古代

2015年5月 2日 (土)

■鯖だけではなかった鯖の道

2015年4月26~28日



 「京は遠ても十八里」
 若狭・小浜商人の余裕さえ感じられる言葉だが、一介のウォーカーにとっては「72kmは遠いわ!」
 小浜から京まで、一塩した鯖を背たろうて、一昼夜で(仮眠はするにしても)駆け抜けるのだからあきれてしまう。
 久しぶりの街道歩きであるが、こちらはそんなことは考えずに2~3日で歩こうと思う。
 コースは数ある鯖の道のなかで、小浜-遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷-桑原―丹波越-三国岳-久多―オグロ坂-八丁平-尾越-大見-大見尾根-花背峠-鞍馬-出町の最も?正統的なコースである。
ただし、
1)小浜-遠敷はちょっと省略、
2)丹波越からクラ谷下りは道が不明なので、三国岳に迂回する、
3)鞍馬-出町は通しでなく別途あるく。
こんなヤワな条件つきとする。

◆GoogleMap 手動で拡大縮小してください

 10年近く前から温めてきた企画であるが、延ばし延ばしで今になった。最近、『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著 を読んで、やっぱり歩いてみないと・・・と思った次第なのだ。

P1050222cut
◆根来越(針畑越)
おかしい!ちゃんと画像ファイルは指定アドレスにおさまっているはずなのに表示されない。あらたにアップロードしようとしてもできない。

 さらに・・・・
1)根来峠は行ったことはあるが小浜側からの峠越えはしていないので通しで歩く、
2)八丁平、峰床山は行ったがオグロ坂は登っていないので登ってみる(踏破後調べると、登っていた!、おまけに三国岳も登っていた!)、
3)道中、生杉、久多、尾越など懐かしい名前が出てくるので、各地の今を体感したい、ということを目的とした。
 計画の過程でいろいろ調べていると「丹波越」というのがどうもよくわからない。峠までは道があるが、久多側に降りる道が判然とせず、「中腹に広い水平道が現われるが、ある地点で忽然と消えてしまう」ので、皆さん古道探しにやっきになっている。これはおもしろい。さらに、丹波越を越えてもやっぱりそこは愛宕(おたぎ)郡で山城ではないのか?愛宕郡は丹波なの?。丹波越えの尾根を越えたところが丹波だとしたら、その北にある三国岳とはなんの三国境?疑問点満載であり、そこを歩くのがおもしろいのだ。
 実を言うと、心配事がある。数日前から右足のつけ根が何かの表示にキクッとして力が入らないことがある。昨年、足がつって(しびれて)小辺路を初日でリタイアしたという前科がある。これが再発したら厳しい峠越えは無理だ。その場合は、丹波越え、三国岳は省略して、遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷-桑原-久多下の町―オグロ坂-八丁平-尾越-大見-大見尾根-花背峠-鞍馬とし、途中でのエスケープも考える。

こういうことでいざ出発

その前に参考文献(WEBも含む)をあげておく。
1)『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著
2)京都北部の山々、金久昌業 著、創元社 昭和48年3月10日発行 初版
3)近江の峠、伏木貞三 著、白河書院 昭和47年4月10日発行 初版
4)大文字を食べる;http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/folder/1205420.html?m=l

■7回シリーズ
1.遠敷谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-192.html
2.根来里:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-193.html
3.針畑越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-194.html
4.針畑越下り:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-195.html
5.針畑谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-196.html
6:オグロ坂越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-197.html
7.大見尾根:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-198.html

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2013年9月21日 (土)

道祖本街道をあるく 粟生間谷

2013年9月9日



 田んぼの中の道に入った頃から箕面市です。すでに粟生間谷に入っています。
 粟生・間谷(あお・またに)と切るんでしょうね。粟生は、アワフ だったのでしょう。それが、アワオ→アオ になった。神戸にある胡麻生(ゴマフ)がゴモウ(今は、五毛と書く)になったのと一緒。
  古代、三島県(あがた)があり、そこに宿久郷粟生野と呼ばれる地がありました。ここは粟の採れる野であったのです。今でこそ水田が広がっていますが、その 昔は粟畠が広がる土地だったのでしょう。粟飯は食べたことがありませんが、子供のころ、小さな畠で粟を作っているのを見たことはあります(その頃は麦飯が 普通だった。)
 粟については、森浩一さんの「日本の深層文化」ではその重要性が指摘されています。
・スサノヲに殺されたオホゲツヒメの耳から粟が、目から稲が生まれた(古事記)
・新嘗祭のニイナメは「新粟嘗」で粟だった(常陸風土記)
・元正天皇は「陸田の利」「粟は最も精好」として、作付けを奨励した(続日本紀)
・粟で租を納めた。稲2斗、大麦1斗5升に対して粟は1斗のレート(賦役令)
・一段(991平米)の粟で夫婦2人が1年食える(江戸時代・宮崎安貞・農業全書)
粟は由緒正しき有用な作物でした。
 間谷の由来についてはよくわかりませんが、http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/46 では、引用ながら、「この地区は昔、黄銅鉱が掘られていて、間谷の「間」は、坑道をさす「間歩」(まぶ)からついたのではないでしょうか」と書かれています。

■今の粟生間谷

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 粟生間谷の他には、粟生外院、粟生新家、粟生岩阪があります。山中の岩阪を別にして、粟生野は100m位の丘陵地で稲よりも粟の方が作付けに適していたのだと思います。ため池を作るまでは、林を伐り野を焼いて粟を作っていた。間谷を中心に、川筋で水を容易に得られる場所には稲を作った。粟生間谷の地をそのように理解しました。

■旧街道へ
田んぼの道が終り、橋と府道を渡って旧街道へ入ります。

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■昔ながらの街道風景

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■斬新!
下から撮り上げてみたいですが、よそのお宅をジロジロ見るのも・・・
これは素敵。

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■山之口の石仏群
小さな橋を渡ると、「大峯山上三十五度 」供養碑と道標、地蔵が集められています。

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双体地蔵もあります。道祖神?右端は庚申塚らしいです。青面金剛と彫ってある。青面金剛は享保8年(1723)、道しるべは文化15年(1810)に建立されたものという。

http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

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■道間違い
地蔵さまの辻を写真左に行くのが正解ですが、間違えて次の道を入ったらこうなりました。府道との辻に地蔵堂があるのですが、この道はこれでおもしろい。

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■粟生間谷の交差点(π型)
いきなり街に出た感じがします。ここを右に行くとバス停とかスーパーがあって、ちょっとした街の中心地です。ここはポケットパークみたいになっていて、休憩可能。

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■街道の農家
先程の交差点を左(西)に入ります。強烈な西日で写真を撮り直しました。

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■中村の六字名号碑
巨大な石碑は六字名号碑というのだそうです。大きな邸宅のまん前に建っていますので写真撮るのも気がひける。側面に、嘉永五子年九月建立 と彫ってある。http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/index.html

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右上の写真を拡大すると「十」とだけ見えて(小さすぎて見えません)、大半は埋まっている標石があります。丁石だと言われている。あるいは、「十兵衛道」と彫ってあるのかも知れません。この巡礼道は十兵衛道とも言われていました。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

■天満宮
椋が立派です。

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■天満宮から下を見ています
ゆるやかな坂を登ってきた。いい感じの道です。

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■神社の上の角に立っていたお地蔵さん

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■府道を横切ります、新旧混淆の街道筋

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新築の家があり、田んぼもある。粟生間谷の良さもまだ残されている。すき間があるのがよろしい。このすき間が家で埋めつくされたら、都会でもない、かといってイナカでもないという粟生間谷の街の良さが失われてしまう気がする。住民の方もそれは望まないだろう。山や野をリセットして作るニュータウンとは違う街づくりをしてほしいと思いますが、ディベロッパーはそうはしないんだろうなあ。

