街道をゆく

2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日


 宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。

■あの角を曲れば茨木街道は終点P1260842

■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道

背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
      奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

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■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

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椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。

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■街道筋の景観
 なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf

 一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
 街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
 早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

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■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

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花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

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これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

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実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

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■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

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奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

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この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

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■立派に熟れた家、熟れすぎかも

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■勝尾寺川にあたります

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■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

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■橋は巡礼橋

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■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

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■振り返ると豊かな田んぼ

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■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

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謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

P1260896r

格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

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■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

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この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。

 すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
 この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html

 そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地 方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」  この地域も、こういうことなのかな?

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2010年9月17日 (金)

かきつばた鎌倉街道(1)

2010年5月26日(水) 知立・八橋




 知立での仕事第3クールが終ってやれやれ、ホッとしています。 とにかく、気分転換が必要です。今回はかきつばたの無量寿寺にいってから、特に目的地を考えずあたりをブラブラする予定です。


【かきつばた】
 知立のかきつばた祭が今日で最後だというので、行ってみました(9:15)。係の人に「かきつばた祭りって、なにかあるんですか?」と聞いたら、「エー、なにもありません、今日で終りなので・・・」ということで、何もありませんでした。

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 かきつばたは花ガラ半分の様子で、さすがに終りのようです。おかげで静かな境内をゆっくり回ることができました。

 無量寿寺は在原業平ゆかりの寺として知られています。(知らなかったけど・・・)どんなゆかりか?

Arihara

1)お寺の本尊、正観音像が在原業平の作と伝えられる。

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2)伊勢物語にある話で、「むかしおとこありけり・・・」で始まり、ある男が東下りの途中、この地(八橋)にたどり着いた。燕子花(かきつばた)が水辺に美しく咲いていたので、その男は、次のような歌を詠んだ。 

唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う

らころも
つつなれにし
ましあれば
るばるきぬる
びをしぞおもう

となって、フレーズの頭をとると「かきつばた」になっている。テンテンはないけど。

高校時代の古文ででてきましたね。

3)謡曲「杜若」は、この伊勢物語からとって作られた。

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4)業平の井 「業平公 お茶の水を おくみの井戸」がある。

5)杜若姫の物語がある。業平の愛人「杜若姫」は、業平の東下りの際、はるばる都よりその跡を追い八橋までたどり着きましたが、その時すでに八橋を立ったあとで、悲観の余り付近の淵(今の逢妻川)に入水した。

 ゆかりはこんなところでしょう。

 無量寿寺はもともと、奈良時代の慶雲元年(704)の創立の慶雲寺といわれ、弘仁十二年(821)にこの地に移され、無量寿寺となったそうです。その後荒廃したのを文化九年(1812)、方巌売茶(ほうがん ばいさ)翁により再建され、杜若庭園もこの時完成した、ということでした。
http://www.city.chiryu.aichi.jp/0000000863.html


【いずれがあやめかきつばた】

 さて、せっかくなので、よく似ているアヤメ/カキツバタ/ハナショウブの見分け方を調べました。

■アヤメ(菖蒲)   アヤメ科アヤメ属  八橋・無量寿寺Imgp1272

■カキツバタ(杜若,燕子花)  アヤメ科アヤメ属 私市・大阪市大植物園P1150188

■ハナショウブ(花菖蒲)  アヤメ科アヤメ属  交野市P1150346

■ショウブ(菖蒲) サトイモ科ショウブ属 写真なし

あて字の漢字で書くと訳が分かりません。花菖蒲と菖蒲も漢字は「花」違いですが、ものがハナハダ違います。

参考サイト

http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/izure.html
http://www.kamoltd.co.jp/kakegawa/miwake.htm
あやめは「花弁の元のところに網目状の模様」がある。
杜若は「花弁の元に白い目型の模様」がある
花菖蒲は「花弁の元のところに黄色い目の形の模様」がある                     
 もっと単純には
5月に花。排水の良い草原に生えるアヤメ
5月に花。湿原に生えるカキツバタ
6月に花。湿原や水分の多い草原に生えるのがハナショウブ
でよいと思います。
 ちなみに、アヤメの写真はわが家のエントランスの岸(湿地ではない)に生えているものです。知立神社にあるものはハナショウブでちょうどこれからがシーズンです。


【八ッ橋】

 伊勢物語では、ある男が都から道に迷いつつ、この地にたどり着くと、「川が幾筋も流れ、 水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つにわたせるによりてなむ八橋といひける。」とあります。また伝説では、この地の湿地(川?)で水死した二児を悲しみ、当寺で尼になった母親が墓を建て、村人の力で入り江に八つの橋を架けたことから、この村は八橋と名付けられた、とあります。したがって、八ッ橋。

P1150193c

 八ッ橋屋さんの出店がありました。西尾とあるので、近くの西尾から出っぱってきたのかと思いきや、本場の京都からでした。西尾は創業者の名前です。なんでも、お菓子の八ッ橋の名前はここの八橋という地名から取ったのだそうです。八ッ橋の謂れの碑もありました。はて、地名の八ッ橋の謂れなのか、お菓子の八ッ橋の名前の謂れなのか?よく確認しませんでした。

P1150186

 八ッ橋を買ってみましたが、聞くと京都でも売ってると!・・・なんで大阪から知立に来て京都土産をかわなあかんのや、ということで、さらに聴けば、この祭の間だけここでしか売らないオリジナルがあると聴いて、それに交換してもらいました。
 何が変わっていたのかよく分かりませんでしたが、ともかくもおいしくいただきまして、気がつけば写真はありません。

 ここには芭蕉の連句碑もありました。 

かきつばた 我に発句の おもひあり (芭蕉)

 麦穂なみよる うるおいの里         (知足) 

