西国街道

2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日


 宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。

■あの角を曲れば茨木街道は終点P1260842

■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道

背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
      奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

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■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

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椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。

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■街道筋の景観
 なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf

 一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
 街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
 早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

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■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

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花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

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これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

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実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

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■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

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奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

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この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

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■立派に熟れた家、熟れすぎかも

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■勝尾寺川にあたります

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■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

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■橋は巡礼橋

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■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

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■振り返ると豊かな田んぼ

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■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

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謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

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格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

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■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

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この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。

 すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
 この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html

 そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地 方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」  この地域も、こういうことなのかな?

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2012年4月 2日 (月)

西国街道(5)吉祥院-東寺

2012年3月12日(月)



【吉祥院】

■桂川を渡りました(15:54)。堤防にはサイクリングロードが作ってあります。

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木津へ36km、渡月橋まで9km、1日で行けそうではありますが・・・途中でいやになりそう。奈良県のサイトを見ていると、八幡木津自転車道線とならクル「せんとの道ルート」をつなげることで、奈良県飛鳥から嵐山に至る、飛鳥京、藤原京、平城京、恭仁京、長岡京、平安京といにしえの都を巡る約90kmサイクリングルートができました、ということなので、どうですか?
とりあえず寒いです。

■少しの間堤防を歩きます。西国街道は右下。左手は寒寒とした光景です。

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■お地蔵さん2題

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川端にはつきものかと思います。大きいほうの日向地蔵尊は明治の廃仏毀釈運動の頃、村人がこの地蔵尊を隠して保存したという説明がされていた。がある。西之茶屋という石碑があるので、昔、茶屋があったのだろうか。そういえば、この地は西ノ茶屋町で、町内会の消防器具の倉庫が横にありました。お堂もきれいに手入れしてあります。こういうにを見るとホッとしますね。

■ちょっと暗かったのでピンぼけ
いいアイデアだと思うんですが、ちょっとバックの和風の古屋が勝っているかもしれません。

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■路地のような細い通りを行きます。(16:12)

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■西大路通西国街道(16:15)
きちんと名前が付されています。

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【羅生門跡】

■171号線に出合いました(16:18)
しばらく国道を歩いて信号の向うにお堂がありましたので渡ってみると・・・

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■矢取地蔵尊(16:25)
 矢取地蔵尊は、空海が旱魃の雨乞い合戦で勝ったうらみで矢を射られたが、その時地蔵が現れ空海の身代わりになった。その後人々は矢負の地蔵と呼ぶようになり、いつの間にか矢取の地蔵になったとか。
 石灯篭には「右 やなぎ谷観世音菩薩」 「左 やわた八幡宮 往来安全」 「嘉永七年秋」とあります。右は西国街道で、左は鳥羽街道でしょう。

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■羅生門跡はその裏手です

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公園に石碑があるだけでした。新しい案内板「源氏物語ゆかりの地」編がありました。2008年が、「紫式部日記」の1008年(寛弘5年)11月1日の条に、「若紫」や「源氏」などの記述があることから、源氏物語が読まれていたことが確認される時ちょうど一千年ということでいろんなイベントがありました。2009年に終っていますが・・・
とりあえず、今回の「西国街道ウォーク」は終りとします。しかし東寺も行っておかなくては。

【東寺点描】
 自慢ではありませんが、前は何回も通っていながら1回しか行ったことがありません。それも子どものとき、母親に連れられて弘法市(終い弘法ではなかったと思う)に行ったきりで、記憶も定かではありません。当家は真言宗で本来は高野山派ですが、今お世話になってるのは東寺派のご住職にも拘わらずです。
 とりあえずお参りというよりのぞいてみることにします。
 urlは http://www.toji.or.jp/ ですが、エライ凝った作りになっています!

■陸橋の上からの五重塔と南大門からみた金堂

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■金堂と灯篭。この灯篭すごいな!

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■南大門が閉る!待ってくれーい。待ってもらって走りました。

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■閉りました!

ということで、あっけなく終り。

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■雪も舞ってきました。

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うろうろと東寺周辺の喫茶店を探しましたが周辺にはなし。諦めて帰ります。
へえ、ここが499kmか。ということは500kmは十条辺りか?



 「西国街道ウォーク」は終りですが、このシリーズは坂本龍馬の神戸海軍操練所からスタートしたので、坂本龍馬縁の地で終りたいのですが、それは次回とします。池田屋か寺田屋か?


【本日のマップ】

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西国街道(5)向日町-久世橋

2012年3月12日(月)



 長岡宮・大極殿跡を退散し、街道に戻ります。また五辻にでました。

■これから第3の間違いポイントに入ります。向日町商店街の看板のところを右が正解でした。おいしそうな筍を売ってます、神崎屋さん(14:43)。

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■ここは丹波街道への分岐でもあります。正面の細い道に入ると丹波街道に当たって、中山経由老ノ坂越です。中あたごみち とは右も物集女街道-嵐山です。正面の家は須田家住宅。車で隠れてしまいました。

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■道は下っていきます。東ノ段というらしい。大極殿は丘の上にあったということがよく分かります。少し広い道を横切りますが、ここは帰省の時、車で通る道でした。ここに出るのか。右は振り返ってみたところ(14:46)

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■まだゆるやかに下っていきます。今は天理教になっていますが、元あったお堂を使っているのか?

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■西山高校のところで通行止になりました。道路工事です。やむなく迂回。歩行者はこんな所を通らされました!

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■東向日の駅近くで新道に合流です(14:56)。結局半分以上迂回で、リベンジにならなかった。振り返って南西を見ています。左手が西国街道。JR向日町駅前でも工事をしています。年度末やからね。あまりに寒いので駅を過ぎたところの喫茶店で一服しました。約30分。

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■向日町駅から街道は途切れていますが、地下道をくぐります。名前は西国地下道となっていました(15:30)。

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■道なりにどんどん進みます。久世大薮というところのようです(15:42)。
※久世大薮というのは全然違うところにあるようですね。久我に近い、日本電産業本社の先です。この看板は何?

