仏教

2011年9月 7日 (水)

東海道ウォーク 御油-岡崎(2)

2010年12月5日(日)  【赤坂宿】



 次いで赤坂に入ります。どこまでが御油でどこからが赤坂かがよく分かりません。それもそのはず次の赤坂宿と16町(1.7km)しか離れていない。元々は、下り伝馬は藤川の馬を五井(御油)迄通し、五井の馬にて吉田迄・・・。登り伝馬は吉田の馬を赤坂迄通し、赤坂の馬にて藤川迄届けるべし・・・」(慶長六年・伝馬継立之定による)となっていて、当初は御油・赤坂両宿で1宿の機能を果たしていたものらしいです。

■関川神社(10:07)
 
大きな楠がありました。その横にある何、落葉樹もかなり大きい。ここが赤坂宿の東見附のようです。
http://network2010.org/kaido/tokaido/akasaka.html

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 関川神社は、長保3年(1001)建立とのこと。楠は推定樹齢800年といわれているので、建立後に植えた(生えた?)ものか。

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 境内の真新しい鳥居の横には、「夏の月 御油より出でて 赤坂や 芭蕉翁」と刻まれた句碑が建っています。芭蕉の俳句原文は「夏農月 御油よ李いてゝ 赤坂や」で、この句碑は2代目、明治26年(1893)建立です。宝暦元年(1751)に建てられた旧碑もあるようですが、分かりません、って探していない。手前には真新しいのも建っていました。
 そばにあるのが、またもや十王堂ということでした。

■本陣跡(10:11)

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 赤坂紅里交差点手前に、ちょっとした広場があって、高札場だったのでしょうか、大きな札が建っていました。そのナナメ向いには「本陣跡」の看板もでていました。

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■赤坂の街並み

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 新しい建築が多くなっている中、なかなかこなれたものも残っています。最後のは尾崎屋さんで、民芸品屋さんですが、本来「曲げ物屋」さんです。

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■大橋屋(10:14)

 赤坂といえば、ここでしょう。大橋屋さん。「熟れた」を通り越して少々傷んできているようですが、補修はされているにしても、わざとらしい補修をしないのがかえって美しさを強調しています。大橋屋さんは、創業慶安2年(1649)で、現在の当主は19代目!正徳6年(1716年)に再建された建物が現存していて(享保元年(1709)という話もあるし、公式ページでは宝永2年(1705)築となっていた)、なおも現役で営業されているのがすごい。
http://www.city.toyokawa.lg.jp/enjoy/200712110001.html

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 赤坂でも御油でも駅前や1号線沿いは便利ではあるが、どこにでもある風景になっています。しかし、この設えの大橋屋はここにしかない。まさにオンリーワンでしょう。徹底しています。これがあるからこそ遠くから見にくる人も泊る人もある。これで、1泊2食付 10,500円(込込)とは一度は泊まらないとあかんでしょう。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/hatag03.htm

http://tokaidowalk.com/akasaka/post-233.php


■よらまい館(10:15-22)

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 すぐそばに「よらまい館」という休憩所があるので、寄らまい。
 さすがに赤坂で、数名の旅行者がおりましたし、途中で自転車で旅している高校生のきました。ゆっくりとタバコ休憩です。
後ろは広いグランド(公園か)になっていて開放感があります。向こうにはお寺や図書館らしきものが見えました。

■坂道の家(10:34)
 
中学校を過ぎて、街道はゆるやかな坂を登っていきます。このあたりも新しい家のなかに古い家も残っています。古いけれどきちんと手入れされて堂々たるものです。のんびりと歩いて行きます。

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 赤坂宿、なかなか気に入った宿場になりました。

【本日のマップ】

より大きな地図で 東海道ウォーク(国府-岡崎) を表示

つづく

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2009年12月 9日 (水)

東海道ウォーク 掛川-天竜川(6)

2009年10月19日(月) 見付宿



【見附宿】
 大通りを急ぎます。ここは見附宿場通りというようです(13:17)。
  従来から観察している蔵ですが、当地は下が石積み、上が白壁の2トーンです。なかなか重厚感と軽快感があってよろしいかと。

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 予備校の建物も宿場らしくデザインされています。

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 冷酒清兵衛邱という看板がありました。冷酒清兵衛って、た  そがれ清兵衛のパロディかと思ったら、れっきとした御朱印酒屋(という言葉があるのかどうか知らないが)で、本名は上村清兵衛、酒造りで、家康が見付を訪れた時に献上したところ気に入られ冷酒清兵衛と呼ばれるようになったということでした。そばには大きなお屋敷がありました。

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 さらに本陣跡と続きます。他にも史跡はあるようですが、気がつきませんでした。

 さて、淡海国玉神社につきました(13:24)。旧見付学校の隣です。
 旧見付学校は明治8年の建築で、現存する日本最古の洋風木造小学校校舎ということですが、本日は休館でした。

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 すぐ横に鳥居があります。淡海国玉神社の創建年代は不明ですが、見付に国府があった時の遠江国総社で、延喜式 P1100125 神名帳にも記載があります。

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 祭神は大国主命で、他にも地元の神を相殿に祀っています。総社ですからね。
ここには矢奈比売神社からお神輿が渡御してきます。ここはスサノヲを祭神とする天御子神社を飛地境内社としているのは前に書いた通りです。狛犬はなくて新しい狛菟(というのはおかしいですが)が拝殿前に向かい合っていました。総社の割りにはえらくあっさりとした様子でした。

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 少し先に復元移築された市指定文化財の脇本陣・大三河屋門がありました。一時、民家の門として移築されていましたが、市に寄贈され、平成19年、復元整備されたものです。奥には見附宿いこい茶屋がありますが、土日祝日のオープンで今日は休み。

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 見付宿は新しい家ばかりだと思ったら、明治2年(1869)の大火で建物の大半が焼失したそうです。再開発に際してもあまり気を使うことなくできたのでしょう。振り返ってみると(13:31)宿場街は写真の通り新しい街で、それは気持がいいのですが、せっかくのカラーブロックを張った歩道が・・・

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 もう宿場通りの端まできてしまいました。まっすぐ行く道は姫街道です。(13:34)

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 姫街道は東海道の脇往還として利用され、浜名湖北方の本坂峠を越え御油宿に通じています。浜名湖の今切の渡しやその先にある女改めに厳しい新居関所を避けて旅する女性が主に通った道です。人気コースのようなので一度歩いてみたいと思います。
 また、この道は天竜川の池田の渡しへの近道のため、池田道とも呼ばれて活用されたようです。半分くらいショートカットで行こうという気持になりましたが・・・・

【なぜ東海道は遠まわりか】
 なぜ東海道が不自然にも「~~ 型に曲るのか?中世までは海岸線が内陸にかなり肉薄して今之浦を作っており、それに沿って街道ができたというのは考えられますが、それにしてもわざわざ今の磐田駅付近まで行くのはどうしても納得できません。
 調べてみると、古くは東海道はここからまっすぐ行ったそうですが、左折した先の中泉(今の磐田駅の近く)に天正12年(1584)中泉御殿、天正18年に代官陣屋が設置され、東海道は左折するルートになった、とありました。
 さらに、今の磐田駅南には御殿遺跡というのがあって、それは弥生時代から中世・近世にかけて営まれた遺跡だそうです。奈良時代の木簡・墨書土器が出土していることから、この地に遠江の国の役所が置かれていたと考えられています。さらに、発掘の結果、古代の大規模な建物跡が見つかり、役所の建物の一部と推定されます。
 この地はあまりにも標高が低い(5mくらい)なのでボクは国府には適さないと思いますが、台地の突端部分で、古代にあっても市が立ったり、少しへこんでいるようなので、湊ができて海運の基地だったのではないかと思います。従って、昔からこの道も重要な道だったかと思います。

