東海道53次

2013年3月29日 (金)

尾張鎌倉街道(1)豊明-二村山4

2012年5月15日(火)


■さて、紆余曲折の後、二村山入り口にきました(13:30)

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二村山に行く前に、さきほどの紆余曲折・勅使台徘徊の地が気になっていて、後日調べてみると、それは正確には「大狭間徘徊」とすべきものでした。徘徊したリングの中心あたりに湿地があるのです。大狭間湿地。涌水湿地で、背後にある丘陵地が水源となっています。もともとは水田でしたが、休耕田となって40年以上を経て湿地となったという。現在、豊明市の天然記念物に指定され湿地保護のため非公開で、一般公開は年2回(8月、9月)にあるようです。伊勢湾岸に固有のシラタマホシクサが生息し、ミミカキグサ、モウセンゴケ、ミズギボウシなど湿地植物や、サギソウ、ハッチョウトンボも見られるようです。これは一級の湿地だ。紹介サイトは例えば・・・

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二村山の入り口は小広い谷のようになっていて、駐車場の横を入っていくと看板がありました。二村山環境保全推進協議会という市民団体が手入れをしているようです。看板によると、昔ながらの雑木林が手入れされなくなったゆえ荒廃し、せっかく多様な生物が生息していた環境も荒廃している。どこのイナカも同じです。それゆえ、「二村山を季節感にあふれ、多様な生物でにぎわう美しい自然の緑地に」ということで、市民が里山保全を担っていかないといけないとしています。ここを二村山緑地と称し、生物多様性に富む植生の復元、雑木林の保全をKWに、季節感のある景観、そこでの散策を楽しむ環境学習の場を提供するとしています。これにはまったく同意。
「野生のツツジや里山のスミレが咲き、生物の賑わいのある二村山へ」を合言葉にしっかりとした保全活動をされているようでした。
  前回の「徘徊の結論」がイマイチ歯切れが悪かったですが、言いたいのは、豊明のエッセンスとは、季節感にあふれ、多様な生物でにぎわう美しい自然が随所にあり、そこでの散策や保全活動が(精神)生活の糧となることで、そのような街にしてほしいということなのでした。
■雨の里山散策(13:34)

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ゆるやかな丘陵に遊歩道が作ってあります。樹木の名札も設置してあります。古い案内板によると丘陵を越えると豊明神社にも行けるようです。せっかくなので二村山緑地の里山散策をします。勅使台の徘徊あたりでは雨は止んでいたんですが、また降ってきました。
■二村山緑地は確かに落葉樹もしっかりあって、楽しそうな雑木林です。

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エゴノキの白い花も雨に濡れています。雑草の生い茂る広場もある。雑草は雑草のままでここを遊園地化しないのがよいところですね。
■豊明神社発見(13:41)
林を抜けると豊明神社の標柱が現れました。雨もひどくなってきたので祠前の休憩所で雨宿りです。屋根つきなのでほっとします。土俵があるので休憩所と違うのかな?

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情報がなかなかないですが、祭神は各戦役における市内の戦没者でであるそうな。もともと、1926年(大正15年)に完成した伊勢神宮遥拝所の場所に建築が計画され、1949年(昭和24年)4月に創立されました。道理で変わった本殿だ。
■雨のナツツバキ

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二村山に向かいます。道端に咲いていた見事なナツツバキ。別名はシャラノキ(娑羅樹)で、仏教の聖樹、娑羅双樹(さらそうじゅ)に擬せられ、この名がついたといわれる。ちょっと花の時期が早いけど違うのかな?かなり暗いのでボケてます。
■峠地蔵堂(14:00)

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 どんどん登っていくと峠地蔵堂の広場に出ます。このあたり縦横無尽に道があるようです。うろうろしましたが、鎌倉街道もここを通っていたか。
  地蔵堂のご本尊は向かって左の立躰の地蔵尊で(俗に峠地蔵)、また身代わり延命地蔵尊として交通安全や入学祈願や病魔退散、諸願成就と多くの人々から信仰されています。当日も雨の中2組ほどの参拝者を見かけました。

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 ご本尊の地蔵尊は背に和銅二年(709)と刻まれ、現在の姿は首が無く胴体のみで、首は元文5年(1740)の落雷で折れたそうな。いつの頃か、旅人が熊坂長範という盗賊に襲われたとき、地蔵尊が身代わりとなって切られ、肩から上が欠落したという伝説が生まれ、、ここから身代わり地蔵の別名ができたといわれています。中央の最も大きい地蔵は元文三年(1738)の刻があり延命地蔵と名があります。右の像は明和三年(1766)の刻があります。
■展望台に登ってみた(14:05)

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 展望台の前は小広い広場になっていて観光案内版やいろんな記念碑があります。
 切られ地蔵尊もここにある。延宝七年(1679)に建立されたもので、別名『袈裟切り地蔵』とも言われています。胴体が斜めに切られた形で、上半身と下半身が前後に置かれています。1740年(元文5年)に落雷の憂き目に遭いスパッと刀で切られたようになったとか。下半

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身の背面に古来仏依会大破建立之延宝七巳未一年(1679)の刻があり(読んでないけどそばにある案内板で))、二村山峠地蔵尊の伝説を元に建立されたものといわれています。
 展望台からは確かに周囲がよく見えます。二村山は昔から鎌倉街道の歌枕として知られ、眺望にすぐれていたところです。北側にはさっき通ってきた勅使池。その向こうには名古屋市緑区の住宅街が迫ってきています。地図をみると愛知用水以東、豊明市北部だけが豊かな田園地帯で、その北、東はまた東郷町の住宅地。豊明市に入ったところにある看板には「地下鉄豊明延伸」とありましたが、せっかくの丘陵を全部住宅で埋め尽くすことになりかねない。何を考えているのか?

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 西側は森の向こうに藤田保健衛生大学・病院が見えます。この森の中を鎌倉街道が走っているようです。
■二村山の詳細マップがアップされています。
二村山概略図(豊明市、2012年)Tomio344456さん作

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ここには三角点もある(71.8m)行く前に調べとけ、と言いたい所ですが、ボクは大体後で調べることになっています。
■緑の鎌倉街道をゆく(14:24)

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R1239019_  展望台を下りて地蔵堂の広場に戻ってきました。ここには頼朝の歌碑や鎌倉街道の標柱がたくさん建っています。森の中を広い道が走っています。かなり歩かれているようで・・・最初は森の中の暗い道でしたが、だんだん明るくなって、快適な道になりました。植物の宝庫で、いろいろ遊べそうなところです。これはいい!

