淀川

2013年9月15日 (日)

茨木街道をあるく 溝咋神社

2013年9月6日


 また道草です。堤防を下って溝咋神社に行ってみます。

■五十鈴で安威川にかかる橋
堤防上の道では横断できませんでした。引き返して石段を下りて、道の下をくぐります。旧街道は、階段のところから路地に入るという話もあります。

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■溝咋神社

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 溝咋氏というのがよく分かりませんが、彼らがこの土地に居住して祭祀をしていたと思われます。
 溝咋氏は、溝咋から水田に水を誘導する溝の側の杭とする説から、土木技術で低湿地を開発した人々という説があります。溝咋の咋は「くう」で、「くう」は鳥が巣を構えるの、構えるという意味があるので、単純に、溝を掘って人々が住める土地を拓いたと理解します。たしかにこの地は、淀川のような大河の傍ではないものの、少し上流で安威川と茨木川が合流するための低湿地で、まずは溝を作らないと作物ができない、住めない土地だったのでしょう。
http://www.osaka-museum.com/comm/comm.html?id=1032
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-mizokui.html

 話はまったく変わりますが、下が公式サイトです。サイトのできばえは問題にはしないですが、ホームページ本文を隠してしまう広告はいかがなものかと。表示しないように設定はできるようですが、いちいちログインしないといけない。だんだんド厚かましくなってくる広告手法。
http://www.geocities.jp/mizokuijinja/

■神門というのか
なかなか重厚です。

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■由緒書きが読めませんが、

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社頭掲示によると・・・・・
「延喜式の古社であって、祭神は、姫踏鞴五十鈴姫命、溝咋玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。
日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。
元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保二年「一七四二」、地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。」
 第10代崇神(すじん)天皇のころの創始とされていますが、記紀の時代より相当昔、ヤマト建国に近い昔ということなのでしょう。

■本殿への道

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■拝殿です
厳重ですね。本殿も拝殿に連結され、屋根しか見えません。

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■神婚説話
 祭神の一柱、ヒメタタライスズヒメ命は、後に神武天皇正妃になりますが、記紀の有名な説話には・・・・
○古事記・神武天皇段
 三島溝咋の娘・セヤタタラヒメが厠に入っているとき、ヒメを見染めた三輪のオオモノヌシが丹塗矢と化して、下からヒメのホトを突いた(犯罪だあ!)。驚いたヒメはその矢を床の辺に置いていたら壮夫となった。二人の間に生まれた御子をホトタタライイススキヒメ、亦の名をヒメタタライスケヨリヒメという。さらに、正妃を求めていたカムヤマトイワレヒコ(神武)が、ヒメタタライススケヨリヒメが神の子であると聞いて喜び、ヒメを娶り正妃とした。
○日本書紀・神代紀
 大三輪の神の御子は賀茂君・大三輪の君またヒメタタライスズヒメである。
 また曰く、コトシロヌシが八尋熊鰐と化して、三島のミゾクイヒメ亦の名・タマクシヒメの処へ通われ、ヒメタタライスズヒメが生まれた。これが神武天皇の后である。

 典型的な朱塗矢型神婚説話ですが、書紀のコトシロヌシがヒメタタライスズヒメの父神とみるのが一般になっています。コトシロヌシは葛城を本拠とする鴨(賀茂)氏が奉斎する神なので、当地に進出した鴨氏と溝咋一族との交流(鴨氏が溝咋一族を傘下におさめた)、さらに鴨氏もヤマト王家に服属したのを神話的に言っているのでしょう。
下記が非常に参考になります。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/01/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2010/12/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2008/11/post-4e2c.html

■事代主神社
コトシロヌシは当社摂社に祀られていますし、近くにコトシロヌシを祭神とする三島鴨神社がありました。鴨についていえば、北約3kmに鴨神社、その辺りに鴨村・鴨林などの小字名があり、一帯は鴨氏の地盤だったのでしょう。

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■タタラ
ヒメタタライスズヒメの「踏鞴」が気になりますが、南茨木の東奈良では、弥生時代2ー3世紀の大規模環濠集落・東奈良遺蹟が見つかっていて、わが国最大級の銅鐸製作地であったことが分かっています。これをもって、溝咋一族はタタラ製作に関係する技術集団だったといえるのかどうか?
摂社の事代主神社には、事代主命の他に、カグツチの神が祀られています。踏鞴と結びつけてよいのかどうか?