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■楠木神社
 粟生間谷の奥の集落の氏神ですが、天照皇太神宮が祀られています。明治に素盞鳴尊神社に合祀されましたが、戦後再びここに戻ってきました。住民の信仰生活を無視するような明治の神社統合は無理だったんでしょう。楠木神社なのに大きな椋があります。

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■再び分離
街道はいったん府道に吸収されますが、すぐに分離。

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■西田橋
街道はまたすぐに府道にあたりました。橋は西田橋で、渡って振り返り写真を撮っています。とりあえず、ここで道祖本街道は終ります。

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■ここからは山に分け入る
巡礼道は十兵衛道になりますが、ここが廃道化しています。しかし箕面観光ボランティアガイドの方々が調査、復元されています。ぜひここを登ってみたい。しかし、夏場はブッシュが酷そうなので冬までお預けとします。年を越して春先の方がよいかも知れない。楽しみです。
http://www1a.biglobe.ne.jp/minoh-kankou-mvg/new-story/jibei-miti.htm

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■おもしろそうな建物、なんでしょう

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バスは出たとこでした。次の時刻を調べると、40分ほどあります。待っていても仕方がないので、歩いて粟生間谷もバス停まで下ります。そちらの方が本数はありそうなので。

■五字神社
途中、五字神社がありました。はて、外院の勝尾寺表参道付近にもあったと思いきや、そちらは「ごじじんじゃ」、こちらは「ごあざじんじゃ」と言うのだそうです。しかし、ご祭神はどちらも同じ八意思兼命(やごろもおもいかねのみこと)。知恵の神様です。オモイカネの神社は初めてです。

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猫が寝ています。細目でじっと睨んだだけで逃げません。

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今さら智恵と言われても、とは思いましたが、お参りはしておきました。

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 ちょっと急ぎ足でしたが、粟生間谷の底力を少し感じられたよいウォークになったと思います。また来たい。

(終り)

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2013年9月20日 (金)

道祖本街道をあるく 宿川原

2013年9月9日


 宿川原は、西国街道の宿場のあったところです。そこで西国街道に接続して茨木街道は終点です。併走してきた道祖本街道はもう少し先で分離しますので、ここからタイトルを「道祖本街道をあるく」に変更します。

■あの角を曲れば茨木街道は終点P1260842

■三本の道標があります
背の高い方は、
正面 「茨木街道 茨木三島江枚方道」 明治三十六年八月 大阪府
左面 「国道第三号路線 池田 伊丹 神戸 芥川 高槻 京都 道

背の低い方は読めませんが、読んだ人もいて
中央「左 かちおう寺 西国道」
      奥「右茨木停車場 そうぢじ 道」
と彫ってあるそうです。http://myippo.com/kaidou/saikoku/saikoku5.htm
しっかりガードされていますが、誰かぶち当たった人間でもいるのか?

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■椿の本陣
摂津郡山駅本陣が正式名です。現在も住居として使用されているので、通常は公開されていません。事前申し込みか特別公開の日だけ見学できるので、いつも通り過ぎるだけです。特別公開参加した方のレポートをあげておきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/tubaki-honjin.htm

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椿の本陣の名前の元になった椿。現在は2代目だそうです。

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■街道筋の景観
 なかなか気持のよいところで、いつまでも残してほしいものだと思います。しかし、大阪産業大学のヒアリング調査(日本都市計画学会の調査か?)によれば、住民の方々は「今さら景観保全をやってもしかたがない」という意見が大半のようです。
http://www.cpij-kansai.jp/commit/kenhap/2008/01.pdf

 一方では、マイナーかも分かりませんがボクのようなものが何度も訪れるし、一般にも「西国街道」や「椿の本陣」で検索しても、この景観は肯定的な情報が多い。それは何故か?昔の宿場の風情は、上の椿の本陣があるだけですが、宿場であった歴史があって、時代は変わって新しい要素が付け加わったとしても、昔の宿場、街道筋の歴史を核にした景観が残っているからこそ支持されているのだと思います。
 街の価値基準をどこにおくかです。都心や駅前のようにとりあえず何でもあるコンビニみたいな便利な空間(しかし必然的にどこにでもあるような陳腐な景観にしかならない)に置くか、非コンビニであるがここにしかない独自の静かな空間に置くか。後者のほうが街の価値は高く、今後益々その価値は高くなると思っているのですが・・・非コンビニと言いましたが、この場所は、近くに171号が走っていて、クルマがあればすぐにどこにでも行ける、近くにモノレールもあり、バスも頻発していて、都心にすぐに出かけられる。それでいて歴史に根ざした独自の景観がある。こんな街は絶妙の立地にあると思いますが。
 早晩、間違いなくこの景観も失われることになるのでしょう。それは全く惜しいことだと思っています。

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■お地蔵さんの祠
椿の本陣のすぐ西にある路地に入ってみました。

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花も絶やさずお供えされているようです。この心が足腰の強い日本の源泉なんです。

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これが分からん?何か彫ってあるような気もしますが、単なる手水鉢ではないような?

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実動しているものを見たことがなく、名前が分からないのですが、石に切られた溝に支柱になる棒を置いて、杵と足踏みを付けてシーソーみたいにギッコンバッタンして、米搗きしたり粉挽きするものですかね?横にある丸いのはイナーシャか。
こういうのをさりげなく置いてある路地というのは、益々この地の価値を高めていると思います。

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■道祖本街道が分離します
宿川原西会場というのは自治会の集会所みたいなものか。道標がたくさん置いてあります。
左:「すぐかちをじ道」、右:「右かつをうじ」と読めるか。

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奥にあるのは読めません。読んだ人のレポートをあげておきます。
http://myippo.com/kaidou/sainomoto/sainomoto.htm

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この路地みたいな道が道祖本街道。ここを進みます。

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■立派に熟れた家、熟れすぎかも

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■勝尾寺川にあたります

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■橋の袂には地蔵堂
たくさんのお地蔵さまが集められています。ちょうど木陰になっていて、川から心地よい風が吹いてきます。絶好の休憩場所です。勝尾寺にお参りする巡礼者もここで休んだのでしょう。

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■橋は巡礼橋

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■道は国道171を横切ります
しかし信号もないので次の信号までいきます。

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■振り返ると豊かな田んぼ

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■道祖神社
豊川1丁目の信号の手前の路地をはいるとありました。
ここは どうそじんじゃ です。道祖神社は全国各地にあり、茨木にも、佐和良義神社の近くにあります。有効そうな情報が少ないのですが、祭神は猿田彦命だそうです。
http://kazubonka.blogspot.jp/2012/04/blog-post_9547.html
他の道祖神社の情報からみても、猿田彦命でよいか。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/saijinja-takahama.htm

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謎は謎ですが、天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされ、道祖神と同一視されるようになったという。賽の神もそうですね。この場合、妻とされる天宇受売神(アメノウズメ)とともに祀られるのが通例で、そういえば、双体道祖神はよく見かけます。

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格子戸から覗いてみました。武者人形が飾ってあります。こんな神社は初めてみました。何を意味するのでしょう。

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■これが道祖神?
帰り際に振り返ると、鳥居をの横の樹の根本になにやらお地蔵さまが。
関西人は普通「お地蔵さま」と言ってしまいます。ボクなんかも子供のときから、道祖神と教えられた記憶は皆無です。ところが、東国では普通に道祖神といいます。この差はなんやと思いますが、大体は「習合」していることで片付けられます。しかし、ちゃんとしたレポートをみると、道祖神や賽の神も関西でもあるようです。これもお顔ははっきり分かりませんが、道祖神としてよいのでしょう。

