ウォーク

2009年7月13日 (月)

市境をあるく(1) 府民の森・ほしだ園地(3)


2009年 7月4日  市境をあるく
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R1061329 ■やっと本日のメインエベント,市境歩きです。12:00過ぎにスタート。東の尾根すぐの所に関電の鉄塔がありました。関電の巡回路になっているようで歩きやすい道です。



R1061331 ■次のピークには巨石が。人も通らない山頂にこういうのがあるとと,ついつい神様の仕業かと思ってしまいます。むかしの人がこういうのを信仰の対象にしたのがわかるような気がします。


R1061333 ■そのピークにはこのような石標が。「講和■」と読めますが,シンニュウの右が読めません。横の板切れには「下田原区 □□○○年」と書いてあって,平成21年の新しいものもありました。講和とは何かの境界紛争でもあったのでしょうか?

R1061338 R1061339 R1061340 ■快適な尾根道を歩いていくと,またありました。巨石と「下田原区 □□○○年」の板切れ標柱。

R1061343 ■また関電鉄塔が現れました。おかしいなと思いつつ,電線を左に見て進むはずと思い,そのまま進行しましたら・・・・また巨石が。それはいいんですが・・・・



R1061345R1061346R1061347    うやら,ちがう方向に下るようです。木々の間から管理道が見えます。道が違うらしい。しかしながら「大阪府」の境界標があります。どうも,あまりに快適すぎて地図をみるのがおろそかになり,まっすぐ関電道をきてしまったようです。本来はさっきの第2の板切れ標柱のところから東の尾根を行くのでした。が,東への道が分からなかったし・・・

R1061348■引すのも面倒だし,エイヤでこのまま降りていきました。降りてみると2番めの線が2つに分岐していて,写真の右の電線の左に見ていけばよいと思い込んのでした。あとで考えると大阪府の標柱は境界標でなく府民の森の境界標かな?と。すっかりだまされました。だいぶ勘が鈍っています。

R1061353いうとで,ほんの200mくらいで市境歩きが終了。降りきった管理道のところでぐったり休憩しました。しかし,市境の様子もうかがえたし,まずまずとしましょう。
 ここはせせらぎの路の分岐でもありました。案内板をみていると,市境
歩きもよいが,おおさか環状自然歩道で能勢から紀泉高原までのルートもおもしろいなと思うようになりました。これは歩きでがあります。果たして歩くのか?

初日のマップ


より大きな地図で 市境をあるく を表示R1061343_2

(つづく)

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2009年7月12日 (日)

市境をあるく(1) 府民の森・ほしだ園地(2)


2009年 7月4日  まつかぜの路
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Hoshdaenchi_2 ■別のところで写したほしだ園地の全体像です。今からまつかぜの路を通りますが,Gppgleマップのルートはこの案内図から地図に落としたので不正確です。正式なマップは公園案内所で売ってますし,(財)大阪府みどり公社で通販もやってくれるようです。
P1080554_2 ■やまびこ広場から看板に沿って入っていきます。ちょっとのぼってすぐ平坦な路になります。



P1080559_2入ったところは春先にはツツジがたくさん咲いていました。20年前の話です。今は木々が茂ってツツジは少ないようです。ミツバツツジ再生プロジェクトの看板も建っていました。


P1080558_2 ■巨石。いかにも人工的にスリットを入れようとした感じがします。いったい誰がどうしようとしたんでしょう?



R0011319
このルートはほぼ忠実に等高線に沿っていますのでアップダウンはほとんどありません。その分沢の奥まで入って行きますのでカーブがやたら多い。そのうち地図で確認できなくなりました。おっちゃん5~6人の団体と抜きつ抜かれつでした。


P1080565 ■20分くらいでやまびこ広場-飯盛霊園の中間点につきます。ここで一服。おっちゃん達が抜いていきました。


P1080561_3 ■ここの案内図がどうもおかしい??ここでこもれびの路と合流します。



P1080572_2 ■少し先でじょうりょくの路が分かれます。合流か?




P1080573_2 ■あいかわらず快
適な路が続きます。




Reienbunki_2 ■飯盛霊園への乗越点です。やっと市境に到達。西側のピークには道が続いているようです。このままゴルフ場の周
囲を回っていてくれればいいんですが,その探索はまた後程。昼食休憩していると,またおっちゃん組が追い越していきました。さらにカップルも1組。結構ほしだ園地に入っている人もあるようです。
(つづく)

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市境をあるく(1) 府民の森・ほしだ園地(1)


2009年 7月4日 妙見さんからほしだ園地
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 ある人が,ボクの故郷A市の市境を歩いて「市境を歩く」というサイトを作っていて,それを読んでから,いつかやってみたいと思っていました。ちょうどボクの住んでいた近辺も歩いていて,「うーん,あるある」とか「へぇー,そんなものがあったのか」とか,A市の,主に昔を再認識したり,新しい発見があったり,なかなか斬新なサイトでした。
 できることならA市の市境を歩いてみたいのですが,遠いし,第一,むちゃくちゃ広いんです!・・・という訳で,今住んでいるK市(伏せることもないのだが)を歩いてみようと思います。
 前口上として,住んでいながらよく知らないK市を知るとか,ウラからK市を眺めてみるとか,もったいぶった理由をあげてみるんですが,そんなことにとらわれず,(もちろんそれはあるにせよ)粋狂!でブラブラと歩いてみることにしたい。

 第1回(初日)は府民の森・ほしだ園地から市境の探索です。粋狂とはいえ,地図を見るかぎり団地やゴルフ場,その他の開発があって,市境といっても果たして歩けるのか?その感触を得ることが必要だし,ほしだ園地には「星のブランコ」がずっと前にできていて,まだ行ったことがないので,そこに行くのも目的の一つです。また,長いブランクで「地図を読む」感覚が確実に鈍ってきているので,その勘を取り戻すこともやってみたいと思います。
http://www.osaka-midori.jp/mori/enchi/hoshida.html


R0011256 ■星田妙見宮,ここから出発です。七夕祭の幟がはためいています。なにしろ降星伝説の地ですから。詳細は星田神社のサイトを見てください。七夕が終った後も「星降り(ほしくだり)祭」というのがあって,これは降臨の日といわれている7月23日だそうです。近くにいながらこれも見ていませんね。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~monarisa/hoshida/index.htm
R0011259 ■妙見宮の鳥居の横の妙見川左岸をのぼって行きます。バス道を越えてまっすぐ。この左には妙見東の住宅地があります。星の形をした星の池公園が地元の方々の手で作られています。NHKTVでも放映されたとか。


R0011264 ■この石橋をわたるとその妙見東住宅地に行きます。逆に,妙見川を遡ってきた道がここで妙見川を渡るのが元々の姿。これは地名にもなっているようです。
交野の地名といえば「ふるさと交野の地名」が必見ですね。http://www.eonet.ne.jp/~yumesite/timei/index.htm
それによると,妙見川の上流にある報徳寺、恩雨寺の行場の場所から下、妙見東三丁目の入口付近までを「石橋」と言っている,とあります。

R0011266 ■その報徳寺、恩雨寺の行場(滝があります)へは下の道,ほしだ園地は右の坂を登ります。これはまた、廃小松寺への参道ともなっていたようです。



R0011271 ■最後の沢を渡り小さな峠を越します。この左手に滝があります。




R0011273 ■ゆるやかな小さな谷を上っていきます。この谷は上流で東へ振りますが,元禄の頃まであったという小松寺(廃寺)への参道の一つでした。



R0011279 ■谷みちから外れてピークを巻くようにしてのぼっていると府民の森ゲートがありました。最初はなかったんですが,多分「星のブランコ」ができてから作ったように思います。こうでもしないと自転車でのぼってきて走り回る者がいるようです。ま,それはおもしろいんですが,ここは歩く道ですから・・

R0011282 ■ゲートをくぐってすぐに道標があります。左へ折れて管理道をいくと星のブランコです。
なお,真っ直ぐが元来のハイキング道ですが,後述の理由であまり行かないようにしましょうね。


R0011287 ■尾根筋の道を少し下ると,おお!見えてきました。これはなかなかのものです。昔,建設中の様子が国道168からも窺えました。当時は「何でそんなものを」と思っていましたが,実際に見てみるとなかなか自然にもマッチしているようで,いいと思います。

P1080536 ■真中あたりにいくと・・・手ぶれが心配な位にゆっくりと揺れます。真下をみるとさすがに恐いです。東側遠くにはピトンの小屋(ほしだ園地管理事務所)の屋根が見えています。見渡すかぎりの豊かな森!

P1080545 R0011293 R0011303 ■反対側からみたところ。梅雨の中休みのむし暑い日ですが,ここまで来るとかなり涼しいです。まだ10時過ぎですが,結構人通りがあります。
話がずれますが,R10てのは色が悪い!かなり調整を要すようです。

P1080551 ■元に戻って,元の尾根筋を行きましたが,こんなところにでます。下はやまびこ広場で格好の休憩場所です。どうしてもこのズレを降りてしまうので,おとなしく管理道を行ったほうがよいと思います。20年程前は斜面に草が生い茂っていて段ボールで草滑りができました。小学校の体育授業かなにかの遠足で草滑りに行ったくらいですから。今はちょっとひどい状態なので,ここを通るのはやめましょう。

(つづく)

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2009年6月23日 (火)

細切れ道草・高野街道(2) 柱本-橋本

2009年5月15日 その4
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【一路南下】
P1070944  国道には歩道があって、歩きやすいですが、ウルサイ。けっこうな傾斜です。護岸の補修ができているようですが、川は道路に沿って真っ直ぐ。大雨の後等は真っ直ぐ、走るようにして流れるんでしょう。多分ですが、このあたり雨が多いように思います、紀伊半島南面ですから。小さな川でも大雨のあとは大変なんでしょう。傾斜があるので曲線にせず護岸を固めるほうよいのいかもしれません。
 川の右岸が旧道のようです。
(13:22)左岸の山の上には大きな団地があります。紀見ヶ丘。
P1070948  紀見峠駅への分岐にきました。(13:29)紀見峠駅付近は地名は矢倉脇といいます。5万分の1の古い地図にはそう書いてました。しかし、Googleマップには載っていないんです。このあたりがちょっと不便。

P1070950  ここには、たこ焼き屋があって、ソフトクリームの看板に誘われて寄ってみましたが、残念!やってなかった。土日休業はしかたないにしても、開店が15時から21時とは?しかたがないので、自動販売機でジュースを買いました。ここでベンチに座ってのんびり10分ほど休憩しました。同類のおじさんがこちらをみいみい通過。
 目の前には向う側(国道)を向いた石碑があります。護岸工事を機につけかえましたか?石碑には「養叟(ようそう)和尚旧跡 是より西八丁奥 矢倉脇に阿里」と彫ってありました。案内板を呼んだ訳ですけど。一休和尚の法兄らしいです。

P1070951  紀見峠駅への道が西へ通じています。なかなか感じのよさそうな細いみちですが、県道です。こっから帰ってもいいんですけど。


P1070952  その登り口に左へ折れる道がありました。いかにも旧道そうです、勘では少し先で橋を渡って旧道入口につながってそうです。本道は国道歩きになりますし、こちらに入ってみました。(13:34)

P1070955  途中まではなかなか良かったのですが、アウト。川の工事をしていました。残念ながら引き返しました。失敗!これは振り返って川上を見た写真です。


P1070956  南海電鉄も崖にへばりつくようにして鉄橋を渡しています。




【段丘の道】

P1070957  いったん国道に戻り数分で旧道入口にきました。(13:46)口にはお堂がありました。先程の田んぼの中の道は橋があると、ちょうどこの旧道入口に入るはずだったんですが。お堂の向こうには紀見ヶ丘の住宅地への入口。大きなニュータウンクラスの住宅地です。
P1070958  山裾の道は左の山のほうに向かう道と分かれます。ボクは右に行きましたが、左の道が正解のようです。




Map_2  古い5万分の1の地図にはちゃんと道が書いてありました。しかし、400*300pixの制限では小さすぎてよく見えない。きちんと許可を取って、ということなのでしょう。
 このあたり慶賀野といいますが、とても「野」とは思えないです。かなり高い段丘の上に街道があります。
 
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※国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版,昭和6,7年測量,要部修正測量昭和33年)から転載。



 道
P1070960P1070963の蔵も見上げる感じで石垣の上に建っています。ここは、少し行くと国道に合流する地点ですが(13:49)、その国道の右下はまっ逆さまに落ちそうです。下の段丘の千枚田風の田んぼには田植えの準備ができていました。
タニウツギの花が咲きはじめています。

P1070964  川は谷の底をさらに深く堀りながら流れています。川向こうは林間田園都市。この谷の深さをみていると、林間田園というようなのどかな感じはしません。このあたりはもう大阪通勤圏なのでしょう。難波まで1時間以内で行けるようですので。

P1070965 P1070966   国道の左の台地の崖には水路が作ってありました(13:53)。まだ現役のようです。その先の台地の上は田んぼになっているらしく、そこまで水を引いて農地にしています。そこを旧街道は通っているはずです。昔から、急峻な川に沿った大地に、かなり手を入れて農地を作ってきたことがよく分かります。

P1070968  道路脇にはみごとなサボテンのある家がありました。(13:58)




P1070969 P1070970trim  「南無大師遍照金剛」の石碑が現れました(14:02)。五里石です。詳細は看板を見ていただくとして、危なくて正面から写真がとれない!

【橋谷の道】
P1070972 しばらく国道歩きが続きます。大きな陸橋が見えてきた手前に右に入る道がありました(ここ記憶が曖昧ですが、地元の方が2人ほそ農作業をしておられた記憶はあります)そこに入ったと思います。橋をくぐって坂を登ります。この道が旧街道のようです。
P1070974
Danjiri ふりかえると、あら ら、だんじり庫が、橋谷と書いてありました。


 

P1070978 P1070981
ここから旧街道らしいのどかな道が続きます。



P1070982c  幼稚園のおかえりの列にあいました。声は小さかったけど「こんにちは」と、あいさつをしてくれました。この一言で一瞬にしてこちらの気持も変るもんです。なんだかウキウキしてきました。先生も「よくいえたねーえらいねー」日ごろからきちんとした躾をされているようです。少し経ってから思い出して、先生と幼稚園生に敬意を表してパチリ(14:14)。

P1070985trimjpg  紫蘭。石垣に生えている小さな花が気になったので写してみましたが、両方は無理でした。




P1070988 P1070991  石垣には小さな祠と御地蔵様が・・・これをみているとやはり巡礼の道という気がします。



 突き当たると御辻ですP1070995(14P1070997:24)。

 おことわりですが、写真は振り返り写真です。手前が橋本方面になります。ボクの撮る写真は振り返り写真がかなり多いです。通り過ぎて、あっと思って振り返って撮る、これが半分以上だと思います。御幸辻とは由緒ありそうな地名ですが、検索してみると、不動産物件情報が大半でした。大阪に通っている人が増えているんでしょうね。
  ここには神社があって、牛頭天王社です。立派な神社ですが・・・紀州はスサノオ系ですね。

【橋本への道】
P1080002 P1080003  さてここから地図がさっぱりなくなります。5万分の1の地図がここで切れるんです。あとは勘で動きます。とりあえず、ここから下っていき国道に合流します。(14:30)

P1080007cut  しかしながら、数分で飽きてきました。右に入る道があったにので行ってみました。農道のようですが、辻にはちゃんと祠が作ってありました。(14:35)
 古い街道がどこを通っていたのか分かりませんが、遠くに見える南海電鉄の車庫の手前にこんもりと茂った森がありまして、なにか神社のようです。あとで地図を確認するとそこも牛頭天王神社でした。この麓まで迂回するように道が走っていたのいかも分かりません。かもです。

P1080009trim  とにかく農道を南下していきます。いったんは国道に戻りましたが、すぐにまた脇道に。国道24号の橋をくぐって(12:43)、結局はまた元の道(国道は橋本市街を迂回するように新しい道を走っています)に戻りました。
 この道は、川沿いの両側から山が迫ってくる隘路のような、ちょっと寂しいところを通りますがこんなところを旧街道は通ったんでしょうか?地図を見ていると右手の山の上、南海のトンネルのちょうど上には太子堂とか、それにつながる門前街?のようなところがあって、そこを通ったのかも知れません。


P1080011P1080012 まもなく南海電鉄をくぐります(14:55)。ここからすぐに橋本の駅です。南海とJRが改札を兼用していました。南海の特急は出た後で、急行のほうが早くつくというので急行にしましたが、新今宮まであっという間でした。大きなニュータウンができるはずです。


 これでとりあえずはおしまいにします。が、ここまできたらどうせなら高野山に歩いて・・・ということで現在調査中です。町石道というのが人気らしく、ウォークというよりも登山に近くなるのでしっくり構えて調べたいと思います。さて、いつになりますか?

(とりあえずおわり)

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2009年6月22日 (月)

細切れ道草・高野街道(2) 紀見峠越


2009年5月15日 その3
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【もと宿場街】
 紀見峠には江戸時代に紀州藩の番所が置かれていて、旅籠や茶店が軒を連ねて高野参りの人々で賑わっていました。今はその雰囲気はあまりありません。大正時代に鉄道ができて峠の下を通り過ぎていきます。旧国道も峠越えをしていましたが、昭和44年には紀見峠の下をトンネルが開通して、人の往来も途絶えたようで、旧街道筋は静かな山村になっています。

P1070882 P1070883P1070892



のお家の庭先を通るような感じで恐縮しながら通っていきました。

P1070884  庭先からは紀州の山々が望めます。まさに紀見峠ですね。
昔から、なぜか高台の家が好きで、それもマンションとか、高台の新興住宅地のような場所でなく、まさにこういう感じの家なのです。TVコマーシャルで以前あった、キリン一番搾りの「加賀太きゅうり」編にちらっと出てきたあのお家のイメージです。そのスクリーンセーバーを今も入れていますが・・・

P1070897  紀見峠ですが、書き忘れたことが・・・峠にあった「歴史街道」の派手なグリーンの標柱には「紀伊見峠」と書いてありました。紀見峠?昔は紀伊見峠たっだの?気になります。ここには喫茶店というより峠の茶屋がありまして、丹波屋さんといいます。昔からの茶店かと思ったら比較的最近開店されたんだそうです。ここの看板に「紀伊見峠宿」とありましたので、正式にはというか、昔は「紀伊見峠」だったのでしょう。峠の字が挿入されているのはご愛敬です。
 入ってみたいんですが、残念ながら営業は火・土・日で今日は金曜日です。平日からプラプラ歩いているものはおらんやろ。
 林間田園都市行きのバスの便もあるようで、日に5本も!
 7:19、 9:34、12:48、17:13、18:35
 これは我々旅人にも便利だと思います。

P1070899   丹波屋さんのお家は茶色のトタン屋根の家ですが、崖の端に建っていて、南側がすぱっと切れ落ちています。眺めは抜群なんでしょうね。

P1070900_2 P1070901  だらだらと坂を下って行きます。下には旧国道も見えますが、あのあたりにバスあるのか。結構高い所を街道が走っています。地図を見てみると峠から南に延びた尾根がやや平らになっていて、そこに街道が走り宿場が発達したようです。

P1070905cut  白壁の蔵。壁にデザインされている文様は何を表わしているのでしょう。軒下にある@みたいなデザインも気になります。


P1070908  署名のところが読み切りません。誰の歌碑なんでしょうか?




