茨木街道

2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日


 宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。

■あの角を曲れば茨木街道は終点P1260842

■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道

背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
      奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

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■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

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椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。

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■街道筋の景観
 なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf

 一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
 街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
 早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

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■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

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花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

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これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

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実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

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■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

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奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

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この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

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■立派に熟れた家、熟れすぎかも

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■勝尾寺川にあたります

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■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

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■橋は巡礼橋

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■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

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■振り返ると豊かな田んぼ

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■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

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謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

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格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

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■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

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この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。

 すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
 この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html

 そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地 方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」  この地域も、こういうことなのかな?

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2013年9月18日 (水)

茨木街道をあるく 郡神社-郡山

2013年9月9日


郡神社に行ってみます。もとの案内看板まで帰ります。

■どうにも理解しにくい参道
家が参道を塞いでいるとしか思えません。

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■鳥居を撮っているのであって物干しを撮っているのではない
 もう少しやりようがあったのでは?ちょっと敷地を凹まして立ち木を植えるとか?東側だったのでできなかったとか?そもそもそういう発想はなかったものと思われます。ちょっと遠慮してサイズを小さくしておきます。

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■こちらの方がよい
一筋南の、乗雲寺に行く道で、先程の妙見灯篭の角から入っていきますが、こちらの方を歩くのがいいです

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■鳥居、やっと神社らしくなってきた

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■由緒書きはほとんど読めません

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■石段は途中から二又に

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■拝殿です
本殿はよく分かりません。郡・郡山・上野の三村の産土神で、もと北殿垣内の宮田にあり、明暦2年に社家の私有地に遷座したとあります。春日大明神又は牛頭天王社と呼ばれたらしい。http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/koorijinnja.htm

北殿垣内の宮田というのがどこなのか、よく分かりません。遷座したということなので、参道の変則ぶりが納得できたように思います。要は、後から山上の私有地に移動したので、門前の設計などできなかった。

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■若宮春日神社
・・・でよいと思うんですが、どうもはっきりしない。天児屋根命・素盞鳴尊が祀られています。

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■五社
若宮春日神社と拝殿の中間にあります。右から、
   八幡神社 応神天皇
   皇大神宮 天照皇大神
   稲荷神社 倉稲魂命
   落橋神社 新屋座天照魂神
   土祖神   猿田彦命
落橋神社 新屋座天照魂神は何かと思ったら、摂津国嶋下郡には新屋坐天照御魂神社が 三座あって、なかなかの大社なのだそうです。この近辺の、福井、西河原、上河原にある。天照国照天彦火明大神が主祭神です。アメノホアカリまたはニギハヤヒ。

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■金平大明神
これが分かりませんが、他地区(榛原)では「正一位金平稲荷大明神」というのがあって、祭神は金平稲荷大明神「倉稲魂神」だそうです。

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■稲荷神社と宇賀神社
左は稲荷神社倉稲魂命。右は不祥ですが、消去法でいくと宇賀神社。そうすれば祭神は、宇賀之御魂神 でイナリ/イナリとなるのか?P1260785

■この神社が分かりません。

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■蚊に追われて退却
手入れもちゃんとしてあり、キレイなのですが、何がなんだか分かりません。それに蚊が多い。早急に退散します。

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ここには郡神社古墳(直径25メートルの円墳)があるらしいのですが、詳細が分かりません。神社の立地としてはよいと思いますが、参道の様子といい、なにがなんだか分からない神社群といい、近隣の人にもあまり着目されていないような気がしました。

■周辺の小道はなかなか気持のよい道があるのですが・・・

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■道祖本街道合流
少年院への道の一つ北の道が道祖本街道です。目印は何もありませんが、あのグレーのビルが目印か。

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■郡山に向かいます
新しい家が建ちはじめています。新旧交替時期か。

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■坂道が現れました
正面はため池のようです。

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■街道は坂を上がらずに右
観光みかん園がありますね。

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■またも坂
最初の坂を上りましたが、もう1つ坂がありようです。結構キツそう。

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■坂上は巨大なお屋敷
相当なものです。このお宅だけでなく周辺は大きな家が多い。そうとう裕福な土地柄のようです。

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■坂を下ります

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■下った先にも大きな蔵
もとの坂下までおりました。右折した先にも大きな蔵。

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■郡山
坂を登って行きます。先程の屋敷村のあたりに上るようです。たしかに郡山です。郡山の山の上は郡団地となっていると理解していましたが、違いました。昔ながらの農村で、かなりリッチ!