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この道祖神から道祖神社も道祖本村もできたのでしょう。道祖本の読み方も、賽の神でもあることから、「さいの本」というんでしょう。

 すぐ西には勝尾寺川が北から流れてきて平地を遮っています。律令制の時代には、条里制がこのすぐ北の宿久庄のあたりまで来ていたと言われています。条里制が崩れた後もこのあたりが平地の西のはずれだったのではないか。今でこそ、土地はなだらかな田んぼまたは住宅地ですが、勝尾寺川を渡るとそのあたりは勝尾寺川の扇状地で、未開墾の地もあり、その西には低い丘陵が連なり、そこを細い街道が通っている。周囲は林であった。・・・その境界にある村なので道祖神を置いた。これで、なんとなく納得してしまいました。
 この話は以前にも触れたことがありますが、若干トーンを変えました。
http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/08/post-7c96.html

 そこでも書いていますが、野本寛一さんによると、「道祖神≒賽の神と考えるのが一般的に なってはいるがその用例は少なく、甲信や駿東では実態はむしろ性神、養蚕神、防火神であり、賽の神と称する地域でも、その神能の第一は子供を守り、海岸地 方にあっては豊漁の神である」「この神の神像をドンドン焼にくべる風習があるが、焼いた焼畑地が見事な山として再生する山の力の再生呪術とも考えられる」  この地域も、こういうことなのかな?

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2013年9月15日 (日)

茨木街道をあるく Deep Ibaraki

2013年9月6日
2013年9月9日


 茨木の中心部をあるきます。迷走です。
 茨木中心部は何度もクルマで通りました。えらくごちゃごちゃしているところやなあ、というのが感想ですが、これでは良さを理解したことにはならない。歩いてみるべきです。しかし、歩いてはみたものの、まだ核心には迫っていない。まだ街道あるきのスタンスが抜けていないようです。お店に入ったり、食堂や喫茶店に入ったり、飲み屋に入ったりするのがベストなんですが・・・それはまた来てみましょ。

■宮元町界隈
路地に入るとまだまだ旧い家が

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どなたかのサイトでもみた記憶があります。

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■本町ROSE街
一番の繁華街、というかオバチャンの街やね

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■アーケードの商店街を突き抜け
茨木神社にやって参りました。東門。この東門は茨木城の搦手門といわれ、1617年(元和3年)茨木城廃城の際にこの地に移築されました。

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■拝殿
結構な人がお参りに来ています。若い人が多い。

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 大同2年(807年)、坂上田村磨が荊切の里(いばら・荊を切ったのでそこが茨木になった)を作った際、天石門別神社が創建されたのが始まるといいます。当時は、宮元町に鎮座していたが、楠正成が茨木城を築くに当たって現在の位置へ遷座したらしい。
 社伝によると、高槻城高山右近が、織田信長にならって神社仏閣を焼却するに際し、信長が天照大御神、春日大神、八幡大神及び 牛頭天皇(素盞嗚大神)の諸社は焼くべからずとしたので(風評?)、自衛のため、天石門別神社は社名を隠し「牛頭天王社」と号して焼却を免れたと伝えられています。
 元和8年(1622年)には社殿を新築すると共に、従来の天石門別神社を奥宮とし、素戔嗚尊を本殿に遷して本社としました。しかし、実際には牛頭天王が防疫神として庶民に崇め信じられていたことがあったと思います。
従って、御祭神は建速素盞嗚尊。誉田別命と天児屋根命が配祀されています。

■天石門別神社
由緒を見るまで何の神社かと思っていました。かつての主神殿。
ご祭神は、天手力男命で、天宇受売命(アメノウズメノミコト)と 豊国神・東照神が配祀されています。   

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■元茨木川・高橋
元茨木川緑地は1949年に廃川になった茨木川の旧河道を利用して緑地公園に整備されました。現在64歳。元は安威川と茨木川の合流点より少し上から、茨木中心街を通って、摂津あたり三宅村で安威川に戻っていましたが、緑地公園は沢良宜あたりまで続いています。全長5km。元茨木川は天井川で、堤防が軟弱なため洪水にあうと破堤崩壊して、たびたび濁流はんらんの災害を起こしてきました。歴史に残る仕事をされたと思います。
桜の咲く頃にバイクで付近を通りましたが、それはしれは見事な桜並木でした。
http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/motoibarakikawa-hi-hasiato.htm

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■茨木童子
大江山の酒呑童子の副将ですね。ワルだけどかわいいヤツです。
http://www.ibaraki-kankou.or.jp/douji/
http://www.1134.com/ibaraki/01douji1.html
http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/densetu/index.html

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http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/ibaraki.htm
私も茨木市に敬意を表します。

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■JRの線路をくぐったあと

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■春日商店街
このあたりでスマホの電池切れ。問答無用でシャットダウンしました。さて困った、記憶に頼るしかありませんが、そんなに覚えてないぞ。

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 結局、9月6日は西穂積あたりを迷走して、迷走した割にはちゃんと旧街道に入り、郡神社付近でまた迷走。道祖本街道は確認、おもしろい段蔵を見つけました。郡からバスで帰還。
 9月9日は茨木出発で再チャレンジします。

■ここから入ってみます
枝切街道が分岐する反対側(北側)

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■これはなんや?6角柱
右側面に天保元年と彫ってあります。手前には何かの絵。

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■ぬりこめ道標
北東角に半分壁に塗りこめられた道標があります。る
南面 右 京 八幡 三島江 唐崎 富田 高槻
西面 左 妙見山 亀山中山勝尾寺

ここは「茨木街道支線」の起点で、今回は北にこの支線をあるきます。

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■茨木城址によってみます
城址といっても復元櫓門があるだけで、敷地は茨木小学校になっています。

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■上泉町界隈
えらく細い道があったり、ビオトープがあったり

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■丹波橋の遺構
元茨木川には丹波橋がかかっていました。

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■元茨木川緑地
さすがに涼しいです。なので休憩。

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■JR東海道線が見えてきました

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普通のレンガのトンネルを再利用したものでした。

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■春日界隈
住宅街が続きます。

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■何か道標がありますが、読めません
ここでオーバーランしましたが、復帰。

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■倍賀春日神社
へかかすがじんじゃ は祭神は春日神社らしく、天児屋根命。

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往古は高良社または高良神社と称していたので、祭神が代わったのかもしれません。
高良社といえば、石清水八幡宮の摂社高良社は土着の産土神で川原神を祀っていると言われています。この高良社は吉田兼好の徒然草で、仁和寺の法師が八幡宮と間違えて満足して帰り、「・・・先達はあらまほしきかな」と結ばれた、あの神社です。また、八幡系の高良明神 の場合もあるとされています。倍賀春日神社の場合どうなのか分かりません。

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■国の重要文化財 石燈籠
昭和38年に指定。 敬白 高良社 石燈爐 延慶二八月日紀口弘 の刻銘があり、鎌倉時代のものとされています。

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■社務所ですが・・・
旧拝殿か本殿の再利用のようで、こちらの方が風格あったりします。

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■府道に当たりました。
よく見慣れた風景で、今回は順調です

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(つづく)

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茨木街道をあるく 溝咋神社

2013年9月6日


 また道草です。堤防を下って溝咋神社に行ってみます。

■五十鈴で安威川にかかる橋
堤防上の道では横断できませんでした。引き返して石段を下りて、道の下をくぐります。旧街道は、階段のところから路地に入るという話もあります。

