあたりの田んぼの長さから、長岡京が道路でごばんの目にように区画された本格的な都であったのではないかとひらめき、これが長岡京発見のきっかけとなりました。
 この石碑は、多くの人々に永く長岡京を伝えていくため、長岡京発掘2000回を祈念して建立するものです。

平成22年1月11日 長岡京市長 小田豊

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 ガイドのおばさんによると、あのマツダ販売店のところが中山先生の生家跡らしいです。開田というところで、あの右手は田んぼだったのだ。




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 駅前の西国街道との交差点にある新しい道標も「長岡京」を主張しています。「延暦三年至ル延暦十三年 桓武天皇王城ノ地ナリ」




■一里塚跡(13:13)

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 一里塚跡まで来ました。少し西の市役所前交差点の角に一里塚の石碑があるようですが、交差点の向うなのでパス。西国街道沿いには道路元標しかありません。中山修一記念館でもらった「西国街道」のパンフによると、市役所前交差点の角にあるのが新神足村の道路元標で、ここに昔は一里塚があった。東寺口から2里ということです。「当時は今より東の西国街道沿いに建っていました」とありますが、何が?新神足村の道路元標ならば、西国街道沿いの道路元標とは新神足村の元道路元標なのか?一里塚が西国街道沿いにあったのか?ヤヤコシイ。

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 いずれにせよ、一里塚というのは地名でしか残っていないようなので、これでどうですか?
食堂を探しているんですが、軒並み休み!いったん駅前まで戻ります。

【本日のマップ】


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2012年3月30日 (金)

西国街道(5)調子八角-東寺 (番外:淀)

2012年3月12日(月) 淀城趾




  久しぶりの西国街道です。前回、数ヶ所の道間違いがあって、間違いの発端となった調子八角からのリベンジとするか、それともJR向日町から直接羅生門にむかうか、阪急西向日で降りて長岡京大極殿跡をみてから西国街道に入るか、悩ましいところでした。前日、何の理由もなく淀経由調子八角にした訳ですが、これが大当たりの元になりました。

【淀城趾】
 いきなり番外ですが、せっかくなので淀城趾から。以前は、京阪電車で淀駅にさしかかると、淀城の石垣が見え、お堀には季節になると蓮かアヤメかなにかが咲いていて、しっとりした情景で、いつかは行ってみようと思っていながら数十年。近くにある場所は行かないもんで、淀城は今回初めてです。
 電車の前の方に乗っていたので(新)淀駅ホームの端から端まで歩きました。さらに南に。明らかに競馬シフトで従来の駅はナシのようです。

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 ガチャガチャしたところですな。淀城前の自転車の勝手置場?には閉口します。與杼神社(よどじんじゃ)とかありましたが行く気力がなくなりました。あとで調べてみると、淀・納所・水垂・大下津の産土神で、かつては水垂(桂川を渡った川向こう)にあったようですが、1900(明治33)年の桂川河川敷堤防の拡幅工事により、淀城跡内に移転したそうです。また、淀城趾の横には稲葉神社もありましたが、ずれた写真を撮っただけ。

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 さて、淀城趾です。淀城之古趾、淀城趾、淀小橋跡、唐人雁木旧跡の石碑が集められています。案内板によると、稲葉家の城だったんですね。淀ギミの淀城はもう少し先の納所(のうそ)の妙教寺がその跡らしいです。淀城之古趾はその古淀城の碑のようです。朝鮮通信使が上陸した船着場の跡唐人雁木も旧宇治川にかかっていた淀小橋を渡ったあたりです。淀小橋は今で言うと淀駅前のショッピングセンターあたり、唐人雁木は旧京阪国道納所交差点あたりでしょうか?新之介さんのサイトの明治23年の古地図と最近の地図との重ね合わせを参考にしています。やっぱり街道歩きには古地図は必須かなあ?