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■山を下りても郡山
田んぼが侵食されてどんどん新しい家が建ってきています。

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■あの森は古墳と聞いたことがあります
以前行ってみましたが、小さな神社があるだけでした。

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■いかにも古街道らしい道
あの狭い道をいくと宿川原になります

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(つづく)


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2013年9月16日 (月)

茨木街道をあるく 上穂積-郡

2013年9月9日


 茨木は春日から穂積(上穂積)へ入ります。しかし、その間に上穂東町というのがあるんでした。先程写真をみていて、気がつきました。穂積の東だからなのか。
 そもそも、安威川を越えたあたりまでは、古代においてはコトシロヌシとか鴨氏とか、その鴨氏は葛城系だとか、いや山城鴨だとかの話をしていましたが、セントラル茨木を過ぎる頃から、じんわりとアメノコヤネがひそんできます。  茨木神社では、元は天手力男命だったのが、素盞嗚尊になり、今は、ちゃんと天児屋根命が配祀されているし、倍賀春日神社では高良社だったのが主祭神が天児屋根命になっている。穂積にはいるので、穂積氏、ニギハヤヒ系かと思って、上穂積春日神社をしらべると祭神は天児屋根命になっていました。
 中臣藍連や中臣大田連が活躍した土地であるとか、書紀には皇極3年に中臣鎌子連(藤原鎌足)が仮病を使って引きこもったとかいう話はありますが、どうして中臣氏の地盤になったのかが分かりません。分からないだけに全然話も続きません。

■上穂積です
さすがに「茨木」から出たという感じはします。

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■亀岡街道との合流点
合流してから振り返っています。リサイクルショップの右手からくるのが亀岡街道があります。6/6に地図がなくて迷走したあと、それらしい街道に入ったのが亀岡街道でした。その時はカンも大体あっていて、正規の茨木街道に復帰できたと言う訳です。

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■新しい家と旧い家が混在しています

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■ゆっくりと坂を上る

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■古家
ベランダというのではないと思いますが、昔々、小学校に上がる前に京都のおじいさんと家で、この上に乗って遊んでいたら、急に底が抜けて下に落ちたことがあります。それ以来、これを見つけると気になって・・・

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■名神をくぐり抜ける

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■郡に入っています
静かな街道筋で、このすぐ東に名神のジャンクションがあるとは信じられない。

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■同じような塀の家が続いています

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■妙見灯篭の残骸
左 大(坂?)なのか。裏も判読が難しいですが、妙と見 、献燈 と掘ってあるのが見えました。献は古い字。
石柱の頭部は+字に切ってありますが、ここに灯篭部をはめ込む仕掛けになっていたんですかね?

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■亀岡街道別れ
北向き写真です。茨木街道は左に折れます。が、これが分かりにくい。

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■よく見ると、郡神社の看板
石燈篭があるからかも知れませんが、奥まりすぎ。「中井某」の横でもいいと思いますが。それにしても、この家の建からたは何?ジャマしているとしか思えません。

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■見事です
郡神社はあとにしてうろうろします。亀岡街道を少しいった次の角です。

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■少年院
その古家の角を西に登っていくと少年院がありました。何かの訓練でもしているのか、オーイとか、ワッ!とういうような大声が聞こえてきます。R1246419

郡神社への道は複雑怪奇で、この道から直接アクセスできる道はないようです。

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2013年9月15日 (日)

茨木街道をあるく Deep Ibaraki

2013年9月6日
2013年9月9日


 茨木の中心部をあるきます。迷走です。
 茨木中心部は何度もクルマで通りました。えらくごちゃごちゃしているところやなあ、というのが感想ですが、これでは良さを理解したことにはならない。歩いてみるべきです。しかし、歩いてはみたものの、まだ核心には迫っていない。まだ街道あるきのスタンスが抜けていないようです。お店に入ったり、食堂や喫茶店に入ったり、飲み屋に入ったりするのがベストなんですが・・・それはまた来てみましょ。

■宮元町界隈
路地に入るとまだまだ旧い家が

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どなたかのサイトでもみた記憶があります。

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■本町ROSE街
一番の繁華街、というかオバチャンの街やね

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■アーケードの商店街を突き抜け
茨木神社にやって参りました。東門。この東門は茨木城の搦手門といわれ、1617年(元和3年)茨木城廃城の際にこの地に移築されました。

