京街道

2013年9月 8日 (日)

茨木街道をあるく 道草編 (1) 変貌する枚方宿

2013年9月3日


 淀川を枚方まで下りてきました。
 ここから茨木街道をあるき道祖本街道に接続、箕面まで。最終的には勝尾寺まで行きたいと思います。
 昔の茨木街道は枚方の渡しで対岸の大塚に渡り、そこから茨木・郡で道祖本街道に合流、宿河原までですから、今回は道草が大半です。
 それでは

■変貌する京街道枚方宿
ちょっと来ないうちにいろいろ新しい動きがでています。ビオルネを越えて街道筋への入口にあった古めの食堂がなくなり、建物も新しくなってカフェになっていました。街道筋に入っても、古い建物が壊されていました。見慣れない建物も。昭和は遠くなりにけり、というところですかね。

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上の写真、2枚めは三矢公園の前ですが、1枚めはひょっとしてコレを壊したの!?もうビックリです。写真は2008年7月28日。

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■鍵屋のほうはまだ無事です
問屋役人・田葉粉屋と、左に行けば問屋浜。 

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鍵屋の鍵や?

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■伊加賀切れ水害碑
桜町信号の場所にある伊加賀切れ水害碑。伊加賀切れは淀川史上最大の洪水と言われています。大阪平野に古代の河内湖再来といってもいいほど。上町台地を除く大阪全域が水没したほどの洪水でした。 http://yone37458ballet05410n.web.fc2.com/nanshiki/ikaga/ikaga.htm

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破堤は180mにもなり、決壊でえぐられた跡が「入江」のようになって、やむなく元の堤防から大幅に後退させて仮堤防を作りました。その跡が桜町の湾曲道路として残っています。「入江」の様子は明治21年測量の陸測の地図に残っていますし、電子国土WEB.NEXT、枚方付近で明治前期の低湿地オンで見ることができます。
http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/#zoom=16&lat=34.81103&lon=135.63616&layers=BTTTT
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■枚方合同樋門跡
枚方大橋に行く途中、堤防上にあります。昭和5年から淀川左岸を潤していた農業用水の取水口です。現在は寝屋川の木屋から取っているようですが、潤すべき農地はあるのか?度重なる淀川改修でこの付近の淀川の水位が下がって取水できなくなったため廃止になったようです。

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この記念碑の背後(道路を隔てて南)にあるのが・・・・

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かつては毛馬閘門まで水路が敷かれ、大阪平野の5000haを潤していた。

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今は取水口一帯は親水公園になっています。撮影の時期は違います。2008年1月9日の撮影。

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上を通るは国道170号へのアクセス道路。その下をくぐって公園は続いています。

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桜町の仮堤防跡の湾曲道路西の端に橋があって、その上から写しています。ひと仕事終えた後、2度のお務めの親水公園、いいですね。

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■枚方大橋をわたる
船がなんそうも出ています。

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浚渫なのか?川砂取りをしていました。川砂はこうやって採るのか。

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2012年3月31日 (土)

西国街道(5)調子八角-東寺 (番外:納所~久貝)

2012年3月12日(月) 



【納所】
 もう11時を過ぎました。先を急ぎます。ちょっと気になる商店街を通っていきます。
 納所の交差点です。へえ、千本通はここから始まるのか?千本通は北は北区鷹峯から始まります。京都の南北の通りで一番長いのではなかろうか?千本通は平安京の朱雀大路をその起源とします。羅城門から下鳥羽までの鳥羽作り道と新たに開かれた桂川左岸の堤道が鳥羽街道で、京からから見て大坂街道とも、大坂方から見て京街道とも言われます。伏見道も京街道というのかな?今度歩きましょ。

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 納所は納所から来ています。いやいや、のうそはなっしょから来ています、ということです。納所【なっしょ】は元々、年貢などを納める所またはそれを扱う人とのこと。淀川水系は水運が盛んで、淀津に年貢などを納める納所(なっしょ)があったことから納所(のうそ)とわれるようになりました。古代からの言葉のようなので、桓武天皇の長岡京の頃から淀にあったのでしょう。それ以前、平城京の造営の際も、各地から木材等が巨椋池に集められて奈良に送られたようです。
 この辺りは江戸時代は宇治川の対岸で朝鮮通信使が上陸した船着場の跡「唐人雁木旧趾」や、桂川と宇治川の合流付近に二つあったという水車の跡「淀川瀬水車趾」があります。石碑だけですけど。今回はパス。

【後退した大下津村】

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 桂川を渡ります(11:13)。宮前橋の上から下流を眺めていますが、河川敷に低い堤防みたいなものが見えます。新之介さんのサイトにある明治23年測量の地図を見ていると、旧の山崎通はもっと桂川の水流に接近していてカーブの具合がちょっと違いますが、まあ、この辺りに大下津村の集落があったか、それとも例の明治18年の水害以降に堤防を後退させた跡かなと思います。
http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html

