鎌倉街道

2013年3月29日 (金)

尾張鎌倉街道(1)豊明-二村山4

2012年5月15日(火)


■さて、紆余曲折の後、二村山入り口にきました(13:30)

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二村山に行く前に、さきほどの紆余曲折・勅使台徘徊の地が気になっていて、後日調べてみると、それは正確には「大狭間徘徊」とすべきものでした。徘徊したリングの中心あたりに湿地があるのです。大狭間湿地。涌水湿地で、背後にある丘陵地が水源となっています。もともとは水田でしたが、休耕田となって40年以上を経て湿地となったという。現在、豊明市の天然記念物に指定され湿地保護のため非公開で、一般公開は年2回(8月、9月)にあるようです。伊勢湾岸に固有のシラタマホシクサが生息し、ミミカキグサ、モウセンゴケ、ミズギボウシなど湿地植物や、サギソウ、ハッチョウトンボも見られるようです。これは一級の湿地だ。紹介サイトは例えば・・・

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二村山の入り口は小広い谷のようになっていて、駐車場の横を入っていくと看板がありました。二村山環境保全推進協議会という市民団体が手入れをしているようです。看板によると、昔ながらの雑木林が手入れされなくなったゆえ荒廃し、せっかく多様な生物が生息していた環境も荒廃している。どこのイナカも同じです。それゆえ、「二村山を季節感にあふれ、多様な生物でにぎわう美しい自然の緑地に」ということで、市民が里山保全を担っていかないといけないとしています。ここを二村山緑地と称し、生物多様性に富む植生の復元、雑木林の保全をKWに、季節感のある景観、そこでの散策を楽しむ環境学習の場を提供するとしています。これにはまったく同意。
「野生のツツジや里山のスミレが咲き、生物の賑わいのある二村山へ」を合言葉にしっかりとした保全活動をされているようでした。
  前回の「徘徊の結論」がイマイチ歯切れが悪かったですが、言いたいのは、豊明のエッセンスとは、季節感にあふれ、多様な生物でにぎわう美しい自然が随所にあり、そこでの散策や保全活動が(精神)生活の糧となることで、そのような街にしてほしいということなのでした。
■雨の里山散策(13:34)

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ゆるやかな丘陵に遊歩道が作ってあります。樹木の名札も設置してあります。古い案内板によると丘陵を越えると豊明神社にも行けるようです。せっかくなので二村山緑地の里山散策をします。勅使台の徘徊あたりでは雨は止んでいたんですが、また降ってきました。
■二村山緑地は確かに落葉樹もしっかりあって、楽しそうな雑木林です。

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エゴノキの白い花も雨に濡れています。雑草の生い茂る広場もある。雑草は雑草のままでここを遊園地化しないのがよいところですね。
■豊明神社発見(13:41)
林を抜けると豊明神社の標柱が現れました。雨もひどくなってきたので祠前の休憩所で雨宿りです。屋根つきなのでほっとします。土俵があるので休憩所と違うのかな?

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情報がなかなかないですが、祭神は各戦役における市内の戦没者でであるそうな。もともと、1926年(大正15年)に完成した伊勢神宮遥拝所の場所に建築が計画され、1949年(昭和24年)4月に創立されました。道理で変わった本殿だ。
■雨のナツツバキ

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二村山に向かいます。道端に咲いていた見事なナツツバキ。別名はシャラノキ(娑羅樹)で、仏教の聖樹、娑羅双樹(さらそうじゅ)に擬せられ、この名がついたといわれる。ちょっと花の時期が早いけど違うのかな?かなり暗いのでボケてます。
■峠地蔵堂(14:00)

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 どんどん登っていくと峠地蔵堂の広場に出ます。このあたり縦横無尽に道があるようです。うろうろしましたが、鎌倉街道もここを通っていたか。
  地蔵堂のご本尊は向かって左の立躰の地蔵尊で(俗に峠地蔵)、また身代わり延命地蔵尊として交通安全や入学祈願や病魔退散、諸願成就と多くの人々から信仰されています。当日も雨の中2組ほどの参拝者を見かけました。

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 ご本尊の地蔵尊は背に和銅二年(709)と刻まれ、現在の姿は首が無く胴体のみで、首は元文5年(1740)の落雷で折れたそうな。いつの頃か、旅人が熊坂長範という盗賊に襲われたとき、地蔵尊が身代わりとなって切られ、肩から上が欠落したという伝説が生まれ、、ここから身代わり地蔵の別名ができたといわれています。中央の最も大きい地蔵は元文三年(1738)の刻があり延命地蔵と名があります。右の像は明和三年(1766)の刻があります。
■展望台に登ってみた(14:05)

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 展望台の前は小広い広場になっていて観光案内版やいろんな記念碑があります。
 切られ地蔵尊もここにある。延宝七年(1679)に建立されたもので、別名『袈裟切り地蔵』とも言われています。胴体が斜めに切られた形で、上半身と下半身が前後に置かれています。1740年(元文5年)に落雷の憂き目に遭いスパッと刀で切られたようになったとか。下半

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身の背面に古来仏依会大破建立之延宝七巳未一年(1679)の刻があり(読んでないけどそばにある案内板で))、二村山峠地蔵尊の伝説を元に建立されたものといわれています。
 展望台からは確かに周囲がよく見えます。二村山は昔から鎌倉街道の歌枕として知られ、眺望にすぐれていたところです。北側にはさっき通ってきた勅使池。その向こうには名古屋市緑区の住宅街が迫ってきています。地図をみると愛知用水以東、豊明市北部だけが豊かな田園地帯で、その北、東はまた東郷町の住宅地。豊明市に入ったところにある看板には「地下鉄豊明延伸」とありましたが、せっかくの丘陵を全部住宅で埋め尽くすことになりかねない。何を考えているのか?

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 西側は森の向こうに藤田保健衛生大学・病院が見えます。この森の中を鎌倉街道が走っているようです。
■二村山の詳細マップがアップされています。
二村山概略図(豊明市、2012年)Tomio344456さん作

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ここには三角点もある(71.8m)行く前に調べとけ、と言いたい所ですが、ボクは大体後で調べることになっています。
■緑の鎌倉街道をゆく(14:24)

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R1239019_  展望台を下りて地蔵堂の広場に戻ってきました。ここには頼朝の歌碑や鎌倉街道の標柱がたくさん建っています。森の中を広い道が走っています。かなり歩かれているようで・・・最初は森の中の暗い道でしたが、だんだん明るくなって、快適な道になりました。植物の宝庫で、いろいろ遊べそうなところです。これはいい!