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■拝殿
結構な人がお参りに来ています。若い人が多い。

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 大同2年(807年)、坂上田村磨が荊切の里(いばら・荊を切ったのでそこが茨木になった)を作った際、天石門別神社が創建されたのが始まるといいます。当時は、宮元町に鎮座していたが、楠正成が茨木城を築くに当たって現在の位置へ遷座したらしい。
 社伝によると、高槻城高山右近が、織田信長にならって神社仏閣を焼却するに際し、信長が天照大御神、春日大神、八幡大神及び 牛頭天皇(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからずとしたので(風評?)、自衛のため、天石門別神社は社名を隠し「牛頭天王社」と号して焼却を免れたと伝えられています。
 元和8年(1622年)には社殿を新築すると共に、従来の天石門別神社を奥宮とし、素戔嗚尊を本殿に遷して本社としました。しかし、実際には牛頭天王が防疫神として庶民に崇め信じられていたことがあったと思います。
従って、御祭神は建速素盞嗚尊。誉田別命と天児屋根命が配祀されています。

■天石門別神社
由緒を見るまで何の神社かと思っていました。かつての主神殿。
ご祭神は、天手力男命で、天宇受売命(アメノウズメノミコト)と 豊国神・東照神が配祀されています。   

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■元茨木川・高橋
元茨木川緑地は1949年に廃川になった茨木川の旧河道を利用して緑地公園に整備されました。現在64歳。元は安威川と茨木川の合流点より少し上から、茨木中心街を通って、摂津あたり三宅村で安威川に戻っていましたが、緑地公園は沢良宜あたりまで続いています。全長5km。元茨木川は天井川で、堤防が軟弱なため洪水にあうと破堤崩壊して、たびたび濁流はんらんの災害を起こしてきました。歴史に残る仕事をされたと思います。
桜の咲く頃にバイクで付近を通りましたが、それはしれは見事な桜並木でした。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/motoibarakikawa-hi-hasiato.htm

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■茨木童子
大江山の酒呑童子の副将ですね。ワルだけどかわいいヤツです。
http://www.ibaraki-kankou.or.jp/douji/
http://www.1134.com/ibaraki/01douji1.html
http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/densetu/index.html

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http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/ibaraki.htm
私も茨木市に敬意を表します。

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■JRの線路をくぐったあと

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■春日商店街
このあたりでスマホの電池切れ。問答無用でシャットダウンしました。さて困った、記憶に頼るしかありませんが、そんなに覚えてないぞ。

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 結局、9月6日は西穂積あたりを迷走して、迷走した割にはちゃんと旧街道に入り、郡神社付近でまた迷走。道祖本街道は確認、おもしろい段蔵を見つけました。郡からバスで帰還。
 9月9日は茨木出発で再チャレンジします。

■ここから入ってみます
枝切街道が分岐する反対側(北側)

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■これはなんや?6角柱
右側面に天保元年と彫ってあります。手前には何かの絵。

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■ぬりこめ道標
北東角に半分壁に塗りこめられた道標があります。る
南面 右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻
西面 左 妙見山 亀山中山勝尾寺

ここは「茨木街道支線」の起点で、今回は北にこの支線をあるきます。

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■茨木城址によってみます
城址といっても復元櫓門があるだけで、敷地は茨木小学校になっています。

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■上泉町界隈
えらく細い道があったり、ビオトープがあったり

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■丹波橋の遺構
元茨木川には丹波橋がかかっていました。

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■元茨木川緑地
さすがに涼しいです。なので休憩。

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■JR東海道線が見えてきました

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普通のレンガのトンネルを再利用したものでした。

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■春日界隈
住宅街が続きます。

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■何か道標がありますが、読めません
ここでオーバーランしましたが、復帰。

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■倍賀春日神社
へかかすがじんじゃ は祭神は春日神社らしく、天児屋根命。

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往古は高良社または高良神社と称していたので、祭神が代わったのかもしれません。
高良社といえば、石清水八幡宮の摂社高良社は土着の産土神で川原神を祀っていると言われています。この高良社は吉田兼好の徒然草で、仁和寺の法師が八幡宮と間違えて満足して帰り、「・・・先達はあらまほしきかな」と結ばれた、あの神社です。また、八幡系の高良明神 の場合もあるとされています。倍賀春日神社の場合どうなのか分かりません。

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■国の重要文化財 石燈籠
昭和38年に指定。 敬白 高良社 石燈爐 延慶二八月日紀口弘 の刻銘があり、鎌倉時代のものとされています。

