2012年3月12日(月)
【納所】
もう11時を過ぎました。先を急ぎます。ちょっと気になる商店街を通っていきます。
納所の交差点です。へえ、千本通はここから始まるのか?千本通は北は北区鷹峯から始まります。京都の南北の通りで一番長いのではなかろうか?千本通は平安京の朱雀大路をその起源とします。羅城門から下鳥羽までの鳥羽作り道と新たに開かれた桂川左岸の堤道が鳥羽街道で、京からから見て大坂街道とも、大坂方から見て京街道とも言われます。伏見道も京街道というのかな?今度歩きましょ。
納所は納所から来ています。いやいや、のうそはなっしょから来ています、ということです。納所【なっしょ】は元々、年貢などを納める所またはそれを扱う人とのこと。淀川水系は水運が盛んで、淀津に年貢などを納める納所(なっしょ)があったことから納所(のうそ)とわれるようになりました。古代からの言葉のようなので、桓武天皇の長岡京の頃から淀にあったのでしょう。それ以前、平城京の造営の際も、各地から木材等が巨椋池に集められて奈良に送られたようです。
この辺りは江戸時代は宇治川の対岸で朝鮮通信使が上陸した船着場の跡「唐人雁木旧趾」や、桂川と宇治川の合流付近に二つあったという水車の跡「淀川瀬水車趾」があります。石碑だけですけど。今回はパス。
【後退した大下津村】
桂川を渡ります(11:13)。宮前橋の上から下流を眺めていますが、河川敷に低い堤防みたいなものが見えます。新之介さんのサイトにある明治23年測量の地図を見ていると、旧の山崎通はもっと桂川の水流に接近していてカーブの具合がちょっと違いますが、まあ、この辺りに大下津村の集落があったか、それとも例の明治18年の水害以降に堤防を後退させた跡かなと思います。
http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html


さらに進んで府道123号が分かれる水垂交差点を過ぎると、なんだこれは!だだっ広い窪地が現れます。その時はよく分かりませんでしたが、地図をいろいろ見ていると、左手の道路沿い家が並んでいて、お寺もあって、そこが大下津なのでした。手持ちの国土地理院5万図は昭和36年(1961)測量ですが、そうなっているし、昭和49年頃の空中写真も同じです。確かに、窪地の中を見ると道路下の台地に石垣が見えており家があったらしい。最新の電子国土の地図、空中写真、Google mapの写真では123号線に沿っていた家が取り壊されて、より外側のもう1つの堤防の内側に建ちつつあるのが見て取れました。その堤防の家は真新しく、新興住宅地なのかなと思っていましたが、移転が進行している最中だったようです。
■「国土地理院の空中写真(国土画像情報1974~78年撮影)」 400×241ピクセル→
より大きな地図で 西国街道5 (長岡京-東寺) を表示
【日本のシュリーマン】
まっすぐな道を行きます。急に西山が見えなくなって、どうも雪が降っているようです。ちょっと嫌な感じ(11:21)。浄化センターあたりから長岡京市に入って、この道はサントリー通りというようになります。
久貝というところを歩いていると、おや?何かある(11:30)。「中山修一記念館」とあります。はて、全然知りません。個人のお家のようですが長岡京を発掘した人の記念館で長岡京市立、無料なので入ってみることにしました。
係の女性が小一時間、付っきりで説明してくれました。懇切丁寧以上のものがあり、中山修一先生の伝記が書けるほどです!
解説のエッセンスはこうでした。
我々が平城京の後の都で習ったのは「794ウグイス平安京」ということで、長岡京というのがあったらしいことは知っていても、平城京と平安京のツナギの「長岡宮」程度のものである。学会レベルでもそのようでした。
先生は長岡生まれで、歴史をやりたかったが、桃山中学-京都師範を出て学校の先生になった。おお、ボクの母親と同じコースだ!
あるとき、先生は長岡にあった田んぼが条里制の田んぼの長さと違う。区画が大きく宮城の条坊制の長さとよく似ていることに気づきます。キッカケになったのが、ここの田んぼで農作業をしているおっちゃん、おばちゃんの話で・・・・
おっちゃん;「ここの田んぼは牛がうまく回れるんて楽なんや」
おばちゃん;「田植えや草取りで腰が痛うなる、難儀ですわ」
ということで、「これは宮城、長岡京ではないか」という仮説を考えたのでした。そこで先生は長岡の地図に平安京の町割りをあてはめてみます。東は久我-淀・納所のライン、西は大原野-円明寺ラインの壮大な都の跡が出現しました。
しかし、仮説だけでは話にならないので発掘して実証しないといけません。一介の学校の先生では当然発掘のお金がない。知り合いの大学のナントカ先生に別の発掘研究の研究費をまわしてもらうことでしのいでいました。しかしその研究が終ると資金がなくなります。先生は「スポンサーがいるから大丈夫」と支援者の先生に言っていたそうですが、そのスポンサーは実は自分であったらしい。密かに株投資をやっていたそうです。しかし、昭和42年、株価が暴落します。(繊維不況かなにかの時代ですね)。しかたなく、奥さんのお金もちょっと拝借されたとか・・
学校の先生なので発掘は休みの時だけ。それでは足りないので学校の帰りに発掘したり、全日制から定時制の勤務にあえて変えてもらったり(これとて役所は格下げ人事はできないと抵抗されたが、教育委員会のナントカ先生の口添えでやっと実現)、後には生徒や土地の人も協力するようになったということでした。まさにその情熱は「シュリーマン」。
結果、昭和30年朝堂院南門跡を発見、それまで文献上の存在だった長岡京が実在したことが証明されました。以後、大極殿跡などを次々と発掘していきます。長岡京が実在した都として教科書にも載るようになったのは昭和59年です。
後には長岡京は、冗談で「中山京」「中山狂」と言われるようになったとか。先生は単に発掘の虫だったのでなく、長岡京跡をはじめ、地域の遺跡を守る運動の先頭に立った。宅地開発が急激に進む中で、向日町や長岡の多くの遺跡保存の重要性を訴え続けた。こういう活動で、土地開発の前にはきちんと調査をするようになったと説明を受けました。
詳しくは長岡京市のサイトを参照ください。
トップページ;http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/09030172.html
長岡京の姿は平安京より若干小さく、東南端は桂川でナナメにカットされています。しかし、南の山崎津や淀津が使える。淀津で降りた人や荷物は小畑川河口からまっすぐ延びる朱雀大路を北に行けば大極殿に至るというものです。東市は工場が建っているので発掘できていないが、西市はだいぶ分かってきた(逆だったかも)と説明を受けました。
確かに、一段と奥に引っ込んだ感のある平城京や平安京と比べると水運が使える点で抜群のロケーションです。堂々たる都城だったにちがいありません。しかし残念ながら桓武天皇は延暦11年(792)年の小畑川の氾濫を防ぐことができなかった。それに弟・早良親王の怨霊に悩まされ、結局長岡京は10年間で破棄されます。
帰り際に、JR長岡京駅ちょっと西のマツダさんところが、先生の生家で長岡京発見のキッカケになった田んぼはその裏で、そこに新しい石碑が建ってるよ、と教えていただきました。行ってみましょう。A2サイズの航空写真に長岡京の町割りを入れた「わくわくマップ」もいただきました。
この記念館はお薦めです。サントリービール工場から至近。ここに立ち寄ってからビール工場に行くべきです!そのビール工場(12:35)。今日は行きません。
まだ西国街道のアプローチなのに、今日のメインエベントが終った感じです。
(つづく)