散歩

2013年9月21日 (土)

道祖本街道をあるく 粟生間谷

2013年9月9日



 田んぼの中の道に入った頃から箕面市です。すでに粟生間谷に入っています。
 粟生・間谷(あお・またに)と切るんでしょうね。粟生は、アワフ だったのでしょう。それが、アワオ→アオ になった。神戸にある胡麻生(ゴマフ)がゴモウ(今は、五毛と書く)になったのと一緒。
  古代、三島県(あがた)があり、そこに宿久郷粟生野と呼ばれる地がありました。ここは粟の採れる野であったのです。今でこそ水田が広がっていますが、その 昔は粟畠が広がる土地だったのでしょう。粟飯は食べたことがありませんが、子供のころ、小さな畠で粟を作っているのを見たことはあります(その頃は麦飯が 普通だった。)
 粟については、森浩一さんの「日本の深層文化」ではその重要性が指摘されています。
・スサノヲに殺されたオホゲツヒメの耳から粟が、目から稲が生まれた(古事記)
・新嘗祭のニイナメは「新粟嘗」で粟だった(常陸風土記)
・元正天皇は「陸田の利」「粟は最も精好」として、作付けを奨励した(続日本紀)
・粟で租を納めた。稲2斗、大麦1斗5升に対して粟は1斗のレート(賦役令)
・一段(991平米)の粟で夫婦2人が1年食える(江戸時代・宮崎安貞・農業全書)
粟は由緒正しき有用な作物でした。
 間谷の由来についてはよくわかりませんが、http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/46 では、引用ながら、「この地区は昔、黄銅鉱が掘られていて、間谷の「間」は、坑道をさす「間歩」(まぶ)からついたのではないでしょうか」と書かれています。

■今の粟生間谷

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 粟生間谷の他には、粟生外院、粟生新家、粟生岩阪があります。山中の岩阪を別にして、粟生野は100m位の丘陵地で稲よりも粟の方が作付けに適していたのだと思います。ため池を作るまでは、林を伐り野を焼いて粟を作っていた。間谷を中心に、川筋で水を容易に得られる場所には稲を作った。粟生間谷の地をそのように理解しました。

■旧街道へ
田んぼの道が終り、橋と府道を渡って旧街道へ入ります。

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■昔ながらの街道風景

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■斬新!
下から撮り上げてみたいですが、よそのお宅をジロジロ見るのも・・・
これは素敵。

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■山之口の石仏群
小さな橋を渡ると、「大峯山上三十五度 」供養碑と道標、地蔵が集められています。

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双体地蔵もあります。道祖神?右端は庚申塚らしいです。青面金剛と彫ってある。青面金剛は享保8年(1723)、道しるべは文化15年(1810)に建立されたものという。

http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

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■道間違い
地蔵さまの辻を写真左に行くのが正解ですが、間違えて次の道を入ったらこうなりました。府道との辻に地蔵堂があるのですが、この道はこれでおもしろい。

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■粟生間谷の交差点(π型)
いきなり街に出た感じがします。ここを右に行くとバス停とかスーパーがあって、ちょっとした街の中心地です。ここはポケットパークみたいになっていて、休憩可能。

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■街道の農家
先程の交差点を左(西)に入ります。強烈な西日で写真を撮り直しました。

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■中村の六字名号碑
巨大な石碑は六字名号碑というのだそうです。大きな邸宅のまん前に建っていますので写真撮るのも気がひける。側面に、嘉永五子年九月建立 と彫ってある。http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

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右上の写真を拡大すると「十」とだけ見えて(小さすぎて見えません)、大半は埋まっている標石があります。丁石だと言われている。あるいは、「十兵衛道」と彫ってあるのかも知れません。この巡礼道は十兵衛道とも言われていました。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

■天満宮
椋が立派です。

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■天満宮から下を見ています
ゆるやかな坂を登ってきた。いい感じの道です。