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■公園に突き当たりました。すぐ先はもう桂川です(15:45)。ここから新西国街道(府道)は通らずに一つ西側の道を歩きます。

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■桂川を渡ります。渡る手前の府道は123号でした。淀水垂から分かれてここで再会。

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■南側は屋形舟が浮かんでいます。いずみやと書いてあり、のんびりとした春の風情ですが、北側をみると北山は雪しぐれです。それにしても寒い。

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【本日のマップ】

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2012年4月 1日 (日)

西国街道(5)神足-向日町

2012年3月12日(月)

 



【一文橋】

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■街道復帰して一文橋に向かいます(14:04)。車道は坂を登りますが、街道はその下の路地を行きます。自転車ものんびりと・・・写真では暖かそうですが寒いです。

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■この道が気に入ってます(14:06)。以前の写真がボケていたので再度。http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/09/post-ae9e.html

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■一文橋(14:09)
由来は石碑の通り。「知らぬ顔の半兵衛」という言葉もここからきたのだとか。

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■この案内板は何?
一文橋の案内板かと思いますが、どうやって読むの?まさか橋の途中から読むんではなかろうね。




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■リベンジ。前回は一文橋の右側(南側)を渡ってそのまま信号を渡ってまっすぐ行ったので旧街道は通れませんでした。今回は初めから・・・下川原というところですが、大きな農家住宅もあります。

R1228951R1228952■また、ここには国登録有形文化財・中小路家住宅があります。いろんなイベントや喫茶もできるようになっていますが、今日はお休みでした。
http://www.eonet.ne.jp/~nakakoji/nakakoji.html

R1228954■西国街道は阪急線をくぐります(14:14)同時に広い道も渡る。






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■西向日駅近くの旧街道を行きます。さりげなく建っている愛宕灯篭と長刀鉾の粽を飾った家

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■五辻(14:23)
光明寺や善峰寺に向かう道が分かれています。




【長岡京大極殿】
 向日神社参道前で右に折れて大極殿跡に行ってみます。ちょっと行きすぎたかも知れない。霰が降ってきました!

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■写真は大極殿通りを南に向かっているところ、登りです(14:29)。中山修一記念館のガイドさんの言う通り、大極殿は高いところにあり、南を見下ろすようになっていたのがよく分かります。


R1228963■大極殿公園(14:30) 小さな通りを挟んで南北に小さな公園になっています。このあたりが大極殿の跡で、南を向いています。看板の図は北から南を向いて長岡京のレイアウトを示してあります。正面に八幡、左手に巨椋池、右手は西山です。霰はどんどん降っています。

■長岡京全体の地図は通常通り上が北です。

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■発掘された大極殿の構成図
 内裏は阪急線を越えた東側です。かなり広いエリアで、桓武天皇はここから通って?来たのか。

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■朝堂と大極殿の位置関係。阪急西向日の駅近くにある楼閣の出っぱりは長岡京から採用されたもので平城京にはないと中山修一記念館のガイドさんは言ってました。

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■発掘後の写真
大極殿は 昭和34年・36年に発掘調査され、昭和399年に国の史跡に指定されています。写真のセンターより左下空き地が大極殿の跡地ですが、現在は周囲は住宅になっています。住宅にするような所かと思いますが?

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■長岡京城大極殿遺址紀念碑
大極殿公園の北に建てられていたものが移築されています。2年ほど前に天皇皇后両陛下も来られているようです。
北大極殿公園は、明治25(1892)年、京都府の平安京遷都1100年事業を機に、乙訓在住の岡本爺平氏らが中心となって文献調査と推定地を発掘した結果、古い瓦が発掘され、京都府から長岡京大極殿跡とされていたところです。古くから在野で発掘した人がいたんや!
 寒いので早々に退散します。

【本日のマップ】

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西国街道(5)調子八角-神足

2012年3月12日(月)

 


■調子八角(12:42)

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やっと西国街道復帰です。前回この工事のため右手に入る細いみちを見失ったのでした。しかし、これは掲示バイパスから沓掛(老の坂)に至る道で。綾部市役所の人の話ではあと1年でつながるのだとか。そうなれば第2京阪-京滋バイパス経由で京都縦貫に入れるので飛躍的に早く帰省できるというものです。

■友岡の道標(12:45)

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高速の工事現場とは対照的にしっとりした住宅街になります。






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少し行くと古い道標がありました。
右 やなぎ谷 左 よど

反対側は、右 やなぎ谷 左 よど

正面には、右 ハ阿たご ●くやなぎ谷 左 山さき

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●は読み切りませんが、柳谷観音に行く道です。淀からの道ということでしたが、堤防の道をぐるっと回ってきたのか。
柳谷観音といえば、行ったことが、いや、通ったことがある。当時の5万図をみると老ノ坂から入って西山の尾根を辿り柳谷から阪急・長岡天神におりたことになっているがルートは確かなのか?下山途中、ダンプの兄ちゃんがわざわざ止まって「兄ちゃんら、旅してるのか」とうらやましそうに話しかけてきたことは鮮明に覚えています。

■中野家住宅(12:45)

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そばには古い町家がありました。
国登録有形文化財、中野家住宅
母屋、土蔵は江戸末期、近郊の農家住宅と町家としての特徴を兼ね備えたものということでした。ツインの楠が引き立て役になっています。

■大阪成蹊大学(12:51)

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間違えて大学の塀沿いに行ってしまった。校内ではなにやら発掘していました。
JRの線路の向こうには恵解山古墳があるらしい。陸橋で渡れるが、やめときました。

■神足商店街に向かう(13:01)

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街道に復帰です。落ち着いた住宅街を通っていったん府道に合流し、神足商店街入口まできました。ここからは2回めになります。

■神足ふれあい町家(13:02)

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旧石田家住宅です。食事もできるようでしたが、今回はパス。前回はここでアイスクリームを食べながら大休止。




■長岡京発見の地(13:08)
JR長岡京駅前にきました。病院の前に新しい碑「長岡京発見之地」が建っています。中山修一記念館のガイドさんお薦めの場所なのでパチリ。前回来たのは2010年9月でしたが、その時はありませんでした。11月にできたということです。

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 「長岡京は、延暦3年(784)に平城京からうつされた都です。しかしわずか10年で平安京にうつされたので、まぼろしの都とよばれていました。
 昭和22年(1947)、ここに住んでいた中山修一先生は、このあたりの田んぼの長さから、長岡京が道路でごばんの目にように区画された本格的な都であったのではないかとひらめき、これが長岡京発見のきっかけとなりました。
 この石碑は、多くの人々に永く長岡京を伝えていくため、長岡京発掘2000回を祈念して建立するものです。

平成22年1月11日 長岡京市長 小田豊

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 ガイドのおばさんによると、あのマツダ販売店のところが中山先生の生家跡らしいです。開田というところで、あの右手は田んぼだったのだ。




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 駅前の西国街道との交差点にある新しい道標も「長岡京」を主張しています。「延暦三年至ル延暦十三年 桓武天皇王城ノ地ナリ」




■一里塚跡(13:13)