P1070910  土塀の道。




P1070895 まわりには花がたくさん。のどかな山村です。




【快適な下り】
P1070911  強烈なヘアピンカーブを過ぎると下りになります。宿場もここで終りのようです。



P1070917  坂は旧国道を横切ってさらに降りていきます。現在12:59。しばしタバコ休憩とします。




P1070921 P1070922  ここからの道もよいので快適に下っていきます。



P1070927cut  5~6分下って、ちょうどいやになったあたりが坂を降りきったところです。そこはちょっとした広場になっていて、祠がありました。阿弥陀如来様をお祀りしたものでした。祠は新しいですが、昔からあったものだと思われます。ちょうど坂を降りきって、高野山へ行く旅人が、「やれやれ無事にこれられました」P1070928 と手を合わせたに違いない。また、高野山から帰る人は、「これから峠越えなので、どうぞ無事に越せますように」と。その前にはタケノコがにょっきり顔を出してました。


【陽光の紀州】
P1070931  紀見峠を越す頃からうすうす感じてはいたんですが、紀州側は明るい!河内が暗いということではないですが、紀州=南国というイメージがあって、さらに、この坂は南面を向いているので太陽がさんさんと当たります。現在13:10、ちょうど日の高い頃です。それに、峠の南面は尾根に挟まれていないので視界が拡がります。このあたり、まだまだ高度は高いですが、土地利用が進んでいるのか、高いところまで果樹園や畑が作られていて、里に降りたなあという感じが強くなります。新しい住宅地もここまできていました。
 
P1070932  紀見峠
駅へは右に山裾を巻くように峠一つを越えるとあります、途中はすでに住宅地になっているようでした。あとで地図を見ると「光陽台」。


P1070935 P1070936  ゆるやかな斜面に柿が植えてあります。久しぶりに柿の花をみました。花はちょっとさえないですが、秋になると立派な実になると思います。

P1070938  これはレモンでしょうか?さすがに暖かい地という気がします。




P1070940  振り返ってみると峠付近の山にさんさんと光があたって緑が耀くような感じです。やはり明るい紀州という感じがします。



P1070942  シブイ廃屋と思いきや、どなたか住んでおられるようでした。



 こんな感じで、明るい緑の中をのんびりと下ってきた峠でした。時間にして30分ほどであっという間に終るんですが、まことに気持のよい峠でした。紀見峠という地名、峠名はあっても、この坂道には名前が付いてないんでしょうか?○○坂とか。駅から2里くらいですが、柿の木坂とか・・・後日地図をみていると、もう少し下っていった御幸辻のあたりにありました。柿木坂。

P1070943  トンネルを出てきた国道と合流して、峠越えは無事に終りました(13:16)



(つづく)

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2009年6月18日 (木)

細切れ道草・高野街道(2) 天見-紀見峠


2009年5月15日 その2
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【豊かな山村】

P1070775  河内天見の駅からも遊歩道が続いていますが、旧道を目指して、出合ノ辻でいったん国道に入ります(11:31)。たこ焼きが気になりますが・・・

 まもなく山側に入る小道が分岐し,ここが天見の古街道のようです。おお、これはすばらしい。気持の良い道が続きます。が,ほんの5-6分で終了。 この街道筋の石垣の上にあるお屋敷、
れはP1070779P1070781P1070784rすごいです。大きさもですが、その土塀の朽ちようがまたななかよろし。
 
 ここ
から国道を渡って、島の谷の信号から分かれた街道を行きまP1070786P1070789P1070791す。(11:38)。天見は静かな山村です。正お家はすごいお敷でした。先程のお屋敷といい,山村とはいえ,立 派なお家が多いです。豊かな村という感じがします。

 坂を登っ
ていくと,遊歩道に合流します(11:44)。遊歩道がここで終りなのは,南海電鉄はP1070795ここから先は紀見峠P1070798の長いトンネルに入るP1070800のです。今の線路はこのすぐ下をトンネル通っていますが,この出合いのところはトンネルの切れ目でした。ちょうど波行き特急が通っていきました(11:50)。

 すぐ傍
には蟹井神社というのがあり,登ってみました。結構大きな神社でしたがひっそりとしていました。天喜2年(1054年)創建と伝えられ,祭神は神武天皇,応神天皇,神功皇后です。何度も焼失しているようです。
P1070799 P1070803 P1070805




P1070816  このあたりが天見の集落の終りのようです。東の谷に道が続いていて、この奥に島の谷の集落があるようです。



 12:05、街道に復帰しました。ここからトンネルの手前までは歩道がついているP1070819 ので楽です。数分で古い変電所にきました。この街道を歩く街道ウォーカーさんたちのサイトには必ずといっていいほど写真が載っているアレです。なるほど、絵にはなります。


P1070826trim  12:13、旧国道との分岐にきました。今の国道はこれから紀見峠のトンネルをくぐります。旧国道は右に折れて谷を回ってきてからトンネル上のコルを越えていきます。しかし、そこが峠でなく峠の入口。本物に峠はまだまだ先のようです。旧街道は・・・・・分かりません。地図を見ているとトンネルのある正面の谷はそう急峻でなく、沢沿いに行けそうな感じはします。
 トンネルの上には「橋本の柿 味は日本一」という大きな看板が。そうか柿の名産地ですね。
 歩行者は旧国道を登っていきますが、分岐には山野草の移動販売車がきていました。その向こうには小さなお店(これも臨時売店?)がありまして、果物を売っているようでした。さて、旬の果物は?

【イタド
P1070830リの道】
 旧国
道はトンネル入口の上を通ります。そうか、橋本は世界遺産の玄関口でもあるんですね。この道は広いうえに、あまり急でもなく何も通らないので、まことに気持のよい道です。まれに山菜採りの車が通るくらいでした。2台出合いましたが、何を採るんでしょう。見たところ、ワラビやぜんまいは既に峠を越しています。イタドリもありましたが、これも大半はトウが立っている。
P1070848  イタドリは漬物や佃煮にするとおいしいです。そのままでも食べられますが酸っぱい。子供のころは春になると山に入ってこれを取って食べるのが楽しみでした。おやつ。ただし食べ過ぎるとお腹が痛くなります。たしか蓚酸が入っているんだったか?なので、料理する場合でもあく抜きが必要です。縄文食の一つかと思います。
 茎は中空になっていて、若いものはポキンと小気味良く折れます。写真のものはもうい大きすぎます。子供のころ、「茎の中には子蛇が入っているのがある」といってさんざん脅されました。が、そんなハズはない。食べ過ぎるなという戒めだったんでしょう。
 イナカにに帰るたびにこの佃煮を作ってもらったお隣のSさんも今年亡くなってしまいました・・・イタドリを見るたびに思い出します。
 小さめのもの折って、皮をむいて久しぶりにかじってみました。コリっとした食感ですが、思い出しながらこの文章を書いていると口にツバがあふれてきました。

P1070839  坂は谷をぐるっとまわりながら、ゆったりと登っていきます。崖のところどころにこんな巣箱みたいなものが?あちこちにあります。何かの道具箱かとその時は思いましたが、それにしてはたくさんあります。あとで調べてみると、蜜蜂の巣箱なんだそうです。ほんまかいなと思いますが・・・ハチたちはいったいなんの蜜をねらうんでしょうか?そばにウツギ(?)の花は咲いていましたが、これでは少ないだろうし・・・・
P1070842  ウツギとはウノハナですね。「うーのはなーの香う垣根に、ホートトギース今も来鳴きて・・・」というあの花です。空木と書きますが、枝の髄が中空のために名づけられているとか。ウノハナとは卯の花で、卯月に花が咲くからとも言われているようです。楊枝にするらしいですが、そうそう、天見は楊枝の産地でもあったんです。夏は来ぬ。
 このあたりは沢も源頭になり、ほんの数にわずかながら水が流れています。十分登ってこれる沢ですが、ブッシュです。多分、旧街道はこの沢を上ってきたのではないかと思います。

【紀見峠】
P1070853  そうこうするうちにダイヤモンドトレイルの道標が見えてきました(12:36)。
 ダイヤモンドトレイルは、和泉市の槙尾山施福寺-岩湧山-紀見峠-葛城山脈ー金剛山-葛城山-二上山-香芝市・屯鶴峯までをむすぶ総延長45~50kmの長大な縦走路です(自然歩道か)。長さは六甲全山縦走に匹敵し、それよりアップダウンは激しいと思います。六甲よりも親しみを感じます。六甲は都会ですから・・・
 実はここは部分的に歩いているんです、紀見峠から葛城山を経て御所まで。ダイヤモンド
P1070854トレイルという名称の始まる前か、始まったころのお話しです。しかし、もう全然記憶がありません。前に書いた富田林の先輩の家にお邪魔してから、天見から歩いてどこかの集落を過ぎて山に入ったところでテントを張った記憶はあるんですが、この分岐まで来たのかどうか?それが記憶にありません。今現地にきてもで す。道はこんなだったかなあ、杉P1070859林の中の快適な道は覚えています。一番記憶に残っているのは久留野峠です。ここも杉林の中の静かな峠で、谷からさっと涼しい風が吹いてきたのを覚えています。ここで高野街道と交差してるんですね。もう少し先に行くと岩湧山への分岐がありました。
 
 ここま
P1070864でくると紀見峠はもう目と鼻の先です。1P10708672:40峠着。P1070866




P1070871 いろんな道標、標柱が 建っています。府県境の標柱もだいぶ省略していますね。とりあえず、可とします。
 びっく
りしたことに、峠のさらに上の高台に民家がありました。400mはあると思うんですが、さすがに紀の国、そんなに寒くはないようです。

P1070873
P1070876cfut   旧街道の峠は看板の後ろの坂を登ったところにあります。明るい峠です。六里石、岡潔生誕の地、後ろの看板は峠松の説明板でした。ここにも民家があります。岡P1070879潔というのは明治あP1070878たりの歴史上の人かと思ったら最近の人なんですね。数学者。



 や
やれ、やっとひと仕事終えた感じです。が、橋本まで 9kmというので、5分く らいの休憩として歩きはじめました。

(つづく)

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2009年6月17日 (水)

細切れ道草・高野街道(2) 三日市-天見


2009年5月15日   その1
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 さてゴールデンウイークの喧騒もおさまって,三日市から橋本まで歩きます。
 新今宮経由で南海高野線に乗換え9:30ころ三日市町。河内長野までは急行なので結構早かったです。しかし,朝はやっぱりコーヒーということで,駅前のフォレスト三日市の喫茶店があいてところだったので,まず休憩。いろいろ用事をかたづけました。ビル横の入口にはツバメが巣を作っていて,大きくなった雛が押し合いへしあいしておりました。落ちそうだ!

【石仏の道】
P1070707  街道を歩きはじめてすぐ,橋のあたりに八里石があったはずですが,エンジンがかかったところで見落としました。写真は橋を渡ってしまったところ。(9:55)

 
 街道はすぐに国道371号に出合い,ここからは国道歩きです。371号は西にも走っていますが・・・幸い今日は車が少ないです。新町橋を過ぎて少し歩いた所に,右の山の中に入る道がありました。ここが旧道のようです。(10:08)

P1070710  まもなく陸橋で国道を渡ります(10:10)。石仏北ランプで2本の371号線が合流します。青い看板には「橋本まで16km」の文字が見えます。峠越えとはいえ,16kmならゆっくり行けると思います。

P1070713  前方を見ると,国道筋の喧騒とは打って変わった静穏。ずっと山並みが続いて,遠くに岩湧山が見えます。この落差感覚はおもしろいです。


P1070715
 道はどんどん登っていき,石仏の村に入ります。のどかな村です。きれいに田んぼの岸の草刈りがされています。田舎へ来るとこのような日常の手入れが行き届いているので美しいのです。だいたいはご主人が農作業の合間にやるか,おじいさん,おばあさんがやるP1070716ですが,この景色をみていると働 手は足りているように思います。高齢化して限界集落のようになってしまうと,働き手がなくなって荒れてきます。ここはまだまだ大丈夫のような気がします。


P1070717  分岐(10:17)。この坂を降りるとまた国道に合流します。右に行くと石仏寺のハズです。



P1070719  ここから4~500mくらいは国道歩きです。歩道がないうえにトラックがかなりのスピードで追い越していくので危ないです。これは歩く気がしない。つぶれたドライブインのすぐ先に農道のような道があって,迷わずそちらに入ります。(10:23)

【岩瀬の村から】

P1070722   歩きやすい道が続いてきます。そろそろ田植えでしょうか。苗が元気に育っています。

 田んぼの準備ができています。岸がきれいに刈り込まれていま。もう数週間したら田植えになって,そのころきたら岸にはきれいに草も生え揃っているんでP1070723しょうね。(10:30)

 このあたり清水から岩瀬の集落に入ります。(10:35)
あとで
地図を見ていると(歩いている今持っているのは5万分の1地形図),このすぐ山のは美加の台のニュータウンです。そこは横文字の建物が多くP1070726て,南海アーバンコンフォート,南海ーバンパレス,デイリーカナートイズミヤ,お医者さんも○○医院でなく○○クリニック・・・・片や,岩瀬の棚田に田植えの準備,岸の草刈り。しかもこの位置関係だとお互いが見えない,その存 在すら分からないのでお互いの交渉もまったくないのでしょう。このギャップ,いいのか悪いのかよく分かりませんが,昭和30年代以降,このギャップをどんどん増幅させる一方だったのでしょう。ときたまボクみたいな物好きがふらっと迷いこんでくるくらいなんでしょう。
 田舎の良さはじっくり構えてあまり急激に変らないことだと思っています。,しかし,余裕を持って平気で変らないの
P1070730か,それとも,変えないために,苦しい中必死で持ちこたえているのか,?この付近の様子がよく分かりません。家並みを見るかぎりでは余裕があるような気がします。ここの強みは大阪に近いこと。河内長野まで出れば急行で40分で都心というのは強みです。近くには大きなニュータウンもあるし。これを活かせばP1070732iwaseこの地の農業や(林業も?)あるいは文化面でも,イナカはイナカの良さをウリにしてじっくり構えて将来設計していけるのではと思います。近隣のニュータウン住民との接点を作っていくことが将来設計のきっかけになるのではと思います。

P1070737  まもなく千早口の駅です(10:50)。ここに喫茶店がありまして,よっぽど入ろうかと思いましたが・・・喫茶店というより茶店の感じでよかったのですが。駅前にはたばこ屋さんもあって,お菓子やパンは売っているようです。ペットのお茶を補給しておきました。
 ここでタバコ休憩。休憩していると同じ風体のおじさんが歩いてきました。峠越えのようですが・・・

【南海高野線・廃線跡】
  駅前の道をまっ過ぐ行くと,あれれ?行き止まりです。民家の庭に侵入してしま いまし
P1070739た。しかたがないので線路際まで迂回するようにして歩いていきます。まも なく車道に当たりますが(10:55),まっすぐ川の右岸を行く道もあるようです。これは天理教の教会の中を通るようだったのでパス。陸橋の下に旧道らしい道があったのでそちらに行きます。

P1070738 あと調ると,天理教前の道は国道の危険をさけるための遊歩道兼生活道路(通学路?)のようで,天見までずっと続いています。丘の中腹にみえる,柵をしているところがその道です。

P1070743 いろんなサイトを見ている,これはもともと,南海高野線が単線軌道で運行していた頃使用していた線路跡で,その 廃線跡を利用して遊歩道にしたものだそうです。


  ふと思って,ボクが持っている国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版;なんと測量は昭和6,7年,要部修正測量昭和33年!!。掲載地図参照
※)を見ると,おお,高野線は紀見峠直下までトンネルなしで運行していました。そのラAmami_3インをみると今の遊歩道にぴったりです。とすると,石仏を過ぎて国道を外れて入った農道みたいなところは線路跡を横切ったようでした。この旧線路跡をGoogle mapの方にも赤で書き込みをしておきましたが,一部不明なところがある。5万 分の一地形図をルーペで拡大してみましたが,やはり細部は分からないところがあります。
 あとで鉄っちゃんのサイトを調べると,さすがにキチンと踏査したレポートがありました!
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※国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版,昭和6,7年測量,要部修正測量昭和33年)から転載。測量法29条,国地達13号承認取扱要領2条の規定による。


より大きな地図で 高野街道 を表示


 柵といえば,イノシシとか出るんでしょうか。うちのイナカも同様で,山際の田畑の境目にはずと柵をはり巡らせて,電流も流しているんで危ないです。写真をよく見ると畑の野菜みたいなものにカンレイシャがかぶせてあります。

【おおもうけの話】
P1070744 14.何かお堂があると思ったら,それは「松明屋」という元お店でした。弘法大師にゆかりのあるもののようで,看板(由緒書き?)に説明がありました。が。全部は読めない!河内長野市ホームページ「河内長野市には,弘法大師直伝のちまきを売って,大儲けした人がいた!」というタイトルで解説がありました。
http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/gyoumu/topics-list_09.html

ChimakiP1070750P1070754   そよると,戦前までは弘法大師直伝の粽(ちまき)を作って売っていたそうです。それにしても瓦はきれいだし,建物も傷んでいない。トユに至っては新しく改修した形跡がある?最近でも,毎月二十日の夜に月並祭を行い,大師を祀り,色餅をついて供えているというので,近隣の人やゆかりのある人が維持しているんでしょうか?
P1070748  建物の前にある「おたいまつ」の石碑には,
  施主 大阪 北い組 
   明治二十八年五月建立 (5月と読める)
と彫ってありました。北い組とは大師講のようなものか?相当人気があったことがしのばれます。
 この家の軒に松の古木があって,大師にまつわる伝説が河内長野市のサイトに紹介されていました。
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大師が京へ散内するとき,高野山を丁度子の刻に松明を照らして出発し,道中ここまで来たところ,夜が明けた。この家で休憩をした空海は,お礼に粽(ちまき)の製法を教え,松明の燃え残りを軒端の地上に突き立て出立したが,不思議なことに,この松明が芽を出して成長し大木になったと言われている。
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写真にある切り株がそうなのか?現在三代目だそうです。

 そうそう,道中で思い出しましたが,前回。京や大阪から高野山までお公家さんはゆっくり,と書きましたが,どうも違うようでした。もっと強行軍のようで,50kmくらいは歩いたとされています。四天王寺-九度山慈尊院を1日で歩いたようです。馬でしょうけど,お付きの人は大変だ。失礼しました。
出典:http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/gyoumu/topics-list_10.html

P1070757   石垣に紫蘭(11:01)。まことに美しい日本の5月。この先で国道に合流します。
橋の傍には家があって,登っていく道もありましたが,庭に侵入しそうなのでやめました。ここから先,歩道がないので,国道歩きは正直危ないです。しかし,少し先には七里石もあるので注意しながら歩きます。

P1070761  5~6分で七里石がありました。車がびゅんびゅん通ります。しかし,電柱を何で傍に立てるかなあ?(11:08)



P1070763  遊歩道に行こうとしたが,アクセスする道は工事中でした。遊歩道も工事か?(11:11)



【天見の村】
 少し行くと視界が広くなってきました。天見の村です(11:15)。ここは分岐になっていて,地図をみると山の上に関電の施設があるようでした。ここでタバコ休憩。対岸には細いみちがありましたが,あれは旧道か?
P1070769  天見の集落に入ると(11:20)。遊歩道に上がる道があったので迷わずそこに行きました。やれやれほっとします。あの国道はさすがに歩く気がしない。この道はゆったり歩けます。先行者1名,ゆったりと歩いています。この先には天見小学校もあるし,まさか通学にあの国道を歩かせる訳にはいかないですね。
 廃線跡らしく急坂やカーブも少ないですが,特急電車が通るにしては坂道は急でカーブも急なように感じます。南海高野線をここに通すのにはそれなりの苦労があったと思います。

P1070773  11:27,河内天見駅着。その手前に甘味処がありました。この田舎に?と思いますが,ここには南天苑という温泉旅館があるんでした。
 南北朝時代に近郷の流谷八幡神社の宮司が湯治場を開いたのが始まりで,高野山参拝客らの人気を博したとのこP1070774 とです。その後神社ともども焼失,再建もならずそのまま廃湯となったそうです。
 時は下って,昭和10年,堺大浜にあった"汐湯"をそっくりそのままのかたちで,古来からの温泉ゆかりの天見に移築し,高野山参詣のための温泉旅館にしたのがこの南天苑であるということでした。行ってはいませんが,写真をみるとなかなかの旅館らしく,建物は明治・大正を代表する建築家辰野金吾氏が手がけたもので,平成15年(2003年),国の有形文化財に登録されたそうです。
 天見は南天の里でもあります。

(つづく)

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2009年6月14日 (日)

細切れ道草・高野街道(1) 河内長野-三日市町

2009年4月30日 
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 少し書き方を変えないと時間が経ってしゃあない、というので、これから簡易スタイルで流してしまいます。

 駅前の喫茶店で足をさすりながら長い休憩をして、やっとこさで動きだしました。本当は古野町の九里石とか見に行ったんですが、いやになって途中でやめてしまいました。

P1070554 さて、駅前の吉年邱のくすのき写真からです。現在14:21。吉年さんというのは地元の鍛造かなにかをやっておられる方のお宅なんでしょうか?ここのくすのきは河内長野市の指定文化財(天然記念物)ということです。樹高約20m、幹囲約4.7m、枝張り約30m。しかし樹齢とか書いてませんでした。
http://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/date-base/isanP1070553_2-date/city/shi20.html
このお宅も相当古いと思いますが、くすのきに比べたら・・・ということでしょうか。蔵、母屋全体を覆いかぶさるように枝はりをしていてお屋敷全体を守っているかのようです。


P1070563P1070561P1070562cut  すぐ隣には長野神社があって、ここも、くすのきが、吉年邱の境目がよく分からないくらい生い茂っています。ご祭神はスサノヲの命(牛頭天王)。本殿は国の重要文化財で、本殿向かって左にある巨木はカヤで、これは大阪府下最大で府の天然記念物になっています。

Kusu  ふりかえるとくすのきが石垣から・・・





P1070565  エンジンがかかってしまい、橋を渡ってしまいました。あとで調べると石川沿いの民家の向こう側の屋根が天野酒の蔵元です。昭和46年に復活されたんだとか。一度行ってみるつもりです。ワクワク。

P1070568  本当は天野酒蔵元前の道を行くべきなんですが、エンジンもかかりすぎて真っ直ぐ行ってしまいました。どんどん違う方向に行くのでさすがにおかしいと思い、途中で右折(西へ)し、南海の線路を渡りました。向うにみえる山裾に行くべきなのです。

P1070569  ここにもだんじり庫が・・・喜多。


国道371号も陸橋で渡ってようやく復帰です。

P1070570gamtrP1070572r  山裾の道に入りました。やれやれ。烏帽子形公園 長尾根の道とあって、古墳もあるようです。地図を見ると山頂が烏帽子形公園でそこから長い尾根が続いています。

P1070575P1070577cut_2  山麓には烏帽子形八幡神社がありました。山全体が中世の烏帽子形城であったようです。南北朝の争乱期以来、紀州への街道をおさえる要衝だったようです。

P1070583trjpg  山麓コースが終り、街道らしい雰囲気の道を行きます。わざわざ不自然に迂回するような街道は通行税をとるためだったんでしょうかね?