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 なお、Google mapには、4mの等高線を描いておきました。国土地理院の地図で5mコンターを調べ、あとは数少ない水準点をみながらエイヤで引いたものです。南側は新幹線のラインで切っています。これが中世の海岸線とはいいませんが、網野善彦さんの「海と列島の中世」p211の図を参照すると、今之浦はだいたいこんなイメージだと思います。

 姫街道を少し入ったところにも石積み+白壁の2トーン蔵がありました。この地方の定番なのでしょうか。

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 東海道は南下して川を渡りますが、この川は加茂川です。加茂川を少しさかのぼると、河原町。そこで加茂川は2本が合流します。まるで京都の出町柳みたいです。西側の川をさらに遡っていくと、なんと加茂神社、さらに北にはご丁寧にもに賀茂神社。どちらかが賀茂御租神社になっていたかと思いますが、今ちょっと分かりません。上賀茂神社/下鴨神社に相当するのか?国府の町ということで京を模したのか、それとも古代鴨族が来ていたのか?
 そういえば天御子神社は祇園神社だったし、総社でも昔は祇園祭をやっていたそうです。

【磐田は名古屋圏か?】
 加茂川を渡るところが標高約5mで見附の東海道で一番低いところになります。国道1号線との交差点あたりで6m、ここからゆっくりとした登りになります。
 登り切ったあたりに府八幡宮、国分寺跡、天御子神社があります。市役所もあって、磐田の中心街のようです(13:46)。
 歩道を婦人警官がさっそうと自転車で通り過ぎていきました。警察でも電動アシスト自転車を使っているようです。これはアイデアです。さきほど停まっているのを見たんですが、もちろんヤマハ製でした。いくらなんでもその時の写真は撮れません。

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 なお、JR磐田駅にも貸し自転車があって、これも全部ヤマハ製の電動アシスト自転車だそうです。磐田、見附は坂の街なんで、絶対必要と思います。
 府八幡宮はパス。天武天皇の曽孫にあたる遠江国司の桜井王が天平年間(729-48)に創建したそうで、祭神は八幡宮なので、誉田別命、息長足姫命。足仲彦命。なお、遠江国府は、最初に現在の二之宮・御殿地区におかれ、その後、見附に移転されるまでの間、一時、府八幡宮内に置かれていた、と伝えられています。

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 その向いにある遠江国分寺跡公園にいってみました(13:48)。旧東門跡にあたる入口には「遠江国分寺」石柱、遠江49薬師霊場の説明板がありました。うらぶれたお堂、参慶山延命院国分寺、石仏などをみながら(あまり見てませんが)通り過ぎると、広い草地が現れます。金堂跡、講堂跡、七重の塔跡などがありました。ここは行ってみただけです。

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 街道、というよりジュビロードは歩道の工事をやっていまして、ところどころ車道にでました。ジュビロ磐田も最近あまり話題がないようですが・・・
 さて、足も痛いので休憩です。駅前で喫茶店に入りました(14:00)。足が痛くて結構疲れたので、ここから帰ってやろうかと思いましたが・・・

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 コーヒーに柿ピーが付いてきました。うーん、ここはもう名古屋文化圏か。変なことで感激しました。コーヒーにはこうでなくっちゃ。柿ピーはちょっと湿気てましたが、そんなことは気にしません。満足です。足をもみもみ30分近くも休みました。

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 ん、造り酒屋さんを探すのを忘れてる。ここはお世話になっているD先生が昔下宿をされていたところです。酒蔵で下宿だったとか。調べてみると、もう磐田の造り酒屋は郊外に1軒しかないということでした。

【ナナメの道】 
 さて、ウォーク再開です(14:29)。今日中に天竜川を渡っておきたいところですが、この足の調子では新居までが関の山なので、明日にしてもよいかな、という軟弱な気持がちらっと出てきます。
 とにかく出発。西町を過ぎると下りになり、また若干の登りになります。このあたりからほとんどまっすぐな道で単調です。

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◆14:32

 目印をひろいながら淡々黙々と歩きます。中泉公民館、磐田化学工業、その前にある蕎麦屋さんうまそう(14:42)、万能橋(14:48)、もうすぐ宮之一色一里塚やな、スーパー銭湯か、お、農協か(15:00)、などと思って歩いているうちに森下の分岐まで来てしまいました(15:03)。

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◆14:50

Noukyo
◆15:00

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◆15:03

 宮之一色一里塚は気がつきませんでした。見ておれば気がつくはずの一里塚なんですが・・・引き返す気力もなくあとのまつりです。

【本日のマップ】

より大きな地図で 東海道を歩く(掛川-新居) を表示

(つづく)

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2009年11月22日 (日)

東の旅1 高麗橋-南生駒(その7)

【暗越】 2008年10月16日




■さて、登りにかかります 10/16(13:45)
 ご存知かと思いますが、狭い狭い国道です。おまけにトンデモナイ急坂と聞いています。
 写真は少し登って振り返っています。ここで標高62mくらいです。

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■国道308号
   まぎれもなく国道です。標識はなんの順番でしょうか?家の  間をすり抜けるようして登ります。

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一応、車は通るようです。国道らしく管理はきちんとされています。この場所のすぐ下では道路両側の草刈りをしていました。あえて酷道とはいいますまい。
 ちいさな看板があって、豊浦谷1号墳と書いてあります。右に行くようです。

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■芭蕉句碑 10/16(13:46)

菊の香にくらがり登る節句かな  はせお

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 元禄7年(1694)9月9日、伊賀を発った芭蕉は暗越を通って大坂に向かいました。その時、重陽の節句にちなんで詠んだ句です。同年10月12日没。芭蕉最後の旅になりました。合掌。
 この句碑は明治23年に再建されたもので、寛政11年(1799)作のオリジナルは山崩れのため行方不明になり、後日村人により発見されましたが壊れていたそうで、修復後、街道沿いの勧成院内に残されています。

■信仰の谷
 この谷(豊浦谷)に限らず、生駒山西面の谷にはやたらお寺や神社があります。ほとんどお寺ですが、多分神仏習合なのでどちらか分かりません。
密教系や修験道のお寺は尾根筋付近にあり、昔ながらの(体系化された)神社仏閣は麓にあるようですが、谷筋は上に行くほど新しい(ということは体系化されず、要はよく分からない)「お寺」があるように思います。
 いろいろ調べても、「有名無名、大小さまざまな宗教の施設があり、これらの中には宗教法人として届けられていないものも多く、その総数は現在も把握されていません」というのが正解のようでした。

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 登っていく途中、「大社の瀧 禊 行場」と書かれた石碑がありました。お寺のようですが、谷に降りていく所には鳥居が建っていました。
 次いで観音寺。ここはかなり大きなお寺のようです。密教系か?十一面観世音菩薩、不動堂、天竜の瀧、観音延命の水、水子地蔵尊などなどの案内看板が建っていました。金ぴかの観音様も遠くに見えています。入口近くにある水子地蔵だけ見ておきました。

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 さらに登っていくと、急坂の手前にはちょっとした広場があって、左手には不動明 王、正面には得体のしれない石碑がたくさんみえます。読めるものだけ書いておくと、

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 お玉大神 お初大神 玉市大神
 熊鷹大神
 秋葉明神

 大小合わせて6コ以上の石碑です。調べても全然分かりません。お初大神は最上稲荷でよいのかな?法善寺の水掛不動であったような気がします。
不動明王とのセットなのかいな?不動明王はさっきの観音寺のものらしいので、このあたり全体が境内で石碑群も観音寺ゆかりのものでしょうか?