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■神社の上の角に立っていたお地蔵さん

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■府道を横切ります、新旧混淆の街道筋

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新築の家があり、田んぼもある。粟生間谷の良さもまだ残されている。すき間があるのがよろしい。このすき間が家で埋めつくされたら、都会でもない、かといってイナカでもないという粟生間谷の街の良さが失われてしまう気がする。住民の方もそれは望まないだろう。山や野をリセットして作るニュータウンとは違う街づくりをしてほしいと思いますが、ディベロッパーはそうはしないんだろうなあ。

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■楠木神社
 粟生間谷の奥の集落の氏神ですが、天照皇太神宮が祀られています。明治に素盞鳴尊神社に合祀されましたが、戦後再びここに戻ってきました。住民の信仰生活を無視するような明治の神社統合は無理だったんでしょう。楠木神社なのに大きな椋があります。

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■再び分離
街道はいったん府道に吸収されますが、すぐに分離。

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■西田橋
街道はまたすぐに府道にあたりました。橋は西田橋で、渡って振り返り写真を撮っています。とりあえず、ここで道祖本街道は終ります。

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■ここからは山に分け入る
巡礼道は十兵衛道になりますが、ここが廃道化しています。しかし箕面観光ボランティアガイドの方々が調査、復元されています。ぜひここを登ってみたい。しかし、夏場はブッシュが酷そうなので冬までお預けとします。年を越して春先の方がよいかも知れない。楽しみです。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

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■おもしろそうな建物、なんでしょう

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バスは出たとこでした。次の時刻を調べると、40分ほどあります。待っていても仕方がないので、歩いて粟生間谷もバス停まで下ります。そちらの方が本数はありそうなので。

■五字神社
途中、五字神社がありました。はて、外院の勝尾寺表参道付近にもあったと思いきや、そちらは「ごじじんじゃ」、こちらは「ごあざじんじゃ」と言うのだそうです。しかし、ご祭神はどちらも同じ八意思兼命(やごろもおもいかねのみこと)。知恵の神様です。オモイカネの神社は初めてです。

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猫が寝ています。細目でじっと睨んだだけで逃げません。

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今さら智恵と言われても、とは思いましたが、お参りはしておきました。

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 ちょっと急ぎ足でしたが、粟生間谷の底力を少し感じられたよいウォークになったと思います。また来たい。

(終り)

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2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿久庄

2013年9月9日


 宿久庄に入ります。宿久庄に何かおもしろい話題でもないかと検索してみましたら・・・・見事に不動産情報がほとんどでした。こういう場所は概して、農業にうま味がなくなってかどうか分かりませんが、振るわなくなって土地を売ってどんどんこぎれいな家が建ちつつある場所に多いです。宿久庄はまた川端康成氏が幼少から少年のころの引き取られ先で、その話題はありますが、実際には行ってないし・・・かなり梅花女子大学より東の方ですので。
 とにかく宿久庄へ行ってみます。

■171号の信号
ここを右に入りますが、小林製薬の研究所はここだったのか。先程の宿川原とはうって変わって、町の感じはします。

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■旧街道
先程、宿川原からの道で、まっすぐ171号を渡って、工場建屋の間を抜けて来ると、ここに出てくるものと思われます。

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北をみると田んぼの向うに大きな建物があります。山の方は梅花女子大学ですが、その手前は工場や倉庫、営業所などが建っています。

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■道が狭い
Y字型になっているところを左に行きますが、狭い。写真はクルマのない頃合いに撮っていますが、かなり多いです。さらにスピードを出している。それもトラックが多いので危ないことこの上なし。

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遠まわりでも梅花のすぐ下の道まで行ったほうがよいでしょう。

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■須久久神社鳥居

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二の鳥居。上部は木製で、下部で繋いであります。

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拝殿、本殿は新しいです。かつ、周囲も伐採されていて妙に明るい。由緒書きもなにもありません。

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そのくせ、こんなはり紙はある。

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 しかたがないのでサイトを検索すると、天平期に大中臣清麻呂が住居を構えていて付近に祖神を祀ったらしいので、祭神はアメノコヤネと思うのですが、現在の祭神はスサノヲとその后・イナダヒメとなっているのだそうです。話のきっかけとしてはおもしろいのですが、それ以上進まない。蚊も多いので早々に退散します。

■神社の前を横切る道
整備してあったので、ここを通ります。

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が、通せんぼしてあった!