KobanP1070585trim_2  旧三日市交番です。2006年に三日市町駅前に移設されたようです。それで、旧。交番というより村の駐在所といったほうが親しみが湧きます。吉本新喜劇でよくある駐在さんみたいな人がいたんだろうか、と思わせます。

P1070589P1070591gam  天見川を渡ると高野街道の宿場街になります。どうりでそんな雰囲気がします。八幡から50kmはちと遠いし大阪からは25kmくらいで短すぎる。京のお公家さんなら、京から2泊めがちょうどなんですかね?
 旧家もたくさんあります。国の有形文化財に指定されている旧八木家。格子戸と木製の灯篭が美しいです。八木家については説明板の通りですが、造り酒屋さんだったんですね。富田林といい河内長野といい、金剛山麓には造り酒屋さんが多かったようです。水がよいのでしょう。金剛山麓に限らず、生駒山麓にも多かったようです。今はどれだけ残っているんでしょうかP1070597
P1070595cutP1070596trim   酒造りにはよい水とよい米はもちろんですが、異常醗酵をおさえるため(雑菌の異常増殖防止だったか?)の温度管理がもっとも重要なことの一つです(※1)。そのために山の冷気を利用したのでしょうか。ボクの聞いた講演(※2)では、灘や伊丹、池田の酒どころでは、(昔ですが)自然の海からの風を利用するため、蔵の門がぜんぶ南を向いていたんだそうです。それほどまでに気を使わないとお酒がダメになったとか。ここは冷却はどうしていたんでしょうか?
 河内の酒造りの盛衰を見ていくのもおもしろいかと思います。
※1:酒の日本文化-知っておきたいお酒の話  神崎宣武 角川文庫
※2:http://www.rokkosan-katsuyo.com/seminar/14.html(中身は載ってなかったですが・・・)

P1070601  さてまもなく三日市町の駅前です。ここは河内長野でも住宅開発が盛んであったところで、駅前は都会風です。しかし、駅前を一府離れると古い町並みが残っています。あたらしい街はどこに・・・・一見しては見えにくいですが低い山の頂上付近を切り拓いて街になっています。ニュータウン。ざっと地図を見ただけでも、清見台、美加の台、北・南青葉台、大矢船、南花台、と巨大なニュータウンが揃っています。それと旧街道の古い町並み、これがうまくバランスさせているようです。
 遠くにはススキの岩湧山が見えていますが、あの山脈を越えると紀の国です。次回は紀見峠越えをします。

 どうもこのスタイルは気に食わないですが、やむなしとします。

より大きな地図で 東高野街道5 を表示

(つづく)

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2009年6月 9日 (火)

細切れ道草・東高野街道(6) 汐ノ宮-河内長野


2009年4月 30日 その3
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【河内長野市街へ】
 駅前の食堂でお昼にしました。昔ながらの駅前食堂風
Shionomiya。親子丼,みそ汁,冷や奴。結構うまかった。昔,モリシゲの映画で駅前シリーズというのがありましたが,駅前風景または駅前食堂シリーズというのおもしろいかも,といいながら写真はありません。どうも絵になりにくいが,なんかなしに撮りためていくと良いのかも。
 12:45出発。駅前から坂を登っていって旧街道に合流します。写真は坂道から撮った汐ノ宮駅前です。
 坂を登り切ると旧街道に合流しました。おお,いい
感じの道でP1070528P1070527P1070525す。この街道の四つ辻には,なんと喫茶・レストランがありました。なんだ。
 しばらくは段丘上の道を真っ
P1070537直ぐ南下していきます。P1070531約10分P1070534で,また坂を下ります。せっかく登ったのに・・・・街道は新しい広い道から離れ,さらに国道を横切っていきます。新道からちょっと横道に 入っただけでまったく感じが違い,古い祠や土塀の家がありました。
 極楽寺の大仏さんの背中が見えるところでP1070538
国道に合流し,ここからは極楽寺経由で行く丘の道と踏切を渡っていく平地の道に分かれるようです。ボクは平地の道を行きました。工場街の中を通るような道でしたが,途中,スイミン グスクールがありまして,「祝オリンピック出 場 だれそれ」P1070539のたれ幕が・・・だれそれ は忘れましたが,成績はどう だったんだろう?後で調べたら,奥村 幸大選手,大阪府富田林市出身,2004年アテネオリンピック男子400mメドレーリレー銅メダリスト。ほほう。2008年8月 北京オリンピックにおいて200m自由形1分47秒14で7位入賞。いや,なかなかの選手でした。

【東高野街道終点】
 電車のガードを2回くぐると河内長野駅前です。駅前には東高野街道(終点)合流点・高野街道起点の道標がありました。現在13:22
P1070551
 ここから高野山女人道まで35kmか!先は長い。三角錐
の案内標柱には,今まで来た東高野街道,平野から来る中高野街道,堺から来る西高野街道の概念図がありました。もう一つ,中か西かを歩いてみたいものでSankakuす。いやその前に,とりあえずは橋本まで行かねば。ま ずは小休止です。
 このあたりが西高野街道と東高野街道の合流点と書いてはありましたが,この先,アーケードをいくと実際の合流点があるはずなので行ってみました。アーケードの商店街を抜けると,すぐに商店協同組合の小さなビルがあって,そこが合流点です。右(東)が東高野街道,左が西高野街道です。どちらも坂道を登っていくようです。東高野街道のツメのところはまだ歩いてないので,右に行ってみました。住宅街の中をどんどん登っていきますが,途中でやめてしまいました。
P1070547P1070546P1070545
 歩いていて気がついたんですが,やたらに「たこ焼き屋」さんが目につきます。大阪はだいたい多いところですが,それ以上に多いようで,これはなにかあるんでしょうかね?

 帰りにネコの昼寝を見つけました。「おーい,気持ちええP1070548 んかー」レンズを向けると細目を開けて睨まれましたが,すぐにまた目を閉じてしまいました。良いお天気の昼下がり,ポカポカと暖かいので,うつらうら,気持ちよさそうです。

【さてどうする】
 さて,とりあえずの目標までは到達しましたが,現在13:30。まだ時間もあるので,喫茶店でゆっくり休憩しながらどうするかを考え,「三日市町がいいとこかな」と思いつつ,とりあえず行ける所までいくことにしました。新しい靴がまだこなれていないので,若干足が痛いのです。
 そのレポートは別建てで「高野街道」とするつもりです。もちろん,高野山までは行くつもりでタイトルだけ確保しておくのです。
 
【河内長野というところ】
 そいうえば河内長野は,電車で通過したことはあっても,降りてぶらついたのは初めてです。富田林もそうですが,どうも大阪により近い衛星都市とは印象が違うように思いました。単に来た回数がすP1070550 くないからなのか?
 大東,東大阪,八尾など大阪に近いところは,古いものは残っているにせよ,もう大阪の延長の気がします。大阪に飲み込まれつつある。
 河内長野は西は堺ですが,狭山丘陵(でいいのかな?)があるので,堺の延長という気はあまりしません。東は金剛山,西は岩湧山でどんづまりといえばどんづまりで,奥まった位置にある。
 確かに駅前は普通の大阪圏の駅前と同じ,河内長野にもすこし離れた場所にはニュータウンもあるし,それはどの衛生都市でも同じですが,要は,少し遠いがゆえに,都市化の中にあっても,昔ながらの地方都市・河内長野らしさ,近隣の町村の中心地のにおいが残っているように思いました。大阪に飲み込まれていない独立性,このにおいかも知れません。京都で言えば,長岡京や向日市に対して亀岡や園部の感じか,そこまでは言い過ぎですけど。土壁の家や木でできた家並,倉庫をみていると,昭和期の綾部や福知山を少し思い出しました。

【おわりに】
 京都・八幡から北河内を経由して,南河内まで歩いてみて,ちょうど3~4月ということもあり,野山,脇道や路地,民家の軒先は非常に美しさにあふれていました。一転,国道筋や駅前は騒がしく,どこにでもある風景。そのほんの数十メートル離れたところは,新しい家も建っているけれど,落ち着いた街を形成しています。その中で古いものが存在感を示しています。古いもの全部よくて新しいものは悪いという気は,さらさらないですが,古いものは年を経た美しさを持っている。古さの価値のようなものを感じたウォークでありました。

(このシリーズ終り)

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2009年6月 8日 (月)

細切れ道草・東高野街道(6) 富田林-汐ノ宮


2009年4月 30日 その2
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【寺内町を抜ける】
 東高野街道は一里山口から
P1070277入って,亀が坂筋を南下,途中P1070276P1070275御坊町の通りを興正寺過ぎまで行って,筋から向田坂へ抜けるようです。富筋の南突き当たりには「町中くわへきせる ひなわ火無 用」の看板が。今も同じですね,気をつけねば。
 
P1070473P1070471cut_2 P1070470  道標には,

「左 ふじいでら」
 「右 まきのお寺,高野山」

とも書いてあるので,高野山方面から来た人が道標に  向かって左(富筋)を行くのが正規の街道だったんでしょう。ちょうど11:00,ここから街道は向田坂を下っていきます。
 
P1070485P1070483P1070474
 今度は西方寺の裏手あたりからわざわざ坂を登っていきます。ここの石垣にはおもしろいものが。石臼の残骸ですかね。放射状の溝とコケがいい感じです。
 どんどん登っていきます。坂道の横が寺内町来訪者用 の駐車場になっているようでした。


より大きな地図で 東高野街道5 を表示

【錦織】
 富田林高校を過ぎると視界が開けて遠くが見渡せるようになって俄然ピッチが上がる訳ですが,すでに旧道の入口を過ぎてしまったところでした。旧道は弓なりになって家の間を抜けているよう
P1070490P1070489P1070487 で,次の合流点までいって気がつきました。
 広い道に突き当たると,「かすうどん」の看板が。おいしそうですが,まだお昼には早い。ここは川西駅前のようです。170号と近鉄の線路をくぐってすぐ左に入ってい る路地みたいなところに入っていきます。住宅街を抜 けると今度は国道309
P1070492号を渡ります。旧道は写真の大きなお屋敷の向こう側まで行って橋 を渡るようですが,めんどくさいのでここで済ませます。結局は村の中で合流しますが・・・
 村の中に入ると街道らしい雰囲気になってきました。大きな田舎家,道端の地蔵さん,石燈篭と出てきます。この石燈篭が今通っている道から枝道に少し入ったとこ
ろになるので,そこが旧街道かも分かりません,このあたりは錦織(にしこり)村ですが,石川の河岸段丘の上に発達しているようです。道も水害を避けるようにしP1070499P1070497P1070494て,そこを通っています。
 錦織というくらいなので,錦を織る人々がいた
のでしょう。 錦織神社の由緒を拾い読みすると・・・・・
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当地は古来「錦部郡」と称し,大和朝廷に通ずる要路を占めていたために,浪速京より水路を主とする交通の要点にもなって早くから大陸文化が移入された。「和名抄」に見える余戸郷,百済郷との称もあり,帰化人の郡落をなしていた。又「爾之古里(にしこり)」とも称され,後に錦部郡となったものであるが,古代においては,百済より帰化した諸藩が広く土着して綾錦織等を朝廷に奉り,文化向上に貢献したことが伺われる。
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 石川を遡ってきたんでしょうね。昔から重要な川だったことがうかがえます。

 さて分岐です。地図を持っていないので,ここが
P1070502P1070501 判断のしどころなんですが,まさか段丘上を通る街道がわざわざ降りていくはずはない,と思って右に行くと・・・・一面のレンゲ畑になってしまい,大間違い。引き返しました。たまにはこういう判断ミスもある。
 どうやら滝谷不動が川向こうにあって,そこにお参りす る人のために一旦河原の線まで降りていくようです。この道にも大峰山の
P1070508P1070506P1070505 道標とか大峰登山の満願碑があります。大阪大谷大学がこの辺にあるのは知りませんでした。通学はどうするんでしょう。近鉄だとは思いますが,遠いのでは?P1070513P1070512P1070510
 駅前からは同じような風情の街道がつづき,線路を渡っ ていったん国道に合流します。

【石川大蛇行】
P1070515
 ここから国道歩きになる訳ですが,幸い車は少ないので歩きにくいことはないです。その代わ りスピードをだ している。
 地図をみていると,石川が大きく蛇行してい ます。昔はもっと蛇行していたらしく,西側から段丘が山の尾根のようにながく延びだしていて,U字型に田んぼ(今は畑とハウス栽培)を囲んでいます。街道は錦織の村から段丘のハナに取りつき,このU字を通っていたように思います(一里塚のできるより前の話です)。今は近鉄の線路をくぐP1070519る農道があって,ハウスのある農地へ入っていきます。あえて,国道を離れてそこ に入ってみました。高さ10~20mくらいでしょうか,樹々の生い茂った段丘が延びていました。ここを半周してまた近鉄線路をまたぎますが,旧道は線路の手前で丘に登っていく道をとるものと思われます。
 このあたりには大阪府下唯一と言われる錦織一里塚があるはずなんですが,先程の迂回によっていけませんでした。線路を渡ったほんの100mほど戻ったあたりだと,あとで分かったんですが,あとのまつりでした。これは再訪決定かな,電車もあるし。P1070520

 今回は旧道を行かずに国道を行きます。なぜって,今12:14,お昼の時間なので,コンビニか食堂を探すんです。汐ノ宮も近いのでありそう,と思ったら,延々と歩き,汐ノ宮駅前まで行ってしまいました。

(つづく)

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細切れ道草・東高野街道(6) 富田林寺内町再訪


2009年4月 30日 その1
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 例によって朝のスタートが出遅れたのと,電車乗り継ぎで時間を取られ,富田林についたのが10時前でした。しかし無性にコーヒーが飲みたくなり駅前で探しますと,やっとシブイ喫茶店を見つけました。パチンコ屋さんの横でパチンコ客が目当てのようです。結構年配のおじさんが一人でやっていました。ここでゆっくり。朝はやっぱりコーヒーで始まらないと・・・
 さて,富田林は2回めですが,通過するのはもったいないので寺内町を散策してからにしました。といっても,これといったねらいがある訳でなく単にブラブラするということです。そうそう,ねらいと言えば,昔,T先輩の家に寄せてもらったことがあって,どのあたりかが分かれば・・・というのが1つのねらいではあります。その日は確か,紀見峠から葛城山脈を縦走して金剛山経由で御所へ抜けた記憶があるんですが,あやふやです。その時の地図 (まだ白黒5万分の一)も残してあるんですが,コースも書いてなくて,全然違うところにメモがある。一徳坊から岩湧山を通り,紀見峠にいったコースを書いているが,うそやろ?そこは計画はしたが行
Img_0001ってない。そのあたりの記憶が呼び戻されればとも思います。
 さてさて,寺内町ですが,歩くのはブラブラと無目的ではありますが,少しテーマらしきものを仕立てて,写真中心でまとめていきたいと思います。 じないまち交流館でいただいたマップを載せておきます。

【坂】
 寺内町は宗教自治都市なので計画的に町割をし,防衛のため土塁(土居)の整備がしてあります。町割りは,富田林御坊を中心に,七筋八町の碁盤目状に整備してあります,南北の通りが「筋」,東西の通りが「町」となっています。最初から調べて行ったら,味わい深い探索ができるというのに,あとから調べてもねえ。
 筋は東から,東筋,亀が坂筋,之門筋,富筋,市場筋,西筋の6つ,町は北から,一里山町,富山町,北会所町,南会所町,堺町,御坊町,西林町,東林町の八町です。なるほど,分かりやすい。
 町の外廓には土塁(土居)を廻らせ,その外に
竹を植え,四門(木戸)を設けて朝夕に開閉したといいます。いうまでもなく,平和なあきない,生活を保護するためです。P1070458P1070456P1070453

1.このお城のような石垣は,寺内
町の西口付近に残る土居跡のもので,家は幕末の庄屋・仲村長右衛門の宅跡,後の富田林郡役所跡らしい です。相当な高さがあります。西方寺のすぐ北側です。 

2.四つの門とは山中田坂(千早街道方面),向田坂(東高野街道),西口(平尾方面),一里山口(東高野街道)に設けられていました。写真は向田坂です。ここを降りて石川の河川敷との境界には竹林があり ,というより,わざわざ作られたようで,びっしり竹が生えていました。なるほど,ここを通る気力はでてきませんね。ここからみると寺内町の高さは写真の家と同じ高さになります。石川の河岸段丘を利用した防衛の崖です。当然ながら洪水被害を防ぐいみもあったでしょう。(この家は寺内町 域からP1070479P1070477P1070475は外れます)
写っている川は今は排水のため
と思いますが,当時はこれも防衛線に利用したと思います(多分)。

【あてまげ】
 戦国時代の自治・自衛都市の痕跡は今に残る「あて曲げ」にも見られます。あて曲げは,当時の城下町にもあるように,直交する2つの道路をわずかにずらすことで,まっすP1070449P1070452ぐ見通Atemage2せない構造になっています。
 写真は城之門筋/御
坊町,城之門筋/西林町,市場筋/一里山町。

【寺院】
 寺内町の中心となったのは興正寺別院(富田林御坊)です。地元の人からは「御坊さん」として親しまれてい
P1070286P1070289trimjpgP1070451るようです。鐘 楼はともかく,鼓楼はお城のようですね。見張り櫓で何かある太鼓をたたいたんだろうか?ちなみに,ここの窓は花頭窓(かとうまど)というようです 。たしかにチューリップを逆さにしたような・・・

【窓】
 窓といえば,「むしこ窓」。商家の中二階(厨子二階)は通風と明かりとりのために設けられたのが虫
(むしこ)窓で,その形状は建築時期によって異なるということですKoguchi。これをみると建P1070314cutP1070312cut築年代がおおよそ分かるのだとか 
 丸形(江戸中期)→横長丸形(江戸後期)→長方形(明治)→軒高・長方形(大P1070266P1070465Sugita正)ということですが,こねらって見るくのも面白いかと・・・
 その他,最後の1枚には寺内町以外の民家の窓も載せておきました。


【蔵】

 しっくいの白と焼杉のコンP1070467P1070274トラストが美しいでP1070318す。しかし,わざわざ墨を入れた壁や黄土色の壁も捨てがたのでは。木の板という のは新しP1070322P1070269P1070468いにせよ,古いにせよ,年 代に応じた味というものを持っています。こんなことは街道歩きをしない と分からないことでした。写真が  イマイチなのが玉にキズ。

【民家】
P1070320P1070313P1070273cut_2
1.写真が暗いですが,なかなかシブイので は。2種類のむしこ窓に軒下に見えるのは駒繋ぎ石でしょうか?
2.斜めになった木の柵は「犬矢来」というそうです
。うだつ もP1070461cut上がっています。
3.一里山町,ツタのからまる喫茶店。(とは知り ませんでした

4.これは見事な緑青ふきの壁。むかし,緑青デザインの意匠コーティング材を作ったことがあるんですが,もっと青かった。実物を見てから作れっちゅうに。
P1070463cut
 睨んでおられるのは鍾馗様。寺内町の城之門筋を挟ん で,それぞれ向かい合う杉田家住宅と田守家住宅, 渋谷家住宅と小田家住宅には,魔除けの鐘馗様が,それぞれ相手側の鬼瓦に向かって置かれています。これは渋谷家の鐘馗様です。

【道】
 城之門筋(延長約400メートル)は,昭和61年,1986年に,8月10日の「道の日」を記念した「日本の道百選」に選ばれています。

P1070450P1070288P1070287 



 
 寺内町のなかの東高野街道については次回とします。

そうそうT先輩の家も確認できましたが,全然記憶が蘇りませんでした。家も新しくなっていたようですし。
 (つづく)

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2009年6月 4日 (木)

細切れ道草・東高野街道(5) 富田林寺内町散策


2009年4月 12日 番外 
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 さて,富田林まで到着して,今日はあちこちふらついて結構疲れたので,ウォークはここでおしまいとします。と,決めたんですが,せっかくなので寺内町を散策してみました。
 寺内町についてはいろんなサイトがあるので,ここでは書きませんが,16世紀半ばの戦国時代に作られた(自作!)一向宗の宗教自治都市なんですね。街道筋の宿場町のように,主に幕府などの中央政権の都合によって作られたものとは違います。自治性が高い。石川の河岸段丘の上に開発されているので周囲には坂というか崖があります。いろんな街道もここを通っていますが,寺内町への出入りは限られた坂を通って出入りしていくようです。自治の裏づけになる防衛にも都合の良い立地だったのだと思います。
 寺内町センターで休憩がてら資料室を見学していたらP1070303 ,富田林は酒どころなんですね。市のサイトでも,「元禄期に,豊富な米と恵まれた水によって酒造業が発達し,当時,町内の7軒の酒造家での河内全体の酒造高の最大約20パーセントを生産していたことがわかっていま」と紹介されていました。これはじっくり見なければ・・・
 写真だけをばらまいておきます。

