2012年5月15日(火) 豊明-大久伝
昨年夏からいろいろありまして、サボりにサボっておりました。なかなか書く気力がわいてきませんが、うかうかしていると、1年のブランクになりそうとて、書き出しましたが、書き出すまでに3月ほど経っております。ブログの体裁とかコントロール方法も忘れてしまっているようで、とにかく書いておかねば・・・
ちょっと整理しておかないと忘却の彼方でつながりが分からなくなっています。
三河の鎌倉街道としては、2010年9月22日(水)に知立・八橋から刈谷・西境まで来て、境川堤防を下って豊明まで来て、とにかく尾張に入ったのでした。また、東海道歩きとしては、同年12月5日に御油から岡崎、6日(月)には岡崎を発ち踏分の森から鎌倉街道に入り、八橋・駒場まできて、とにかく街道歩きとしてはつながって尾張まで来たとおいことでした。だいぶ分かってきたぞ!
今日は知立から東海道を豊明まで。そこから大久伝で鎌倉街道に合流したいと思います。が、朝から!雨!!それもかなりしっかりした雨で1日続くという予報です。今、刈谷のホテルですが、予報通りの雨です。しかたがないので、ショートカットして豊明まで電車で行き、そこから少し歩いてみることにします。
【雨の境川】
9:00、意を決して名鉄豊明の駅を出ます。降りしきる雨!
■旧1号線を境川に向かいます
新しい街道松も植えられていい感じなのですが・・・・
■境川の境橋(9:06)
向こうは三河、こちらが尾張です。ここには藤原光廣の歌碑があります。「うち渡す尾張の国の境橋 これにかわの継目なるらん」とあって、駄洒落の類ですな。にかわ、にかわ、みかわ、みかわ…バンザーイ!と解釈するか?また、この橋は昔は、中程より西は板橋、東は土橋という継ぎ橋で、度々の洪水に流されたそうです。ナルホド、ニカワで継いであったので流されたのか?まさか?ニカワで継いだようによく流されたのか?このように解釈するんでしょう。
■堤防からの境川橋
雨なので冗談を言ってる場合ではありません、先を急ぎます。
賑やかな河原です。白い花はノイバラ?卯の花?いろんな植物が生えています。晴れていれば遊ぶのに。この雨では近寄って行く気力は出てきません。
堤防はすぐ地道になります。アカツメクサ(でよいのかな?)が咲き乱れ、まことによい感じの小道なのですが、晴れておれば・・・
■びしょ濡れの堤防歩き


いい感じの堤防なんですが、草が覆ってないところを歩けるので濡れないと思っていたら、10分も歩くとくるぶしから下がもうびしょ濡れです。これには閉口しました。冷たいし寒い!
■堤防脱出(9:25)
苅外山というところでほうほうの体で堤防から逃れました。伊勢湾岸道路の高架の下で雨宿り兼休憩です。といっても雨が止むわけではない。元の堤防に戻る道の先にこんもりとした森が見えています。あそこに寄ってみよう。
【雨の大久伝】
■中島八剱社(10:07)
地図では中島八剱社とありますが、八剱明神という額がかかっていました。改築されたばかりのようで柱や壁はえらく新しい。ちなみに、八剣神社(はっけんじんじゃ / やつるぎじんじゃ)をウィキペディアで調べてみると、なんと岐阜県が圧倒的に多く、その次は愛知県。データは全部は調べられてませんが、主祭神は日本武尊。岐阜県や愛知県に多いというのはなんとなくうなずけるところです。
さらにちなみに、大阪にもありまして、菱江の八劔神社は、暗越奈良街道・河内街道の交差点付近にあり、祭神は宇賀御魂之神と八劔大神。さらに、その勧請元である放出の阿遅速雄神社は江戸時代の頃は、八剣神社と称されていたそうです。祭神の八劔大神は草薙御神劔御神霊。味耜高彦根之命は別名 迦毛大御神、鴨氏の祭っていた神ですね。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2009/11/post-57b1.html