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■そのまま村の中に入っていきます、なかなかよい坂道。

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■コンポジション

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■いい感じのコントラスト
日本の家屋は本当に美しいと思います。

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■共同の倉庫か何か?
前に回ってみると個人の家であったようにも見えるし、倉庫のようにも見える。

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■府道を歩きます

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■山手の方には巨大は邸宅!

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■クルマを避けて対岸を歩きます
予定を変えて車道ではなく、田んぼの中のみちを歩くつもりでえす。

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■川から離れていきます

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■左が田の中の道か
いったん車道に出たのでどうなるかと思ったら、二又に別れました。

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■このあたりから箕面、粟生間谷です
モノレールは目前です。

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■田と彩都
彩都は、都市にも近くて山にも近い、周囲は里の風情というので人気があると思いますが、あの巨大なビルをみてみると気が萎えてしまいます。これがいい人はいいんでしょうけど、昔ながらの香里や千里、仙北などのニュータウンと同じ発想で作ったのではないかと思ってしまいます。

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交野の山に登ると、茨木の奥に山を削ったあとがよく見えます。彩都を宣伝しだして、ずいぶん経つのに、削ったままの場所が見えるので、どうしたのかと思っていたら、あまりうまく進んでいないのだとか。分譲価格が高いのと違う?

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■南をみると・・・
ため池のようです。丸い堤防でよいのか?

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■モノレールを過ぎて道が狭くなりました
振り返って写真を撮っています。ここだけ原野になっています。

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■緩やかな丘を越えて、粟生間谷へ
ここは気に入りました。本日のベストプレイス。

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 振り返ると、丘を越えてきたのが分かります。
 考えてみると、康成少年の宿久庄もこんな土地だったのではないか?彼は少年の頃は体が弱く、高校の時、宿久庄から茨高(旧制茨木中学)まで、約6kmの道のりを毎日歩いて通って克服したといいます。少年のときはこのあたりまで足を延ばしたのではないかと思ったりします。康成少年は3歳から15歳まで宿久庄で暮らしたそうなので、その頃の経験が基本的な人となりを作ったのではないかと思います。

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農道が合流しました。クスベをしている煙も上がっています。

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道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日


 宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。

■あの角を曲れば茨木街道は終点P1260842

■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道

背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
      奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

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■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

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椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。

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■街道筋の景観
 なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf

 一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
 街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
 早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

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■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

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花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

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これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

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実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

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■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

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奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

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この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

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■立派に熟れた家、熟れすぎかも

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■勝尾寺川にあたります

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■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

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■橋は巡礼橋

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■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

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■振り返ると豊かな田んぼ

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■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

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謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

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格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

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■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

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この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。

 すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
 この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html

 そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地 方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」  この地域も、こういうことなのかな?

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2013年9月18日 (水)

茨木街道をあるく 郡神社-郡山

2013年9月9日


郡神社に行ってみます。もとの案内看板まで帰ります。

■どうにも理解しにくい参道
家が参道を塞いでいるとしか思えません。

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■鳥居を撮っているのであって物干しを撮っているのではない
 もう少しやりようがあったのでは?ちょっと敷地を凹まして立ち木を植えるとか?東側だったのでできなかったとか?そもそもそういう発想はなかったものと思われます。ちょっと遠慮してサイズを小さくしておきます。

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■こちらの方がよい
一筋南の、乗雲寺に行く道で、先程の妙見灯篭の角から入っていきますが、こちらの方を歩くのがいいです

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■鳥居、やっと神社らしくなってきた

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■由緒書きはほとんど読めません

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■石段は途中から二又に

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■拝殿です
本殿はよく分かりません。郡・郡山・上野の三村の産土神で、もと北殿垣内の宮田にあり、明暦2年に社家の私有地に遷座したとあります。春日大明神又は牛頭天王社と呼ばれたらしい。http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/koorijinnja.htm

北殿垣内の宮田というのがどこなのか、よく分かりません。遷座したということなので、参道の変則ぶりが納得できたように思います。要は、後から山上の私有地に移動したので、門前の設計などできなかった。