http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html

 今の三川合流点は八幡(・・というより、橋本)ですが、江戸時代の三川合流点は淀だったのだ。稲葉氏の淀城はこの三川合流点、というより巨椋池の出口に建っていたんですね。建てられたのは寛永二年(1625)、2代将軍秀忠の時代です。伏見城を廃城にして、交通、通商の要地である淀に築城されました。京のフタという意味もあったのではないか。ここに稲葉氏が入ったのは享保8年(1723)ですが、徳川縁の稲葉氏を置いて京への出入り、東西の交通の要所を締めるみたいな役割を果たさせたのではないかと・・・
 しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れ、さらに淀の戦いでも敗れて敗走する幕府軍を幕末の淀藩は藩主稲葉正邦が老中だったにも拘わらず、入城させなかったのだとか。ついでに言っておくと、さらに東高野街道を敗走していく幕府軍を北河内の家康縁の村でも戸を閉めて水も与えなかったとか。これは実際に当地に住んでいる人から聞きました。
R1228845_2  地図を見ていくと、淀川右岸には「山崎道」、続く宇治川右岸には「伏見道」の記述があります。いろいろ調べていくと、参勤交代も山崎宿で西国街道から分かれて久我畷に入り、小畑川からこの山崎道を通って淀城下から伏見道(淀畷)を通って、伏見-山科に抜けていったという記述がありました。城下を通ったのです。
http://www.eonet.ne.jp/~imagawat/yamazakimichi.htm

【秀吉の負の遺産】
 行きがかりで巨椋池のことを調べていたらおもしろいサイトに出合いました。宮本博司さんの講演録です。
Http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s0710/mi004.htm#N0018
 秀吉は文禄元年(実は天正20年、1592)、伏見に隠居屋敷・指月屋敷の建設に着手し(朝鮮出兵・文禄の役真っ最中です!)、さらに、明の講和使節を迎えるとき、権威を誇示するべく本格的な城郭への建て替えを実施します。文禄3年には完成した指月伏見城へ入りますが、同時に伏見城の外堀と伏見港を造るため、一番低い巨椋池に流れこんでいた宇治川を槇島堤を造って伏見城近くまでに引き寄せます。さらに、三栖から淀に至る淀堤(現在の京阪線の位置)で宇治川を堤防北側にあった大小の沼地と分離します。これで、宇治川の水量も増えて水運も便利になり、伏見に港としての機能を持たせた。桂川沿いでは京の玄関・羅生門に至る大阪街道を作り、また、伏見と奈良を結ぶ太閤堤(近鉄京都線の位置)を作ります。文禄5年(慶長元年)には慶長の大地震が起り、指月伏見城は倒壊しますが木幡に伏見城を建造。守口に今も遺構が残る文禄提は有名ですが、これも文禄3年(1594年)に着手、慶長元年(1596年)に完成です。地震をものともしない矢継ぎ早の工事には舌を巻きますね!
 この辺り、うしさんが精力的に調べられています。
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/choumei.pages/yodo.html
これは寛永14年(1637)に木津川を付け替え、広げられた淀城下町の図です。久しぶりに訪問させていただきました。淀城の変化がよく分かります(合掌)。
 淀堤は宇治川の流路を確定させることができた。 軍事目的にせよ、水運の便がよくなり、淀川が氾濫しないようにということで、秀吉もたまには良いこともするなと思っていましたが、宮本さんはこれは違うというのです。(新)宇治川は山手の高いところで、太閤堤や巨椋池はもっと低く、堤防が切れたら水が押し寄せます。不自然で無理な設計だというのです。それ以後、徳川の時代にも治水工事はあったが、宇治川はそのままでした。
 明治元年、山城盆地全域に大洪水が起こり、木津川は生津付近で決壊(生津切れ)し八幡方面に出水、宇治川も氾濫(お釜切れ)して巨椋池に出水した。この災害を機 に、京都府と淀藩は木津川の付け替えを行います。さらに、明治18年に淀川で大洪水。枚方ほかで決壊、天満橋や淀屋橋なども流され、大阪駅は軒下まで水がついたといいます。古代の河内潟の再現ですね。 この洪水を機に、①琵琶湖の出口に瀬田川の洗堰を造った、②宇治川を巨椋池から完全に切り離した、③新淀川というのを造った、この3つの大工事で現在の淀川ができました。当時、政府が招請していたオランダのデレーケは、「巨椋池の遊水池機能を残そう」と進言したにも拘わらずです。
 この淀川大工事は明治43年に完成、宇治川に観月橋から木津川合流点まで新堤防を築き、桂川の流出口を拡げて山崎まで引き下げ現代の水路にした。難工事だった三川合流点が現在のようになったのが昭和5年。昭和16年には巨椋池干拓事業終了します。
 しかし、昭和28年9月に13号台風で宇治川が切れました。しかし、南郷洗堰は機能し、巨椋池が勝手に復活して大阪は大丈夫でした。宇治川がもし切れなければ、おそらく淀川本川が切れていた。そうなれば大阪は壊滅です。淀川のスーパー堤防も今は頓挫状態です。
 宮本博司さんは秀吉に言いたいといいます。「あんたがええかげんで中途半端な土木工事でこんなもんを造ったから、400年経ってもあの辺はものすごく危ないんや」要は、秀吉と同じような設計思想で川をコントロールしようとしている。いたちごっこなのです。
 今は巨椋池のどまんなかを国道1号線が走っています。淀堤と巨椋池跡地は歩いてみたい。巨椋池は広すぎるけど・・・このブログは淀川を中津から八幡まで遡った記録が最初なのです。当然、最低でも伏見までは行かないと・・・