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 このあたり、木陰で薄暗く(写真がブルー系になってます)気温も17℃(下界は23℃くらいだった)で涼しいを通り越してうすら寒い感じさえします。

■河内平野 10/16(14:13)
 ちょっと時間が前後しますが、先程の石碑群のある場所のすぐ下で河内平野が望めました。

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■ここから急坂 10/16(14:20)
   石碑群のある場所からえらく急な坂が始まります。おまけに 急カーブ。

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 東海道箱根のこわめし坂、小夜の中山の二の曲りに匹敵します。こんなところ、車で通る気がしません。道路には○印の滑り止めはあるものの、雨や凍結した日にはとんでもないことになると思います。道路にはスリップ跡が無数についておりました。車が1台ブレーキをきかしながら下っていきました。

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 急坂が終ると府民の森と慈光寺を結ぶ道路に交わります。ここでほっとして道路脇にへたり込みました。これはキツイ。

■弘法の水 10/16(14:35)
   登りがゆるくなるとお堂がありました。弘法の水と笠塔婆という案内板が建っています。

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お堂内に何体か石仏が立ち、右手奥の一きわ高い石柱があります。これが笠塔婆(高さ181cm)で、鎌倉時代中期の弘安7年(1284年)に建てられたといいます。

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 ここには「弘法の水」と呼ばれる湧水がありますが、看板によると飲めないということでした。硬水だからなのか、生活排水が混ざりこんでいるのか?おじさんが一生懸命、お堂の掃除をされていました。

■東豊浦 10/16(14:41)
 やっと峠が近くなったようです。暗越のはずですが、一気に明るくなってきます。頂上付近の山並みもゆるやかで、大阪から見た屏風のような生駒山にはほど遠い感じがします。

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 奈良街道は左の細い道、右は府民の森に通じる道です。こちらの方が広い。ここには、「八代龍王神感寺の神迎えの行事があるので駐車しないように」との看板が建っていました。なんでも、9/30-10/21まで深夜にあるそうです。お寺が神迎えというのは神仏習合ですな。
 街道は東豊浦の集落を抜けて、まだ登っていきます。あたりは刈り入れの済んだ田んぼでのどかな山村です。

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■矢田出迎地蔵尊 10/16(14:45)

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   やっと峠の頂上のようで、地蔵堂がありました。矢田の地蔵さんがこの峠までわざわざ出迎えにきておられるので、矢田出迎地蔵尊と呼ばれているんだそうですが、ほんとなのか?その横には案内板とおかげ灯篭があります。これは文政10年(1827)頃のものだとか。

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■暗越石畳 10/16(14:46)
 この先は石畳が続き、峠の茶屋があります。標高455mで、大阪にしては結構高い峠です。江戸時代には河内屋、油屋など20軒近くの旅篭や茶屋があったそうで、主に伊勢参りの人々で賑わいを見せたとか。
茶屋の先はすぐに下りになります。ボクは休憩せずに通り過ぎました。

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(つづく)

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2009年11月14日 (土)

東海道ウォーク 島田-掛川(5)

2008年9月28日(日) 小夜の中山昔話



 夜泣石はやっぱり見ておくことにしました。
 久延寺は真言宗高野山派のお寺でした。ウチと同じだ。このあたり真言宗は多いのか?

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 夜泣石のいわれはこうです。またしても「お茶街道」
http://www.ochakaido.com/index013.htm(ゴチックは筆者)

■石言遺響(滝沢馬琴の「石言遺響」より抜粋)
その昔、小夜の中山に住む身重のお石が、菊川から帰る途中、小夜の中山の丸石の所でお腹が痛くなり、松の根元で苦しんでいる所へ轟業右衛門が通りかかり、お石を殺して金を奪い取った。そのとき、傷口より子供が生まれ、お石の魂がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。これを夜泣き石という。
 傷口から生まれた子供・音八は久延寺の和尚に飴で育てられ、大和の国の刀研師の弟子となった。轟業右衛門が刀研にきて母の仇とわかり、めでたく仇打ちをした。(久延寺の看板にもこれが書いてあります)

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 しかしもっと昔は松が泣いていたようです。

■「東海道名所記」から抜粋(石言遺響より約百四十年ほど前)
むかし、西坂の里に、女ありけり。佐夜の中山の道にて、ぬす人のために、ころされ侍り。その女は。はらミて、ある法師の住けるが、あはれがりて、母が腹をさき、子をとりいだして、そだて その子十五になりける
-----中略------
いのち成りけりといふ歌をとなへて、をやのかたきをうちけり。その子ハ出家して、山にこもり、父母のぼだいをとぶらひ侍り。-----中略------
佐夜の中山より十町バかりを過て夜啼きの松あり、この松をともして見すれバ。子共の夜なきをとどむるとて 往来の旅人けづり取。きり取けるほどに、其松うゐに枯て、今は根バかりに成けり。

■子育て幽霊伝説(夜泣き石と子育て飴)
 小夜の中山近くに住む飴屋の主人の所に、ある晩を境に毎夜決まった時間に、若い女が水飴をひとつだけ買いに来るようになった。不思議に思った主人は、女のあとをついていった。峠の大きな丸石のところまで来ると、女は消えてしまったが、赤子の泣き声が大きな丸石の方から聞こえてくる。その石のまわりには水飴の棒が散乱し、飴を買いに来る女の着物に包まれた赤ん坊がいた。この地で若い妊婦が殺されて二十日あまりの日が過ぎた夜のことであった。
 この水飴は「子育て飴」という名でこの地の名物になったということである。

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 これに蛇身鳥の怪鳥退治の伝説が加わる(またはバリエーションか)からややこしいです。

■蛇身鳥退治の伝説
 ----前略---- 怪鳥を退治した藤原良政は美人であった月小夜を一度都に連れ て帰り、また中山に戻した。その娘・小石姫は親が整えた婚儀の前に中山寺空叟上人の子を宿していて、悲観のうえ(蛇身鳥一族の話を知って悲しんだからと、さっと流す場合もある)、当地の松の根元で自害した。松に吹く風音は小石姫の霊が松に留まったとされ、松は「夜泣き松」と呼ばれた。後に、夜泣き松の皮をいぶした煙が子供の夜泣きに効果があるという噂で、皮は削り取られ、松は枯れてしまった。松を惜しんだ地元民が跡地に置いた丸石は孕み石と呼ばれ、現在は久延寺夜泣石の横に置かれている。
 小石姫の遺児・月輪童子は飴で育てられた。飴は実父の空叟上人が中国伝来の製法を伝えたものだと言う。