P1150173

芭蕉は、のざらし紀行の旅の帰途、貞享三年(1685)四月、鳴海の俳人、下郷知足の家に泊り歌会を開いた時の作いわれています。

(つづく)

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2009年8月27日 (木)

東海道ウォーク 箱根八里(6)

2008年6月25日(木) 西坂:上長坂-三島



【上長坂石畳】
 富士見平からの坂を降ると石畳が始まります。少しでこぼこしているので注意深く下を見て歩いていると,なんだこれは!石に〒マークが入っ ています(16:19)。

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 西坂の石畳は,昔の石が残ってる場所は,それを使い,石が抜けている箇所に神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した,とありますが,〒マークとは?補填石を用いず,再生石も用いたものと思われます。このあたりは上長坂石畳で,整備マップ(みにくいですが)では全面に補填石を用いた区間となっていますが・・・ま,これはこれでいいのだと思います。
 それより,郵便関係でわざわざ石に〒マークをほり込んだも のを使うほうがびっくりです。

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Ts3a0571

 石畳はきちんと整備され,比較的歩きやすいものです。農道としても使われるようで,周囲には畑もできています。だいぶ生活臭も大きくなってきて,なにか安心感も湧いてきました。

【笹原新田】
 一号線の合流から離れると,次いで笹原石畳に入ります(16:26)。旧街道の先にはピンクの看板が見えてきました。もう使われていないラブホテル?ぼろぼろでした。ここで行き止まりかと思えば,その左を抜けていきます。

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 笹原石畳も同様に歩きやすい道ですので,快適に飛ばせます。Ts3a0577  道が中央分離帯のような丘の両脇を走るようになってきました。 左手をみるとまだまだ高度は高く,どこまで降りたら終るんかと思ってしまいます。中央分離帯の中に,こんもりとした繁みが見えてきました。案内板をみると,ここが笹原新田一里塚のようです。ここまでくると,村の一里塚という感じです。  

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 石柱の横に小さな一里塚入口の標示と階段があり登ってみることができます。1コしかありませんが,マウンドはかなり明瞭です。写真はケータイで,少し暗くなっているのでボケボケです。

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 ゆっくりとした坂を降りきると,国道に当たりますが。笹 原新田の集落で,このあたり村の中心地のようです。交差点脇にはベンチ,石標,案内板があり,一休みしたいところです(16:34)。

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 この横断歩道を渡ると,箱根西坂で第一の急坂として知られた下長坂となります。別名こわめし坂。こわめしとは強い飯ですが,米を担いでこの坂を登ると,噴き出る汗と熱さで米が強飯になる,ということから,こう呼ばれているようです。最初これを読んだとき,「いくらなんでもそれはうそやろ」と思いましたが,下ってみると,これはキツイ!登りでなくて良かった と本当に思いました。転げ落ちるようにして下りました。ここを登れば「こわめ し」になるというのも,さもありなんと思いました。

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 しかし,この上に住んでいる笠原新田の人はここを歩いて登るのです。ちょうど下から小さい子供の手をひいたお母さんがゆっくり登ってきました。ここで生活するには車は必須ですが,車のないときもある,その時はここを歩かざるを得ないのです。ご苦労様です。

【下っても下っても下り坂】
 こわめし坂を降りきるとさすがにほっとします。 休憩です (16:42)。

Ts3a0600c

 このあたりから三ツ谷新田になります。 遠く左右を見渡すと ,尾根ごとに開墾されていて豊かそうな畑になっています。三ツ谷新田の集落をまっすぐ降りていきます。足は快調なんですが,いつまで続く下り坂?下っても下っても下り坂。国道が離れているのが救いです。

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 旧東海道のカーブの先に見えるのは坂小学校です(16:58)。 そのままの名前ですね。晴れていれば見晴らし最高なんですが,あいにくの曇りなんで下るしかありません。坂小学校の右側に小さい道があり,そこが旧街道です。案内板によると題目坂とありました。快調に下っていくと,しまいに階段になりました。

Ts3a0604

 市の山というところを過ぎると,旧街道は広い道(国道ではない)を分岐し,えらく寂しい峠のような所に突入です。すこし薄暗くなっているので気持ち悪いくらいでした。ここは臼転坂というようですが,坂そのものがあまり急ではありません。しかし,臼は十分転がります。

 坂を抜けると一瞬,国道が併走しますが,また離れていきました。50~100m離れて並行に下っていくようです。これはうるさくなくて助かります。このあたり,塚原新田というようですが,距離がある割りにはあまり下らない。
 このあたりから新しい住宅が立ち並ぶようになり市街地の観を呈してきます。塚原新田の先で道路工事をやっているらしく,国道1号線に誘導されました。国道をわたり東の崖っぷちを臨時歩道が通っています。その下はかなり深い谷ですが,下のほうでは大がかりな造成工事をやっていました。住宅地なのかそれとも?
 しばし国道沿いを歩きます。バス停がありまして,ちょうどバスがきたところです。一瞬,乗るか,と思いましたが,もうすぐ坂も終りのはずなのでパスしました。

【初音原】
 バス停から国道を横切って,国道(上り車線)西に併走している遊歩道に入りました。ここも石畳です。さすがにもう飽きたんですけど・・・

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 ここは初音ヶ原といって, 松並木が美しいところです。遊歩道と国道を隔てるようにずっと続いています。国道の向こう側にもあるようでした。なんでも,三島市付近では唯一の松並木らしいです。初音ヶ原石畳遊歩道は平成に新設のもので,所々にベンチも置かれています。本来なら,見晴らしが良く背後には愛鷹山と冨士が見えるはずで,市民のよい散歩コースのようです。
 ここをミニバイクの女性が,ガタガタしながら上ってきたのにはびっくりしました。国道は車が多く,スピードも出しているので恐いんでしょう。が,どっちを通るのが安全か分かりません。