■雨旅の終わり(14:32)

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と、快適に歩いているとほんの数分で終わってしまいました。楽しい事ほどすぐ終わる。出たところは体育館の横でした。だいぶん濡れて靴もグチュグチュですが、雨もやっとあがってきました。これから大阪に帰ります。

次回は、二村山から相原、野並といって呼続で東海道に合流、宮の渡までの予定ですが、謎の多い桶狭間探検や有松も魅力的、ということで計画づくりが悩ましいです。
【本日のマップ】

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(いったん終り)

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2013年3月25日 (月)

尾張鎌倉街道(番外)豊明-二村山3

2012年5月15日(火) 若宮-豊明神社雨中の徘徊




■若宮で徘徊の始まり(10:57)

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さて十王堂の丘から下ってきました。地図はあまりみていません、見る余裕もありません。予習ではこの丘を下る道をまっすぐ行くと池があって豊明神社に至るということだったので、まっすぐ行きました。ところが下り道が右に(東に)折れ曲がって下っていたのでした。P1240331_

おかげであらぬ方向に歩いていきます。もちろん、歩いている当時はそんなことには気がついていません。パチンコ屋を左に見ています(振り返り写真ですから)。本当は右に見るはずが、そんな細かいところまでは覚えていません。

■坂を登って行きます

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右手が諏訪神社。ふむふむ、地図にも諏訪神社というのがあった。(あらぬ方向ですが)峠付近には仏像を何体か安置したお堂があります。はて池があるはずだが・・・・まだ気がついていない。

■交差点が出てきました(11:13)

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「徳田前」の看板。はてそんなとこ通るのか?やっと間違ったことに気がつきますが、地図が圏外だったので現在地確認ができません。多少方向がずれているだけとまだ思っている。うまい具合にちょっとした登り坂があったのであそこを超えてみようと思いました。

■いい感じのため池です(11:17)

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この辺りを道草します。間違いが確信になってきて大分開き直っています。徘徊の始まり!
結局この山は超えられず住宅地を一周してきました。あとで地図をみたら提灯山となっていました。

■徳田、いい感じの集落です(11:30)

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ここにも黒壁の倉庫があります。蔵なのか?右の山手のほうに行って見ます。

■坊主山(11:38)

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小さな峠に来ました。この先ゆっくり下っていって広大な畑が広がっています。さすがに東に振りすぎなので、峠からのなだらかな稜線に従って北へ取っていきます、
いい感じの道が続いています。ところどころに林が残してあり、それ以外はなだらかな丘陵に畑や田んぼが配置されています。本日で一番気持ちのよい風景でした。あとで地図をみると坊主山となっていました。

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  相変わらず雨ですが若干小降りになって、降ったり止んだりしています。まっすぐの道は老住の施設に入りそうだったので引き返しました。11:54、そろそろ西に方向転換します(写真では右)。地図がないので行き当たりばったりですが、さすがに離れすぎという気がしています。

 山田という集落の坂を下っていって、西に行く道を入っていくと、また鹿嶋社がありました、。さらに行くと大きな池が。勅使池とありまして、二村山からはかなり東に来ているようです。
雨も止んできたので池の端で休憩しましたが、ポケットに入れていた地図がなくなっている!あとで気がついたことですが、道草を始めて何枚か写真も撮っているんですが、記録されてないものがある。

■勅使池に沿って歩く(12:24)

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勅使台という住宅地から西に向かいます。といっても地図も磁石もないのであてずっぽうですが・・・広いメイン道路を行かずに池の端の小道を取ります。



■愛知用水サイホン(12:26)

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愛知用水の看板がありました。サイホンで池をくぐっている様子。ここに地図があったので大体の位置が確認できました。




■諸の木住宅街の中を進んで行きます(12:33)

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しかしどこを目指しているのか。バス停があれば帰ろうかと半分くらい考えていました。
諸の木(1丁目)の交差点にくるとバス停やコンビニがあるので大休止して補給です。バス停を探していると南に上っていく道があり、そこを行けば皿池とか藤田保健衛生大学の病院にいくようです。まだ時間もあるのでこの際行ってみます。

■また豊明に入ります(12:57)

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 どうやらこの辺りに豊明神社があるようですが、そこに至る道を探しています。
 池の周りをそれらしい小道を探して歩いていますが、どうも違う。右の行き止まりの道は実際にはずっと続いていて、市境にそって勅使池までつながっています。どうも昔ながらの里道のようですが、周囲は工事のやり散らかしで荒れた感じです。もう少し時間が経って熟れてくると楽しい野原になりそうです。が、そんなことは許さないんだろうなあ。きれいに整備してしまうとか・・・・

■勅使台の徘徊(13:18)

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勅使台墓地から広い道をどんどんいくとバス停があり、勅使台住宅ということで、あれ!ここを行けばさっき通った場所に戻ってしまう!
住宅街に入る前になかなかいい感じの道があったので右折します。最初は住宅地の縁を通っていましたが、どんどん林の中に入っていきます・・・・いったいどこにつながるのか?

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 このあたり住宅や墓地で侵食はされていますが、小広い丘陵地で雑木林になっています。そこに先ほどの小道のような昔ながらの道が谷沿いやゆるやかな尾根を走っている。まことに楽しそうな場所です。将来は多分住宅地として開発されてしまうんでしょうが、こういう迷路みたいなところは残してもいいのではないかと思うのです。しかしまあ、きちんと整備された街にしてしまうんでしょうね。住宅地にならないまでも整備された緑地公園になってしまうとか。

■県道に出たと思うと、あれ!見覚えがある。さっきの豊明市に入ったところの峠の下なのでした。

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 道を間違った挙句の居直り徘徊でしたが、豊明のエッセンスというような田舎の風景に出会えました。特に坊主山から見た、丘陵に作られた田畑のよく手入れされた風景は見事なものでした。一方では林を切り開いて住宅地が広がりつつあり、工事現場みたいな原っぱになっているところもある。宅地化はやむをえないにしても、林や野原も残して、坊主山の田畑のような風景ができないものかと思います。
 変わりつつある豊明というところを少し理解できたような気がしました。

(つづく)