阿遇突知神 (カクツチノカミ)    火の神
沖津彦神 (オキツヒコノカミ)     かまどの神
沖津比賣神 (オキツヒメノカミ)    かまどの神
弥都波能賣神(ミズバノメノカミ)   水分の神
波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)  陶磁器の神
波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)  陶磁土の神

■摂社に陶磁器や陶土の神、波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)、波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)が祀られているので、陶器生産にも活躍したのかも知れません。
ここで、陶器生産ということで、陶津耳命を持ってきたい気はしますが、甚だ悩ましいことになります。
「カモ系図考察」http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html によると、
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-生玉兄日子(鴨県主、賀茂県主祖)
となっていて、陶津耳命=(三島溝杭耳命)=(建角身命)という案があるのです。
そうなると、下記の年表で、先着の鴨氏(建角身命;山城鴨系)に三島溝咋耳(建角身命)が合流するという変なことになります。まあ、先着の鴨氏が拡大したと理解したら同じことか。

■鴨の矛盾をはらみながら、この地の支配集団まとめ
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弥生時代中:大規模環濠集落・東奈良遺蹟等、わが国最大級の銅鐸
                  製作集団
3~4世紀 :鴨氏が当地に進出、内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定
                   着し、鴨神社を創建。溝咋氏が安威川周辺に入植・開発
                   し、溝咋神社創建。(崇神期)
      後に鴨氏が溝咋一族を傘下に<=ここがおかしくなる
4世紀末   :ヤマト王権に鴨氏(事代主神系)が服属(応神期)
      仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に
                       三島神社創建(淀川右岸)
5世紀    :御島氏が勢力拡大し三島県主、先住の鴨族と共生した
                       が、鴨氏は衰退
7~8世紀   :三島氏が伊予三島と伊豆に「三島大社」を起し、三三島
                      として崇敬
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各神社の由緒を第一義に参考にし、文献により修正しています。そもそも年代はよくわからない時代なので、ものすごく大まかにはこんなことがあったのでしょう、という程度。
以後は、摂津北部は中臣氏の地盤になるのか?

■手力雄神社
手力雄神(タチカラオノカミ)を祀っています。力の神。この神を祀っているのは初めて見ました。

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■天照皇大神社(左)と保食神(右)
なかよく並んで建っています。

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 なにか釈然としない気分のまま旧街道にもどります。その前に、五十鈴のコンビニで休憩。

■力石
200kgだそうです!

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場所は浄福寺分院のなかです

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■府道に出てきました。
ここは見覚えがあります。クルマでよく通ったところ。

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■よくわからない階段
もとからあった階段を無視して造成したか。

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■旧道が分岐します

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■バス道を横切ります。
しばらく住宅街を通って、バス道に合流し、末広町でまた旧道が分岐します。
右端は外国人のおっさんですが、クルマがどんどん来ているのに、のんびりと急ぐ様子でもなく平気で渡っていきました。大阪人もビックリ!

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■旧道をあるきます
しばらく歩くと阪急電車のガードをくぐり、いよいよセントラル茨木

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2013年9月13日 (金)

茨木街道をあるく 唐崎段蔵


 淀川流域など洪水の頻発した所では、洪水や湿気から家を守るために敷地を盛土し、その上にさらに嵩上げした台地に蔵を建てる対策が行われてきました。これは他の地方では水屋(濃尾平野で)とか水塚(みつか、利根川流域で)等と呼ばれていまする。巨椋池周辺では「水屋」、「段倉造り」と呼ばれ、高槻や寝屋川では「段蔵」と呼ばれているようです。そこに、米、味噌や重要な家財を収納するとともに、洪水時の避難場所も兼ね、なかには座敷をもつものもあったといいます。

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 唐崎の段蔵は典型的な「連立段蔵」といわれ、蔵の敷地を段々に高くして、その上に連結した蔵を作っています。母屋や倉の一部が浸水しても米や家財を守ることができます。この土地の標高や嵩上げの諸元は京大防災研の論文がありますので、それを調べてみると、http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/dat/nenpo/no45/02b/b37.pdf

芥川堤防:約15m
周辺の田:約5m
母屋敷地:約6m
1段目の蔵:0.2m 敷地より高い
2段目の蔵:0.4m 敷地より高い
3段目の蔵:1.0m 敷地より高い
 屋敷の敷地は盛土をしてあるが、堤防天端より9m以上も低く、なお水害危険度が高いといえます。同じ段蔵の古い写真をみると蔵の台地はもう少し高かったようです。(目測で3m位はあったか?近年の建かえで淀川の安全対策を織込んで低めにしたのか?)
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

さてここで疑問

1.母屋敷地の盛り土が1mでは少ないのでは?多段の蔵で最高段はさらに1m嵩上げとはいってもこれで大丈夫なの?
 上記、京大防災研の論文では洪水があっても傾斜地であるため、氾濫水は南に向かって流れるので滞留しない。床上浸水を避けることを目的としたもの、と説明しています。
しかし、本来このくらいはほしいという気がどうしてもします。

左は久御山町・北川顔、右は福知山市大江町尾藤口。

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2.段蔵で嵩上げが20cmというのは意味があるのか?