■雨旅の終わり(14:32)

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と、快適に歩いているとほんの数分で終わってしまいました。楽しい事ほどすぐ終わる。出たところは体育館の横でした。だいぶん濡れて靴もグチュグチュですが、雨もやっとあがってきました。これから大阪に帰ります。

次回は、二村山から相原、野並といって呼続で東海道に合流、宮の渡までの予定ですが、謎の多い桶狭間探検や有松も魅力的、ということで計画づくりが悩ましいです。
【本日のマップ】

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(いったん終り)

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2013年3月25日 (月)

尾張鎌倉街道(1)豊明-二村山2

2012年5月15日(火) 大久伝-宿



【雨に咲く矢車菊】
■八幡社南30m(10:14)

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鳥居を出てすぐのところに北西に入っていく小道がありました。八幡社南30mから考えると、この辺りを旧鎌倉街道が通っていたのか?この先がどうなっているのか分からなかったので通りませんでしたが、大回りした先にも南に入る道がずっとつながっていました。

■十三塚の道(10:20)

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県道を越えてまっすぐ道があります。十三塚という地名の場所を通る道です。圃場整備のため今は塚があるわけではありません。途中から舗装がなくなりまして、これはまた足がびしょ濡れになりそうなので、迂回することにしました。まっすぐ先には大楠も見えています。

■雨の矢車菊

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道端に青い花が咲いていました。矢車菊だと思いますが雨に濡れてなかなか美しい。田植えをしていない田にも一面に咲いています。よくみると麦が植えてある。しかし耕作しているとは思えません。多分休耕田で地力維持のため麦をばら撒いているのいでしょう。飼料用かな。ちなみに矢車菊はヨーロッパ東南部や西アジアが原産で麦畑の中に咲いていたことから、英名は「コーンフラワー」というそうです。麦と相性がよいのか。

■大楠と青木地蔵(10:30)
大楠が見えています。大楠といってもそんなに太くはないので何代目かの楠でしょう。しかし周囲は田んぼなのでよく目立ちます。おそらく鎌倉街道現役のころもこんな感じで街道の目印だったんでしょう。

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楠の下にあるのが青木地蔵で、仁冶二年(1241)の銘があります。豊明市教育委員会の説明書きによると、本物は、大正6年(1917)、沓掛町寺内地蔵堂に移されたとあり、これは代替仏です。土地区画整理で十三塚は消滅してしまいましたが、青木地蔵の塚は残ったといわれています。

■二村の宿に入る(10:35)

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鎌倉街道は大久伝-十三塚-宿を経て二村山に通じていました。その宿に入っていきます。
現在の「宿」の地には、昔、両村駅(ふたむらえき)が置かれていた。鹿嶋社の由緒書きによると、二村の駅は沓掛本郷と沓掛宿の二ヶ村からなっていたので二村の宿と言われたそうです。

■鹿嶋社(10:42)
その鹿嶋社も鎌倉以前からあって、もともとは川嶋社で、祭神も今はタケミカズチ神ですが、本来は水神・ミズハメ神を祭神としていたようです。宿の地名も古くは字川嶋だった。上流に勅使池をはじめとする7つの池があるように、住民は水に苦労していたようです。

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境内には業平の歌碑があるようですが、雨のため見落とし。今は雨に苦労しております。

■鎌倉街道遺構の道(10:49)

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鹿嶋社の裏手になる細い道、ここが旧鎌倉街道の遺構とされている道です。そうでも言われなければ分からない、普通の道でした、



■十王堂の丘(10:56)

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ここから旧街道は十王堂の小さな丘に登っていきます。今はちょっと大回りして住宅街の道を通ります。住宅街といっても畑のほうが多いところです。こんなところを通っていたんだ。丘を越えて若宮交差点に入っていきます。


参考文献
(1)なごや史跡探訪 幻の古道鎌倉街道;http://16.pro.tok2.com/~pegasus1297/A50_1.htm
(2)ぶらり豊明おもしろ発見!;http://park.geocities.jp/huta1311mura/syogaigakusyu-2111-3.html
(3)まちもよう;http://www5.ocn.ne.jp/~matimoyo/kamakurakaidou-8.htm

(つづく)

【本日のマップ】

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尾張鎌倉街道(1)豊明-二村山

2012年5月15日(火) 豊明-大久伝



 昨年夏からいろいろありまして、サボりにサボっておりました。なかなか書く気力がわいてきませんが、うかうかしていると、1年のブランクになりそうとて、書き出しましたが、書き出すまでに3月ほど経っております。ブログの体裁とかコントロール方法も忘れてしまっているようで、とにかく書いておかねば・・・
 ちょっと整理しておかないと忘却の彼方でつながりが分からなくなっています。
 三河の鎌倉街道としては、2010年9月22日(水)に知立・八橋から刈谷・西境まで来て、境川堤防を下って豊明まで来て、とにかく尾張に入ったのでした。また、東海道歩きとしては、同年12月5日に御油から岡崎、6日(月)には岡崎を発ち踏分の森から鎌倉街道に入り、八橋・駒場まできて、とにかく街道歩きとしてはつながって尾張まで来たとおいことでした。だいぶ分かってきたぞ!
 今日は知立から東海道を豊明まで。そこから大久伝で鎌倉街道に合流したいと思います。が、朝から!雨!!それもかなりしっかりした雨で1日続くという予報です。今、刈谷のホテルですが、予報通りの雨です。しかたがないので、ショートカットして豊明まで電車で行き、そこから少し歩いてみることにします。

【雨の境川】
 9:00、意を決して名鉄豊明の駅を出ます。降りしきる雨!
■旧1号線を境川に向かいます

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新しい街道松も植えられていい感じなのですが・・・・




■境川の境橋(9:06)

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向こうは三河、こちらが尾張です。ここには藤原光廣の歌碑があります。「うち渡す尾張の国の境橋 これにかわの継目なるらん」とあって、駄洒落の類ですな。にかわ、にかわ、みかわ、みかわ…バンザーイ!と解釈するか?また、この橋は昔は、中程より西は板橋、東は土橋という継ぎ橋で、度々の洪水に流されたそうです。ナルホド、ニカワで継いであったので流されたのか?まさか?ニカワで継いだようによく流されたのか?このように解釈するんでしょう。

■堤防からの境川橋

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雨なので冗談を言ってる場合ではありません、先を急ぎます。
賑やかな河原です。白い花はノイバラ?卯の花?いろんな植物が生えています。晴れていれば遊ぶのに。この雨では近寄って行く気力は出てきません。
堤防はすぐ地道になります。アカツメクサ(でよいのかな?)が咲き乱れ、まことによい感じの小道なのですが、晴れておれば・・・

■びしょ濡れの堤防歩き

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いい感じの堤防なんですが、草が覆ってないところを歩けるので濡れないと思っていたら、10分も歩くとくるぶしから下がもうびしょ濡れです。これには閉口しました。冷たいし寒い!