【本日のマップ】

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尾張鎌倉街道(1)豊明-二村山2

2012年5月15日(火) 大久伝-宿



【雨に咲く矢車菊】
■八幡社南30m(10:14)

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鳥居を出てすぐのところに北西に入っていく小道がありました。八幡社南30mから考えると、この辺りを旧鎌倉街道が通っていたのか?この先がどうなっているのか分からなかったので通りませんでしたが、大回りした先にも南に入る道がずっとつながっていました。

■十三塚の道(10:20)

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県道を越えてまっすぐ道があります。十三塚という地名の場所を通る道です。圃場整備のため今は塚があるわけではありません。途中から舗装がなくなりまして、これはまた足がびしょ濡れになりそうなので、迂回することにしました。まっすぐ先には大楠も見えています。

■雨の矢車菊

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道端に青い花が咲いていました。矢車菊だと思いますが雨に濡れてなかなか美しい。田植えをしていない田にも一面に咲いています。よくみると麦が植えてある。しかし耕作しているとは思えません。多分休耕田で地力維持のため麦をばら撒いているのいでしょう。飼料用かな。ちなみに矢車菊はヨーロッパ東南部や西アジアが原産で麦畑の中に咲いていたことから、英名は「コーンフラワー」というそうです。麦と相性がよいのか。

■大楠と青木地蔵(10:30)
大楠が見えています。大楠といってもそんなに太くはないので何代目かの楠でしょう。しかし周囲は田んぼなのでよく目立ちます。おそらく鎌倉街道現役のころもこんな感じで街道の目印だったんでしょう。

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楠の下にあるのが青木地蔵で、仁冶二年(1241)の銘があります。豊明市教育委員会の説明書きによると、本物は、大正6年(1917)、沓掛町寺内地蔵堂に移されたとあり、これは代替仏です。土地区画整理で十三塚は消滅してしまいましたが、青木地蔵の塚は残ったといわれています。

■二村の宿に入る(10:35)

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鎌倉街道は大久伝-十三塚-宿を経て二村山に通じていました。その宿に入っていきます。
現在の「宿」の地には、昔、両村駅(ふたむらえき)が置かれていた。鹿嶋社の由緒書きによると、二村の駅は沓掛本郷と沓掛宿の二ヶ村からなっていたので二村の宿と言われたそうです。

■鹿嶋社(10:42)
その鹿嶋社も鎌倉以前からあって、もともとは川嶋社で、祭神も今はタケミカズチ神ですが、本来は水神・ミズハメ神を祭神としていたようです。宿の地名も古くは字川嶋だった。上流に勅使池をはじめとする7つの池があるように、住民は水に苦労していたようです。

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境内には業平の歌碑があるようですが、雨のため見落とし。今は雨に苦労しております。

■鎌倉街道遺構の道(10:49)

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鹿嶋社の裏手になる細い道、ここが旧鎌倉街道の遺構とされている道です。そうでも言われなければ分からない、普通の道でした、



■十王堂の丘(10:56)

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ここから旧街道は十王堂の小さな丘に登っていきます。今はちょっと大回りして住宅街の道を通ります。住宅街といっても畑のほうが多いところです。こんなところを通っていたんだ。丘を越えて若宮交差点に入っていきます。


参考文献
(1)なごや史跡探訪 幻の古道鎌倉街道;http://16.pro.tok2.com/~pegasus1297/A50_1.htm
(2)ぶらり豊明おもしろ発見!;http://park.geocities.jp/huta1311mura/syogaigakusyu-2111-3.html
(3)まちもよう;http://www5.ocn.ne.jp/~matimoyo/kamakurakaidou-8.htm

(つづく)

【本日のマップ】

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尾張鎌倉街道(1)豊明-二村山

2012年5月15日(火) 豊明-大久伝



 昨年夏からいろいろありまして、サボりにサボっておりました。なかなか書く気力がわいてきませんが、うかうかしていると、1年のブランクになりそうとて、書き出しましたが、書き出すまでに3月ほど経っております。ブログの体裁とかコントロール方法も忘れてしまっているようで、とにかく書いておかねば・・・
 ちょっと整理しておかないと忘却の彼方でつながりが分からなくなっています。
 三河の鎌倉街道としては、2010年9月22日(水)に知立・八橋から刈谷・西境まで来て、境川堤防を下って豊明まで来て、とにかく尾張に入ったのでした。また、東海道歩きとしては、同年12月5日に御油から岡崎、6日(月)には岡崎を発ち踏分の森から鎌倉街道に入り、八橋・駒場まできて、とにかく街道歩きとしてはつながって尾張まで来たとおいことでした。だいぶ分かってきたぞ!
 今日は知立から東海道を豊明まで。そこから大久伝で鎌倉街道に合流したいと思います。が、朝から!雨!!それもかなりしっかりした雨で1日続くという予報です。今、刈谷のホテルですが、予報通りの雨です。しかたがないので、ショートカットして豊明まで電車で行き、そこから少し歩いてみることにします。

【雨の境川】
 9:00、意を決して名鉄豊明の駅を出ます。降りしきる雨!
■旧1号線を境川に向かいます

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新しい街道松も植えられていい感じなのですが・・・・




■境川の境橋(9:06)

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向こうは三河、こちらが尾張です。ここには藤原光廣の歌碑があります。「うち渡す尾張の国の境橋 これにかわの継目なるらん」とあって、駄洒落の類ですな。にかわ、にかわ、みかわ、みかわ…バンザーイ!と解釈するか?また、この橋は昔は、中程より西は板橋、東は土橋という継ぎ橋で、度々の洪水に流されたそうです。ナルホド、ニカワで継いであったので流されたのか?まさか?ニカワで継いだようによく流されたのか?このように解釈するんでしょう。

■堤防からの境川橋

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雨なので冗談を言ってる場合ではありません、先を急ぎます。
賑やかな河原です。白い花はノイバラ?卯の花?いろんな植物が生えています。晴れていれば遊ぶのに。この雨では近寄って行く気力は出てきません。
堤防はすぐ地道になります。アカツメクサ(でよいのかな?)が咲き乱れ、まことによい感じの小道なのですが、晴れておれば・・・

■びしょ濡れの堤防歩き

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いい感じの堤防なんですが、草が覆ってないところを歩けるので濡れないと思っていたら、10分も歩くとくるぶしから下がもうびしょ濡れです。これには閉口しました。冷たいし寒い!