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■若宮春日神社
・・・でよいと思うんですが、どうもはっきりしない。天児屋根命・素盞鳴尊が祀られています。

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■五社
若宮春日神社と拝殿の中間にあります。右から、
   八幡神社 応神天皇
   皇大神宮 天照皇大神
   稲荷神社 倉稲魂命
   落橋神社 新屋座天照魂神
   土祖神   猿田彦命
落橋神社 新屋座天照魂神は何かと思ったら、摂津国嶋下郡には新屋坐天照御魂神社が 三座あって、なかなかの大社なのだそうです。この近辺の、福井、西河原、上河原にある。天照国照天彦火明大神が主祭神です。アメノホアカリまたはニギハヤヒ。

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■金平大明神
これが分かりませんが、他地区(榛原)では「正一位金平稲荷大明神」というのがあって、祭神は金平稲荷大明神「倉稲魂神」だそうです。

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■稲荷神社と宇賀神社
左は稲荷神社倉稲魂命。右は不祥ですが、消去法でいくと宇賀神社。そうすれば祭神は、宇賀之御魂神 でイナリ/イナリとなるのか?P1260785

■この神社が分かりません。

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■蚊に追われて退却
手入れもちゃんとしてあり、キレイなのですが、何がなんだか分かりません。それに蚊が多い。早急に退散します。

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ここには郡神社古墳(直径25メートルの円墳)があるらしいのですが、詳細が分かりません。神社の立地としてはよいと思いますが、参道の様子といい、なにがなんだか分からない神社群といい、近隣の人にもあまり着目されていないような気がしました。

■周辺の小道はなかなか気持のよい道があるのですが・・・

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■道祖本街道合流
少年院への道の一つ北の道が道祖本街道です。目印は何もありませんが、あのグレーのビルが目印か。

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■郡山に向かいます
新しい家が建ちはじめています。新旧交替時期か。

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■坂道が現れました
正面はため池のようです。

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■街道は坂を上がらずに右
観光みかん園がありますね。

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■またも坂
最初の坂を上りましたが、もう1つ坂がありようです。結構キツそう。

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■坂上は巨大なお屋敷
相当なものです。このお宅だけでなく周辺は大きな家が多い。そうとう裕福な土地柄のようです。

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■坂を下ります

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■下った先にも大きな蔵
もとの坂下までおりました。右折した先にも大きな蔵。

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■郡山
坂を登って行きます。先程の屋敷村のあたりに上るようです。たしかに郡山です。郡山の山の上は郡団地となっていると理解していましたが、違いました。昔ながらの農村で、かなりリッチ!

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■山を下りても郡山
田んぼが侵食されてどんどん新しい家が建ってきています。

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■あの森は古墳と聞いたことがあります
以前行ってみましたが、小さな神社があるだけでした。

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■いかにも古街道らしい道
あの狭い道をいくと宿川原になります

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(つづく)


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2013年9月16日 (月)

茨木街道をあるく 上穂積-郡

2013年9月9日


 茨木は春日から穂積(上穂積)へ入ります。しかし、その間に上穂東町というのがあるんでした。先程写真をみていて、気がつきました。穂積の東だからなのか。
 そもそも、安威川を越えたあたりまでは、古代においてはコトシロヌシとか鴨氏とか、その鴨氏は葛城系だとか、いや山城鴨だとかの話をしていましたが、セントラル茨木を過ぎる頃から、じんわりとアメノコヤネがひそんできます。  茨木神社では、元は天手力男命だったのが、素盞嗚尊になり、今は、ちゃんと天児屋根命が配祀されているし、倍賀春日神社では高良社だったのが主祭神が天児屋根命になっている。穂積にはいるので、穂積氏、ニギハヤヒ系かと思って、上穂積春日神社をしらべると祭神は天児屋根命になっていました。
 中臣藍連や中臣大田連が活躍した土地であるとか、書紀には皇極3年に中臣鎌子連(藤原鎌足)が仮病を使って引きこもったとかいう話はありますが、どうして中臣氏の地盤になったのかが分かりません。分からないだけに全然話も続きません。