■堤防脱出(9:25)

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苅外山というところでほうほうの体で堤防から逃れました。伊勢湾岸道路の高架の下で雨宿り兼休憩です。といっても雨が止むわけではない。元の堤防に戻る道の先にこんもりとした森が見えています。あそこに寄ってみよう。

【雨の大久伝】
■中島八剱社(10:07)
地図では中島八剱社とありますが、八剱明神という額がかかっていました。改築されたばかりのようで柱や壁はえらく新しい。ちなみに、八剣神社(はっけんじんじゃ / やつるぎじんじゃ)をウィキペディアで調べてみると、なんと岐阜県が圧倒的に多く、その次は愛知県。データは全部は調べられてませんが、主祭神は日本武尊。岐阜県や愛知県に多いというのはなんとなくうなずけるところです。

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さらにちなみに、大阪にもありまして、菱江の八劔神社は、暗越奈良街道・河内街道の交差点付近にあり、祭神は宇賀御魂之神と八劔大神。さらに、その勧請元である放出の阿遅速雄神社は江戸時代の頃は、八剣神社と称されていたそうです。祭神の八劔大神は草薙御神劔御神霊。味耜高彦根之命は別名 迦毛大御神、鴨氏の祭っていた神ですね。
https://walkin.way-nifty.com/walkin/2009/11/post-57b1.html

菱江の八劔神社では味耜高彦根之命(八劔大神)となっていたり、八劔大明神は須佐之男命と同体という記述もあってややこしいですが、八剣神社は草薙御神劔がらみというころで大くくりできそうな気もします。そうすると拝殿横後方にあった8つの祠は何?剣が8つなので八剱社なのか?よく分からなくなりました。

■庚申塚

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雨で動き回れないので早々に退散。神社の横には庚申塚もありました。ちゃんと祀られています。





■雨に煙る国境の橋(9:56)

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神社前から堤防に戻る道もありましたが、これ以上濡れるのは嫌なので住宅街を大回りしました。さて、三河の西境と尾張の大久手伝を結ぶ橋。前回はこの橋の対岸まで来ていたのでした。雨なので渡るのはヤメ。代わりにノイバラの花を撮っておきました。

■鎌倉街道ゆかりの歌碑(9:59)
橋のすぐそばには歌碑がありました。

それと聞くしるしばかりかさかひ川 ほそき流は名に流れても  
                    飛鳥井雅世

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鎌倉街道は二村山より東南、宿を経て大久伝の北を通過して西境方面に向かっていました。境川を渡ったのはここより少し北、酒井神社のすぐ北側と思われます。二村山は西のあの辺りの平たい山になるのか?

■大久伝(おおくて)は湿地
大久伝の地名は湿地を意味する「クテ」から来たとされているようです。 クテ地名は、尾張・三河国境周辺から東美濃にかけて多くみられるようで、確かに長久手とかある。このあたり一帯は低湿地が広がっていたと考えられます。

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このあたり、昔ながらの倉庫が残っています。独特の黒塗りの板壁。三河周辺ではこの手の黒壁はよく見かけました。尾張になってもそうなのかどうか興味があります。その昔、仕事で豊明のとある会社に粉砕機のテストに来た記憶があって、工場のすぐ横には広大な田んぼが広がっていた風景がどうもこの地によく似ていると思って、後日地図を見て探していたら、ありました!それらしい会社名が。先ほどの中島八剱社のすぐ近くでした。なんやすぐそばに来ていたんや!

■大久伝 八幡社(10:17)

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ここには十三塚の碑があるらしいのですが、うろうろ探すのもできなかったので見ていません。後日調べると、鎌倉街道の経路が解説されていて、鎌倉街道は、二村山より東南、宿を経て西境に至り、大久傳八幡社の南30mのところに鎌倉街道が通り、南に十三、北に七の塚があり、経塚、又は非業の死者の墓とも、またお紺女郎の塚とも伝わる。土地改良事業施行のため、現況が変わるため、鎮魂と記録のため建立する と解説してあるらしい。
十三塚は鎌倉街道の大久伝と宿の間、青木地蔵の楠にかけてあった塚で、かっては街道を挟んで南側に13基、北側に7基ありましたが、昭和45年頃、土地区画整理で青木地蔵の塚を除いて消滅してしまったということです。現在は地名のみが残っています。

■掲示板に「大久伝八幡社と宮大工伊藤平左衛門」という豊明市文化財だよりの記事が張り出してありました。それによると大久伝は江戸初期に新田開発された土地であるようです。ならば、それまでの鎌倉街道はえらくさびしげな湿地帯を縫うようにして走っていたのか。

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大久伝八幡社は慶安2年(1649)の建立らしいですが、文久2年(1862)に拝殿が造営されました。詳細は掲示板を見てほしいですが、その棟梁が伊藤平左衛門守富(八代)ということでした。彼は高野山金剛峰寺金堂など著名な建造物も手がけています。九代守道は磐田の見附学校も建築している。この拝殿もなかなか由緒正しき作品のようでした。帰り際に一人の参拝者と会いました。この雨の中を!やはり有名な神社なのでしょう。

(つづく)

【本日のマップ】

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2011年9月23日 (金)

東海道ウォーク 岡崎-知立(5)【八橋-知立】

2010年12月6日(月)




■淨教寺(12:26)
無量寿寺は3回目ですが、カキツバタのシーズンを過ぎると本当に静かなお寺です。近所の人が立ち話をしているだけでした。何をしにいったかって?トイレを借りたんです。代わりに淨教寺を載せておきます。以前犬が吠えたお寺だ。

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■村のよろずやさん?(12:29)

・・・かどうか知りませんが、こういうお店は少なくなりました。

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■在原寺(12:30)

さてここには山頭火の句碑がありますが、そこには

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 今は むかし、男ありけりという 松が青く
 はこべ花咲く 旅のある日の すなおにも 
 枯れ草に かすかな風が ある旅で

の3句が彫ってあるのです。最初の句の「今は」って何?
前回来たときに見つけて、落書きかと思っていたんですが、気になって再度確認に来たという訳です。
 「今は」は確かに彫ってありました!しかし、「今は」は本来ないと思うのですが・・・
この碑は、昭和63年11月に建立。その後訪れた人のブログをみると、平成7年(1995)時点では、ない!
俳人山頭火の句碑 在原寺 (平7.2) ;http://www.harusan1925.net/1212.html
その後、山頭火のオリジナルは、「今はむかし・・・」となっていることが分かって(あるいは、最初の彫りが間違っていて)修正したんでしょうか?まだ謎は続きます。

■万葉椿
ここには万葉椿というのがあります。葉っぱの先が金魚の尾っぽのように分かれている。このあたりの鎌倉街道沿いには、この万葉椿がたくさんあると言われています。その昔、在原業平が金魚の尾っぽに似た葉を見て「万葉椿」と読んだのが始まりという。
写真では分かりませんが、行ったら見てください。

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■根上がり松(12:37)

あいかわらず元気!