■堤防脱出(9:25)

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苅外山というところでほうほうの体で堤防から逃れました。伊勢湾岸道路の高架の下で雨宿り兼休憩です。といっても雨が止むわけではない。元の堤防に戻る道の先にこんもりとした森が見えています。あそこに寄ってみよう。

【雨の大久伝】
■中島八剱社(10:07)
地図では中島八剱社とありますが、八剱明神という額がかかっていました。改築されたばかりのようで柱や壁はえらく新しい。ちなみに、八剣神社(はっけんじんじゃ / やつるぎじんじゃ)をウィキペディアで調べてみると、なんと岐阜県が圧倒的に多く、その次は愛知県。データは全部は調べられてませんが、主祭神は日本武尊。岐阜県や愛知県に多いというのはなんとなくうなずけるところです。

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さらにちなみに、大阪にもありまして、菱江の八劔神社は、暗越奈良街道・河内街道の交差点付近にあり、祭神は宇賀御魂之神と八劔大神。さらに、その勧請元である放出の阿遅速雄神社は江戸時代の頃は、八剣神社と称されていたそうです。祭神の八劔大神は草薙御神劔御神霊。味耜高彦根之命は別名 迦毛大御神、鴨氏の祭っていた神ですね。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2009/11/post-57b1.html

菱江の八劔神社では味耜高彦根之命(八劔大神)となっていたり、八劔大明神は須佐之男命と同体という記述もあってややこしいですが、八剣神社は草薙御神劔がらみというころで大くくりできそうな気もします。そうすると拝殿横後方にあった8つの祠は何?剣が8つなので八剱社なのか?よく分からなくなりました。

■庚申塚

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雨で動き回れないので早々に退散。神社の横には庚申塚もありました。ちゃんと祀られています。





■雨に煙る国境の橋(9:56)

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神社前から堤防に戻る道もありましたが、これ以上濡れるのは嫌なので住宅街を大回りしました。さて、三河の西境と尾張の大久手伝を結ぶ橋。前回はこの橋の対岸まで来ていたのでした。雨なので渡るのはヤメ。代わりにノイバラの花を撮っておきました。

■鎌倉街道ゆかりの歌碑(9:59)
橋のすぐそばには歌碑がありました。

それと聞くしるしばかりかさかひ川 ほそき流は名に流れても  
                    飛鳥井雅世

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鎌倉街道は二村山より東南、宿を経て大久伝の北を通過して西境方面に向かっていました。境川を渡ったのはここより少し北、酒井神社のすぐ北側と思われます。二村山は西のあの辺りの平たい山になるのか?

■大久伝(おおくて)は湿地
大久伝の地名は湿地を意味する「クテ」から来たとされているようです。 クテ地名は、尾張・三河国境周辺から東美濃にかけて多くみられるようで、確かに長久手とかある。このあたり一帯は低湿地が広がっていたと考えられます。

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このあたり、昔ながらの倉庫が残っています。独特の黒塗りの板壁。三河周辺ではこの手の黒壁はよく見かけました。尾張になってもそうなのかどうか興味があります。その昔、仕事で豊明のとある会社に粉砕機のテストに来た記憶があって、工場のすぐ横には広大な田んぼが広がっていた風景がどうもこの地によく似ていると思って、後日地図を見て探していたら、ありました!それらしい会社名が。先ほどの中島八剱社のすぐ近くでした。なんやすぐそばに来ていたんや!

■大久伝 八幡社(10:17)

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ここには十三塚の碑があるらしいのですが、うろうろ探すのもできなかったので見ていません。後日調べると、鎌倉街道の経路が解説されていて、鎌倉街道は、二村山より東南、宿を経て西境に至り、大久傳八幡社の南30mのところに鎌倉街道が通り、南に十三、北に七の塚があり、経塚、又は非業の死者の墓とも、またお紺女郎の塚とも伝わる。土地改良事業施行のため、現況が変わるため、鎮魂と記録のため建立する と解説してあるらしい。
十三塚は鎌倉街道の大久伝と宿の間、青木地蔵の楠にかけてあった塚で、かっては街道を挟んで南側に13基、北側に7基ありましたが、昭和45年頃、土地区画整理で青木地蔵の塚を除いて消滅してしまったということです。現在は地名のみが残っています。

■掲示板に「大久伝八幡社と宮大工伊藤平左衛門」という豊明市文化財だよりの記事が張り出してありました。それによると大久伝は江戸初期に新田開発された土地であるようです。ならば、それまでの鎌倉街道はえらくさびしげな湿地帯を縫うようにして走っていたのか。

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大久伝八幡社は慶安2年(1649)の建立らしいですが、文久2年(1862)に拝殿が造営されました。詳細は掲示板を見てほしいですが、その棟梁が伊藤平左衛門守富(八代)ということでした。彼は高野山金剛峰寺金堂など著名な建造物も手がけています。九代守道は磐田の見附学校も建築している。この拝殿もなかなか由緒正しき作品のようでした。帰り際に一人の参拝者と会いました。この雨の中を!やはり有名な神社なのでしょう。

(つづく)

【本日のマップ】

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2011年9月23日 (金)

東海道ウォーク 岡崎-知立(5)【八橋-知立】

2010年12月6日(月)




■淨教寺(12:26)
無量寿寺は3回目ですが、カキツバタのシーズンを過ぎると本当に静かなお寺です。近所の人が立ち話をしているだけでした。何をしにいったかって?トイレを借りたんです。代わりに淨教寺を載せておきます。以前犬が吠えたお寺だ。

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■村のよろずやさん?(12:29)

・・・かどうか知りませんが、こういうお店は少なくなりました。

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■在原寺(12:30)

さてここには山頭火の句碑がありますが、そこには

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 今は むかし、男ありけりという 松が青く
 はこべ花咲く 旅のある日の すなおにも 
 枯れ草に かすかな風が ある旅で

の3句が彫ってあるのです。最初の句の「今は」って何?
前回来たときに見つけて、落書きかと思っていたんですが、気になって再度確認に来たという訳です。
 「今は」は確かに彫ってありました!しかし、「今は」は本来ないと思うのですが・・・
この碑は、昭和63年11月に建立。その後訪れた人のブログをみると、平成7年(1995)時点では、ない!
俳人山頭火の句碑 在原寺 (平7.2) ;http://www.harusan1925.net/1212.html
その後、山頭火のオリジナルは、「今はむかし・・・」となっていることが分かって(あるいは、最初の彫りが間違っていて)修正したんでしょうか?まだ謎は続きます。

■万葉椿
ここには万葉椿というのがあります。葉っぱの先が金魚の尾っぽのように分かれている。このあたりの鎌倉街道沿いには、この万葉椿がたくさんあると言われています。その昔、在原業平が金魚の尾っぽに似た葉を見て「万葉椿」と読んだのが始まりという。
写真では分かりませんが、行ったら見てください。

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■根上がり松(12:37)

あいかわらず元気!