富田林市サイト:http://www.city.tondabayashi.osaka.jp/public/section/bunkazai/jinaimachi.html
専門サイト 富田林寺内町の探訪:http://www5d.biglobe.ne.jp/~heritage/ このサイトは充実してます。

P1070282P1070283Rennga

P1070279_2
P1070294 P1070290P1070296 P1070299 P1070298 P1070312P1070311









P1070297




(第5話おわり)

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細切れ道草・東高野街道(5) 古市-富田林


2009年4月 12日 その3 
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【消えた歴史遺産】
 昼食を駅向うのカレー屋さんで食べました。暑かったのでビールも欲しかったがここは我慢。
 街道にもどります。古市駅横を通っているのは竹内街道で,以前えらい目にあったことを思い出しました。古市手前の軽里あたりで靴底がばらばらになって,白鳥陵の横のきれいな街道はほとんど裸足で歩いて,やっとこさで,駅前の靴屋さんで新しく靴を買ったのでした。その時買った靴は2005年秋以後のウォークは全部,東海道も半分これで歩きま
P1070208した。今回もその靴ですが,今のところ快調。

 それはともかく,古市3丁目の東高野街道と竹内街道の交
差点には,商工会館の古いがハイカラな建物P1070215あって,そ れが取り壊されたということを聞いたので行ってみました。天幕がはってありまして,あっらら!本当に取壊された後で,赤レンガの残骸の整理中のようでした。今日は日曜なので工事も休みです。P9180075
 写真を撮っておきたかったのですが,2005年にきた時 には,ちょうどここでだんじりの辻回しに遭遇したので,この建物にへば りつくようにして,だんじりの写真を撮ったのでした。で,その建物は撮り漏らした。代わりにそのときのだんじりの写真を載せておきます。建物の写真は,弥生の森の散歩径 近代土木館~(ひろゆきさん)にきれいなのが載ってましたので見てください。
http://www.pintruss.com/doboku/town/habikino.htm 

 この建物は,明治42年に富田林銀行として建てられ,その後,野村銀行→大和銀行,と銀行の店舗として活用,最後に商工会館として使われていたそうです。最近は空き家になっていたとか。この保存については,数年前から町を守りたいという地元民と行政の話し合いが続けられていたようですが,明治時代の建造物で老朽化が激しく,解体して町の集会所を新たに建てることになったらしいです。ちょっともったいないのでは。
 コストや安全性を言われると弱いのですが,今の建築技術でも補修とか,なんとかならんのですかね。建築の専門家のご登場を願いたいものです。
 自宅の近くにも,多少荒れてはいたがきれいな松林の空き地があって,持ち主が売却したため,せっかくの松林を根こそぎ切ってさら地にしてから,小さな家を建てています。小さい家というのはしかたがないにしても,「松林の中の家」というコンセプトで,それを活かした街づくりができんものかなと思います。多分,コストがかかるのでしないと思うのですが,それは理解するにしても,今の技術体系が「一旦リセットしてからまっさらなもの立て直す」という思想で組み立てられた技術体系でしかないのではないか。建築でなく道路であっても,あちこちで古街道の存在などおかまいなく,リセット・さら地にして道路を作っているにのをよく見ます。古街道はハシゴを外されたように孤立して草ぼうぼうですな。しかし,一方ではちゃんと街道の風情を残したまま街づくりをしているところもあるんです。
 その角にある道標はどうなったんでしょう。写真にあるシートをかぶっているものが多分そうでしょう。
 『右 大阪 左 大和路 嘉永元年』とあるはずです。

 さらに,この先竹内街道を数十メート行ったところにP1070214 あった「両替商・銀屋」さんはなくなってしまいました。跡かたもなくです。今はその前にある公園にその旨の記載がちょろっと書いてあるだけでした。写真の前方の住宅あたりだったと思います。
 これについても地域住民と行政も熱心に保存に動いていたようですが,惜しいことに解体されました。P1070211trim
http://www.skao.net/bjoho/habiki.htm

 この建物は,江戸時代,天領であった古市が,宿場町,市場町として栄えたことをしのばせるもので,銀屋の舟板塀とよばれる塀は,大和川の水運で活躍した剣先船の廃材を使っていたということでした。当時,そういう技術思想で建てられた証拠です。銀屋の前にはこぎれいな公園もできて,地域の観光スポットにもなっていたのに。これがどんな建物であったかは,岸本さんのスケッチ紀行のサイトで確認してください。小さな写真より迫力が感じられます。
http://kishimoto-sketch.cool.ne.jp/osaka-huruiti.htm

 公園の三角石標に書いてあった文章を拾い読みしてみると・・・
・南朝の後村上天皇が西琳寺に隠遁し再起を図っていたとき詠んだ歌
 わが頼む西のはやしの梅の花P1070210
  みのりの花の種かとそみる

・その西琳寺は王仁の子孫・西文氏の氏寺であって壮大な伽藍があったこと
安閑陵を本丸として取り込んだ中世城郭高屋城の話

・古市は大陸文化の伝来に貢献し,河内飛鳥の中心であった。東高野街道と竹内街道の交差点で文物の流通に貢献したこと。
江戸には銀屋があり,水運/街道により,物資流通の中心で大きな役割を果たしたこと

 こんなことで,今は文字,写真,絵でしか確認することはできません。

【だんじり庫】
P1070219
上に季節はずれの写真をのせてしまいましたが,だんじりを保管している庫が気になってきています。いままで街道沿いにいくつもあって,当然中は見られないのですが,その庫は(デザインは)いつでも見れる訳です。いろいろ見てきましたが,ここの庫扉のデザインが気に入りました。古市らしく石川に白鳥でしょうか。そうにちがいない。赤と白のP1070221 コントラストが美しいです。日かげなので赤の彩度が今ひとつですが,これはカメラの(腕)のせい。
これからは事あるごとに写真は撮っておきたいと思います。
ところで,だんじりは,山車ですかね?地車ですかね?

【高屋城と高屋神社】
 近鉄の線路を渡ると古墳が見えてきます。安
P1070226trim閑陵。周囲P1070224ももちょっときれいにせんかいな,と思えるところでした。このあたりは中 世,高屋城があったところです。高屋場は,なんと,安閑天皇陵を本丸に取り込んで築いた城で,畠山氏,三好氏が居城とし,織田信長によって落城させられたようです。少し先にP1070228P1070229ある城山姥不動明王の祠のあたりが二の丸だそうです。
 それにしても(伝)とはいえ,天皇陵を城にするとは,全 く考え方次第でなんでもやるんですね。
 高屋神社はさらにその先です。案内板によると,古代
P1070233P1070234 ,この一体は高屋連の本願らしいです。物部系。
 この一体は台地になっており,時代による変遷が窺えます。中世は城郭だった台地も今は住宅地です。

【ロード間違い】
 さて,かなり時間をとったので,旧街道を高速で飛ばし ます。道はほとんど真っ直ぐで迷いやすくはないんですが・・・喜志の先で
P1070238P1070240迷いました,3回も。
 延々と歩きますが,車がほとんど通らないので歩きやすいです。途中,見通しの良いところもあって,高
P1070242P1070236速(南阪名路)の向うに二上山がくっきり見えました。
 阪田の石燈篭(多分です)も過ぎて,喜志の近くで立派古い屋敷をみました。建築確認看板をみるとメモリアルホールができるらしいです。要は葬式式場ですかね?これからはやるとは思いますP1070244 が・・・ということは,このお屋敷も取り壊しですか。

 さて,「あれが喜志の駅か」と確認はしたのですが,広い道を行ってしまい,さすがにこれはおかしいと思って引き返しました【間違い1回目】。それらしい道に入りなおしたのですが,あとで分かったことに,これも間違いでした【間違い2回目】。最初調子よく行きましたが,これが行き止まり。しかたがないので,道なりに川のほうに下っていきますが,方角違いでどんどん川の方に下るのでさすがにおかしいと思い,南へとる道を探しました。
 町の集会所(川面町会館と書いてあった)の路地みたいなところを通って,最後はお屋敷の軒下のような路地を無理やり通過,落差のある階段を降りて橋のたもとにでました。やれやれ,現在地確認。P1070246
 ここの石川もまだまだ広いです。水量は少ないものの大河の様相です。河川敷はキレイに整備されていて,皆さん休日のスポーツでのんびりと過ごしていました。ここで休憩。
「この河川敷を行ったら早いいやろな」と,ちらっと思いましたが,街道歩きではなくなりそうなのでやめときました。
 
【旧街道復帰】
P1070251
 さて,街道に復帰です。といってもどこが旧街道なの かよく分かりません。川沿いを行く道も何本かありましたが,まさかこんな低地を街道は通らんだろう,通るなら河岸段丘の上か。そう思ってとにかく坂を登り切りました。そこには横道があって,どうもこれのようです【間違い3P1070260回目】。道沿いは住宅が並んでいてとても旧街道とは思えませんが, しかしその先はもう国道ですから。
 ところが,途中でまた道がつきあたりました。ここからはっきり覚えていませんが,迂回してぐにゃぐにゃ曲って,小川沿いのお墓の横を通って,大きな道にでた気がします
。しかし,テクノホルティなんとかいう専門学校の記憶もありますけど・・・・・はっきりしているのは新堂の山車保管庫です。 ここのはきちんと写真にとりました。
 あとで調べてみると喜志の駅前のところから国道歩きとな
P1070262って,中野町3丁目の池のところから旧道がまた分かれて,先程の新堂につながるようです。
 ま,この迷って徘徊,うろうろの危うさがおもしろいんです。不審者と間違えられなければいいですけど。
 
 ここからは本当の旧街道復帰で,あとは一本道でしたP1070263 。いや街道らしいカギ型の辻はありましたが。若松町5-8では民家の軒下にバケツが。いったいなんでしょうかね,火除けのマジナイか?

(つづく)

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2009年6月 3日 (水)

細切れ道草・東高野街道(5) 道明寺-古市


2009年4月 12日 その2 
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【古市古墳ロード】
 タイトルは勝手につけた名前ですから・・・。
  藤井寺市から羽曳野市にかけては,古市古墳群といわれる古墳の宝庫です。古市古墳群は,先の市ノ山古墳も含めて,前方後円墳31基,円墳30基,方墳48基,墳形不明14基,計123基から構成されています。これらは4世紀後半から6世紀中葉に形成されたことが知られています。
 古市古墳群については多くの人が書いていますので省略するとして,藤井寺市のサイトの「ライブラリー古市古墳群」に詳しくて易しい解説がありますので参照ください。なかなか本格的な解説であると,私は思います。まだ読み切れていませんが,勉強になります。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/9,0,97.html

 方角が違うなとは思いつつ,すでに東高野街道は無視して道明寺(お寺の)を過ぎて,リュックのおじさんの歩いてくる方向に向かっています。
 170号線(これが今の東高野街道)を越えると,古墳らしきものが見えてきました。しかし地図がないのでなんだか分からない。続
P1070137P1070135P1070133 いて3基あり,合わせて三ツ塚古墳と言われています。2つ目には遠くに石柱が見え,「仲津山陵倍塚」,3つ目は「史跡 助太山古墳」「文化財○○委員会(保護か?)管理団体 道明寺町」とデジカメの写真を拡大して読めました。え,管理が違うの?仲津山陵倍塚なら宮内庁管理のは ずで,3つ目は道明寺町管理ですか?
 3番目の古墳を過ぎた団地の中に案内板がありました。普P1070141cut 通の 人は地図を見ながら逆から歩いてくるんで問題ないんでしょう。しかしこちらは分からない。
 三ツ塚古墳は東から順に,八島塚古墳,中山塚古墳,助太山古墳ということでした。八島塚古墳と中山塚古墳は墳丘が一辺50メートルの同形同大の方墳です。これに対して,助太山古墳は一辺36メートルでひとまわり小さい。助太山古墳は種類が違うので管理が違うのか?しかし,これらの三つの古墳は,濠を共有すること,方形の墳丘の南辺を一直線に揃えていることなどから,相互に関連をもってほぼ同時期に造られたと言われています。しかし,管理違いがよく分からない。
 八島塚古墳と中山塚古墳の間の濠の部分から,大小二つの木製の修羅が発見されました。その復元は道明寺天満宮で見たとおりです。現在はその場所にマンションが建っています。

 ここでたまたま人通りが途切れて道が分からなくなりました。すぐ北側は仲津山古墳のハズですが,人家が密集してそばにいけない,ということで,団地の公園を突っ切って,高速道をくぐることにしました。この公園は古墳を模しているようで,丸い丘が真中にあります。ここでしばしタバコ休憩。
 後で調べると,すぐ北には古室山古墳があって,そこは古墳の頂上へ上れるんだそうです。さらに,高速高架下には赤面山古墳という方墳があるそうな。前もって調べとかんかい!地図は要りますな。
 古室山古墳は全長150メートルの前方後円墳で,古市古墳群では2番目に古い(5世紀初頭の築造)のだそうです。
P1070143P1070146
 高速をくぐると,南側にはこんもりとした森が迫ってきますが,これは位置からして応神天皇陵に違いありません。と思いながら行くと,前方にまた古墳が。これは大鳥塚古墳でした。平べったい低い丘でおよそ古墳らしくありませんでしたが,植栽がほどよくまばらで,樹々もちょうど芽吹いていて気持のよい所でした。

【森の応神天皇】
 大鳥塚古墳の前(南)には宮内庁書陵部の事務所があってP1070147 ,ここが応神天皇陵の正面になるらしいです。事務所横には,誉田丸山古墳(円墳)というのもありますが,その森が応神天皇陵と一体となっているのでよくわかりませんでした。地図を拡大してみると等高線の○が見えます。
 応神陵の古墳は誉田山古墳といいます。とにかく大きい。特に何があるという訳でなく樹々が生い茂っているだけで,単なる森と思ってしまいますが,建造当初はど肝を抜いたに違いありません。なにしろ平野の中,あちこちに心合寺山古墳で見たような石垣づくりの大きな建造物が見えるんだから,これは目を引いたに違いない。威風堂々たる大王の姿を民に,あるいは外国からの使節にみせるというねらいも分かるような気がします。まさしくピラミッド。
 今は静かな森です。生えるに任せてという訳ではないにしろ,樹木が生い茂っていて誰も入れない,入らない。静かにお墓を守ると同時に森を
P1070157trimP1070156P1070149ひたすら守っている,というのも価値があるような気がします。特に間際まで住 宅が迫っている現状では,ひたすら森を守るというのは,逆に迫力も感じます。P1070160
 応神陵の周囲には周回の道ができていて,その森を見ながら歩 く訳です。あまり近くても樹々だけ見 るということになるの で,少し離れて見たほうがよいかも知れません。

【誉田八幡宮】
 まもなく誉田八幡宮の南門(というのか?)です。入口には2棟ならんで山車の保管庫がありました。たしか9月15日が祭礼の日だったと思いますが,ここの山車もすばらしいものがあります。以前,竹内街道を歩いたときに,た
P1070164P1070169P1070163 またま祭礼の日だったので見ることができました。河内らしく勇壮なものでした。
 さて,誉田八幡宮ですが,みなさん大鳥居から入らず,この門から入ってきますね。
駅からの最短コースがここにつながっているようで。
 当日は良い日らしく,結婚式が行われていました。着物の赤 が
ひときわ映えています。遠くからあまりはっきり顔が分からないようにして写真を撮らせていただきました。みていると国際結婚らしく新郎は外国の人でした。まわりの友人?親P1070174戚?の人が英語をしゃべっていたので,アメリカかイギリスか?はたまた?幸いお天気も快晴で,日本でもっともさわやかな季節に神前で式を挙げるというのもすばらしいと思います。こいうい風景はあちこちでみます。以前上賀茂神社に行ったときも国際結婚のカップルをみました。

【東高野街道補充行】
 今日は街道をあまり意識せずに歩いたので,少しトレースをしておきます。京方面に戻りつつどんな道なのか。カラーブロックが敷きつめてあ
り,気持の良い街道歩きが楽しめます。
 が,所々に掘り返した跡が・・・水道か下水かガスかの工事と思いますが,なんとかならんもんですかね?以前少し歩いたときは全面ブロックでし
たが,その後老朽化もあるようで,一部カラー舗装になっているP1070181P1070179P1070177場所もあり ました。
 少し行くと東高野街道の道標が。「右 道明寺 玉手
なら 京  左 八尾 久宝じ」とありました。さらに行くと国道170号にあたり,その先で高速をくぐるようでした。これが間違えて入れなかった道か,と納得して引き返しました。P1070184P1070183
 このあたりから見る誉田山古墳もなかなかよいものです。引き返す途中,倍塚があるのに気がつきました。「応神天皇 恵我藻伏岡陵倍塚 宮内庁」ほう,正式名は恵我藻伏岡陵なのか。
 街道沿いには所々道標もあり,灯篭もたっていました。以 前,この道を山車が通って付いて回ったのです。街道らしく,「 と曲るあて曲げ?
P1070195P1070193 枡形?のような場所もありましたが,昔からのものなのかどうか?

 午前中の最後に白鳥神社にも行ってみました。古市は,日本武尊が東征の帰り道,伊勢の能煩野で亡くなり,白鳥になって大和の琴弾原から河内の旧市邑(ふるいちむら)に飛 来した(日本書紀)というヤマトタケルのP1070207 白鳥伝説の町で,羽曳野(市)という地名は,この伝説をもとに,「さらに白鳥は舞い上がり,埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」とある白鳥神社の縁起にちなんで命名されたそうです。
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/001/index.html

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細切れ道草・東高野街道(5) 安堂-道明寺


2009年4月 12日 その1
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【石川合流】
 安堂から再開です。
 早起きして,家を7;00バイクで出発,駅まで行って駐輪場で200円払って,一応努力はしましたが,電車に乗れたのが7:20過ぎ。日曜なので
P1070087trim本数が少ない。おまけに放出-大阪東線-俊徳道-近鉄・山本-安堂のルートで来たので乗換えがやたら多い。結局,安堂着9:00過ぎでした。次回 は考えねば。
 安堂は,727化粧品の本社があるところでした。新幹線でみる看板の会社ですね。ここにあったんだ。
 よけいな回り道をしましたが,大和川を渡る橋のたもとにきP1070089
P1070091 ました。「三番樋」の看板が。治水記念公園のところ(二番樋)と,ここから大和川の水を引き,この少し先で合流して長瀬川になるようです。大和川付け替えの時から,旧大和川流域の潅漑用水,排水路として活用されて今に至ります。川岸は「アクアロードかしわら」として,整備されているようです。で,一番樋ってどこ?P1070097P1070096
 ここで大和川の橋を渡ります。大河です!渡ったところに 付け 替えの起点標と看板がありました。工期8か月,川床になった土地270ha,新田となった土地,1050haと書いてありました。

 橋を渡ると藤井寺市です。河川敷はスポーツ公園になっていて ,野球大会をやっていました。ここの河川敷や堤防も。広い開放的な気分に
P1070100trimP1070098 なれる場所です,
 堤防には石川合流点という石標がたっていました。大和川は付け替え起点のすぐ上流で石川が流入してきま
す。なるほど,この2つの川が一緒になると台風や梅雨期など水量が巨大になるのはわかります。これが洪水のもとになるのはよく分かります。
 子供のころ地図を見るのが好きで,近畿地方の地図をみてい て思っていたことがあります。それは,奈良盆地は文字どおりお盆のような格好で,大和全域の水を集めて,その水が奈良盆地からあふれたのが大和川になると,そして,その水が大和川一本で下ってきたら川下は大変だろうなと,そんな感想を持っていました。その通りだったんだというのがここを見てよくわかりました。

【允恭天皇陵】
 道明寺東小学校の先の三叉路から西に行ったところに市ノ山古墳があります。これが允恭天皇陵とされている古墳です。遠くからでもよく分
P1070104P1070106 かります。写真のまん中,神社の向うに見えるのが允恭天皇陵,左は倍塚です。倍塚には「允恭天皇恵我長野北陵倍塚」と彫った石碑がありました。
 神社(國府八幡神社)の横の路地みたいな道を進んでいきます。住宅が建っていて見えませんが,その切れ目から覗い
てみると,大きな空堀がありました。その向うは単なる林!丘 に生えた樹木しか見えない。墳丘230mの前方後円墳というのでかなりの大きP1070109 さです。これは5世紀中頃から後期にかけての築造とされています。
 見晴らしを求めて,ずっと西へ歩いて行きましたが,きりがないので引き返しました。あとで地図をみると,近鉄土師の里駅の至近距離まで行ってた。ここからわざわざ元の神社のところまで引き返したという・・・