■上穂積です
さすがに「茨木」から出たという感じはします。

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■亀岡街道との合流点
合流してから振り返っています。リサイクルショップの右手からくるのが亀岡街道があります。6/6に地図がなくて迷走したあと、それらしい街道に入ったのが亀岡街道でした。その時はカンも大体あっていて、正規の茨木街道に復帰できたと言う訳です。

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■新しい家と旧い家が混在しています

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■ゆっくりと坂を上る

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■古家
ベランダというのではないと思いますが、昔々、小学校に上がる前に京都のおじいさんと家で、この上に乗って遊んでいたら、急に底が抜けて下に落ちたことがあります。それ以来、これを見つけると気になって・・・

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■名神をくぐり抜ける

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■郡に入っています
静かな街道筋で、このすぐ東に名神のジャンクションがあるとは信じられない。

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■同じような塀の家が続いています

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■妙見灯篭の残骸
左 大(坂?)なのか。裏も判読が難しいですが、妙と見 、献燈 と掘ってあるのが見えました。献は古い字。
石柱の頭部は+字に切ってありますが、ここに灯篭部をはめ込む仕掛けになっていたんですかね?

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■亀岡街道別れ
北向き写真です。茨木街道は左に折れます。が、これが分かりにくい。

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■よく見ると、郡神社の看板
石燈篭があるからかも知れませんが、奥まりすぎ。「中井某」の横でもいいと思いますが。それにしても、この家の建からたは何?ジャマしているとしか思えません。

P1260750

■見事です
郡神社はあとにしてうろうろします。亀岡街道を少しいった次の角です。

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■少年院
その古家の角を西に登っていくと少年院がありました。何かの訓練でもしているのか、オーイとか、ワッ!とういうような大声が聞こえてきます。R1246419

郡神社への道は複雑怪奇で、この道から直接アクセスできる道はないようです。

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2013年9月14日 (土)

茨木街道をあるく 玉川-鮎川

2013年9月6日


 さて、先に進みます。

■唐崎西の信号を渡ってクリーンセンター横の道を行きます。

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■番田水路(井路)に当たります
番田水路は、慶安4(1651)年、高槻藩が芥川左岸、番田の悪水を、芥川をくぐって(川底の下を木管で横断させた)、柱本に至る番田井路を開削しました。
その後、元禄13年(1700年)から、川村瑞賢の監督で、西に延長開削、番田から芝生・玉川・安威川を経て神崎川へ至る経路が完成しました。

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カルガモかな。毛繕いをしています。ドジ踏んでボチャンと川に落ちるやつもいた。

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■番田水路左岸堤防は親水公園になっていました

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■玉川の里は卯の花の里
平安時代から古歌の歌枕となっていました。風流な里です。

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■卯の花もいいけどサクラもよさそう

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あちこちにベンチもこしらえてあります。玉川マダムの4人組がお弁当していました。

■旧街道の跡
ここに橋があって、茨木街道が通っていたらしい。

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■西に向かいます
いったん玉川橋までもどって府道を行きます。

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■まっすぐ
府道はカーブしますが、旧街道はまっすぐのはずです。

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■早速道間違い
路地を入ってすぐ右でしたが、まっすぐ行ってしまいました。そのままにします。R1246324

■鮎川交差点

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■旧道の方に行ってみました

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ここを右から来るのが旧道のようです。

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■先鉾橋を渡る
川は安威川です。北側の北摂の山々を望む

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川は開放的でいいですね。


             

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2013年9月13日 (金)

茨木街道をあるく 唐崎段蔵


 淀川流域など洪水の頻発した所では、洪水や湿気から家を守るために敷地を盛土し、その上にさらに嵩上げした台地に蔵を建てる対策が行われてきました。これは他の地方では水屋(濃尾平野で)とか水塚(みつか、利根川流域で)等と呼ばれていまする。巨椋池周辺では「水屋」、「段倉造り」と呼ばれ、高槻や寝屋川では「段蔵」と呼ばれているようです。そこに、米、味噌や重要な家財を収納するとともに、洪水時の避難場所も兼ね、なかには座敷をもつものもあったといいます。