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 一里塚跡まで来ました。少し西の市役所前交差点の角に一里塚の石碑があるようですが、交差点の向うなのでパス。西国街道沿いには道路元標しかありません。中山修一記念館でもらった「西国街道」のパンフによると、市役所前交差点の角にあるのが新神足村の道路元標で、ここに昔は一里塚があった。東寺口から2里ということです。「当時は今より東の西国街道沿いに建っていました」とありますが、何が?新神足村の道路元標ならば、西国街道沿いの道路元標とは新神足村の元道路元標なのか?一里塚が西国街道沿いにあったのか?ヤヤコシイ。

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 いずれにせよ、一里塚というのは地名でしか残っていないようなので、これでどうですか?
食堂を探しているんですが、軒並み休み!いったん駅前まで戻ります。

【本日のマップ】


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2012年3月31日 (土)

西国街道(5)調子八角-東寺 (番外:納所~久貝)

2012年3月12日(月) 



【納所】
 もう11時を過ぎました。先を急ぎます。ちょっと気になる商店街を通っていきます。
 納所の交差点です。へえ、千本通はここから始まるのか?千本通は北は北区鷹峯から始まります。京都の南北の通りで一番長いのではなかろうか?千本通は平安京の朱雀大路をその起源とします。羅城門から下鳥羽までの鳥羽作り道と新たに開かれた桂川左岸の堤道が鳥羽街道で、京からから見て大坂街道とも、大坂方から見て京街道とも言われます。伏見道も京街道というのかな?今度歩きましょ。

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 納所は納所から来ています。いやいや、のうそはなっしょから来ています、ということです。納所【なっしょ】は元々、年貢などを納める所またはそれを扱う人とのこと。淀川水系は水運が盛んで、淀津に年貢などを納める納所(なっしょ)があったことから納所(のうそ)とわれるようになりました。古代からの言葉のようなので、桓武天皇の長岡京の頃から淀にあったのでしょう。それ以前、平城京の造営の際も、各地から木材等が巨椋池に集められて奈良に送られたようです。
 この辺りは江戸時代は宇治川の対岸で朝鮮通信使が上陸した船着場の跡「唐人雁木旧趾」や、桂川と宇治川の合流付近に二つあったという水車の跡「淀川瀬水車趾」があります。石碑だけですけど。今回はパス。

【後退した大下津村】

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 桂川を渡ります(11:13)。宮前橋の上から下流を眺めていますが、河川敷に低い堤防みたいなものが見えます。新之介さんのサイトにある明治23年測量の地図を見ていると、旧の山崎通はもっと桂川の水流に接近していてカーブの具合がちょっと違いますが、まあ、この辺りに大下津村の集落があったか、それとも例の明治18年の水害以降に堤防を後退させた跡かなと思います。
http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html

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 さらに進んで府道123号が分かれる水垂交差点を過ぎると、なんだこれは!だだっ広い窪地が現れます。その時はよく分かりませんでしたが、地図をいろいろ見ていると、左手の道路沿い家が並んでいて、お寺もあって、そこが大下津なのでした。手持ちの国土地理院5万図は昭和36年(1961)測量ですが、そうなっているし、昭和49年頃の空中写真も同じです。確かに、窪地の中を見ると道路下の台地に石垣が見えており家があったらしい。最新の電子国土の地図、空中写真、Google mapの写真では123号線に沿っていた家が取り壊されて、より外側のもう1つの堤防の内側に建ちつつあるのが見て取れました。その堤防の家は真新しく、新興住宅地なのかなと思っていましたが、移転が進行している最中だったようです。

Miyamae

■「国土地理院の空中写真(国土画像情報1974~78年撮影)」 400×241ピクセル→



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【日本のシュリーマン】

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 まっすぐな道を行きます。急に西山が見えなくなって、どうも雪が降っているようです。ちょっと嫌な感じ(11:21)。浄化センターあたりから長岡京市に入って、この道はサントリー通りというようになります。

 久貝というところを歩いていると、おや?何かある(11:30)。「中山修一記念館」とあります。はて、全然知りません。個人のお家のようですが長岡京を発掘した人の記念館で長岡京市立、無料なので入ってみることにしました。

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 係の女性が小一時間、付っきりで説明してくれました。懇切丁寧以上のものがあり、中山修一先生の伝記が書けるほどです!

 解説のエッセンスはこうでした。
 我々が平城京の後の都で習ったのは「794ウグイス平安京」ということで、長岡京というのがあったらしいことは知っていても、平城京と平安京のツナギの「長岡宮」程度のものである。学会レベルでもそのようでした。
 先生は長岡生まれで、歴史をやりたかったが、桃山中学-京都師範を出て学校の先生になった。おお、ボクの母親と同じコースだ!
 あるとき、先生は長岡にあった田んぼが条里制の田んぼの長さと違う。区画が大きく宮城の条坊制の長さとよく似ていることに気づきます。キッカケになったのが、ここの田んぼで農作業をしているおっちゃん、おばちゃんの話で・・・・

おっちゃん;「ここの田んぼは牛がうまく回れるんて楽なんや」
おばちゃん;「田植えや草取りで腰が痛うなる、難儀ですわ」

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ということで、「これは宮城、長岡京ではないか」という仮説を考えたのでした。そこで先生は長岡の地図に平安京の町割りをあてはめてみます。東は久我-淀・納所のライン、西は大原野-円明寺ラインの壮大な都の跡が出現しました。
 しかし、仮説だけでは話にならないので発掘して実証しないといけません。一介の学校の先生では当然発掘のお金がない。知り合いの大学のナントカ先生に別の発掘研究の研究費をまわしてもらうことでしのいでいました。しかしその研究が終ると資金がなくなります。先生は「スポンサーがいるから大丈夫」と支援者の先生に言っていたそうですが、そのスポンサーは実は自分であったらしい。密かに株投資をやっていたそうです。しかし、昭和42年、株価が暴落します。(繊維不況かなにかの時代ですね)。しかたなく、奥さんのお金もちょっと拝借されたとか・・

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 学校の先生なので発掘は休みの時だけ。それでは足りないので学校の帰りに発掘したり、全日制から定時制の勤務にあえて変えてもらったり(これとて役所は格下げ人事はできないと抵抗されたが、教育委員会のナントカ先生の口添えでやっと実現)、後には生徒や土地の人も協力するようになったということでした。まさにその情熱は「シュリーマン」。
 結果、昭和30年朝堂院南門跡を発見、それまで文献上の存在だった長岡京が実在したことが証明されました。以後、大極殿跡などを次々と発掘していきます。長岡京が実在した都として教科書にも載るようになったのは昭和59年です。
 後には長岡京は、冗談で「中山京」「中山狂」と言われるようになったとか。先生は単に発掘の虫だったのでなく、長岡京跡をはじめ、地域の遺跡を守る運動の先頭に立った。宅地開発が急激に進む中で、向日町や長岡の多くの遺跡保存の重要性を訴え続けた。こういう活動で、土地開発の前にはきちんと調査をするようになったと説明を受けました。
詳しくは長岡京市のサイトを参照ください。
トップページ;http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/09030172.html