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■業平塚(12:39)

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業平の骨を分骨して墓所としています。鎌倉末期に建立の供養搭と記念碑があります。すぐそばを名鉄が走っています。

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■駒場点描

駒場に着きました。この街、落ち着いていて気に入ってます。

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■神明社前の蔵(13:01)
白壁にトタン張の蔵です。この建物も結構気に入ってます。見れば見るほどおもしろい、味がある!何かの顔に見えませんか?ノラクロ?

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 この後、近くの喫茶店にいって遅めの昼食としました。今日はちゃんと開いていました。けっこう混んでました。

■極楽寺(13:45)
ブラブラしながら知立に向かいます。極楽寺の、モチノキでしょうか。圧倒する巨木!いい感じです。対面の松もいいですね。

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■黒塗りの家
極楽寺の隣にある家。作業場なのか民家なのか?ガラスは割れていますが作りはしっかりしています。使わないのはもったいないと思うが・・・

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■男橋(13:50)

川は逢妻男川です。飾りっけなくていいですね、男橋。渡った知立側から駒場を振り返っています。駒場はまた来たいと思っています。

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■御手洗池(14:00)

池鯉鮒の名の起源になったと言われる池です。信仰よりも生活の都合の方が強かったのか。

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■知立の街
多分内幸町辺りを東から見ていると思いますが違うかな?このあたりもかなりブラブラしました。結構旧めの家も残っていてお気に入りの街です。まだ歩きたりないところがあります。
もう1回来るかな?これから大阪に帰ります。

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 さて、2日間、いい旅でした。東海道は歩きは、途中で鎌倉街道がおもしろくなって宇頭-今本町間が抜けていますが、古東海道ということで許してもらいましょう。豊明までは鎌倉街道づたいに歩いているので三河は越したことになります。が次回は知立から豊明まで行って、また鎌倉街道を探しながら歩いて東海道に戻り、七里の渡跡まで行きたいと思います。

【本日のマップ】

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(おわり)

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2011年9月16日 (金)

東海道ウォーク 岡崎-知立(3) 【矢作、尾崎】

2010年12月6日(月)



■旧街道に(9:45)
1号線から旧街道に戻って来ました。後ろを見ると遠くに堤防に上がる急坂が見えます。あそこが27曲り?ちょっと心残りですが、先を急ぎます。

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■弥五騰神社(9:48)

奇妙な名前なので調べてみると、元は彌五郎殿と言ったらしい。なに、弥五郎?あの巨人伝説の?しかし、どうも違う。

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 弥五郎殿社は津島神社境内にある摂社で、武内宿根の末裔という堀田弥五郎正泰が南朝に仕えている頃再建した社殿という記事が津島神社のサイトに出ていました。さらに調べていくと、やはり津島神社の弥五郎殿社と関係がありそうです。
http://miesin.com/a-yahagiginzya-taisai-2010nen.htm

■またしても十王堂?(9:50)
あの閻魔さまかと思ったら、こちらの十王堂は違うのか?誓願寺の十王堂で、義経と浄瑠璃姫の悲話があって、その縁の品や像などが安置されているようですが、地獄図絵もあるようです。見てないのでなんとも・・・左手の石塔は「浄瑠璃姫菩提所」と書いてあります。

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■読めない神社(9:54)

高岡屋が見えてきます。街道ウォーカーの目印になってる?それほど目につきます。

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 すぐに神社がありますが、これが読めない!書けない!竊樹(ひそこ)と読むのだそうです。これは無理です。昔は上加茂大明神と言い明治時代は加茂社といっていたが、大正2年(1913)、矢作村盗人木の竊樹社を合祀し竊樹社とした。昭和28年に地名が盗人木から末広となり、その後この竊樹社と竊樹神社に分かれた。ややこしいです。

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 さらにややこしいのは、なんで盗人木という地名を付けたんや?なんで竊樹(竊は「ぬすむ」「密かに」という意があるらしい)という社名をつけるんや?祭神は御気津神(食物の神)なので、もっと素直な名前を付けたら?と思う。甚だややこしいので、再び下記を参照ください。私にはよく分かりません。
http://miesin.com/a-yahagiginzya-taisai-2010nen.htm

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■国道合流(9:57)
国道に合流しました。矢作ではあまりにややこしくなったので国道を飛ばします。

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途中、櫓のあるお寺を通り過ぎたほかは何も覚えていません。無心に歩くのもいいと思います。前方に横綱ラーメンと松並木が見えてきました。安城に入ります。この間、約25分。

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■柿崎松並木(10:22)

横綱ラーメンで1号線と分かれます。宇頭だと思っていたら、柿崎なんですね、尾崎か?
松並木いいですね、ほっとします。快適に飛ばします。

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■尾崎市場屋敷(10:29)

ここは尾崎町ですが、市場屋敷という地名が付いています。
その通りのお屋敷があります。このところよく見かける白壁に板張の蔵。

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■予科練の碑(10:32)

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 宮前の熊野神社の横(境内の一角?)に予科練の碑があります。案内板を見ると、ここには終戦間近に、第一岡崎海軍航空隊が置かれ、飛行予科練習生の即戦力養成が任務で、昭和19年5月から1年もたたないうちに6000名が入隊し、次々に各地の実戦航空隊の実務練習生(という名の、多分、実戦部隊)として送り出されていった。ここから北、三菱自動車の岡崎工場の手前に滑走路があり、今の県道の手前から旧東海道までに兵舎や練兵場、本部などがあったようです。戦後は進駐軍により破壊され農地や工業用地になりました。後で行く熊野神社の裏には、あくまで平坦で広大な農地が広がっています。

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 碑と説明板は昭和61年のものですが、説明板には「戦後40年経った今、驚異的な経済成長に伴い、前線に巣立って行った若者のことも人々の脳裏から消え去ろうとしている。この史実を後世に伝えたい」と言う意味が書かれています。
 分かりました、受け止めました。少しでも伝えられるよう、ここにも記載しておきます。

■踏分の森(10:33~45)
 ここは旧東海道と鎌倉街道が交差しています。それで熊野神社の森は「踏分の森」と言われています。さらに東海道の尾崎一里塚もあった。ここで鎌倉街道が分岐していました(交差か)。