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 さらに進んで府道123号が分かれる水垂交差点を過ぎると、なんだこれは!だだっ広い窪地が現れます。その時はよく分かりませんでしたが、地図をいろいろ見ていると、左手の道路沿い家が並んでいて、お寺もあって、そこが大下津なのでした。手持ちの国土地理院5万図は昭和36年(1961)測量ですが、そうなっているし、昭和49年頃の空中写真も同じです。確かに、窪地の中を見ると道路下の台地に石垣が見えており家があったらしい。最新の電子国土の地図、空中写真、Google mapの写真では123号線に沿っていた家が取り壊されて、より外側のもう1つの堤防の内側に建ちつつあるのが見て取れました。その堤防の家は真新しく、新興住宅地なのかなと思っていましたが、移転が進行している最中だったようです。

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■「国土地理院の空中写真(国土画像情報1974~78年撮影)」 400×241ピクセル→



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【日本のシュリーマン】

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 まっすぐな道を行きます。急に西山が見えなくなって、どうも雪が降っているようです。ちょっと嫌な感じ(11:21)。浄化センターあたりから長岡京市に入って、この道はサントリー通りというようになります。

 久貝というところを歩いていると、おや?何かある(11:30)。「中山修一記念館」とあります。はて、全然知りません。個人のお家のようですが長岡京を発掘した人の記念館で長岡京市立、無料なので入ってみることにしました。

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 係の女性が小一時間、付っきりで説明してくれました。懇切丁寧以上のものがあり、中山修一先生の伝記が書けるほどです!

 解説のエッセンスはこうでした。
 我々が平城京の後の都で習ったのは「794ウグイス平安京」ということで、長岡京というのがあったらしいことは知っていても、平城京と平安京のツナギの「長岡宮」程度のものである。学会レベルでもそのようでした。
 先生は長岡生まれで、歴史をやりたかったが、桃山中学-京都師範を出て学校の先生になった。おお、ボクの母親と同じコースだ!
 あるとき、先生は長岡にあった田んぼが条里制の田んぼの長さと違う。区画が大きく宮城の条坊制の長さとよく似ていることに気づきます。キッカケになったのが、ここの田んぼで農作業をしているおっちゃん、おばちゃんの話で・・・・

おっちゃん;「ここの田んぼは牛がうまく回れるんて楽なんや」
おばちゃん;「田植えや草取りで腰が痛うなる、難儀ですわ」

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ということで、「これは宮城、長岡京ではないか」という仮説を考えたのでした。そこで先生は長岡の地図に平安京の町割りをあてはめてみます。東は久我-淀・納所のライン、西は大原野-円明寺ラインの壮大な都の跡が出現しました。
 しかし、仮説だけでは話にならないので発掘して実証しないといけません。一介の学校の先生では当然発掘のお金がない。知り合いの大学のナントカ先生に別の発掘研究の研究費をまわしてもらうことでしのいでいました。しかしその研究が終ると資金がなくなります。先生は「スポンサーがいるから大丈夫」と支援者の先生に言っていたそうですが、そのスポンサーは実は自分であったらしい。密かに株投資をやっていたそうです。しかし、昭和42年、株価が暴落します。(繊維不況かなにかの時代ですね)。しかたなく、奥さんのお金もちょっと拝借されたとか・・

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 学校の先生なので発掘は休みの時だけ。それでは足りないので学校の帰りに発掘したり、全日制から定時制の勤務にあえて変えてもらったり(これとて役所は格下げ人事はできないと抵抗されたが、教育委員会のナントカ先生の口添えでやっと実現)、後には生徒や土地の人も協力するようになったということでした。まさにその情熱は「シュリーマン」。
 結果、昭和30年朝堂院南門跡を発見、それまで文献上の存在だった長岡京が実在したことが証明されました。以後、大極殿跡などを次々と発掘していきます。長岡京が実在した都として教科書にも載るようになったのは昭和59年です。
 後には長岡京は、冗談で「中山京」「中山狂」と言われるようになったとか。先生は単に発掘の虫だったのでなく、長岡京跡をはじめ、地域の遺跡を守る運動の先頭に立った。宅地開発が急激に進む中で、向日町や長岡の多くの遺跡保存の重要性を訴え続けた。こういう活動で、土地開発の前にはきちんと調査をするようになったと説明を受けました。
詳しくは長岡京市のサイトを参照ください。
トップページ;http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/09030172.html