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■溝咋神社

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 溝咋氏というのがよく分かりませんが、彼らがこの土地に居住して祭祀をしていたと思われます。
 溝咋氏は、溝咋から水田に水を誘導する溝の側の杭とする説から、土木技術で低湿地を開発した人々という説があります。溝咋の咋は「くう」で、「くう」は鳥が巣を構えるの、構えるという意味があるので、単純に、溝を掘って人々が住める土地を拓いたと理解します。たしかにこの地は、淀川のような大河の傍ではないものの、少し上流で安威川と茨木川が合流するための低湿地で、まずは溝を作らないと作物ができない、住めない土地だったのでしょう。
http://www.osaka-museum.com/comm/comm.html?id=1032
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-mizokui.html

 話はまったく変わりますが、下が公式サイトです。サイトのできばえは問題にはしないですが、ホームページ本文を隠してしまう広告はいかがなものかと。表示しないように設定はできるようですが、いちいちログインしないといけない。だんだんド厚かましくなってくる広告手法。
http://www.geocities.jp/mizokuijinja/

■神門というのか
なかなか重厚です。

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■由緒書きが読めませんが、

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社頭掲示によると・・・・・
「延喜式の古社であって、祭神は、姫踏鞴五十鈴姫命、溝咋玉櫛媛命を主神とし、相殿に三島溝咋耳命、天日方奇日命、速素盞命尊、天児屋根命を祀っている。
日本書紀神武天皇記の本文には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇皇后になられたと記されている。また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地方を統裁しておられた方である。
元来溝というのは水か生命で、農業にとって欠くことの出来ないものである。その溝を構成する杭も大切である。耳とは古代では長を表す、したがって溝咋耳は農業神を意味した。溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っているのからも察せられる。神社に伝わる「暁の御鏡」は天長年間の旱魃の際に祈雨して霊験のあったことを伝えている。現在の社殿は、寛保二年「一七四二」、地元出の両替商米屋喜兵衛が達営したものといわれている。」
 第10代崇神(すじん)天皇のころの創始とされていますが、記紀の時代より相当昔、ヤマト建国に近い昔ということなのでしょう。

■本殿への道

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■拝殿です
厳重ですね。本殿も拝殿に連結され、屋根しか見えません。

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■神婚説話
 祭神の一柱、ヒメタタライスズヒメ命は、後に神武天皇正妃になりますが、記紀の有名な説話には・・・・
○古事記・神武天皇段
 三島溝咋の娘・セヤタタラヒメが厠に入っているとき、ヒメを見染めた三輪のオオモノヌシが丹塗矢と化して、下からヒメのホトを突いた(犯罪だあ!)。驚いたヒメはその矢を床の辺に置いていたら壮夫となった。二人の間に生まれた御子をホトタタライイススキヒメ、亦の名をヒメタタライスケヨリヒメという。さらに、正妃を求めていたカムヤマトイワレヒコ(神武)が、ヒメタタライススケヨリヒメが神の子であると聞いて喜び、ヒメを娶り正妃とした。
○日本書紀・神代紀
 大三輪の神の御子は賀茂君・大三輪の君またヒメタタライスズヒメである。
 また曰く、コトシロヌシが八尋熊鰐と化して、三島のミゾクイヒメ亦の名・タマクシヒメの処へ通われ、ヒメタタライスズヒメが生まれた。これが神武天皇の后である。

 典型的な朱塗矢型神婚説話ですが、書紀のコトシロヌシがヒメタタライスズヒメの父神とみるのが一般になっています。コトシロヌシは葛城を本拠とする鴨(賀茂)氏が奉斎する神なので、当地に進出した鴨氏と溝咋一族との交流(鴨氏が溝咋一族を傘下におさめた)、さらに鴨氏もヤマト王家に服属したのを神話的に言っているのでしょう。
下記が非常に参考になります。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/01/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2010/12/post-4717.html
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2008/11/post-4e2c.html

■事代主神社
コトシロヌシは当社摂社に祀られていますし、近くにコトシロヌシを祭神とする三島鴨神社がありました。鴨についていえば、北約3kmに鴨神社、その辺りに鴨村・鴨林などの小字名があり、一帯は鴨氏の地盤だったのでしょう。

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■タタラ
ヒメタタライスズヒメの「踏鞴」が気になりますが、南茨木の東奈良では、弥生時代2ー3世紀の大規模環濠集落・東奈良遺蹟が見つかっていて、わが国最大級の銅鐸製作地であったことが分かっています。これをもって、溝咋一族はタタラ製作に関係する技術集団だったといえるのかどうか?
摂社の事代主神社には、事代主命の他に、カグツチの神が祀られています。踏鞴と結びつけてよいのかどうか?

阿遇突知神 (カクツチノカミ)    火の神
沖津彦神 (オキツヒコノカミ)     かまどの神
沖津比賣神 (オキツヒメノカミ)    かまどの神
弥都波能賣神(ミズバノメノカミ)   水分の神
波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)  陶磁器の神
波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)  陶磁土の神

■摂社に陶磁器や陶土の神、波通夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)、波通夜須毘賣神(ハニヤスヒメノカミ)が祀られているので、陶器生産にも活躍したのかも知れません。
ここで、陶器生産ということで、陶津耳命を持ってきたい気はしますが、甚だ悩ましいことになります。
「カモ系図考察」http://homepage1.nifty.com/moritaya/kamokeifu.html によると、
高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-生玉兄日子(鴨県主、賀茂県主祖)
となっていて、陶津耳命=(三島溝杭耳命)=(建角身命)という案があるのです。
そうなると、下記の年表で、先着の鴨氏(建角身命;山城鴨系)に三島溝咋耳(建角身命)が合流するという変なことになります。まあ、先着の鴨氏が拡大したと理解したら同じことか。

■鴨の矛盾をはらみながら、この地の支配集団まとめ
--------------------------------------------------------------------------------
弥生時代中:大規模環濠集落・東奈良遺蹟等、わが国最大級の銅鐸
                  製作集団
3~4世紀 :鴨氏が当地に進出、内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定
                   着し、鴨神社を創建。溝咋氏が安威川周辺に入植・開発
                   し、溝咋神社創建。(崇神期)
      後に鴨氏が溝咋一族を傘下に<=ここがおかしくなる
4世紀末   :ヤマト王権に鴨氏(事代主神系)が服属(応神期)
      仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に
                       三島神社創建(淀川右岸)
5世紀    :御島氏が勢力拡大し三島県主、先住の鴨族と共生した
                       が、鴨氏は衰退
7~8世紀   :三島氏が伊予三島と伊豆に「三島大社」を起し、三三島
                      として崇敬
--------------------------------------------------------------------------------
各神社の由緒を第一義に参考にし、文献により修正しています。そもそも年代はよくわからない時代なので、ものすごく大まかにはこんなことがあったのでしょう、という程度。
以後は、摂津北部は中臣氏の地盤になるのか?

■手力雄神社
手力雄神(タチカラオノカミ)を祀っています。力の神。この神を祀っているのは初めて見ました。

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■天照皇大神社(左)と保食神(右)
なかよく並んで建っています。

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 なにか釈然としない気分のまま旧街道にもどります。その前に、五十鈴のコンビニで休憩。

■力石
200kgだそうです!

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場所は浄福寺分院のなかです

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■府道に出てきました。
ここは見覚えがあります。クルマでよく通ったところ。

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■よくわからない階段
もとからあった階段を無視して造成したか。

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■旧道が分岐します

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■バス道を横切ります。
しばらく住宅街を通って、バス道に合流し、末広町でまた旧道が分岐します。
右端は外国人のおっさんですが、クルマがどんどん来ているのに、のんびりと急ぐ様子でもなく平気で渡っていきました。大阪人もビックリ!