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 唐崎の段蔵は典型的な「連立段蔵」といわれ、蔵の敷地を段々に高くして、その上に連結した蔵を作っています。母屋や倉の一部が浸水しても米や家財を守ることができます。この土地の標高や嵩上げの諸元は京大防災研の論文がありますので、それを調べてみると、http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/dat/nenpo/no45/02b/b37.pdf

芥川堤防:約15m
周辺の田:約5m
母屋敷地:約6m
1段目の蔵:0.2m 敷地より高い
2段目の蔵:0.4m 敷地より高い
3段目の蔵:1.0m 敷地より高い
 屋敷の敷地は盛土をしてあるが、堤防天端より9m以上も低く、なお水害危険度が高いといえます。同じ段蔵の古い写真をみると蔵の台地はもう少し高かったようです。(目測で3m位はあったか?近年の建かえで淀川の安全対策を織込んで低めにしたのか?)
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

さてここで疑問

1.母屋敷地の盛り土が1mでは少ないのでは?多段の蔵で最高段はさらに1m嵩上げとはいってもこれで大丈夫なの?
 上記、京大防災研の論文では洪水があっても傾斜地であるため、氾濫水は南に向かって流れるので滞留しない。床上浸水を避けることを目的としたもの、と説明しています。
しかし、本来このくらいはほしいという気がどうしてもします。

左は久御山町・北川顔、右は福知山市大江町尾藤口。

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2.段蔵で嵩上げが20cmというのは意味があるのか?

 これは頻繁に出し入れする物、例えば稲を収穫して一時保管し、すぐに出荷する様なケースならば、リヤカーを蔵口に直接付けて出し入れできるので、1mもの高さのある蔵に持ち上げる労力が省ける。長期保存する米や重要な什器類は最高段の蔵にいれる。こんな使い方をしたのではないかと思います。
しかし、何段も数10cmの段差で蔵を繋げていくというのはどうしても疑問が残ります。

事例1(唐崎中一、茨木街道旧道沿い)
 旧街道沿いに近くによって見られる段蔵がありました。段差1mもないくらいで、低い方との差はブロック1枚ぶん。せいぜい15cm。短期的な出水にしか対応できないと思いますが、これでよいのか?ギャップが15cmくらいなら、いっそのこと両蔵とも同じ高さにしてしまえ、という気もする。

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事例2
(唐崎中一、バス道沿い)
 高さは1m位あります。高い方と低い方のギャップは10cmくらいか?内側がどうなっているか分かりませんが、この2段は見た目のデザインではないかと思えるくらいです。

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事例3(茨木市郡4、道祖本街道脇)
 ここは標高24mで近くに茨木川はありますが、洪水の危険はないでしょう。山側からの出水対応ならば完璧か。それにしても2段にする意味は分かりません。

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 ここでバシバシ写真を撮っていたら、近所の奥さんから「何かご用ですか」と不審者チェックがはいり、「かくかくしかじかで・・・・ところで、何で段蔵で2連繋げるんですかね?」と訊いたら、「アハハ、それは持てるものの満足感じゃないの。」と言っておられました。あたりのお家も結構なお屋敷ばかりでしたが!「持てるものの・・」というのは本質を突いているかも知れません。

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事例4(茨木市郡山2、道祖本街道脇の丘の上)
極め付けです。同じ蔵ですが、標高40mの丘の上にたっています。洪水は皆無でしょう。大雨の出水対策と湿気対策です。2段にする理由は、ものの出し入れのハンドリングはあるにせよ、こうなると見た目デザインの比率が大きいのでは。

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 複数段の連立段蔵は、唐崎のような低湿地で洪水の危険が大きい場所では、ものの出し入れのハンドリングを考慮した洪水対策というのが主な理由かと思いますが、あまりにカッコイイので、非洪水地帯では、それをまねる一種の流行みたいになったのではと推定しましたが、どうでしょうか?

 

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2013年9月12日 (木)

茨木街道をあるく 唐崎散歩

2013年9月3日
2013年9月6日

 

茨木街道に復帰して唐崎に入ります。

■芥川右岸堤防から下ります

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ちゃんと階段を付けてある。正規の街道に近いところです。

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街道に入ったところにあるお地蔵さま。鍵もかかっていないようだし、戸を開けて写せばよかった。

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どこをどう通ったのか?