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 長岡京の姿は平安京より若干小さく、東南端は桂川でナナメにカットされています。しかし、南の山崎津や淀津が使える。淀津で降りた人や荷物は小畑川河口からまっすぐ延びる朱雀大路を北に行けば大極殿に至るというものです。東市は工場が建っているので発掘できていないが、西市はだいぶ分かってきた(逆だったかも)と説明を受けました。
 確かに、一段と奥に引っ込んだ感のある平城京や平安京と比べると水運が使える点で抜群のロケーションです。堂々たる都城だったにちがいありません。しかし残念ながら桓武天皇は延暦11年(792)年の小畑川の氾濫を防ぐことができなかった。それに弟・早良親王の怨霊に悩まされ、結局長岡京は10年間で破棄されます。
 帰り際に、JR長岡京駅ちょっと西のマツダさんところが、先生の生家で長岡京発見のキッカケになった田んぼはその裏で、そこに新しい石碑が建ってるよ、と教えていただきました。行ってみましょう。A2サイズの航空写真に長岡京の町割りを入れた「わくわくマップ」もいただきました。

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 この記念館はお薦めです。サントリービール工場から至近。ここに立ち寄ってからビール工場に行くべきです!そのビール工場(12:35)。今日は行きません。
まだ西国街道のアプローチなのに、今日のメインエベントが終った感じです。

(つづく)

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2012年3月30日 (金)

西国街道(5)調子八角-東寺 (番外:淀)

2012年3月12日(月) 淀城趾




  久しぶりの西国街道です。前回、数ヶ所の道間違いがあって、間違いの発端となった調子八角からのリベンジとするか、それともJR向日町から直接羅生門にむかうか、阪急西向日で降りて長岡京大極殿跡をみてから西国街道に入るか、悩ましいところでした。前日、何の理由もなく淀経由調子八角にした訳ですが、これが大当たりの元になりました。

【淀城趾】
 いきなり番外ですが、せっかくなので淀城趾から。以前は、京阪電車で淀駅にさしかかると、淀城の石垣が見え、お堀には季節になると蓮かアヤメかなにかが咲いていて、しっとりした情景で、いつかは行ってみようと思っていながら数十年。近くにある場所は行かないもんで、淀城は今回初めてです。
 電車の前の方に乗っていたので(新)淀駅ホームの端から端まで歩きました。さらに南に。明らかに競馬シフトで従来の駅はナシのようです。

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 ガチャガチャしたところですな。淀城前の自転車の勝手置場?には閉口します。與杼神社(よどじんじゃ)とかありましたが行く気力がなくなりました。あとで調べてみると、淀・納所・水垂・大下津の産土神で、かつては水垂(桂川を渡った川向こう)にあったようですが、1900(明治33)年の桂川河川敷堤防の拡幅工事により、淀城跡内に移転したそうです。また、淀城趾の横には稲葉神社もありましたが、ずれた写真を撮っただけ。

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 さて、淀城趾です。淀城之古趾、淀城趾、淀小橋跡、唐人雁木旧跡の石碑が集められています。案内板によると、稲葉家の城だったんですね。淀ギミの淀城はもう少し先の納所(のうそ)の妙教寺がその跡らしいです。淀城之古趾はその古淀城の碑のようです。朝鮮通信使が上陸した船着場の跡唐人雁木も旧宇治川にかかっていた淀小橋を渡ったあたりです。淀小橋は今で言うと淀駅前のショッピングセンターあたり、唐人雁木は旧京阪国道納所交差点あたりでしょうか?新之介さんのサイトの明治23年の古地図と最近の地図との重ね合わせを参考にしています。やっぱり街道歩きには古地図は必須かなあ?

http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html

 今の三川合流点は八幡(・・というより、橋本)ですが、江戸時代の三川合流点は淀だったのだ。稲葉氏の淀城はこの三川合流点、というより巨椋池の出口に建っていたんですね。建てられたのは寛永二年(1625)、2代将軍秀忠の時代です。伏見城を廃城にして、交通、通商の要地である淀に築城されました。京のフタという意味もあったのではないか。ここに稲葉氏が入ったのは享保8年(1723)ですが、徳川縁の稲葉氏を置いて京への出入り、東西の交通の要所を締めるみたいな役割を果たさせたのではないかと・・・
 しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れ、さらに淀の戦いでも敗れて敗走する幕府軍を幕末の淀藩は藩主稲葉正邦が老中だったにも拘わらず、入城させなかったのだとか。ついでに言っておくと、さらに東高野街道を敗走していく幕府軍を北河内の家康縁の村でも戸を閉めて水も与えなかったとか。これは実際に当地に住んでいる人から聞きました。
R1228845_2  地図を見ていくと、淀川右岸には「山崎道」、続く宇治川右岸には「伏見道」の記述があります。いろいろ調べていくと、参勤交代も山崎宿で西国街道から分かれて久我畷に入り、小畑川からこの山崎道を通って淀城下から伏見道(淀畷)を通って、伏見-山科に抜けていったという記述がありました。城下を通ったのです。
http://www.eonet.ne.jp/~imagawat/yamazakimichi.htm