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■旧道をあるきます
しばらく歩くと阪急電車のガードをくぐり、いよいよセントラル茨木

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2013年9月12日 (木)

茨木街道をあるく 道草編 (3) 三島鴨神社

2013年9月3日


 ちょうどお昼になったんですが、お茶もパンも用意していない。ぺットボトルの自販機はありますが、コンビニがない。コンビニ探しで延々とあるきました。
ともかくも、三島鴨神社です。

■三島鴨神社鳥居
鳥居は阪神大震災で崩壊し、新たに建てられたものです。

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■拝殿の前に鉄製の提灯かけが作ってあって、これが大型で邪魔。

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 ご祭神は大山祇神、事代主神。ご由緒を見ると、相当こまかく書いてあります。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/rekishi.html

「創建は、4世紀中葉、仁徳天皇が河内の茨田の堤をおつくりになるとともに、 淀川鎮守の神として、百済よりここ摂津の「御島」に、大山祇神をお迎えになりました。(一部略)」
大山祇神を祀る土木工事の技術者集団を呼んだというような書きぶりです。(淀川鎮守のやしろをつくるに当り、唐崎のあたりにいた物部の韓国連が協力した、と書いてあります。両者、茨田堤の造成にかかわったのでしょうか?))

「御島とは淀川の三島江にある川中島のことで、古代の玉川湖沼(仮称)が淀川にながれこむ入江「玉江」(三島江の別称)にあ って、玉川水路が出させた土砂が堆積したもので、「御島」とあがめられたのです。淀川の鎮守であるとともに、農耕を守り王都難波を守護する神として、祈りつづけられてまいりました。」
当時の想像地図が公式ホームページに載っています。
http://www.tcn.zaq.ne.jp/akbus600/rekishi/tamagawakosyou/tamagawakosyou.html

この地図を見ていると、当社はもとは御島社で、三島鴨神社はもっと内陸の赤大路、太田茶臼山古墳の近くになります。いろいろ調べるとやっかいなことで、摂津国嶋下郡の延喜式内社がよく分からなくなっていて、その後継社候補にここの三島鴨神社と赤大路の三島鴨神社(現在は鴨神社)とが議論になっているのだそうです(論社という)。両社がケンカしている訳ではありません。

 赤大路の鴨神社の由緒もしっかり踏み込んで書かれてあります。
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja02.html
http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja03.html
http://kamojinja.web.fc2.com/100719.html

 両社の関係を時代を追って整理してみると、要は・・・・・

1)凡そ3世紀のころ:内陸部の赤大路付近に「鴨氏」が定着し、鴨神社を創建。祭神はカモノタケツヌミノミコト、イザナギ・イザナミノミコト、大山積命
2)4世紀中葉:仁徳大王が百済より大山祇神を祀る人々招請、御島に三島神社創建
3)5世紀ころ:御島氏が勢力拡大し三島県主となり、先住の鴨族と共生する時代があった。しかし、鴨氏は衰退し、赤大路の三島鴨神社も三島氏が統合支配するようになった(上の宮と下の宮の関係)。6世紀、継体大王以後は三島氏の勢力が大。
4)7~8世紀中葉:三島氏が予大三島に「三島大社」を勧請し(百済との海上交易を深めるため)、伊豆の「三島大社」をも起し、日本三三島として崇敬されはじめる。
5)10世紀:「延喜式神名帳」に式内社「摂津の国嶋下郡の三島鴨神社」と記載され、長らく摂津の国の氏神として崇敬される。
6)15世紀後半:応仁の乱で社殿が消失、再建されないままになり、後年、「鴨神社」に戻った。
7)1598年(慶長3) :豊臣秀吉の命により淀川右岸の堤防がつくられ、三島神社は川中島から三島江村内に遷される
8)1697年(元禄10):高槻藩主の尽力で三島神社が延喜式内社三島鴨神社と改称。

詳細は三島鴨神社の年表参照ください。

 三島江の三島鴨神社のご祭神は、大山祇神、事代主神。一方、赤大路の鴨神社のご祭神は、大山積命、カモノタケツヌミノミコトで、どうもタケツヌミというのが気になります。賀茂朝臣系(葛城賀茂)のコトシロヌシであれば、上記、三島県主と鴨族との共生関係があったということから、理解しやすいのですが?それとも、別れた時に、それぞれ別のカモの神にしたのか、8)の段階でコトシロヌシを勝手に付け加えたのでしょうか?そんなあんまりな。

■本殿

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■本殿は垣根の扉が開いていて直接お参りできるようになっています

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■三社神社

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左から、武甕槌神(大将軍社)、市杵島媛神(厳島神社)、奥津彦神 奥津比売神(竃神社)
中臣氏はいつごろから入ってきたのでしょう?

■八幡宮
明治41年(1908)に西面にあった八幡宮を三島鴨神社に遷し合併奉祭したという。

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國廣大明神
明治41年(1908)、柱本にあった稲荷社と天神社を合祀し、國廣大明神として合併奉祭したもの。

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■唐崎神社
明治41年(1908)、唐崎にあった唐崎神社を三島鴨神社に遷し合併奉祭した。唐崎の神社跡には遥拝所があります。

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大山祇神(三島鴨神社若宮)、天児屋根神(春日神社)、菅原道真公(天神社)の三祭神。
新しいうしさんと旧いうしさんがいます。P1260555

秋祭りの写真等をみていると、盛大で本格的なものです。近隣の人も楽しみにしているのでしょう。神社を中心に、共同体がしっかり生きている感じを受けます。

■さて三島江を退散します。

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■一天にわかにかき曇り・・・
堤防まで上がってきた段階で、西の方は空模様がちょっとヤバい状態です。

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■対岸の出口側を望む
東は大丈夫ですが・・・そうこうしているうちに降り出しました。あわてて神社横のバス停に戻りました。バスは出たところで、30分待ち。迷っているうちに雨が止みました。

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■三箇牧小学校
午後は休みなのか、サッカーしています。

P1260582

 


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2012年4月 1日 (日)

西国街道(5)神足-向日町

2012年3月12日(月)

 



【一文橋】

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■街道復帰して一文橋に向かいます(14:04)。車道は坂を登りますが、街道はその下の路地を行きます。自転車ものんびりと・・・写真では暖かそうですが寒いです。

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■この道が気に入ってます(14:06)。以前の写真がボケていたので再度。http://walkin.way-nifty.com/walkin/2011/09/post-ae9e.html

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■一文橋(14:09)
由来は石碑の通り。「知らぬ顔の半兵衛」という言葉もここからきたのだとか。

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■この案内板は何?
一文橋の案内板かと思いますが、どうやって読むの?まさか橋の途中から読むんではなかろうね。




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■リベンジ。前回は一文橋の右側(南側)を渡ってそのまま信号を渡ってまっすぐ行ったので旧街道は通れませんでした。今回は初めから・・・下川原というところですが、大きな農家住宅もあります。

R1228951R1228952■また、ここには国登録有形文化財・中小路家住宅があります。いろんなイベントや喫茶もできるようになっていますが、今日はお休みでした。
http://www.eonet.ne.jp/~nakakoji/nakakoji.html

R1228954■西国街道は阪急線をくぐります(14:14)同時に広い道も渡る。






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■西向日駅近くの旧街道を行きます。さりげなく建っている愛宕灯篭と長刀鉾の粽を飾った家

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■五辻(14:23)
光明寺や善峰寺に向かう道が分かれています。




【長岡京大極殿】
 向日神社参道前で右に折れて大極殿跡に行ってみます。ちょっと行きすぎたかも知れない。霰が降ってきました!