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 長岡京の姿は平安京より若干小さく、東南端は桂川でナナメにカットされています。しかし、南の山崎津や淀津が使える。淀津で降りた人や荷物は小畑川河口からまっすぐ延びる朱雀大路を北に行けば大極殿に至るというものです。東市は工場が建っているので発掘できていないが、西市はだいぶ分かってきた(逆だったかも)と説明を受けました。
 確かに、一段と奥に引っ込んだ感のある平城京や平安京と比べると水運が使える点で抜群のロケーションです。堂々たる都城だったにちがいありません。しかし残念ながら桓武天皇は延暦11年(792)年の小畑川の氾濫を防ぐことができなかった。それに弟・早良親王の怨霊に悩まされ、結局長岡京は10年間で破棄されます。
 帰り際に、JR長岡京駅ちょっと西のマツダさんところが、先生の生家で長岡京発見のキッカケになった田んぼはその裏で、そこに新しい石碑が建ってるよ、と教えていただきました。行ってみましょう。A2サイズの航空写真に長岡京の町割りを入れた「わくわくマップ」もいただきました。

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 この記念館はお薦めです。サントリービール工場から至近。ここに立ち寄ってからビール工場に行くべきです!そのビール工場(12:35)。今日は行きません。
まだ西国街道のアプローチなのに、今日のメインエベントが終った感じです。

(つづく)

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2012年3月30日 (金)

西国街道(5)調子八角-東寺 (番外:淀)

2012年3月12日(月) 淀城趾




  久しぶりの西国街道です。前回、数ヶ所の道間違いがあって、間違いの発端となった調子八角からのリベンジとするか、それともJR向日町から直接羅生門にむかうか、阪急西向日で降りて長岡京大極殿跡をみてから西国街道に入るか、悩ましいところでした。前日、何の理由もなく淀経由調子八角にした訳ですが、これが大当たりの元になりました。

【淀城趾】
 いきなり番外ですが、せっかくなので淀城趾から。以前は、京阪電車で淀駅にさしかかると、淀城の石垣が見え、お堀には季節になると蓮かアヤメかなにかが咲いていて、しっとりした情景で、いつかは行ってみようと思っていながら数十年。近くにある場所は行かないもんで、淀城は今回初めてです。
 電車の前の方に乗っていたので(新)淀駅ホームの端から端まで歩きました。さらに南に。明らかに競馬シフトで従来の駅はナシのようです。

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 ガチャガチャしたところですな。淀城前の自転車の勝手置場?には閉口します。與杼神社(よどじんじゃ)とかありましたが行く気力がなくなりました。あとで調べてみると、淀・納所・水垂・大下津の産土神で、かつては水垂(桂川を渡った川向こう)にあったようですが、1900(明治33)年の桂川河川敷堤防の拡幅工事により、淀城跡内に移転したそうです。また、淀城趾の横には稲葉神社もありましたが、ずれた写真を撮っただけ。

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 さて、淀城趾です。淀城之古趾、淀城趾、淀小橋跡、唐人雁木旧跡の石碑が集められています。案内板によると、稲葉家の城だったんですね。淀ギミの淀城はもう少し先の納所(のうそ)の妙教寺がその跡らしいです。淀城之古趾はその古淀城の碑のようです。朝鮮通信使が上陸した船着場の跡唐人雁木も旧宇治川にかかっていた淀小橋を渡ったあたりです。淀小橋は今で言うと淀駅前のショッピングセンターあたり、唐人雁木は旧京阪国道納所交差点あたりでしょうか?新之介さんのサイトの明治23年の古地図と最近の地図との重ね合わせを参考にしています。やっぱり街道歩きには古地図は必須かなあ?

http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html

 今の三川合流点は八幡(・・というより、橋本)ですが、江戸時代の三川合流点は淀だったのだ。稲葉氏の淀城はこの三川合流点、というより巨椋池の出口に建っていたんですね。建てられたのは寛永二年(1625)、2代将軍秀忠の時代です。伏見城を廃城にして、交通、通商の要地である淀に築城されました。京のフタという意味もあったのではないか。ここに稲葉氏が入ったのは享保8年(1723)ですが、徳川縁の稲葉氏を置いて京への出入り、東西の交通の要所を締めるみたいな役割を果たさせたのではないかと・・・
 しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れ、さらに淀の戦いでも敗れて敗走する幕府軍を幕末の淀藩は藩主稲葉正邦が老中だったにも拘わらず、入城させなかったのだとか。ついでに言っておくと、さらに東高野街道を敗走していく幕府軍を北河内の家康縁の村でも戸を閉めて水も与えなかったとか。これは実際に当地に住んでいる人から聞きました。
R1228845_2  地図を見ていくと、淀川右岸には「山崎道」、続く宇治川右岸には「伏見道」の記述があります。いろいろ調べていくと、参勤交代も山崎宿で西国街道から分かれて久我畷に入り、小畑川からこの山崎道を通って淀城下から伏見道(淀畷)を通って、伏見-山科に抜けていったという記述がありました。城下を通ったのです。
http://www.eonet.ne.jp/~imagawat/yamazakimichi.htm