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こちらはバス道に突き当たった。

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水路に沿って歩いた記憶もある。街道とは違うなあ。

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ここは正規の街道のようです。

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9月3日は、バス道に出たところで大雨に逢い、退散したのでした。バス1台をやり過ごして待機はしたのですが、雨は全然止まない。

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■高槻街道支線から入る
段倉(だんくら)を見に行きました。たびたび淀川の洪水の被害にあっていた地区では敷地をかさ上げして倉が建っています。段倉考については後程。
遠すぎてよく見えませんが、2m位はあるか。

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北向地蔵尊
梅田の紀伊国屋書店近く、三番街の南側にあるし、昔、住んでいた京都は伏見区竹田の散歩コースには北向山のお不動さんというのがあって、普通にみていたのでよくあるものだと思っていましたら、北向地蔵さんは珍しいんだとか。なんでも全国で400体くらいしかないのだそうです。 http://kita-ku.jugem.jp/?eid=24

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街道筋。同じところを通っているような気がする

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■バス道の南にいってみます
立派な地蔵堂。唐崎南之口地蔵堂といいます。

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地蔵菩薩

「左手に宝珠、右手に錫杖を持って
千葉の青蓮華に安住する」御姿の
地蔵菩薩が。六道の辻に立って、地
獄に落ちかかる者の手を引いて救い
あげてくれるという信仰が印度から
中国を経て日本で盛んになったのは
平安時代のことです。
 後、日本古来の境の神、道祖神
とも結びつき、村々の境や辻に
地蔵堂が建てられ、旅行安全、
厄除け、特に子供と縁の深い御仏
として人々に親しまれるようになりました

格子の間から覗いてみましたら、眉毛濃!!どことなくアチラ風のお化粧です。

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地蔵堂の前には、これは大きな石燈篭
お花講中 昭和二年四月 と彫ってあります。これはボクの見た石燈篭で最高かもしれない。お花講というのは、花飾りで寺社に奉仕する講だと思いますが、どこの寺社へなのかは分かりません。

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唐崎神社
明治41年に三島江の三島鴨神社に若宮を合祀されましたので、正確には三島鴨神社の遥拝所となっています。鳥居がありませんね。

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バス道に戻ります。JAの角に道標がありました。
北面  (直?) 三島江 鳥飼 
     (右?) 茨木 吹田 大阪
西面  (右?) 三島江 鳥飼 味舌 柴島
     (左?) 大塚 枚方
南面   直   大塚 枚方 
     (左?) 茨木 吹田 大阪
東面  明治四十三年六月 此所三箇牧 大(阪府)

( ?)は削られて不明。上記のように補充したら、この場所では合うのではなかろうか。方角が削ってあるところを見ると、よそから持ってきたのか?パズルです。

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バス道を西に向かいます。振り向くと左手に「石田梅岩 母たね 生誕地」という新しい石標が建っていました。

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(つづく)


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茨木街道をあるく 道草編 (5)番田~唐崎過所浜

 今回は番田から唐崎過所浜経由、唐崎に向かいます。まだ道草が続きます。

9月3日は唐崎・街道筋にて集中豪雨に逢い、降雨コールドとしました。
9月6日に再開、番田から郡まで歩きましたが、茨木の春日通りでスマホの電池切れ。以後当てずっぽうで歩きはしましたが迷走です。大まかには街道ルートは行けていましたが・・・
9月9日リベンジ:茨木から箕面・奥の道祖本街道終点まで歩きました。最後のほうでスマホ電池切れを起こしましたが、地図は印刷してあったので。3回分まとめて整理します。

  スマホは歩数計オン、GPSオンで、Googlemapでルートを確認しながら歩きますが、負荷も電池も食うやろな、と思いつつ、これがマイスタイルなので。だいたい5時間で強制シャットダウンとなります。本格的にウォークをやると10時間くらいはかかるので、あまりカスタマイズはしていませんが、何もしなくても10時間くらいはがんばってほしいのだが。スマホの機能と電池性能がアンバランス、スマホがチャラいソフト満載のPCみたいになっていて、そのアプリが電気や金を食うものばかり、というのが原因と思われます。スマホもまだまだやね。今度はアプリを徹底的に切って、スカスカにして歩いてみたいと思います。