 ということで、若干ギクシャクはあるものの、夜泣き石(松)伝説と子育て飴伝説が合体しました。伝説ですから多少のバリエーションはありますが、女が殺され(または自害)、石(または松)が泣くようになったこと、その子は飴で育てられたというストーリーです。

 ところが、時代は下って、せっかくの話が変な展開になってきます。

■夜泣石見世物綺譚 
 もともと夜泣き石は旧東海道の道の真中にあったが、明治元年明治天皇の御東幸沓掛の茶店(道端という説も)に移した。(じゃまになると気を回しすぎ?)
 久延寺は村の有力者から融資を受け寺の所有に移した。明治13年東京浅草の勧業博覧会で見世物にしようと出品。浅草の興行師が先に「夜泣き石のハリボテ」で大儲けしたあとで、本物は「少しも泣かない」と全く受けず儲けもなし。持ち帰る途中で資金がつき、焼津・和田港に放置する。
 村の有力者が見かねて持ち帰り、現在の国道「小夜の中山トンネル」小泉屋の裏手に置いた。昭和11年、今度は小泉屋が東京・銀座の松坂屋で開かれた静岡物産展に出展、大評判になった。
 翌年、夜泣き石の所有権をめぐって久延寺と小泉屋の間で裁判沙汰となり、久延寺側は敗訴。久延寺は代わりの石を境内に安置(夜泣き石跡で昭和30年代に見つかった石だそうな)した。

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 いったい何をしてんだか?こじれましたな。
 ということで、久延寺昭和の「夜泣き石」です。上に乗っておられるのは西行さんか?元は夜泣き松で自害した小石姫の供養のため松の付近で出土した石を供養塔として門前に置いていたものとも言われます。(このほうがすっきりしますが)
横にあるのは孕み石です。

 その他、掛川城主だった山内一豊が上杉攻めで江戸に向かう家康をここに招き、煎茶をもてなしたという茶亭跡碑もありました。

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 ところが、もうひとつ茶亭碑があるようです。山門の西側、手水舎の裏手に古い接待茶亭跡の碑があります。これは松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立したもので、石碑には「慶長五年、関ヶ原之役、山内対馬守一豊、為東照宮神君、作亭於遠江佐野郡中山、以進飯、迄干今人存其遺跡而護之、因標之伝。天明九年歳次己酉春正月」とあります(私は確認してませんが、http://www.ochakaido.com/index025.htmから)
 6月大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう道中の接待か、関ヶ原に向かう時の接待か、どっちなんでしょう?。案内の碑にある上杉攻めのほうが接待の真実味がありますが。松平土佐守も関ヶ原之役に貢献したというのを言いたかったのでしょう。

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 夜泣石に触れたばっかりに、案の定、長くなってしまいました。来歴はあからさまにしないのがよかったのかも?どうもモノにこだわると打算や欲が絡んで変な展開 になるようで、本物探しや本物にしか価値を認めない考えは捨てて、峠の「手向けの石」や「子育て伝説」のピュアな精神性に帰る必要がありそうです。ここの夜泣石も昭和の夜泣石として扱っていて、静かに、夜泣石や子育て飴の伝説を伝えていく風情が感じられました。ここは、お石さんや小石姫さんをしのんで、ゆっくり彼岸花でも観賞しましょう。

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合掌

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東海道ウォーク 島田-掛川(4)

2008年9月28日(日) 小夜の中山



【今ごろ言うのもなんですが】
 大井川をすんなり渡りすぎたのです。そこは遠江/駿河の国境でした。
 なぜこんなことを言うかというと、「静岡県の歴史」というサイトを見ると、大井川を境に生活文化がかなり違うのだそうです。例えば、
方言:西国方言/東国方言
アクセント:京都式/東京式
食用芋:じゃがいも/さつまいも
儀礼芋:サトイモ/ヤマイモ
肉:牛肉/豚肉
正月の魚:ブリ/サケ
刺し身:たまり/しょうゆ
村長:庄屋/名主が多い
 あまり実体験はないですが、そんなに違うものか?今後注意して見ておきたいと思いますが、歩いているだけでは分からない。
 そもそも、遠江というのは古代大和王権の直接権力がおよぶ地域とみなされていたことが影響しているのでしょうか?
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/rekishi_shizuoka.htm

 それから、「マキノハラ」の書き方もさる事ながら、語源が気になっています。「お茶街道」というサイトを見てみると、馬の牧場からきているようです。http://www.ochakaido.com/rekisi/timei/timei4.htm
 文武4年(675)に諸国に牧を置くことが定められ、遠江の御前崎にも官牧がおかれた。大宝律令制定後「白羽牧」と呼ばれた。律令制の破綻を迎えると、白羽の官牧は縮小され、変わって地元住民の手によって私牧が営まれ、これが次第に西や北に広がった。いつしかこの台地が牧之原と呼ばれるようになった。
 昔は原の北側の一部が牧之原で、この地の原を総称するには布引原の名称が使われていたが、明治維新のころ、徳川家の幕臣や、職を失った大井川の川越人足の手により開拓されたころから牧之原と呼ばれるようになった。
 なるほど。ボクの住んでいる北河内も5世紀はじめ、おそらくもっと早く応神・仁徳のころから百済?からきた馬飼が住んで讃良などで牧を作っていたというので、馬については興味があります。
 また書き方は「牧之原」がオリジナルのようです。
 
【青木坂】
 さて登りです。どんな登りか?別に楽しみではないんですが・・・

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 登っていくと分岐が現れ、左は火剣山へのハイキングコースで旧東海道は右です(12:23)。
 ここは青木坂(箭置(やおき)坂とも)というようです。最初は樹林のなかの薄暗い急登道でしたが、右に急カーブするといっぺんに視界が開け、一面の茶畑が拡がります。まるで仕組んだような劇的な変化。

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 これから、だらだら坂がずーーーっと続きますが、眺めがよいので、あっちきょろきょろ、こっちきょろきょろで写真の撮りま  くりでした。
 谷は一見深そうですが樹木を切り拓いてしまうと、なだらかな谷です。こういう平坦な丘の風景はめったに見ないので、もの珍しさもあって、疲れを感じる間もありません。 景色を見ながらのんびり登っていきます。トラックもえっちらおっちら登って いきます。

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 ひたすら登っていくと小さな集落の中ほど右に、日坂の 宿(掛川市)と菊川の里 (島田市)との境界標識がありました。ここ から掛川市です。中腹に境界があるんですね(12:36)。

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 ログハウスのお宅の前に阿佛尼の歌碑がありました。十六夜日記の作者ですね。

雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月   阿佛尼

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 「小夜の中山」は西行の影響で早くから歌枕となり多くの歌が詠まれています。ここから西坂までは、所々に小夜の中山を詠んだ歌碑が置かれ「小夜の中山歌碑の道」となっています。

 すぐ先には「通学路」の看板。小学生もこの坂を登って通学しているようですが、さっきの境界から上は坂を登って日坂までいくのか。その下には人家もなかったが、そこに小学生がいるなら下りで楽だろうなと、しょうもないことを考えつつ歩いていきます。

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 まだまだ登ります。衣笠内大臣の歌碑がこの先の登りの途中にありましたが、場所の確定ができません。「通学路」の看板から4分ほど先です。

旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり     衣笠内大臣

 坂を登り切る手前に右に入る道があり、少し入って地図確認。もう一つの「夜泣石」のある、国道1号線のトンネルの方にいく道のようです。国土地理院の地図には「夜泣石」の記載もあります。最初の予想では尾根づたいにいくのかと思ったら、そうではなく、かなり降りていくんですね。これは行きにくい。

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【小夜の中山】
 だらだら坂を登り切った所はちょっとした広場で、接待茶屋跡碑がありました。昔はここより手前の坂の途中に永仁年間(1300)頃から旅人に無料で茶等を施していた茶屋があったそうです。

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 眼下には茶畑が点在し火剣山を望めます。見飽きない茶畑の風景。

 さて、なぜ「小夜の中山」というんでしょうか?再び「お茶街道」サイトを見てみます。ここは製茶機メーカーが運営しているのですが、きちんと調べられているようで参考になります。ダイジェストさせていただきます。
http://www.ochakaido.com/rekisi/timei/timei1.htm

 ここは古くは「サヤの中山」といった。
 小夜の中山のことが出てくる最も古い記録は、『古今和歌集』で、

甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく 横ほり臥せるさやの中山 (1097)
東路の佐夜の中山なかなかに なにしか人を思いひそめけむ (594)

とあり、いずれも「サヤの中山」といっています。

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Cha

なぜ「サヤ」といわれたのかには2説あって、
①この峠が狭い谷に挟まれた細い堤のような道であるため、狭谷、すなわちサヤである、これから佐夜郡という郡名にもなった。(掛川誌稿)
②サヤの語源は悪霊をさえぎる塞の神である。
 柳田国男は、この山は「遠くの旅人には幣を奉る神、近い里人には里の守を祷る神」がいるから、その神に手向けをして通ったところではないか、とし、さらに、野本寛一氏は、「サヤ」は「塞(さや)」のことで「塞る」が固有名詞となったものであろう。「小夜の中山」は悪霊をさえぎる「塞の神」を祭る峠であって、その象徴が手向けの石である。その神聖な石が、時を経て「夜泣き石」として伝承されたのだという。
 野本寛一さんはこの地・相良の出身の民俗学者なので説得力があります。
 さらに、小夜之中山には蛇身鳥の怪鳥伝説(※)があり、それを退治した藤原良政に連れられ都に行った月小夜が都から戻されて住んだ所ということから「さよ」になっていったかと思われます。
http://www.ochakaido.com/index013.htm

【子育飴】
 接待茶屋跡碑の向かいには久延寺があります。ここには「夜泣石」がありますが、どうも、後述のいいかげんさがあるのでパスしました。

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 とりあえず、茶屋(扇屋さん)に向かいます。うまい具合に開店していました。ここで休憩。
 せっかくなので子育飴をいただきました。なぜ子育てなのかは後述。わりばしに巻きつけた飴をぺろぺろしながら女主人と話をしました。

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 ・おばあちゃんの話
この茶屋には名物おばあちゃんがおられれ、子育飴を作り茶屋も切り盛りしておられましたが、6年前に104歳でなくなられたようです(メモを見るとそう書いていました)。「えっ!ひゃくよんさい!」と私。100歳のとき、現役で茶屋を切り盛りしているおばあちゃんを知事がねぎらったという記事の新聞きり抜きが貼ってありました。女主人はちょっと寂しそうでした。この方はお孫さんになるのか。
「私が引き継いでやってますが、土日だけしかできません。今は日坂から車で来ているのでまあ楽ですけど」と言っておられました。

・坂の話
「登ってくる途中に通学路の看板があったけど、この坂を登って通学するんですか?」と聞くと、「そうですよ。昔はわたしも坂を登って/降りて通学した」
 日坂まで3kmくらいでしょうか?子供のころボクも4km歩いて通っていたんでよく分かりますが、ボクの場合は急坂はないが、ここは急坂があります。「下りはえらい坂があるよ」と言っておられましたが、どんな坂でしょう。
 「東海道を歩いてるんでしょ。箱根も小夜の東坂も越えたんだから、もう楽ね」と。
「登りはともかく下りがしんどい、箱根西坂ではつるつるすべるので下ばかり向いてたら〒マークを彫った石がありましたよ」と無駄話。

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・お茶の話
 お茶はヤブキタだそうです(今はほとんどこの品種らしいですが)。「あ、それなら知ってます。中学校で茶畑を持っていて、茶摘みをしました。摘み方を教わったけど忘れてしまいました」「ウチでも茶畑が少しありましたよ。売ってはいないけど。ボクのイナカでも結構お茶は有名になってる、京都とはいえ宇治でなくもっと田舎」なんてことを紹介しました。
 5月でも結構寒いときがあるので扇風機を回します。霜の降りるような風の弱い夜は、気温の逆転現象が起こり、地上6mぐらいの気温は地表の茶の樹付近より4~5℃高くなるそうです。空気をかき混ぜて樹を温めてやる。
ボクの田舎では、昔はカンレイシャをはったりしたが、この広さでは無理でしょう。小規模ならばできそうですが。

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 子育飴を全部なめおわるのに10~15分くらいかかりましたか。こんなことをしゃべりながら飴をなめていました。飴は米と麦芽だけで造られていてさっぱりした甘さです。お土産に1つ買いました。「こぼれるときがあるから斜めにしないでね」ということで、ビニール袋をもらってしっかり包んでカバンの底にいれました。

 帰り際に「そうそう、隣に浮世絵を個人で集めて公開しているので見に行ったら?・・・相当なもんですよ」と勧められました。

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(つづく)

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2009年11月 6日 (金)

東海道ウォーク 岡部-島田(4)

2008年9月 7日(日) 藤枝宿



【藤枝のむかし】
    国道1号線から分かれると数分で藤枝宿にはいります(9:49)。「領主番所跡」の標柱,成田山と続きます。「領主番所跡」の標柱は「東木戸跡」も兼ねています。(標柱うしろに記載がある)。

 

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 藤枝市の観光情報サイトや ミュゼふじえだ・志太郡衙跡のサイトをみていると,藤枝というのは結構歴史のあるのが分かります。なんでも,仁徳天皇4年(316)創建の飽波神社,4世紀末から5世紀の28基もの若王子古墳群,奈良・平安時代の志太郡衙・益津郡衙などの記載があり,古くから政治・経済の中心として栄えていたようです。
 藤枝宿は田中城の城下町でもあります。市のサイトには田中城の詳しい案内はありますが,藤枝宿の情報がありません。藤枝宿は他の宿場と違って,藤枝の町が一つの宿場になったのではなく,街道に面した北側の志太郡と南側の益津郡の一部の町が宿駅の役割を担っていたということです。中心となっていたのは藤枝の上伝馬町と下伝馬町で,上伝馬町には川原町・木町・鍛冶町・吹屋町,下伝馬町には左車町・長楽寺町の6ヶ町があてられたといいます。藤枝市も旧宿場にあまり力を入れていない,というより焦点が絞りきれないのだと思う。
http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/docs/sightseeing/history/
http://www.muse-fujieda.com/p_17.html