【秀吉の負の遺産】
 行きがかりで巨椋池のことを調べていたらおもしろいサイトに出合いました。宮本博司さんの講演録です。
Http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s0710/mi004.htm#N0018
 秀吉は文禄元年(実は天正20年、1592)、伏見に隠居屋敷・指月屋敷の建設に着手し(朝鮮出兵・文禄の役真っ最中です!)、さらに、明の講和使節を迎えるとき、権威を誇示するべく本格的な城郭への建て替えを実施します。文禄3年には完成した指月伏見城へ入りますが、同時に伏見城の外堀と伏見港を造るため、一番低い巨椋池に流れこんでいた宇治川を槇島堤を造って伏見城近くまでに引き寄せます。さらに、三栖から淀に至る淀堤(現在の京阪線の位置)で宇治川を堤防北側にあった大小の沼地と分離します。これで、宇治川の水量も増えて水運も便利になり、伏見に港としての機能を持たせた。桂川沿いでは京の玄関・羅生門に至る大阪街道を作り、また、伏見と奈良を結ぶ太閤堤(近鉄京都線の位置)を作ります。文禄5年(慶長元年)には慶長の大地震が起り、指月伏見城は倒壊しますが木幡に伏見城を建造。守口に今も遺構が残る文禄提は有名ですが、これも文禄3年(1594年)に着手、慶長元年(1596年)に完成です。地震をものともしない矢継ぎ早の工事には舌を巻きますね!
 この辺り、うしさんが精力的に調べられています。
http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/choumei.pages/yodo.html
これは寛永14年(1637)に木津川を付け替え、広げられた淀城下町の図です。久しぶりに訪問させていただきました。淀城の変化がよく分かります(合掌)。
 淀堤は宇治川の流路を確定させることができた。 軍事目的にせよ、水運の便がよくなり、淀川が氾濫しないようにということで、秀吉もたまには良いこともするなと思っていましたが、宮本さんはこれは違うというのです。(新)宇治川は山手の高いところで、太閤堤や巨椋池はもっと低く、堤防が切れたら水が押し寄せます。不自然で無理な設計だというのです。それ以後、徳川の時代にも治水工事はあったが、宇治川はそのままでした。
 明治元年、山城盆地全域に大洪水が起こり、木津川は生津付近で決壊(生津切れ)し八幡方面に出水、宇治川も氾濫(お釜切れ)して巨椋池に出水した。この災害を機 に、京都府と淀藩は木津川の付け替えを行います。さらに、明治18年に淀川で大洪水。枚方ほかで決壊、天満橋や淀屋橋なども流され、大阪駅は軒下まで水がついたといいます。古代の河内潟の再現ですね。 この洪水を機に、①琵琶湖の出口に瀬田川の洗堰を造った、②宇治川を巨椋池から完全に切り離した、③新淀川というのを造った、この3つの大工事で現在の淀川ができました。当時、政府が招請していたオランダのデレーケは、「巨椋池の遊水池機能を残そう」と進言したにも拘わらずです。
 この淀川大工事は明治43年に完成、宇治川に観月橋から木津川合流点まで新堤防を築き、桂川の流出口を拡げて山崎まで引き下げ現代の水路にした。難工事だった三川合流点が現在のようになったのが昭和5年。昭和16年には巨椋池干拓事業終了します。
 しかし、昭和28年9月に13号台風で宇治川が切れました。しかし、南郷洗堰は機能し、巨椋池が勝手に復活して大阪は大丈夫でした。宇治川がもし切れなければ、おそらく淀川本川が切れていた。そうなれば大阪は壊滅です。淀川のスーパー堤防も今は頓挫状態です。
 宮本博司さんは秀吉に言いたいといいます。「あんたがええかげんで中途半端な土木工事でこんなもんを造ったから、400年経ってもあの辺はものすごく危ないんや」要は、秀吉と同じような設計思想で川をコントロールしようとしている。いたちごっこなのです。
 今は巨椋池のどまんなかを国道1号線が走っています。淀堤と巨椋池跡地は歩いてみたい。巨椋池は広すぎるけど・・・このブログは淀川を中津から八幡まで遡った記録が最初なのです。当然、最低でも伏見までは行かないと・・・

【気を取り直して淀城趾】
 うろうろと見て回りますが、工事現場みたいなことになっています。 

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 天守台も何故か立入り禁止。しっかりと施錠されています。柵があるので危険防止という訳ではないらしい。見ると、柵の中に自転車がほりこまれています。こんなことするヤツがおるからやろな、ちょっと品位が疑われます。

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【今日のマップ】

より大きな地図で 西国街道5 (長岡京-東寺) を表示

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2011年9月 1日 (木)

西国街道(4) 大山崎-向日町

2010年10月23日(土) 




■大山崎(15:09)
 
さて、京都に入りました。街道は関大明神から南に折れますが、さらに南に行く道があって、その傍に古風な建物があったので行ってみました。

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 なかなかすばらしい。手前の町屋は少々傷んできていますが、手入れをしたら・・・しかしその手入れが大変なのでしょう。もう無人のようでした。その次の蔵と続きなのか?お隣の緑青ふきの家もよく熟れています。まだまだ現役でいけそうですが、窓ガラスに×のテープが貼ってあるところを見ると無人なのか?堂々たるものです。隣の家と比べても明らかに風格が違います。

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■離宮八幡宮(15:09)

 この神社は全然知りませんでしたが、調べてみるとなかなか由緒正しき神社のようです。荏胡麻(えごま)油発祥地で油の製造と販売の中心「油座」として栄え、現在は油の神様として親しまれているといいます。平成22年には創建1150周年を迎えたというので、相当なものです。
http://rikyuhachiman.org/

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 ご祭神は、応神天皇。八幡宮ですからね。これは宇佐八幡宮から勧請したものです。
 左殿に酒解大神(さかとけのおおかみ)がお祀りしてあるようで(行ってないのでアヤフヤ)、元々はこの神様の社だったのでは?天王山の上にも酒解神社があり、調べてみると酒解神は大山祇神のことでした。
 この神は、仁徳天皇の時代に百済の国から渡ってきて、三島江に着き、そこから、伊予・大三島へ移ったとされています。(伊予国風土記)。さらに、伊豆・三島大社にも祀られているので、この神を信奉する人々が酒作りの術を持って、海岸伝いに移動しあちこちに住みついたということなのでしょう。山と海、両方を司る神というのがパッと理解できませんが・・・
 この神のおられるところに現在も酒作りの工場が立地している!ま、酒作りには水が決め手なので、そういうことは十分あり得ます。この西国街道ウォークの最初のころ、灘・敏馬神社には松尾神社もお祀りしてありましたが、この祭神も大山咋神でありました。その近くには灘の酒どころがありますね。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2010/10/post-4acd.html
       

■淀川大接近(15:15)

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  阪急のガード下です。阪急そばを写したのではありません。このあたりが淀川と街道が大接近するところです。山側から順に、東海道本線、西国街道、阪急、新幹線、171号線、淀川が併走しており、山際と淀川の間が約200m。名神を通す余地がなく、天王山の下をトンネルで通しています。
 確かにここを押えれば京、大坂から西方の防御はできそうです。京の都にとっては天王山は最大の防御線だったことがよく分かります。しかし、その分、淀川の東はダダ通しなんですが。
 この辺りに大山崎町歴史資料館があって、ちょっと気を引かれましたが、次回の訪問とします。

■大山崎の街並み(15:32)
 
大山崎の街道をどんどん歩いていきます。道が改修されて広くなったようで便利ですが、その分、どこにでもあるような都会の街並となっています。

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 名神の陸橋をくぐったあたりからまた道が狭くなります。天王山トンネルの方向を写していますが、この突き当たりの地名が「開キ」だとか?何を開いたのでしょう、まさかトンネルではないと思いますが。

■円明寺(15:35)
 
その狭い道は東海道線をくぐります。

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 地図をみているとおもしろい(珍しいのではない)名前が出てきます。円明寺は円明教寺から来たものと理解します。茶屋前、大門脇、仏生田、山伏、薬師前、これらも円明教寺から来ているのでしょうか?その他、里ノ後、金蔵、小泉川、若宮前、葛原、山田、川向イ等々、昔なにがあったか容易に類推できそうな名前です。

■川を渡ると長岡京(15:40)

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 小泉川を渡ると長岡京に入ります。街道の面影はなくなり、ちょっと雑然としてきました。地図は持っていますが、いきなりややこしそうな交差点に入り、おまけに工事をしているので、どこがどうなのかさっぱり分かりません。八角というところですが、右手(東)に行けばサントリービール工場、淀競馬場なのですが、東行きの道が2つ、北行きが、丹波街道と新西国街道の2つ、西行きは柳谷に行く道。角を数えたら8つなので八角としたのか?