【気を取り直して淀城趾】
 うろうろと見て回りますが、工事現場みたいなことになっています。 

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 天守台も何故か立入り禁止。しっかりと施錠されています。柵があるので危険防止という訳ではないらしい。見ると、柵の中に自転車がほりこまれています。こんなことするヤツがおるからやろな、ちょっと品位が疑われます。

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【今日のマップ】

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2011年9月12日 (月)

東海道ウォーク 岡崎-知立(2)

2010年12月6日(月) 【岡崎27曲り後編2】


21曲り:板屋町角(9:07)
板屋町はかっては遊郭などもあった所らしいです。今は普通の街並みですが、ほんの7、8年ほど前に来たときは。旧い旅館や一杯飲み屋さんが連ねていた路地があって、そんな気配が感じられブラブラしたものでした。板屋町は材木町に蓄えられた木材を使って家々の屋根を板葺きにしたとか。ここを西に行きます。

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ここの食堂(成瀬屋さん)でメシを食った記憶があります。なんか小ぎれいな店になっていました。

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22曲りと23曲り;松葉総門跡(9:08)
食堂前の中岡崎町交差点交差点を渡ります。新しい石柱「松葉総門跡」というのが建っています。松葉総門は城郭への西の出入口です。昔はここが枡形になっていました。今は直線なので、空カウント1つです。

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■板屋町界隈

元に戻って板屋町をぶらぶらしてみました。古い家は残っているものの、かなり侵食されてきています。時間の問題のような気がします。前に来た時は中岡崎の駅からぶらぶらとお城へいったんですが、お城の西の板屋町、康生町あたりには旧い家が沢山あって、もう一度訪れてみたいと思っていたのでした。

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■八帖村入口(9:23)

さて愛知環状鉄道の高架をくぐって八帖村に入ります。八丁味噌の里ですね。道標のそばにはNHKドラマ「純情きらり」の出演者の手形を設えたモニュメントがあります。ここは、八名信夫だった。
http://okazaki-kanko.jp/recommend/menu06.htm

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24曲り:「江戸 西京」道標(9:27)
八丁味噌の里を横断します。八丁往還通りと名前が付いているようです。通りの両側には旧い町屋もあります。向う側の家との間が八丁蔵通り、ここに宮崎あおいの手形があった。
八丁往還の突き当たりが24曲がりです。ここに新しい道標があります。

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■八帖村点描

せっかくなので少し戻ってブラブラしました。
南に○や(まるや)さん。北に□久(角久)さんと分かれているようです。角久の方が新しいですが、まさか○に□、八、九と対比を際だたせるようにしたんではないでしょうね。
あとで写真をみていると、もっとブラブラしておけばよかったと悔やんでおります。

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http://www.kakuq.jp/home/
http://www.8miso.co.jp/