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■社務所ですが・・・
旧拝殿か本殿の再利用のようで、こちらの方が風格あったりします。

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■府道に当たりました。
よく見慣れた風景で、今回は順調です

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(つづく)

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茨木街道をあるく 溝咋神社

2013年9月6日


 また道草です。堤防を下って溝咋神社に行ってみます。

■五十鈴で安威川にかかる橋
堤防上の道では横断できませんでした。引き返して石段を下りて、道の下をくぐります。旧街道は、階段のところから路地に入るという話もあります。

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■溝咋神社

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 溝咋氏というのがよく分かりませんが、彼らがこの土地に居住して祭祀をしていたと思われます。
 溝咋氏は、溝咋から水田に水を誘導する溝の側の杭とする説から、土木技術で低湿地を開発した人々という説があります。溝咋の咋は「くう」で、「くう」は鳥が巣を構えるの、構えるという意味があるので、単純に、溝を掘って人々が住める土地を拓いたと理解します。たしかにこの地は、淀川のような大河の傍ではないものの、少し上流で安威川と茨木川が合流するための低湿地で、まずは溝を作らないと作物ができない、住めない土地だったのでしょう。
http://www.osaka-museum.com/comm/comm.html?id=1032
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-mizokui.html

 話はまったく変わりますが、下が公式サイトです。サイトのできばえは問題にはしないですが、ホームページ本文を隠してしまう広告はいかがなものかと。表示しないように設定はできるようですが、いちいちログインしないといけない。だんだんド厚かましくなってくる広告手法。
http://www.geocities.jp/mizokuijinja/

■神門というのか
なかなか重厚です。

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■由緒書きが読めませんが、

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社頭掲示によると・・・・・
「延喜式の古社であって、祭神は、姫踏鞴五十鈴姫命、溝咋玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。
日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。
元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保二年「一七四二」、地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。」
 第10代崇神(すじん)天皇のころの創始とされていますが、記紀の時代より相当昔、ヤマト建国に近い昔ということなのでしょう。

■本殿への道

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■拝殿です
厳重ですね。本殿も拝殿に連結され、屋根しか見えません。

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■神婚説話
 祭神の一柱、ヒメタタライスズヒメ命は、後に神武天皇正妃になりますが、記紀の有名な説話には・・・・
○古事記・神武天皇段
 三島溝咋の娘・セヤタタラヒメが厠に入っているとき、ヒメを見染めた三輪のオオモノヌシが丹塗矢と化して、下からヒメのホトを突いた(犯罪だあ!)。驚いたヒメはその矢を床の辺に置いていたら壮夫となった。二人の間に生まれた御子をホトタタライイススキヒメ、亦の名をヒメタタライスケヨリヒメという。さらに、正妃を求めていたカムヤマトイワレヒコ(神武)が、ヒメタタライススケヨリヒメが神の子であると聞いて喜び、ヒメを娶り正妃とした。
○日本書紀・神代紀
 大三輪の神の御子は賀茂君・大三輪の君またヒメタタライスズヒメである。
 また曰く、コトシロヌシが八尋熊鰐と化して、三島のミゾクイヒメ亦の名・タマクシヒメの処へ通われ、ヒメタタライスズヒメが生まれた。これが神武天皇の后である。

 典型的な朱塗矢型神婚説話ですが、書紀のコトシロヌシがヒメタタライスズヒメの父神とみるのが一般になっています。コトシロヌシは葛城を本拠とする鴨(賀茂)氏が奉斎する神なので、当地に進出した鴨氏と溝咋一族との交流(鴨氏が溝咋一族を傘下におさめた)、さらに鴨氏もヤマト王家に服属したのを神話的に言っているのでしょう。
下記が非常に参考になります。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/01/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2010/12/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2008/11/post-4e2c.html

■事代主神社
コトシロヌシは当社摂社に祀られていますし、近くにコトシロヌシを祭神とする三島鴨神社がありました。鴨についていえば、北約3kmに鴨神社、その辺りに鴨村・鴨林などの小字名があり、一帯は鴨氏の地盤だったのでしょう。

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■タタラ
ヒメタタライスズヒメの「踏鞴」が気になりますが、南茨木の東奈良では、弥生時代2ー3世紀の大規模環濠集落・東奈良遺蹟が見つかっていて、わが国最大級の銅鐸製作地であったことが分かっています。これをもって、溝咋一族はタタラ製作に関係する技術集団だったといえるのかどうか?
摂社の事代主神社には、事代主命の他に、カグツチの神が祀られています。踏鞴と結びつけてよいのかどうか?