 ミュゼふじえだ・志太郡衙跡は行ってみたいが,その時間がありません,というより,事前にそこまで調べていない。あとのまつりです。
 藤枝(と島田)はなぜか子供のころに読んだ本で知っていました。たしか東海道線にのって下っていく子供むきの旅行記で,藤枝の逸話として,国鉄の夜行列車に乗っていた人が藤枝あたりで急病になり,車掌,病院,国鉄の司令室の連携により島田駅に臨時停車し,一命を取り止めた,という話でした。が,今,その話が,安城/刈谷の話だったかアヤフヤになっています。

 ともかく成田山に寄ってみました(9:50)。

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 阿吽の金剛力士像が迎えてくれましたが,その他,境内にはおたすけ観音,ボケ除けの像,水掛け不動尊,日限地蔵,釈迦如来像,十二支守護本尊,水子地蔵,布袋尊,弘法大師,不動明王,水天宮もあって,なんでもありのお寺です。こうでもしないとなかなか人が集まらないか?成田山新護寺は明治以後の勧請のようで,本来は違うお寺ですね。

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   左車の由来も書かれていましたが,新護寺の横にあるという左車神社には寄りませんでした。

【さわやか通り】
 藤枝は,松,鴬,藤がシンボルです。現代ではそれより,サッカーの街ですね。サッカー最中の看板や,市のサイトでも名波選手のページがありました。市もサッカーにかなり力を入れています。

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  街道筋にはさわやか通りの名がつけられ,商店街のキャッチは「こだわり街道」ということでしたが,何にこだわっているのか?商店街のシャッターの様子からはうかがえません。日曜日の10時なのでお店もまだ開いていないのか?

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 まずは喫茶店を探しているんですが,ありませんね。Imgp3787


 大きな公園(蓮華寺池公園)がありまして,せっかくなので休憩のためにいってみました。街道から外れて路地を通って行くとありました。ここで一服(10:15-35)。
http://rengeji.joho117.com/100/110/

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 広々とした池を中心に公園が作られています。あたりを見回すと,池の向こう側には丘の上からくねりながら降りてくるジャンボすべり台,その横の茶色の建物は藤枝市郷土博物館です。

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 その土地土地に郷土の博物館や歴史民俗資料館などがあります。以前はこの手の博物館巡りは苦手だったのですが,地元でじっくり見てみると,なかなか力の入った展示をしていて,その土地の歴史がよくわかります。だいたい無料,有料でも数百円で,これは価値があると,最近思いはじめています。旅先でも見かけますが,なかなか行けない。街道歩きで時間に追われているのと,事前に調べていないのです。今後できるだけのぞいてみるようにしたいと思っています。

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 歴史的な文化財の維持(や発掘)にはお金もかかると思います。おそらく予算が十分にさけない中で,きちんと運営していくのは大変なことだと認識しています。そんな中での関係者の努力は評価したいと思います。

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 この公園はハス園が有名のようですが,もう花も終り。花の終った後のタネの入ったベッドがオブジェとしておもしろいです。仏花に,また生け花にも使われているようです。
 公園はジョギング,散歩,つりなど結構多くの人が集まってきました。
 さわやかな公園でした。20分ほど休んで出発。地図を見ると旧街道と公園前の細いみちが平行して西に走っているようです。車通りの歩きもいやになってきているので,この細い道をいくことにします。

【若一王子神社】
 右に若一王子神社がありました(10:40)。にゃくいちと読むんでしょうか。聖武天皇の時代,天平2年(730),土師古人がこの地で祭祀を行ったのが最初だそうで,祭神は天穂日命と健御熊命です。

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 はて,土師古人とは聖武天皇から菅原姓を賜り菅原氏を称した人で,菅原道真の曾祖父になり,要は,天照大御神・・天穂日命・・・・野見宿彌・・・・土師氏・・・土師古人(菅原氏のはじめ)・・菅原道真,こんな流れですが,なぜ藤枝に?
 健御熊命は,天穂日命の子で,神話の出雲の国譲りには,天穂日命とともに出雲の大国主命のもとへ派遣されるが,そのままオオクニヌシについてしまったとあります。健御熊命はまた出雲国造らの祖神となったとされています。おそらくこの神は,元来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり,記紀神話ができ上がっていく過程で出雲地方を舞台とする神話を無視できなくなり,高天原の神として取り込まれるようになったものなんでしょう。

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 土師古人が天穂日命と健御熊命(タケミクマノミコト)を祀るのは分かるが,結局,なぜここに?というのはよく分かりません。土師古人が従五位下遠江介になったとどこかで書いていたのをみましたが,それが原因なのか?
 なお,1083年(永保3年),源義家が後三年の役で奥州に向かう途中に参拝し,松に懸かる藤の花を見て「松に花 咲く藤枝の 一王子 宮居ゆたかに幾千代を経ん」と詠み藤枝の語源となったいわれがあります。
 神社後ろに広がる森はヤマモガシ,イチイガシなど照葉樹木があり県は暖地性植物の自生地の北限とし天然記念物に指定されています。

【大間違い】
 神社をでてすぐハイカラな洋館がありました。明治34年に設立された「藤枝製茶貿易会社」の建物のようですが,今でもそうなのか?洋館なのに鬼瓦が乗っているのがユニークです。写真でははっきり見えませんが・・・

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 広い道に出て,これが旧街道だと思ったら,これが間違いのもと(10:50)。あとで分かったことですが,このあたりから,平行していた旧東海道は南下しますが,この道は西に真っ直ぐに走っていくのでした。前に見える細い道を行っておれば,大間違いもなくすぐに復帰できるのでしたが・・

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 しかし,ちょっとはおかしいと思っていて,現在地確認をし,黒犬神社とか鬼岩寺を確認しますが,すぐに西に向かって歩きました。いいかげんに地図を記憶しているのでこんなことになります。ここにも石造りの倉庫が(11:00)。

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 10分ほど歩いてだいぶん西に行って,やっぱり間違いというのに気がつきました。間違うときはこんなものです。
   11:18,やっと石の倉庫まで戻ってきました。その裏手の道にはいっていきます。おお!いい感じの蔵。この地方には蔵には2タイプあるようです。

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【街道復帰】

 カンを働かせてその次の辻を南下していくと月見里神社というのがありました。この神社は記憶にあります。どうやら街道に復帰しつつあるようです。やれやれ。
 月見里と書いてヤマナシと読みます。これは読めない!案内板によれば,周囲に山がなく月がよく見えることからだといいますが,シャレでなく,そもそも「月見里」と書いて「ヤマナシ」というようで,各地にも月見里という地名がありました。
 ここには藤枝市指定天然記念物(1986年10月6日指定)があるんですが,神社の裏で,道間違いのリカバリを急いでいたせいもあって見に行きませんでした。真新しい社殿の前でで野球(ソフト?)をやっていました。

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 すぐ南で比較的広い道に突き当たります,古い民家が並んでいて,いい感じ。この道が藤枝から西北に向かう古い街道筋のようです。先程のまちがった道は新しい道路なのか。この道は「瀬戸谷街道」といい,瀬戸川を登っていく道です。瀬戸谷の上流にた高根山があり麓には農業の守護・高根白山神社があり,信仰の道だったようです。

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 ともかく旧東海道には復帰しました(11:25)。ここから北が藤枝宿のもう一つの中心上伝馬町です。上本陣跡,問屋場跡などがあります,上伝馬町が江戸への下り荷物を扱っていたとか。 本願の松で有名な正定寺もありましたが,パス。