25曲り:国道合流(9:32)
八丁往還を北に行きますが、江戸時代は今の矢作橋の少し手前に橋が架かっていました。今は矢作橋を左折(西行)します。

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■矢作橋(9:35)

新装なった矢作橋を渡り終えるのに3~4分かかります。コーンを見ていると出来たばかりのようです。

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■あきらめの26、27曲り

26曲りは旧い矢作橋を渡って右折しますが、新しい矢作橋は・・・工事中でした。Googleのストリートビューを見ていると、渡りきった所に信号があって、そこから右(北)に入っていけるようですが、今の橋はなくなっています。

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少し下ったところで階段があったので下りてみると横断トンネルは・・・・ここも工事中でした。この時点で、26、27曲りは諦めました。しかたがないので、坂を下りきって矢作町加護畑の信号で横断歩道を渡りました。

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 本来の27曲りは矢作橋北、堤防すぐそばで、ここには尾張屋という仏壇屋さんがあるらしいです。27曲がりの終わりが尾張屋さんという洒落っ気を楽しみたかったのですが・・・今でもあるのか?
スケッチの街並さん;http://murase2.web.fc2.com/sub38.htm

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 2、3の消失部分は分かりませんでしたが、まずまずうまく行けたのではないでしょうか。
岡崎は3度目ですが、街を歩くにつけだんだん気に入った街になってきました。また来ることもあると思います。



【本日のマップ】

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東海道ウォーク 岡崎-知立(1)

2010年12月6日(月) 【岡崎27曲り後編1】



 2日目、伝馬町まで行ってスタートとします。朝起きてぐだぐだしていて、出発が遅れました。

 さて、27曲りですが、今まで家康出生の地でもあり、当然徳川譜代の岡崎城主・本多氏によって作られたものと思ってましたが、違いました。なんと!田中吉政、近江は安曇川の出、秀吉譜代です。天正18年(1590)に徳川家康が関東へ移封後、秀吉から岡崎5万7千4百石(その後10万石)を領し、10年の間に城下町建設、矢作築堤という今に残る事業をやったということです。
 吉政は城の南側にあった鎌倉道を城下に付け替え、「二十七曲」と呼ばれる屈折の多い道を造った。これは、関東の徳川家康に対する防備の備えと言われています。しかし、これが徳川以降も城下町繁栄の基礎となり、のちに東海道有数の町として発展することになります。
 吉政は、城下町全体を堀と土塁で囲む総曲輪内にし、城の東に家臣団を、西に商人や職人を分けて住まわせる大規模な都市改造を計画し、矢作宿から商人や職人を移転させ、連尺町には商人、材木町には大工、鍛冶、指物などの職人、肴町には城下へ魚鳥類を供給する商人が住んで専売権を与えた。さらに、城の西にある沼田を埋め現在の田町を造成、天神山を崩して現在の松葉町・板屋町・材木町を開いた。
詳しくは下記を。こちらからのウケウリです。
http://snkcda.cool.ne.jp/yosimasa/
 吉政は関ヶ原の戦いで東軍に荷担し、石田三成を捕まえるという大功を上げ、慶長6年(1601)に九州の柳川・久留米の32万5千石の破格とも言える所領を賜ったが、吉政の没後、次の代に些細な理由で取りつぶされています(よくある手です) 。
 しかし、400年たった今日でも都市・河川の改革は彼の業績として記憶されてよいと思う。

■専福寺(7:47)
まるで城壁のようです。櫓(隅櫓というようです)もあって、ここから街道の監視や物見でもしたのか?

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■岡崎宿歴史プロムナード

伝馬町通りにはいります。永田屋さん過ぎたあたりにこんな石碑が並んでいます。岡崎宿歴史プロムナードといって、計20基あるようですが、写真に撮ったのは2つだけ。そういえば、昨日コンビニの前にもあった。
http://ryushi.fc2web.com/prome/

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4曲り:西本陣前角(7:50)

そのコンビニ前で確認。ここから実質スタートです。

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5曲り:吉良みち分岐(7:51)

再度確認。次は籠田惣門跡となっています。

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6曲り(7:52)