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 右手の広い道に行ったんですが、これがマチガイ。旧西国街道は3枚めの写真の白い壁の家の右手に入っていくのでした。分からん! 

 そうそう、サントリービール工場はここから東に入ってすぐなのでした。仕事(の延長)で数回行きましたが、結構遠く、いつも阪急・長岡天神からタクシーだったので、どこを通ったのか分からず終いでした。もっと山側にあるんかと思ったら、淀川に近い方でした。

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 工場見学では丁寧に説明してくれて、まさにエコファクトリーであることはよくわかりました。メインの講演は「ビール博士」という方で、ビールの話かとおもいきや、なんと森鴎外の話(舞姫など、もちろんビールとの関連もあり)で、なかなかのものでした。レジュメを調べたら平成12年(2000年)9月のことでした。
 舞姫といえば、大学のとき選択科目の文学で森鴎外がテーマで、舞姫も課題であったので懐かしかったです。その時の論述試験では時間内にピッタシ書けて自信満々で終ったんですが、成績はそれほどでもなかった!
 恒例の試飲ですが、プレミアムモルツは確かにウマイ!いやいや、その前身のモルツスーパープレミアムは2001年発売だったんで、その時は飲めるハズありません。普通のモルツだったか。プレミアムモルツを飲んだのは発売の2003年以降か?しかし、発売からもう8年経つんですね!

■京言葉(15;52)

 ゆるやかな坂を登っていきますが、また2つに分かれていました。最初左手に入りましたが、どうも違う。

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 坂の途中で初老のおばさん2人がしゃべっていました。何の話か分かりませんが、「・・・・おすなあ」「おすおす・・・」びっくりするくらいの京言葉でした。紛れもなく京都に入っています。

■街道復帰(16:00)

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 右手の坂を下っていくと、ああここか。旧街道に合流しました。時間も時間なのでトレースはやめ。更にここから東側に入っていきます。合流はほんの30mくくらい。あたりは完全に街です。

■すぐにまた分岐(16:03)

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 酒屋さんの前に古い道標がありました。東に入ると淀に繋がるようです。左手、即ち北行きは、どう書いてあるのか分かりませんでした。後で調べると、

京 あたご

なるほど、西国街道は巡礼道でもあったんです。「あきこ」やなかったんや。

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   ここからずっと直線の神足商店街です。商店街とはいえアーケードはなく、商店もほとんどなく、カラーブロックの街道がきれいに整備されています。

■神足ふれあい町家(16:05~16:28)
 神足商店街に入ってすぐ、きれいに改修された町屋が現れました。旧石田家住宅で国登録有形文化財になっています。一般公開され、休憩もできるようなので入ってみました。ここでアイスクリームを頼んで庭のベンチに腰かけでゆっくり休憩です。

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 この町屋はうなぎの寝床の京の町家と違い、間口が広く田の字形の間取りで農村風であり、かつ、店舗と住まいを兼ねた町家でもある独特の風情をもっているのが特徴だそうです。

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 元々、神足村の旧家岡本家の商家で、江戸時代には「紙屋清兵衛」という屋号で和紙などを商い、明治以降、町医者などに利用されていたものを、後年になって石田家が購入したので、旧石田家住宅と言われています。平成12年10月に、規模が大きく江戸時代末期の町家建築の基準となるものとして国登録有形文化財に登録され、平成15年長岡京市が取得し、「神足ふれあい町家」として整備されました。乙訓障害者事業協会が運営しているので人にやさしい設備と運営がなされています。一般に、こういうところは入りにくい場合がありますが、ここはお薦め。ゆったりできます。
http://www.eonet.ne.jp/~fureaimachiya/sisetu2.html

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 サントリー(ビール)工場でほろよい加減の数人が入ってきました。サントリーで意気投合して、ぜひこの町屋と庭を見せたいというので連れてきたということでしたが、確かに何度きても楽しめそうな所でした。

■街道は続くよどこまでも(16:30~16:40)
 
この直線神足商店街は延々と続きます。昔の(明治期の)地図をみてもまっすぐ。ほぼ同じ所を通っています。商店街とは名ばかりで、りっぱなお屋敷が続く閑静な住宅街です。駅前の天神通りを過ぎてもまっすぐ、神足商店街の北端の看板が過ぎてもまっすぐ。あいかわらずカラーブロック敷です。

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 おっと、商店街の北端アゼリア通りを西に入ったところには一里塚跡があるんでしたが、行き過ぎてしまいました。また後で。

■やっと直線も終り(16:42)
 
比較的大きな川に当たります。車は堤防に上がっていきますが、歩道は堤防の下です。ここが旧街道のようでした。なかなかいい感じの小路です。

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■一文橋(16:46)

 街道は一文橋を渡ります。この橋は日本で最初の有料の橋といわれています。お金がないので川を泳いで渡ろうとする者もいて、厳しい取り締まりもあったようですが、橋守の中には、貧しい人が渡るのを黙って見過ごした者もいたといいます。その名は半兵衛で、「知らぬ顔の半兵衛」とはここからきたのだと。なかなかのお話しです。
http://www.kirameki-story.tv/back3.html

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 川は小畑川。天王山も遠くになってきました。ここを渡ると、向日市に入ります。え!?長岡京の都はどこに行った?後で調べてみると、長岡京跡は向日市、阪急・西向日駅の北側なのでした。とすると、長岡京市とはいったい?