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■業平塚(12:39)

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業平の骨を分骨して墓所としています。鎌倉末期に建立の供養搭と記念碑があります。すぐそばを名鉄が走っています。

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■駒場点描

駒場に着きました。この街、落ち着いていて気に入ってます。

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■神明社前の蔵(13:01)
白壁にトタン張の蔵です。この建物も結構気に入ってます。見れば見るほどおもしろい、味がある!何かの顔に見えませんか?ノラクロ?

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 この後、近くの喫茶店にいって遅めの昼食としました。今日はちゃんと開いていました。けっこう混んでました。

■極楽寺(13:45)
ブラブラしながら知立に向かいます。極楽寺の、モチノキでしょうか。圧倒する巨木!いい感じです。対面の松もいいですね。

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P1190512

■黒塗りの家
極楽寺の隣にある家。作業場なのか民家なのか?ガラスは割れていますが作りはしっかりしています。使わないのはもったいないと思うが・・・

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■男橋(13:50)

川は逢妻男川です。飾りっけなくていいですね、男橋。渡った知立側から駒場を振り返っています。駒場はまた来たいと思っています。

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■御手洗池(14:00)

池鯉鮒の名の起源になったと言われる池です。信仰よりも生活の都合の方が強かったのか。

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■知立の街
多分内幸町辺りを東から見ていると思いますが違うかな?このあたりもかなりブラブラしました。結構旧めの家も残っていてお気に入りの街です。まだ歩きたりないところがあります。
もう1回来るかな?これから大阪に帰ります。

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 さて、2日間、いい旅でした。東海道は歩きは、途中で鎌倉街道がおもしろくなって宇頭-今本町間が抜けていますが、古東海道ということで許してもらいましょう。豊明までは鎌倉街道づたいに歩いているので三河は越したことになります。が次回は知立から豊明まで行って、また鎌倉街道を探しながら歩いて東海道に戻り、七里の渡跡まで行きたいと思います。

【本日のマップ】

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(おわり)

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2011年9月16日 (金)

東海道ウォーク 岡崎-知立(4) 【里町-八橋】

2010年12月6日(月)


 

■踏分の森はるか(10:55)
まっすぐ歩きます。歩きながら、ここをどういう風に呼んだらいいのか?考えていますが・・・とりあえずタイトルは里町にしておきました。
鉄塔の道まで来て左折して振り返って踏分の森を見ながら歩きます。

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■ピットイン(10:56-11:10)
歩くまでは田んぼの真中にハイカラな名前の喫茶店があるもんだ、と思っていました。考えると、三菱自動車の工場は近くにあるし、周囲は部品工場がたくさんあるんでした。ピットインという名前も頷けるところです。ここで15分休憩。お昼前というにに、かなりはやっていました。

■内外神明社(11:15)
当初喫茶店から西北にまっすぐ行こうと思っていたんですが、南にこんもりとした森が見えてきたので寄ってみることにしました。

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例によって裏からです。行ってみましたが、情報全然ありません。神明社というからには、伊勢神宮内宮を総本社する神社でしょう。祭神は天照大神。違うかな?神社本庁によると神明社(神明神社も含めて)日本全国に約5千社あるとされています。
神社の裏は一面の田んぼです。

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■証文山
途中水路を渡ります。橋まで若干の迂回。このあたりまで第一岡崎海軍航空隊の敷地がありました。すぐ先が里町で、見覚えのある歩道橋が見えてきました。

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 このあたり証文山という地名になっています。すぐ近くにも、壱斗山、大道山、二番山、屋敷山、愚通山など。見渡しても山らしい山はありません。謎。
不乗森神社前にあった鎌倉街道の案内図によると、これから通る明治用水本流と東山(東山中学校のあたり)の間に「大道山」と大きく書かれており、丘陵でもあったのかと思って、前はこんなことを考えましたが、それ以上情報がありません。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2010/10/post-6745.html

■明治用水(11:25)
明治用水、東井筋(中井筋が分かれるまでは本流か)です。用水は暗渠になって気持のよい遊歩道、サイクリング道になっています。ここは2回目ですが、なんだかホッとします。

P1190377

あとで地図を見たら、旧東海道はすぐそこで、正面の森は明治川神社のもののようです。
明治用水に関するリンク
http://www.library.city.anjo.aichi.jp/kyoudo/kyoudo41.html
http://www48.tok2.com/home/yamabiko/togarihp/meijiyousui.html
http://www.midorinet-meiji.jp/

■梨畑
あまりに気持がよいので3枚アップ。梨畑の向うに見える森は踏分の森です。案外近かった。

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-梨-

小川の底を梨が
ころがって来た
吉沢梨園からか
もっと川上の今村あたりの
梨畑からか
瞑虫駆除につかれて
小さいどんどんのそばに
かがんでゐると
冷たい水の底を
丸いのがころがって来た

(詩 昭和17年10月5日 新美南吉)
http://www.library.city.anjo.aichi.jp/kyoudo/nan01013.html

P1190386


■果樹の里(11:30)
道路、田んぼを横切って不乗森を目指します。たわわに実っているのはゆずでしょうか?道の向うにはまた梨畑が広がっています。まさに果樹の里。

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■東山中学校(11:34)
不乗森神社でみた鎌倉街道の案内図ではこの学校の右(東)を旧い鎌倉街道、西側を江戸時代の鎌倉街道が通っていたとありました。ボクが今回歩いたのは、江戸時代の鎌倉街道に近い道です(道はもうありませんけど)

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■宮橋(11:45)
里町の住宅街を抜けていきます。普通の住宅街でした。地図では猿渡川のそばに「七曲り」という地名があるんですが、何か街道の名残でもあるんかと思っていたら、ここも普通の住宅地でした。
猿渡川にかかる橋は宮橋で、ここは鎌倉街道の宮橋の跡地とされているところです。

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■金木犀の街路樹(11:50)
多分金木犀だと思うんですが、見事な街路樹です。こんな街路樹見たことありません!