菱江の八劔神社では味耜高彦根之命(八劔大神)となっていたり、八劔大明神は須佐之男命と同体という記述もあってややこしいですが、八剣神社は草薙御神劔がらみというころで大くくりできそうな気もします。そうすると拝殿横後方にあった8つの祠は何?剣が8つなので八剱社なのか?よく分からなくなりました。
■庚申塚
雨で動き回れないので早々に退散。神社の横には庚申塚もありました。ちゃんと祀られています。
■雨に煙る国境の橋(9:56)
神社前から堤防に戻る道もありましたが、これ以上濡れるのは嫌なので住宅街を大回りしました。さて、三河の西境と尾張の大久手伝を結ぶ橋。前回はこの橋の対岸まで来ていたのでした。雨なので渡るのはヤメ。代わりにノイバラの花を撮っておきました。
■鎌倉街道ゆかりの歌碑(9:59)
橋のすぐそばには歌碑がありました。
それと聞くしるしばかりかさかひ川 ほそき流は名に流れても
飛鳥井雅世
鎌倉街道は二村山より東南、宿を経て大久伝の北を通過して西境方面に向かっていました。境川を渡ったのはここより少し北、酒井神社のすぐ北側と思われます。二村山は西のあの辺りの平たい山になるのか?
■大久伝(おおくて)は湿地
大久伝の地名は湿地を意味する「クテ」から来たとされているようです。 クテ地名は、尾張・三河国境周辺から東美濃にかけて多くみられるようで、確かに長久手とかある。このあたり一帯は低湿地が広がっていたと考えられます。
このあたり、昔ながらの倉庫が残っています。独特の黒塗りの板壁。三河周辺ではこの手の黒壁はよく見かけました。尾張になってもそうなのかどうか興味があります。その昔、仕事で豊明のとある会社に粉砕機のテストに来た記憶があって、工場のすぐ横には広大な田んぼが広がっていた風景がどうもこの地によく似ていると思って、後日地図を見て探していたら、ありました!それらしい会社名が。先ほどの中島八剱社のすぐ近くでした。なんやすぐそばに来ていたんや!
■大久伝 八幡社(10:17)
ここには十三塚の碑があるらしいのですが、うろうろ探すのもできなかったので見ていません。後日調べると、鎌倉街道の経路が解説されていて、鎌倉街道は、二村山より東南、宿を経て西境に至り、大久傳八幡社の南30mのところに鎌倉街道が通り、南に十三、北に七の塚があり、経塚、又は非業の死者の墓とも、またお紺女郎の塚とも伝わる。土地改良事業施行のため、現況が変わるため、鎮魂と記録のため建立する と解説してあるらしい。
十三塚は鎌倉街道の大久伝と宿の間、青木地蔵の楠にかけてあった塚で、かっては街道を挟んで南側に13基、北側に7基ありましたが、昭和45年頃、土地区画整理で青木地蔵の塚を除いて消滅してしまったということです。現在は地名のみが残っています。
■掲示板に「大久伝八幡社と宮大工伊藤平左衛門」という豊明市文化財だよりの記事が張り出してありました。それによると大久伝は江戸初期に新田開発された土地であるようです。ならば、それまでの鎌倉街道はえらくさびしげな湿地帯を縫うようにして走っていたのか。
大久伝八幡社は慶安2年(1649)の建立らしいですが、文久2年(1862)に拝殿が造営されました。詳細は掲示板を見てほしいですが、その棟梁が伊藤平左衛門守富(八代)ということでした。彼は高野山金剛峰寺金堂など著名な建造物も手がけています。九代守道は磐田の見附学校も建築している。この拝殿もなかなか由緒正しき作品のようでした。帰り際に一人の参拝者と会いました。この雨の中を!やはり有名な神社なのでしょう。
(つづく)
【本日のマップ】
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