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■写真は大極殿通りを南に向かっているところ、登りです(14:29)。中山修一記念館のガイドさんの言う通り、大極殿は高いところにあり、南を見下ろすようになっていたのがよく分かります。


R1228963■大極殿公園(14:30) 小さな通りを挟んで南北に小さな公園になっています。このあたりが大極殿の跡で、南を向いています。看板の図は北から南を向いて長岡京のレイアウトを示してあります。正面に八幡、左手に巨椋池、右手は西山です。霰はどんどん降っています。

■長岡京全体の地図は通常通り上が北です。

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■発掘された大極殿の構成図
 内裏は阪急線を越えた東側です。かなり広いエリアで、桓武天皇はここから通って?来たのか。

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■朝堂と大極殿の位置関係。阪急西向日の駅近くにある楼閣の出っぱりは長岡京から採用されたもので平城京にはないと中山修一記念館のガイドさんは言ってました。

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■発掘後の写真
大極殿は 昭和34年・36年に発掘調査され、昭和399年に国の史跡に指定されています。写真のセンターより左下空き地が大極殿の跡地ですが、現在は周囲は住宅になっています。住宅にするような所かと思いますが?

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■長岡京城大極殿遺址紀念碑
大極殿公園の北に建てられていたものが移築されています。2年ほど前に天皇皇后両陛下も来られているようです。
北大極殿公園は、明治25(1892)年、京都府の平安京遷都1100年事業を機に、乙訓在住の岡本爺平氏らが中心となって文献調査と推定地を発掘した結果、古い瓦が発掘され、京都府から長岡京大極殿跡とされていたところです。古くから在野で発掘した人がいたんや!
 寒いので早々に退散します。

【本日のマップ】

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2012年3月31日 (土)

西国街道(5)調子八角-東寺 (番外:納所~久貝)

2012年3月12日(月) 



【納所】
 もう11時を過ぎました。先を急ぎます。ちょっと気になる商店街を通っていきます。
 納所の交差点です。へえ、千本通はここから始まるのか?千本通は北は北区鷹峯から始まります。京都の南北の通りで一番長いのではなかろうか?千本通は平安京の朱雀大路をその起源とします。羅城門から下鳥羽までの鳥羽作り道と新たに開かれた桂川左岸の堤道が鳥羽街道で、京からから見て大坂街道とも、大坂方から見て京街道とも言われます。伏見道も京街道というのかな?今度歩きましょ。

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 納所は納所から来ています。いやいや、のうそはなっしょから来ています、ということです。納所【なっしょ】は元々、年貢などを納める所またはそれを扱う人とのこと。淀川水系は水運が盛んで、淀津に年貢などを納める納所(なっしょ)があったことから納所(のうそ)とわれるようになりました。古代からの言葉のようなので、桓武天皇の長岡京の頃から淀にあったのでしょう。それ以前、平城京の造営の際も、各地から木材等が巨椋池に集められて奈良に送られたようです。
 この辺りは江戸時代は宇治川の対岸で朝鮮通信使が上陸した船着場の跡「唐人雁木旧趾」や、桂川と宇治川の合流付近に二つあったという水車の跡「淀川瀬水車趾」があります。石碑だけですけど。今回はパス。

【後退した大下津村】

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 桂川を渡ります(11:13)。宮前橋の上から下流を眺めていますが、河川敷に低い堤防みたいなものが見えます。新之介さんのサイトにある明治23年測量の地図を見ていると、旧の山崎通はもっと桂川の水流に接近していてカーブの具合がちょっと違いますが、まあ、この辺りに大下津村の集落があったか、それとも例の明治18年の水害以降に堤防を後退させた跡かなと思います。
http://atamatote.blog119.fc2.com/category52-3.html

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 さらに進んで府道123号が分かれる水垂交差点を過ぎると、なんだこれは!だだっ広い窪地が現れます。その時はよく分かりませんでしたが、地図をいろいろ見ていると、左手の道路沿い家が並んでいて、お寺もあって、そこが大下津なのでした。手持ちの国土地理院5万図は昭和36年(1961)測量ですが、そうなっているし、昭和49年頃の空中写真も同じです。確かに、窪地の中を見ると道路下の台地に石垣が見えており家があったらしい。最新の電子国土の地図、空中写真、Google mapの写真では123号線に沿っていた家が取り壊されて、より外側のもう1つの堤防の内側に建ちつつあるのが見て取れました。その堤防の家は真新しく、新興住宅地なのかなと思っていましたが、移転が進行している最中だったようです。

Miyamae

■「国土地理院の空中写真(国土画像情報1974~78年撮影)」 400×241ピクセル→



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【日本のシュリーマン】

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 まっすぐな道を行きます。急に西山が見えなくなって、どうも雪が降っているようです。ちょっと嫌な感じ(11:21)。浄化センターあたりから長岡京市に入って、この道はサントリー通りというようになります。

 久貝というところを歩いていると、おや?何かある(11:30)。「中山修一記念館」とあります。はて、全然知りません。個人のお家のようですが長岡京を発掘した人の記念館で長岡京市立、無料なので入ってみることにしました。

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 係の女性が小一時間、付っきりで説明してくれました。懇切丁寧以上のものがあり、中山修一先生の伝記が書けるほどです!

 解説のエッセンスはこうでした。
 我々が平城京の後の都で習ったのは「794ウグイス平安京」ということで、長岡京というのがあったらしいことは知っていても、平城京と平安京のツナギの「長岡宮」程度のものである。学会レベルでもそのようでした。
 先生は長岡生まれで、歴史をやりたかったが、桃山中学-京都師範を出て学校の先生になった。おお、ボクの母親と同じコースだ!
 あるとき、先生は長岡にあった田んぼが条里制の田んぼの長さと違う。区画が大きく宮城の条坊制の長さとよく似ていることに気づきます。キッカケになったのが、ここの田んぼで農作業をしているおっちゃん、おばちゃんの話で・・・・

おっちゃん;「ここの田んぼは牛がうまく回れるんて楽なんや」
おばちゃん;「田植えや草取りで腰が痛うなる、難儀ですわ」

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ということで、「これは宮城、長岡京ではないか」という仮説を考えたのでした。そこで先生は長岡の地図に平安京の町割りをあてはめてみます。東は久我-淀・納所のライン、西は大原野-円明寺ラインの壮大な都の跡が出現しました。
 しかし、仮説だけでは話にならないので発掘して実証しないといけません。一介の学校の先生では当然発掘のお金がない。知り合いの大学のナントカ先生に別の発掘研究の研究費をまわしてもらうことでしのいでいました。しかしその研究が終ると資金がなくなります。先生は「スポンサーがいるから大丈夫」と支援者の先生に言っていたそうですが、そのスポンサーは実は自分であったらしい。密かに株投資をやっていたそうです。しかし、昭和42年、株価が暴落します。(繊維不況かなにかの時代ですね)。しかたなく、奥さんのお金もちょっと拝借されたとか・・

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 学校の先生なので発掘は休みの時だけ。それでは足りないので学校の帰りに発掘したり、全日制から定時制の勤務にあえて変えてもらったり(これとて役所は格下げ人事はできないと抵抗されたが、教育委員会のナントカ先生の口添えでやっと実現)、後には生徒や土地の人も協力するようになったということでした。まさにその情熱は「シュリーマン」。
 結果、昭和30年朝堂院南門跡を発見、それまで文献上の存在だった長岡京が実在したことが証明されました。以後、大極殿跡などを次々と発掘していきます。長岡京が実在した都として教科書にも載るようになったのは昭和59年です。
 後には長岡京は、冗談で「中山京」「中山狂」と言われるようになったとか。先生は単に発掘の虫だったのでなく、長岡京跡をはじめ、地域の遺跡を守る運動の先頭に立った。宅地開発が急激に進む中で、向日町や長岡の多くの遺跡保存の重要性を訴え続けた。こういう活動で、土地開発の前にはきちんと調査をするようになったと説明を受けました。
詳しくは長岡京市のサイトを参照ください。
トップページ;http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/09030172.html