 ここには錦田一里塚があります(17:26)。日本橋より28番目(112km)の一里塚です。街道の両側にきちんと2基残されています。が,あいかわらず写真はボケボケ。

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 もう五時半。さすがに遅くなりました。川崎のホテルに荷物を置かせてもらっていて,「6時過ぎ予定で帰ります」といっている手前,電話で一報入れておきました。まだ三島とはいいませんでしたけど。
 司馬さんの「裾野の水,三島一泊二日の記」に出てくる,お気に入りのバー浪漫亭があるのはこのあたりかと思います。調べてみると,経営者も店の名前もは変わっているようですが,浪漫亭の伝統を重んじながら,同様に営業されているようで,一度行ってみたいと思っています。

【最強の石畳】
 初音ヶ原石畳はきれいに整備はされているんですが,堅い感じがして疲れた足にはこたえます。「もう十分」と思いながら歩いて初音ヶ原を過ぎると,こんな石畳が! (17:40)

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 10mほど歩きましたが,ギョェー!これは歩けん。まるで行でもしているようで,足裏にズキンズキンと食い込みます。これは箱根東坂,西坂合わせて最強・最悪の石畳でした。ここまで石畳にこだわらんでもよいのに。幸い横に別の道がありましたので,そこを歩きました。

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 この最強の石畳は愛宕坂の始まりでした。さらに追い打ち。本番の愛宕坂がまた急。しかしこわめし坂ほどでもないです。 かつ,石畳の外に普通のコンクリート舗装の部分がありますからそこを歩きます。ボクは下りでいいですが,日常登る人は大変でしょうね。
 三島は水の街という理解でしたが,坂の街というのを付け加えないといけません。

【逃がしたうなぎ】
 やっとこさで東海道踏切です(17:44)。これを渡れば坂はないはずです。かつ,三島市街に入り,1キロ強で三島大社です。

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 やれやれやっと下りきりました(18:00)。湯本から8時間半,箱根八里とは言え,湯本からは七里を切るくらいなので,少しかかりすぎです。しかしもう若くはないんで,このくらいか。
 三島と言えばうなぎですね。パワーを付けんとて,三島大社前にある蕎麦屋さんでうなぎを注文。しかし,「本日は市場が開いてないので,うなぎありません」とのご託宣で,しかたなく・ ・・何を食べたか忘れました。テンプラか何かだったと思います。しかし,歩きのあとのビールは格別でした。至福の瞬間。

 三島駅に行く川沿いの道々には,三島に縁のある文学者の碑があります。太宰治,司馬遼太郎,正岡子規,その他もありますが写真に撮れてません。ほろ酔いなのでこの3人のぶんだけ撮りました。

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 今回の西坂くだりは時間におされて見所はかなりすっとばしました。本文もどこそこを通りましたという記述だけですね。写真もボケボケです。かつ,うなぎも逃がしたし・・・これはリベンジを果たさねばなりません。今度はゆっくり,箱根発でのんびり下りたいものです。西坂,気に入りました。

(箱根八里おしまい)

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東海道ウォーク 箱根八里(5)

2008年6月25日(木) 西坂:農場-富士見平



【願合寺石畳】
 階段の下にもう石畳が見えます。解説板によると,ここは願 合寺地区の石畳です(15:17)。1995年に発掘調査のうえ,復元・整備されたもので,以前の整備を含めてほぼ全体が復元整備されています。どうりで歩きやすい。石橋も発掘され,復元されていましたが,気がつきませんでした。草に埋もれているか,落ちてるんかな?

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 ここの石畳は歩きやすい以上に,周囲の環境とマッチしてい て美しささえ感じます。東坂と比べると,どことなく人の気配,生活の気配がある。杉の手入れや,所々に畑もあったりして,そういう農・林作業のみちとして実際 使われてき たことが,復元整備という人工的なものを覆い隠して,手を加えた自然とし て目に入ってくるんだと思います。ここの石畳は気にいりました。何度でも歩いてみたいところです。
 まもなく林道と合流します(15:24)。

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【雲助徳利の話】
 坂を降りきったところに徳利を彫りつけ た雲助のお墓がありました。傍らにある,三島市の作った雲助徳利の伝説・解説文を載せておきますが,雲助に対する親しみ,感謝の気持があ ふれた,これは名文かと思います。「雲助」はだいたい悪者の代名詞のように使ってしまいます。むかし,タクシーの運転手を雲助と呼んで物議を醸した芸人がおりましたが,言うほうも受け取るほうも悪いイメージで理解していたと思います。雲助とはそういうものでなく,箱根越えの人々を助ける存在であり,きちんと人の恩義も感じる人たちであったようです。

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  最後の一文が効いています。このお墓は元は山中一里塚付近にあったよいうですが,いつのまにかここにある理由として,「酒飲みの墓ゆえ,ふらふらして一ヶ所に落ち着かないようです」と。まことにしゃれた文章だと思い ます。

Kumosuke

 雲助に関してもうひとつ心暖まる話を紹介しましょう。「和菓子街道」箱根の巻によると,このすぐ下に竹屋さんという茶店 があり,名物雲助だんごが賞味できるんですが,これはこの雲助の親分にちなんで名付けられたものだそうです。名付け親は,竹屋の女将さんのお孫さんで,当時,まだ小学校低学年だったんですが,「どうせなら,雲助団子って名前にすればいいのに」と提案してできたのだそうです。この地では,小学生も雲助に親しみを感じているのだろう,と結ばれていました。
 三島市の銘文作者といい,竹屋のお孫さんといい,雲助にたいする認識をきちんと持って,郷土の歴史に誇りをもっていることがうかがえます。
「和菓子街道」箱根編:http://www.trad-sweets.com/wagashikaido_4/pg25.html