 これは頻繁に出し入れする物、例えば稲を収穫して一時保管し、すぐに出荷する様なケースならば、リヤカーを蔵口に直接付けて出し入れできるので、1mもの高さのある蔵に持ち上げる労力が省ける。長期保存する米や重要な什器類は最高段の蔵にいれる。こんな使い方をしたのではないかと思います。
しかし、何段も数10cmの段差で蔵を繋げていくというのはどうしても疑問が残ります。

事例1(唐崎中一、茨木街道旧道沿い)
 旧街道沿いに近くによって見られる段蔵がありました。段差1mもないくらいで、低い方との差はブロック1枚ぶん。せいぜい15cm。短期的な出水にしか対応できないと思いますが、これでよいのか?ギャップが15cmくらいなら、いっそのこと両蔵とも同じ高さにしてしまえ、という気もする。

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事例2
(唐崎中一、バス道沿い)
 高さは1m位あります。高い方と低い方のギャップは10cmくらいか?内側がどうなっているか分かりませんが、この2段は見た目のデザインではないかと思えるくらいです。

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事例3(茨木市郡4、道祖本街道脇)
 ここは標高24mで近くに茨木川はありますが、洪水の危険はないでしょう。山側からの出水対応ならば完璧か。それにしても2段にする意味は分かりません。

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 ここでバシバシ写真を撮っていたら、近所の奥さんから「何かご用ですか」と不審者チェックがはいり、「かくかくしかじかで・・・・ところで、何で段蔵で2連繋げるんですかね?」と訊いたら、「アハハ、それは持てるものの満足感じゃないの。」と言っておられました。あたりのお家も結構なお屋敷ばかりでしたが!「持てるものの・・」というのは本質を突いているかも知れません。

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事例4(茨木市郡山2、道祖本街道脇の丘の上)
極め付けです。同じ蔵ですが、標高40mの丘の上にたっています。洪水は皆無でしょう。大雨の出水対策と湿気対策です。2段にする理由は、ものの出し入れのハンドリングはあるにせよ、こうなると見た目デザインの比率が大きいのでは。

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 複数段の連立段蔵は、唐崎のような低湿地で洪水の危険が大きい場所では、ものの出し入れのハンドリングを考慮した洪水対策というのが主な理由かと思いますが、あまりにカッコイイので、非洪水地帯では、それをまねる一種の流行みたいになったのではと推定しましたが、どうでしょうか?

 

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2013年9月12日 (木)

茨木街道をあるく 唐崎散歩

2013年9月3日
2013年9月6日

 

茨木街道に復帰して唐崎に入ります。

■芥川右岸堤防から下ります

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ちゃんと階段を付けてある。正規の街道に近いところです。

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街道に入ったところにあるお地蔵さま。鍵もかかっていないようだし、戸を開けて写せばよかった。

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どこをどう通ったのか?

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こちらはバス道に突き当たった。

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水路に沿って歩いた記憶もある。街道とは違うなあ。

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ここは正規の街道のようです。

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9月3日は、バス道に出たところで大雨に逢い、退散したのでした。バス1台をやり過ごして待機はしたのですが、雨は全然止まない。

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■高槻街道支線から入る
段倉(だんくら)を見に行きました。たびたび淀川の洪水の被害にあっていた地区では敷地をかさ上げして倉が建っています。段倉考については後程。
遠すぎてよく見えませんが、2m位はあるか。

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北向地蔵尊
梅田の紀伊国屋書店近く、三番街の南側にあるし、昔、住んでいた京都は伏見区竹田の散歩コースには北向山のお不動さんというのがあって、普通にみていたのでよくあるものだと思っていましたら、北向地蔵さんは珍しいんだとか。なんでも全国で400体くらいしかないのだそうです。 http://kita-ku.jugem.jp/?eid=24

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街道筋。同じところを通っているような気がする

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■バス道の南にいってみます
立派な地蔵堂。唐崎南之口地蔵堂といいます。

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地蔵菩薩

「左手に宝珠、右手に錫杖を持って
千葉の青蓮華に安住する」御姿の
地蔵菩薩が。六道の辻に立って、地
獄に落ちかかる者の手を引いて救い
あげてくれるという信仰が印度から
中国を経て日本で盛んになったのは
平安時代のことです。
 後、日本古来の境の神、道祖神
とも結びつき、村々の境や辻に
地蔵堂が建てられ、旅行安全、
厄除け、特に子供と縁の深い御仏
として人々に親しまれるようになりました

格子の間から覗いてみましたら、眉毛濃!!どことなくアチラ風のお化粧です。

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地蔵堂の前には、これは大きな石燈篭
お花講中 昭和二年四月 と彫ってあります。これはボクの見た石燈篭で最高かもしれない。お花講というのは、花飾りで寺社に奉仕する講だと思いますが、どこの寺社へなのかは分かりません。