阿遇突知神 (カクツチノカミ)    火の神
沖津彦神 (オキツヒコノカミ)     かまどの神
沖津比賣神 (オキツヒメノカミ)    かまどの神
弥都波能賣神(ミズバノメノカミ)   水分の神
波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)  陶磁器の神
波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)  陶磁土の神

■摂社に陶磁器や陶土の神、波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)、波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)が祀られているので、陶器生産にも活躍したのかも知れません。
ここで、陶器生産ということで、陶津耳命を持ってきたい気はしますが、甚だ悩ましいことになります。
「カモ系図考察」http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html によると、
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-生玉兄日子(鴨県主、賀茂県主祖)
となっていて、陶津耳命=(三島溝杭耳命)=(建角身命)という案があるのです。
そうなると、下記の年表で、先着の鴨氏(建角身命;山城鴨系)に三島溝咋耳(建角身命)が合流するという変なことになります。まあ、先着の鴨氏が拡大したと理解したら同じことか。

■鴨の矛盾をはらみながら、この地の支配集団まとめ
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弥生時代中:大規模環濠集落・東奈良遺蹟等、わが国最大級の銅鐸
                  製作集団
3~4世紀 :鴨氏が当地に進出、内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定
                   着し、鴨神社を創建。溝咋氏が安威川周辺に入植・開発
                   し、溝咋神社創建。(崇神期)
      後に鴨氏が溝咋一族を傘下に<=ここがおかしくなる
4世紀末   :ヤマト王権に鴨氏(事代主神系)が服属(応神期)
      仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に
                       三島神社創建(淀川右岸)
5世紀    :御島氏が勢力拡大し三島県主、先住の鴨族と共生した
                       が、鴨氏は衰退
7~8世紀   :三島氏が伊予三島と伊豆に「三島大社」を起し、三三島
                      として崇敬
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各神社の由緒を第一義に参考にし、文献により修正しています。そもそも年代はよくわからない時代なので、ものすごく大まかにはこんなことがあったのでしょう、という程度。
以後は、摂津北部は中臣氏の地盤になるのか?

■手力雄神社
手力雄神(タチカラオノカミ)を祀っています。力の神。この神を祀っているのは初めて見ました。

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■天照皇大神社(左)と保食神(右)
なかよく並んで建っています。

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 なにか釈然としない気分のまま旧街道にもどります。その前に、五十鈴のコンビニで休憩。

■力石
200kgだそうです!

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場所は浄福寺分院のなかです

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■府道に出てきました。
ここは見覚えがあります。クルマでよく通ったところ。

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■よくわからない階段
もとからあった階段を無視して造成したか。

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■旧道が分岐します

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■バス道を横切ります。
しばらく住宅街を通って、バス道に合流し、末広町でまた旧道が分岐します。
右端は外国人のおっさんですが、クルマがどんどん来ているのに、のんびりと急ぐ様子でもなく平気で渡っていきました。大阪人もビックリ!

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■旧道をあるきます
しばらく歩くと阪急電車のガードをくぐり、いよいよセントラル茨木

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2013年9月14日 (土)

茨木街道をあるく 玉川-鮎川

2013年9月6日


 さて、先に進みます。

■唐崎西の信号を渡ってクリーンセンター横の道を行きます。

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■番田水路(井路)に当たります
番田水路は、慶安4(1651)年、高槻藩が芥川左岸、番田の悪水を、芥川をくぐって(川底の下を木管で横断させた)、柱本に至る番田井路を開削しました。
その後、元禄13年(1700年)から、川村瑞賢の監督で、西に延長開削、番田から芝生・玉川・安威川を経て神崎川へ至る経路が完成しました。

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カルガモかな。毛繕いをしています。ドジ踏んでボチャンと川に落ちるやつもいた。

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■番田水路左岸堤防は親水公園になっていました

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■玉川の里は卯の花の里
平安時代から古歌の歌枕となっていました。風流な里です。

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■卯の花もいいけどサクラもよさそう

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あちこちにベンチもこしらえてあります。玉川マダムの4人組がお弁当していました。

■旧街道の跡
ここに橋があって、茨木街道が通っていたらしい。

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■西に向かいます
いったん玉川橋までもどって府道を行きます。