スケッチの街並さんの6曲りですが、素通りします。
通常ルートの6曲り;惣門前はゴミ集積だったので無視。スケッチの街並さんの7、8曲りは昨日通ったのでパス。

なお、通常ルートの7、8曲りは昔は枡形になっていたのが今はないので、空カウントになるようです。27に合わせるためにややこしいカウントが必要ということでしょう。
写真は岡信資料館です。

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9曲り:連尺町角(7:56)

道標の案内通りに歩きます。公園を付ったところが連尺町。この通りを西に行きます。

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10曲り:シビコ北(8:02)

名前は付いていますが、写真がボケていたので確認できず。洋品店の前でした。ここを北に入ります。

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11曲り:材木町口木戸前(8:03)

すごいガレージです。3台は優に入る。ベンツかなにか置いてるんでしょう。拡大するとベンツマークが見えます。ここを西。

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■12曲り

ここはちょっとややこしい。西行きしてすぐ北行きの路地が在りますが、当時はこのあたりから西北にナナメに道があったようです。今はないので、Lまたは逆L型に行くしかありません。従って1コだけ空カウント、写真もありません。

13曲り:材木町角(8:06)
材木町通りにでました。ここは分かりやすい。西に行きます

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14曲り:柿田川角(8:11)

 柿田川に当たります。岡崎城の西を流れている川です。お城の西側の散歩もお薦めです。いやいやここは27曲りに集中しているんです。元々は橋にの中ほどからナナメに南下(といっても当時は橋も川もない)していましたが、橋の手前を南下します。河原に下りて歩くのも一興か。

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角の手前には唐弓弦(とうゆみづる)の商家 森家があります。軒下に「唐弓弦」木製看板があるはずですが、写真では見えません。唐弓弦は綿花に弦を弾いてほぐして紡ぎやすくする道具だとか、そんな専門用具だけのお店が成立していたんだ。さすがに物産の集散地らしい感じがします。

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■「材木町より下肴町角」

 川沿いの道に入ると石柱があります。角にあるばかりではないんですね。このあたり、魚町とか西魚町という名前が付いていますね。昔の通り。左手に白山神社の幟が見えます。

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15曲り:三清橋角

信号待ちをしていて、うっかり写真を撮るのを忘れました!代わりに三清橋を渡った後、橋の西からの写真を載せておきます。

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16曲り:田町北角(8:16)

ここは若干うろうろします。三清橋を西に渡って、大通りとその南に小さい道が一段低いところを通っています。石段を下りたところに石柱があり、そこが田町北角。

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 その横(西)すぐの路地を入って、西折れ-南折れするのが昔の街道のようですが、今はそれはできないので17、18曲りは欠番です。しかし、そこに入っていって道がないのであれこれ聞く人が多いんでしょうなあ?その道の隣のお家の壁際に看板が2枚ありました「こっちやで」

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19曲り:田町角(8:18)

沼田を埋めて町を作ったので田町。
田町角の道標があるのでマチガイないんですが、さて困りました。行き止まりです。昔はまっすぐで今は1号線があるので信号まで迂回は理解できますが、どっちや?

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20曲り:製材所(8:21)
スケッチの街並さん
西に行ってみました。田町を南下する道の対面あたりにきても信号はありませんね。それもそのはず少し西に歩道橋があり、ここを渡るんでしょう。しかし、先ほど、感じのよい路地があったのでそちらに入っていきますと製材所があります。現役のようですが、なかなかいい感じです。スケッチの街並さんはここを20曲りとしています。

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19曲り:銭湯前(8:22)
スケッチの街並さん
東に戻ります。銭湯のようですが、自動販売機があるところを見ると現役のようです。これはすごい!総板張、くすんだガラス窓、レンガの煙道、真っ黒な煙突。見飽きません。龍城温泉というようですが、事前に知っていたら入りに来るのに。

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スケッチの街並さんはここを19曲りとしています。分かる様な気がします。

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20曲り:板屋町入口(9:03)

元に戻り東の信号を渡って板屋町入口に来ました。入っていく前に休憩です。ぐるぐる回って若干疲れましたので、モーニング。30分ほど休憩しました。

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【本日のマップ】

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2011年9月11日 (日)

東海道ウォーク 御油-岡崎(7)