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唐崎神社
明治41年に三島江の三島鴨神社に若宮を合祀されましたので、正確には三島鴨神社の遥拝所となっています。鳥居がありませんね。

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バス道に戻ります。JAの角に道標がありました。
北面  (直?) 三島江 鳥飼 
     (右?) 茨木 吹田 大阪
西面  (右?) 三島江 鳥飼 味舌 柴島
     (左?) 大塚 枚方
南面   直   大塚 枚方 
     (左?) 茨木 吹田 大阪
東面  明治四十三年六月 此所三箇牧 大(阪府)

( ?)は削られて不明。上記のように補充したら、この場所では合うのではなかろうか。方角が削ってあるところを見ると、よそから持ってきたのか?パズルです。

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バス道を西に向かいます。振り向くと左手に「石田梅岩 母たね 生誕地」という新しい石標が建っていました。

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(つづく)


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茨木街道をあるく 道草編 (5)番田~唐崎過所浜

 今回は番田から唐崎過所浜経由、唐崎に向かいます。まだ道草が続きます。

9月3日は唐崎・街道筋にて集中豪雨に逢い、降雨コールドとしました。
9月6日に再開、番田から郡まで歩きましたが、茨木の春日通りでスマホの電池切れ。以後当てずっぽうで歩きはしましたが迷走です。大まかには街道ルートは行けていましたが・・・
9月9日リベンジ:茨木から箕面・奥の道祖本街道終点まで歩きました。最後のほうでスマホ電池切れを起こしましたが、地図は印刷してあったので。3回分まとめて整理します。

  スマホは歩数計オン、GPSオンで、Googlemapでルートを確認しながら歩きますが、負荷も電池も食うやろな、と思いつつ、これがマイスタイルなので。だいたい5時間で強制シャットダウンとなります。本格的にウォークをやると10時間くらいはかかるので、あまりカスタマイズはしていませんが、何もしなくても10時間くらいはがんばってほしいのだが。スマホの機能と電池性能がアンバランス、スマホがチャラいソフト満載のPCみたいになっていて、そのアプリが電気や金を食うものばかり、というのが原因と思われます。スマホもまだまだやね。今度はアプリを徹底的に切って、スカスカにして歩いてみたいと思います。

 

■番田にて

番田バス停から入っていきます。竹の内小学校5年で持っている田んぼ。元気に育っていますが、事あるごとに見てほしいね。田植えと稲刈りだけだったりして・・・

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番田の村

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番田神社はエントランスのリニューアル中。この地のはやりかどうか知りませんが、鉄骨を組んで提灯スタンドの建設中でした。塗装仕上げなのでもうすぐ完成か。由緒看板も新設されたようです。

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淀川堤防から番田を望む。前と同じアングル!

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芥川河口から鷺打橋

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堤防から淀川河川敷を望む
ほんの少し前まで(昭和55年頃)、ここに牧場があったようです。
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

平安時代には、この付近から摂津市鳥飼の付近までに近都牧(きんとまき)が設けられ、諸国から京に納めるべく集めた牛馬を一時的に飼育されていました。後に、これを上・中・下の三つに分けたことから「三箇牧」の地名が生まれたとされています。三島江のあたりに、三箇牧の地名が学校名として残っています。

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■唐崎過所浜

 唐崎過書浜はこのあたり。前に見える道が、旧芥川堤防らしい。

 古代に唐船が停泊した、あるいは大陸からの渡来人がこの地に住んだことから「唐崎」という地名がついたと云われています。江戸時代には三島江浜とともに淀川の主要な河港でした。

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旧堤防を少し行ったところに案内板があります。

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当時の淀川は、京・大坂を結ぶ交通の要路として幕府から通航を許可された過書船が旅人や物資をのせて行き来していました。唐崎浜は北摂の酒米や煙草、酒、 寒天などを積み出す一方、肥料や天草、木材などを荷揚げし、「富田の外港」と呼ばれ、浜には荷受問屋の蔵が建ち並び時には百石積みの帆前船が発着するなど 大いに栄えたそうです。

ふりかえると淀川堤防。今歩いている道は「高槻街道支線」で高槻城下まで行くようです。途中の芝生から、道祖本街道も始まります。

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旧堤防道から下りてみました。港の村らしくお地蔵さんかなにかの祠があります。

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土取りされて低くなったとはいえ、旧堤防はかなりの高さがあります。

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茨木街道をあるく 道草編 (4) 淀川河川敷の不思議

2013年9月3日


 来しなの堤防あるきがよかったので、河川敷に下りて歩いてみました。

■あそこから下りられるようです
土手にはマコモが咲いています。

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■これはなんでしょう?
堤防の土手にあった気になった花。花の後がまんまるになっています。

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これが花のようです。オトコエシに似ている。

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花が終ると花序の小さな枝がまるまって、さらに大きな枝がまるまってくる。
縦じまのアカスジカメムシが取りついています。

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葉っぱはオトコエシではないなあ。ノコギリソウとも違う。

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タネが実ってくると、再び開くのか?タネが実る過程で何か保護をしているのか?