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■まっすぐ
府道はカーブしますが、旧街道はまっすぐのはずです。

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■早速道間違い
路地を入ってすぐ右でしたが、まっすぐ行ってしまいました。そのままにします。R1246324

■鮎川交差点

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■旧道の方に行ってみました

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ここを右から来るのが旧道のようです。

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■先鉾橋を渡る
川は安威川です。北側の北摂の山々を望む

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川は開放的でいいですね。


             

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2013年9月13日 (金)

茨木街道をあるく 唐崎段蔵


 淀川流域など洪水の頻発した所では、洪水や湿気から家を守るために敷地を盛土し、その上にさらに嵩上げした台地に蔵を建てる対策が行われてきました。これは他の地方では水屋(濃尾平野で)とか水塚(みつか、利根川流域で)等と呼ばれていまする。巨椋池周辺では「水屋」、「段倉造り」と呼ばれ、高槻や寝屋川では「段蔵」と呼ばれているようです。そこに、米、味噌や重要な家財を収納するとともに、洪水時の避難場所も兼ね、なかには座敷をもつものもあったといいます。

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 唐崎の段蔵は典型的な「連立段蔵」といわれ、蔵の敷地を段々に高くして、その上に連結した蔵を作っています。母屋や倉の一部が浸水しても米や家財を守ることができます。この土地の標高や嵩上げの諸元は京大防災研の論文がありますので、それを調べてみると、http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/dat/nenpo/no45/02b/b37.pdf

芥川堤防:約15m
周辺の田:約5m
母屋敷地:約6m
1段目の蔵:0.2m 敷地より高い
2段目の蔵:0.4m 敷地より高い
3段目の蔵:1.0m 敷地より高い
 屋敷の敷地は盛土をしてあるが、堤防天端より9m以上も低く、なお水害危険度が高いといえます。同じ段蔵の古い写真をみると蔵の台地はもう少し高かったようです。(目測で3m位はあったか?近年の建かえで淀川の安全対策を織込んで低めにしたのか?)
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

さてここで疑問

1.母屋敷地の盛り土が1mでは少ないのでは?多段の蔵で最高段はさらに1m嵩上げとはいってもこれで大丈夫なの?
 上記、京大防災研の論文では洪水があっても傾斜地であるため、氾濫水は南に向かって流れるので滞留しない。床上浸水を避けることを目的としたもの、と説明しています。
しかし、本来このくらいはほしいという気がどうしてもします。

左は久御山町・北川顔、右は福知山市大江町尾藤口。

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2.段蔵で嵩上げが20cmというのは意味があるのか?

 これは頻繁に出し入れする物、例えば稲を収穫して一時保管し、すぐに出荷する様なケースならば、リヤカーを蔵口に直接付けて出し入れできるので、1mもの高さのある蔵に持ち上げる労力が省ける。長期保存する米や重要な什器類は最高段の蔵にいれる。こんな使い方をしたのではないかと思います。
しかし、何段も数10cmの段差で蔵を繋げていくというのはどうしても疑問が残ります。

事例1(唐崎中一、茨木街道旧道沿い)
 旧街道沿いに近くによって見られる段蔵がありました。段差1mもないくらいで、低い方との差はブロック1枚ぶん。せいぜい15cm。短期的な出水にしか対応できないと思いますが、これでよいのか?ギャップが15cmくらいなら、いっそのこと両蔵とも同じ高さにしてしまえ、という気もする。

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事例2
(唐崎中一、バス道沿い)
 高さは1m位あります。高い方と低い方のギャップは10cmくらいか?内側がどうなっているか分かりませんが、この2段は見た目のデザインではないかと思えるくらいです。

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事例3(茨木市郡4、道祖本街道脇)
 ここは標高24mで近くに茨木川はありますが、洪水の危険はないでしょう。山側からの出水対応ならば完璧か。それにしても2段にする意味は分かりません。

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 ここでバシバシ写真を撮っていたら、近所の奥さんから「何かご用ですか」と不審者チェックがはいり、「かくかくしかじかで・・・・ところで、何で段蔵で2連繋げるんですかね?」と訊いたら、「アハハ、それは持てるものの満足感じゃないの。」と言っておられました。あたりのお家も結構なお屋敷ばかりでしたが!「持てるものの・・」というのは本質を突いているかも知れません。

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事例4(茨木市郡山2、道祖本街道脇の丘の上)
極め付けです。同じ蔵ですが、標高40mの丘の上にたっています。洪水は皆無でしょう。大雨の出水対策と湿気対策です。2段にする理由は、ものの出し入れのハンドリングはあるにせよ、こうなると見た目デザインの比率が大きいのでは。

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 複数段の連立段蔵は、唐崎のような低湿地で洪水の危険が大きい場所では、ものの出し入れのハンドリングを考慮した洪水対策というのが主な理由かと思いますが、あまりにカッコイイので、非洪水地帯では、それをまねる一種の流行みたいになったのではと推定しましたが、どうでしょうか?