【山中新田】
 まもなく山中新田です。国道の陸橋を渡ると山中城趾があり ます(15:34)。かなり広いので時間の関係で岱崎出丸だけ見学することにしました。件の竹屋さんは陸橋のそばにあります。寄っていないので次回はぜひ。
 江戸時代には山中城跡の曲輪の中を東海道が通り,そこが集落となったのが山中新田です。ここは箱根越えの難所を控えた間の宿として栄え,松屋,水戸屋,大和屋など,茶屋は40軒を越えていたそうです。

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 三の丸跡にある宗閑寺は山中城を守った松田康長,その副将・間宮康俊が葬られている所です。本堂左の台地に墓石が並んでいました。道端なので少し立ち寄りました。

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 やがて国道は左にカーブしますが,旧東海道は直進します。しばらくする地蔵堂があり,芝切地蔵といいます。江戸時有名になり,参拝者にも売られ賽銭とまんじゅうの利益で村の出費が賄えたといいます。

【山中城 岱崎出丸】
 バス停のところから横断歩道を渡ると岱崎出丸に登っていく階段があります。
 山中城についての詳細はいろんな専門サイトがあるので参照いただきたいですが,簡単にまとめると,北条氏により小田原城の西の関門として築かれた城です。この城は箱根峠から下る尾根上にあって,地図を見ると城の東側は等高線が詰まっており崖といっても良いほどのの斜面です。また城の西側もかなり深い谷があり,小田原に至るには尾根上の箱根道を登ってくるしかないようです。そこに立ちふさがるこの城は箱根道を押さえる要衝です。

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 天正17年(1589年),北条氏は豊臣秀吉との決戦に備えて 山中城の大改修に乗り出しました。小田原城決戦の前に,まずは箱根の天険を利用して豊臣軍に打撃を与える計画だったそうです。
 岱崎出丸は本城の下,箱根道を見下ろす尾根上に作られた曲輪で,街道を進軍する敵を横の尾根上から狙い撃ちできるようになっています。ここは豊臣軍との決戦を前に急遽築造され,そのため部分的には未完成状態であったそうです。

 

 岱崎出丸に入ってみると,まるでよく整備された公園でした(15:40)。ここで激戦があったとは信じられないくらいです。

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 出丸の西側の縁は土塁がめぐらされ,街道側から攻め登ってくる敵に備えています。この土塁の直下は,堀内部に畝状の隆起を残した畝堀です。この畝堀は北条氏独自の技術でこの中に入った重装備の敵兵の動きを封じるためのものです。 底から土塁上までの高さがあり,傾斜も 急で,守りは堅かったようです。

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 上左の写真で,土塁の南端が広くなっているのは見張り台の跡です。ここに立てば南西への見通しがきき,三島方面が一望できるハズですが,あいにく曇っています。
 このほか,すり鉢状の曲輪もありましたが,ここに敵兵をおび き寄せるんですかね。蟻地獄方式にしては歩きやすいかと?むしろ防御側が 縦横に走り回れるような感じもします。

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 ここには間宮康俊率いる百人余りの城兵が配置され,激戦の後に陥落,全員討ち死にしたということです。ここを攻略した豊臣軍は半日で本丸も陥落させました。北条軍四千に対して,豊臣軍4万とも言われているので, 戦国時代の伝統的な戦術で堅固に固めた城も,数の論理には勝てなかったということのようです。
 雨がぱらついてきました。再訪を期して岱崎出丸を後にします(16:05)。ここでデジカメの電池が切れました。以後ケータイ頼みなので画質が落ちます。

【箱根八里記念碑】

 岱崎出丸畝堀の下を通る旧街道は,杉林の中を通り,腰巻地区の石畳となっています。杉林の階段の横に,古い石碑(馬頭観音?)と司馬遼太郎の箱根八里記念碑があります。

幾億の足音が 坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ

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 写真はぼけぼけですが,なんとか判読できました。この記念碑は北条早雲を描いた小説「箱根の坂」にちなんだものかと思われます。この小説は読んでいないので機会があれば読んでみます。司馬さんの文章で三島,西坂にちなんだものは,「裾野の水,三島一泊二日の記」しか読んでません。短編ですが味わい深い文章で,三島や西坂に行ってみたいと思うようになったのも,これがきっかけでした。

【富士見平】

Ts3a0569

 旧街道はいったん国道に吸収され,再度右に分岐します。浅間平というようで,ここにも石畳がありました。ゆるやかな坂を下りきると再び国道と交わり,巨大な芭蕉句碑があります(16:17)。比較的あたらしいもののようです。

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ 面白き

 芭蕉が歩いた日も富士は見えなかったらしい。
 富士見食堂のあたりはブルドーザが入り,なにかの工事を していました。いやトラックのたまり場だったのか?記憶にありません。天候のせいもあり,なんとなくうら淋しいところでした。
 ここで国道を渡ります。直進すれば旧街道の降り口ですが,ここは直進せずにいったん国道の坂を登って横断歩道を渡りましょう。国道が急カーブしていて車を確認するのが困難だし,車からも横断者が見えたらすでに遅いという状況です。

 

(つづく)

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東海道ウォーク 箱根八里(4)

2008年6月25日(木) 西坂:箱根峠-農場



【茨ケ平】
 ドライブイン端の休憩所でしばし休憩。おじさん1人,トイレに入ってきました。車できているようですが,箱根西坂で会ったのは,土地の人を除いて,この先の山中城趾で会った観光客2名とこの人だけ。西坂は誰も歩いていない寂しい所です。平日ですからね。地図には峠の茶屋というのがありましたが,開いてる気配がない。通る人がいないんだから無理もないか。

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 14:28出発。街道はしばらくゴルフ場に行く道を行きます。 ここでいいんだろうかと心配になるところです。