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最後までよくわからない花でした。

■河川敷の堤防側
クズが支配しています。

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■ノイバラ

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実は赤くなるのかと思ったら、そのまま枯れてしまうのでした

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■おなじみヘクソカズラ

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■ツキミソウ

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■川側を見てみます

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森になっています。入っていけそうにない。

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■キリ
あれはつぼみなのか?

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■林縁にはいろんな秋の花が咲いています
ヤブカラシ

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白いコマツナギ?

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キンミズヒキはもっと小さく清楚なんですが、よくわかりません

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何かに寄生している植物と書いていましたが、そのソースを見失いました。

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ここの河川敷はすばらしいです。四季を通じていろんな植物が観察できます。場所あるいか樹を決めて、定点観測していくとおもしろそうです。

このあと、唐崎の街道に復帰しますが、それはページを改めて。

(終り)

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茨木街道をあるく 道草編 (3) 三島鴨神社

2013年9月3日


 ちょうどお昼になったんですが、お茶もパンも用意していない。ぺットボトルの自販機はありますが、コンビニがない。コンビニ探しで延々とあるきました。
ともかくも、三島鴨神社です。

■三島鴨神社鳥居
鳥居は阪神大震災で崩壊し、新たに建てられたものです。

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■拝殿の前に鉄製の提灯かけが作ってあって、これが大型で邪魔。

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 ご祭神は大山祇神、事代主神。ご由緒を見ると、相当こまかく書いてあります。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/rekishi.html

「創建は、4世紀中葉、仁徳天皇が河内の茨田の堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、百済よりここ摂津の「御島」に、大山祇神をお迎えになりました。(一部略)」
大山祇神を祀る土木工事の技術者集団を呼んだというような書きぶりです。(淀川鎮守のやしろをつくるに当り、唐崎のあたりにいた物部の韓国連が協力した、と書いてあります。両者、茨田堤の造成にかかわったのでしょうか?))

「御島とは淀川の三島江にある川中島のことで、古代の玉川湖沼(仮称)が淀川にながれこむ入江「玉江」(三島江の別称)にあ って、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので、「御島」とあがめられたのです。淀川の鎮守であるとともに、農耕を守り王都難波を守護する神として、祈りつづけられてまいりました。」
当時の想像地図が公式ホームページに載っています。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/tamagawakosyou/tamagawakosyou.html

この地図を見ていると、当社はもとは御島社で、三島鴨神社はもっと内陸の赤大路、太田茶臼山古墳の近くになります。いろいろ調べるとやっかいなことで、摂津国嶋下郡の延喜式内社がよく分からなくなっていて、その後継社候補にここの三島鴨神社と赤大路の三島鴨神社(現在は鴨神社)とが議論になっているのだそうです(論社という)。両社がケンカしている訳ではありません。

 赤大路の鴨神社の由緒もしっかり踏み込んで書かれてあります。
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja02.html
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja03.html
http://kamojinja.web.fc2.com/100719.html

 両社の関係を時代を追って整理してみると、要は・・・・・

1)凡そ3世紀のころ:内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定着し、鴨神社を創建。祭神はカモノタケツヌミノミコト、イザナギ・イザナミノミコト、大山積命
2)4世紀中葉:仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に三島神社創建
3)5世紀ころ:御島氏が勢力拡大し三島県主となり、先住の鴨族と共生する時代があった。しかし、鴨氏は衰退し、赤大路の三島鴨神社も三島氏が統合支配するようになった(上の宮と下の宮の関係)。6世紀、継体大王以後は三島氏の勢力が大。
4)7~8世紀中葉:三島氏が予大三島に「三島大社」を勧請し(百済との海上交易を深めるため)、伊豆の「三島大社」をも起し、日本三三島として崇敬されはじめる。
5)10世紀:「延喜式神名帳」に式内社「摂津の国嶋下郡の三島鴨神社」と記載され、長らく摂津の国の氏神として崇敬される。
6)15世紀後半:応仁の乱で社殿が消失、再建されないままになり、後年、「鴨神社」に戻った。
7)1598年(慶長3) :豊臣秀吉の命により淀川右岸の堤防がつくられ、三島神社は川中島から三島江村内に遷される
8)1697年(元禄10):高槻藩主の尽力で三島神社が延喜式内社三島鴨神社と改称。

詳細は三島鴨神社の年表参照ください。

 三島江の三島鴨神社のご祭神は、大山祇神、事代主神。一方、赤大路の鴨神社のご祭神は、大山積命、カモノタケツヌミノミコトで、どうもタケツヌミというのが気になります。賀茂朝臣系(葛城賀茂)のコトシロヌシであれば、上記、三島県主と鴨族との共生関係があったということから、理解しやすいのですが?それとも、別れた時に、それぞれ別のカモの神にしたのか、8)の段階でコトシロヌシを勝手に付け加えたのでしょうか?そんなあんまりな。

■本殿

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■本殿は垣根の扉が開いていて直接お参りできるようになっています

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■三社神社

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左から、武甕槌神(大将軍社)、市杵島媛神(厳島神社)、奥津彦神 奥津比売神(竃神社)
中臣氏はいつごろから入ってきたのでしょう?