 

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2013年9月12日 (木)

茨木街道をあるく 唐崎散歩

2013年9月3日
2013年9月6日

 

茨木街道に復帰して唐崎に入ります。

■芥川右岸堤防から下ります

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ちゃんと階段を付けてある。正規の街道に近いところです。

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街道に入ったところにあるお地蔵さま。鍵もかかっていないようだし、戸を開けて写せばよかった。

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どこをどう通ったのか?

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こちらはバス道に突き当たった。

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水路に沿って歩いた記憶もある。街道とは違うなあ。

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ここは正規の街道のようです。

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9月3日は、バス道に出たところで大雨に逢い、退散したのでした。バス1台をやり過ごして待機はしたのですが、雨は全然止まない。

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■高槻街道支線から入る
段倉(だんくら)を見に行きました。たびたび淀川の洪水の被害にあっていた地区では敷地をかさ上げして倉が建っています。段倉考については後程。
遠すぎてよく見えませんが、2m位はあるか。

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北向地蔵尊
梅田の紀伊国屋書店近く、三番街の南側にあるし、昔、住んでいた京都は伏見区竹田の散歩コースには北向山のお不動さんというのがあって、普通にみていたのでよくあるものだと思っていましたら、北向地蔵さんは珍しいんだとか。なんでも全国で400体くらいしかないのだそうです。 http://kita-ku.jugem.jp/?eid=24

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街道筋。同じところを通っているような気がする

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■バス道の南にいってみます
立派な地蔵堂。唐崎南之口地蔵堂といいます。

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地蔵菩薩

「左手に宝珠、右手に錫杖を持って
千葉の青蓮華に安住する」御姿の
地蔵菩薩が。六道の辻に立って、地
獄に落ちかかる者の手を引いて救い
あげてくれるという信仰が印度から
中国を経て日本で盛んになったのは
平安時代のことです。
 後、日本古来の境の神、道祖神
とも結びつき、村々の境や辻に
地蔵堂が建てられ、旅行安全、
厄除け、特に子供と縁の深い御仏
として人々に親しまれるようになりました

格子の間から覗いてみましたら、眉毛濃!!どことなくアチラ風のお化粧です。

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地蔵堂の前には、これは大きな石燈篭
お花講中 昭和二年四月 と彫ってあります。これはボクの見た石燈篭で最高かもしれない。お花講というのは、花飾りで寺社に奉仕する講だと思いますが、どこの寺社へなのかは分かりません。

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唐崎神社
明治41年に三島江の三島鴨神社に若宮を合祀されましたので、正確には三島鴨神社の遥拝所となっています。鳥居がありませんね。

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バス道に戻ります。JAの角に道標がありました。
北面  (直?) 三島江 鳥飼 
     (右?) 茨木 吹田 大阪
西面  (右?) 三島江 鳥飼 味舌 柴島
     (左?) 大塚 枚方
南面   直   大塚 枚方 
     (左?) 茨木 吹田 大阪
東面  明治四十三年六月 此所三箇牧 大(阪府)

( ?)は削られて不明。上記のように補充したら、この場所では合うのではなかろうか。方角が削ってあるところを見ると、よそから持ってきたのか?パズルです。

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バス道を西に向かいます。振り向くと左手に「石田梅岩 母たね 生誕地」という新しい石標が建っていました。

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(つづく)


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茨木街道をあるく 道草編 (5)番田~唐崎過所浜

 今回は番田から唐崎過所浜経由、唐崎に向かいます。まだ道草が続きます。

9月3日は唐崎・街道筋にて集中豪雨に逢い、降雨コールドとしました。
9月6日に再開、番田から郡まで歩きましたが、茨木の春日通りでスマホの電池切れ。以後当てずっぽうで歩きはしましたが迷走です。大まかには街道ルートは行けていましたが・・・
9月9日リベンジ:茨木から箕面・奥の道祖本街道終点まで歩きました。最後のほうでスマホ電池切れを起こしましたが、地図は印刷してあったので。3回分まとめて整理します。