 調べてみると、うーむ、五条以南と西の方が入ってますね。
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/09030175.html
 政治の中心である長岡宮は向日市、経済の中心である「市(いち)」は長岡京市、表玄関口にあたる港(山崎津・淀津)は大山崎・伏見・淀にあったということで、運輸、交通面では平安京よりも立地はなかなかの場所だと思います。
 しかしながら、延暦11年(792)の大洪水や桓武天皇の弟である早良親王の死、その怨霊騒ぎなどから、延暦13年(794)に平安京へ都が遷されました。洪水を治められなかったのは致命的ですね。

■石畳というか・・(16:51)
 
一文橋を渡ったところでまた道を見失いました。とりあえず大通りを行きます。あとで考えると一文橋を北側で渡ってそこの横断歩道を渡れば自然に入れるのでした。

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 すぐに復帰します。石畳というか、石畳風ブロックがきれいに敷かれていていい感じです。しゃれた喫茶店もあります。石畳には竹をデザインしたタイルがはめ込まれておりました。向日市は竹の里です。すぐに石畳は終ります。

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■また分岐(16:54)

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 阪急をくぐり、車道を横切ります。住宅街の中を狭い街道が通っていきます。真北にほぼ一直線、500mくらいでしょうか。

■どこからがアストロ通り?(17:01)

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 その通りの出口ちょっと手前からアストロ通りの看板がでてきました。ちょっと暗くなって写真がボケています。
 五辻を越えると本物のアストロ通りです。このアストロがどこから来たのかが分かりません。

■あれ?競輪場(17:06)

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 これはおかしい。ここは帰省の時にいつも車で通るところです。また間違った。後で調べてみると、「向日町商店街の看板」のあるところから右に入るんでした。これは分からん。とりあえずJR向日町の駅に向かいます。
 帰省のときは1号線赤池から久我橋を渡り、狭い道をひやひやしながら、この競輪場前にくるんですが、途中、狭い路地が左右から出入りしてやっかいな所です。その道のどれかが西国街道なのでした。

■街道合流(17:16)

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 その旧街道は阪急・東向日の駅手前で合流していました。石畳風ブロックが敷かれた感じのよさそうな道でした。もう一ふんばりでJRの向日町です。

■向日町(17:23)

 
やっと向日町駅に着きました。結構時間がかかりましたね。

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 向日町駅は向日市ですが、その隣のタクシー営業所は京都市になっているずです。休憩も兼ねて、タクシー敷地と駅のフェンスギリギリまでいってタバコを吸いましたので京都市内に入ったことにしておきましょう。
 次回は、淀から八角まで歩き、西国街道に入り、歩き漏らしたところを補充しながら東寺まで歩こうと思います。


【本日のマップ】

より大きな地図で 西国街道4 (茨木-京都) を表示

(4日目おわり)

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2011年8月31日 (水)

西国街道(4) 上牧-山崎

2010年10月23日(土) 



■島本町水の文化圏(14:05)
 
コンビニで水の補給をします。ここはまだ高槻側です。結構暑いのでユックリ休憩します。15分ほどタバコ休憩して出発です。

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 コンビニの向いには島本町の作った西国街道の道標がありました。桜井駅跡、水無瀬神宮、関大明神と続きます。途中、桜井駅跡からは高浜砲台跡に行く道も書いてあります。梶原砲台は聞いたことがあるが、そこにも砲台があったのか?同じなのか?また、東大寺水無瀬荘跡とは東大寺の寺籍というか荘園だったのか、さらに、鈴谷瓦窯跡というのもあって、このあたり一帯、瓦の産地だったのか?ともあれ、見所はたくさんあるようでした。

■桜井駅跡(14:15~45)
 
5~6分で桜井駅跡につきます。桜井駅という鉄道の駅があった訳でなく、律令時代の駅(馬舎や宿舎)で大原駅があり、それがここであるとの説があります。
 今はここには新しく島本というJRの駅ができていました。ちなみに、阪急京都線の最寄りの水無瀬駅は開業当時「桜井ノ駅駅」(さくらいのえきえき)というややこしい名前だったとか。

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 結構疲れたのでまた休憩です。町立歴史文化資料館に入ってみましたが、あまり印象には残っていません。新しい駅ができて、街道沿いはまだまだ昔ながらの家がありますが、早晩ビルがたって、どこにでもある風景ができそうな気がします。
 駅跡の公園をぶらぶらするでもなく、ベンチに腰かけてぐだぐだしていました。

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 桜井駅(跡)は「青葉茂れる桜井の・・・・・」で知られる(あまり知る人もいなくなっている)「楠公父子訣別之所」であったところです。事実なのか創作なのか分かりませんが、湊川の戦いにおいて延元元年・建武3年(1336年)、北朝方の足利尊氏を討つべく湊川に向かう南朝方・楠木正成が、嫡男の正行に「たとえ一兵になろうとも、最後まで千早赤坂にこもり天皇を助けよ」と諭し河内国に帰らせたと伝えられる所です。「滅私奉公」と刻んだ台座の上に楠公父子の像がありました。付近では子供連れの奥さん連中が弁当のあとのおしゃべりに夢中でした。

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 いろいろ調べると、正行は以後も父の遺訓を守って足利氏に対抗し、11年後には北朝軍と戦い、1348年、四条畷にて、足利尊氏軍の高師直率いる6万の大軍とわずか3千騎で決戦を挑み、激戦の末、弟正時と刺し違えて自刃しということです。北河内の四条畷神社は正行を主神に祀っていますし、楠木正成の「大楠公」に対して、正行は「小楠公」と呼ばれていて、河内では親しまれているといってよいでしょう。写真は四条畷の小楠公墓所です。見事な楠です。
 この西国街道ウォークでも、正成決戦の地・湊川に近い神戸・京町からスタートして、伊丹では師直塚も通り過ぎましたし、四条畷は家から近いので何回か歩いていますね。東高野街道ウォークでは河内はずっと歩きました。楠公さんには縁のあるウォークだなということで・・・

 そんなことより、ここは大阪府の青年の家だったか?があって、新入社員のころ、そこで研修があったのでした。西宮の禅寺明け直後の3~4日のカンヅメで、何を勉強したかは全く覚えていませんが、新緑の楠が清々しかったのは覚えています。近くを電車が通っていたので間違いなくここでしょう。それを取り壊し打て駅前広場か歴史文化資料館にしたのか?