■八幡宮
明治41年(1908)に西面にあった八幡宮を三島鴨神社に遷し合併奉祭したという。

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國廣大明神
明治41年(1908)、柱本にあった稲荷社と天神社を合祀し、國廣大明神として合併奉祭したもの。

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■唐崎神社
明治41年(1908)、唐崎にあった唐崎神社を三島鴨神社に遷し合併奉祭した。唐崎の神社跡には遥拝所があります。

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大山祇神(三島鴨神社若宮)、天児屋根神(春日神社)、菅原道真公(天神社)の三祭神。
新しいうしさんと旧いうしさんがいます。P1260555

秋祭りの写真等をみていると、盛大で本格的なものです。近隣の人も楽しみにしているのでしょう。神社を中心に、共同体がしっかり生きている感じを受けます。

■さて三島江を退散します。

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■一天にわかにかき曇り・・・
堤防まで上がってきた段階で、西の方は空模様がちょっとヤバい状態です。

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■対岸の出口側を望む
東は大丈夫ですが・・・そうこうしているうちに降り出しました。あわてて神社横のバス停に戻りました。バスは出たところで、30分待ち。迷っているうちに雨が止みました。

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■三箇牧小学校
午後は休みなのか、サッカーしています。

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2013年9月 8日 (日)

茨木街道をあるく 道草編 (2) 淀川堤防を三島江へ

2013年9月3日


街道から離れて、淀川堤防を歩き、三島江に向かいます。

■芥川合流点
番田の堤防から河川敷を見ています。向うの堤防が芥川右岸の堤防で、そのまま淀川右岸の堤防になります。河川敷にはちゃんと道があります。

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■秋の花咲く河川敷

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これ以上寄れません。キクイモか?

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クズ

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よく見る花ですが、名前を知りません。

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芥川を渡ります。緊急用河川敷道路となっていました。

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堤防に上がりました。見晴らしはいいです。

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ここ広々としていいですね。淀川河川事務所でも、その活用において「芥川ケーススタディ地区」の番田野草地区としての構想をしています。

○芥川との合流点という特徴を活かした河川環境の保全・再生の取り組み(河川の横断形状の修復によるヨシ原やワンド・タマリがあるような冠水帯の復元、芥川との連続性の確保など)を進める。

となっています。http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_shiryo2.pdf

どこまで具体的なものか分かりませんが、もう少し入りやすくしていただくとありがたい。特にこの地は、昔、川港があって舟運の歴史などこの地区ならではの特色もあるので大切な場所だと思います。願わくば、あまり人工くささのないものを。

■淀川堤防をゆく
河川敷はもう森です。ニセアカシアだと思いますが、近くに行かないと。

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堤防の外側には、築堤・修堤記念碑がありました。
慶応4年(明治元年)の水害、明治18年の水害を契機とした築堤・修堤の記念碑です。

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松林が見えてきました。あれが三島鴨神社のようです。

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■三島江
 三島江は渡し場であると同時に河港であり、茨木、冨田の外港として物資の運搬と人の往来で賑わいました。
 三島江は巡礼の道でもありました。ここから馬街道で茨木の馬場へ、そこからは茨木街道、道祖本街道経由で、箕面、さらに能勢妙見さんへ至ります。馬街道の途中から富田街道で北へ行けば、総持寺へは至近距離。途中から芥川を遡って神峰山寺へ。また、高槻の山の中で丹波街道に接続して亀岡へ行ける。渡しで淀川を渡れば出口につき、京街道につながります。絶好のロケーションです。

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灯篭には 能 勢 と彫ってありました。

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 三島江は枚方、楠葉とともに、河内、大坂と北摂をつなぐ重要な港、兼渡し場だったことが分かります。
 万葉の古には、葦や菰の生い茂る清楚な自然を表現する歌枕であったようですが、現在では、レンゲ、菜の花が名物になっています。
菜の花:http://hananomeisyo.sakura.ne.jp/misimae-nanohana.htm
レンゲ:http://sano567.la.coocan.jp/rengenosato/index.htm
http://takatsuki.osakazine.net/e488007.html