  スマホは歩数計オン、GPSオンで、Googlemapでルートを確認しながら歩きますが、負荷も電池も食うやろな、と思いつつ、これがマイスタイルなので。だいたい5時間で強制シャットダウンとなります。本格的にウォークをやると10時間くらいはかかるので、あまりカスタマイズはしていませんが、何もしなくても10時間くらいはがんばってほしいのだが。スマホの機能と電池性能がアンバランス、スマホがチャラいソフト満載のPCみたいになっていて、そのアプリが電気や金を食うものばかり、というのが原因と思われます。スマホもまだまだやね。今度はアプリを徹底的に切って、スカスカにして歩いてみたいと思います。

 

■番田にて

番田バス停から入っていきます。竹の内小学校5年で持っている田んぼ。元気に育っていますが、事あるごとに見てほしいね。田植えと稲刈りだけだったりして・・・

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番田の村

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番田神社はエントランスのリニューアル中。この地のはやりかどうか知りませんが、鉄骨を組んで提灯スタンドの建設中でした。塗装仕上げなのでもうすぐ完成か。由緒看板も新設されたようです。

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淀川堤防から番田を望む。前と同じアングル!

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芥川河口から鷺打橋

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堤防から淀川河川敷を望む
ほんの少し前まで(昭和55年頃)、ここに牧場があったようです。
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

平安時代には、この付近から摂津市鳥飼の付近までに近都牧(きんとまき)が設けられ、諸国から京に納めるべく集めた牛馬を一時的に飼育されていました。後に、これを上・中・下の三つに分けたことから「三箇牧」の地名が生まれたとされています。三島江のあたりに、三箇牧の地名が学校名として残っています。

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■唐崎過所浜

 唐崎過書浜はこのあたり。前に見える道が、旧芥川堤防らしい。

 古代に唐船が停泊した、あるいは大陸からの渡来人がこの地に住んだことから「唐崎」という地名がついたと云われています。江戸時代には三島江浜とともに淀川の主要な河港でした。

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旧堤防を少し行ったところに案内板があります。

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当時の淀川は、京・大坂を結ぶ交通の要路として幕府から通航を許可された過書船が旅人や物資をのせて行き来していました。唐崎浜は北摂の酒米や煙草、酒、 寒天などを積み出す一方、肥料や天草、木材などを荷揚げし、「富田の外港」と呼ばれ、浜には荷受問屋の蔵が建ち並び時には百石積みの帆前船が発着するなど 大いに栄えたそうです。

ふりかえると淀川堤防。今歩いている道は「高槻街道支線」で高槻城下まで行くようです。途中の芝生から、道祖本街道も始まります。

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旧堤防道から下りてみました。港の村らしくお地蔵さんかなにかの祠があります。

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土取りされて低くなったとはいえ、旧堤防はかなりの高さがあります。

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茨木街道をあるく 道草編 (4) 淀川河川敷の不思議

2013年9月3日


 来しなの堤防あるきがよかったので、河川敷に下りて歩いてみました。

■あそこから下りられるようです
土手にはマコモが咲いています。

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■これはなんでしょう?
堤防の土手にあった気になった花。花の後がまんまるになっています。

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これが花のようです。オトコエシに似ている。

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花が終ると花序の小さな枝がまるまって、さらに大きな枝がまるまってくる。
縦じまのアカスジカメムシが取りついています。

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葉っぱはオトコエシではないなあ。ノコギリソウとも違う。

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タネが実ってくると、再び開くのか?タネが実る過程で何か保護をしているのか?

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最後までよくわからない花でした。

■河川敷の堤防側
クズが支配しています。

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■ノイバラ

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実は赤くなるのかと思ったら、そのまま枯れてしまうのでした

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■おなじみヘクソカズラ

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■ツキミソウ

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■川側を見てみます

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森になっています。入っていけそうにない。

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■キリ
あれはつぼみなのか?

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■林縁にはいろんな秋の花が咲いています
ヤブカラシ

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白いコマツナギ?

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キンミズヒキはもっと小さく清楚なんですが、よくわかりません

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何かに寄生している植物と書いていましたが、そのソースを見失いました。

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ここの河川敷はすばらしいです。四季を通じていろんな植物が観察できます。場所あるいか樹を決めて、定点観測していくとおもしろそうです。

このあと、唐崎の街道に復帰しますが、それはページを改めて。

(終り)

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