■天王山は遠い(14:47)

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 島本駅から電車に乗るという考えもチラと頭をよぎりましたが、うだうだしていても仕方がないので、とりあえず歩きます。道は快適ですが、天王山はまだ遠くに見える。

■柳谷観音巡礼道(14:51)
 
水無瀬川を渡ると柳谷観音にいく道が分かれます。またここで自動販売機のコーヒーか何かで休憩。午後になりますと休憩ばかりですね。サントリーのウイスキー工場が近く、メインブランドは「山崎」なのか、看板は「山崎」ばかりで、まさに「山崎」通りという感じです。我らの時代はレッドだったが・・・

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 見えてきました、山崎工場。その向こうには天王山も見えます。

■山崎ディスティラリ(15:00)
 ここには仕事の延長で一度お邪魔しました。仕事とは言い切れず「延長」です。以前、サントリーに不易流行研究所というのがあって、そこの文献を仕事で活用させてもらっていて、たまたまこちらに来たときに、その論文の著者・研究者(女性)の講演があり「実は・・・」とお礼かたがた、飲んだのでした。何をしゃべったか全然記憶にはありません。

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 すみません、「山崎」よりもスコッチ・モルトウイスキーのほうが口に合いました。赤い顔でこの踏切を渡って山崎駅まで帰った記憶があります。

■関大明神(15:05)
 ・・・ということは、以前もここを通っているはずなのですが、記憶にはありませんでした。赤い顔でしたから・・・その時は、この道が西国街道とは全然知りませんでした。

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 関大明神です。かんだい明神ではありません。関戸明神ともいい、祭神は大己貴命、天児屋根命です。古代、この辺りに、国境でもあったので関が設けられ、関守神、辻神を祀ったのでしょう。

 天王山の合戦のずっと以前、古代から軍事的に重要な土地だったので厳重なものであったと思われます。年代物の案内板と新しい案内標をあげておきます。

■府境(15:07)

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 ここが大阪/京都の府境も兼ねています。「従是東山城國」という石柱と府境の看板が建っています。後者は余分に思えてしかたがない。

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 ちなみに辻元さんはフライングですね。さらにちなみに、Googleのストリートビューを見ていたら、辻元さんの顔にシャドウが入っていました!ここまでするの?三笑亭って何じゃい?と思ったら京都側にある料理旅館でした。


(つづく)

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西国街道(4) 安満-上牧

2010年10月23日(土) 



■ウォーク再開(13:00)
 
結局近くの牛丼家で昼食。13:00再開です。

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 安満の交差点、というより陸橋下から東を見ています。いかにも場末というごちゃごちゃした感じがします。頭上の府道は枚方から高槻にくる幹線ですね。陸橋を南に降りた辺りは八丁松原といって、沿道に松が植えられているところです。
 高槻はお城下ですから六口が作られていました。その内の京口は今の京口町の圓成寺の東側と言われています。そこからまっすぐ北に、写真のあたりで西国街道と接続していました。京口からここまで八丁あったので八丁畷、松が植えられていたので八丁松原という訳です。松は慶安2年(1649)
高槻城主永井直清によって整備されたということですが、かつての松の並木道も明治以降は鉄道の開通(東海道線や阪急)、道路の拡張によって少なくなり、現在は八丁畷町、松原町にその一部が再整備された公園になっています。車でよく通りますが、今回行ってないので写真はなし。

■安満の生け垣(13:12)

 さて、ごちゃごちゃを過ぎると、すっかり風景が落ちついてきます。

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元藁葺屋根の家もあるし、生け垣の家もある。こうしてみると生け垣の効用というのは大きいですね。生け垣でなくても石塀の上から植木がのぞいているだけでも違う。

■梶原(13:24)

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 檜尾川を渡ると梶原に入ります。左手は俄然山が迫ってき、右手は開けて東海道線が見えます。この辺りから東海道線と阪急線が近くなり競争する(のではないと思いますが、乗っているとそう感じる)ところですね。
 街道の周囲はかなり熟れてきていい感じです。梶原らしく梶原さんというお宅もありました。梶原村なので梶原さんなのか。梶原さんが村の有力者であったから梶原村なのか?

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 高槻市観光サイトによると、「梶原は、古くは「カジオリ」と呼ばれていました。淀川で大風のために梶(舵)が折れ、帆も失ってしまい、それでこの地域を「帆無梶折邑(ホナシカジオリムラ)」と呼ぶようになったという伝聞があります(参照:芥川えのきの会「梶原余話」)」http://www.city.takatsuki.osaka.jp/new/syoko/html/travel0013.html

なるほど。

■畑山神社(13:32)
 
畑山神社は天児屋根命と菅原道真を祀るとあります。またしても藤原系。しかし、社伝によれば、元亀年間(1570年代)、金仙寺の鎮守である三十番神を合祀して、永福寺と名付けられたといいます。慶長年間に火災で焼失。宝永3年(1706)、現在の社殿や多宝塔などが復興され、明治元年(1868)の神仏分離令により、同5年に畑山神社と称するようになったということでした。新しいんやね。

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 さらに、当社造営以前、7世紀後半頃には、この地に、梶原寺が創建されていたとみられています。その頃から「梶原」なのか。平安時代はかなり大きなお寺だったようです。
 山麓の斜面には7~8世紀頃の瓦窯跡があって、天平勝宝8年(756)、東大寺の造営にあたっていた造東大寺司が、梶原寺に6000枚の瓦を発注したとの記録(正倉院文書)が残っているそうです。
 日本に瓦技術が伝わったのは、の崇峻元年(588)「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」と日本書紀には書かれていて、瓦博士(およびその指導を受けた日本の職人)の手により、法興寺(飛鳥寺のちに、平城京遷都で奈良に移転され、元興寺となった)が造営(596年)されたことが明らかになっています。
 この瓦はなんと昭和時代まで使われていたんだそうです。昭和30年代に元興寺の極楽坊本堂と禅室の解体修理が行われ、その時、法興寺から運ばれたものが約600枚、 そのうち法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も使われていたのが分かったのです。
http://www.kawara.gr.jp/01_rekishi/rekishi01.shtml
 東大寺から発注を受けるとなるとかなりの技術をもっていたに違いありません。瓦博士から指導を受けた職人たちが大勢住んでいたのでしょうか。その瓦も平安時代にはあまり焼かれなくなったのだそうです。

■梶原一里塚跡(13:39)

 さて梶原一里塚跡です。ここには地蔵堂があって唯一の縁となっていますが、一里塚とはあまり関係のないもののようです。せっかくの地蔵堂もこんだけ厳重に囲ってしまう取りつく島もありません。
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山が迫ってきて感じのよいところではあります。

■東海道線と併走(13:42)
 西国街道は東海道線と併走するようになります。東側はさらに、阪急京都線、新幹線、国道171号と併走します。淀川はさらにだ1kmほど東でまだ余裕がありますね。名神が西の山の中梶原トンネルを通ります。交通情報で「梶原トンネル先頭に30キロ」とか言って、混み合うところです。

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 それにしてもよく電車が通ります。北陸線特急(多分)、はるか、最後のはなんでしょう?福知山線特急ではないと思うけど・・・この間、たった4分です。

■上牧(13:49)
 かんまきというのは高槻市なんですね。知らなかった。街道筋の古い町らしく道が狭い!車1台がやっとです。

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■東海道線のガードをくぐります(13:50)

 トンネル内はレンガ貼りになっていました。ここからが島本町。というより、トンネルの西南(大阪側)でも、西国街道の西が島本町になっています。

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【本日のマップ】

より大きな地図で 西国街道4 (茨木-京都) を表示

(つづく)

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