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■今池(11:54)
今池というところですが、左の森(竹薮)が不乗森神社の森です。今回は行きませんが、高貴な御方もここで馬を下りて通過したので不乗森(神社)と言われています。しかしこれは明治以降のことで、昔は、駄野森山王宮と言っていたようです。
http://norazunomori.com/

P1190402


■犬走りの鎌倉街道跡(11:56)
まっすぐ行って少し右(北)にいくと看板がありました。前回この道が気になっていたが行かなかったのでした。家と裏手の畑の間の犬走りのようなところを通っていたようです。
家を建てるには絶好の場所のようですが、このままにしといてほしいな。

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■不乗森石碑(11:59)
少し南に戻った辻にはお地蔵さん、不乗森の石碑、さらに縄文ニタ股遺跡の石標があります。左手に進みます。

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■里町森の集落(12:05)
以前にも通った所ですが、なかなかいい感じ。

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■一直線
・・・と思っていたらすぐに通り過ぎました。

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ここをまっすぐ行きます。遠くにみえるのは、もう八橋の無量寿寺の森です。
途中で水路を渡ります。左手(南西)ですが、安城市街が見えます。ということ右手の森は御鍬神社の森か。
路傍のこの石はなんや?

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■明治用水西井筋(12:09)
再び明治用水ですが、ここは西井筋。ここから知立に入ります。
ここもお気に入りの道です。何回きてもいい。しかし、春~初夏がいいかも。

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■八橋(12:10)
無量寿寺の森が見えてきました。とりあえず寄っていきます。

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 鎌倉街道のあったらしい場所を歩いてきました。もちろん当時(江戸期以前)の面影はなく一面の田んぼ(畑)でしたが、当時は薮に覆われた低い丘陵を縫って一本の細い道が通っている、恐ろしく寂しい所だったのではないか、旅人は岡崎から矢作川を渡って、熊野神社辺りからは、時々見える鎮守の森を目当てに、走るように八橋、知立へ向かったのではないか・・・そんな感慨を持ちました。


【本日のマップ】

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つづく

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東海道ウォーク 岡崎-知立(3) 【矢作、尾崎】

2010年12月6日(月)



■旧街道に(9:45)
1号線から旧街道に戻って来ました。後ろを見ると遠くに堤防に上がる急坂が見えます。あそこが27曲り?ちょっと心残りですが、先を急ぎます。

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■弥五騰神社(9:48)

奇妙な名前なので調べてみると、元は彌五郎殿と言ったらしい。なに、弥五郎?あの巨人伝説の?しかし、どうも違う。

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 弥五郎殿社は津島神社境内にある摂社で、武内宿根の末裔という堀田弥五郎正泰が南朝に仕えている頃再建した社殿という記事が津島神社のサイトに出ていました。さらに調べていくと、やはり津島神社の弥五郎殿社と関係がありそうです。
http://miesin.com/a-yahagiginzya-taisai-2010nen.htm

■またしても十王堂?(9:50)
あの閻魔さまかと思ったら、こちらの十王堂は違うのか?誓願寺の十王堂で、義経と浄瑠璃姫の悲話があって、その縁の品や像などが安置されているようですが、地獄図絵もあるようです。見てないのでなんとも・・・左手の石塔は「浄瑠璃姫菩提所」と書いてあります。

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■読めない神社(9:54)

高岡屋が見えてきます。街道ウォーカーの目印になってる?それほど目につきます。

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 すぐに神社がありますが、これが読めない!書けない!竊樹(ひそこ)と読むのだそうです。これは無理です。昔は上加茂大明神と言い明治時代は加茂社といっていたが、大正2年(1913)、矢作村盗人木の竊樹社を合祀し竊樹社とした。昭和28年に地名が盗人木から末広となり、その後この竊樹社と竊樹神社に分かれた。ややこしいです。

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 さらにややこしいのは、なんで盗人木という地名を付けたんや?なんで竊樹(竊は「ぬすむ」「密かに」という意があるらしい)という社名をつけるんや?祭神は御気津神(食物の神)なので、もっと素直な名前を付けたら?と思う。甚だややこしいので、再び下記を参照ください。私にはよく分かりません。
http://miesin.com/a-yahagiginzya-taisai-2010nen.htm

P1190305


■国道合流(9:57)
国道に合流しました。矢作ではあまりにややこしくなったので国道を飛ばします。

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途中、櫓のあるお寺を通り過ぎたほかは何も覚えていません。無心に歩くのもいいと思います。前方に横綱ラーメンと松並木が見えてきました。安城に入ります。この間、約25分。

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■柿崎松並木(10:22)

横綱ラーメンで1号線と分かれます。宇頭だと思っていたら、柿崎なんですね、尾崎か?
松並木いいですね、ほっとします。快適に飛ばします。

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■尾崎市場屋敷(10:29)

ここは尾崎町ですが、市場屋敷という地名が付いています。
その通りのお屋敷があります。このところよく見かける白壁に板張の蔵。

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■予科練の碑(10:32)

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 宮前の熊野神社の横(境内の一角?)に予科練の碑があります。案内板を見ると、ここには終戦間近に、第一岡崎海軍航空隊が置かれ、飛行予科練習生の即戦力養成が任務で、昭和19年5月から1年もたたないうちに6000名が入隊し、次々に各地の実戦航空隊の実務練習生(という名の、多分、実戦部隊)として送り出されていった。ここから北、三菱自動車の岡崎工場の手前に滑走路があり、今の県道の手前から旧東海道までに兵舎や練兵場、本部などがあったようです。戦後は進駐軍により破壊され農地や工業用地になりました。後で行く熊野神社の裏には、あくまで平坦で広大な農地が広がっています。

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 碑と説明板は昭和61年のものですが、説明板には「戦後40年経った今、驚異的な経済成長に伴い、前線に巣立って行った若者のことも人々の脳裏から消え去ろうとしている。この史実を後世に伝えたい」と言う意味が書かれています。
 分かりました、受け止めました。少しでも伝えられるよう、ここにも記載しておきます。

■踏分の森(10:33~45)
 ここは旧東海道と鎌倉街道が交差しています。それで熊野神社の森は「踏分の森」と言われています。さらに東海道の尾崎一里塚もあった。ここで鎌倉街道が分岐していました(交差か)。