 しかし、あの河川敷の手つかずの自然こそ万葉の歌枕に匹敵する自然だと思います。

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茨木街道をあるく 大塚-番田

2013年9月3日


対岸の高槻にきました。大塚の渡し跡に行ってみます。いよいよ、ここからが茨木街道です。

■大塚渡しは草の中
広い!気温は高くなっているようですが、風が涼しい。

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このあたりが大塚渡しのあった場所です。対岸の渡し場はあの辺りか?うろうろしていて、茨木街道起点の石碑を探すのを忘れてしまいました。

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■大塚切れ
ここは同時に、大塚切れのあった場所です。堤防を越した外側斜面に洪水記念碑がありました。

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大正6年(1917)10月1日朝、大塚の堤防が台風による連日の大雨により決壊し、高槻町に甚大な被害をもたらしました。それより少し早く、これが世に言う「大塚切れ」です。 番田の芥川堤防が決壊、ほぼ同時に芝生の堤防も決壊しました。3連同時決壊!

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大塚堤防辺りの数戸がアッという間に押し流され、午後2時頃には天神山の山際あたりまで浸水したそうです。この本町筋というのは高槻城址近辺のことでしょう。
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327736816230.html

大阪市の福村(現在、西淀川区福町)では、1か月に渡り浸水し、その排水のため、今の国道43号より上流約二百メートルの個所で淀川の堤防を切開たということです。切開した地点 の右岸堤防に大塚切洪水碑が建っているそうです(見てません、見に行くべきか)。
洪水排水のため、「わざと」堤防を切った「わざと切れ」は、明治18年の伊加賀切れの時も網島の辺りでありいましたが、右岸でも再びあったのだ!

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これは復旧工事完成の写真ですが、それ以後も淀川の改修工事が幾度となく行われ、昭和15年~17年(1940~42)には大塚引堤工事が行われ、内陸部へ100mも堤防を移転させ、大塚の約70戸の全戸移住が実施されました。
 大塚切れの洪水は、明治18年(1885)の伊加賀切れ、昭和28年(1953)の台風13号の大洪水とともに、淀川三大洪水と言われています。戦後になって、また起こるのです。

■淀川右岸堤防あるき
クルマがびゅんびゅん走るので危なくて歩けません。河川敷を歩きます。
淀川大橋をくぐりゴルフ場受付のところで堤防にあがります。

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堤防の外側に細いみちがあるので、そこを歩きます。

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時々、河川敷を覗く。遊水機能付きゴルフ場。

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番田に向かっています。

■堤防の村・番田
何の花でしょう。

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番田の中心部のようです。今度下りてみます。

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破風の「水」の文字飾りは普通は火伏せのマジナイですが、ここでは洪水除けでもあるのではないか?それはないか?なお、屋根の横にも付いています。
緑の中に赤茶色がひときわ鮮やかです。

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■鷺打橋
堤防に上がります。茨木街道は番田の堤防道をまっすぐ、あの鷺打橋を渡りますが、今日はちょっと道草します。

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茨木街道をあるく 道草編 (1) 変貌する枚方宿

2013年9月3日


 淀川を枚方まで下りてきました。
 ここから茨木街道をあるき道祖本街道に接続、箕面まで。最終的には勝尾寺まで行きたいと思います。
 昔の茨木街道は枚方の渡しで対岸の大塚に渡り、そこから茨木・郡で道祖本街道に合流、宿河原までですから、今回は道草が大半です。
 それでは

■変貌する京街道枚方宿
ちょっと来ないうちにいろいろ新しい動きがでています。ビオルネを越えて街道筋への入口にあった古めの食堂がなくなり、建物も新しくなってカフェになっていました。街道筋に入っても、古い建物が壊されていました。見慣れない建物も。昭和は遠くなりにけり、というところですかね。

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上の写真、2枚めは三矢公園の前ですが、1枚めはひょっとしてコレを壊したの!?もうビックリです。写真は2008年7月28日。

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■鍵屋のほうはまだ無事です
問屋役人・田葉粉屋と、左に行けば問屋浜。 

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鍵屋の鍵や?

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■伊加賀切れ水害碑
桜町信号の場所にある伊加賀切れ水害碑。伊加賀切れは淀川史上最大の洪水と言われています。大阪平野に古代の河内湖再来といってもいいほど。上町台地を除く大阪全域が水没したほどの洪水でした。 http://yone37458ballet05410n.web.fc2.com/nanshiki/ikaga/ikaga.htm

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破堤は180mにもなり、決壊でえぐられた跡が「入江」のようになって、やむなく元の堤防から大幅に後退させて仮堤防を作りました。その跡が桜町の湾曲道路として残っています。「入江」の様子は明治21年測量の陸測の地図に残っていますし、電子国土WEB.NEXT、枚方付近で明治前期の低湿地オンで見ることができます。
http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/#zoom=16&lat=34.81103&lon=135.63616&layers=BTTTT
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■枚方合同樋門跡
枚方大橋に行く途中、堤防上にあります。昭和5年から淀川左岸を潤していた農業用水の取水口です。現在は寝屋川の木屋から取っているようですが、潤すべき農地はあるのか?度重なる淀川改修でこの付近の淀川の水位が下がって取水できなくなったため廃止になったようです。