Imgcc

 長岡京の姿は平安京より若干小さく、東南端は桂川でナナメにカットされています。しかし、南の山崎津や淀津が使える。淀津で降りた人や荷物は小畑川河口からまっすぐ延びる朱雀大路を北に行けば大極殿に至るというものです。東市は工場が建っているので発掘できていないが、西市はだいぶ分かってきた(逆だったかも)と説明を受けました。
 確かに、一段と奥に引っ込んだ感のある平城京や平安京と比べると水運が使える点で抜群のロケーションです。堂々たる都城だったにちがいありません。しかし残念ながら桓武天皇は延暦11年(792)年の小畑川の氾濫を防ぐことができなかった。それに弟・早良親王の怨霊に悩まされ、結局長岡京は10年間で破棄されます。
 帰り際に、JR長岡京駅ちょっと西のマツダさんところが、先生の生家で長岡京発見のキッカケになった田んぼはその裏で、そこに新しい石碑が建ってるよ、と教えていただきました。行ってみましょう。A2サイズの航空写真に長岡京の町割りを入れた「わくわくマップ」もいただきました。

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 この記念館はお薦めです。サントリービール工場から至近。ここに立ち寄ってからビール工場に行くべきです!そのビール工場(12:35)。今日は行きません。
まだ西国街道のアプローチなのに、今日のメインエベントが終った感じです。

(つづく)

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2011年8月31日 (水)

西国街道(4) 上牧-山崎

2010年10月23日(土) 



■島本町水の文化圏(14:05)
 
コンビニで水の補給をします。ここはまだ高槻側です。結構暑いのでユックリ休憩します。15分ほどタバコ休憩して出発です。

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 コンビニの向いには島本町の作った西国街道の道標がありました。桜井駅跡、水無瀬神宮、関大明神と続きます。途中、桜井駅跡からは高浜砲台跡に行く道も書いてあります。梶原砲台は聞いたことがあるが、そこにも砲台があったのか?同じなのか?また、東大寺水無瀬荘跡とは東大寺の寺籍というか荘園だったのか、さらに、鈴谷瓦窯跡というのもあって、このあたり一帯、瓦の産地だったのか?ともあれ、見所はたくさんあるようでした。

■桜井駅跡(14:15~45)
 
5~6分で桜井駅跡につきます。桜井駅という鉄道の駅があった訳でなく、律令時代の駅(馬舎や宿舎)で大原駅があり、それがここであるとの説があります。
 今はここには新しく島本というJRの駅ができていました。ちなみに、阪急京都線の最寄りの水無瀬駅は開業当時「桜井ノ駅駅」(さくらいのえきえき)というややこしい名前だったとか。

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 結構疲れたのでまた休憩です。町立歴史文化資料館に入ってみましたが、あまり印象には残っていません。新しい駅ができて、街道沿いはまだまだ昔ながらの家がありますが、早晩ビルがたって、どこにでもある風景ができそうな気がします。
 駅跡の公園をぶらぶらするでもなく、ベンチに腰かけてぐだぐだしていました。

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 桜井駅(跡)は「青葉茂れる桜井の・・・・・」で知られる(あまり知る人もいなくなっている)「楠公父子訣別之所」であったところです。事実なのか創作なのか分かりませんが、湊川の戦いにおいて延元元年・建武3年(1336年)、北朝方の足利尊氏を討つべく湊川に向かう南朝方・楠木正成が、嫡男の正行に「たとえ一兵になろうとも、最後まで千早赤坂にこもり天皇を助けよ」と諭し河内国に帰らせたと伝えられる所です。「滅私奉公」と刻んだ台座の上に楠公父子の像がありました。付近では子供連れの奥さん連中が弁当のあとのおしゃべりに夢中でした。

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 いろいろ調べると、正行は以後も父の遺訓を守って足利氏に対抗し、11年後には北朝軍と戦い、1348年、四条畷にて、足利尊氏軍の高師直率いる6万の大軍とわずか3千騎で決戦を挑み、激戦の末、弟正時と刺し違えて自刃しということです。北河内の四条畷神社は正行を主神に祀っていますし、楠木正成の「大楠公」に対して、正行は「小楠公」と呼ばれていて、河内では親しまれているといってよいでしょう。写真は四条畷の小楠公墓所です。見事な楠です。
 この西国街道ウォークでも、正成決戦の地・湊川に近い神戸・京町からスタートして、伊丹では師直塚も通り過ぎましたし、四条畷は家から近いので何回か歩いていますね。東高野街道ウォークでは河内はずっと歩きました。楠公さんには縁のあるウォークだなということで・・・

 そんなことより、ここは大阪府の青年の家だったか?があって、新入社員のころ、そこで研修があったのでした。西宮の禅寺明け直後の3~4日のカンヅメで、何を勉強したかは全く覚えていませんが、新緑の楠が清々しかったのは覚えています。近くを電車が通っていたので間違いなくここでしょう。それを取り壊し打て駅前広場か歴史文化資料館にしたのか?

■天王山は遠い(14:47)

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 島本駅から電車に乗るという考えもチラと頭をよぎりましたが、うだうだしていても仕方がないので、とりあえず歩きます。道は快適ですが、天王山はまだ遠くに見える。

■柳谷観音巡礼道(14:51)
 
水無瀬川を渡ると柳谷観音にいく道が分かれます。またここで自動販売機のコーヒーか何かで休憩。午後になりますと休憩ばかりですね。サントリーのウイスキー工場が近く、メインブランドは「山崎」なのか、看板は「山崎」ばかりで、まさに「山崎」通りという感じです。我らの時代はレッドだったが・・・

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 見えてきました、山崎工場。その向こうには天王山も見えます。

■山崎ディスティラリ(15:00)
 ここには仕事の延長で一度お邪魔しました。仕事とは言い切れず「延長」です。以前、サントリーに不易流行研究所というのがあって、そこの文献を仕事で活用させてもらっていて、たまたまこちらに来たときに、その論文の著者・研究者(女性)の講演があり「実は・・・」とお礼かたがた、飲んだのでした。何をしゃべったか全然記憶にはありません。

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 すみません、「山崎」よりもスコッチ・モルトウイスキーのほうが口に合いました。赤い顔でこの踏切を渡って山崎駅まで帰った記憶があります。

■関大明神(15:05)
 ・・・ということは、以前もここを通っているはずなのですが、記憶にはありませんでした。赤い顔でしたから・・・その時は、この道が西国街道とは全然知りませんでした。

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 関大明神です。かんだい明神ではありません。関戸明神ともいい、祭神は大己貴命、天児屋根命です。古代、この辺りに、国境でもあったので関が設けられ、関守神、辻神を祀ったのでしょう。

 天王山の合戦のずっと以前、古代から軍事的に重要な土地だったので厳重なものであったと思われます。年代物の案内板と新しい案内標をあげておきます。

■府境(15:07)

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 ここが大阪/京都の府境も兼ねています。「従是東山城國」という石柱と府境の看板が建っています。後者は余分に思えてしかたがない。

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 ちなみに辻元さんはフライングですね。さらにちなみに、Googleのストリートビューを見ていたら、辻元さんの顔にシャドウが入っていました!ここまでするの?三笑亭って何じゃい?と思ったら京都側にある料理旅館でした。