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 街道歩きをしていると,ゴルフ場ほど違和感を感じるものはありません。山一つを買い占めて造成したゴルフ場内はきれいに整備されていて,見るにはよいのですが,必ず柵で囲って他を拒絶するようです。この囲い込む思想は全く理解できない。ボクは変なスポーツだと思います。やったらおもしろいんですけど。他をシャットアウトした中でのおもしろさには馴染めません。

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 小さな坂を登り降りすると,数個の庭石と標識が現れました 。この辺りは茨が茂っていたところから茨ケ平(ばらがだいら)と呼ばれたそうですが,今はそんな茨は見当たりません。ここが甲石坂の入口です(14:33)。

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 標石には,是より江戸二十五里,京は・・・百里。京を考える にはまだまだ遠すぎます。三島宿11km,これなら楽勝でしょう。飛ばせは2時間,しかし3時間はみときましょう。

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 三島宿方面に進むと,道の左側に四阿,右側に八ツ手観音があります。観音様は旅人を守護してくれているようです。少し脇道に入っていくと「北斗闌干」と書かれた井上靖の箱根八里記念がありました。説明板は字が消えかけていて判読困難です。
 ここでデジカメの電池アラーム。メモリ交換。ちょっと節約しなければ。
 
 14:37,箱根竹のトンネルに突入です。おお,これはおもしろい。道は石畳で滑りやすいのでそんなに飛ばせません。

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 トンネルを抜けてしばらく行くと小さな碑がありました。兜石が元あった場所だそうで,昭和の初め国道1号線の拡幅工事の時,兜石はこの先に移設された,ということなので,工事のじゃまになったためか?この場所ではそんなはずはないと思っていたのですが,時期が一緒だったということのようです。 

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【接待茶屋】
 まもなく旧街道は国道1号線に合流します(14:45)。少し先にバス停があります。バスは1時間に1~2本運行されているようで,思ったより多い。旧街道はその先から西に,森の中に入っていきます。  

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 国道のカーブの内側(東側,写真の 左)には接待茶屋跡がありますが,国道を渡る必要があるため,そこにはいけませ ん。旧街道入口にある案内板によると,接待茶屋は江戸時代中期からはじまり,旅人に無料で粥,たき火をふるまい,馬には飼葉を与えてきたそうですが,明治維新に中断。明治12年(1872)に性理教会により再開され,その後,鈴木家に引き継がれ,資金難になりながらも,(なんと!)昭和45年まで続いた,とありました。

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 こういう接待の伝統とはなんでしょう?洋風のボランティアという言葉では説明しきれないものがあるように思います。四国遍路の接待ぶりを見ていると(聴いていると)仏教がからんでいるようにも思えますが,それだけではなさそう。もっと遡るのかも知れないです。これは調べてみる必要がありそうです。
 この分岐には山中新田一里塚(跡?)もあるようですが,見落としました。

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 旧街道に入ったところにはいろいろ石碑がありますが,徳川有徳公遺跡碑というのがあって,それを見ていて,その反対側の兜石を写真に撮るのを忘れました!先程の兜石跡からこちらに持ってきたということです。東海道ウォーカー さんのサイト「東海道でござる」を見ていると,「徳川有徳公遺跡碑を建てた鈴木源内の発案により同じく観光整備目的で昭和10年に根元で切り取られここに移された」ということで,勝手にそんなことできたんですかね?とびっくり。
http://tokaido.dde.gozaru.jp/

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 少し先の分岐を行くと施行平の芝生のある展望台となるよ うですが,時間の関係でパス。道端には念仏石と呼ばれ大きな石とその足元に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻まれた碑があります。行き倒れの旅人を宗閑寺で弔ったものということです。

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【農場】
 まもなく分岐が2つありますが,ちゃんと道標が案内してくれます。もう3時か・・・

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 草の生えた石畳の道になって眺望が開けますが,あいにく曇 りです。どうやら一雨きそうな気配。このあたり,大枯木坂というようです。
 道はどんどん下って,ありゃ,民家の庭先に入ってしまいました。農場経営のお宅でしょうか。どんどん進み,突き当たりを左折して国道に出たらちょうど下りのバス停の前でした(15:08)。参考までにバス時刻表を載せておきます。これで一安 心。本数もあるようで,最悪このバスに乗ればよい。

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 バス停先の右カーブの所に旧街道降り口があり,ここで10分ほど休憩。またポリポリ。

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 西坂は石畳はあるものの,石は扁平なものが使われていて,東坂と比べて格段に歩きやすいです。また,尾根道になっ  ていて坂もだらだらとゆるいうえに,乾燥しているので歩きやすいです。尾根道であるのは,東から見て,東上してくる敵の発見を容易にするためだそうです。そして東坂の谷道(ここは確かに歩きにくい)に導き入れ,山上より挟み撃ちにする戦略とも云われているようです。なるほど,うまく考えてある。

 

(つづく)

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2006年9月 3日 (日)

紀伊路ウォーク~切目編~

2006年2月17日 和歌山・印南町・印南~切目





【オールド印南】
 食事をしてから 町中をうろうろしました。印南川河口に漁村から発展した町で,川沿いに北へのぼっていくと町役場とかJRの駅があります。狭い道が縦横にはしっている。

Oldinami

Inamitown

 

 

Inamiroji

Kiridoushi






 印南川をわたって国道のほうにもどりました。国道の手前から小高い丘に登っていく道があり,これが古い道のようです。のぼり切ったところにお地蔵さんの祠がありまし た。このあたりは,海岸で突き 出た鼻を避けて道がつく られていて,民家もこの道沿いにたくさんあります。風や波を防ぐ意味からと思われます。峠をくだったところは静かなむらでした。光川というところのようです。あとで地図をみると,街道はここから,内陸のほうを向かっていくる道のようでしたが, かわまず国道にでました。Jizousa2n