より大きな地図で 東高野街道4 を表示  

【道明寺天満宮】
 引き返した神社の先で道を間違え,元の三叉路まで戻ってしまいました。その時はまちがえたかどうか分かりません。ひとつ手前の道でよかったんですが,あまりに普通の住宅街の道だったのでスルーしてし まいました。
 さてそこからが難儀で,近鉄の線路にはばまれ行き止まり,迂回してみたものの分からなくなって,えいやで南下。住宅街の中を曲ったり行ったりです。すぐ西はこんもりとした樹が茂った丘になっていて,仲津姫陵古墳(仲津山古墳)にしては近すぎる。住宅にはばまれて,そばまでいけません。地図では東に道明寺天満宮,西に仲津姫陵のハズなんですが。

 住宅街の道を抜けてやっと分かりました。そのこんもりとした丘が道明寺天満宮でした。やれやれ。結構大きな神社です。http://www.domyojite
nmangu.com/index.shtmlP1070126P1070117P1070115
 桜も満開を過ぎて,散り初めですが,これはこれで見事。
 ぶらぶら見学していると,大きな木造の船がありました。「修羅
」。詳細は案内板を見ていただきたいですが,5世紀半ばのものらしく,土師氏が土木工事に使ったP1070120 ものとの見解が ありました。古代・土師氏も相当高度な土木工事をやっていたのがうかがえます。このあたりの古墳築造は土師氏作なのか?こ こに展示してあるのは復元修羅で,宮大工・西岡常一さんたちの努力によるものらしいです。
 天満宮ですから,菅原道真が祭神ですが,そういえば菅原
P1070119cutの先祖は土師氏なのでした。先祖は野見宿禰。伝説では,野 見宿禰は天穂日命の14世の子孫で,当麻蹴速と角力をとって勝ったので,蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えられ,以後,垂仁天皇に仕えたといいます。さらに,垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、土師臣の姓を与えられ、そのために土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなったとあります。
 伝説はともかくとしても,このあたりは土師氏の地盤であり,このあたりにやたら多い古墳造営の土木を担当したとみてよいように思います。

P1070121
 大成殿という倉庫みたいな小さな建物があって,なんとななく 沖縄あたりの屋根のつくりと思ったら,孔子およびそのお弟子さんを祀る儀式が行われる重要な建物でした。中国風か,どうりで神社とは趣が異りました。P1070129
 このあたりから,やたらリュックのおじさんおばさんが多いです 。手にはマップ。そのマップ欲しいが・・・駅でもらったんでしょうか。先程,駅まで行っておけばよかったと思いますが,あとのまつりです。

(つづく)P1070131

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2009年5月30日 (土)

細切れ道草・東高野街道(4) 堅下-安堂


2009年4月 5日 その4
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 食事をしながら足の調子をみましたが,やっぱり大きなマメが。今日は安堂までで終りにします。ウォーキングシューズを新調しなければ・・・
 足マッサージをしながら地図を見ていると,あれ?ここは国道170号かいな?横(西)に外環が走っていて,そこが170号確か府道のハズだが?どのあたりから国道になったん? しかしどうせ車道は歩かないのでいいですけど。

【ペアの神様】
 食事の後,またすぐ脇道を行くことにしました。
 川沿いに歩いていくと大きなお寺があって,そこから南P1060929
下する道がありました。そこを入ったすぐそばに若倭彦(わかやまとひこ)神社というのがありました。500m北の山裾にある若倭姫神社とペアになる神社のようです。ここは,平野地区の産土神で建筒草命ならびに若倭彦命を祀っているそうで,そもそも,6世紀の頃この地で大いに繁栄した若倭部の連がその祖神をお祀りしたものと考えられています。であろう。建筒草P1060930命は饒速日尊の五 世の孫にあたるそうで,多治比連,津守連,若倭部連,葛木厨直の祖でとなっています。
 神社の向かい側には山車保存庫がありました。ここに限らず河内一帯は祭になると山車がねり歩くのが普通になっているようで,どこの町(ムラ)でも集会所や作業所のような共同施設にはこのような山車保存庫をよく見ました。
P1060933

 少し行くと南下する道は行き止まりになって,適当にぐちゃぐ ちゃと曲って行きます。
 大きな神社の前にでて,ここは,鐸比古命鐸比売神社というようですが,読めない!あまり聞いたことがない神社です。「なでひこなでひめ」と読むようで,神社縁起によると,創建はP1060934 成務天皇二十一年(151年)とされています。ご祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり,記紀では「沼滞別命」「鐸石別命」ともいわれています。
 ここには奥の院もあって,鐸比古命は,そこに高尾大明神といわれて祀られていたのをこちらに移したということでした。
P1060935鐸比売命は,この背後の高尾山山麓・姫山に祀られ,比売御 前と呼ばれていて,雨乞いの勅願所となっていたということです。
 この神社は背後にそびえる高尾山(標高:278m)を神体山・磐座としていて,高尾山頂上には巨大な岩場と巨岩があるよ
P1060940うです。
 なお,鐸比古命は 和気清麻呂の遠祖で,岡山の和気神社は,この神社の分霊を祀っており,鐸比古命を祭神とするのは 日本全国でもここと和気神社のみとされています。どうりで見かけないハズだ。
 立派な神社でした。お庭で少し休憩をさせていただきました。

 この先の山腹を行く道を中学生くらいの5ー6人が歩いていP1060945 きました。次の曲り・ぶどう畑の端っこのところで山道を登っていきましたが,そこは階段が整備されていて,高尾山に登る道のようです。高尾山一帯は高尾山創造の森が整備されています。

【柏原ワイン】
 羽曳野や柏原は,丘陵地を利用して多くのぶどう畑が存在します。羽曳野のワインは飲んだことがありますが,ここのはまだ。いつか飲んでみたいものです。
 ぶどう畑にマンションが入り込んだ形で,都市化の中,醸造環
P1060947境が変わったりして,やっていけるんだろうか?と心配になってきましたが,柏原のカタシモワイナリーの社長ブログを見るかぎり,経営も元気なようです。国道 から工場も見えました。(倉庫か)
 ここでは,ワイナリー見学(試飲つき)のイベントがあるようです。件の社長ブログ※によると,月に1~2回,大体は午後14:00から約1時間半~2時間。天気しだいでぶどう畑の見P1060949 学もできる。費用はお一人様 1000円(試飲ワイン代込)。
 この記事を書いている5月末,「ぶどう畑ではいよいよ本格的にぶどうの花が咲き始めました。香り漂う畑はこの季節ならではです!」ということなので,楽しい見学ができそうです。これは行ってみなければ・・・
※:http://blog.livedoor.jp/katashimowinery/

【住宅化の波】
 ぶどう畑を侵食しつつある状況ですが,マンションが多いP1060950 です。天王寺または難波に約30分の距離なのでベッドタウン化が著しいようです。地図をみていると,マンションの名前は横文字がやたら多い。
 ハイツフレグランス,
 フローラルコート。
 ジョイネス柏原,
 ルネアルマーニ,P1060951
 ドーマシャンテ,
 メゾンデュポルテマイヨ(あー読みにくい)
 おもしろいのは
 バンブー離宮,
 プラム離宮
ぶどうにちなんだものは,1つありました。グレープハイツ○○○
 ま,名前はいいんですけど,そのたたずまいが当地の環境になじむように作っていただきたいものです。
P1060982

【中 甚兵衛】
 近鉄安堂駅を過ぎて川の方に行ってみました。ここは 大和川
と石川の合流点であり,なによりも大和川付け替えの起点になった所です。大和川というと,昔は大阪一(ということは,日本一)汚れた川であって,南海電車で大和川鉄橋を渡るP1060956ごとに「ああこれがあの汚い大和川か」と思ったものです。関係者の名誉のために言っておくと,今はかなりキレイです。

 市役所横の三叉路のところに,大和川治水記念公園があり まし
P1060957trimP1060968P1060960 た。案内板と記念碑がずらっと並んでいて,その中にひとつにブロンズ像がありました。新大和川の方を向いて指をさしています。この人が中 甚兵衛です。
 大和川の歴史や,付け替え工事については,大和川河川事務所(国交省)のサイト※1,柏原市のサイト※2 に分か りやすく書かれています。私もここで勉強させていただきました。

※1:http://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/yamato300/index.html
※2:http://www.city.kashiwara.osaka.jp/jichisuishin/yamatogawa/yamatogawa.htm
P1060953trimcP1060959P1060958

 中 甚兵衛はこの付け替え工事に活躍した人です。甚兵衛については,和菓子屋・松一さんのサイト「中甚兵衛ものがたり」※3に,これまた分かりやす
く尊敬の念を込めて書かれています。

※3:http://www.jinbei-matsuichi.com/naka_jinbei/index.html#no_1

 中 甚兵衛は今の東大阪の庄屋さん家に生まれた人で,旧大和川(そして河内湖名残の湿地帯)の洪水に悩まされてきたうちの一人です。
 この地の人は,古代から何度も洪水にあい,古代大和政権 もその後の幕府政権も治水に取り組んできました。
 あの和気清麻呂も,大和川の一部を,今の天王寺公園の南側に
P1060963通して大阪湾へ流そうと計画しましたが,失敗。また,江戸時代には,河村瑞賢が安治川の改修・大和川の浚渫・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画,3年がかりで改修工事を行いましたが,完成後2年連続で大洪水が起こり失敗に終りました。
 徳川幕府は,新川計画地住民の強硬な反対や,河村瑞賢の成功(一時的であった)もあって,一時は付け替えはしないという方針に決めました。それを,先頭を切って,粘り強く交渉,意見具申をつづけ,転換させたのが,中 甚
兵衛でした。甚兵衛が父と一緒にはじめて江戸に行ったのは19才で,念願かなって大和川のつけかえが決まったとき(1703年)には,もう65才になっていました。幕府の政策転換まで46年間もかかったことになります。
 甚兵衛だけでなく幕府官僚も最大限の努力をしたようです。堤奉行の万年長十郎(1647~1715)は,甚兵衛を何度も呼びつけては意見を聞き,幕
府に伝えました。実現可能なプランを練っていったといいことでしょう。幕府自体も年貢収入が前提になっていたとはいえ,付替費用分の補てん(新川沿線住民の保証や工事による稲作中断期間の年貢免除など),工事への諸藩の動員などP1060965 ,やるべきことはやったと思います。その結果,付け替え工事は8ヶ月足らずというすごい短期間で終りました。

 この付け替え工事は,その後の河内の数百年に影響を及ぼすことになるのでした。その時歴史は動いた!
 工事の結果,旧大和川水系で新田開発が盛んになりましたP1060970 。中甚兵衛をはじめ,数多くの人々が新田開発に取り組みましたが,このうち,最大は,大坂の両替商,鴻池善右衛門宗利が開発した鴻池新田でした。これは典型的な町人請負新田として知られていて,今でも地名として残っていますし,その鴻池新田には会所の建物も残っていますね。
 近世の新田は,開発者によって,代官見立新田,藩営新田,P1060971 土豪見立新田,町人請負新田,村請新田などがあり,旧大和川の河川敷では,町人請負,寺院請負,農民寄合請負などによって開発されました。八尾の「安中新田」で紹介したとおりです。
 新田は砂地が主であったため,主に綿が栽培されました。河内国の農村で織られた木綿は,「河内木綿」として知られ,組合組織もでき,江戸末期にはマニュファクチャー(工場制手工業)が展開するほどになりました。また肥料のため,蝦夷地から北廻船を通じてニシンが大量に運びこまれたことも知られています。
 明治の殖産興業政策のひとつであった紡績産業において,明治10年ごろから大阪や奈良にも近代的な紡績工場ができました。河内では,綿実油や菜種油の伝統から生まれた製油業においても近代的な工場ができました。これは誰も言ってないようですが,この油を利用して塗料の原料(油)が作られ,海軍工廠の需要もあったことから塗料工業が関西から発展していったと思っているんですが・・・
 明治になると,農作物の栽培種も変わっていきました。明治初期,安価な外国産の綿が輸入されるようになり,国内での綿づくりは一時衰えました。政府は国内の産業を保護するために品種改良を行うなどで巻き返そうとしましたが,明治29(1896)年,「輸入綿花及羊毛海関税免除法案」が成立したことから,国内での綿づくりの衰退は決定的となったのでした。
 河内では,綿の代わりにブドウやミカンなどの果樹,菊・ナシ・イモ・野菜類などが栽培されるようになりました。ここに河内ワインのルーツもあるようです。綿が売れなくなって「なんとかせんといかん」とひねり出した一つがぶどうだったとか・・・
 そして今,付け替えによってできた新田,農地が住宅や商業・工業施設になってしまいました。

 以上,駆け足で大和川付け替えとその後を見てきましたが,確実に社会が変わって行ったことが見て取れます。そのトリガになったのが中 甚兵衛であったという訳です。こういう人こそ八尾歴史民俗資料館のいう「いちびりP1060979 」という人間なんでしょう。河内ぶどうや河内ワインを初めて作った人も含めて,生半可なことではできない,物狂いの人だったと思います。関西の地盤沈下が言われて久しいですが,甚兵衛像を見ながら,こういう「いちびり」が必要なんだと真剣に思いました。
 うまく話がつながったようで・・・

(第4話おわり)

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2009年5月27日 (水)

細切れ道草・東高野街道(4) 信貴山口-恩智


2009年4月 5日 その3
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【信貴山口】
 歴史民俗資料館から近鉄・服部川駅はすぐでした。その前にこんなところに電車が走っているとは知らなかった。近鉄・信貴線でした。そ ういえば信貴山ケーブルカーもあった。このあたり,適度なイナカでよい住宅街になっています。新しい家もたくさん建っていて住むには環境はよさそうです。街ブラも結構楽しめます。
 喫茶店探しをしているのだが,駅周辺で見つけたのは休みだった。
P1060885
P1060884
 住宅街をすり抜けて信貴山口へきました。ここにも喫茶店ら しきものはなし。コンビニ弁当か?そのコンビニもありません。ケーブル駅前に酒屋さんはあったが,パス。
山裾に道は続いているようだが,もとの街道に戻ることにしま
P1060889P1060886 した。途中,権現さまの祠があって,そこは信貴山へ六丁との道標がありました。
 由緒によると,信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった霊地で、毘沙門天王の総本山です。聖徳太子は物部守屋討伐のため、この山に至り毘沙門天王に祈願され、その御加護で勝利されました。太子、そのお礼に天王の尊像を 安置し寺院を建立して、信
P1060890ずべき貴ぶべき山・信貴山と名づけられました。アンチ物部のお寺ですね。生駒は物部系やアンチ物部系が入り組んで,ややこしいですな。
 このあたり行き当りばったり,西へ,南へ動いています。中学校のあたりで府道へ戻りました。
やっと見つけた和食屋さんも休みだった。

【花の河内音頭】
 車道歩きも飽きはじめた頃,街道を横切っていく人がありますP1060894 。何か?そこは恩智神社への参道でもあるのでついて行ってみました。「あれ?横道にはいるな」,と思いつつ行くと,盆踊り,いや,まだお盆ではないので花見踊りで,河内音頭をやっていました。さすがに河内の中心地・八尾。何かにことつけてでも踊らないと・・・という感じですね。
 踊りの輪が常時2~3コあります。見ていると,盆踊り等は,
P1060897P1060902P1060901cut 通常,年配の人が多いのですが,しかし,ここは違う。年配者も多いがヤンママも多い。子供も,輪の中でじっとはしていないですが,踊ろうとはしています。この環境で育てばこうなるんでしょう。

 春,花,輪とくれば,歌垣を思い浮かべます。歌垣は,特 定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗ですが,その伝統とは違うようです。
そ れより,盆踊りとは違うこの時期に,輪になって踊るというにのは,もっとストレートに春を寿ぐ,花祭りやその年の収 穫を 期待する祈のほうが強いのでしょう。折口信夫「盆踊りの話」によると,
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盆踊りは,平安朝になって発達してきた「鎮花祭」から起っている。「花が散るころには悪疫が流行するから、花鎮めの祭りをする」というのは平安以後の考えで、もとは、花を散らせまいとする、花の散ることを忘れさせるための踊りであった。これが平安朝になると、疫病退散のための踊りになった。・・・・
悪霊を退ける必要があったのだ。この悪霊退散のための踊りが、念仏
踊りである。春の終わり、夏に先だって流行する疫病を予防するための踊りであったが、その元は、稲虫を払う踊りである。
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 ということなのですが,それは由来であって,実際踊っている人はそんなことは考えもせず,この花見の時P1060904期にP1060913なると体がうずうP1060903ずしてくるんでなないでしょうか。そして,夏になるのを待ちかねたように踊り始める・・・

 河内音頭は知っているようで知らいので調べてみました。

柏原市公式サイト:http://www.city.kashiwara.osaka.jp/jichisuishin/kodori/kawachi-tanjo.htm
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河内音頭の原型となったものに「江州音頭」(念仏踊りから歌祭文にくどき文句をつけ音頭にしたもの)と北河内の「交野節」(義太夫節に江州音頭の節を加味した音頭)があり、明治から大正時代にかてこの交野節に浪曲の「関西節」京山幸枝の節を加え、昭和初期に大阪・平野の初音家太三郎の「平野節」ができて、現在河内音頭の母胎が出来上がった。(しかしまだ河内音頭とは言わない)
 
そして、河内音頭と言えば「えーえん、さぁあては一座の皆さまぁーへー、ちょいと出ましたわたくしはー・・・」の歌い出しで始まる音頭で知られたのは、戦後に「平野節」初音家一門の稽古場に出入りしていた鉄砲光三郎が昭和35年に「民謡鉄砲節河内音頭」という名でレコードを出したのがきっかけで「鉄砲節」=「河内音頭」と日本中に認知させてからである。
釋善来さん「話のスケッチブック」
http://www.k4.dion.ne.jp/~bird-y_n/C4_12.htm#18
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  新しいんです。戦後というより,高度成長期に発展,全国に?認知されたという訳です。この時期に河内ローカルの盆踊り音頭から,「大阪の盆踊りは河内音頭やでぇー」といえる,日本の中の河内音頭となったのは,高度成長期で人の流れの範囲が大幅に拡大したためだと思うのですが,どうでしょう。河内の人間も,そして大阪の人間も全国に広がっていって,夏になると故郷が恋しくな る,そこで「大阪には河内音頭があるでぇー」,大阪の人間でない人は「うちにも@@音頭があるんよー」となる。久しぶりに帰省して踊り狂うことでふるさとを確認する,そのことで自分をも確認する,こんな具合かなと思っています。

 河内音頭で特筆すべきはリズムセクションだと思います。和太鼓,
P1060916P1060909P1060907  ベースギター,ギター(とうぜんエレキ),三味線,シンセサイザーも入っているようでした。PAはエレクトロボイス。なんとまあ,ごっちゃ混ぜ,で も違和感はあまり感じないです。fusionというかチャンプルーというか,五目飯にトンカツソースをかける様な 具合ですが,この何ともいえないごたまぜのアジがうきうき感覚を生んでいく。おもしろいと思います。音楽的な解析ができないんですが,できる人,やってほしいですね。 
 白ズボン/白シャツの粋なおっちゃん,粋が江戸言葉なら,粋(すい)な(これは河内言葉)おっちゃんが登場しました。扇子の扱いといい,カクンと落とす腰つきといい,ひらりと回る動きといい,カッコイイ。顔を写す訳にいかないので後ろ姿にしましたが,河内音頭ならではスタアの登場P1060920P1060918P1060917でした。イイねえ。

【街道あれこれ】
 さて,長居をしてしまい恩智神社にはいけませんでした。
あそこはずっと山のほうにあるので諦めた次第です。恩智神社の大鳥居の後(内側)には,道の真中(元々脇だと思う)に石がありまして,お地蔵さんなのか何なのか?分かりませんが,何か字か絵が書いてあるようでした。きれいにお花が供えてありますP1060924P1060922 。桜も満開。
 街道自体は普通の田舎の街道なんですが,所々に祠やお堂が あります。シュミイ地蔵とはいわれも分からないようですが,ここもきれいに整備してありました。まだまだしっかりとムラの共同体意識が残っているようです。
P1060926P1060925
 「車と電柱の事故」というのには笑いましたが,午前3時55分は誰も見ていないでしょう。お花が供えてあるのは人身事故 だったのか?それなら車と電柱の事故ではないと思うのだが・・・
道端の物置小屋もシブイです。この直線の街道を真っ直ぐ南下。途中コンビニで食料を仕入れましたが,ようやく,平野 というところで食堂に入りました。中華料理。もう2時です。

(つづく)

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2009年5月25日 (月)

細切れ道草・東高野街道(4) 大竹-史跡の道


2009年4月 5日 その2
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 20分少しあるくと八尾市にはいりました。さくがに車道歩きはいやになってきたので,例によって路地というよりわき道に入ります。周
P1060823P1060821 囲は市街地はぬけて田畑が広がっています。ちょうど花の満開になる季節で,気分よく歩けます。