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この記念碑の背後(道路を隔てて南)にあるのが・・・・

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かつては毛馬閘門まで水路が敷かれ、大阪平野の5000haを潤していた。

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今は取水口一帯は親水公園になっています。撮影の時期は違います。2008年1月9日の撮影。

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上を通るは国道170号へのアクセス道路。その下をくぐって公園は続いています。

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桜町の仮堤防跡の湾曲道路西の端に橋があって、その上から写しています。ひと仕事終えた後、2度のお務めの親水公園、いいですね。

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■枚方大橋をわたる
船がなんそうも出ています。

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浚渫なのか?川砂取りをしていました。川砂はこうやって採るのか。

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2005年5月25日 (水)

淀川ウォーク走井編



【岩清水】

 ロードワークもいやになった頃,街なかに降りる小道があったので,さっそく車道とはおさらば。しばらく街の裏道みたいなところを歩いた後,山手のほうに移動しました。ケイハンの線路を渡ると岩清水八幡宮の山裾です。いつも京阪電車からみているお寺の下にくると,しっとりとした風情でさすがに「岩清水」を思わせるような感じでした。
まもなくケーブルカーの駅の下をくぐって,終点八幡です。
八幡へは子供のころから(小学校前?)何度もきていますが,大阪に住むようになってからも初詣には毎年きていました。最近は,初詣は近場の神社にしたので,あまりきていません。初詣のあとは必ず「走井餅」と「どんぐりあめ」でした。

【走井餅】
 さて,その走井餅ですが,S先生が甘党ということで走井餅本舗にさそってみました。八幡市駅前すぐです。ウォ-キングのあとはこういうのがないと!

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 調べてみると,ここのお店は240余年の歴史をもつそうです。今まで知らなかったのですが,明和年間(1764~72)に大津で創業し,本店は戦前に廃業したが、明治時代に開業したこの支店が有名になったのだそうです。お店の名前も「走井餅老舗」でした。
お店では見知らぬおじさんが先客でいて,「別の場所にあったのが移転してきた」と言っていましたが,こういうことだったんです。その時は「八幡の別の場所から移転」と思ってました。そういえば,お店の中に古い店の写真が飾ってありました。

 走井餅は,こし餡を薄皮で包んだ細長い餡餅で,甘さをおさえたあっさり味です。これなら何個でも食べられそうです。当然わが家の全員のお気に入りです。走井餅2コ抹茶付き550円。私は,そのときかなり暑かったので,抹茶でなく冷たいお茶にしてもらいましたが,お餅は3コで,なんか得した気分でした。甘党のS先生の評判も上々のようでした。

さすがに疲れたので,小庭を愛でつつ走井餅を賞味しゆっくり休んで,今日の行程をあれこれ思い出していました。ぼぉーっとしたこの瞬間がまことに至福です。
 はっと我に返り,もう6時前なので帰らなくてはいけません。私はいいのですが,S先生はこれから横浜まで帰られるのです。新幹線でゆっくりしていただきましょう。
長年の夢が(おおげさな!)叶ったようで,よいゴールデンウィークの旅でした。

【道を進む意味】
次の日,さっそくS先生からメールがありました。
全然疲れもなく,筋肉痛もない,とのことでした。びっくり!こちらはや歩いたその日から足は痛いわ,特大の水ぶくれはできていいるわで,2Fにも登れませんでした。
S先生によると,「道」を進む意味は思考整理術なのだそうです。そのためには,単独行で多摩川を登られるとか。この淀川ウォークのようなものを「川登り」と命名もされたようで,新しい趣味を発見されたようです。

 私といえば,歩いている最中は頭の中はからっぽなのですが,休んだり,ウォークを終えたり,山を降りたりすると確かに,考えたり考えを整理したりする状況になることがあります。その延長で,ふと思いついて次の日にこんなblogを書いてみようと思い立った訳です。整理しながら(今回はあまり整理はできていませんが)「発見」につながればいいなと思っています。
 今回のウォークはかなりのスピードウォークだったので,歩く道すがらの細かいことどもをつぶさには見ていませんが,この次はこまかなことも納得するまで見てみようと思います。それで,このようなウォークを「発見術」と思うようにします。せっかくなので,「発見」をテーマとすべく,このblogを続けてみようと思っています。タイトルも「walkin'」として,ちょっと山頭火の言葉をいれてみました。タイトルは,発見を目指しつつ,なかなか到達できない感じが表われていて,気にっています。

 

それではまた,どこかでお会いしましょう。

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