2010年12月5日(日) 【岡崎27曲り前編】



 さて岡崎だ!いざ27曲り!
準備は万端にしているつもりです。めずらしく予習もしたし、簡単なマップも持ってきています。
 しかし、文章を書く段になって、27曲りに諸説あるのが分かりました。それも当然ですね。明治期以来の都市開発もあっただろうし、まず戦災で相当やられた。戦後の高度成長でも相当変ったハズです。江戸時代のものがそのまま残るはずはありません。色々分からなくなっていることがあるでしょう。それにしても20いくつか復元されているのはうれしいことです。
 ここでは、(新)スケッチの街並みサイト;http://murase2.web.fc2.com/sub38.htm のスケッチ画を踏襲して書いていきます。スケッチは見事なものです。惜しむらくはこの絵の風景もだんだんなくなっているのです。
 その前に通るところがあります。まだ岡崎ではないのか?

■名残松街道(15:30)

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 岡崎インター西の信号を渡って公園らしき所に入っていきます。マチガイありません、道標が建っています。かなり大きめの松も植えられています。芝生の途中からブロックが敷いてあるのは、ここを通れと言ってるんですね。

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■法光寺(15:36)

いったん1号線に沿っていきますが、すぐに右に入っていきます。ボクはまっすぐ行って信号のところから入りました。法光寺が目印です。

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■冠木門(15:39)

まっすぐ進むとの冠木門が見えてきます。ここが岡崎宿の東の入口です。緑地帯になっていて「岡崎城下二十七曲り」の大きな石碑があります。最初このマップを参考にしていました。案内碑にボクの顔が写ってますな。

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1曲り目:投町角(15:41)

「岡崎げんき館」の広い駐車場の角に石のモニュメントと説明碑があります。茶色の道標は分かりやすい。次の角までの距離も書いてあります。

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■太神宮常夜燈(15:44)

若宮公民館前のバス停横にあります。

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■途中にある案内標(15:46)

角にあるばかりではないんですね。まっすぐ310mですが、距離があってるんかな?

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2曲り目:両町角(15:49)

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3曲り目:伝馬町角(15:50)

約80m、すぐです。正面にはガソリンスタンドがある。

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■永田屋(16:00)

老舗のお肉屋さん、高そう!話は違いますが、3曲りからここまでたて続けに2軒も呉服屋さんがありました。

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4曲り目:西本陣前角(16:01)

ミニストップ前です。後でホテルから買い物にきました。ここは西本陣のあったところです。

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■コメダ(16:05-44)

 道を間違った訳ではありません、少々疲れたので休憩です。結構長いこと休憩して今日はちょっと歩く気が失せてきました。辺りも薄暗くなってるし。

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 しかしホテルに直行はせず、ぶらぶらと歩きます。歩いたコースは、電波堂-康生通り1つ南の筋を行ったり来たり-籠田惣門碑前-岡崎信用金庫資料館前-5曲り、きら道道標-また岡信資料館前-籠田惣門碑前・・・ホテルです。

 このうち、電波堂前は、スケッチの街並みさんの8曲り。籠田惣門碑前は昔、枡形になっていて、普通は、6、7、8曲りとカウントするんだそうです。ここは碑の前がゴミ集積所になっていた!写真を撮る気も失せました。ついでに、スケッチの街並みさんの7曲りも通過したことは書いておきましょう。

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5曲り目、吉良みち分岐を通り越し、4曲り目まで行って確認して引き返しました。

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時間の関係で岡信資料館に行けなかったのは残念です。明日朝も早いので行くのは無理でしょう。代わりに写真を3枚アップしておきます。

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 これでホテルにチェックインして、夕食は乙川屋さんとはりこみましょう。

■呉服屋さん
 前にちょっと書きましたが呉服屋さんの多い街ですね。伝馬通を今まで歩いただけで3軒もありました。それもかなり高級そうなお店。岡崎出身の知人がおりますが、結婚式やその他の物事には相当丁寧にする土地柄のようなので十分ビジネスになるんでしょう。

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【本日のマップ】

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東海道ウォーク 御油-岡崎(6)