【心合寺山古墳】
 図った訳ではないですが,古墳に出合いました。心合寺山 (しおんじやま)古墳。よく整備された大きな古墳です。これはすばらしい。
案内マップではこの奥も古墳だらけ(大竹古墳群)
P1060830P1060826P1060824 でハイキングコースとなっているようです。始めにマップを仕入れておけばよかった。
 ここには古墳学習館(※)というのがあって,展示があるようです。どこかの団体さんが入っていたので入館はパス。200円いるようでした。ここは展示のほか,いろん な体験もできるようです。例えば,
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なまえ      所要時間      料 金      内    容
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勾玉作り     50~90分     300円     滑石を紙やすりで削って勾玉を作ります。
土笛作り     30~60分     300円     粘土を丸めて、中を削って笛を作ります。
発掘体験    15~30分     400円     土のブロックを削って、中に埋まっている
                                                    遺物を掘り出します。
その他,ガラス玉アクセサリー
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※:http://racco-taiken.com/sionji/

 サイトを見てみると,特定非営利活動法人・歴史体験サポートセンター楽古(らっこ)というNPOが運営しているそうです。これまで多くの学習館のような公共施設は、自治体など公の団体が運営してきましたが,指定管理者制度がはじまり、そういった施設でも民間のNPO団体が運営に参加できるようになったのです。 
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 古墳データ
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史跡指定      昭和41年2月25日
所在地         八尾市大竹4、5丁目
かたち          前方後円墳
大きさ          全長約160m
時代            およそ1600年前(5世紀はじめ)
指定面積     約30,000㎡
埋葬施設     後円部…粘土槨3基
前方部…     木棺1基
出土品         き鳳鏡、甲冑、大刀、鉄剣、玉類、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪(家、盾、鶏        など),水の祭祀を表した埴輪

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 古墳というのは単なるお墓と思っていたら,祭祀の場所でもあるんですね。こ
P1060833P1060836P1060832の古墳からは「造り出し」という施設?があって,お堀の水汲み場にようなところの横のテラスがそうKubireP1060838だそうです。ここへは気分の前方/後円 の境界の谷のようなものが通じていて,そのあたりから祭殿のような「水の祭祀を表した埴輪 」が出土したそうです。またこの境界部は,古墳作りの時,合わせ目が設計通りい かなかったようで,エイヤ!と境界を合わせたように谷筋に折れ目があるようです。
 前方部はメインとなる施設・後円部に導くエントランスらしいです。ここから後円部を眺めてみるとなるほどと思えます。前方部の石
P1060843P1060841P1060839 組の直線はピラミッドを思わせますね。平成17年の復元造営で真新しいとはいえ,この姿は見るものにとって,葬られているこP1060845P1060846Zenpouの地の王(と思っている)の偉大さを思わせます。 当時の民は ,とても古墳には登れなかったと思いますが,我々は登れる。実際登ってみると周囲の色とともに,この古 墳の(そして,王の)偉大さ,また美しさがよくわかりました。
 桜満開です。せっかくだから接写。あれれ??,マクロモードになっていました,というこよは今までの写真は全部?マクロモードでもこのカメラ,どうもぼやけた写真が多いです(とカメ
P1060856P1060854P1060850 ラのせいにしておく)
 ボランティアの方が車いすの老人グループの世話をして,見学にきてました。先程,学習館に入っていたグループなのか?お天気もほどよく,のんびりと
見学を楽しんでおられました。

 
より大きな地図で 東高野街道3 を表示

【史跡の道】
P1060861P1060825
 八尾市が道標を整備,これはなかなかの労作です。その姿勢はなかなかすばらしいと思います。さっきのマップをみると東大阪のほうから史
跡の道はずっと続いているようです。
 この道もなかなか気持のよい道です。けっして今風のキレイさはない,周囲も崩れがあったり,空き地が荒れていたり,家並み
P1060862も多P1060863少くたびれたところもあるんですが,なんとなくこなれていて,落ちついている,ゆった りとした生活の落ち着きが感じられます。これは一つの価値をかもし出していると思い ます
 生駒山西麓は、弥生遺跡や古墳群
P1060865P1060868あります。弥生人たちや古墳時代の人たちは、河内湖を横切って、生駒山や高安山のに上陸し,あるいは行き来していたんでしょう。大正11年に調査した結果では古墳が540基あっと記されてP1060872P1060871いるうです。
 すぐ山手には愛宕塚古墳もあるようですが,パスしました。 6世紀あ
たりには,八尾や東大阪は古代豪族物部氏の居住地であり、愛宕塚古墳は、物部氏にゆかりの一族の墓ではないかという説もあるようです。

【いちびり】
 わき道から戻ると(まだ街道からは脇道なんですが・・・)八尾市の歴史民俗資料館(※)があったので,タバコ休憩がてらに寄ってみまし た。喫煙場
TicketP1060880所の横には「力石」とうって,村 の 力自慢がこれを持ち上げてその力を競ったといいます。このあたり各所に残っているようです。
 さて,資料館ですが,常設展として,
P1060876P1060877和川流域と高安山 -その歴史と文化-,掘り起こされた八尾の歴史,大和川付け替えと河内木綿 があって貴重な史資料が示されていま す。
 また,学校むけに綿の栽培キットや高Workbook安古墳群のワークシートも配布していました。綿の栽培,やって みたい。
※:http://www.kawachi.zaq.ne.jp/dpgwg309/

 資料室に入ったところには,誰の展示か忘れたんですが,なぜか,「いちびり」の意味が解説してありました。「いちびり」とは,河内言葉で,普通,調子に乗るヤツ、ふざけてはしゃぐヤツ,できもしないのに、りきんでする,などと,マジメなまともな?人間から,はしゃぐヤツをちょっと小馬鹿にしたようなニュアンスで使われると思います。


ウィキペディアの用例では
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「お前はほんまに‘いちびり’やな」:君は本当にお調子者だね

「いちびり癖があんねん」:調子に乗りやすい性格である/おだてられるとついつい調子に乗る癖がある)
「いちびってんと、ちゃんとせえよ」:ふざけて調子に乗っていないでちゃんとしろ
------------------------
こんな感じ。
 しかし,ウィキペディアでは,「目立ってなんぼ(目立ってこそ価値
Panfがある)」のように、目立ちたがり屋やお調子者、あるいは人と違った工夫で目立つ者に対して大らかであり、むしろその意欲やふるまいを活力として歓迎する気風がある。とわざわざ解説をしてくれています。その用例として,

* 「あの人はなかなかの‘いちびり’やで」 (あの人はなかなか‘人と違う工夫ができる人’だよ)

おもしろがって,さらに検索していると,「大西 宏のマーケティン
グ・エッセンス」※2というブログがあって,そこには「目先のお金儲けではなく、世間の常識と違う新しいこころみをする人だ」という,積極的な見解がのっていました。
 ここの資料館の解説はもっと端的,ずばり「リーダーシップの
取れる人」。これはすごい解説です。関西は、何もお笑い系でなく,「いちびり」な人たちで新しい面白いアイデアを生みだし,世の中を変えていく活力があったように思います。この「いちびり」という行動(思考?)パターンは,これからの世の中で,非常に大切だと思います。これが今,大阪でも欠けているのでは。安堂編の前フリとしてあえて載せておきました。
※2:http://ohnishi.livedoor.biz/archives/6200385.html

【安中新田分間絵図】
 たまたまですが,特別展(速報展)として,安中新田分間絵図の初公開をしていたので,見学してきました。巨大!精細!というのが正直な感想です。結構大きな研修室一杯に拡げてあり,まずそれにビックリ。大体5m×6.4mくらいあるようです。巻き物を張り合わせたか,と思いましたが解説の方(ボランティアか)によるとA4サイズよりちょっと大きめの和紙を張り合わせてあるようです。実物の約300分の1ということで詳細です。

 いただいた資料によると,1704年(宝永元年),大和川付け替え工事によって八尾にも新田が開発され,その大きさは甲子園球場12コ分に相当するといいます。これにより検地が行われ,税金(税米)が決定されたとの ことです。
 この絵図から,安中新田は,安福寺新田,老原新田,慈願P1060882 寺新田,瓜破新田の4つからなり,それぞれ違う出資者(地元の寺院や村の有力者)がJVを作って開発していたそうです。御上の方針に従ったというだけでなく地域のチャレンジ精神あふれる大事業であったということでした。
今日明日2日間だけの公開で,PM1時から学芸員の方の解説もあるようでしたが,心引かれながら,先があるので退散しました。

(つづく)

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2009年5月24日 (日)

細切れ道草・東高野街道(4) 瓢箪山-六万寺

2009年4月 5日 その1
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Inari
 桜満開の4月5日,東高野街道のつづき,瓢箪山から主に八尾市をきます。目標は古市ですが,靴の調子によっては途中でやめるかも。
 ほぼ真っ直ぐの府道なのでおもしろくはないと思いますので,せいぜい横道で道草をするつもりです。

【瓢箪山稲荷】
 だんだん家から遠くなって,もう10時です。これから先が思いやられる。
 まずは瓢箪山稲荷に立ち寄ります。なぜ瓢箪山というのか!これがよくわかりました。そもそもこの稲荷社は,古墳時代の6世紀はじめの造営とさ
 れる双円墳の瓢箪山古墳の西斜面に西向きに社殿がたてられているからです,双円墳なので瓢箪型の山になります,
 社殿自体は比較的新しく,天正
P1060789P1060806P1060811十一年(1584年)豊臣秀吉が大坂城築城にあ たり、築城地から見て辰巳の方角にあたる、この地に金の瓢箪を埋めさせ、伏見桃山城から『ふくべの神』を分霊し、守護神として祀らせたのが、創始であると伝えられています。 ご祭神は若宇迦乃賣命(保食神)です。また,日本三稲荷の一つでもあります。P1060810P1060804P1060787
 拝殿・本殿を中心にぐるっと回れるようになっていて,あるわあるわ,たくさんの祠があります。左から回って番に写真を乗せておきます。パスしたのもあると思いますが。
 本殿の奧に祭神である保食大神を祀る戸川神社という名の石造の祠があります。瓢箪山稲荷神社の祭神も保食神ですか
ら、この祠と本殿との関係P1060801P1060790P1060803 はどうなっているのでしょうか?ダブルでお祀りなのでしょうか?このあたりがよく分かりません が,別にそんなことは無頓着に,ご利益のありそうなのP1060798P1060800P1060794をなんでもかんでも集めた感じがします。エエヤン,プラス思考で。 
 またここは,辻占の総本社としても知られています。ボクは 知りま せんでしたが・・・『江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始し、「 淡路島かよP1060807cutP1060797P1060796 ふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として日本全国に知られるようになった』と由緒書きにはありました。もらった しおりをみると,「辻占」予約制とあって,いまでもやってるんですね。ここの辻占はおみくじ辻占で,やきぬき・あぶりだし・おみくじの3種類が入っているそうでサンプルが印刷さ れてありました。また,餅花ひょうた ん辻占笹という,餅花の代わりに小さなひょうたんが飾りつけてあり,その中におみくじ辻占の入P1060813P1060812ったものもあるそすです。
 なお,駅前のアーケートにもひょうたんが飾ってあり,ここをジャ ンジャモールというようです。塗装がはげかけた渋い案内板にかいてありました。

【遺跡の街東大阪】
 商店街を出ると旧街道は車道になりますが,一応歩道があ
P1060815cutP1060814 るので楽です。安堂まで8kmらしいので足の(靴の)調子がよければ,古市まで行きたいものです。
 東大阪市も埋蔵文化財センター・ふれあい発掘館というのがありましたが,やむなくパス。すぐに縄手遺跡の説明板がありました。このあたりも古代というより,縄文・弥生時代の遺跡がたくさんあるようです。「石切編」で調べものをしていたときに出てきた,埋蔵文化財センターというのはここのことなのか。
P1060818P1060816
 下六万寺のバス停のところで,分岐する道があって,細いほうが旧街道と思いましたが,この道もちょっとで,すぐに府道に吸収されます。とりあえず府道177号を歩くしかありません。

(つづく)

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2009年5月22日 (金)

細切れ道草・東高野街道(3) 石切-瓢箪山

2009年3月17日  その4と番外
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【石切さん】
P1060568cut
 さて,かの有名な石切神社です。正しくは,石切剣箭(いしきりつるぎや)神社。いわきり・・・と読んだりするようですが,どうなのか分かりません。オフィシャルサイトは「いしきり・・・」でした。
 大阪では,「石切さん」で通ってしまいます。古くから「でんぼの神さん」として知られ,腫れ物などを治して下さる神様としても有名ですが,ちょっと体の具合が悪いとよくお参りしますね。
 ご祭神は饒速日尊と可美真手命。P1060570

 郷土史研究家・新藤治氏の講演によると(私は直接聞いてませんが・・・出所は※1),「いしきり」という言葉は,
アイヌ語の「i・shi・kir(長い・足)」であって,すなわち,長髄彦(ナガスネヒコ)という意味になる。これは,長髄彦が,神武天皇ヤマト征服に逆らったため,逆賊(日本書紀)として扱われていて,この地の先住民は当地の大首長であり英雄であった長髄彦を正面切ってお祀りできないので,アイヌ語の音に漢字の石切を宛て,祭神とし復権を果たした,ということらしいです。それが石切祖霊殿=石切大神であると。しかし,石切大神は公式サイトにはありませんでした。地図では現在の石切霊園のあたりに祖霊殿というのがのっていました。アイヌ語での解釈は(※2)にも詳しいです。
 さらに,新藤説によると,
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日下
クサ・・・船を着ける
カ・・・・・岸
生駒
イコ・・・猪,鹿
マ・・・・そこに居る

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※1:http://www.eva.hi-ho.ne.jp/tanabe/nagasunehiko.htm
※2:http://www.dai3gen.net/index_j.html

 一方,南方語源で解釈する人もいるようです。井上夢間さんの夢間草廬「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」(※3)によると,
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「石切剣箭(いはきりつるぎや)命神社の,「いわきり」は,マオリ語の「イ・ウアキ(またはハキ)・リ」,
i = beside;
uaki = launch, push endwise (haki = cast away);
ri = screen, protect),
で,(前に押し出されて)立っている(放り出されている)衝立(のような山)の傍ら

「つるぎや」は,「ツ・ルキ・イア」,
tu = stand, settle;
ruki = dark;
ia = indeed),
で,「実に暗いところに鎮座している(神)」の転訛と解します…」

さらに,日下「くさか」は,マオリ語の「ク・タカ」,
ku=silent;
taka=heap,be encircled
で,静かな高台(または音を立てずに包囲された場所)

「いこま」は,マオリ語の「イカ・ウマ」,
ika=warrior;
uma=bossom,chest
で,戦士の胸(のように直立している山)

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※3:http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

 うーん,どちらも納得か。そもそも,南のほうから海流にのってP1060579 幾重にも流れ着いた連中がこの日本列島にたくさん住み着いていたのでしょう。
 私としては,先住民のナガスネヒコを慕い敬う気持と苦節○年という執念のこもった新藤説が気に入ってます。これに近い話はよくありまして,元々はニギハヤヒをお祀りしていたが,物部氏(守屋)が天皇の后(御食炊屋姫,後の推古天皇)に田畑を差し出したことから,後に祭神が住吉四神になったけれども,本来はやっぱりニギハヤヒが祭神です,と由緒書きに書いてある神社もありますから。石切神社でも,公式サイトでもわかるように,ニギハヤヒとナガスネヒコの間に一線を引いているような感じですから,あからさまにナガスネコという訳にはいか
P1060571んかったんでしょう。

 ちょっと長居をしすぎましたが,お参りも一応しましたので, これにて退散。
 ここは神社もさる事ながら,参道の店をブラブラして歩くの
P1060582が吉です。どんなんかというと,探偵ナイトスクープ風のパラダイス!です。石切参道商店街のキャッチフレーズは「とっておきのひとときへ,夢の散策」です。皆さん!とっておきの時間に夢の散策をしてください。宣伝しておきます(※4)。しかし,今回はパス。
 少しだけですが,門前から東高野街道までの参道にある占 P1060583 いストリート。本当は近鉄石切駅からの参道のほうも見てください。こちら方面は,地下鉄が開通して新石切駅ができたせいか,店が増えた感じがします。「にいちゃん,みていって,よー当たるよ」という声を何度も受けましたが,こちとら,にーちゃんでもないし。
 総評としては,昔の話はともかく,大阪のおばちゃん達が闊歩するえらく庶民的な門前町でありました。

※4:http://www.isikiri.com/image/map08.pdf

【足が・・・・】
 さて出発,といいながらすぐそばの喫茶店で休憩です。足の調
P1060584子が・・・。どうも靴が合わなくなってきているようで,最近同じところにマメができます。昼過ぎからおかしかったのですが,そうとう大きくなってきたようです。それ に今日はかなり暑くなってきましたから。
 ゆっくり休憩。車いすにのった相当高齢のおばあさん(お母さんだと思う)をつれて貴婦人然とした女性が入ってきました。みるからに大変そうです。石切さんのご加護がありますよ うに
 気を取りなおして出発です。ここから真っ直ぐに瓢箪山に向かいま
P1060588
 まもなく枚岡神社前の五叉路・箱殿を通過しました。このあ
たり,宝町とか,宝箱とか魅力的な名前が気を引きますが調べるのはまたの機会に。ここは奈良街道・暗峠越えですでに歩いているんですが,まだアップしてません。
 枚岡神社の一の鳥居がみててきました。このあたり,そ
のものずばり,鳥P1060593cutP1060592居町です。鳥P1060591居さんという家も多いようです。箱殿 がメインエントリでなくこちらが正門のようです。ここにも東高野街道の案内板がたっていました。

【瓢箪山】
 ひたすら歩きます。途中にたて続けに大師堂がありました。街道筋はお屋敷がおおいですが,さすがにきれいに手入れしてあり,お花も新しい
P1060596P1060595P1060594 です。
 いきなり,「まいど1号」の文字が!東
大阪で記念券を発行しているようです。1万円で1万1千円のお買い物ができる,アレです。東大阪の町工場の職人(のおやっさん)が中心となって民力で人工衛星を飛ばすのに成功したということです  が,やはりちゃんとしたプロデューサがいたんですね。テレビでみま  し た。不況の世に格好の話題だったと思いますが,記 念券は売れたのか?幟を見たら期限3月8日で,本日は3月17日なのでだいぶん過ぎてますが,まだ有効なのか?堂々P1060601P1060600trimと幟を立てているP1060599_2ところをみると,あまり細かいことにこだわらずやっているのかも。そ わり には瓢箪。さすがの東高野街道案内板と道路改修記念碑もも影がうすいようでした。
 ここから本日の終点,瓢箪山まで旧街道はアーケードの中を 通
P1060603trimっていきます。府道のはずなのに,車を迂回させているようでした。 近鉄の駅のホームに「楠 正行公墓」の石柱がありました。へえー四條畷でなかったのか?