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 鎌倉街道は、京側からは北西の不乗森神社-証文山東-熊野神社-西別所町-山崎町-新堀町-大和町桑子と通じていました。
 神社西側の小路が、鎌倉街道の遺構とは言いません、名残というか、その昔、ここを通っていたんだという縁の道になっています。

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■熊野神社

境内はかなり広く、奥のほうに社殿があります。和銅元年(708)、土地の長者が熊野大神を祀ったのが起こりとされ、後に村人たちが鎮守として崇めるようになった。祭神は伊弉冊命です。社殿右に秋葉神社があります。

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■古の鎌倉街道(10:49)

神社の裏手に回ってみました。道は途中から鎮守の森を通ります。そばには工場が迫ってきていますが、バッファとして田んぼ(畑)が残されていますが、時間の問題のような気もする。鎮守の森の木々は若木が多いです。

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 北を向くとその広さに唖然とします。さすがに元航空隊の基地。右手遠くに見えるのは三菱自動車の工場でしょうか。方角からいうとそうなります。
 さてこの道を鉄塔のあたりまで歩きます。

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2011年9月12日 (月)

東海道ウォーク 岡崎-知立(2)

2010年12月6日(月) 【岡崎27曲り後編2】


21曲り:板屋町角(9:07)
板屋町はかっては遊郭などもあった所らしいです。今は普通の街並みですが、ほんの7、8年ほど前に来たときは。旧い旅館や一杯飲み屋さんが連ねていた路地があって、そんな気配が感じられブラブラしたものでした。板屋町は材木町に蓄えられた木材を使って家々の屋根を板葺きにしたとか。ここを西に行きます。

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ここの食堂(成瀬屋さん)でメシを食った記憶があります。なんか小ぎれいな店になっていました。

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22曲りと23曲り;松葉総門跡(9:08)
食堂前の中岡崎町交差点交差点を渡ります。新しい石柱「松葉総門跡」というのが建っています。松葉総門は城郭への西の出入口です。昔はここが枡形になっていました。今は直線なので、空カウント1つです。

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■板屋町界隈

元に戻って板屋町をぶらぶらしてみました。古い家は残っているものの、かなり侵食されてきています。時間の問題のような気がします。前に来た時は中岡崎の駅からぶらぶらとお城へいったんですが、お城の西の板屋町、康生町あたりには旧い家が沢山あって、もう一度訪れてみたいと思っていたのでした。

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■八帖村入口(9:23)

さて愛知環状鉄道の高架をくぐって八帖村に入ります。八丁味噌の里ですね。道標のそばにはNHKドラマ「純情きらり」の出演者の手形を設えたモニュメントがあります。ここは、八名信夫だった。
http://okazaki-kanko.jp/recommend/menu06.htm

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24曲り:「江戸 西京」道標(9:27)
八丁味噌の里を横断します。八丁往還通りと名前が付いているようです。通りの両側には旧い町屋もあります。向う側の家との間が八丁蔵通り、ここに宮崎あおいの手形があった。
八丁往還の突き当たりが24曲がりです。ここに新しい道標があります。

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■八帖村点描

せっかくなので少し戻ってブラブラしました。
南に○や(まるや)さん。北に□久(角久)さんと分かれているようです。角久の方が新しいですが、まさか○に□、八、九と対比を際だたせるようにしたんではないでしょうね。
あとで写真をみていると、もっとブラブラしておけばよかったと悔やんでおります。

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http://www.kakuq.jp/home/
http://www.8miso.co.jp/

25曲り:国道合流(9:32)
八丁往還を北に行きますが、江戸時代は今の矢作橋の少し手前に橋が架かっていました。今は矢作橋を左折(西行)します。

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■矢作橋(9:35)

新装なった矢作橋を渡り終えるのに3~4分かかります。コーンを見ていると出来たばかりのようです。

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■あきらめの26、27曲り

26曲りは旧い矢作橋を渡って右折しますが、新しい矢作橋は・・・工事中でした。Googleのストリートビューを見ていると、渡りきった所に信号があって、そこから右(北)に入っていけるようですが、今の橋はなくなっています。

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少し下ったところで階段があったので下りてみると横断トンネルは・・・・ここも工事中でした。この時点で、26、27曲りは諦めました。しかたがないので、坂を下りきって矢作町加護畑の信号で横断歩道を渡りました。

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 本来の27曲りは矢作橋北、堤防すぐそばで、ここには尾張屋という仏壇屋さんがあるらしいです。27曲がりの終わりが尾張屋さんという洒落っ気を楽しみたかったのですが・・・今でもあるのか?
スケッチの街並さん;http://murase2.web.fc2.com/sub38.htm

P1190285

 2、3の消失部分は分かりませんでしたが、まずまずうまく行けたのではないでしょうか。
岡崎は3度目ですが、街を歩くにつけだんだん気に入った街になってきました。また来ることもあると思います。



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東海道ウォーク 岡崎-知立(1)

2010年12月6日(月) 【岡崎27曲り後編1】



 2日目、伝馬町まで行ってスタートとします。朝起きてぐだぐだしていて、出発が遅れました。

 さて、27曲りですが、今まで家康出生の地でもあり、当然徳川譜代の岡崎城主・本多氏によって作られたものと思ってましたが、違いました。なんと!田中吉政、近江は安曇川の出、秀吉譜代です。天正18年(1590)に徳川家康が関東へ移封後、秀吉から岡崎5万7千4百石(その後10万石)を領し、10年の間に城下町建設、矢作築堤という今に残る事業をやったということです。
 吉政は城の南側にあった鎌倉道を城下に付け替え、「二十七曲」と呼ばれる屈折の多い道を造った。これは、関東の徳川家康に対する防備の備えと言われています。しかし、これが徳川以降も城下町繁栄の基礎となり、のちに東海道有数の町として発展することになります。
 吉政は、城下町全体を堀と土塁で囲む総曲輪内にし、城の東に家臣団を、西に商人や職人を分けて住まわせる大規模な都市改造を計画し、矢作宿から商人や職人を移転させ、連尺町には商人、材木町には大工、鍛冶、指物などの職人、肴町には城下へ魚鳥類を供給する商人が住んで専売権を与えた。さらに、城の西にある沼田を埋め現在の田町を造成、天神山を崩して現在の松葉町・板屋町・材木町を開いた。
詳しくは下記を。こちらからのウケウリです。
http://snkcda.cool.ne.jp/yosimasa/
 吉政は関ヶ原の戦いで東軍に荷担し、石田三成を捕まえるという大功を上げ、慶長6年(1601)に九州の柳川・久留米の32万5千石の破格とも言える所領を賜ったが、吉政の没後、次の代に些細な理由で取りつぶされています(よくある手です) 。
 しかし、400年たった今日でも都市・河川の改革は彼の業績として記憶されてよいと思う。

■専福寺(7:47)
まるで城壁のようです。櫓(隅櫓というようです)もあって、ここから街道の監視や物見でもしたのか?