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 瀬戸川にかかる橋を渡ると志太一里塚跡です。ここには案内板,秋葉山石燈篭,一里塚碑があって,結構広い休憩エリアになっています。(11:30)実際の志太一里塚はもう少し南に50mほど行った所にあったそうです。

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(つづく)

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2009年8月21日 (金)

東海道ウォーク 興津-静岡(1)

2008年5月10日(土) 興津




 一年以上前のことをブログに書くのもどうかとは思うが,歩いた分は書いておかないと収まりがつきません。その後もどんどん歩いているので,その分が永遠に書けなくなってしまう。という訳で「東海道ウォーク」の再開です。歩くのは約2か月ぶりで,今回は興津から静岡まで。

【女体の森】
 いつものように東京出張の帰りに静岡泊。結局,前回(3/8)と同じホテルでした。起きてみると外は雨!ひどくはないがショボショボ降ってます。一瞬,やめよかというのがよぎりましたが,気を取り直して準備です。現在6:00。
 ホテルの中庭のようなところに古い倉がありました。 石造りのしっかりしたものです。沼津の片浜あたりで初めて見ましたが,どうやらこの地方特有のものみたいです。

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 6:40過ぎの熱海行きに乗れました。興津に着いて歩きだしたのがちょうど7:00頃です。まだ雨が降っています。前回は宗像神社でデジカメの電池切れになったので,そこから再開です。律義な!

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2009年6月23日 (火)

細切れ道草・高野街道(2) 柱本-橋本


2009年5月15日 柱本ー橋本




【一路南下】
 国道には歩道があって、歩きやすいですが、ウルサイ。けっこうな傾斜です。護岸の補修ができているようですが、川は道路に沿って真っ直ぐ。大雨の後等は真っ直ぐ、走るようにして流れるんでしょう。多分ですが、このあたり雨が多いように思います、紀伊半島南面ですから。小さな川でも大雨のあとは大変なんでしょう。傾斜があるので曲線にせず護岸を固めるほうよいのいかもしれません。
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 川の右岸が旧道のようです。(13:22)左岸の山の上には大きな団地があります。紀見ヶ丘。P1070948

 紀見峠駅への分岐にきました。(13:29)紀見峠駅付近は地名は矢倉脇といいます。5万分の1の古い地図にはそう書いてました。しかし、Googleマップには載っていないんです。このあたりがちょっと不便。
 ここには、たこ焼き屋があって、ソフトクリームの看板に誘われて寄ってみましたが、残念!やってなかった。土日休業はしかたないにしても、開店が15時から21時とは?しかたがないので、自動販売機でジュースを買いました。ここでベンチに座ってのんびり10分ほど休憩しました。同類のおじさんがこちらをみいみい通過。P1070950

 目の前には向う側(国道)を向いた石碑があります。護岸工事を機につけかえましたか?石碑には「養叟(ようそう)和尚旧跡 是より西八丁奥 矢倉脇に阿里」と彫ってありました。案内板を呼んだ訳ですけど。一休和尚の法兄らしいです。

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 紀見峠駅への道が西へ通じています。なかなか感じのよさそうな細いみちですが、県道です。こっから帰ってもいいんですけど。

 その登り口に左へ折れる道がありました。いかにも旧道そうです、勘では少し先で橋を渡って旧道入口につながってそうです。本道は国道歩きになりますし、こちらに入ってみました。(13:34)

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 途中まではなかなか良かったのですが、アウト。川の工事をしていました。残念ながら引き返しました。失敗!これは振り返って川上を見た写真です。

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 南海電鉄も崖にへばりつくようにして鉄橋を渡しています。

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【段丘の道】

 いったん国道に戻り数分で旧道入口にきました。(13:46)口にはお堂がありました。先程の田んぼの中の道は橋があると、ちょうどこの旧道入口に入るはずだったんですが。お堂の向こうには紀見ヶ丘の住宅地への入口。大きなニュータウンクラスの住宅地です。

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 山裾の道は左の山のほうに向かう道と分かれます。ボクは右に行きましたが、左の道が正解のようです。

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 古い5万分の1の地図にはちゃんと道が書いてありました。しかし、400*300pixの制限では小さすぎてよく見えない。きちんと許可を取って、ということなのでしょう。
 このあたり慶賀野といいますが、とても「野」とは思えないです。かなり高い段丘の上に街道があります。

Map
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※国土地理院の5万分の1地形図「五条」(昭和36年版,昭和6,7年測量,要部修正測量昭和33年)から転載。

 道の際の蔵も見上げる感じで石垣の上に建っています。ここは、少し行くと国道に合流する地点ですが(13:49)、その国道の右下はまっ逆さまに落ちそうです。下の段丘の千枚田風の田んぼには田植えの準備ができていました。

タニウツギの花が咲きはじめています。

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 川は谷の底をさらに深く堀りながら流れています。川向こうは林間田園都市。この谷の深さをみていると、林間田園というようなのどかな感じはしません。このあたりはもう大阪通勤圏なのでしょう。難波まで1時間以内で行けるようですので。

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 国道の左の台地の崖には水路が作ってありました(13:53)。まだ現役のようです。その先の台地の上は田んぼになっているらしく、そこまで水を引いて農地にしています。そこを旧街道は通っているはずです。昔から、急峻な川に沿った大地に、かなり手を入れて農地を作ってきたことがよく分かります。

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 道路脇にはみごとなサボテンのある家がありました。(13:58)

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 「南無大師遍照金剛」の石碑が現れました(14:02)。五里石です。詳細は看板を見ていただくとして、危なくて正面から写真がとれない!

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【橋谷の道】

 しばらく国道歩きが続きます。大きな陸橋が見えてきた手前に右に入る道がありました(ここ記憶が曖昧ですが、地元の方が2人ほど農作業をしておられた記憶はあります)そこに入ったと思います。橋をくぐって坂を登ります。この道が旧街道のようです。P1070972
 ふりかえると、あら ら、だんじり庫が、橋谷と書いてありました。

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Danjiri

  ここから旧街道らしいのどかな道が続きます。P1070978

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 幼稚園のおかえりの列にあいました。声は小さかったけど「こんにちは」と、あいさつをしてくれました。この一言で一瞬にしてこちらの気持も変るもんです。なんだかウキウキしてきました。先生も「よくいえたねーえらいねー」日ごろからきちんとした躾をされているようです。少し経ってから思い出して、先生と幼稚園生に敬意を表してパチリ(14:14)。P1070982c

 紫蘭。石垣に生えている小さな花が気になったので写してみましたが、両方は無理でした。P1070985trimjpg

 石垣には小さな祠と御地蔵様が・・・これをみているとやはり巡礼の道という気がします。
 突き当たると御幸辻です(14:24)。P1070988

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おことわりですが、写真は振り返り写真です。手前が橋本方面になります。ボクの撮る写真は振り返り写真がかなり多いです。通り過ぎて、あっと思って振り返って撮る、これが半分以上だと思います。

 御幸辻とは由緒ありそうな地名ですが、検索してみると、不動産物件情報が大半でした。大阪に通っている人が増えているんでしょうね。
  ここには神社があって、牛頭天王社です。立派な神社ですが・・・紀州はスサノオ系ですね。