Uramichi

Mitukawa


【斑鳩王子】
 国道の東側の高みにちいさな祠らしいものがあったので,王子かと思って登ってみましたが,ちが うようでした。宝暦八年・・とかいた石標 がありまし。 た。きちんと手入れさ れていておまいり もされているようです祠の背景に芭蕉(蘇鉄か?)があるところなんぞはいかにも紀州という感じです。Unknownhokora

 国道沿いドライブインがあって,大きな看板がありました。「切目王子跡」と書いてあるので,まずは斑鳩王子のはず なのにおかしな看板,と思っていると「南1km」ということで,すぐそばにある斑鳩王子も完全に無視でした。これでいいの か?
Kanban


 ドライブインの駐車場の横は崖になっていて,すぐに海です。ちょうど引き潮のようで,平らな磯がみていえいました。死角になって見えにくいのですが,印 南の叶王子あたりから みえた「あて山」はこのほんの先にあるようです。地図をみると丸山となっていて,そのまんま。斑鳩王子の小高い丘に登っていく途中に見えました。どうも印 南からみたものと距離感がちがう感じがするけれども,これなのかな?なんか違うような気もしますが,他にそれらしい小山もないの で・・・こうなるといいかげんです。Ateyama

Hikishio

 国道を渡った丘の上に斑鳩王子はあります。

Ikarugaoji

Ikarugatorii

 この「斑鳩」と奈良の「斑鳩」の関係はどうなのでしょう?さらに,「何鹿」と書いて「いかるが」と読みますが,「斑鳩」との関係は?ボクは昔風の呼称でいう「何鹿郡」の出身なので昔から気になっているのですが,よく分からないのです。

 さて,斑鳩王子ですが,小高い丘の上にたっていて,見晴らしがよく,風の通り道になっています。ちょうど木陰にもなってい て一服するのにぴったりの場所でした。立派な祠が たっています。その上はビニールハウスのエンドウ畑のようでした。
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このあたりの王子はよく整備されていて,案内板 も作られています。その足元のは石標があって,ヤタガラスの紋章も掘られていました。世界遺産登録以後整備されたんだろうか?Yatagarasu

 祠の前にも鳥居があって,急な石段をおりて国道にもどりました。

Ikarugaoji3

【切目王子】
 さて,斑鳩王子ですが,小高い丘の上にたっていて,見晴らしがよく,風の通り道になっています。ちょうど木陰にもなってい て一服するのにぴったりの場所でした。立派な祠が たっています。その上はビニールハウスのエンドウ畑のようでした。

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Endou

 

 このあたりの国道の周辺は梅林(切目の次の町は南部です)があったり,エンドウ畑があったり,のんびりした風景です。山側を通って いた 旧道が国道にあたるところには水準点がありました。このあたりは新旧の道が併走しています。

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大きな案内板が見えてきて,右手の細い道をとるとすぐに 切目王子です。

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Kirimeoji

 めずらしいことに,しめ縄をはった館のようなものがあって,これが鳥居代わりなのでしょうか?寄合や宿泊ができるようになっているのかも知れません。縁起書や初代紀伊藩主・徳川頼宣より奉納された絵馬,香炉などの 写真が掛けられていました。

Enttrance

 熊野九十九王子の中でも特に格式が高いのが五体王子と呼ばれていて,古の貴人たちにも敬われました。五体王子とは 海南の藤代(藤白)王子,印南の切部(切目)王子,上富田の稲葉根 王子・中辺路の滝尻・発心門王です。

【海人ネットワーク】

Mainshrine

 正面にはメインの切目神社があります。祭神は,天照大神,正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(覚えられないのでオシホ ミミノミコトと略),彦波瀲武■■草葺不合尊(PCで扱えない漢字があ るので,フキアエズノキコトと略),天津彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコトですね)です。切目社の由緒書によると,崇神天皇67年(2~3世紀)といいますから,ヤマト王権の支配がかたまりつつある頃からのものでしょうか。

Engi

Kirimeuisho

 その横の小川をはさんで,大塔神社(祭神は護良親王),地宗神社(祭神は,猿田彦神,保食神,市杵島姫神),名が 書いていない祠(祭神は浦安神社,事代主神)がまつってありました。地宗神社がもともとのメインの社なんでしょうね。
 小川にかかる橋のたもとにあるのは天然記念物ホルトノキです。ホルトノキは図鑑でみたことはあるんですが,実物ははじめてみました。Horutonoki

 浦島神社は聞きますが,浦安神社ってあまり聞かないですね。おとなりの田辺にもあるようです。千葉の浦安とはど うなんだろう?
と思って調べてみました。
 市川よみうりのサイト「海と浦安 江戸からいまへ」に郷土史研究家・前田智幸さんが書いていました。Horutonoki2

 浦安の歴史のはじまり
 不思議なことに浦安の方言は、隣接する江戸や千葉とは異なり、どちらかといえば伊豆七島や静岡の方言に近い。それは西国の漁民たちが黒潮にのって江戸湾の沿岸に住み着いた痕跡でもある。
 大自然が創り上げた土地に最初に住み始めたのは稲作文化を持つ“土の民”であった。そこに漁の技術を持った“海の民”が住み始めた。

 その昔,海人が紀伊のこの地にもきて,浦安にも渡っていった。あながち無関係ではなさそうです。

Horutonoha

 猿田彦というのは,降臨する(亡命?)ニニギさんを助けた国つ神ですね。サルタヒコについては,猿田彦フォーラムというのがあるようで,なかなかの著名な人が活躍しています。それによると,