(つづく)

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2011年8月11日 (木)

西国街道(4) 太田-氷室

2010年10月23日(土)




■安威川を渡る(10:33)

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 名神をくぐったあとは広い道を行かずに、正面の曲った道を行きます。橋になっていて、流れる川は安威川。結構大きな川です。バイクのおばさんが颯爽と走っていきます。

間違い一里塚(10:35)

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 橋を渡ってすぐ、なにやら由緒ありそうな樹と広場があります。樹はなんというのか?倒れて枯れたのか、それとも寝たまま枯れてしまったのか?その根本から新しい若木が既に大きくなっています。ヒコバエにしては、倒れた樹の風化具合からして大きすぎる。倒木の背後には「西国街道」の案内板が建っていました。広場の奥にはいかにも古そうな石標がありましたが、「太田・・・」とだけしか分かりませんでした。

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 あとで調べると、昔はここが一里塚と考えられていて、その案内板もあったようですが、間違いというのが濃厚になり、今は、「西国街道」の案内板があるだけです。

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 木陰は旅人にとってこの上ないものですが、これで水があれば・・・と思っていると、横にある鐘つき堂のような建物にてぬぐいが吊ってありました。当日はそこまでしか確認しませんでしたけど。


■太田東芝町(10:39)

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 太田の街道筋を抜けて信号を渡ったところに道標となにやら案内板がありましたが、確認しませんでした。ここから先はゆるやかな坂道になっていて、下(南)は広大な空き地になっています。東芝の工場があったところですが、跡地の再利用はしないのか?

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 余計なお世話かも知れませんが、町名が太田東芝町となっているのは、東芝撤退後は町名も変えるのか?途中、太田神社の案内看板もありましたが、遠そうだったのでパス。

太田茶臼山古墳(10:44)

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 ここには茶臼山古墳があるんです。坂を登り切った辺りで、多分この辺だろうと思って北に入る路地を行きました。ありました茶臼山古墳。手前の太田公民館の前には解説板がありました。宮内庁曰くの「継体天皇陵」です。発掘調査も行われているようですが、古墳の外堤と墳丘修復工事のための調査しか行えていない。

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 調査によると、造営された時期は周濠から出土した埴輪の特徴などから見て、5世紀前半から中頃にかけての古墳時代中期であろうと考えられています。日本書紀では継体天皇の没年が531年となっていて、100年程も前に(生まれる前から!?)継体天皇陵があることになりますね。食い違いも甚だしい。この案内板はきちんと由来が書かれていました。

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 しかし、この古墳は宮内庁が厳重に管理しているだけあって、鬱蒼とした森が残されています。これは別の意味で貴重ですね。
 継体天皇陵とは違っていてもお墓はお墓なんだからみだりに立ち入るのは遠慮すべきですが、せめて学術調査だけでもできれば、と思います。
 この古墳の修復・変遷については下記のサイトが詳しいです。バスの時刻まで載っている!前にも別件で引用させていただいたかも。
http://www.y-morimoto.com/kofun/ota.html

■街道復帰(10:47)
 茶臼山古墳はどうも取りつく島もないので、早々に退去、街道復帰です。少々民家が建て込んできて、街道の雰囲気はなくなりそうです。

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 藍野大学を過ぎると高槻に入ります。藍野大学は藍野病院の経営のようですが、藍野のアイは、安威から取ったんでしょうか?それとも中臣藍連の藍?
 安威は多分、この地の土豪・安威氏から来ているんでしょう。永正年間(1500年代初頭)に安威弥四郎によって築かれた安威城(跡)もあります。安威氏は摂津守護細川氏より安威庄惣領職を安堵されています。
 やっぱり由来は藍のほうでしょうか。

■氷室町
 住宅街になったので写真も撮らずにドンドン進みます。この辺り、氷室というんですが、まさかここに氷室があったとは思えません。ポンポン山の奥なら可能性はあるでしょうが・・・氷室は「氷を夏まで貯蔵しておくため、特別な室または山陰の穴.陰暦6月1日にその氷を禁中に献じた(広辞苑)」もので、延喜式によると、朝廷では、山城・大和・河内・近江・丹波に氷室を設けたようです。

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 いきなり水路がでてきて、元茅葺きトタン屋根の家が見えてきました。(11:02)古くからの村が雑然とした街になったようですが、こういう場所は嫌ではありませんね。

■巡礼橋(11:03)
 すぐに賑やかな街の中心みたいなところにでました。バス停の名前が巡礼橋。どうやら昔は巡礼の人々で賑わった所のようです。右手の小さな橋が巡礼橋。

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 どこへ巡礼するのか?この橋を渡って南へ行けば富田を抜けて茨木の総持寺(西国二十二番札所)へ、北へ向かい峠をいくつか越えれば亀岡の穴太寺(二十一番)にたどり着きます。西国第二十三番の勝尾寺へは西国街道を西に、ですね。まさに巡礼の十字路の街でした。

■第1次休憩
 休憩のため喫茶店を探して、やや大きい通りを南に下ると春日神社というのがありました。やはり藤原氏(中臣氏)の地盤か。

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 春日神社の横にあった「宮田遺跡」の案内板によると、ここには中世の農村があったということです。しかもかなり裕福だったようで、中国製の青磁、白磁などの貿易品も出土したとのことでした。

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 喫茶店を見つけて、約30分休憩。本屋さんとイケイケになっていて同じ経営のようで、おばさんがかけ持ちで店番していました。ゆっくり休憩して出発です(11:30)。ここの街道はおもしろい造りになっていて、水路の両側に道があります。

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■隠された道標(11:37)
 氷室町の外れに古い道標が建っていて、どうやらここから今城塚古墳に行けるようです。

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 道標を見てみると、大きい方は、「右石川見山妙見道」、「右芥川山崎京都」、「左豊川池田神戸」 「此芥川村郡家」(明治四十三年)。小さい自然石には、「右ハ妙見、すぐ総持寺。ブロック壁埋込のものには、「右妙見道」

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 能勢の妙見さんはお寺ではないので西国三十三ヶ所には入りませんが、同様に参拝する人が多かったのでしょう。

 信じられないのは一番古そうな道標の扱い!自分の土地だし、字が見えるから良いと思っているのでしょうが、とんでもない所業です。どうも人気(ひとけ)がない家のようですが・・・

■今城塚古墳(11:44)
 
今城塚古墳に行ってみました。ここは継体天皇の埋葬が確実視されている古墳です。ところが、整備工事中のため全面閉鎖!フェンス越にのぞき見するだけでした。工事の掲示によると、平成23年の3月15日まで工事だそうで、現在はオープンしています。

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 高槻市では、古墳の保存を図るため、国や大阪府の支援をうけながら約50年間をかけて、ほぼ全域を公有化しました。これで市街化の侵食が防止できるというものです。その時は史跡公園化で古墳ではなくなる心配をしたものですが、やむなしというより、もっと積極的に古墳が保たれることを歓迎したいと思います。

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 高槻市サイトの今城塚のページを見るとかなり力は入っています。
-整備の考え方-として、 今城塚古墳の適正な保存を基本に、

   ①郷土の歴史文化を学ぶ場。
   ②散策や憩いの歴史的空間。
   ③歴史文化に関するさまざまな活動をささえる拠点。
となる史跡公園にすることにより、都市の風格や市民の郷土への誇りと愛着をはぐくみ、特色ある地域文化を全国に発信していくことを目指します
となっていて、ハコモノ路線はごめんですが、地域文化の発信拠点には期待したいと思います。
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/imashiro/

【本日のマップ】

より大きな地図で 西国街道4 (茨木-京都) を表示



(つづく)

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