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 鎌倉街道は、京側からは北西の不乗森神社-証文山東-熊野神社-西別所町-山崎町-新堀町-大和町桑子と通じていました。
 神社西側の小路が、鎌倉街道の遺構とは言いません、名残というか、その昔、ここを通っていたんだという縁の道になっています。

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■熊野神社

境内はかなり広く、奥のほうに社殿があります。和銅元年(708)、土地の長者が熊野大神を祀ったのが起こりとされ、後に村人たちが鎮守として崇めるようになった。祭神は伊弉冊命です。社殿右に秋葉神社があります。

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■古の鎌倉街道(10:49)

神社の裏手に回ってみました。道は途中から鎮守の森を通ります。そばには工場が迫ってきていますが、バッファとして田んぼ(畑)が残されていますが、時間の問題のような気もする。鎮守の森の木々は若木が多いです。

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 北を向くとその広さに唖然とします。さすがに元航空隊の基地。右手遠くに見えるのは三菱自動車の工場でしょうか。方角からいうとそうなります。
 さてこの道を鉄塔のあたりまで歩きます。

P1190358




【本日のマップ】

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つづく

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2010年11月 4日 (木)

かきつばた鎌倉街道(2)刈谷・西境-豊明

2010年9月22日(水) 




【境川堤防をあるく】
 ゆっくり休んで、12:45出発です。ここで大きなまちがい。方向感覚が狂ったのか、左に行ってしまいました。堤防を道路と間違ったみたい。高速に突き当たって堤防を引き返してきました。約20分のロス。

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川は境川というように、川向こうは尾張になります。

■堤防を歩いていきます。右下には神社が見えますが、あれが酒井神社のようです。

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■鎌倉街道標柱発見(13:16)
 川に取水かなにかの井堰が見えて、番小屋を過ぎたところから堤防の右下に標柱が見えました。たぶん、あれが鎌倉街道の標柱でしょう。
 田んぼの向こうには祖母神社の鎮守の森が見えます。なんだ、割りと近いではないか。反対側(尾張側)は学校の建物が正面に見えました。

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 降り口を探して少し行くと、ちゃんと踏み跡ができていました。結構人が訪れているようです。そこから振り返ると酒井神社の森とまっすぐな農道が見えます。地図で確認すると、なんださっきのレストランの辺りからまっすぐに400mほどで到着するのでした!

■鎌倉街道西境跡(13:18)
 石標は堂々と建っています。なんでも、地元の鎌倉街道研究家が、後世の愛好家のために建立されたという貴重なものです。石標の裏には四六と縦に刻まれています。これは46基ということ?昭和46年との建立なのか?
 もうなくなられたということで、貴重なものを残していただきありがたいことです。

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■酒井神社(13:26)
 社殿の裏から入りました。いつものことですが・・・。本殿、拝殿、鳥居とめぐっていきます。酒井神社の手がかりになるようなものはありませんでした。刈谷市の建てた案内標も簡単過ぎるし・・・

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■境川堤防(13:46)
 これから豊明駅に行きます。堤防の道をモクモクと歩きます。伊勢湾岸高速道路を過ぎて、前後の写真を撮っておきました。前方の赤いビルあたりが東海道のようです。

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 少し下流に行きますと、白鷺がのんびりと魚を待っています。ここでツツクツボウシが鳴いていました。今日は暑かったから慌てたんでしょうか。今年の聞き納め。

■境川の境橋(13:54)
 東海道(旧1号線)に出ました。境川にかかる境橋。分かりやすいです。新しく付け替えられたようで「平成6年」と書いてありました。ここを渡ると豊明、尾張になります。

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 説明板によると、「慶長6年(1601年)東海道に天馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち会いで橋がかけられた。この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。

 やがて継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。」

 境橋を渡ったところに藤原光廣の歌碑がありました。   

うち渡す尾張の国の境橋 これにかわの継目なるらん

シャレかい!

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■豊明着(14:00)
 東海道は新1号線の土手下(脇)を通って、さらに高速(伊勢湾岸道)をくぐります。くぐったところにキロポスト。344.5kmだそうです。まだ300キロ!前方の信号を渡れば名鉄豊明駅です。

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■喫茶店で休憩です(14:09)
普通はホットですが、今日は暑かったのでアイスコーヒーとしました。朝出るのが遅く、暑かった割りには比較的早めに豊明につきました。やれやれ。

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【知立散歩】

■さて、早く終ったので知立にてお土産を買いに行きます。
 その前に、名鉄知立駅には駅のホームに祠があるのでした(14:53)。よくみると駅のずっと南、弘法町にある遍照院の遥拝所になっているのでした。まさに弘法大師の街ですね。

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■鉄砲かあんまきか(15:00)
 トコトコ東海道キャンペーンの幟が建った本陣跡を見て、旧東海道に入り、知立古城跡も過ぎて、到着しました、鉄砲屋さん、もとい元祖あんまき小松屋さん。

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  いつも不思議に思うので、たまたま店にでておられたご主人に聞いてしまいました。

「ここはどちらが本業なんですか?」

 ご主人は笑いながら、「あっち」と奥のあんまきの方を指差されました。白あん、黒あん、両方を合計6本買い求めました。
「置いといて硬くなったらチンするかオーブンで焼いたらおいしいよ」とアドバイスもいただきました。

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甘さおさえたすっきり系の味でした。

(いったん終り)

【本日のマップ】

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かきつばた鎌倉街道(2)刈谷・東境-西境

2010年9月22日(水) 



曲者の四つ辻(11:16)
 竜ヶ根池を過ぎると四つ辻になっていて、イチョウの樹お下に祠がありました。この四つ辻が曲者で、「まっすぐ」と覚えていたので、そのまま行きましたが、こには五叉路になっているのでした。

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田んぼの中道をゆく(11:20)
 結果は街外れの田んぼの中に入っていきます。まあいいか、と思って先に行ってみますと、大きな観覧車が見えます。あのむこうは刈谷PAになっていて遊園地があるんでした。たしか温泉もあったように記憶しています(どこかのブログでみました)。

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 西へ行けばよいので適当に曲って田んぼの中の農道をを行きます。

■新池という池の端を通り過ぎて、適当に曲って、ようやく復帰したようです。すし屋さんの纏が目印です。ここは東境という所ですが、古い村であったようで道が入り組んでいます。