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【橋本への道】

 さてここから地図がさっぱりなくなります。5万分の1の地図がここで切れるんです。あとは勘で動きます。とりあえず、ここから下っていき国道に合流します。(14:30)

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 しかしながら、数分で飽きてきました。右に入る道があったにので行ってみました。農道のようですが、辻にはちゃんと祠が作ってありました。(14:35)P1080007cut

 古い街道がどこを通っていたのか分かりませんが、遠くに見える南海電鉄の車庫の手前にこんもりと茂った森がありまして、なにか神社のようです。あとで地図を確認するとそこも牛頭天王神社でした。この麓まで迂回するように道が走っていたのいかも分かりません。かもです。

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 とにかく農道を南下していきます。いったんは国道に戻りましたが、すぐにまた脇道に。国道24号の橋をくぐって(12:43)、結局はまた元の道(国道は橋本市街を迂回するように新しい道を走っています)に戻りました。
 この道は、川沿いの両側から山が迫ってくる隘路のような、ちょっと寂しいところを通りますがこんなところを旧街道は通ったんでしょうか?地図を見ていると右手の山の上、南海のトンネルのちょうど上には太子堂とか、それにつながる門前街?のようなところがあって、そこを通ったのかも知れません。

 まもなく南海電鉄をくぐります(14:55)。ここからすぐに橋本の駅です。P1080011

 南海とJRが改札を兼用していました。南海の特急は出た後で、急行のほうが早くつくというので急行にしましたが、新今宮まであっという間でした。大きなニュータウンができるはずです。

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 これでとりあえずはおしまいにします。が、ここまできたらどうせなら高野山に歩いて・・・ということで現在調査中です。町石道というのが人気らしく、ウォークというよりも登山に近くなるのでしっくり構えて調べたいと思います。さて、いつになりますか?

(とりあえずおわり)

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2009年6月22日 (月)

細切れ道草・高野街道(2) 紀見峠越

2009年5月15日 紀見峠ー柱本




【もと宿場街】

 紀見峠には江戸時代に紀州藩の番所が置かれていて、旅籠や茶店が軒を連ねて高野参りの人々で賑わっていました。今はその雰囲気はあまりありません。大正時代に鉄道ができて峠の下を通り過ぎていきます。旧国道も峠越えをしていましたが、昭和44年には紀見峠の下をトンネルが開通して、人の往来も途絶えたようで、旧街道筋は静かな山村になっています。峠のお家の庭先を通るような感じで恐縮しながら通っていきました。

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   庭先からは紀州の山々が望めます。まさに紀見峠ですね。
昔から、なぜか高台の家が好きで、それもマンションとか、高台の新興住宅地のような場所でなく、まさにこういう感じの家なのです。TVコマーシャルで以前あった、キリン一番搾りの「加賀太きゅうり」編にちらっと出てきたあのお家のイメージです。そのスクリーンセーバーを今も入れていますが・・・
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 紀見峠ですが、書き忘れたことが・・・峠にあった「歴史街道」の派手なグリーンの標柱には「紀伊見峠」と書いてありました。昔は紀伊見峠たっだのか。
 ここには喫茶店というより峠の茶屋がありまして、丹波屋さんといいます。昔からの茶店かと思ったら比較的最近開店されたんだそうです。ここの看板に「紀伊見峠宿」とありましたので、正式にはというか、昔は「紀伊見峠」だったのでしょう。峠の字が挿入されているのはご愛敬です。

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 入ってみたいんですが、残念ながら営業は火・土・日で今日は金曜日です。平日からプラプラ歩いているものはおらんやろ。
 林間田園都市行きのバスの便もあるようで、日に5本も!
 7:19、 9:34、12:48、17:13、18:35
 これは我々旅人にも便利だと思います。

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   丹波屋さんのお家は茶色のトタン屋根の家ですが、崖の端に建っていて、南側がすぱっと切れ落ちています。眺めは抜群なんでしょうね。

 だらだらと坂を下って行きます。下には旧国道も見えますが、あのあたりにバスあるのか。結構高い所を街道が走っています。地図を見てみると峠から南に延びた尾根がやや平らになっていて、そこに街道が走り宿場が発達したようです。

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 白壁の蔵。壁にデザインされている文様は何を表わしているのでしょう。軒下にある@みたいなデザインも気になります。

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 署名のところが読み切りません。誰の歌碑なんでしょうか?

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 土塀の道。
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まわりには花がたくさん。のどかな山村です。P1070895

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【快適な下り】

 強烈なヘアピンカーブを過ぎると下りになります。宿場もここで終りのようです。

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 坂は旧国道を横切ってさらに降りていきます。現在12:59。しばしタバコ休憩とします。P1070918

 ここからの道もよいので快適に下っていきます。P1070921

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 5~6分下って、ちょうどいやになったあたりが坂を降りきったところです。そこはちょっとした広場になっていて、祠がありました。阿弥陀如来様をお祀りしたものでした。祠は新しいですが、昔からあったものだと思われます。ちょうど坂を降りきって、高野山へ行く旅人が、「やれやれ無事にこれられました」 と手を合わせたに違いない。また、高野山から帰る人は、「これから峠越えなので、どうぞ無事に越せますように」と。その前にはタケノコがにょっきり顔を出してました。

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【陽光の紀州】

 紀見峠を越す頃からうすうす感じてはいたんですが、紀州側は明るい!河内が暗いとい うことではないですが、紀州=南国というイメージがあって、さらに、この坂は南面を向いているので太陽がさんさんと当たります。現在13:10、ちょうど 日の高い頃です。それに、峠の南面は尾根に挟まれていないので視界が拡がります。このあたり、まだまだ高度は高いですが、土地利用が進んでいるのか、高い ところまで果樹園や畑が作られていて、里に降りたなあという感じが強くなります。新しい住宅地もここまできていました。

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 紀見峠駅へは右に山裾を巻くように峠一つを越えるとあります、途中はすでに住宅地になっているようでした。あとで地図を見ると「光陽台」。

 ゆるやかな斜面に柿が植えてあります。久しぶりに柿の花をみました。花はちょっとさえないですが、秋になると立派な実になると思います。

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 これはレモンでしょうか?さすがに暖かい地という気がします。

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 振り返ってみると峠付近の山にさんさんと光があたって緑が耀くような感じです。やはり明るい紀州という感じがします。

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 シブイ廃屋と思いきや、どなたか住んでおられるようでした。

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 こんな感じで、明るい緑の中をのんびりと下ってきた峠でした。時間にして30分ほどであっという間に終るんですが、まことに気持のよい峠でした。紀見峠という地名、峠名はあっても、この坂道には名前が付いてないんでしょうか?○○坂とか。駅から2里くらいですが、柿の木坂とか・・・後日地図をみていると、もう少し下っていった御幸辻のあたりにありました。柿木坂。

 トンネルを出てきた国道と合流して、峠越えは無事に終りました(13:16)

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(つづく)

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2009年6月18日 (木)

細切れ道草・高野街道(2) 天見-紀見峠

2009年5月15日 



【豊かな山村】

 河内天見の駅からも遊歩道が続いていますが、旧道を目指して、出合ノ辻でいったん国道に入ります(11:31)。たこ焼きが気になりますが・・・
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