【永和・鴨高田神社】
 番外ですが,永和でおりてJR東線に乗換えます。永和は3回目なんですが,駅の近くにある神社が気になっていました。行ってみると,鴨高田神社。ご祭神は速須佐之男命,大鴨積命,神功皇后,應神天皇の四柱です。この
あたり高井田の庄は石清水八幡宮領だたことから八幡宮ともいわれている。
 大鴨積命は初めてですが,大和葛城を本拠に主に
祭祀(祭典)を掌り,この地に居移した鴨氏の開祖といわP1060606れまP1060604す。P1060614 拝殿西側には,樹齢約一千年といわれる楠(の跡)が残って いました
 大きな神社でしたが,駅から少し離れるだけでひっそりとした 静かな神社でした。

(第3話おわり)

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細切れ道草・東高野街道(3) 中垣内-日下

2009年3月17日 その3
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【須波麻神社】
 府道170号を歩きますが,すぐにおもしろくなくなってきた
P1060552 ので,例によって路地ブラはじめました。生駒カレッジハウスの次の筋を東へ入ったはずなんですが,覚えていない。地図には書きましたがどこをどう通ったか自信なし。ぐちゃぐちゃ角を曲った気がする。
 確認のため府道にもどろうとしました。と,そこに,須波麻神社の石燈篭と標柱。名前から気になってきたので,調べてみP1060553ました。 
 阜嵐健さんのサイト「延喜式神社の調査」によると,
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 【延喜式神名帳】須波麻神社 鍬靱 河内国 讃良郡鎮座
 【祭神】大国主命。度会氏『神名帳考証』木神P1060554
 この地は一万年以前から河内湾→河内潟→河内湖と変貌をとげた低地であり、八~九世紀ごろはまだ湿地帯であつた。
河内湖が縮少しても、なおこの地域には新開池、深野池などの大きな池が残り、この神社のすぐ西はそうした池の水辺になつていたと思われる。そのために水辺に祀られた神として渚濱(すはま)に位置してゐたことから、社名になつたものと考えられる。

祭神は木霊との伝承もあり、当社の西南5kmに彌生時代の前期~後期につづく瓜生堂の彌生期大遺跡があり、こ木棺や、大量の農耕用木製品が検出され、そうした木製品の原料がここれらの大量の樹木の供給地が、このあたりの生駒西麓にあるものと推察され、そうした伐採の木霊を鎭める祭祀場として、古代人から継承された地と考えると、木神を祀つているこの神社の初源が推量できるものと思われる。

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http://www.geocities.jp/engisiki/kawachi/html/040701-01.html

 神社がやたら山に近いところにあるのはそういうことか。以前,四條畷のある神社(忘れた)の秋祭りを地元のケーブルTVでみたんですが,なんと,巨大な白木の丸太が御輿そのものだったのでびっくりしました。どうやらこのあたり一帯,材木の供給地だったことはうなずける,古代,このあたりすぐそばまで河内湖だったらしいので,樟で船なども作ったんではないかと思います。木神を祀るっているのもなるほどと思いました。いつか行ってみたいと思います。

【生駒の石】
 須波麻神社の標柱からすぐ西で府道に合流しそうだったので ,
P1060556P1060555引き返して適当なところの路地を入って南下を進めました。なんだ!すぐに阪奈道路にあたってしまいました。しかたがないので府道にもどります。ここからは東大阪市になります。
 善根寺2丁目に入る交差点で,石燈篭とともに,その向かい
P1060559P1060558 側の民家の軒下に一里松跡の碑を見つけました。一里 塚?山側へ行くと春日神社に行くようです。そして,日下直越。
このあたり,石屋さんが多い。ガイドブックを見ていたら,先程の須波麻神社のあたりには大坂城築城の際の石切り場があったようで,「残り石」も
P1060560残っているようです。ちなみに,石切という地名は石切神社からで,石きり場の由来ではな いようです。石屋さんの店先には新しく作った「一休さん?」の像がありま した。本物の箒を両手で持って,ほう,これはかわいい。
 府道歩きも飽きたので(すぐに飽きる),日下に入るあたりからまた路地へ入り込みました。山裾まではかなり遠く,際限な登り
P1060561そうなのですぐに右折。孔舎衙(くさか)小学校のそばの道を南下していきます。また石屋さんがありました。さすがに石の街だとおもう。正面(東)には生駒山が見えます。

【日下の戦い】
 このあたりは日下といいます。
P1060564
 東征中のカムヤマトイワレヒコ軍(神武軍)とニギハヤヒ・ナガスネヒコ軍が戦ったところです(言い切ってますが・・・まあ,いいでしょう)。出航の年からえて5年、非常に潮の流れが速い 難波津をやっとの思いで通過してへろへろになった神武軍は正面突破を図ろうとしたようで,生駒の孔舎衙坂で戦いになりました。
 当時は淀川流域の枚方あたりから南は日下あたりまでが潟湖(河内湖)だったようで,この状態は、少なくとも仁徳朝時代まで続いたとされています。水際は今歩いている所よりもっと山のほうだろうと思います。縄文時代後期から晩期P1060566の集落跡である日下貝塚が孔舎衙(くさか)東小学校の南側といいますから,そこからすぐ東は急に生駒山が壁のように立ちはだかっています。こんなところで正面突破作戦とは!山に隠れてゲリラ戦をやられたらにっちもさっちもいかなくなると思います。現地を眺めて(遠くからですが)みてよくわかりマス。
 最初は河内湖の水際での戦いだと思っていたのですが,神奈備さんのサイトを見ていると,神武軍もかなり山奥まで肉薄していたようです。それにニギハヤヒ山とか哮峰まで書いてありました!
 日下の東方山腹、標高240mあたりの尾根の突端部に,「神武天皇顕彰碑」があって,ここは、尾根道をとおる日下直越のルートでもあります。このあたりで激戦があった模様です。
ら大このとき,痛手を負った五瀬命が傷を洗った?という「龍の口霊泉」はもう少し北東に降りた沢にあります。見てきたようですが,まだ行ってません。神奈備さんのサイト等からマッピングをしましたので,載せておきます(製作途上です)。今度行くため用でもあります。ハイキングルートになっているようなので地図もあると思います。しらべておきます。
 
なお,石切神社の公式サイトでは,孔舎衙坂で神武軍と長髄彦の激戦があって,それは現在の石切霊園のあたりという説明がありました。ちなみに,近鉄の元のトンネルの入口にあった駅は,公式的には孔舎衛(くさえ)坂駅で孔舎衙坂駅という標記は間違いだということでした。ややこし。

http://kamnavi.jp/jm/kusaka.htm

 
より大きな地図で 東高野街道2 を表示

 ここが激戦区か!と,思いながら日下の坂を登ったり降りたりしておりました。もうすぐ石切です。と思っていると,こんなものが。公園でP1060567 もないようなのですが,生えていたのを切ったのか,立てたのか?この大木どうするんでしょうか?

(つづく)
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09/05/21:地名の訂正

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2009年5月21日 (木)

細切れ道草・東高野街道(3) 忍ヶ丘-寺川

2009年3月17日 その2
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【歴史民俗資料館】
 ここから忍ヶ丘まで電車に乗るんです。横着ではなくて
P1060515P1060516四條畷までは既に(※)歩いていますので。ただ,忍ヶ丘-四條畷は旧街道よりも山側の道を歩いたんで,今回やり直しです。特に四條畷市立の歴史民俗資料館をのぞくのが第1の目的です。

※東高野街道ウォーク【四條畷編】
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2005/10/post_a614.html

 忍ヶ丘駅前東南には公園がスタートです。案内板もあるのでルートを確認します。北堀橋-三徳稲荷と過ぎて,市民総合センターに来ました。ここでタバコ休憩。
 四條畷というと,普通,JR四條畷駅あたりが中心と思うのでP1060517 すが,そこは大東市なのです。このあたり中野が中心で,むしろ忍ヶ丘のほうが近いですね。市民総合センターは昔の甲可小学校の跡地だそうで,それで四條畷育英の地という標柱が建っているのでした。付近には,明治7年中野屯所に始まる四條畷警察の発祥地・中野派出所,四條畷唯一の石橋と言われる三坪橋など,見所もありますが道を探していて写真撮るのを忘れましたP1060521
 三坪橋を渡ると小道は俄然街道の風情をしてきました。と思うと国道163にあたり,その下をくぐります。まもなく民俗資料館です。
 ここは電車のなかから見えるので,一度行ってみたいと思っていました。行ってみるとなかなかの展示物です。係の老婦人が丁寧に説明してくれます。かつ無料!行った当時は,雁屋遺跡から出たという弥生時代の男性人骨が展示されていました。ほとんど全身P1060522 がかなりきれいに残っています。まるでミイラかと思いました。この男性の子孫が日本海地域と交流をもっていたということです。また,かなり大きな木棺の展示もありました。展示は特別展中心にやっているので時によって変るということでした。
 この四條畷あたりは近畿地方でもっともはやく稲作をやっていたということです(四條畷市/寝屋川市にまたがる讃良郡条里遺
Img跡)。古墳時代に入ると,この地一帯が馬飼場(牧場)だったそうです。馬は、 古代社会では、軍事や運輸、通信の要ですが,日本には元々生息しておらず、古墳時代に朝鮮半島からの渡来人により持ち込まれ繁殖させられました。古代河内湖と生駒山系とに囲まれた北河内の牧場で、馬が飼育され、大王に献上されたり,軍に徴用されたりしたと考えられています。資料館でもらった歴史散策マップをみると,馬に関する遺跡がやたらありました。北河内の馬飼部首荒籠が男大迹王の即位に一役かったのも,この馬をベースにした力がものを言ったのだと思います。
 四條畷というと,大体,楠正行を思うのが普通ですが,それP1060529 よりも,馬飼部の本拠地である,これはボクにとって大きな発見でした。
 資料館には,明治40年に建てられた土蔵造り2階建(もとは裁判所の出張所の建物)の民俗展示室があって,昭和30年代まで使われていた農機具が展示されていました。昔,実際に使ったものもあって懐かしかったです。
四條畷市立歴史民俗資料館公式サイト:http://www.city.shijonawate.lg.jp/shijonawate/ta/rekimin/

【路地徘徊】
 資料館を過ぎると,旧街道はすぐに府道に合流します。合流点には(伝)和田賢秀の墓がありました。和田賢秀とは楠正行のいとこで,家臣ですが,四條畷の戦いで正行が討ち死にした後,一人で敵将・高師直の首を討とうとしましたが果たせず、敵に首をはねられました。この首が敵の喉に噛みついて離
P1060531rれなかったと言われ、以来賢秀は、「歯神さん」と呼ばれて厚い信仰を受けたということですが・・・・ちょっと気持の悪さが先に立ちます。そうそうにパス。
 ここから府道歩きですが,道が狭いうえに歩道が確保されてなくて,車がびゅんびゅん通るので,実際危いです。あまりゆっくりできません。四條畷駅前までとにかく我慢して歩きます。
 駅前まで歩いて,さすがにいやになったんで,府道に沿って路地を歩くことにしました。これがなかなかおもしろい。ときどき府道に戻って現在地を確認しないとどこにいくか分かりません,この不安定さがおもしろいのです。
P1060534P1060532cutP1060533
 府道にもまだまだ渋い建物が残っています。こういうのを見 つけるのもおもしろさの一つです。
 路地歩きには失敗もありまして,大きな農家を見つけて,ここなら快適に歩けそうと思って行った行き止まりだったとか,あります。このときは 旧街道と反対側へ行ったため,旧街道を逃がしてしまい,結局府道歩きを,野崎まで続けてしまいました。
 ここで,お昼も過ぎたので駅前まで行って喫茶店を探して昼食 としました。

【野崎まいり】
 野崎まいりは昔行ったので,今回しませんでしたが,こ
P1060537P1060536 の駅前からの参道もかなり変わってきているようで,なにか普通の駅前通りになっていました。以前はもっと,参道らしい土産物屋や露店がたくさんあったような気がします。
 野崎まいりというと,桂春團冶の落語ですね。また,「♪野崎まいりは 屋形船でまいいろー♪」という東海林太郎さんの「野崎小唄」。五月の一日から十日間が野崎まいりのピーク, 即ち,野崎
観音・慈眼寺の「無縁経法要」です。これに大阪からは,寝屋川を屋形船で行ったり,特庵堤を歩いていったりするわけですが,水陸双方,相手に悪態をつきながら,やいやい言って道中を進める噺です。ただでさえ陽気な連中が,初夏の陽気に誘われて,さらに陽気になって,負けじと悪態をつく訳ですがどこか抜けている,そういうウキウキ気分があふれた落語です。ボクの好きな落語のひとつです。
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日本には、この三詣りと申しまして、関西には有名なお詣りが三つございます。一つは京都祇園さんのおけら詣り。もう一つは讃岐の金毘羅さんは鞘橋の行交い。いま一つは大阪の野崎詣り。
 ここは五月の一日から十日間というものは大勢のお詣りで、大変賑わいます。ここにございました、われわれ同様といういう気性の合うた2人。野崎詣りをしようと、大阪を東へ東へ、片町も過ぎへかかりますと、主従無礼講。その道中の陽気なこと・・・

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てな調子で噺が始まります。(野崎観音公式サイト:http://www.nozakikannon.or.jp/)

参考までに,大東市のサイトから:http://www.masse.or.jp/~jichiosaka/backnumber/pdf17-4/20054p01.pdf
世紀末亭さんのサイト:http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug124.htm

【街道復帰】
 野崎観音・慈眼寺の山門前で旧街道に入りました。ここ からほぼ
P1060541P1060540P1060538真っ直ぐ,街道が南下していきます。
山手には臍の王神社とか宝頭神社とかおもしろそうな神社もあるんですが,今回はパス。
 この街道,古いものと新しいもの(建物)が混在して
P1060546P1060545 P1060543cut いてなかなか楽しめる街道歩きでし た。
 旧街道を出て府道に合流したところは寺川というところで,大阪産業大学,大阪桐蔭高校が集まっているキャンパスゾーンになっていました。街道はここを突っ切っていきます。
P1060551P1060547

(つづく)

 

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2009年5月20日 (水)

細切れ道草・東高野街道(3) 番外(山根街道)

2009年3月17日 その1
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【山根街道】
 所要でAコープ星田店に行ったので,そのあと引き続き東高野街道を歩きます。予定は瓢箪山まで。といっても,四條畷までは既に歩いているので,寄り道・散歩をしながらです。
 歩いたルートは地図青線で示してありますが,この道は山根街道と一部重なります。また「星の町交野」サイトからですが,例によって詳細にレポートされているので見ていただくとして,そのルートをグリーンで示しました。また,ポイントになる場所での写真は風船マークで示しました(全部ではないですが・・・)
 
より大きな地図で 東高野街道2 を表示

【星降った三角形】
 いきなり道草ですが,降星伝説の地の1つに寄ってみました。星の森
P1070014_2 P1070015。なんと!近くにいながら初めてです!説明は案内板をいていただきたいですが,星降った三角形を地図に書き込んでみました。正三角形と聞いてましたが,正ではなかった。これについてはいずれまた書いてみます。 

 星の森の横を流れる川は傍示川といいますが,ここの桜が妙見河原のものに匹敵するようになっています。4月に行ったときのものですが,写真を載せておきました。最近,ボP1070020 ランティアの方が中心となって,大木が茂って少し荒れていた河原を整備されています。ところどころにお手製の竹ベンチも作られ,新しい桜の木も植えておられます。若樹には寄付された方の銘板が下がっていました。花芽もつけていて,もう数年立てばより見事な「花街道」になると思います。楽しみです。

【妙見道】
 寝屋川公園につながる新道の途中から田んぼの畦道を行き
P1060506 ます。この時期でないと,草ボウボウで何か出そうな気がして,なかなか行く気がしません。山の鼻の先に石標がたっていて,こちらの面には「妙見道」,向こう側の面は「大坂道」と書いてありました。星田・妙見さんに行く道も兼ねているようです。この妙見道は妙見さんに向かって縦横無尽に走っています。
 ところでここは三叉路なんですかね?これが分かりません。道は水路
P1060510に沿って谷の奥のほうに行っています。ぐるっと回って田んぼの向こう側に行くとは思いますが・・・すぐ下に道はきているようなのですが,ブッシュで降りられない。しかたがないので,あた畦道を行きました。ここもちゃんとした道はなく,道らしきものができていた無理やり斜面を降りましたが・・・「私有地につき通行P1060511禁止」の看板が。すみませんね。どうやら,皆さん分からなくなってエイヤ!っとここを降りていくようです。イナカで育った者にとっては,畦道は公道の感覚があって,畦道を走り回る子供でさえも,田んぼや畑の中には入らないし,ましてや植えてあるものには絶対手を出さないのが普通です。そんな訳で,ここまでしなくてもとは思いますが,街の人が団体でゾロゾP1060512 ロ通った 日にゃ,持ち主の方もたまらんでしょう。ここは通らないように。
 農道におりて,十字路になったところがありますが,ここから市境に沿って北へ行く道が旧街道です。行くとすぐ行き止まりになって,また畦道歩きをしないといけません。その先は新しくできた住宅地で消失しています。

【大師堂】
 谷の田んぼををぐるっと回ってきた山根街道と東高野街道P1060513_3 の出合いにはお大師様の祠があります。南大谷大師堂と呼ばれているようですが,いつもお花が供えられています。4年前に比べたら周囲がかなり整備されましたし,お供え物が増えました。花だけでなく招き猫やミニ地蔵,金太郎人形まである。しかし,まだ鯉のぼりは早いんじゃないだろうか?石の祠の上のてぬぐい書きも交換されているようです。祠の後ろもかなりきれいになりました。昔は草ぼうぼうのゴミ捨て場になっていた。看板が効いていると思います。一番後ろの看板はおもしろくて,「若い者には花もたせ」。
 ここで街道巡りをしている団体に会いました。そろそろシーズンです。さすがに一緒になると閉口するのであえてタイムラグを取って歩きました。この先には弘法清水などもあるんですが,パスして東寝屋川駅に向かいました。

(つづく)

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2009年5月18日 (月)

細切れ道草・東高野街道(2) 茄子作-星田

2009年3月7日 その4
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【茄子作】
P1060275
  ここで天野川を渡り,いったん枚方市にもどります。天野川沿いに道は続いていてよい散歩コースですが,途中で民家の裏庭みたいなと ころを通るのでちょっと気が引けます。この道も以前あるいているので,そのページを見てください。

http://walkin.way-nifty.com/walkin/2005/10/post_0521.html

 街道は今の市境に沿っていて,写真の住宅の右側を通ります。茄子作というところです。右手にはお気に入りのケーキ屋さんP1060287。(ラーメン屋の向こう側のベージュの建物です)ここのは安くておいしい!
 茄子作[なすづくり]の由来というのが前から気になっていたので,この際調べてみました。枚方市のサイト,「あんなとここんなとこ」※1のページに
は,
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昔、村が茄子の名産地だったことから、あるいは、高貴な方が村でとれた茄子を食し、おいしいと感動したという話から茄子をつくる村としたというのが一説。また、平安時代、惟喬親王の狩猟用の鷹につける名鈴[なすず]をつくらされた村が名鈴作村で、いつの間にか茄子作村となったという説もあ
ります。

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と,2説が紹介されていました。しかしどの説も確かな根拠はな
 いということでした。
※1:http://www.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/gikai/files/annatoko/annatoko%20konnatoko%20sono11.pdf
 

【上ん山の辻】 
 現在,交野市-枚方市では,第2京 阪道路およびそのアクセP1060311P1060308P1060305 P1060338  道路の建設真っ最中です。古街道もそこに吸収されてしまいます。このパーマ屋さんも立ち退 きになるのか?
 なおも新しい住宅地の中の細いみちを
ゆるやかに登っていきます。この丘は 「上人松」とか「上ん山」とか言われています。先程のアクセス道路は左手にみえる作業小屋の向うを通っていて,ちょうどそこは山根街道の通っていたところで,山 根街道も完全に消失する模様ですね。
 上ん山の坂を登る途中に「本尊掛松遺跡大念Vfsh0093 仏寺」の道標と大きい地蔵様があります。このあたりの詳しいこVfsh0095P1060320とは先程の「星のまち交野」サイト※2を見てほしいのですが,ここには「上人松」伝説があって,念仏踊り発祥の地と 言われています。2005年に撮った写真(ケータイデジカメなので小さめにしてます)があるので比較して見てほしいですが,当時は住宅建設の真っ最中でした。今はすっかり住宅に囲まれたスポットになっていて,きれいに整備はされていますが,なだまだこなれていないと思います。P1060324
 上ん山を登り切ると小さなお地蔵さんと道標があります。ここは上ん山の辻で,東高野街道と山根街道の分岐点です。車の横腹が写っている 写真の右が山根街道,左は今来た東高野街道で,「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」と彫ってあります。南側の小さい道標には「右 山根街道 左 すぐ東高野道」P1060335と彫ってありました。2005年当時は車の置いてあるところはさら地になっていまして,それ以前は鉄工所のような建物が建っていました。きれいに整備はされてきていますが,もう少しやりようがあるような・・・・
※2:http://murata35.chicappa.jp/index.html

 「星のまち交野」によると,この付近には「上の山遺跡」があります。それはコーナン近くの第2京阪工事現場です。これまでの調査で、旧石器時代から中世までの遺構や遺物が見つかっており,弥生時代中期前半(今から約2,200年前)の大型掘立柱建物が発掘されました。建物は段丘の最頂部(標高29m)にあたり、見晴らしがよい場所らしいですが,現在は埋め戻され分かりません。第一工事で立ち入れないです。ちなみに,枚方,交野の天野川周辺は遺跡だらけといってよいほど古墳やそれ以前の遺跡が数多くあります。

【緑たつ道はどうなるのか?】
 ここから先,街道はコーナンの看板の先,府道を突っ切っ てまっすぐいくんですが,今は第2京阪の工事で通れません。多分第2京阪が完成すると跡
P1060338_2形もなく消えるのではないかと思います。第2京阪のキャッチフレーズは「緑たつ道」ということですが,工事が終れば周辺きれいに整備されるかも知れません。が,キレイのし方が古街道にあうんだろうか?と心配になっています。合理性はよいとして,古街道もなにもかもリセットした上でのキレイ サは御免こうむりたい気 がします。
 古街道は現在のコーナンの所から府道から離れて,昔は,しばらく農園の中をのんびり通る道であったのが,今は,住宅地の中を道になっています。
その道もしばらく行くと,工場に突き当たってそこで消えています。ただP1060358P1060352,生活道路は工場を迂回して工場の東側に続 いていますが・・・・ 仕方がないので,府道を南下します。 
 工事中の第2京阪をくぐると枚方市から再び交野市に入ります。だいぶん歩くと,旧臨港製鉄工場のほぼ真中あたりから,クロネコヤマトの前あたりに古街道が出てくるはずな んですが,今は工場の塀で仕切られています。街道P1060371P1060362は府道を横切って,星田共同墓地の入口にあるお地蔵さんの脇を通って,工場の間をすリ抜けていきます。2005年にはここは草ボウボウでる気がしませんでした。その後,星田の墓地管理者の方がきれいに整備してくださったようです。