民俗学の谷川健一氏らは、猿田彦のサルタは琉球語で「先」を意味する「サダル」が転じたものと見ている。この沖縄におけるサダルと本土におけるサルタとの連関は大変興味深い。というのも、猿田彦伝承は、日本神話における最重要の伝承地である日向と伊勢と出雲の三ヵ所に分布しているからだ。つまり、沖縄を起点として、一方は黒潮の流れる太平洋側に、もう一方は対馬暖流の流れる日本海側に猿田彦の伝承地が分布している。これは猿田彦と海人族との深いかかわりを示すものと考えられる。-猿田彦フォーラム-

 市杵島姫神は宗像三女神のうちの一神様ですね。朝鮮半島や大陸への海上交通の平安を守護する玄界灘の神ですね。

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 事代主神は,記紀神話では託宣神として活躍されているようですが,一般には,豊漁,海上安全守護の神,またエビス信仰の神として知られています。早い話が,「えべっさん」。おなじみの大鯛を小脇に抱えた「いいおっちゃん」のイメージですね。これは,事代主神が釣り好きであるという神話のエピソードから連想されたといわれています。
 神話によると,事代主神は,もともとスサノオ系の大己貴神(要はダイコク様)の子です。事代主神は賀茂一族の信仰の中心になる神で,本拠地は葛城鴨都味波八重事代主命神社です。奈良の北にある岡田から「ワニと化して」,木津川・淀川を通って,三島の溝咋姫の所に通われたと伝えられています。このあたりには,溝咋神社(茨木)・三島鴨神社(高槻)があって,三島鴨神社に大山祇神とともにまつられています。
 淀川を下ると今宮戎神社があり,この御祭神が事代主神です。また淀川河口をはさんで西宮神社・石津神社という「えべっさん」の二大拠点があります。
 後には,事代主神は出雲に移動されたようです。国譲り神話には,父・大国主神の代理として武甕槌神と交渉し,国譲りに同意して,自身は美保関に引き籠もられる話が出てきます。
 さらに,事代主神は伊豆で再生して,三島明神として,新たな国作りをされたということです。初め,三宅島におられましたが,順次移動し,最終的に現在の三嶋大社の場所に鎮座されました。
 こうなると,葛城の山の中出身と思っていた事代主神も,元来海人系で,海人ネットワークにのってあちこち行った(というより話が移動していった)ものと思われます。

Kirimemae

 切目王子から切り通しの道を通って町へでました。町の様子は印南とよく似ています。切目橋をわたり切目駅に向かいました。駅前はどこも良く似たもので,お店や自動販売機もあってほっとしました。切符をかうとすぐに電車があるよう でラッキーでした。Kiridoshi2

 午後からの約8kmウォークでしたが,のんびりと4時間,紀伊路の早春を満喫しました。

Kirimegawa

【御坊のなれ寿司】
 電車は御坊までだったので,外に出て,約1時間の特急待 ちです。
1時間待っても天王寺には早くつくんだとか。時間があるので気になっていた駅の食堂にどっかと座り,御坊名物の「清姫一夜寿し」でビールを一杯。やっぱりこれがないと!
 あとで調べてみると,なれ寿司だとか。なれ寿しとは,塩漬けの魚(ここでは鯖)をぎゅうぎゅうに押し固めて空気を抜いた飯の上に乗せ,重しをのせて保存し発酵させるものです。押し固めて重しをのせるのは,空気を出来るだけ抜いて嫌気性発酵させるためだそうです。時間がたてばたつほど発酵が進み,味が変わってきます。近江の鮒のなれ寿司が有名で,シュールストレミング級のインパクトがあって,それはとて も勇気のいるものなのですが,この清姫一夜寿しは気になりません。
 発酵の度合いによって「早なれ」「なれ」「本なれ」とあるようですが、清姫一夜寿しはこのうち「早なれ」ということでした。まあ,柿の葉寿司御坊バージョと思えばよいでしょう。「これは食べると明らかに柿の葉寿しとは違います」という意見もありましたが,もったいないというか,味音痴のボクには良くわかりませんでした。(おいしいのは分かる)

 なれ寿司は完全に照葉樹林文化の食べ物ですね。ということで,紀伊路らしく海人系の話題で通してみました。

Kirimeroad

Kirimestation


(とりあえず終わり)

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2006年8月30日 (水)

紀伊路ウォーク~印南編~

2006年2月17日 和歌山・御坊市名田~印南



【早春の紀伊路】
 紀伊路2回目です。和歌山高専での仕事が終って,例によって,さてどうしようか?ということなのですが,御坊までのバスはあと2時間待ちなのは分かっているので,今回は印南まで,できれば,切目まで歩いてみようという趣向です。

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 お昼ちょうどくらいに和歌山高専前を出発。このあたりは名田小学校とか,農協とか市役所の名田支所とかあって,ちょっとした村の中心地です。
 このあたりには仏井戸とか,熊野古道にちなんだ見所があるはずですが,案内板とかたっているだろうと,ずんずん進んでいきました。が,それらしいものはない。あとでガイドマップをみると,名田支所の手前の路地を国道の方にいくのですが,道標が電柱に隠れてみえないとか!いきなり失敗でした。名田を過ぎて上野のあたりにも,上野王子跡があるはずですが,そんなものあったかな?という感じで,これも通り過ぎたようです。上野漁民センターというのは確認したのですが・・・・上野川河口にかかる津梅橋までいってしまいました。

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【上野漁港】
 まだあまり歩いてはいないのですが,せっかくの海なので小休止することにしました。漁港周辺には漁具置場とか作業小屋くらいしかありません。人家は河口や湾の近くでなく,小高い岡の上に集中しています。多分,水害や津波の害を防ぐためなのでしょう。お茶の調達にコンビニくらいはないかと探していたのですが,ない。多分,これからも,湾の 近くにはないものと思われます。漁から帰還した船がならんで休息にはいっておりました。

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 天気はいいです。風は強いですが,それさえ遮ったらポカポカして温かい。先週の西条に比べたら雲泥の差です。さすが南紀ですから。