【秀吉の負の遺産】
 行きがかりで巨椋池のことを調べていたらおもしろいサイトに出合いました。宮本博司さんの講演録です。
Http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s0710/mi004.htm#N0018
 秀吉は文禄元年(実は天正20年、1592)、伏見に隠居屋敷・指月屋敷の建設に着手し(朝鮮出兵・文禄の役真っ最中です!)、さらに、明の講和使節を迎えるとき、権威を誇示するべく本格的な城郭への建て替えを実施します。文禄3年には完成した指月伏見城へ入りますが、同時に伏見城の外堀と伏見港を造るため、一番低い巨椋池に流れこんでいた宇治川を槇島堤を造って伏見城近くまでに引き寄せます。さらに、三栖から淀に至る淀堤(現在の京阪線の位置)で宇治川を堤防北側にあった大小の沼地と分離します。これで、宇治川の水量も増えて水運も便利になり、伏見に港としての機能を持たせた。桂川沿いでは京の玄関・羅生門に至る大阪街道を作り、また、伏見と奈良を結ぶ太閤堤(近鉄京都線の位置)を作ります。文禄5年(慶長元年)には慶長の大地震が起り、指月伏見城は倒壊しますが木幡に伏見城を建造。守口に今も遺構が残る文禄提は有名ですが、これも文禄3年(1594年)に着手、慶長元年(1596年)に完成です。地震をものともしない矢継ぎ早の工事には舌を巻きますね!
 この辺り、うしさんが精力的に調べられています。
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/choumei.pages/yodo.html
これは寛永14年(1637)に木津川を付け替え、広げられた淀城下町の図です。久しぶりに訪問させていただきました。淀城の変化がよく分かります(合掌)。
 淀堤は宇治川の流路を確定させることができた。 軍事目的にせよ、水運の便がよくなり、淀川が氾濫しないようにということで、秀吉もたまには良いこともするなと思っていましたが、宮本さんはこれは違うというのです。(新)宇治川は山手の高いところで、太閤堤や巨椋池はもっと低く、堤防が切れたら水が押し寄せます。不自然で無理な設計だというのです。それ以後、徳川の時代にも治水工事はあったが、宇治川はそのままでした。
 明治元年、山城盆地全域に大洪水が起こり、木津川は生津付近で決壊(生津切れ)し八幡方面に出水、宇治川も氾濫(お釜切れ)して巨椋池に出水した。この災害を機 に、京都府と淀藩は木津川の付け替えを行います。さらに、明治18年に淀川で大洪水。枚方ほかで決壊、天満橋や淀屋橋なども流され、大阪駅は軒下まで水がついたといいます。古代の河内潟の再現ですね。 この洪水を機に、①琵琶湖の出口に瀬田川の洗堰を造った、②宇治川を巨椋池から完全に切り離した、③新淀川というのを造った、この3つの大工事で現在の淀川ができました。当時、政府が招請していたオランダのデレーケは、「巨椋池の遊水池機能を残そう」と進言したにも拘わらずです。
 この淀川大工事は明治43年に完成、宇治川に観月橋から木津川合流点まで新堤防を築き、桂川の流出口を拡げて山崎まで引き下げ現代の水路にした。難工事だった三川合流点が現在のようになったのが昭和5年。昭和16年には巨椋池干拓事業終了します。
 しかし、昭和28年9月に13号台風で宇治川が切れました。しかし、南郷洗堰は機能し、巨椋池が勝手に復活して大阪は大丈夫でした。宇治川がもし切れなければ、おそらく淀川本川が切れていた。そうなれば大阪は壊滅です。淀川のスーパー堤防も今は頓挫状態です。
 宮本博司さんは秀吉に言いたいといいます。「あんたがええかげんで中途半端な土木工事でこんなもんを造ったから、400年経ってもあの辺はものすごく危ないんや」要は、秀吉と同じような設計思想で川をコントロールしようとしている。いたちごっこなのです。
 今は巨椋池のどまんなかを国道1号線が走っています。淀堤と巨椋池跡地は歩いてみたい。巨椋池は広すぎるけど・・・このブログは淀川を中津から八幡まで遡った記録が最初なのです。当然、最低でも伏見までは行かないと・・・

【気を取り直して淀城趾】
 うろうろと見て回りますが、工事現場みたいなことになっています。 

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 天守台も何故か立入り禁止。しっかりと施錠されています。柵があるので危険防止という訳ではないらしい。見ると、柵の中に自転車がほりこまれています。こんなことするヤツがおるからやろな、ちょっと品位が疑われます。

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【今日のマップ】

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