 

■番田にて

番田バス停から入っていきます。竹の内小学校5年で持っている田んぼ。元気に育っていますが、事あるごとに見てほしいね。田植えと稲刈りだけだったりして・・・

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番田の村

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番田神社はエントランスのリニューアル中。この地のはやりかどうか知りませんが、鉄骨を組んで提灯スタンドの建設中でした。塗装仕上げなのでもうすぐ完成か。由緒看板も新設されたようです。

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淀川堤防から番田を望む。前と同じアングル!

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芥川河口から鷺打橋

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堤防から淀川河川敷を望む
ほんの少し前まで(昭和55年頃)、ここに牧場があったようです。
http://www.yodogawa.kkr.mlit.go.jp/activity/comit/plan/kouen/files/15_sankou1-3.pdf

平安時代には、この付近から摂津市鳥飼の付近までに近都牧(きんとまき)が設けられ、諸国から京に納めるべく集めた牛馬を一時的に飼育されていました。後に、これを上・中・下の三つに分けたことから「三箇牧」の地名が生まれたとされています。三島江のあたりに、三箇牧の地名が学校名として残っています。

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■唐崎過所浜

 唐崎過書浜はこのあたり。前に見える道が、旧芥川堤防らしい。

 古代に唐船が停泊した、あるいは大陸からの渡来人がこの地に住んだことから「唐崎」という地名がついたと云われています。江戸時代には三島江浜とともに淀川の主要な河港でした。

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旧堤防を少し行ったところに案内板があります。

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当時の淀川は、京・大坂を結ぶ交通の要路として幕府から通航を許可された過書船が旅人や物資をのせて行き来していました。唐崎浜は北摂の酒米や煙草、酒、 寒天などを積み出す一方、肥料や天草、木材などを荷揚げし、「富田の外港」と呼ばれ、浜には荷受問屋の蔵が建ち並び時には百石積みの帆前船が発着するなど 大いに栄えたそうです。

ふりかえると淀川堤防。今歩いている道は「高槻街道支線」で高槻城下まで行くようです。途中の芝生から、道祖本街道も始まります。

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旧堤防道から下りてみました。港の村らしくお地蔵さんかなにかの祠があります。

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土取りされて低くなったとはいえ、旧堤防はかなりの高さがあります。

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茨木街道をあるく 道草編 (4) 淀川河川敷の不思議

2013年9月3日


 来しなの堤防あるきがよかったので、河川敷に下りて歩いてみました。

■あそこから下りられるようです
土手にはマコモが咲いています。

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■これはなんでしょう?
堤防の土手にあった気になった花。花の後がまんまるになっています。

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これが花のようです。オトコエシに似ている。

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花が終ると花序の小さな枝がまるまって、さらに大きな枝がまるまってくる。
縦じまのアカスジカメムシが取りついています。

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葉っぱはオトコエシではないなあ。ノコギリソウとも違う。

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タネが実ってくると、再び開くのか?タネが実る過程で何か保護をしているのか?

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最後までよくわからない花でした。

■河川敷の堤防側
クズが支配しています。

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■ノイバラ

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実は赤くなるのかと思ったら、そのまま枯れてしまうのでした

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■おなじみヘクソカズラ

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■ツキミソウ

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■川側を見てみます

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森になっています。入っていけそうにない。

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■キリ
あれはつぼみなのか?

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■林縁にはいろんな秋の花が咲いています
ヤブカラシ

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白いコマツナギ?

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キンミズヒキはもっと小さく清楚なんですが、よくわかりません

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何かに寄生している植物と書いていましたが、そのソースを見失いました。

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ここの河川敷はすばらしいです。四季を通じていろんな植物が観察できます。場所あるいか樹を決めて、定点観測していくとおもしろそうです。

このあと、唐崎の街道に復帰しますが、それはページを改めて。

(終り)

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