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■岡崎宿歴史プロムナード

伝馬町通りにはいります。永田屋さん過ぎたあたりにこんな石碑が並んでいます。岡崎宿歴史プロムナードといって、計20基あるようですが、写真に撮ったのは2つだけ。そういえば、昨日コンビニの前にもあった。
http://ryushi.fc2web.com/prome/

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4曲り:西本陣前角(7:50)

そのコンビニ前で確認。ここから実質スタートです。

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5曲り:吉良みち分岐(7:51)

再度確認。次は籠田惣門跡となっています。

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6曲り(7:52)

スケッチの街並さんの6曲りですが、素通りします。
通常ルートの6曲り;惣門前はゴミ集積だったので無視。スケッチの街並さんの7、8曲りは昨日通ったのでパス。

なお、通常ルートの7、8曲りは昔は枡形になっていたのが今はないので、空カウントになるようです。27に合わせるためにややこしいカウントが必要ということでしょう。
写真は岡信資料館です。

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9曲り:連尺町角(7:56)

道標の案内通りに歩きます。公園を付ったところが連尺町。この通りを西に行きます。

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10曲り:シビコ北(8:02)

名前は付いていますが、写真がボケていたので確認できず。洋品店の前でした。ここを北に入ります。

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11曲り:材木町口木戸前(8:03)

すごいガレージです。3台は優に入る。ベンツかなにか置いてるんでしょう。拡大するとベンツマークが見えます。ここを西。

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■12曲り

ここはちょっとややこしい。西行きしてすぐ北行きの路地が在りますが、当時はこのあたりから西北にナナメに道があったようです。今はないので、Lまたは逆L型に行くしかありません。従って1コだけ空カウント、写真もありません。

13曲り:材木町角(8:06)
材木町通りにでました。ここは分かりやすい。西に行きます

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14曲り:柿田川角(8:11)

 柿田川に当たります。岡崎城の西を流れている川です。お城の西側の散歩もお薦めです。いやいやここは27曲りに集中しているんです。元々は橋にの中ほどからナナメに南下(といっても当時は橋も川もない)していましたが、橋の手前を南下します。河原に下りて歩くのも一興か。

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角の手前には唐弓弦(とうゆみづる)の商家 森家があります。軒下に「唐弓弦」木製看板があるはずですが、写真では見えません。唐弓弦は綿花に弦を弾いてほぐして紡ぎやすくする道具だとか、そんな専門用具だけのお店が成立していたんだ。さすがに物産の集散地らしい感じがします。

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■「材木町より下肴町角」

 川沿いの道に入ると石柱があります。角にあるばかりではないんですね。このあたり、魚町とか西魚町という名前が付いていますね。昔の通り。左手に白山神社の幟が見えます。

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15曲り:三清橋角

信号待ちをしていて、うっかり写真を撮るのを忘れました!代わりに三清橋を渡った後、橋の西からの写真を載せておきます。

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16曲り:田町北角(8:16)

ここは若干うろうろします。三清橋を西に渡って、大通りとその南に小さい道が一段低いところを通っています。石段を下りたところに石柱があり、そこが田町北角。

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 その横(西)すぐの路地を入って、西折れ-南折れするのが昔の街道のようですが、今はそれはできないので17、18曲りは欠番です。しかし、そこに入っていって道がないのであれこれ聞く人が多いんでしょうなあ?その道の隣のお家の壁際に看板が2枚ありました「こっちやで」

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19曲り:田町角(8:18)

沼田を埋めて町を作ったので田町。
田町角の道標があるのでマチガイないんですが、さて困りました。行き止まりです。昔はまっすぐで今は1号線があるので信号まで迂回は理解できますが、どっちや?

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20曲り:製材所(8:21)
スケッチの街並さん
西に行ってみました。田町を南下する道の対面あたりにきても信号はありませんね。それもそのはず少し西に歩道橋があり、ここを渡るんでしょう。しかし、先ほど、感じのよい路地があったのでそちらに入っていきますと製材所があります。現役のようですが、なかなかいい感じです。スケッチの街並さんはここを20曲りとしています。

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19曲り:銭湯前(8:22)
スケッチの街並さん
東に戻ります。銭湯のようですが、自動販売機があるところを見ると現役のようです。これはすごい!総板張、くすんだガラス窓、レンガの煙道、真っ黒な煙突。見飽きません。龍城温泉というようですが、事前に知っていたら入りに来るのに。

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スケッチの街並さんはここを19曲りとしています。分かる様な気がします。

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20曲り:板屋町入口(9:03)

元に戻り東の信号を渡って板屋町入口に来ました。入っていく前に休憩です。ぐるぐる回って若干疲れましたので、モーニング。30分ほど休憩しました。

P1190228




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2011年9月11日 (日)

東海道ウォーク 御油-岡崎(7)

2010年12月5日(日) 【岡崎27曲り前編】



 さて岡崎だ!いざ27曲り!
準備は万端にしているつもりです。めずらしく予習もしたし、簡単なマップも持ってきています。
 しかし、文章を書く段になって、27曲りに諸説あるのが分かりました。それも当然ですね。明治期以来の都市開発もあっただろうし、まず戦災で相当やられた。戦後の高度成長でも相当変ったハズです。江戸時代のものがそのまま残るはずはありません。色々分からなくなっていることがあるでしょう。それにしても20いくつか復元されているのはうれしいことです。
 ここでは、(新)スケッチの街並みサイト;http://murase2.web.fc2.com/sub38.htm のスケッチ画を踏襲して書いていきます。スケッチは見事なものです。惜しむらくはこの絵の風景もだんだんなくなっているのです。
 その前に通るところがあります。まだ岡崎ではないのか?

■名残松街道(15:30)

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 岡崎インター西の信号を渡って公園らしき所に入っていきます。マチガイありません、道標が建っています。かなり大きめの松も植えられています。芝生の途中からブロックが敷いてあるのは、ここを通れと言ってるんですね。

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■法光寺(15:36)

いったん1号線に沿っていきますが、すぐに右に入っていきます。ボクはまっすぐ行って信号のところから入りました。法光寺が目印です。

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■冠木門(15:39)

まっすぐ進むとの冠木門が見えてきます。ここが岡崎宿の東の入口です。緑地帯になっていて「岡崎城下二十七曲り」の大きな石碑があります。最初このマップを参考にしていました。案内碑にボクの顔が写ってますな。

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1曲り目:投町角(15:41)

「岡崎げんき館」の広い駐車場の角に石のモニュメントと説明碑があります。茶色の道標は分かりやすい。次の角までの距離も書いてあります。

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■太神宮常夜燈(15:44)

若宮公民館前のバス停横にあります。

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■途中にある案内標(15:46)

角にあるばかりではないんですね。まっすぐ310mですが、距離があってるんかな?