2010年12月5日(日) 【美合-大平】


 このままではなかなか岡崎にたどりつきません。なにしろ、歩くより書くのに時間がかかっている。点描スタイルで行きたいと思います。

【美合を歩く】
■美合分岐(14:32)
10分ほど国道歩きです。川を渡る手前で旧道に入ります。坂下という通り下っていきます。だいぶ都会らしくなってきた。

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■美合新町(14:36)
美合の中心部のようですが、ここにも街道松があります。ちゃんと手入れされている。

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____________________________
■南屋敷(14:38)
その名の通り閑静な住宅街。

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■横道(14:42)
これなんですが、どこだか分からない。多分北屋敷から横道に入ったと思います。何の変哲もない場所ですが、なんとなく気になって・・・

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■橋を渡る(14:45)
 山綱川です。山中の辺りから流れてきて乙川に至る。本宿の川は同じ乙川に入りますが、別の水系でした。

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 一気に田んぼが拡がりなにやら寂しいところですが、ここが旧街道です。ちゃんと石標がたっています。また川に当たりますが、ここが乙川。

■乙川(14:48)
 河原では馬が草を食べていました。どこに牧場があるんだろう。
地図を見てみると、流レ、方便、カウフク、カラス明、エゲ前などという変った地名が!女能頭尻はなんて読む?おんなのあたましり?まさか。

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【大平の心意気】

■乙川を渡る(14:51)
 大平に入ります。左手に水神社?川水神社?があるようなのですが、それらしいのは見えません。橋の関係でだいぶん行きすぎたところで左折したので、戻るのをやめました。

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 ここでおもしろいHPを見つけました。「大平町周辺の昔ばなし」貴重な聞き書きです。
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0109.html

■大平の街並み
下の写真の車の横に道標があります。

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■西大平藩陣屋跡(15:02)
 陣屋跡があるというので行ってみました。なんと、大岡越前守陣屋跡とあります。立派な門構えです。

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 案内を読んでみると、江戸南町奉行として有名な大岡越前守忠相がそれまでの功績により、寛延元年(1748)に西大平藩一万石の大名となり、この地に陣屋を構えたと。江戸時代を通じて、江戸町奉行から大名になったのは忠相のみであり、それから明治維新まで代々大岡家がこの地を治めています。

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 TVの影響が大きく、町奉行の大岡越前守、目安箱の設置、江戸の町火消しの創設、小石川養生所の建設などは記憶にありますが、享保の改革実行の功で三河の大名になったんだ。
 最後の写真はおまけで陣屋跡の横の蔵です。石積みと白壁(剥がれている)の2トーン構成。

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■大平一里塚(15:13)
 逆光でうまく撮れませんな。いろいろ角度を替えてみましたが、木陰に隠れて撮ったのと、後ろから撮ったのと、このくらいしかできません。西に1つしかありませんが、マウンドもちゃんと残っていて貴重なものです。

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 再び「大平町周辺の昔ばなし」
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0113.html

むかし、一里塚は東海道を挟んで南と北の二基あった。北の塚は南のものより大きく、また榎木も一回り巨大であったが洞町からの県道を開くため取り壊された。南の塚は売りに出されものを某氏が買い取り後に村に寄附された。昭和12年史跡に指定され保護されたが昭和28年の大風で榎木の東の大枝が折れてから暫次枯死した。今は次代の若木が植えられている。こうして大平一里塚は一基のみ、榎も代替わりしてしまったが、塚型が原形で残るものとしては県下一である。

 昔は行政はムチャをしたんだ!しかし、村には某氏のような篤志家もいた。

■巨大な常夜燈
 一里塚の対面には巨大な常夜燈があります。こちらは順光。

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■大平八幡宮(15:18)
常夜燈はこのお宮さんだったのか。またしても・・・
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0103.html 
村人の心意気が伝わってきます。

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■トンネル(15:21)
ラブホテルの横からトンネルに入ります。やれやれここで一休み。

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■天狗の通り道(15:28)
むかし天狗が出てココの松で休んだようです。
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0120.html

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 貴重なHPに出合うことができました。これもウォークの(後調べの)成果です。ありがとうございます。


【本日のマップ】

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