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 紀伊路にもどって先を急ぎます。坂を上りきったところに清姫腰掛岩というのがありますが,これもやり過ごしました。なんでも駐車場の中にあるので見落としやすいとのことでした。確かに駐車場はありましたが・・・パス。どうも自動販売機がないか,そちらの方に気が行っております。駐車場につづいて,農協の野菜か何かの集荷場がありましたが,そこにも自動販売機はなし。

【そらまめの話】
 まもなく国道に合流しました。紀伊路は合流してすぐ分かれていくのですが,支線が2つあって,そのうちの国道に近いほうが正しいようですが,一番海側をとりました。といっても数分でまた合流します。濱側橋の手前で合流しますが,海岸のほうに道があったので海を見にいきました。

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 潮も引いているのだと思いますが,このあたり岬の先の磯は,海流に侵食されるのでしょうか,少し遠浅になっています。光が海面にあたって,きらきらしています。これが夕日だったら・・・毎日こんな風景を眺めているとどうなるんでしょう。あの水平線の向うに行ってみたいという気になるんでしょうか?

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 赤い椿はすでに旬を過ぎています。ビニールハウスがあって,その中はエンドウが栽培されているようです。手前の畑にはそら豆が植わっていて,ちょうど花を咲かせている頃でした。

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 ボクのいなかでも昔,母親がそら豆を少し作っていて,ちょ うど春休み4月の初め頃に花が咲きそろうのです。小学校の1,2年の頃だったかと思いますが,そ のそら豆畑に出て,草ひきを手伝った記憶があります。なぜかそれは4月1日で,その日の新聞を畑へもっていって,先生の異動告知欄を見ていた光景を鮮明に覚えています。なんで異動告知欄かというと,ボクにはまったく関係はないのですが,親が教員をしていた関係で,多分ですが,昔の同僚の消息をそれで見ていたと思います。それを無意識のうちに覚えていて,ボクもみるようになったのでしょう。今でもときどき,ああそんな欄があるな,という程度には見ています。

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 そら豆は昔から食卓やおやつ代わりにしょっちゅうでていたので,食べ飽きて,あまり好きではないのですが,春になって,たまにそら豆をつまみながらビールを飲んでいると,あのそら豆畑のことをいつも思い出します。おそらく,そら豆とくると,新聞の異動欄というのがキーワードになってしまっていて,それを媒介にして,4月初めにやっと裏日本の山の中にもきた,春の暖かさや光が満ちあふれた畑や山を思い出す,そういう回路が脳の中に作られたのだと思います。
 エンドウも昔作っていて,同じような感じなのですが,この場合, 5月ころにやった,枯れたエンドウを抜いて畑を整地する仕事があまりしんどかったので,そちらのしんどさの方を思い出してしまいます。

【叶王子】
 紀伊路は,楠井の浜を過ぎると山の中に入ってやや登りになり,国道と合流するようになります。トラックなどが結構通 るので気を使います。20060218_113_2

 小さな峠をこえると上りになり津井というところに入ります。ここには昔は津井王子があったらしいですが,今は移動して叶王子と一緒になっているそうです(と,次の叶王子の案内板に書いてありました。)

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 右手の畑野崎として飛び出ている丘は平地さされて,別荘かなにかの分譲になっているようですが,あまり家は立っていない。会社のHさんが買ったという別荘地はここだろうか?景色は抜群でしょうが,風が心配ですね。

 どうやら左手の小山が叶王子(跡地)らしいですが,道標通 りに行くと民家の軒先を通る感じですが,よいのかな?

Kanouoji_2

 ともかくたどりつきました。小広い公園のように整備されていて,案内板,灯篭,石碑のほかにベンチも用意されています。木々もたくさん残され,マキと思われる巨木もあります。高台にあってあかるい感じですが,静かなところで王子 にはふさわしい所でした。 梅がつぼみをふくらませていました。

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 新しく絵馬掛けが設置されていて,叶の絵馬がたくさんかけてありました。もとあった叶王子神社は別の神社に合祀されているのでご神体はないのですが,地元の信仰はなおあついようで,「おかのさん」と呼ばれて親しまれているようです。
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 東側におりていくと,そこが正面らしく鳥居がありました。そこは,なお高台になっていて,印南港が一望できます。けっこう大きな港で魚もたくさん水揚げされるようです。
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 港の向こう側には特徴的な丸いとんがり?をもった島があります。漁師の人々が目印にする「あて山」とはこれなんでしょう。教科 書通りというか,まったくおあつらえ向きの位置におあつらえ向きの小島があるものです。

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【印南港】
 だいぶんお腹も空いてきたので,とにかく印南の町へ急ぎます。刺し身でもたべさせる食堂かなにかないかと探していますが,閉っています。かなりうろうろして探していますが,コ ンビニもなし。農協のようなところがありましたが,うーん,ちょっと違うような?

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 バス停を確認。御坊行きのバスにはかなり時間があるので,とにかく食事をしながら考えることにします。

Inami_2

 町の中にはいっていくと,数軒のすし屋がありました。適当なところに入ってどっかり座って寿司を注文しました。午後 2時すぎなので,誰も客はいません。電車・バスの時間なんぞを聞きながらのんびりしました。お寿司は若干高めながら,ネタは新しいのでおいしくいただきました。おかみさんの話によると,なんでも神戸から引っ越してきて,やっと商売も軌道に乗ってきたそうです。こんな田舎(失礼)で人も少ないところで商売がうまくいくんだろうか?と思いましたが,仕事を終えた漁師さんたちのたまり場になっているんでしょうか?
 バスや電車の時間もまだだし,時間もまだ早いので,もう一ふんばり,切目まで行ってみることにしました。王子もまだ1つしか見ていないので・・・・

(つづく)

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