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 どっちみち街道は消えているのであえて直線の広い道をとって富士松図書館のところで高速をくぐりました(11:36)。

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 なお、下記サイトを参考にさせていただいて、旧街道と思われるルートを赤字で示しておきましたが、だいたいは消滅してるようです。
http://16.pro.tok2.com/~pegasus1297/A50_1.htm

祖母神社(11:43)
 祖母神社は街外れの田んぼの際にありました。由緒は写真の通りですが、秋葉社、山神社、白山社などが末社として祀られています。

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 この境内の西側には鎌倉街道が残っているというので来てみたわけですが、よく分かりませんでした。もっと奥に入らないとだめなのか?鎮守の森は鬱蒼と草木が茂っていて、少なくとも下記サイトにあるような明るい道らしきものは見られませんでした。 

① http://hazardous.blog34.fc2.com/blog-entry-141.html
② http://www5.ocn.ne.jp/~matimoyo/kamakurakaidou-7.htm

  

 境外には、鎮守の森に沿って北に向かう道がありました。農道でしょうがこの道も気持ちよさそうな道です。

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 「ひねもすのたり宮」のサイト(①)によると、旧鎌倉街道は境内を突っ切って、長善寺の方に向かい、途中で西北に曲って境川堤防に向かっていたようです。

 

鎌倉街道伝承地碑
 ここには「鎌倉街道伝承地」の石碑と由来案内の石碑が建っていました。苔むしていて字が非常に読みにくいが書き起こしておきます。
------------------------------------------------------------
鎌倉街道の由来

 ここに言う鎌倉街道とは、建長三年(1192年)に源頼朝が整備した官道東海道のことで、経済文化の京と政治の中心鎌倉とを結ぶ、軍事的にも重要な道路として、当時は大層な賑わいを見せた。
然るに慶長六年(1601)徳川家康が現東海道を官道として、伝馬宿駅の制を設けた際にこの付近は廃道となり、漸次荒廃して今日に至った。これを後世鎌倉街道という。
  当市内での鎌倉街道は、ここを中心として西北は西境町酒井神社の北方から境川を越えて豊明町大久伝に接続し、東南は新池の南から竜ヶ根池の堤を通り、一里山町境から豊田市内に達する約三粁間である。
 現在大部分は消滅したが、この地点は近ごろまで農道として利用されていたので、漸く破壊を免れたもにである。
 以上その由来の大略を記して往時を偲ぶ「よすが」とすると共に、現状の保存につき格段の御理解と御協力を賜るよう、切に希望する次第である。
-----------------------------------------------------------

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鎮守の森(11:55)
 さて、その酒井神社の北にある境川渡河点を目指します。しかし現在、情報はこれだけです。まずは堤防の上からまたは下から探さないといけない。
 祖母神社からまっすぐ酒井神社を目指しています。振り返ると祖母神社の鎮守の森。

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西境にて徘徊(11:57)
 ルートは記録してきていますが粗いマップなので、旧の村の中では道がややこしいです。どっちみち旧街道は消えているので分かりやすい道を行けばいいようなものの、そこは徘徊好きですから・・・このあたり、結構新しい家が建ってきていますが、突如古めの祠や常夜燈が現れたりします。

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公園で小休止 また徘徊(12:02)
 ここは西境の集落の中心のようです。トイレもあるので助かります。ちょうどお昼時なので食堂(か、喫茶店)を探していますが、この調子ではなさそうです。

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 公園の前の細い道を入っていくと、突き当たりにはお地蔵さんの祠。右か左か迷ったあげく、左に行くと個人宅の庭先みたいなところに出て、仕方がないので建物の間の路地をすり抜けて、やっと脱出しました。

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 これから行くべき北のほうを眺めてみてもお店らしきものはなし、目に前の大通りを渡るとレストランがあったのでそこで昼食(12:12)。さっき通ってきた路地とは似ても似つかぬ今風のお店でした。今日のランチはカレーでした。

 しかし、これがまちがいの元になりました。


【本日のマップ】


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(つづく)

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2010年11月 3日 (水)

かきつばた鎌倉街道(2)寄ってみて豊田 2

2010年9月22日(水) 



駒場小学校(10:41)
 バイパスを越えて街道を行きます。駒場小学校は創立明治6年10月というので相当古いです。その前には鎌倉街道伝承地の案内板がありました。江戸期の東海道に負けず劣らず、活発に利用された大動脈のようで、東海道よりもおもしろいかなと思いはじめています。

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 豊明から先の鎌倉街道跡地も野並あたりまでは調べたので、赤線で示しておきました。きちんと調べて歩いている人もいるもんです!びっくり。
http://16.pro.tok2.com/~pegasus1297/A50_1.htm

■逢妻女川を渡る(10:44)
 逢妻女川を渡ります。駒場に来るまでに渡った逢妻男川と対になっていて、駒場のすぐ西で合流です。ここは駒場から下ってきて一番低いところです。ここで5m。水面は2mくらいですか。ここなら「昔」海だったというのもうなずけます。

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駒新町(10:46)
 ここからゆるやかな坂を登っていきます。

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 低い丘陵(約20m)の上に住宅地ができていました。元々は畑のようです。

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 坂を登る途中に新田神明社がありました。昭和16年の造営で新しく開拓された新田住民の建てたもののようです。この辺りは土が赤い?

ぶどう畑(10:58)

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 丘陵地帯はぶどう畑になっていました。その他、野菜など。しかし、この東方は中田町の住宅地になっています。ところどころに部品の工場もある。このあたりから、東が豊田市、西が刈谷市になります。

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 工場の保安のおじさんがきちんと挨拶してくれるのがうれしい。

富士塗料工業所(11:05)
 ・・・と、実名を上げておきます。両側は同じ工場ですが、工場敷地の真中を鎌倉街道(跡地)が通っていて、ここを通り抜けると「鎌倉街道伝承地」の石碑が建っています。なんでも先代の社長だったかが工場を2つに分けて提供したのだとか。東が豊田市、西が刈谷市で市境が走っていることもあるでしょうが、街道ウォーカーにとってはありがたいことです。

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 富士塗料さんを過ぎると刈谷市域を通るようになります。あとで地図を調べてみると、ほんの少し西にはトヨタ車体さんがありました。以前、車で何回か連れてきてもらったことがあるんですが、やっぱり自分で歩かないと土地勘が養われません。東海道の一里山もその近くです。


【本日のマップ】

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(つづく)

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