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2曲り目:両町角(15:49)

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3曲り目:伝馬町角(15:50)

約80m、すぐです。正面にはガソリンスタンドがある。

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■永田屋(16:00)

老舗のお肉屋さん、高そう!話は違いますが、3曲りからここまでたて続けに2軒も呉服屋さんがありました。

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4曲り目:西本陣前角(16:01)

ミニストップ前です。後でホテルから買い物にきました。ここは西本陣のあったところです。

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■コメダ(16:05-44)

 道を間違った訳ではありません、少々疲れたので休憩です。結構長いこと休憩して今日はちょっと歩く気が失せてきました。辺りも薄暗くなってるし。

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 しかしホテルに直行はせず、ぶらぶらと歩きます。歩いたコースは、電波堂-康生通り1つ南の筋を行ったり来たり-籠田惣門碑前-岡崎信用金庫資料館前-5曲り、きら道道標-また岡信資料館前-籠田惣門碑前・・・ホテルです。

 このうち、電波堂前は、スケッチの街並みさんの8曲り。籠田惣門碑前は昔、枡形になっていて、普通は、6、7、8曲りとカウントするんだそうです。ここは碑の前がゴミ集積所になっていた!写真を撮る気も失せました。ついでに、スケッチの街並みさんの7曲りも通過したことは書いておきましょう。

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5曲り目、吉良みち分岐を通り越し、4曲り目まで行って確認して引き返しました。

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時間の関係で岡信資料館に行けなかったのは残念です。明日朝も早いので行くのは無理でしょう。代わりに写真を3枚アップしておきます。

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 これでホテルにチェックインして、夕食は乙川屋さんとはりこみましょう。

■呉服屋さん
 前にちょっと書きましたが呉服屋さんの多い街ですね。伝馬通を今まで歩いただけで3軒もありました。それもかなり高級そうなお店。岡崎出身の知人がおりますが、結婚式やその他の物事には相当丁寧にする土地柄のようなので十分ビジネスになるんでしょう。

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東海道ウォーク 御油-岡崎(6)

2010年12月5日(日) 【美合-大平】


 このままではなかなか岡崎にたどりつきません。なにしろ、歩くより書くのに時間がかかっている。点描スタイルで行きたいと思います。

【美合を歩く】
■美合分岐(14:32)
10分ほど国道歩きです。川を渡る手前で旧道に入ります。坂下という通り下っていきます。だいぶ都会らしくなってきた。

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■美合新町(14:36)
美合の中心部のようですが、ここにも街道松があります。ちゃんと手入れされている。

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____________________________
■南屋敷(14:38)
その名の通り閑静な住宅街。

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■横道(14:42)
これなんですが、どこだか分からない。多分北屋敷から横道に入ったと思います。何の変哲もない場所ですが、なんとなく気になって・・・

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■橋を渡る(14:45)
 山綱川です。山中の辺りから流れてきて乙川に至る。本宿の川は同じ乙川に入りますが、別の水系でした。

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 一気に田んぼが拡がりなにやら寂しいところですが、ここが旧街道です。ちゃんと石標がたっています。また川に当たりますが、ここが乙川。

■乙川(14:48)
 河原では馬が草を食べていました。どこに牧場があるんだろう。
地図を見てみると、流レ、方便、カウフク、カラス明、エゲ前などという変った地名が!女能頭尻はなんて読む?おんなのあたましり?まさか。

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【大平の心意気】

■乙川を渡る(14:51)
 大平に入ります。左手に水神社?川水神社?があるようなのですが、それらしいのは見えません。橋の関係でだいぶん行きすぎたところで左折したので、戻るのをやめました。

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 ここでおもしろいHPを見つけました。「大平町周辺の昔ばなし」貴重な聞き書きです。
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0109.html

■大平の街並み
下の写真の車の横に道標があります。

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■西大平藩陣屋跡(15:02)
 陣屋跡があるというので行ってみました。なんと、大岡越前守陣屋跡とあります。立派な門構えです。

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 案内を読んでみると、江戸南町奉行として有名な大岡越前守忠相がそれまでの功績により、寛延元年(1748)に西大平藩一万石の大名となり、この地に陣屋を構えたと。江戸時代を通じて、江戸町奉行から大名になったのは忠相のみであり、それから明治維新まで代々大岡家がこの地を治めています。

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 TVの影響が大きく、町奉行の大岡越前守、目安箱の設置、江戸の町火消しの創設、小石川養生所の建設などは記憶にありますが、享保の改革実行の功で三河の大名になったんだ。
 最後の写真はおまけで陣屋跡の横の蔵です。石積みと白壁(剥がれている)の2トーン構成。

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■大平一里塚(15:13)
 逆光でうまく撮れませんな。いろいろ角度を替えてみましたが、木陰に隠れて撮ったのと、後ろから撮ったのと、このくらいしかできません。西に1つしかありませんが、マウンドもちゃんと残っていて貴重なものです。

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 再び「大平町周辺の昔ばなし」
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0113.html

むかし、一里塚は東海道を挟んで南と北の二基あった。北の塚は南のものより大きく、また榎木も一回り巨大であったが洞町からの県道を開くため取り壊された。南の塚は売りに出されものを某氏が買い取り後に村に寄附された。昭和12年史跡に指定され保護されたが昭和28年の大風で榎木の東の大枝が折れてから暫次枯死した。今は次代の若木が植えられている。こうして大平一里塚は一基のみ、榎も代替わりしてしまったが、塚型が原形で残るものとしては県下一である。

 昔は行政はムチャをしたんだ!しかし、村には某氏のような篤志家もいた。

■巨大な常夜燈
 一里塚の対面には巨大な常夜燈があります。こちらは順光。

P1190148


■大平八幡宮(15:18)
常夜燈はこのお宮さんだったのか。またしても・・・
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0103.html 
村人の心意気が伝わってきます。

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■トンネル(15:21)
ラブホテルの横からトンネルに入ります。やれやれここで一休み。

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■天狗の通り道(15:28)
むかし天狗が出てココの松で休んだようです。
http://homepage1.nifty.com/UP/oohira/0120.html