【星田の道・明暗】
 街道は大きなアパートのそばをすり抜けて,香里園にP1060379 向かう広い道にでます。この広い道は日中戦争~太平洋戦争中,星田駅から,今の香里団地にあった陸軍造兵廠の香里製造所がに火薬物資を運ぶ軍用線があったところです。地図をみると一目瞭然なんですが,やや細い道が湾曲して広い通りに合流しています。駅前の田んぼの中には境界票が残されているようですが,ボクは確認していません。
 香里は、人家が少なく山と谷がはっきりしていて誘爆を防ぐP1060385 地形であることから選ばれたそうで,土地を強制買収し、1939(昭和14)年末には火薬製造が始まったそうです。恐ろしい話ですが,火薬製造所は戦後に閉鎖,朝鮮戦争後は一転して香里団地造成への転用が始まっていったそうです。
http://www.shoai.ne.jp/hirakata/meisyou/011113/011113.html
http://homepage2.nifty.com/t-nakayama/haisen/hirakata/hirakata.htm

 古街道の方は,田んぼの中を通っていきます。このあたり, 歩
P1060388いたときは両側は畑で玉ねぎが育っていました。また市民農園もされているようで,まことにのどかな田園風景が拡がっていました。ここには一里塚跡があって,標柱がたっております。それはいいんですが,その後ろの空き地がいけない。空き地は仕方がないにしてもゴミ捨て場になってしまっています。夏には草が生い茂るので気がつかなかったんですが,今はマル分かり。P1060395P1060410
 日本人は村外れにものを捨てる習性があるようで,昔,どの村にも?共同のゴミ捨て場(今で言う不燃粗大ゴミ)がありました。公認というより,住民あうんの呼吸での相互承諾みたいな形で進行していたと思います。その頃は粗大ゴミを僅かであったの
P1060425P1060422 で,なん とかオーバーフローせずにうやむやで済んでいたが,いまはそうはいきません。その習性だけが継続さ れていて,ここは捨ててもいいもんだ,という感覚になってしまっていると思います。
 2日目のウォークの終りにちょっと嫌なものを見,そんな話題でP1060434cut 終るのもなんですが,これが現実です。今後の戒めという意味でこれでこの回を終りたいと思います。

(第2日おわり)

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細切れ道草・東高野街道(2) 四辻-郡津

2009年3月7日 その3
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 このままでは工場地区に突入するので四つ辻のバス道で元の府道に帰りました。このバス道は何回となく通りましたが,歩いてみると,車がびゅんびゅんきて歩きにくいこと!すぐに府道18号に出て,ここは歩道があ
P1060187P1060172 るので助かります。右は仕事でお世話になった(お世話したとはとても言えない)日本精線さん。ここは枚方の日本精線さん。枚岡にもありまして,こちらは日本製線さん。あーややこし。「エー,にほんせいせんですが・・・」という電話を受けたときなど,話がつながらないことが多々ありました。
 ほぼ直線の道をひたすら歩きます。パン工場,水道局・村野浄
P1060199P1060190水場と続いて出鼻橋にいたります。

【郡津茶屋】
 ここから交野市郡津にはいり,旧街道がやや復活です。 ここには当時,街道茶屋が設けられていて,にぎやかだったといいます。今でも上茶屋,下茶屋という名前が残っています。以前ここを歩いたことがあるので,そのページも見てください。この先,京阪交野線を渡ったところに郡津を通る東高野街Kanban 道と郡津茶屋の説明板がありました。
 交野に入るとクドクド書くことはありません。「星のまち交野」のサイト(※1)を見ていただければ全部解決。それほど充実したサイトで,ボクもいつも参照させてもらってます。その中の,交野古文化同好会のページ「交野歴史健康ウォーク 2007.5.12 第82回東高野街道を歩く その1 」をダイジェストさせていただくと,
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古代、律令時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙が設けられ,私市から枚方まででとれた年貢米を郡司が、この倉山の倉におさめて管理していた。その郡衙に入る所に門があり郡門「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。
 また,郡津の村は環濠集落と言われていて、防御策として溜池、長池などが利用された。台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。

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P1060226P1060205P1060202
とあります。たしかに周囲より少し高いところを街道が通っていて 集落が発達しており,あちこちP1060238P1060237P1060229に溜め池もありました。往時はにぎやかな通りだったようです が,いまはひっそりとした村の中の道です。
P1060257
【交野条里制】
 郡津の街道が終る頃に石標があって,古代天野川地方條里 区■
五條■(あとの方判読困難)とありました。班田収 授法 による条里制の五条で,天野川流域では一條が私市・天田の宮の下になります。交野条里制の解説も「星のまち交野P1070352 7.田圃の歴史」にあります。最後の季節はずれの写真は私市・天田の宮の下,一條あたりの現在の田んぼです。正面に鳥居が見えますが,あこそから左(西)へのラインがほぼ一條のラインです。

※1:http://murata35.chicappa.jp/index.html

(つづく)

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細切れ道草・東高野街道(2) 招堤-出屋敷-大峰 

2009年3月7日 -----------------------------------------------------

【国道歩き】

 ここからどうしても国道歩きになります。おもしろくはないが・・・しP1050989かし,車で通るとは違いいろいろ発見もあります。しかも最近はあまりこちら方面には来ていないので,かなり以前より変化があります。
 家具団地交差点から東・南側,塀で囲っているので住宅街でもできるんだろうか?国道の西側にはフォレオひらかたというアミューズメントセP1050997ンター,ショッピングセンター?ができてお りました。かなりでかいです。みると, その中に「枚方高野道食堂」の看板が。高野道の道は消えても名前だけはこういう形で残ってるんです。中古車センターのあった場所は整地してだだっ広い空き地になっていました。こんなに広かったか?と思うほど,相当広いです。また住宅街,マンションか何か建つんでしょうか。P1060025
 招堤の池の交差点を過ぎたところに,こんもりというより雑然とた木立のかたまりがありました。,どうもお寺らしくないお寺のようでした。看板 の字もはげていて読めない。■龍山飛鳥地蔵か?地蔵菩薩が本尊ですが,弘法大師もちゃんとおまつりしてあるようです。街道もこのあたりを通っていたのP1060043か?こんなものは車にのっていたら絶対分からない。
  大林の工場を過ぎ,本覚寺入口を過ぎると,国道と分かれて左手
(東)に小路が入っていきます。とりあえずこの道をとります。まっすぐ行くとラブホテル街にのような所を通り,山田池公園に突き当たりました。弘法大師もびっくりでしょう。ここで小休止。

【出屋敷】


より大きな地図で 東高野街道1 を表示

 招堤から出屋敷までの古街道はまったくよく分からないです。高野道から枚方企業団地を突っ切って,池の西を通って穂谷川に突き当たって,川沿いに出屋敷に至るというのが自然なような気もしますが,分かりません。だいいち,出屋敷の街道入口はあるにせよ,どこからつながっているのP1060073P1060070 かが分かりません。日置今池街道というのがあって,穂谷川を渡って出屋敷方面に向かう道がある んですが,その道は出屋敷の街道のすぐ東側の農 道のような小道につなが るのです。ボクは地図を見ないで,いや,見てはいたんですが,間違えてしまい,その農道に入ってだいぶ行ってから気づいて,出屋敷の街道入口まで引き返しました。P1060083P1060091
 出屋敷街道入口は,道を隔てて正面に家があって,この街道はどこにつながるんだ?あて曲げ・宿場町の枡形みたいに,あえて直線とせずに,「 のように曲ってから日置今池街道につなげているんだろうか? 田口山グリーン・ブログ(※1)にP1060112よるP1060101と,出屋敷はもともと田口出屋敷であって,江戸時代に新しく作られたもののようなので,古来の街道筋を無視して「ココ」というように決めたんでしょうかね。 
 出屋敷の街道筋はまことに気持のよいP1060128P1060103道です。国道の喧騒がうそのようです。のんびりと写真を取りながら往復しました。距離にして300mほど。途中には, 東高野街道の石柱もたっています。
 出屋敷出口近くにある円通時には枚
方市の説明板があ る がアミフェンスの中にあるので読みにくい!
枚方市の公式サイト・遺跡情報ページには出屋敷の若干の解 説と説明板の原稿(pdf,※2)が掲載され ているので参照してください。はて?ここは遺跡なのか!?現役の街として捉え て拡充していかないとあかんのちゃうか!

----------旧東高野街道(出屋敷) 説明板 ----------
 高野山参詣のために整備された街道であるが、その歴史は古く平安時代の官道である南海道に遡る。南海道は、律令国家体制の崩壊とともに機能を失墜しつつあったが、高野聖の台頭を機に碑がちの高野街道として再び重要視され、平安時代後期から室町時代の末頃まで貴族による高野詣での頻繁な往来で賑わった。以後も慶長6(1601)年に京街道が整備されるまで、山城と河内を結ぶ幹線道であった。
 その道程は、山城と河内の国境の洞ヶ峠から現在の枚方市域を縦断し、生駒山地西麓を南下、さらに石川沿いを遡り河内長野で堺を起点とする西高野街道と合し、紀見峠を越え橋本を経て高野山に至る。
 本市域では、洞ヶ峠から高野道・招提新大池・出屋敷・山呂大池・交野市郡津を経由して茄子作を通過するが、出屋敷は家並みとともに、かつての面影を今に留めており、旧街道に臨む多田家の生垣には、人々の往来を偲ぶように道標がひっそり佇んでいる。    

                       枚方市教育委員会
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P1060134-------
ということで,これから行こうとする行程が書かれています。東高野街
道は河内長野までですが,少なくも橋本までは行ってみたい。
※1:http://ga-ko.gaku-shin.com/?day=20080608
※2:http://www.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/bu
nkazai/serch/bunkazai/pre01.htm?tuNo=156#

【大峰】P1060142P1060136
  出屋敷街道筋はあっというまに終ってしまい,また 喧騒です。ここで古街道は消失し府道と合流します。その先には枚方市の体育館がありました。
 車でここを走っていて,いつも気になっていたんですが,道路東側の住宅地の中に入っていく小道がありますP1060163P1060154。行ってみると,大峰というところでした。なんの変哲もない住宅地の道です が,どうも古くからの村の中の道のようです。ここを街道が通っていたのかも知れませんが,しかし,方角はまっすぐ南下していて,工場団地にぶつかります。その先は田んぼだったと思いますが,春日を通って倉治に向かい,山根街道に行き当たり,結局は東高野街道に合流することになるので,ひょっ とすればそういう街道(間道)があったのかも知れません。そうそう,前に書いた吉井の「向て右洞ヶ峠」の石碑からまっすぐ南に長尾に向かう道が山根街道になるのでした。
 大峰はやや雑然としているものの,静かな村の中の道でし た。こういう道には必ずといっていいほど協同作業所(集会所 ?)ありまして,掲示板P1060167があったり,行事の予定が貼ってあったりと,コミュニケ-ションセンターになっているようです。こういうところがしっかり管理されているほど住み易い街ではないかなと思ったりします。錆びたトタン板もなかなかよろしいのでは。

(つづく)

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2009年5月16日 (土)

細切れ道草・東高野街道(2) 八幡月夜田-高野道

2009年3月7日
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【月夜田】
 さて2回めは八幡月夜田から星田までを歩きます。いずれも天にちなんだ名前ですね。
 月夜田とはなかなか美しい名前と思いますが,なぜP1050890cjpg このような名前が付いたか?各地にも月夜田とか月夜畑というのは結構あるみたいです。ある方が「月夜」地名で調べた結果(※1)によると,圧倒的に東国が多い。福島,東京,長野・・・地域の偏り,これはこれでおもしろそうだが,由来は分からない。さらに,月夜畑の由来(※2)として,収穫の秋の日は短く,お天気の悪い年など短期に収穫が集中する。そうなると,夜業仕事に稲刈りをしないと取り上げが終らないので、夕飯もそこそこにして田
P1050892cutに急ぎ稲を刈る。月の明かりで稲刈りするから月夜畑となった,とありました。
※1:http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/35825525.html
※2:http://www.musubu.jp/chimeitukiyobata.htm
 たしかにボクの経験からいっても,稲刈りは昼間にできたとしても脱穀が間に合わない,雨の予報が出ているときなど,無理を承知で夜なべ仕事で脱穀をやったことがたびたびありました。タイミングの悪い場合はどこの家もそうでした。
 あるいは,人目に知られないようにこっそり月夜に田んぼを作った?このあたりは多分八幡宮の土地だと思うので,そんな勝手はできないでしょう。決め手がないので,ここでは,月の光が田んぼに映りこんで美しいところであった,という風流心をその由来にしときましょう。
円福寺道標】
いきなり「向て右洞ヶ峠」という石碑が現れました。これもP1050895cut 三宅碑で三宅安兵衛依遺志建之の文字が彫られています。円福寺への案内碑でもあります。
 向て右 洞ヶ峠二丁 圓福寺五丁 田ノ口三十丁
 向て左 西二子塚三丁 美の山五丁 長尾三十丁 峠五丁
しかし,住宅地へいくような道だったので行くのはやめました。もう1回くらい右に上がる道はあるでしょう。
 このあたりからそろそろ八幡名物中古車解体・もぎ取り販売のメッカであります。ポンコツ街道はもうひとつ東側の通りで一ノ坪あたりに集中しP1050898 ています。
 そうこうするうちに右に上がる道もなく,早くも国道1号線に出てしまいました。交差点前に細い山道のようなものが右に上がってあいたので,それを行きました。よその家の庭をのぞくような感じになります。昔ながらの峠道はこんなであったか,と思うような見晴らしのよい道でありました。すぐ横を国道1号線が走っていて,そうとうウルサイ。
【消えた古街道】
 洞ヶ峠交差点:一号線との新しい道・山手幹線との交差点にきてしまいました。ここから南,一号線東の丘陵地帯の開発は著しいものがあります。摂南大学薬学部,実験センター。昔からある家具団地を挟んで,さらに南には大阪工大情報科学学部,そして北山の住宅街へと続きます。北山の住宅街にはポエムノール北山なんぞといハイカラな名前がついておりました。日和見でうさんくさいイメージのつきまとう「洞ヶ峠」を嫌ったか?
 ここからやむなく国道歩きに入る訳ですが,あまりにウルサイので,洞ヶ峠の頂上・NTTの中継塔を右に見ながら,男山につながる新しい道を北に取りわき道をさがしました。この道は洞ヶ峠の丘を切り拓いて作ってあるので取りつく島もないです。陸橋のたもとから下に降りるみちがあったので,降りてみP1050914 ました。この道か?
 さて,旧道は?なぎさの民俗学者さんのブログ「東高野街道 洞ヶ峠を歩く」※3によると,先程の「向て右洞ヶ峠」の三宅碑から西へ安居塚の住宅地に入り住宅街の真中を突き切る形で道があったといいます(地図参照)その道はNTTの中継塔のそばを通り,男山道の上のほうを渡り,円福寺墓地とトヨタカローラの間を通ってくら寿司に至り,ここで1号線と併走する形だそうです。今降り立った道-円福寺門前を通る道が高野道だと思っていた訳ですが,それは違う。旧高野道は消滅しています。
 
より大きな地図で 東高野街道1 を表示  

 なぎさの民俗学者さんは,古い地図を元に路地の裏の裏まで歩いて実地検分されているので説得力があります。そうとう執念深く追求されているようです。
 仕方がないので,間違いの街道を円福寺前までいきました
P1050940P1050944P1050920 。竹薮の道で,あまりきれいではないが,タケノコ育成のためにか一応整備はされているようです。
円福寺は8ー9年前に仕事で来た事がありまして,そうそうこの門前の十字路は見覚えがあります。すぐ東側は1号線でかやぶきの茶屋があり,ここから森の中の参道を50mもいけば円福寺となって,1号線の騒音とは完全に隔絶された静かなス
 P1050947ポットになります。それまで近くを車で通りながらこのような静寂なお寺があるとは全く知りませんでした。

 国道に行く気はしないので,枚方ハイツの住宅街を抜けていくことにしました。洞ヶ峠で消滅した古道は高野道2丁目の
P1050958 枚方ハイツの境界付近で痕跡を表わします。大阪ガス整圧器室というにがあって,脇道の跡らきしきものがありましたが,フェンスで通行止。施錠がしてありました。のぞき込んでみ ましたが,枯れ草ボウボウ,ゴミありで,きれいとはいえない,いかにも裏のガラクタ置場みたいな所でした!
 西側は新しい住宅が建設中でした。このあたり,高野道といP1050963 う地名とはうらはらで,名前と違う感じがしました。
 高野道の住宅街を抜けると,家具団地前の交差点に出ます。ここから街道は,万代スーパーと工場群の間を通るハズなのですが,行くのはやめました。どうせ,途中で消えていて工業団地の真中を突っ切っているのだと思います。

(つづく)

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2009年5月14日 (木)

細切れ道草・東高野街道(1) 八幡女郎花-八幡

2009年3月2日   八幡女郎花-八幡市駅
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【八幡の地名】
 男山団地から街道に戻り,北へ八幡を目指します,って,ここも八幡市なんですが。地図をみると枚方市との市境は(ということは府境は)関西医大病院の中を通って,男山泉の交差点を取り囲み,すぐに住宅街の中を断ち割って西へ引き下がっていきます。まるで舌のように交差点を取り囲んでいる。市
P1050868 境の上に建っている家は不便ではないのでしょうか?学校とか税金とか・・・余計なお世話ですが。
 男山泉の交差点を東に行くとすぐに八幡市に入り,男山高台の峠になっています。地名は男山八望。高層住宅がなければ八望できるので ,この名前がついたのか?
 八幡市の地名は,□□○○という並びになっていて分かりやすいというか,昔の地名を残したままより広域の地名をかぶせているようです。例えば,さっきの男山泉,男山八望。他に目をやれば,橋本塩釜,八幡大芝,八幡平田,戸津中代,戸津北戸津は無理からルールを踏襲したか?八幡でなくても大住や,樟葉のあたりでも習っているようです。八幡馬場,八幡園内,八幡浜,八幡五反田,川口馬屋尻,八幡柳畑,下奈良出垣内,下奈良一丁田,内里砂畑,内里古溜池・・・・昔そこがどんなだったか,とても分かりやすい地名です。八幡市になる前は,八幡町ナントカと言ったんでしょう。今は,例えば八幡市八幡清水井・・・。この付けかたもなかなかよろしいと思います。
 地名といえば,八幡にはなかなか魅力的な地名があります。八幡女郎花,八幡月夜田,八幡水珀。八幡女郎花には悲しいお話しが残っています。能楽にある話で,昔,男山に住んでいた小野頼風と深い関係にあった女が,彼の足が遠のいた事を嘆き入水。それを知った頼風も後追い自殺をします。さまよっていたふたりの霊が旅の僧のおかげで成仏し,あの世で結ばれるというものなのですが,女が入水の脱ぎ捨てた衣から女郎花が咲いたことから,女を供養する塚(今は松花堂庭園にある)が女郎花塚と呼ばれたということでした。それにしても美しい名前を付けたものだと思います。
 おもしろいのは,八幡名残,戸津蜻蛉尻。名残・・・岩清水八幡宮を参拝したあと名残を惜しんだか?蜻蛉尻とはいったいどうして付けたんでしょうか!?
P1050887
【八角堂】
 男山美桜のさくら近隣公園から目の前の丘に大きなお堂  が 見えます。八角堂です。これは正八角形でなく四角形の四隅を切り取った「隅切り八角」で,岩清水八幡宮の伝統を受け継いでいる珍しいものだそうです。
 お堂はもと男山西谷にあったそうですが,明治元年の神仏
分離P1050608令が出たときに,正法寺住職が八幡宮からお堂・仏像とも迎え入れ,ここに移したものだそうです。現在は正法寺のお 堂のひとつで,本尊阿弥陀如来が安置されているので,阿弥陀堂ともいいます。詳しくはY.Koyamaさんの「八幡散策」サイトをご覧ください。このサイトは(多分)自作の美しいスケッチが多用されていて,写真よりも八幡にあった味が感じられます。内容もかなり足で稼いだ深いものになっていてとても読み応えがありまP1050610す。
「八幡散策」:http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/burari00.html
 八角堂は朱塗りですが,あんばい良く色が抜けていて落ち 着いた感じがします。隣にある地蔵堂?は新しいものらしくまだまだ落ち着かないです。

 後で気がつきましたが,案内板によると,この低い丘は西P1050617 車塚古墳でした。お堂の前,竹垣で囲まれた中に「車塚」の石碑と「母泥之河阿治佐波毘売命御墓参考地」の碑がありました。はて,母泥之河阿治佐波毘売命とは?
 調べてみると,古事記にありました。開化天皇が丸邇(わに)の臣の祖先,日子国意祁都(ひこくにおけつ)の命の妹,意祁都比売(おけつひめ)命を娶ってお生みになった子が日子坐(ひこいます)の王で,その日子坐の王が,その母(祁都比売)の妹の遠祁都比売(をけつひめ)命(ああ,ややこし!