P1190155

 貴重なHPに出合うことができました。これもウォークの(後調べの)成果です。ありがとうございます。


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東海道ウォーク 御油-岡崎 (5)

2010年12月5日(日) 【藤川宿】



■藤川宿東棒鼻(13:27)

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 1号線は名鉄を渡るようで坂を登っていきます。旧街道は左に入ります。そこには東棒鼻が再現されていました。再現というより、あまりにきれい過ぎて公園にしか見えない。まっすぐの狭い道が旧街道遺構だと思うんですが、事前にガイドブックをほとんど見ないボクには公園アクセス道にしか思えない。

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■曲手(13:29)

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 広いほうの道を行くと、曲手(かねんて)の案内板が左にあり、東海道の道標が横向きにあるので多分左折します。そうすると、あらら工場に向かっていく。以前東海道のサイトを色々見ていたときに、このルートを通って工場に向かって行った事例がありました。

 とりあえずボクはまっすぐの細い道を通って、曲手を確認しました。ここは曲尺手ではないんですね。豊橋では曲尺手だった。

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■裏道(13:32)

 ところで、偏屈者のボクは正規の街道を行かずに裏道を通りました。個人のお宅の裏口をのぞくようなもので、若干気が引けますが、その土地の生の姿がうかがえることがあります。昔の街道というのは、もう少し広かったにしても、こんな感じだったんでしょうね。
この裏道をまっすぐ行くと、駐車場に出ます。

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■お座敷は草鞋を脱いで(13:33-45)

 ここはトイレ、ベンチ、案内板があります。藤川宿に来る人はここに駐車して歩いて回れということなんでしょう。玄関で靴を脱いで改まって見せていただく、当然のことでしょう。

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 駐車場の入口には「ここも三河むらさき麦のかきつばた」という芭蕉の句碑がたててありますし、ちょっと街道を戻れば(江戸方面)津島神社の参道もあります。神社本体は線路も1号線も越えた所ですが・・・

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■藤川宿の街並み

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 静かな住宅街です。車もあまり通りませんでした。わずかに銭屋とか米屋の看板が見えます。旧い家は少ないれれども、そうかといって真新しい場違いな家はない。住むにはちょうどよい環境が保たれていると思います。

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■本陣跡(13:54)

 本陣の建物は残ってません。普通の民家のようですが「藤川宿第2資料館」の看板が上がっていました。戸が閉っているし入っていいんだろうか?休みではないようですが・・・江戸時代後期は「森川家」が務めたといいます。裏手に石垣が残っているようなので、後で行ってみましょう。

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■脇本陣跡(13:54)

 すぐ隣にあって「藤川宿資料館」になっています。ここも人気がなく、戸が閉っているし入っていいんだろうか?ということで入りませんでした。どうも玄関を閉めたままというのがいけない。大西喜太夫橘屋の跡で、門は当時のものらしいですが、写真は柱だけ。

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■本陣石垣とむらさき麦(14:00)

 本陣跡の裏に回ってみました。これは立派な石垣です。本陣らしく裏手も堅固にできていたんですね。
 石垣下には畑があって、そこにむらさき麦が作ってありました。まだ目が出揃ったところで青々としています。

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 むらさき麦は大麦の一種で、食用よりはむしろ鑑賞・染物用らしい。戦後いつの間にか消えてしまい、幻の麦となっていましたが、町おこしの一環として10年ほど前より再び栽培されるようになりました。ここには、大公館、徳島糯、妻町糯、露の4種類のむらさき麦が栽培されています。初夏になると穂が紫色になるのですが、一度実物を見てみたい。5月15日が藤川宿の「むらさき麦まつり」だそうです。
http://www.geocities.jp/minminnicole9/juku01.htm

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■からむし

 からむしとは何じゃい?イラクサとどう違うの?

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 調べて見ました。茎の皮からは丈夫な繊維が取れ、衣類、紙、さらには漁網にまで利用できるそうで、日本に自生するカラムシは、繊維用に有史以前から栽培されてきたものが野生化したらしい。『日本書紀』持統天皇7年(693年)条によれば、天皇が詔を発して民に栽培を奨励すべき草木の一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている。さらに、戦国時代、上杉謙信は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げたとか、越後縮や小千谷縮の原料であるとか。大変なものらしいです。
 しかし、その辺でよく見かけるものとはどう違うのかよく分かりません。子供のころは葉がチクチクしたのであまり触りませんでした。

■旧いもの比べ

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 歴史的にどうこう言うのではありません、悪いとかみすぼらしいと言っているのでもありません。なかなかよく熟れていてボクの趣味に合ったものだと言いたい訳です。

■藤川宿西棒鼻跡(14:07)

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 しばらく歩くと藤川小学校前に西の棒鼻跡があります。ちょっとした公園みたいになっていてベンチもあります。石垣、「従是東 藤川宿」の標柱、浮世絵の歌川豊広(広重の師匠)の歌碑「藤川の宿の棒鼻みわたせば杉のしるしとうで蛸のあし」(案内板による)があります。西浦(蒲郡)や吉良から持ってきたゆでだこを売ってたんですね。

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■十王堂と一里塚

 更に、道を挟んでナナメ向いには、十王堂、芭蕉句碑「ここも三河むらさき麦のかきつばた」 があります。寛政5年(1793)建立で、この付近では最大級の芭蕉句碑だとか。

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 その数十メートルくらい先の民家の石垣には藤川宿一里塚跡の案内板がありました。いろいろあって賑やかなところです。

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■ 吉良みち(14:16)

 藤川宿の街外れになるとポツポツ松が出始めます。すぐに吉良道の道標が現れました。左に行くと三州吉良へ通じ、海産物の搬入などに使われた重要な脇街道でした。塩の道とも呼ばれたそうです。また、伝説に茶壷道中の行列はここを通ると雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っているといいます。人騒がせな道中だったんでしょう。東海道は右です。すぐに踏切を渡ります。

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■藤川松並木(14:17-23)

 街道歩きで何度も名鉄に乗っていると、藤川駅の西で松並木がチラッと見えていました。ああ、あそこが藤川の松並木かと思って、いつかは歩いてみたいところでした。なかなかすばらしい!周囲は工場や民家がありますが、きちんと手入れされています。1本枯れそうなのはあるけど・・・国道と合流するまで続きます。見事なものでした。

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【本日のマップ】

より大きな地図で 東海道ウォーク(国府-岡崎) を表示

  

【特別コメント】
全部の文章をフォント大にしたはずが、大になったのは最初の2行だけでした。この設定は使い物にならないので、以後、フォント普通に設定します。ブラウザの方で文字を拡大しますが、これだと他のエリアの文字の大きさとバランスが悪いのよねえ!

 

つづく

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